映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2006年10月31日

神G侠侶・第16集

谷を出るという柳(小龍女)をひき止め、あなたと添い遂げたいという公孫止(やはりそーゆー目的だったのだ、しかし眼差し淫靡すぎ)
小龍女は命の恩人がそう言われるなら、と申し出を受けた(いいのか?)

公孫止は3日後に婚礼を控えた小龍女の部屋に何者かが入って荒したという報告を受けた。
怒ってその者を捕まえるよう命じた。

フビライの天幕で楊過と金輪法王が他のつわものたちと食事を取っているところへいきなり飛び込んできた者がいた。それは小龍女の部屋を荒して逃げてきた老玩童・周伯通であった(懐かしの周伯通。子供の心を持つ武林最強の武芸者なのだ。信じられないでしょうが)義兄弟の郭靖を探しているのだ、と聞いて楊過は顔色を変える。詳しい話を聞こうとするが周伯通は飛んで逃げてしまう。楊過は負けじと空を駆けていく。
金輪法王はフビライに郭靖を倒し、周伯通と楊過を連れ帰ると約束して後を追った。その他の者達もこれに続いた。

途中、周伯通は謎のモノたちに網で生け捕りにされる。楊過や金輪達は必死で後を追う。
そしていつしか絶情谷へ紛れ込んでしまったのだ。

公孫止は彼らが周伯通の仲間ではないと聞き婚礼に参加してもらう為、客として迎え入れた。だが自分は客たちの前に姿を現さず娘に指図して応対させた。
楊過は公孫止の娘が公孫緑萼という名前だと言うことを聞く。最初は名乗ることさえしなかった。何をするにしても父親の許可が要るのだった。楊過は親がいないのも不幸だが、いても幸福とは限らないと感じる。
緑萼が花畑で花びらを食べているのを見て楊過は不思議に思う。
絶情谷に育つ花は情花と言い、口に入れたときは甘いが次第に苦くなる。それは恋と同じである。そして情花のとげを刺した後一日間恋人のことを思うと激痛が走る、というのだ。
激痛が走った楊過は「あんたのことを思ったのさ」と緑萼に言ってからかう。言った後、自分は姑姑に一途であることを誓ったのを思い出し、自分の頬を打って戒めた。
楊過は周伯通に会いたかったが、婚礼が終わるまで待ってください、という答えに我慢した。
が、周伯通は夜中彼を縛り上げた牢から逃げ出した。

客たちには花びらだけの朝食が振舞われやっと主である公孫止が登場した。

自分は若い小龍女と結婚するが、娘にはやたらと厳しい公孫止、よくある話ですな。
この谷の情花が後で楊過に苦しみを与えます。
恋とは最初甘く後で苦くなるのですと。
タグ:金庸
posted by フェイユイ at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 神[周隹]侠侶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神G侠侶・第15集

鍛冶屋は黄薬師の弟子だったのだ。かつて陳玄風と梅超風が「九陰真経」を盗んで逃げた時、黄薬師は残った弟子達の足を折り桃花島から追い出したのだ。その時、この鍛冶屋・馮黙風はまだ若かったので黄薬師も憐れんで左足だけを折ったのだった。

そのような過去があっても馮黙風は黄薬師を慕い尊敬し続けていた。黄薬師を罵る李莫愁に温厚な馮黙風も立ち上がった。
李莫愁も受けて立った。馮黙風は上手いが攻めがない。楊過は李莫愁がいかに黄薬師を貶めたかを声高に述べ始めた。
馮黙風は怒りを李莫愁に向けた。馮黙風は鍛冶に使う金槌を真っ赤に燃やして武器にしていたため、李莫愁の武器である払子が焼けてしまったのだ。
さらに反撃しようとした李莫愁の服が破れてはだけた。
(李莫愁は古墓派なので処女である。恥じらいでそれ以上の攻撃ができなかった、と書いてあった)
楊過がかわいそうに思って服をかけてやり同門のよしみで逃してやった。

馮黙風は楊過たちと別れ敵将を撃つ為に蒙古軍に紛れ込むと言って去っていった。

曲の娘は李莫愁から受けた五毒神掌の発作で苦しんでいた。楊過は助けようとしたが曲の娘が楊過をまた楊康と間違えて騒ぐのでつい誰が父・楊康を殺したのだ、と問い詰めた。曲の娘は弱い頭で苦しみながらも楊過の必死の詰問に答えた。
娘の言葉で楊過は父を殺したのは黄蓉と郭靖なのだと知った。楊過は慟哭した。やりきれない心でその場を離れていった。

楊過は傷を癒している金輪法王の居場所にたどり着いた。そして金輪法王と共に仇である郭靖・黄蓉を討とうと決めた。
金輪法王は蒙古軍が中原を攻めるためには郭靖・黄蓉を破らねばならないと感じていたのでこの申し出を引き受けた。楊過は蒙古軍に加勢する気はなかった。

その頃、郭靖・黄蓉は蒙古軍が襄陽を攻め込もうとしていると知らせを受け、旅立とうとしていた。

金輪法王は楊過をフビライ・ハンに合わせた。楊過は気乗りがしなかったがフビライは楊過を歓待した。

小龍女の心は沈んでいたが公孫止に勧められるままに絶情谷に留まっていた。公孫止は何かと小龍女の世話を焼いた。小龍女はここで柳と名乗った。
絶情谷にいれば情を絶つことができるというのだが小龍女はどうしても楊過を忘れることができない。
その様子を見て公孫止は「情を絶つために誰かに嫁いでみては。そうすれば過去は忘れられる。再会しても諦めがつく」(そんな論理無理です)と勧める。小龍女は泣きながらもそれしかないと言い「この谷を出て誰かに嫁ぎます」
公孫止、怪しい雰囲気ですよ。小龍女どうなる?

楊過はとうとう父の死を知ってしまいました。
この後の展開が気になります。

タグ:金庸
posted by フェイユイ at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 神[周隹]侠侶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ジェイ・チョウ:張芸謀映画の主題歌MV完成

ジェイ・チョウ:張芸謀映画の主題歌MV完成

ジェイ、うれしかったでしょう。何せ張芸謀監督の「いい感じ!」というお墨付きです。
ま、どのMVも楽しみなんですけどねー(笑)
映画ともども待ち遠しいです!

古筝.jpg

弾古筝之図

こちらも
posted by フェイユイ at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月30日

神G侠侶・第14集

楊過と陸無双、程英3人は李莫愁を迎え撃つ。そこへ現れたのは程英と同じく黄薬師の弟子である曲霊風の娘であった(「射[周鳥]英雄伝」で黄薬師と桃花島に住むあの頭の弱い娘ですね。今はいい年のはずですがドラマでは若い時のまんまです)
そしてさらに登場したのが桃花島の主、黄蓉の父親にして最強の武芸者の一人、東邪と呼ばれる黄薬師であった。
さすがの李莫愁も黄薬師にはかなわず逃げ出した。

蓮の花が咲き乱れる水の上で楊過と語り合う黄薬師。黄薬師は楊過が師匠である小龍女と結婚したいのだと聞いても驚く事もなくむしろ「気に入った」と喜ぶのだった。
黄薬師は世間の常識など気にしない自由奔放な生活を好み「東邪」と呼ばれている。黄薬師は是非楊過に「邪」の字を継がせたいと笑った。そのために弟子にならないかと言うと楊過は弟子にならなくとも「邪」の字は受け継げる、と答える。そして父・楊康のことを聞くのだったが黄薬師もこれに答えるのは気がひけた。
黄薬師は娘・黄蓉の夫・郭靖が生真面目すぎてどうにも気に入らないのですが、自分の若い時のような楊過をすっかり気に入ってしまったようです。

曲の娘は楊過を見て楊過の父・楊康と間違って騒いだ「私が殺したんじゃないよ」楊過は驚き曲の娘に話を聞こうと迫った。だが娘の口からはよく判らない言葉が断片的に出て来るだけで楊過には飲み込めなかった。
楊過はここでも父の話を聞くことができなかった。

一度は黄薬師や楊過たちの前に姿を現した李莫愁が消え去ると黄薬師もどこかへ去ってしまった。

ところが姿の見えないはずの李莫愁から曲の娘が襲われた。背中には怖ろしい手形がついている。
曲の娘が怒りではさみを振り回すのを見て楊過は気がついた。
李莫愁の武器は払子である。それを鋏で切ってしまえたら。楊過は皆を連れて鍛冶屋に足を運び大きな鋏を注文しようとした。
そこに現れたのが李莫愁自身だった。李莫愁が黄薬師の悪口を書いた紙を鍛冶屋は火にくべ、黄薬師の弟子達がいかに有能だったかを語った。李莫愁はそれに一つずつ反撃する。
その言葉に鍛冶屋は身を起こした。
何か意味ありげな鍛冶屋さんです。

そして楊過の大事な姑姑は川を漂っている所を絶情谷の公孫止と名乗る男に助けられる。
絶情谷では一切の情を断ち切ることができるというのだった。
公孫止、周りに綺麗な女性をいっぱいはべらせていて謎です。こんなんでも一切の情が断ち切れるんでしょうかね?



タグ:金庸
posted by フェイユイ at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 神[周隹]侠侶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月29日

「ボーイ・ミーツ・ラブ」イアン・イクバル・ラシード 

ボーイミーツラブ.bmp

ケイリー・グラント映画を愛し、グラントが実体化して側にいると感じている青年アリム。彼はカナダ・トロントでのイスラム教・インド人の社会から逃げ出すようにイギリス・ロンドンで生活している。彼はそこで同性の恋人と暮らしているのだった。
ある日そこへ母親が訪ねてくることになり、慌ててアリムは「自分の正体」を隠すのだが。

こういう状況でのドタバタコメディでもあり、家族の愛を描いたものでもある。そして人種・宗教の違いを含めてややオタク気味のアリム青年の苦悩も描かれていく。
アリムのアイドルの実体化、守護神でもある幻のケイリー・グラントの役をカイル・マクラクランが端正な顔で演じている。生真面目でユーモアのある非現実キャラクターがぴったりあっている。
カミングアウトがどうしても怖ろしくてできないアリムに対しイギリス白人の恋人・ジャイルズは家族もゲイであることを認めている。おたおたするアリムに時々反発しながらも何とかしてあげようと心を砕いて見守っているのがナンとも素敵な彼氏ぶりである。まさに理想の恋人像でありますね。

そんなステキな彼氏と自己主張の強い母親に挟まれアリムの心は千千に乱れるのだが。
まーこれも結果がわかっているようなもので。早く言っちまえよ、といらいらしながら見たりとか(笑)まあその辺の過程が面白いわけでさっさと言ったら終わりでしょ、ていうのもあるんだが。
アリムのお母さんが可愛くて大変魅力的でした。

ジャイルズはゲイであろうがなかろうが恋人がこんなステキな人だったらな、ってな感じです。
それにひきかえアリムのイスラム世界での元カレはやな感じであるな。

監督自身がケイリー・グラントの映画が好きだったそうで、ただ彼の映画は自分たち(インド人・イスラムもしかしたらゲイということも含むのだろうか)の為の映画ではなかったのでいつか自分たちを描いた映画を撮りたいと願っていたそうです。
多分監督の思いがひたすら込められた作品なのでしょうね。

原題の「タッチ・オブ・ピンク」はケイリー・グラント出演映画の「タッチ・オブ・ミンク」のモジリだそうな。

監督: イアン・イクバル・ラシード 出演:ジミ・ミストリー、カイル・マクラクラン、クリステン・ホールデン=リード、スー・マシュー、ブライアン・ジョージ
2004年 カナダ/UK 
posted by フェイユイ at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「スリング・ブレイド」ビリー・ボブ・ソーントン

スリング・ブレイドa.jpg

いつもどおりのネタバレですが「アラバマ物語」のネタバレもしていますのでご了承ください。

テレビでちらりと見てひどく気になっていた映画なのだがタイトルも出演者も知らず長い間そのままになっていた。やっと最近になってそれがマット・デイモン出演の「すべての美しい馬」の監督の作品だと知った。

しかも監督・脚本・主演である。何日か前に書いたように「すべての美しい馬」のことも気になったままで是非観たくなった。

どちらもアメリカ南部を舞台にした物語である。特に「スリング・ブレイド」は南部の人々の暮らしが生で描かれている感がありそれだけでも興味深かった。

「すべての」と一緒くたにしてしまうとまた長くなりそうだが、二つの作品とも淡々と出来事を語っていく、という演出なのであるいはかったるく冗長に思われそうである。

「スリング・ブレイド」では知的障害者である主人公カールが母親とその浮気相手を惨殺したことで収容されていた精神病院から追い出される(という感じである)ところから始まる。
治療を受けたとはいえ、そういう過去を持つ知的障害者が偏見の強い田舎町に戻るという設定を聞いた時点でどういう展開になるか想像できるしまたそのとおりになっていく、という筋書きなのだ。
案の定偏見の強い自己中心的な男が登場してきて非常にいらいらする時間を耐え続けねばならない。
そういう状況でありながらも画面から目が離せないし、カールを中心とする登場人物が魅力的でついつい惹き込まれてしまうのだ。

その原因の一つは私にとっては不思議とさえ思える田舎町の人々の人のよさだ。これはそのままの姿としての描写なんだろうか。
ビリー・ボブ・ソーントン監督がこの映画で描きだすのはアーカンソーの田舎町の決して裕福でない人々である。
特にカールが親友となった少年フランクの母親には驚く。いくら息子が手助けしてもらったとは言え、見も知らぬ大男を自宅のギャレージに宿泊させるというのだから。この優しさはむかつく乱暴男ドイルにも発揮されていてこう言ってはなんだが乱暴男ドイルよりこの優しき母に対しての苛立ちを押さえきれなかった。往々にしてこういった乱暴男と手を切れない女というものが存在するものなのだが、自分の息子が精神的にも肉体的にも迫害を受けていても男を見捨てる事ができない。つい「あの人にも辛いことがあるのよ」と言って虐待を受ける事を甘んじているこの母親に(優しいからこそ)むかついてしまうのだ。
それは心のどこかでカールがなんとかしてくれるんじゃないかと願っているフランク、同性愛者だからと言う理由で(かなんかわからんが)母子を守りたいと言いながらもドイルに対して強い態度が取れないヴォーン、ドイルの分裂気味な暴虐ぶりにもグチをこぼしているだけのバンド仲間にも言い知れない不思議な感覚「この優しさはなんだろう」を感じてしまうのだった。

そんなおっとりとした人々が住む田舎町に同じく存在するのがヴォーンであり、カールの両親なのだ。
ヴォーンは正直言うとまだ何か怖ろしいことをしたわけではない。ただカールの親友フランクとその優しい母親(カールに夜中にもビスケットを焼いてくれた)に暴力を振るうのをそしてこれからも苦しめ続けるもしくは殺してしまうこともあると予感して刃を向けたのだ。
冷静に判断できたのはカールだけだったのかもしれない。
これから起こるかもしれない不安を未然に「殺人」という方法で断ち切ったカールのやり方は間違いだったのか。
だがこの結末に何故か安堵感を覚えてしまうのだ。

この映画の中で怖ろしいのは映像としては表れないカール自身が両親に惨たらしい扱いを受けていた過去だ。
カールが父親の住む家に戻る場面がある。荒れ果てた家の中で椅子に座った父親がつぶやく「あの時、頭を思い切り蹴ってしまった・・・」それはカールの知的障害に関する言葉なのだろうか。
カールを毛嫌いした両親は彼を小屋に住まわせカールは小さな窪みを掘ってそこに寝たのだ。病院では気持ちのいいベッドで寝れたとカールはいうのだ。
母親から焼いてもらったビスケットをフランクの母にねだるのが悲しい。
後半のこの帰宅シーンで初めて登場したカールの父親をロバート・デュバルが演じているのを知ってはっとした。
あの「アラバマ物語」で虐待を受けながら幽閉されていた青年ブーを演じたのがデュバルだったからだ。
同じく南部を舞台にして虐待を描いているということで監督自身意識して彼を使ったはずだ。
あの時も僅かな出演時間で虐待された青年を演じきったが、ここでも短時間ながら冷酷な父親を印象付けている。

怖ろしく物悲しい雰囲気を出しているのはアメリカ南部という空気そのものなのだろう。
まったく随分アメリカ南部の作品を見て来たものだと思う。そこには洗練された知性・理性というものではなく、感情、暴力といったものが多く描かれていたはずだ。都会ではなく田舎というイメージ。差別、苦悩といった記憶である。
映画でも泥臭さを感じる南部の風景が好きだ。(なんていうのか、あの樹木が南部を表現するよね)

最後、カールが窓から眺めているのはフランクとの友情を深めた秘密の水辺なのかもしれない。

監督・脚本・主演:ビリー・ボブ・ソーントン  出演:ドワイト・ヨーカム 、ジェイ・ティー・ウォルシュ、ジョン・リッター、 ルーカス・ブラック 、ナタリー・キャナディ、ジェームズ・ハンプトン、ロバート・デュヴァル、リック・ダイアル、 ブレント・ブリスコウ、ジム・ジャームッシュ
1996年 アメリカ
少年フランクを演じたルーカス・ブラックは「すべての美しい馬」でも印象的な少年ブレヴィンズを演じています。
またジム・ジャームッシュがハンバーガー・ショップの店員役でカメオ出演。ほほう。

「アラバマ物語」
タグ:犯罪 家族
posted by フェイユイ at 17:21| Comment(2) | TrackBack(2) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月27日

張孝全人気に喜ぶ

最近のアクセス状況として一番のうれしい驚きは「藍空」で張孝全くんへの関心が急激に高まっていることですねー。
何しろ私がせっせと書いていた当時はまったく張孝全くんに対する反応が無くて涙だったのですが映画「盛夏光年」が上映されていますからね。本当にうれしい限りです!
とはいえ私自身が見れるのは当分先のことで。これはいつもの事だから、まーしょーがないんですがね。

後は「王の男」と「満城尽帯黄金甲」でしょうか。ふっふっふ、というとこですね。

以上は旧「藍空」の報告ですが、「放浪記」の方はまだまだひよっこでございましてさほど話題もございません(笑)

まあ今後も神[周鳥]侠侶を見ながら古今東西の映画を見て前観たモノも見直して、という形でやっていこうと思います。よろしく〜。
タグ:近況報告
posted by フェイユイ at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月26日

神G侠侶・第13集

黄蓉に「師弟は夫婦にはなれない」と諭された小龍女は悲しみをこらえて楊過の側を去ることにした。
楊過が目を覚まさぬうちにそっと部屋を出たのである。
目覚めた楊過は姑姑の姿がなくそこに「もう私のことは探さないで」という置手紙があるのをみつけ慌てて外へ飛び出した。

楊過が小龍女を探しているのを見た金輪法王たちはこの隙にと黄蓉・郭芙一行を襲う。身重の黄蓉は万全の力が出せない。かろうじて石の陣をひいて抵抗していた。これを見た楊過は助けようとするが師父・小龍女なしでは楊過の力はまだ未熟なのであった。
楊過たちの危機を救ったのは以前も手助けをしてくれたあの謎の仮面少女であった。郭芙と武兄弟は傷ついた黄蓉を抱えて走り去った。
黄蓉たちを助けようと入った楊過が倒れたままなのは見捨てて行ってしまったのを仮面少女はあきれていた。そして彼女を姑姑と間違えて呼ぶ楊過を安全な家へ運んだ。

仮面少女は楊過を手厚く看病し何かと世話を焼いてくれるのだった。そして彼女は幼い頃陸無双と一緒に李莫愁にさらわれそうになったのを楊過に助けてもらった過去があるのだった。
これを聞いた楊過は驚く。
今、仮面の少女・程英は陸無双と一緒に暮らしているのだ。帰宅した陸無双は程英の仮面をもぎ取った。楊過は驚く。「醜いから」と言って決して仮面を取らなかったその顔は美しかったのだ。

陸無双は楊過に李莫愁から奪った「五毒秘伝」の書を見せ「これを覚えたら焼き捨てて」と頼み李莫愁から命を守るための刺繍入りの絹布を渡した。
そして程英も楊過に同じく半分に切られた命乞いの絹布を渡すのだった。

李莫愁は「五毒秘伝」を取り戻す為、陸無双が隠れているこの家をかぎつけてやって来たのである。まだ傷のいえない楊過を家に閉じ込め程英と陸無双は稚拙ながら布陣をしいて李莫愁を迎え撃とうというのであった。

どうにも郭芙たちは楊過を軽視していてむかっ腹がたちます。
金輪法王たちは弱い所をつけこんでくるのが情けないですね。
久し振りに登場の程英かっこいい。とうとう顔を表しましたね。やはり綺麗な人だったわけです。
楊過は美男だけに女性の助けが多いです。郭芙だけはどうしようもないですが。
ちまきが美味しそうでした。原作では小豆の入った甘いのと豚肉の塩漬けを入れた辛いのを楊過のために作る、とあってとても美味しそうです。
これは程英の故郷が江南で、江南のちまきは有名だからなのだそうです。

タグ:金庸
posted by フェイユイ at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 神[周隹]侠侶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「迷迭香」のMVを垣間見る

スカパー!BBで「迷迭香」のMVの撮影風景(←クリック)が少し見れますね!

ジェイのダンス姿が素敵です。お婆ちゃんも大活躍ですね。この曲はジェイが大好きなお婆ちゃんのために作ったのですねー。うーん、納得。

それにしてもピアノを弾くジェイの指の綺麗な事!うっとりです。
posted by フェイユイ at 18:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「GELLY(ジェリー)」ガス・ヴァン・サント 再び

gerry.jpg

以前記事にした時は「どうにでも考えられる」みたいな風に書いたと思うんですが、今回最初からこれはゲイの世界を描いたものだと言うことにして観て行きました。

そう決めて観るととても判りやすいのですね。無論答えがどうなのかは知らないのでこれはあくまで私の勝手な解釈です。

主人公となる二人が二人とも「ジェリー」という名前でややこしいのでそのまま役者名で書きます。

ゲイであるマットとケイシーは(役名の代わりとしてですよ!)長い長い道を二人きりで車で走っている。周囲から疎外されている感じはあるが穏やかな音楽が流れていてそれほど不快感はない。でも二人に会話はなく視線を合わすこともない、何かを決心して行動しているようにも見える。
二人は車を降り「荒野の道」を歩きだす。反対方向へ家族連れが向かう。彼らは二人きり。最初は笑ったり楽しそうでもある。
すぐに道がわからなくなる。誰もいない誰も通る事のない荒野と砂漠。それはゲイとして生きていく運命を表現している。
より強く愛情を持っているのはケイシーの方だ。それは僅かに発せられる言葉で感じられる。
マットが「お前が嫌いだ」というと「本気で?」そんな会話から。
いきなりケイシーが高い岩の上に登っている。下にいるマットは驚きどうにかしようと思うがどうすることもできない。「飛び降りろ、抱きとめるから」ケイシーはそうして欲しいのだがマットのことを心配してそれができない。
二人は道を探し果てしなく歩き水飲み場=憩いの場を捜し求めるがどうしても見つからない。根無し草が二人を追いたて暑い日差しが二人を苦しめる。

あえてストーリーを書き連ねているのは以上の表現がゲイである二人が生きていくにはそういう体験・心理状態になるという事を映像化している、といいたいからだ。
そしてその状況は他の人間から見れば非常に馬鹿馬鹿しく非生産的に見えるということも。
ケイシーはマットに問う「あの山も越えるかい」そして泣く。たとえそうしてもそこに答えはないとわかっているから。
ケイシーはつぶやく「僕は最初から車のある場所も判っているし水も持っていた」マットは「また幻覚をみてるな」
それもまたケイシーが普通の場所へ戻る道を知っていると言っているのだ。

だが二人はさらに歩き続けとうとう倒れてしまう。ケイシーがマットに手を差し伸べる。助けを請うように。そのしぐさはこの物語の中で唯一心の動きを表しているようで悲しみに満ちている。
「もう駄目だ」
マットはそれをはねつけ彼の首を締め上げてしまったのか、と思ったがそうではなく力尽きた恋人を死へと送ってあげただけのかもしれない。
その光景はまるで二人が愛し合っているかのようにも見える。

ケイシーを殺した直後なぜか突然マットは普通の人が通る道が見える。そして普通の人の車に乗せてもらうのだ。
が、ここでもマットは不安げである。普通の人の所へ戻った、という安堵感がない。
マットの隣の席には可愛らしい幼い男の子が座っている。そして運転しているのは自分より年上らしい男の視線も気になる。
不安な思いを抱えたままマットは車の窓の外を見る。そこにはまだ果てしない荒野が広がっている。

というわけで自分勝手にゲイの心の不安と孤独を描いた作品だということでまとめてみました。
最初観た時はマットとケイシーの交流がまったくないのでとても悲しく思えたのですが(特にマットがケイシーの呼びかけを撥ね退けて殺した、と思ったので)あの時の二人の動き特にマットの動きはケイシーの誘いをそのまま受けて首を絞めているので愛するがゆえに殺したのかな、と考え直しました。
まあどちらにしても勝手に思い込んでいるだけですので。殺しちゃいけませんがすべてが何かを暗示している、という映像だと思いますのでそのまんま受け取っちゃいけません。

無論、こう思うのは監督のガス・ヴァン・サントがゲイだから、ということはありますね。ここでのマットとケイシーは大変監督好みの美少年に見えたりもしますし。

前回、感想が中途半端かなという気がして書いてみました。

「GERRY ジェリー」ガス・ヴァン・サント

「GERRY ジェリー」におけるマット・デイモンの魅力
posted by フェイユイ at 00:07| Comment(2) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月24日

「すべての美しい馬」&「バガー・ヴァンスの伝説」

昨日・今日で「すべての美しい馬」と「バガー・ヴァンスの伝説」を観ました。
なぜ一つずつ書かないかというともうすでに「藍空」でそれぞれ書いたものでもあるしなんと言うかこの二つはなかなか書くのが難しいのですね。

この二つの映画の共通点は幾つかあってどちらも2000年の作品であること。恋人役が有名美人女優であること(他のは違うのかって?ペネロペ・クルス&シャーリーズ・セロンと戦うのはね)そしてアメリカ的な時代物であること(そんな大昔ではないが)となんだか一筋縄ではいかない奇妙なニュアンスがあることなのだ。

この奇妙なニュアンスと言うのをうまく説明できないのだけど、多くの人の評価が答えを感じ取れないでいるようなあるいはストーリーが平坦であり演出・構成がうまくないとされていることでも判る。
つまりは的確に表現がされていないのだが、それを含めても結構面白い二つの作品であった。

特に「すべての美しい馬」は不思議に感じる部分が多い。一番は主人公ジョンとレイシーの前に突然現れる少年が一体ジョンにとってどういう意味合いを持つのか。自分よりずっと年下の少年が過酷な運命にさらされそれをどうにもできなかった、というのはどういうことなのか。アメリカ映画でこんな幼い少年がこんな結末を迎えるというのもあまりないのではないか。
原作と映画は別物ではあるけれど、映画だけではどうにも難しくてとりあえず原作を読んでみることにした。何か思うことがあればまた感想を書きたいと思う。

「バガー・ヴァンズの伝説」も色々思わされる話でこれは本当は監督のロバート・レッドフォード自身がやるべき(やりたい)作品なんだろうな。若ければ。
ブラッド・ピットがやるはずだったというのも聞いたが外見的には(身長とか髪や目の色とか)マット・デイモンのほうが近いというのはある(監督は昔絶世の美男子でしたけどね)
今日見直していて少しだけ「華麗なるギャッツビー」を思い出したりもした。時代的なことと富豪の美しい恋人のために必死でがんばるっていうだけだけどね。後、その彼を紹介するスタイルの映画ってとこかな。
マット・デイモンが演じるジュナ大尉が最初ミステリアスな雰囲気でかっこいいのに途中から(ってすぐだけど)不安に怯える男になっているのが観ている方としては印象が分散してわかりづらいの(それは男の子の目を通して感じたことだからしょうがないんだけどね)
でキャラクターは判りづらいんだけど言いたいことは全部バガーがセリフで説明しているのでストレートすぎなのだった。

というような感じのこのふた作品なのだが、私としてはかなり気になるものではあった。「バガー」はマットの無精髭の堕落加減が見物であるし「美しい馬」は、こちらはね本当にかなり本気で好き。
小説を読んでもう少し考えてみたいと思っている。

「すべての美しい馬」

「バガー・ヴァンスの伝説」
posted by フェイユイ at 23:58| Comment(4) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「迷迭香」MV

《迷迭香》.jpg《迷迭香》2.jpg《迷迭香》4.jpg《迷迭香》3.jpg

「迷迭香」MVもジェイが監督したのですねー。うーん早く観てみたい!
「四面楚歌」での周迅とのワルツに続いて“ルンバ”です。楽しみ!!
posted by フェイユイ at 18:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月23日

月刊SKYPerfecTV!にジェイ・チョウの記事が!!

月刊SKYPerfecTV!11月号にジェイの記事が少しだけ載っていた。単に「スティルファンタジー」の紹介だったんだけどね。
大きなテーマの一つが「懐かしいもの」ということでフェイ・ユーチンさんとのデュエット曲を大きな出来事としてあげていました。
そして私も大好きな「ローズマリー/迷迭香」をルンバのリズムを取り入れた新しい挑戦でしたと言ってます。なんだかうれしいです。
今見たところでは番組の紹介はないのが残念ですが(見たばかりなのでよくわかりませんけど)やはりジェイのことが書かれていると気になりますよね。
掲載されていた写真がいつもよちょっと違う表情に思えるので見て欲しいです。
posted by フェイユイ at 12:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月22日

「スナッチ」ガイ・リッチー

スナッチ.jpg

凄く面白いという評判を聞いていてしかもブラッド・ピットなのでどうなのかなあと思っていたがそのまま面白かった。

冒頭からして凝っていて画面の中のテレビ画面に出演者の名前が出て来るとか物凄く早いカットの連続、クールな演出と今風のお洒落な映画だな、とちょっと引け目を感じてたら段々惹き込まれてブラピが出てきた時にはすっかりのめりこんでいましたね。

とにかくブラッド・ピットがかっこよくて彼はこういうちょっといかれた感じになるとどうしてこうも素敵なのでしょう。
パイキー(アイルランド系ジプシー、と言ってはいけないらしい)と言う設定でイギリス人にもさっぱり理解不能の英語を話している、というのがたまらなくいい。しかもめちゃくちゃ強い。ボクシングで強いっていうのはブラピの「ファイトクラブ」でもそうだったけど細身の体と共に凄く惚れてしまいます。
なんだかこの映画ってやたらベニチオ・デル・トロ の名前が先に出ていて私は彼の作品をまだ「シン・シティ」でしか知らなくてあれでもちょい役だったので期待してたらここでも少しだけの出演でした(笑)彼だけを目的に見ねばな。
ここでの主人公はやはりジェイソン・ステイサム なんでしょう。やたら髭剃り跡が気になる彼ですが猥雑で雑多な登場人物をまとめあげるのにちょうどいい渋さでありました。
そしてこれも見たかったのがヴィニー・ジョーンズ。ここでも強面男を決めていてうれしかったんですがなんだかジェイソンと誰かもう一人の人と印象似てて怖そうな顔ばかりで心配したり。
登場人物と演出が凝っているのでストーリーはでっかいダイヤモンドを追いかけるという単純なものなのが男っぽく骨太でかっこいい。
怖い系の男ばかりが出てきて荒っぽいのに残酷な場面は殆ど見せてない、というのも紳士的でよございました。

とにかくおかしくてスピード感あってかっこいい楽しい映画でした。

監督:ガイ・リッチー 出演:ベニチオ・デル・トロ 、デニス・ファリナ 、ヴィニー・ジョーンズ 、ブラッド・ピット 、レイド・セルベッジア 、ジェイソン・ステイサム
2000年、イギリス
posted by フェイユイ at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「僕と未来とブエノスアイレス」ダニエル・ブルマン

ブエノス.jpg

ブエノスアイレスの小さな商店街でランジェリーショップを経営する母と暮らすニート状態の青年のお話。

ガレリア(アーケード商店街)はアルゼンチンの経済状況をそのまま表してるが如くナンとも沈滞ムードが漂っている。
登場人物も年配の男女が多くてしかも若者(といっても30歳くらい)である主人公アリエルはまともに仕事もせずぶらぶらしながらポーランド人になってヨーロッパに行こうと思いつめてる。そんなアリエルの父親は彼が生まれて間もなくイスラエルへ戦争へ行きそのまま帰ってこないのだ。
そんなある日父親が突然帰ってきてアリエルの心は思い乱れてしまう。

アルゼンチンのごく普通の人々の生活を描いたものなのだと思う。なんだかこうやって観ていると私の周囲の状況とあんまり変わらない。街並みなんかも同じみたいな気もする。
アルゼンチンと言うとサッカーやらタンゴやらそして勝手に治安が悪くて怖い場所のような印象と人間もやたら情熱的なような気がするけどこの町の人々は少なくともご近所さんみたいである。
例えばお母さんが息子にバターナイフを差し出して「これで私を殺してちょうだい」なんて。
再会したお父さんとも意地張って何も話さないまま早歩きで競走したりしてかなり情けなく普通っぽいのだ。
そんな面白い雰囲気を出しているのも主人公がブエノスアイレスでのポーランド系ユダヤ人という設定(監督自身がそういう人物)だからだろうか。
そしてこのガレリアには様々な人種が住んでおりそれ自体がアルゼンチンの縮図なのだという(その辺はうちの近所とは違うけど)
中には韓国から逃げるようにしてやってきたと言う若い夫婦がいてなぜだか風水の店をやっている。しかもそれはアルゼンチンに来てから学んだのだという。それはそうだろう。どう見てもその店はインテリアからして中国風でして周囲の人はどうでもいいんだろうけど東洋人としてはちと気になる。

モラトリアムな時間をすごしている青年アリエルがこの狭い町の中でこれまたいかにも今風に大人になろうとしている姿が映し出される。
長い間会えなかった父親との再会を拒みながらも会いたいと願っている。父親との駆けっこで何かを吹っ切ってしまったのかもしれない。

そしてそれ以上にかつてポーランドでナチスによる怖ろしい迫害を受けた祖母が一度忘れようとした歌声を取り戻しプロの歌手を目指すというラストはなかなか心憎いものであった。

監督:ダニエル・ブルマン 出演:ダニエル・エンドレール(ウルグアイ出身で「ウィスキー」にもカメオ出演していたそうな)、アドリアーナ・アイゼンベルグ
2003年 アルゼンチン、フランス、イタリア、スペイン合作
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2006年10月20日

ジェイ・チョウ出演/crossFM「CROSS・POP・BEAT」Part2聞く!

黒.jpg
文章と関係はありません

いつものことながらじえるなさんの励ましで(笑)crossFM「CROSS・POP・BEAT」Part2聞きました!!
一回目は聞き損ねた(ちょうどその頃が都合で聞きにくい時間帯なのだ)のですが今回頑張って聞くことができました。
いやー聞いてよかった。ジェイの声はいいですね。

まずは「本草綱目」が流れて。
ナビゲイター今泉圭姫子さんからの色々な質問を受けるジェイ。
「夜的第七章」の青いバラに特別な意味はないそうです(笑)なんとなく死体の上に青いバラがあったら綺麗かなーと思ったそうです。なぜ倫敦が舞台に?やはり探偵といえば倫敦だから。単純明快でした。

「依然范特西」の他の曲にももう全てMVを作り終えたということ。楽しみですね。特に「心雨」のMVについて説明していました。ジェイが特別に甘い声で歌っているものですね。ストーリーについても話してましたがそれは楽しみにとっておきましょうか。

そして張芸謀監督作品「満城尽帯黄金甲」について。「悪い王子様」と訳されていましたが、悪い王子、といっても母親思いの一番普通の人、ということらしくてなんだかこれもジェイらしい感じがしますねー。
待ちきれませんよ。

そして最後にこれからのコンサート情報。来年の10月に台湾で、ということらしいです。それはジェイが入念に準備して2年に一度コンサートを行っているからなんですが、その為また日本でのコンサートがあるとしてもその後になってしまうとのこと。これもまた根気強く待つしかありませんな。
だからその前にもう一枚アルバムを出すそうです。
でもコンサートの前に何かの機会に日本に来る事はあるらしい。おお。(個人的にはよく来てくれてるみたいですけどね)
最後に日本語で「ありがとうございます」とまだまだ頼りなげに言っていました(笑)
終わりの歌は「心雨」でした。

ところで「依然范特西」もう随分皆さん聞いてお気に入りの歌も決まってきたのではないでしょうか。
これだけは歌えるようになりたい、とかね。
早口ラップはどうしても無理なので「私の歌」は「迷迭香」です。以前の記事にも書いたけどこの歌はジェイの歌では珍しいほど色っぽいアダルトなナンバーですね。セクシーな感じで歌ってるジェイの声も捨てがたいです。
「シチャラチミャオ」だとか「イージーマオ」だとか「シャオブリャオ」とか歌って喜んでます。せめてもう少し上手く歌えたらいいのですがねえ。
ところでこういう時普通はお酒が欠かせないモノですが、この中でもジェイが飲んでるのはジュースなのかしら?カクテルくらいなのかなー?
MVも凄く気になります。
posted by フェイユイ at 23:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「ウィスキー」フアン・パブロ・レベージャ、パブロ・ストール

ウィスキー.jpgウィスキー2.jpg

映画の始まりに自動車の内部にカメラを置きゆっくりと走り出して外の風景を映していく、というのは基本なのだろうか。
「私は移動していく映画が好きだな」と思ってから気にして観ていると導入部にこれを使う映画が本当に多いのだ。多分この移動によって観客は映画の世界に連れて行かれるという効果があるのだろう。私なんかすぐこの暗示にかかって恍惚としてしまうのだから簡単なものである。

とても面白い味わいの映画である。なにしろ物語の説明というものがなく観てる者は口数少ない登場人物たちの会話からなんとか情報を得なければいけない。
しかしこれは当然のこと。目の前で行われる会話を聞いているだけなら昔の話をいちいちするわけはないのでごく自然なことなのだ。


主要な登場人物はわずか3人。場所はウルグアイの田舎町。
兄・ハコボはオンボロ靴下工場の経営者。いつも壊れたブラインドを自分で修理している。自宅は広いが独り身のせいで殆ど物置状態。無口でいかにも頑固者。必要なことしか話さない。怖い顔をしているが「ウィスキー」と言いながら写真を撮られる時だけは笑う。
弟エルマンはブラジルで同じく靴下工場をやってるがこちらは羽振りがよさそうだ。新型の機械もいれ手広くやってるのが伺える。
結婚をして子供もいる。幸せそうだ。社交的でマルタにもやさしい。
ただ兄に対しては、母親の看病を任せっぱなしにした上葬式にも出なかった、という引け目がある。
そしてマルタ。最初登場したときはすっかり女らしさも失せてしまった中年のおばしゃんという感じでただハコボに気を使って生活しているような存在だったのが3人の物語が進むにつれ次第に感情も豊かになり(おしゃれもして)エルマンの言葉に心を動かされハコボの態度に思い悩む最後には立派な映画のヒロインになってしまったのであった!すばらしい!

この映画では色んな謎が放り出され答えは与えられず観客は置き去りにされる。
彼らの過去や関係の謎もあるが最も気になるのはマルタの思い、彼女がこれからどうするのかどうなっていくのか、である。
マルタが上司ハコボから頼まれた偽の妻の役を演じて気づいた自分の存在。(しかしこのマルタの状態って結婚して長年たってしまった妻そのもののようである。髪型を変えても気づかれず、やさしい言葉もかけられず、他の男性の言葉にはっとしている)(私の実生活はそんな風ではない、まだ)
冴えないマルタの特技は言葉を逆さまに言える、ということ。例えば「ハコボは怒っている」なんていうのをぱっと逆から言えるのだ(日本語では割と言えるけど向こうは子音と母音があるから難しいのかな?)
これは何となく偽の妻というのをさっとやってのけるマルタらしい特技なのかもしれない。

マルタが長年続けてきたハコボとの関わりをどうするのか。これからどうなっていくのか。
マルタはエルマンに「ブラジルに行ってみたい」と言い帰り際の彼に手紙を渡した。その中に何が書いてあるのか。
さてマルタは大きな冒険の旅に出るのか。それとも再びハコボの要求に答え、繰り替えしの日常にもどるのだろうか。
答えは観る時の気分によっても変わりそうだ。

デコボコ3人が連れ立って歩くとこもおかしいし、金を使おうと思って賭け事をしたら逆に儲けてしまったり(世の中は思うようにならないね)このなんてことない(悪党でもないしね)おじさんおばさんがたが面白くおかしく寂しくて凄くよいのだった。
ウルグアイ映画なんて初めての経験(しかも若い監督らしい)こんなによい映画があるのだ。

監督:フアン・パブロ・レベージャ、パブロ・ストール
脚本:フアン・パブロ・レベージャ、パブロ・ストール
   ゴンサロ・デルガド・ガリアーナ
出演:アンドレス・パソス、ミレージャ・パスクアル
   ホルヘ・ボラーニ
2004年/ウルグアイ=アルゼンチン=ドイツ=スペイン
posted by フェイユイ at 15:46| Comment(3) | TrackBack(0) | 中南米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月18日

神G侠侶・第12集

郭靖の「是非娘郭芙を楊過に嫁がせたい。その時師匠の小龍女に媒酌人を」と言う言葉に楊過は驚く。
だが小龍女はこれを断る。黄蓉は何かを察した。

ついに皆の前で楊過と小龍女は師弟の間で結婚する意があることを打ち明けた。
居並ぶ武芸者達は凍りついたようになる。なぜなら師弟の間で男女の関係を持つことは人道に外れたことなのだ。
つまり師弟の関係にあることは親子の関係と同じまたはそれ以上なのだから。

ずっと世間から離れ古墓の中で暮らしてきた二人にはこういった世の慣わしと言うものと無縁だったわけで特に小龍女には人々の心が判らないのであった。

師弟でありながら夫婦となると明言した二人を蔑みの目で見る人々。さらにかつての誓いを破って二人が裸でいた(それだけなんですけどね。修行してただけです)ことをばらす趙志敬に楊過は怒りを覚え飛び掛った。
そして小龍女も楊過を助太刀する。
二人が剣をあわせた時、不思議な衝撃があった。

全真教と楊過たちの争いに慌てたのは郭靖。すぐさま止めにはいり楊過を諌めた。
郭靖にも理解してもらえない楊過は小龍女と共にその場を立ち去った。

楊過と小龍女はやっと二人きりになって馬に乗って走った。もう離れないと誓って。

その頃郭芙は皆の前で恥をかかされたと苛立って飛び出した。慌てて武兄弟と黄蓉が後を追う。
だが郭芙は金輪法王に捕らわれていた。
見つけた黄蓉は助け出そうとするが身重の身体は思うようにならず不調を感じる。
それを見た楊過は許されぬ身とはいえ黙っておけず助けに入る。続いて小龍女も。
楊過は自分が全真教の剣を使い、姑姑に玉女剣を使うように指示する。二人の剣はまた不思議な力を持ち金輪法王も引かざるを得なくなる。

黄蓉たちと同じ宿に泊まった楊過と小龍女。全真教の剣と古墓派の剣が重なった時力を増すことの謎をとく。
憎みあっていたといわれているそれぞれの開祖は元々恋人同士。古墓派の開祖は全真教を破る剣と言いつつ共に強くなる剣法を編み出していたのだと知って喜ぶ。

黄蓉は小龍女だけを別室に呼び、世間のしきたり「師弟は結婚してはいけない。もしすれば楊過はずっと苦しむ事になる」と伝える。ずっと古墓に住むという小龍女に黄蓉は「放浪癖のある楊過は耐え切れない」と言う。
小龍女は楊過に訊ねる「ずっと古墓で暮らせるのか。退屈しないのか」楊過は「退屈すれば遊びに出るさ」と答える。
その答えに小龍女ははっとする。
外では武兄弟が師弟なのに同じ部屋で寝るのはいかがわしいと騒いでいる。姑姑が傷つくと思う楊過は我慢できない。
だが小龍女はそんな楊過を押し止め、一本の綱の上に横たわりながら涙をこぼすのだった。

うーん、まあ今でも確かに先生と生徒の恋は容認されてはいませんねえ。こんな風に中国の昔から人道に外れた事、とされていたのですね。
世間知らずに育った純真な小龍女には酷な話です。
大好きな黄蓉ですがここでは腹立たしいです。あのへそ曲がりで世間の規則が嫌いなお父さんを持っているのだからこれくらい平気そうですけどねー。
それにしても娘には大甘なんですよねー、黄蓉は。

といっても一番憎いのは誓いを破る趙志敬の奴!ここでも甄志丙のことばかり気にしてます。
甄志丙は誓いを破った事を気にしておどおどするばかり。よほど小龍女が好きなんですねー。なんだか可哀想でもあります。



タグ:金庸
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続・「サラ、いつわりの祈り」

さら.bmp

一日挟んで書いてます。といっても何となくつらつら思っただけのことですが。

映画のネタバレはいつもの事ですが原作にも触れますのでご了承ください。

前の記事でも書いたけど、映画化になるなど夢にも思わず原作を読んでいた。まさかこれが映画化されるとはなあ。
というのは7歳くらいからローティーンまでの主人公の少年の性的な物語を映画にできるとはちょっと思えないではないか、それもアングラとかではなく。

で前に書いたように原作と映画は肝腎なところが違う。
監督・脚本・主演のアーシアは「大好きなリロイの小説を忠実に映画化した」と言っていて確かにそうなのだが、だのに全然違う。
その上で私は映画作品が非常に好きなのだが、原作に思い入れが強い人はかなりがっくりかもしれない。
なぜなら多分読者が一番読みたい(観たい)部分主人公の少年の性的虐待嗜好部分がなくなっているからだ。
映画だけ観ると幼い少年が鞭打ちなどの虐待を受け叫んでいるので可哀想と受け取る人が多いだろう。
でも小説ではジェレマイアはその「鞭打ちを受けたい」と願っている被虐嗜好の少年なのでまったく話は違ってくる。
それはジェレマイアが虐待を受ける事と愛情を受ける事を同一化してしまった、ということなのだろうが、それこそがこの小説の最も忌むべき核心なのである。
「少年が虐待して欲しいと願っている、という作品を世間で認めるわけにはいかない。児童虐待に歯止めが利かなくなるではないか」
アーシアは「児童虐待の場面はできるだけ控えた」と言っているのだが、それではこの物語の本質が消し去られたことにはなってしまう。

それはアーシア自身が幼い娘の母親で惨たらしい児童虐待シーンを赤裸々に演出するのは耐え難いものだったからなのか。
子供のいない男性(しかも同性愛的資質のある)ならもっと露骨な映画に仕上がっていたのだろうか。何となく「ターネーション」に似た感じになりそうである。
だが映画作者が女性且つ母親であったために映画は少年の性的嗜好を表現するのではなく、どこにも行き場がなく互いを頼りにするしかない母子の物語となった。一般基準の愛情とは程遠いがそれでも彼らは愛し合っているのだ。
そしてその自暴自棄な堕落振り、救いのなさは少年ではなく若さを失いつつある女を主体にすることで(あくまで少年の目を通してではあるが)より面白く深みのあるものになったのではないか、と感じている。

追記:「そして、一粒のひかり」と「サラ、いつわりの祈り」が似てる感じがしたのは主人公がマリアとサラという聖書でも馴染みの深い名前だからなのでもあった。
マリアは勿論、イエスの母マリアでサラは旧約聖書のアブラハムの妻で年を取ってから子供を産んだ女性の名前でしたね。
勿論聖書から取られた名前は多いわけですがどちらも母をイメージする名前なのでしょうか。
タグ:家族
posted by フェイユイ at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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