映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2006年10月18日

神G侠侶・第12集

郭靖の「是非娘郭芙を楊過に嫁がせたい。その時師匠の小龍女に媒酌人を」と言う言葉に楊過は驚く。
だが小龍女はこれを断る。黄蓉は何かを察した。

ついに皆の前で楊過と小龍女は師弟の間で結婚する意があることを打ち明けた。
居並ぶ武芸者達は凍りついたようになる。なぜなら師弟の間で男女の関係を持つことは人道に外れたことなのだ。
つまり師弟の関係にあることは親子の関係と同じまたはそれ以上なのだから。

ずっと世間から離れ古墓の中で暮らしてきた二人にはこういった世の慣わしと言うものと無縁だったわけで特に小龍女には人々の心が判らないのであった。

師弟でありながら夫婦となると明言した二人を蔑みの目で見る人々。さらにかつての誓いを破って二人が裸でいた(それだけなんですけどね。修行してただけです)ことをばらす趙志敬に楊過は怒りを覚え飛び掛った。
そして小龍女も楊過を助太刀する。
二人が剣をあわせた時、不思議な衝撃があった。

全真教と楊過たちの争いに慌てたのは郭靖。すぐさま止めにはいり楊過を諌めた。
郭靖にも理解してもらえない楊過は小龍女と共にその場を立ち去った。

楊過と小龍女はやっと二人きりになって馬に乗って走った。もう離れないと誓って。

その頃郭芙は皆の前で恥をかかされたと苛立って飛び出した。慌てて武兄弟と黄蓉が後を追う。
だが郭芙は金輪法王に捕らわれていた。
見つけた黄蓉は助け出そうとするが身重の身体は思うようにならず不調を感じる。
それを見た楊過は許されぬ身とはいえ黙っておけず助けに入る。続いて小龍女も。
楊過は自分が全真教の剣を使い、姑姑に玉女剣を使うように指示する。二人の剣はまた不思議な力を持ち金輪法王も引かざるを得なくなる。

黄蓉たちと同じ宿に泊まった楊過と小龍女。全真教の剣と古墓派の剣が重なった時力を増すことの謎をとく。
憎みあっていたといわれているそれぞれの開祖は元々恋人同士。古墓派の開祖は全真教を破る剣と言いつつ共に強くなる剣法を編み出していたのだと知って喜ぶ。

黄蓉は小龍女だけを別室に呼び、世間のしきたり「師弟は結婚してはいけない。もしすれば楊過はずっと苦しむ事になる」と伝える。ずっと古墓に住むという小龍女に黄蓉は「放浪癖のある楊過は耐え切れない」と言う。
小龍女は楊過に訊ねる「ずっと古墓で暮らせるのか。退屈しないのか」楊過は「退屈すれば遊びに出るさ」と答える。
その答えに小龍女ははっとする。
外では武兄弟が師弟なのに同じ部屋で寝るのはいかがわしいと騒いでいる。姑姑が傷つくと思う楊過は我慢できない。
だが小龍女はそんな楊過を押し止め、一本の綱の上に横たわりながら涙をこぼすのだった。

うーん、まあ今でも確かに先生と生徒の恋は容認されてはいませんねえ。こんな風に中国の昔から人道に外れた事、とされていたのですね。
世間知らずに育った純真な小龍女には酷な話です。
大好きな黄蓉ですがここでは腹立たしいです。あのへそ曲がりで世間の規則が嫌いなお父さんを持っているのだからこれくらい平気そうですけどねー。
それにしても娘には大甘なんですよねー、黄蓉は。

といっても一番憎いのは誓いを破る趙志敬の奴!ここでも甄志丙のことばかり気にしてます。
甄志丙は誓いを破った事を気にしておどおどするばかり。よほど小龍女が好きなんですねー。なんだか可哀想でもあります。





ラベル:金庸
posted by フェイユイ at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 神[周隹]侠侶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

続・「サラ、いつわりの祈り」

さら.bmp

一日挟んで書いてます。といっても何となくつらつら思っただけのことですが。

映画のネタバレはいつもの事ですが原作にも触れますのでご了承ください。

前の記事でも書いたけど、映画化になるなど夢にも思わず原作を読んでいた。まさかこれが映画化されるとはなあ。
というのは7歳くらいからローティーンまでの主人公の少年の性的な物語を映画にできるとはちょっと思えないではないか、それもアングラとかではなく。

で前に書いたように原作と映画は肝腎なところが違う。
監督・脚本・主演のアーシアは「大好きなリロイの小説を忠実に映画化した」と言っていて確かにそうなのだが、だのに全然違う。
その上で私は映画作品が非常に好きなのだが、原作に思い入れが強い人はかなりがっくりかもしれない。
なぜなら多分読者が一番読みたい(観たい)部分主人公の少年の性的虐待嗜好部分がなくなっているからだ。
映画だけ観ると幼い少年が鞭打ちなどの虐待を受け叫んでいるので可哀想と受け取る人が多いだろう。
でも小説ではジェレマイアはその「鞭打ちを受けたい」と願っている被虐嗜好の少年なのでまったく話は違ってくる。
それはジェレマイアが虐待を受ける事と愛情を受ける事を同一化してしまった、ということなのだろうが、それこそがこの小説の最も忌むべき核心なのである。
「少年が虐待して欲しいと願っている、という作品を世間で認めるわけにはいかない。児童虐待に歯止めが利かなくなるではないか」
アーシアは「児童虐待の場面はできるだけ控えた」と言っているのだが、それではこの物語の本質が消し去られたことにはなってしまう。

それはアーシア自身が幼い娘の母親で惨たらしい児童虐待シーンを赤裸々に演出するのは耐え難いものだったからなのか。
子供のいない男性(しかも同性愛的資質のある)ならもっと露骨な映画に仕上がっていたのだろうか。何となく「ターネーション」に似た感じになりそうである。
だが映画作者が女性且つ母親であったために映画は少年の性的嗜好を表現するのではなく、どこにも行き場がなく互いを頼りにするしかない母子の物語となった。一般基準の愛情とは程遠いがそれでも彼らは愛し合っているのだ。
そしてその自暴自棄な堕落振り、救いのなさは少年ではなく若さを失いつつある女を主体にすることで(あくまで少年の目を通してではあるが)より面白く深みのあるものになったのではないか、と感じている。

追記:「そして、一粒のひかり」と「サラ、いつわりの祈り」が似てる感じがしたのは主人公がマリアとサラという聖書でも馴染みの深い名前だからなのでもあった。
マリアは勿論、イエスの母マリアでサラは旧約聖書のアブラハムの妻で年を取ってから子供を産んだ女性の名前でしたね。
勿論聖書から取られた名前は多いわけですがどちらも母をイメージする名前なのでしょうか。
ラベル:家族
posted by フェイユイ at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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