映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2006年10月26日

神G侠侶・第13集

黄蓉に「師弟は夫婦にはなれない」と諭された小龍女は悲しみをこらえて楊過の側を去ることにした。
楊過が目を覚まさぬうちにそっと部屋を出たのである。
目覚めた楊過は姑姑の姿がなくそこに「もう私のことは探さないで」という置手紙があるのをみつけ慌てて外へ飛び出した。

楊過が小龍女を探しているのを見た金輪法王たちはこの隙にと黄蓉・郭芙一行を襲う。身重の黄蓉は万全の力が出せない。かろうじて石の陣をひいて抵抗していた。これを見た楊過は助けようとするが師父・小龍女なしでは楊過の力はまだ未熟なのであった。
楊過たちの危機を救ったのは以前も手助けをしてくれたあの謎の仮面少女であった。郭芙と武兄弟は傷ついた黄蓉を抱えて走り去った。
黄蓉たちを助けようと入った楊過が倒れたままなのは見捨てて行ってしまったのを仮面少女はあきれていた。そして彼女を姑姑と間違えて呼ぶ楊過を安全な家へ運んだ。

仮面少女は楊過を手厚く看病し何かと世話を焼いてくれるのだった。そして彼女は幼い頃陸無双と一緒に李莫愁にさらわれそうになったのを楊過に助けてもらった過去があるのだった。
これを聞いた楊過は驚く。
今、仮面の少女・程英は陸無双と一緒に暮らしているのだ。帰宅した陸無双は程英の仮面をもぎ取った。楊過は驚く。「醜いから」と言って決して仮面を取らなかったその顔は美しかったのだ。

陸無双は楊過に李莫愁から奪った「五毒秘伝」の書を見せ「これを覚えたら焼き捨てて」と頼み李莫愁から命を守るための刺繍入りの絹布を渡した。
そして程英も楊過に同じく半分に切られた命乞いの絹布を渡すのだった。

李莫愁は「五毒秘伝」を取り戻す為、陸無双が隠れているこの家をかぎつけてやって来たのである。まだ傷のいえない楊過を家に閉じ込め程英と陸無双は稚拙ながら布陣をしいて李莫愁を迎え撃とうというのであった。

どうにも郭芙たちは楊過を軽視していてむかっ腹がたちます。
金輪法王たちは弱い所をつけこんでくるのが情けないですね。
久し振りに登場の程英かっこいい。とうとう顔を表しましたね。やはり綺麗な人だったわけです。
楊過は美男だけに女性の助けが多いです。郭芙だけはどうしようもないですが。
ちまきが美味しそうでした。原作では小豆の入った甘いのと豚肉の塩漬けを入れた辛いのを楊過のために作る、とあってとても美味しそうです。
これは程英の故郷が江南で、江南のちまきは有名だからなのだそうです。



ラベル:金庸
posted by フェイユイ at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 神[周隹]侠侶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「迷迭香」のMVを垣間見る

スカパー!BBで「迷迭香」のMVの撮影風景(←クリック)が少し見れますね!

ジェイのダンス姿が素敵です。お婆ちゃんも大活躍ですね。この曲はジェイが大好きなお婆ちゃんのために作ったのですねー。うーん、納得。

それにしてもピアノを弾くジェイの指の綺麗な事!うっとりです。
posted by フェイユイ at 18:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「GELLY(ジェリー)」ガス・ヴァン・サント 再び

gerry.jpg

以前記事にした時は「どうにでも考えられる」みたいな風に書いたと思うんですが、今回最初からこれはゲイの世界を描いたものだと言うことにして観て行きました。

そう決めて観るととても判りやすいのですね。無論答えがどうなのかは知らないのでこれはあくまで私の勝手な解釈です。

主人公となる二人が二人とも「ジェリー」という名前でややこしいのでそのまま役者名で書きます。

ゲイであるマットとケイシーは(役名の代わりとしてですよ!)長い長い道を二人きりで車で走っている。周囲から疎外されている感じはあるが穏やかな音楽が流れていてそれほど不快感はない。でも二人に会話はなく視線を合わすこともない、何かを決心して行動しているようにも見える。
二人は車を降り「荒野の道」を歩きだす。反対方向へ家族連れが向かう。彼らは二人きり。最初は笑ったり楽しそうでもある。
すぐに道がわからなくなる。誰もいない誰も通る事のない荒野と砂漠。それはゲイとして生きていく運命を表現している。
より強く愛情を持っているのはケイシーの方だ。それは僅かに発せられる言葉で感じられる。
マットが「お前が嫌いだ」というと「本気で?」そんな会話から。
いきなりケイシーが高い岩の上に登っている。下にいるマットは驚きどうにかしようと思うがどうすることもできない。「飛び降りろ、抱きとめるから」ケイシーはそうして欲しいのだがマットのことを心配してそれができない。
二人は道を探し果てしなく歩き水飲み場=憩いの場を捜し求めるがどうしても見つからない。根無し草が二人を追いたて暑い日差しが二人を苦しめる。

あえてストーリーを書き連ねているのは以上の表現がゲイである二人が生きていくにはそういう体験・心理状態になるという事を映像化している、といいたいからだ。
そしてその状況は他の人間から見れば非常に馬鹿馬鹿しく非生産的に見えるということも。
ケイシーはマットに問う「あの山も越えるかい」そして泣く。たとえそうしてもそこに答えはないとわかっているから。
ケイシーはつぶやく「僕は最初から車のある場所も判っているし水も持っていた」マットは「また幻覚をみてるな」
それもまたケイシーが普通の場所へ戻る道を知っていると言っているのだ。

だが二人はさらに歩き続けとうとう倒れてしまう。ケイシーがマットに手を差し伸べる。助けを請うように。そのしぐさはこの物語の中で唯一心の動きを表しているようで悲しみに満ちている。
「もう駄目だ」
マットはそれをはねつけ彼の首を締め上げてしまったのか、と思ったがそうではなく力尽きた恋人を死へと送ってあげただけのかもしれない。
その光景はまるで二人が愛し合っているかのようにも見える。

ケイシーを殺した直後なぜか突然マットは普通の人が通る道が見える。そして普通の人の車に乗せてもらうのだ。
が、ここでもマットは不安げである。普通の人の所へ戻った、という安堵感がない。
マットの隣の席には可愛らしい幼い男の子が座っている。そして運転しているのは自分より年上らしい男の視線も気になる。
不安な思いを抱えたままマットは車の窓の外を見る。そこにはまだ果てしない荒野が広がっている。

というわけで自分勝手にゲイの心の不安と孤独を描いた作品だということでまとめてみました。
最初観た時はマットとケイシーの交流がまったくないのでとても悲しく思えたのですが(特にマットがケイシーの呼びかけを撥ね退けて殺した、と思ったので)あの時の二人の動き特にマットの動きはケイシーの誘いをそのまま受けて首を絞めているので愛するがゆえに殺したのかな、と考え直しました。
まあどちらにしても勝手に思い込んでいるだけですので。殺しちゃいけませんがすべてが何かを暗示している、という映像だと思いますのでそのまんま受け取っちゃいけません。

無論、こう思うのは監督のガス・ヴァン・サントがゲイだから、ということはありますね。ここでのマットとケイシーは大変監督好みの美少年に見えたりもしますし。

前回、感想が中途半端かなという気がして書いてみました。

「GERRY ジェリー」ガス・ヴァン・サント

「GERRY ジェリー」におけるマット・デイモンの魅力
posted by フェイユイ at 00:07| Comment(2) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。