映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2006年11月30日

「ジェヴォーダンの獣」クリストフ・ガンズ

ジェヴォーダン.jpgジェヴォーダン2.jpgジェヴォーダン3.jpg

数年前一度観た。面白い、と聞いて観たのだけどその頃私は完全に欧米映画に拒否反応を示してしたのでどうしても観切れなかった(カンフーのノリはあったのだけどね)
「サイレントヒル」がなかなかおもしろかったので再見してみることにした。

今回は呪縛も解けていたのですんなり楽しめた。「サイレントヒル」もそうだけどほんとに娯楽を追及した見やすい映画を作る監督だと思う。

フランス革命により処刑寸前の老領主が若き頃体験した「ジェヴォーダンの獣」ついて書き記していく、という語り口。百人もの女子供を殺したというジェボーダンの獣の秘密を暴く為に来た滅法強い博物学者と彼の命の恩人であるという新大陸から来たモホーク族の男。美しい貴族の少女と妖しい雰囲気の兄。娼婦の館にいる謎の美女、悪魔に憑かれているという(ジプシー?)の娘と老人などこういった物語に不可欠な要素がぎっしりつまっている。
みどころはアメリカモホーク族のマニ(マーク・ダカスコス)が見せるカンフー的武芸である。技も見ごたえあるが体が引き締まっていて見惚れてしまう。義兄弟の契りを結んだという博物学者フロンサック(サミュエル・ル・ビアン)も彼に習ったのか同じような武芸者である。
私として驚いたのがこれにも「アレックス」で共演していたカッセル・ベルッチ・夫妻が出演していたこと。
モニカ・ベルッチは謎の娼婦。うむ、また色っぽくて綺麗でしかもかっこいい。
そして妹にいけない欲望をいだいている隻腕の兄貴ジャン・フランソワがヴァンサン・カッセルであった。この時のヴァンサンは髪が長くて妖しい雰囲気の貴族を演じていて素敵だ。しかも体の真ん中に剣を貼り付けていてかっこいい。モニカに最後ぐさりと刺されてましたが(モニカが殺したわけではない)
物語自体をどうこう言う映画ではないが(それも「サイレントヒル」と同じだな)別に物語がどうこうしなくてもやはりおもしろいのだった。
「サイレントヒル」でも女性警官と主人公の最初のつながりが最後悲しい結果になってしまうが、ここでも主人公たちの善意がある意味悲しい結果へと導かれていく。
そして異常な宗教団体というのも同じである。こういう団体の幻想が恐怖を生み出すというのはよくあるがやはり怖い。

美しきマリアンヌは死んだのかと思っていたら語り手トマの回想で「二人は遠くへ行って」とある。これも不思議。

監督:クリストフ・ガンズ 出演:サミュエル・ル・ビアン、エミリエ・デュケンヌ、ジェレミー・レニエ、マーク・ダカスコス、ヴァンサン・カッセル、モニカ・ベルッチ
2001年フランス
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2006年11月28日

「アレックス」ギャスパー・ノエ

アレックス.jpg

実のところこの映画がもの凄く好きになってしまって逆に上手く話せない気がする。
久し振りに気になる映画を見つけた感じだ。
シークエンスごとに時間が逆進行するという手法も面白い。というか最初に、最後に流れるはずのクレジットが流れ出ししかも外国語とは言え裏返しの文字だ。しかも次第に曲がって斜めになっていく。
しょっぱなから凝った演出をする映画だなと思って観てたら、カメラが振り回されてでもいるかのように画面が揺れて揺れて薄暗く時折光が点滅し低い音が絶えず流れ不安な音楽も聞こえる、といった具合だ。
なんだか先日の「サイレントヒル」をもっと大人にした感じなのだが同じフランス人の監督だし恐怖と言うイメージが似ている部分もあるのかもしれない。

そして狭い部屋に裸の中年男ともう一人の男がなにやら物憂く話し合っている。
またもカメラは揺れていて不安で落ち着かない。太った男は「時はすべてを破壊する。・・・俺は娘と寝て刑務所に入れられた・・・」というような事を話す。このセリフは監督の前作品と繋がっているらしいが、それを知らない自分はますます不安な状態におかれてしまう。
彼らの部屋の下には「レクタム(直腸)」と言う名前のゲイクラブがあって騒ぎが持ち上がっている。
男が担架で運び出されている。酷い怪我をしているようだ。その片割れという男も警察に引っ張られていく。
何もわからない。

また激しく画面が揺れ赤い光で満たされている。神経を逆なでするような音が絶え間なく流れる。
不安定な画面のせいではっきりと観る事が難しいがゲイクラブの中と思しき男達の絡み合う場面が続く。
先程、運び出されていたはずの男が「テニア」という男を探して狭いがいつまでも続く店内を乱暴に歩き続ける。
この辺でおかしいと感じ時間が逆に流れているのかと勘ぐる。
しかし何の説明もされず繰り返し男がテニアの居場所を聞く。その事もまた酷くいらいらさせられる感じだ。
どうやらマルキュスと呼ばれるその男は復讐のためにテニアを探しているのだ。もう一人の男はピエールという友人らしくマルキュスの復讐を止めようとしている。
不安な音が続く。
マルキュスはある男と言い争いになり腕の関節をはずされる。それを見た友人ピエールがその男の頭に消火器をぶつける。男が倒れ、ピエールは何度も何度も消火器で顔に叩きつける。歯が折れ顔はぐちゃぐちゃにつぶれる。

何が起きたのかなぜ「復讐」がされたのか(しかも実は顔を潰された男は復讐の相手ではないのだ)なぜこのような惨い行動を見せられてしまうのか。
逆に流れる時間はこの後、その答えを教え始める。

マルキュスとピエールは復讐の相手を探している。マルキュスは酷く興奮している。

また時間がさかのぼりピエールは警察から質問されている。マルキュスは茫然としている。
ある男が近寄り「警察に任せても無駄だ。復讐をしろ」と問いかける。

マルキュスとピエールがパーティについて話しながら歩いている。「レイプだ」という声。
血だらけになった顔の女が運ばれていく。「アレックス」とマルキュスが泣き叫ぶ。女は彼の恋人だったのだ。

美しい女の後姿が扉を開け外へ出て行く。
女は薄い肌の露出が多いワンピースを身にまとっている。
道路の向こう側へ行く為に地下道へと進む。
そこで女=アレックスはゲイの男に絡まれ強姦されてしまうのだ。
低い位置に置かれたカメラがゲイ男とアレックスのレイプシーンを途切れることなく映し出している。犯された後アレックスは男に顔面を蹴られ殴られ血だらけになる。その間ずっと男はアレックスを罵り続けている。
惨たらしい場面だ。しかもカメラは定位置に置かれ惨く冷静に一部始終を見届けようとしているかのようだ。
美しいアレックスの顔が血まみれになる。

次々と怖ろしい状況を見せられしかもまだ何が起きたのかよくわからないのだ。
強姦された女性はモニカ・ベルッチが演じているのだが、ひどく美しい。レイプされた後後ずさる時の肩甲骨が印象的だ。
このシーンは男性のほうが嫌悪感を覚えるらしい。モニカ・ベルッチ演じる女性の方に感情移入してしまうらしいのだ。なぜか強姦男には肩入れしないという。私は女性だが特にどちらかに感情移入はせずに観た。しいて言えば現場を見て逃げた人影か(助けてやれよ)

この後、映像も語り方も変わりアレックスとピエールとマルキュスがごく普通にいる若者でしかしアレックスはかつてピエールと付き合っており、今はマルキュスと恋人同士であるという関係なのだと知る(フランス人ってほんとに女一人に男二人と言う関係が昔から好きなのだ。一体どれくらいこの組み合わせの物語を読んだり観たりしたことか)
二人の男は二人ともアレックスを愛しているのだが、二人も親友なのだ。
3人は愛とセックスについて笑いながら話し合っている。アレックスの言葉がその後に起きる怖ろしいレイプを連想させて皮肉な笑いを起こさせる。
そして映画の最後に映し出されることになる物語の最初の部分は美しいアレックスとマルキュスの優しい愛を交わすシーンである。
愛し合う男女の戯れるような場面はセックスをしているわけではないのだがエロティックであり優しさに溢れている。こんなに美しい男女の愛し合う場面はあまり観た事がないような気がする。
無論、この甘い恋人同士の場面がこの後に引き起こされる惨劇をより怖ろしく感じさせるのだ。
マルキュスは子供が欲しいと言い、アレックスは一人になった時妊娠検査をして喜ぶのだ。

そしてまたさかのぼりアレックスは将来の子供を思わせる「2001年宇宙の旅」のポスターの下にいる。
そして陽だまりの中で本を読んでいる。
この本も彼女に起きる事件を予感させる事になる。

眩しい白い光、点滅する光。「時はすべてを破壊する」という言葉。
これは「時はすべてを飲み込む」という言葉とどちらにしようかと迷ったらしい。なるほど。破壊するの方がこの映画的で合ってるけど、飲み込むの方がわかりやすい。
時は幸せな時間を破壊してしまうけど、不幸な時間も飲み込んでしまう。この言葉はすべてということだからどちらもいえるのだ。

人を飲み込んでいる怪物が時間を表しているという絵画があったよね。

監督:ギャスパー・ノエ 出演:モニカ・ベルッチ/アレックス、ヴァンサン・カッセル/マルキュス、アルベール・デュポンテル/ピエール
フィリップ・ナオン/元肉屋、ジョー・プレスティア/テニア
2002年フランス

追記:この映画はこの正視出来ないレイプシーンと暴力シーンに話題があるんだろうけどその犯人となる男がゲイであるということが「作者のホモ嫌悪」を感じさせ、そのことの方が気になった。
私は単に怪しげな雰囲気作りとより女性に侮蔑感を感じさせるための(余計まずいか?)の設定だと思っただけだけど(異性愛こそが自分にとって大切、というようなことを監督が語っていたし)
ゲイが犯人である、という設定の犯罪モノはかなりある。犯人の異常性を増すためにそういう設定にされちゃったりする。私も安易に感じて嫌になる時もあるのだけどね。
この映画に関してはその設定もゲイクラブや街娼の雰囲気でその設定も生かされたかな、と思ったのでした(これも人の受け取り方次第だよね、ま、何でもそうだけど)

追追記:モニカ・ベルッチとヴァンサン・カッセルはご夫婦だったのね。なるほど、それであの「愛」のシーンなのだ。色っぽいし、和んでたし。
ヴァンサン・カッセルは「オーシャンズ12」に出てたのね。見直さなきゃ。
posted by フェイユイ at 23:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

先週のジェイ情報(今頃?)

なんやかやで今頃アップしてもニュースにならないですが。

周杰倫『灌藍(ダンク)』で主演

こちらも

どんな映画になるのでしょうか。期待、期待。

そして2006年11月25日「第四十三届金馬獎」
最優秀作品は「父子」最優秀主演男優が「父子」の郭富城(アーロン・クォック)最優秀監督は陳可辛(ピーター・チャン)最優秀主演女優が周迅(ジョウ・シュン)最優秀新人賞は「盛夏光年」の張睿家(早く観たい!)

その時登場したジェイの姿
11月25日紅絨毯.jpg紅絨毯2.jpg

父子.jpg父子2.jpg
藤原父子です。
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2006年11月26日

「サイレント・ヒル」クリストフ・ガンズ

サイレントヒル.jpg
(ゲームのですね、これは)

こういうメジャーな映画を観る事はあまりないのだが(と言っても差し障りないかな)監督が「ジェヴォーダンの獣」の彼だと知り、興味がわいた。

結果、大変面白く観た。有名なゲーム・シリーズを映画化したものということで人気のほどは、と思ったがネット上を見ている限り評判がいいようだ。ゲームの愛好者にも高評価だったというのは凄いことかもしれない。

私自身はこのゲームどころかゲーム自体をしない者ではある。が、それでも映像がいかにもゲーム的展開をしていくのを感じたしそれはむしろ面白い体験であった。
少し前、小さなお化け屋敷に入ったことがあった。団体で行ったのだがその時連れがいず、一人で入ってみたのだ。
この映画自体がその時の体験とほぼ似たような雰囲気に感じたのだ。恐怖を演出すると自然同じモノになるのだろう。
薄暗がり、時折点滅する光、カンカンカンと響き渡る金属音、狭い廊下を通り部屋から部屋へ渡っていく。いきなり現れる怪物(暗闇の中で一人いきなり目の前に怪物が現れたら!顔がひきつった)などを思い切り堪能し心臓が縮み上がった。
そういう体験を思い出しつつ映画も楽しんだ。
娯楽映画として充分な演出をしていると思う。何か奥に深い意味があるとかは私には判らなかった(笑)もしあるのなら知りたいものだ。

ここでは大変楽しんでこの映画の特徴を挙げていってみよう(好きな特徴と言う事ではない)

まず、画面がホラー的に処理され美しい。
今ではもうこういう処理がされない映画はメジャーではないような。細かく降ってくる灰も薄暗い街も雰囲気がある。いつも思うけどカンカン照りだとかリゾートではホラーは駄目なのかな。

怖い体験をするのは母娘。
「ダーク・ウォーター」もそうだったけどやはり男がキャーキャー言うより女性の悲鳴を聞きたいわけだ。
昔は若い女性だったけど、今はマザコンとロリコンが観てるということかな。

なので男は役立たず。
男の人、すみません。巻き込まれたのも婦人警官だったし。男は活躍の場がない。しかしあの女性警官、気の毒だった。

あまり怖くない。
私は怖い話が好きなくせにホラー映画は苦手(笑)なのにあまり怖くない。出て来る「怖いもの」もそんなに怖くない。

残酷でもない。
残酷モノはかなり苦手だが、許容範囲。ということは凄いホラー&スプラッタを求めてる人には駄目かも。
観終わっても思い出して怖いとかもない。

児童虐待、いじめ問題、宗教など現代の問題点が織り込まれている。
ので判りやすい。受けやすい。入り込みやすい、ということである。

などなど。
あえてなにか言い出すならサイレントヒルへ行った3人は生きているのかな、ということである。
女性警官がバイクで転んで気を失っていたとか、夫への電話がうまく通じない、とかなんとなくもうこの世にいないような気にもさせる。
まあそういう勘ぐりもお楽しみの一つということで。

監督:クリストフ・ガンズ  出演:ラダ・ミッチェル、ショーン・ビーン、ローリー・ホールデン、デボラ・カーラ・アンガー、キム・コーツ、ターニャ・アレン、アリス・クリーグ、ジョデル・フェルランド
2006年カナダ・フランス合作(監督がフランス人なのでカテゴリは欧州に)

posted by フェイユイ at 21:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月25日

「トンマッコルへようこそ」パク・クァンヒョン

トンマッコル.jpgトンマッコル2.jpg

大変よくできた作品である。争いを笑いに変え、仲良くすることこそが大切だというシンプルなテーマを力強く訴えている映画だと思う。
韓国映画の特徴を生かした銃撃戦の壮絶さで戦争の悲惨さを表現し(相変わらず過激)また緊張感の中でおかしさを出していくのもまったく巧いものだと思う。私もすっかり笑い、そして涙も浮かべた。

ただしテレビで観た予告編から来るイメージがそのまま映画で表現されていて、敵対する南北朝鮮の兵士が桃源郷といえる「トンマッコル」という村で次第に心を開き兄弟と呼び合う関係になるという展開は予定調和そのままで最期の夢のような時間、少女が若い兵士の耳に花を飾るところまでこうであって欲しいという願いがそのまんま描かれ私としてはあんまり上手すぎるのかな、と言う気持ちになってしまった。

観る前に、新聞の社説に「トンマッコルへようこそ」は宮崎駿のアニメが取り入れられている、と書かれているのを読んで余計な情報を仕入れてしまった。
そう思って観たからそう見えるのか知らずに観ても感じたか、判断はできないが、平和なトンマッコルびとを表現する場面は宮崎駿そのまんまに感じてしまい閉口した。
私はほぼ旧石器時代的アニメおたくの類なので古くからのテレビアニメーターである宮崎駿の作品は自然と観ていた。テレビから抜け出し、劇場用アニメの製作者に変化されてからも観てきた。そしていつも凄く嫌になるのだ(おかしいといわれるだろうが義務的に観てしまうのだ。嫌いな理由は長くなるが、簡単に言うと登場人物や物語が自分の好みでないから。彼の考え方にも疑問を持っている)嫌な人のことは書きたくないから今まで書かずにいたのにここで書かざるを得なくなった。
きっと好きな人はこの映画を観ても逆にあまり感じないのかもしれない。だが宮崎アニメに対して嫌悪感を感じる者が観るとこれはきつい。出演者が皆アニメに見えてくるのだ。これでは純粋に映画を楽しめない。
影響を受けるのはしょうがないとしても演出技法がここまで宮崎アニメそのままでは辛い。
とは言え世界には宮崎ファンが凄く多くいるので私とは逆にそういった部分が心地よいのかもしれない。そういった意味でもこの映画は巧く出来ているのだ。(私だけがさぶイボを作ったからと言って大した損害にはなるまい)

もともとシン・ハギュンが観たかったのだ。彼は宮崎アニメには見えなかった。期待通り、それ以上のステキさだった。あのちょっといっちゃってる目つきがたまらなく好きなんです。

しかし本当に巧くできている映画である。立派なテーマ、笑わせる技術、迫力ある戦闘シーン、どれをとっても上手だね。

全然話は違うが(というか真逆だが)手塚治虫の「グリンゴ」を思い出していた。こちらの話なら大好きだ。どうなるのか知りたいです。

監督:パク・クァンヒョン 出演:シン・ハギュン 、チョン・ジェヨン 、カン・ヘジョン 、イム・ハリョン 、ソ・ジェギョン 、スティーヴ・テシュラー
2005年韓国
ラベル:平和
posted by フェイユイ at 16:19| Comment(4) | TrackBack(1) | 韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月24日

「黄金甲」アメリカ版ポスターにおけるジェイの後姿とお姐様方の胸

北米版ポスター.gif

「満城尽帯黄金甲」アメリカ版ポスターですか。ジェイの後姿も気になるがお姐様がたの胸が気になるわ(笑)(クリックして見てください)

と思ってたら、ジェイもやっぱり
周杰倫:セクシー鞏俐を「まともに見られません!」
いつまでたってもうぶなジェイでした(ぶってるだけか?ジェイだとほんとみたいな気がするよね)
チョウ・ユンファ、大人だね。かっこいい。

杰王子2.jpg
黄金の杰王子.jpg杰王子.jpg


ところでHMVさんからお知らせあった書籍「Jay Chou依然范特西 」って何?
posted by フェイユイ at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

 チャンネルNECOは中国武侠ドラマ枠「武侠ドラマ23(ツースリー)」を新設します!

武侠.jpg
「武侠ドラマ23」枠のロゴマーク

どぅいちゃんの「桃花島でまったり」を読ませていただき、年末から始まる武侠ドラマは「「神G侠侶」だけで終わるわけじゃないと知った!どぅいちゃん、ありがとう!
なーんと
「昨年1月より『射雕英雄伝』『天龍八部』『笑傲江湖』と、武侠ドラマを放送させて戴いておりましたが、これらはあくまで「特別番組」の扱いでした。
 今回の『神雕侠侶』も、基本の放送日は従来と同様の《毎週金曜日夜11時より2話ずつ放送》ではありますが、ここで一つ重大発表をさせていただきます。


 チャンネルNECOは中国武侠ドラマ枠「武侠ドラマ23(ツースリー)」を新設します!

 『神雕侠侶』はこの「武侠ドラマ23」第一弾作品となります。
 レギュラー枠を名乗るからには当然、「神雕侠侶」が終わっても別の武侠ドラマを続けていきます!(まだ作品名などの公表はできませんが…)」

ということなんですねー!→NECO「武侠ドラマ23」お知らせBlog
わわ!この後もどんなドラマが待ち構えているのか!気になります!これで日本にも武侠の時代到来!!

私は一足早くレンタルで観ておりますがこれでまた多くの方とお話できるのではないかと楽しみにしております(笑)

そして→「神雕侠侶」特設サイト
ラベル:金庸
posted by フェイユイ at 23:13| Comment(4) | TrackBack(1) | 神[周隹]侠侶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月23日

「神G侠侶」チャンネルNECOにて放送!

スカパー!チャンネルNECOで「神G侠侶」の放送が始まります!
といっても12月30日午後9:10からなので暫しお待ちを。

第1・2話と「ガイド番組」が無料放送ですぞ!
ラベル:金庸
posted by フェイユイ at 17:38| Comment(2) | TrackBack(1) | 神[周隹]侠侶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

周杰倫/滿城盡帶黄金甲(EP+依然范特西MV DVD) 【予約商品・12月8日現地発売予定】

周杰倫/滿城盡帶黄金甲(EP+依然范特西MV DVD)
【予約商品・12月8日現地発売予定】
巨匠・張芸謀(チャン・イーモウ)監督の「満城尽帯黄金甲」で周潤発(チョウ・ユンファ)、鞏俐(コン・リー)と共に主演した周杰倫(ジェイ・チョウ)のEP。ジェイによる映画の主題歌を収録したCDに加え、アルバム「依然范特西」全10曲のミュージックビデオを収録したDVDが付属予定です。
(ドラゴンCD鹿柴貿易公司)

ということです。楽しみ!!

yesasiaでは
posted by フェイユイ at 00:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月22日

「ゲッタウェイ」サム・ペキンパー

ゲッタウェイ.jpg

これもまた70年代アメリカの名作である。こちらは観た覚えがなかったのだが、この面白さというものは現在の映画には求めてもあり得ないような気さえする。
ペキンパーの作品を幾つか観てきたが、私が観たものはどれも男女の愛というのが重要なテーマになっていた。それも大人同志の愛情という感じ。
「ゲッタウェイ」では夫婦であるドク(スティーブ・マックィーン)とキャロル(アリ・マッグロー)の愛が描き出される。
刑務所に入れられたドクは4年間を過ごしたところで地方政界の実力者ベニヨンと取引し出所することになる。その取引とは出所と引き換えに銀行強盗をして奪った金をベニヨンに渡すというものだった。だが実際は妻キャロルがベニヨンと性的交渉を持ったからこそできた取引だったのだ。

事実を知ったドクは怒りキャロルに平手打ちをする。若い時観てたら、助けたキャロルを叩くドクに反発を覚えただけだろうが、今は二人の苦しみが判る(気がする)金を奪い、人を殺し逃避行を続ける二人。キャロルがいなければ駄目なんだと気づくドクとそんなドクを許し愛し続けるキャロルの姿に他にないほど見惚れてしまった。
ゴミ収集車に入り込みゴミ捨て場に放り出され汚れきって愛を語る場面は秀逸である。
そして悪事を働いた二人がメキシコへ逃げ延びたラストにほっとしてしまうのだ。

ラスト近くの有名な銃撃戦は多くの人を唸らせ模倣されていると思うが、この渋いかっこよさはたまらない。決して気をてらっているわけでもない演出なのだがリアルであってしかも惹きつけられる。
マックィーンの魅力は申し分ないだろう。無口で落ち着いた雰囲気なのにワイルドなのだ。何となく高倉健の持ち味に似てる気がする。
アリ・マッグロー、当時有名だったけど日本ではそれほど人気はなかった(ような気がする)気が強そうな割にはどたっとしたイメージだったのかな。今、観てるとこのキャロル役はとてもぴたりと決まっていて素敵だ。

さて、ペキンパーの映画の特徴としてメキシコへの憧れ、というものがあるようだ。息のつけないアメリカから自由なメキシコへと逃げる。特にこの映画ではメキシコで平和な家庭を築こうとする男女が極めて希望に満ちてトラックで走り去る。
美しいラストだ。

監督:サム・ペキンパー 出演:スティーブ・マックィーン、アリ・マッグロー、アル・レッティエリ
1972年アメリカ
posted by フェイユイ at 22:50| Comment(4) | TrackBack(2) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月20日

「フレンチ・コネクション」ウィリアム・フリードキン

フレンチ・コネクション.jpg

70年代アメリカ映画の屈指の名作。私は勿論テレビで観てた筈なのだがすでに細かい記憶はなく観るうちに「あーそうそう」と少しずつ思い出す。
とは言え子供が観るにはかなり渋い話でもある。刑事のコンビものと言うのは定番で人気もあるがなにせジーン・ハックマンとロイ・シャイダーという色気のないやつらだし(って私は二人とも、特にハックマンが好き)麻薬密輸組織を数週間に渡って張り込み尾行するという地道な捜索活動の部分が結構長いのだ。
今観るとそこら辺が面白いのだが、覚えているのはやはり派手なアクションシーンであった。
それと酷く寒い日に金持ちのヤク(昔はこう言った)取引の黒幕シャルニエが暖かいレストランの中でフランス料理を食べる間、街角で冷たくなってるであろうピザを食うしかないポパイ刑事(ハックマン)の姿である。薄い手袋をしていて靴をこすり合わせているのが辛そうだ(この日は本当に凍てつく寒さだったらしくハックマンの演技もそれだけではないようだ)

地味で暗い性格のクラウディ(ロイ・シャイダー)とどこかとぼけていて豪快なポパイの対比は楽しい。
この映画は実際の事件とそれに携わった刑事たちをモデルにしているそうだが、彼らのキャラクターも本人達とほぼ同じだと言うことで現実でもこういうデコボコな組み合わせがうまくいくものなのだろう。

この映画の特徴の一つはドキュメンタリータッチで撮られていることで全編ロケだということだ。
つまり実際の事件現場で役者たちがいきなり演技を始め何も知らされていないカメラマン達が考えながらその行動を追うことでドキュメンタリーらしくなるということなのだが、上手いと感心するもののカメラマン達の腕にこそ驚く。一体そんな風でこうもスムーズにいい画面が撮れるものか。
例えば高速道路の渋滞場面など断りもせず、勝手に渋滞を作って撮影したらしい。無論警察に怒られたという。物凄いことやる。
それだけでなく度々ゲリラ撮影を行っている様子。
そのために緊張感溢れる映像が生まれているが、限られた予算でなんとか作り上げる、という意味もあったのではないか(←ハックマンは予算のせいではないと信じたいそうだが)

それにしても実際のニューヨークの街並みが見れるというのも楽しいことだ。古びた雰囲気の街や行きかう人々の服装や髪型もいい。

カーチェイスだけでなく麻薬取引の黒幕シャルニエとポパイの地下鉄での駆け引きが面白い。シャルニエという人物がいかに食えない人物かと言う事がわかる。

そして有名な高架橋の下のカーチェイス。
ドイルを射殺しようとした殺し屋ニコリは失敗し電車で逃げていく。その電車を高架橋を見上げながら奪った車で追いかけるポパイ。
運転しているのはジーン・ハックマン自身で、サイレンを鳴らしながら行きかう車の中をぶっ飛ばしている。監督もサイレンつきで追いかけたらしい。周囲を走る車は一般の車両で2・3のスタント・カー以外は何の仕掛けもないという。いつ大事故になってもおかしくない。実際、すれすれの無傷で駆け抜けるはずのハックマンの車はスタントカーにぶつかってべこべこになる。それでも走り続けたのだ。
まったく尋常ではない。監督は青二才だからできた、とか。
命知らず、というのだろうか。

派手なアクションシーンに続く物語の最期は納得しがたい落ち着かないものとなっている。
黒幕であるシャルニエは大勢の警官に囲まれているにも関わらず無事帰国。手を組んでいたサルは捕まったものの減刑され釈放されているという。
フリードキン監督はこの顛末は麻薬犯罪組織と警察上層部の裏取引ではと考えている。なら一体ポパイたちの寝る間も惜しんでの捜索とはなんなのか。
映画はポパイ刑事がもうすでに姿を消したシャルニエに向かって発砲する音で終わっている。最期まで犯人の追跡をあきらめなかった刑事の執念の一撃だった。
しかもこの時ポパイは自分を否定し続けた上司を間違えて撃ち殺すのだ。空しい終わり方である。
命がけで働いても何を得ることもない。そうしたどんよりしたラストがポパイ刑事とこの映画を記憶に残すのかもしれない。
(この最期の場面は廃墟となった精神病院が舞台となっているらしく、足元もぬかるんでいるしじめじめして気持ちが悪い)

そしてこのポパイ・クラウディのモデルである本当の刑事たちは不正行為を訴えられ辞職したという。
監督が言うには人気者になった嫉妬の為、無実の罪を着せられたのだと。
ますます空しい。

監督:ウィリアム・フリードキン 出演:ジーン・ハックマン、ロイ・シャイダー、フェルナンド・レイ
1971年アメリカ

映画の冒頭に黒人差別を容赦なく口にしたり暴力に訴えるシーンがある。これには少なからずショックを覚えた。同時にジーン・ハックマンは平気でこういうことができるのか、とも思えてしまうからだ。
だが現実のハックマンはそのシーン(黒人を酷く殴りつける)はやれないと監督に訴えたらしい。監督はしょうがないのでその場面を後回しにしてクランクアップ直前すっかりハックマンがポパイになりきった頃にもう一度撮ったそうな。
今度は上手く殴れたと。監督曰く「ハックマンは豪快そうだが実は繊細なんだ」
posted by フェイユイ at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月19日

神G侠侶・第20集

地上に上がった楊過は続いて緑萼の母・千尺を引き上げる。緑萼の番になった時、楊過の姿を一翁が見つけ邪魔をする。
それを見た緑萼の母は動く事もできないが一翁めがけなにやら吹き付けて一撃で倒してしまう。
とどめを刺せという千尺の言葉に楊過は殺す振りをしてみせた。

館では公孫止と小龍女の婚儀が始まった。
公孫止が跪いた時、変装した老婆と緑萼、楊過が分け入って来た。
緑萼の母は兄である裘千仞を名乗った。だが公孫止は十数年前に裘千仞から「兄の千丈を郭靖と黄蓉に殺された為、自分は仏門に入る」という手紙を受け取っていたのだ。緑萼の母は初めて兄の死を知り嘆き、自分は公孫止の妻・裘千尺だと言い放った。
驚く公孫止。小龍女は楊過の無事を見て駆け寄った。

罵りあう公孫止と千尺。楊過はたった一粒の毒消しを姑姑に飲ませる。
公孫止は小龍女の変わらぬ楊過への愛を聞かされた上、恨みぬいた妻が戻ってきて破れかぶれで楊過に飛びかかる。
小龍女は今はもう恩人でもなく楊過の命を奪おうとした男に対して反撃する。だが楊過は毒消しを飲んでいないため、姑姑と組む玉女剣法ができない。
またも二人は公孫止の前に危うくなる。だが千尺が公孫止への恨みで公孫止の弱みを教える。公孫止に武芸を教えたのは千尺なので弱点を知っているのだ。さらに千尺は自分の血の入った茶を公孫止に飲ませた。
公孫家は生臭を口にすると閉穴内功が破られてしまうのだ。公孫止の穴道を攻めろと千尺は叫んだ。
かっとなった公孫止を千尺はなおも攻撃し片目を潰す。
公孫止は千尺を罵りながら外へと飛び出していった。

戦いは終わりいなくなった公孫止の代わりに妻である裘千尺が主となった。
小龍女と共に出て行こうとした楊過を裘千尺が止めた。
なんと今度は楊過に娘の婿になれというのだ。優しい緑萼は驚き無理を言うなら死ぬという。
裘千尺は婿になるなら毒消しを与えるという。薬はもう一つだけ裘千尺が持っていたのだ。
緑萼は母親の手をとって自分はどこへも嫁にいかないから毒消しを飲ませてあげてと頼む。ついに裘千尺も折れて「では結婚はしなくともよいから代わりに郭靖と黄蓉の首を取って来い」と楊過に言う。
これを聞いた楊過はその二人は自分の仇だ、言われなくても殺す。
裘千尺は喜び、では毒消しを半分飲ませよう、と言った。

裘千尺はやはり裘千丈・千仞の妹だったのですね。しかしあの二人も嫌な感じだったけど妹はさらに怖ろしいです。
ホントにこの演技は壮絶としか言いようがない。ここまでやれる人っていないよな。っていうか普通させない・・・物凄い執念と表情です。マジで怖いっす。
楊過と小龍女は美男美女だからこういういざこざ多そうですね。しかし当人達はお互いしか見えてないんだからもーあきらめようって。

公孫止。いやらしくてむかつくけど過去には裘千尺にいじめられたりとか結構辛かったのか。もう絶対、裘千尺との結婚を否定してるもんね。
親が悪いと子供はしっかりするってほんとかも。緑萼、今度はこの母親と一緒で苦労は絶えませんね。

しかしこの話もこうやってまた郭靖・黄蓉と結びついていくのですね。
ラベル:金庸
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2006年11月18日

神G侠侶・第18・19集

小龍女が楊過の姑姑だと認めたのはいいが、いちゃつく二人を見て嫉妬の炎めらめらの公孫止であった。(ここのとこの公孫止あまりにもミジメ)
ったくもうここまでべたべたしてるんだからいい加減あきらめそうなものなのに「一度決めたら必ずやり遂げる」と先生から褒められそうなモットーを掲げております、公孫止。
娘の緑萼は何度父親に怒られても逆らう悪い娘ですね、違うって。何でこの父親からこんな娘が生まれ育ったのやら。
本当は楊過が好きなのに小龍女を慕う姿を見て情にほだされ文字通り命がけで救おうとしてます。

楊過の姑姑である事を認め再びよりを戻した楊過と小龍女に公孫止は決闘すると言い出す。
楊過と姑姑は死ぬ時は一緒とばかり公孫止の剣房で「君子剣」と「淑女剣」と彫られた刃も切っ先もない剣の一対を選んだ。
だがその時小龍女はうっかり情花のとげを指先に刺してしまった。
心を通わせた楊過と姑姑の剣の前に公孫止も立ち向かう事ができない。が、突然小龍女が叫び声をあげて倒れてしまう。情花の毒がまわったのだ。
姑姑が力をなくしたために楊過も心を乱し、とうとう二人は公孫止に負けてしまった。

公孫止は楊過を捕らえて酷い事に情花のとげを全身に浴びせる。そして楊過の命が惜しくばと再び小龍女に結婚を無理強いするのであった。
そしてまたもまたも公孫止は娘の緑萼に小龍女の準備をさせる。懲りないお方だ。そしてまた緑萼は楊過を助け出し、情花の毒消しを隠し場所から取り出そうとする。が、解毒剤はその場所にはなかったのだ。
驚き慌てる緑萼の前に公孫止が(楊過はその時2階にいたのでこの時点では見つかっていない)
娘を訝しがる公孫止に緑萼は服を脱いで潔白を示す。それでも公孫止はこの谷の掟だ、と言って裏切った娘に剣を振りかざす(こんなにけなげな娘に酷い父親なのだ)
たまらず楊過は2階から飛び出し、緑萼を助けようとした。だが降りた床には公孫止が仕掛けた深い穴が掘られていた。
落ちそうになった楊過を助けようとする緑萼を父親・公孫止は突き落とすのだ(なんという父親だ!むかつく)
穴に落ちた楊過と緑萼はなんとか命は落とさずにすんだ。が二人は洞窟の水の中の小さな岩の上にしがみつくしかなくそこには鰐がいたのだった(よく下水溝に鰐が住んでるというあれですね?違うか)襲ってくる鰐から楊過は緑萼を守る。
その時楊過の服の中から薬壜が。それこそが探した情花の解毒剤だった。実は周伯通が逃げ出した時、盗んだそれを楊過の服の中に隠していたのだ。
が緑萼がこの解毒剤は一粒しかないと言うと楊過はそれを飲むのをやめた。緑萼は楊過の愛の深さに感心し自分の父親の薄情さを嘆いた。

二人は洞窟の奥に人影を見る。それは座り込んだままの白髪の老婆だった。
楊過と緑萼が名乗ると老婆は泣き出しお前は愛しい我が娘だと言う。緑萼もはっとし老いさらばえた母親を抱くのだった。

その頃公孫止は小龍女をあきらめず部屋を訪れ優しげな言葉で話しかけた。そして自分は前の妻を深く愛し、亡くした後は長く妻を迎えずにいた。妻によく似たあなたを見て愛したのだ、と言った。小龍女は前の奥様に似ているから私を愛したのなら石像を作って愛してください。そうすれば誰にも迷惑をかけません、と言う。ふふ、小龍女も素直に話してしまう人格なのでおかしいです。

そして緑萼の母親、つまり公孫止の亡くなったはずの元妻は裘千尺といい、武芸の達人だった。かつては公孫止に嫁ぎその武芸を教えたという。
だが公孫止の浮気を罰した事で彼に復讐されこの穴に落とされたと話した。その時両手足の筋をきられたので身動きもできずそばにあった棗の実で生き延びたという。楊過が身動きもできないのに?と問うと老婆は奇声を発し棗の実を落とした。内功が発達したのだと言う。
棗の木を見て楊過はこれを利用して地上に出られるかもと言い、木の上に登り綱を作って地上へと登っていった。
地上に出た楊過を見て老婆は緑萼に「逃げるかもしれない、男を信じてはいけない」と言った。

これも綺麗な緑萼の母親とは思えない老婆さん。寛平ちゃんかと思いました。一体緑萼は誰に似たのか。容姿だけじゃなく心も随分捻じ曲がっています。まあこんな酷い目にあったらそうなるだろうけどその前から浮気した二人を酷い目に会わせてますしね。物凄い両親から生まれた心優しく可愛い娘です。
公孫止、いい話で小龍女の心をなびかせようとして失敗。うぷぷ。エロ親父め。
金輪法王の仲間達からも小龍女には不釣合いの親父だ、と笑われてます。
ラベル:金庸
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2006年11月17日

チョン・ウソンが日本の火災予防ポスターに!

火災予防.jpg

秋の火災予防運動

映画「サッド・ムービー」で消防士として登場するチョン・ウソンが抜擢された。
日本を活動の拠点としない海外有名人が起用されたのは初めてのことらしい。

スーパーでこのポスターを見たよ。かっこいいですねー。
チョン・ウソンは私が韓国映画で最初にかっこいいと思った男性なのです。いや、チェ・ミンスとペアで、ですが。
その映画は「ユリョン」なんですけどね(チェ・ミンスとの絡みが色っぽいのだ)
次に「武士」を見てさらに美形の印象が確立されました。
しかし私はその前にレスリー・チャン&アンディ・ラウの「上海グランド」でその姿を見てレスリー&アンディそっちのけで(す、すまん)「なんつう美男子、誰?」となっていたのでした。

韓流ブームになぜかチョン・ウソンは乗ってなくてなぜこのハンサムが?と思っていたのですが、ここにきて人気出てきましたね。
私は逆に最近全然観てないんで何も言えませんが(ごめんなさい)
と、とにかく美形なのは相変わらずです。
皆さん、火災には気をつけましょう!



posted by フェイユイ at 23:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月16日

神G侠侶・第17集

牢から抜け出した周伯通(老頑童)は瀟湘子に変装し一翁相手に大暴れ。いつの間にか楊過の鋏を盗んで一翁の長い髭を切り落とそうとする。
楊過に変装を見破られ周伯通は元の姿に。公孫止から盗んだ宝を返せと言われどこに証拠がある、とパンツの中を娘達に見せてまわる。「恥知らず」という公孫止に「その年で嫁をもらう方がよほど恥知らずだ」と畳み掛ける周伯通。相変わらず面白い。向かうところ敵なしです。
その場を逃げ出した周伯通を楊過は追いかけた。

周伯通を追いかけ森の中で楊過が見たその人は、探し続けた小龍女その人であった。
懸命に呼びかける楊過に対し、姑姑はまるで何の反応も示さない。
そこへ金輪法王たちと公孫止も集まってきた。
姑姑と呼び続ける楊過に公孫止は人違いだと決め付ける。そしてその人が自分の花嫁なのだと告げるのだった。
小龍女を知っているはずの金輪法王もよく判らなかった、と言うばかり。
楊過は腑に落ちぬまま、祝宴に出ると答えた。

花嫁の支度をせねばならない小龍女の心は塞いでいた。
楊過はどうしても姑姑にしか思えないその人に会おうと広い屋敷内の森を彷徨っていた。
そこへ公孫止の娘・緑萼が話かけた。姑姑(叔母)を慕う楊過を咎めながらも彼の話を聞き、同情する。だが必死で追いかける楊過に気づかない彼女は姑姑ではないのかも、と言う。
楊過は長い間一緒に暮らした姑姑を間違えるはずはない、と返した。そして楊と言う字が柳という意味もあると思い出し、それで彼女が柳を名乗っているのだと合点する。
どうか姑姑にあわせてくれと頼む楊過に緑萼は娘には厳しい父を思い出し怖れてしまう。
が、きっと探し出す、という楊過に負けて小龍女を呼び出してくる、と約束した。

緑萼は小龍女を森へ散歩しようと誘い出す。咲き乱れる情花を見て小龍女は楊過の姿を思い出す。それと共に「結婚すれば苦しみを忘れる」と言った公孫止も思い出し、苦しい声を上げた。
その背後に楊過はいた。
楊過は姑姑にすがりつく。小龍女は知らないと言うばかりなのだ。
そこへまたもや公孫止達が追ってきた。
花嫁にすがりつく楊過に「二度と現れるな」と言う。楊過は絶対に姑姑からは離れない。一生側にいるのだと言って聞かない。
愛しい人のことを思うと苦しむ、という情花の毒で楊過と小龍女じゃ血を吐く。楊過は取り押さえられ、小龍所は公孫止が連れて行こうとする。

引き離そうとする一翁の髭を楊過は鋏で切ってしまう。一翁は怒りさらに楊過を攻め立てる。楊過はこれと戦った。

楊過が必死で求めているのに知らないとばかり言っている小龍女。彼のことを慮ってとはわかっていても少々じりじりしますね。
公孫止、頭にきます。周伯通の言うとおりですね。
どのドラマに出ていても周伯通は最強ですな。
ラベル:金庸
posted by フェイユイ at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 神[周隹]侠侶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

え?ヒデがジョウ・シュンと?!

ジョウ・シュンf.jpg

中田英寿が中国女優・周迅と北京児童施設訪問

なんだかいかがわしいゴシップの見出しみたいになってしまったが、結構中田の動向が気になってはいるのだ。
その彼がなんと周迅とファッションイベントで知り合って児童施設の訪問をしたとは。
無論、ヒデはサッカーボールで子供達を喜ばせたようですが。いろんな国の子供達との交流をしている中田。これから何をしようとしてるのか。
そして周迅との関係は?
あまりにもミーハーでしたか。すみません。

ところで今私の「藍空」では周迅人気なのだ。うれしい。前は何もなかったのにねえ(感涙)
やはり「ウィンターソング」の影響でしょうか?もっと日本でも人気が出ていい女優さんです。
ラベル:ニュース 周迅
posted by フェイユイ at 21:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月15日

「サラ、いつわりの祈り」のJ・T・リロイの真実は

ご存知の方が多いのかもしれないが「サラ、いつわりの祈り」の原作者J・T・リロイが架空の人物だと今日初めて知った。

先刻やっていたテレビ番組を見たんだけどね。勿論、これで発覚したわけではなく例えば「架空の天才作家の誕生秘話を映画に」というような感じであったのだ。

知らずに記事を書いてたということもあって、一応、報告まで。



posted by フェイユイ at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「ココシリ」陸川(ルー・チュアン)

ココシリ.jpgココシリ2.jpg

この映画も再見したいと願っていた。「藍空」に書いた記事は2004年の11月だから2年がたってしまった。
輸入盤のDVDは他にないほど映像が悪く従って中文字幕も全然見えなかった。この時の記事はよく見えない画面を眺めていただけのものだったのでおざなりもいいとこだ。
2年たってクリアな画面と日本語字幕で観る事ができた。

そして愕然としてしまった。これはただ美しい風景の中の単純な感動物語ではなかったからだ。
ルー・チュアン監督は突き進む男たちを皮肉をこめた目でしかし愛情を持ちながら見ている。
以前の記事で私は『ルー・チュアン監督は「数年前にチベットカモシカの密猟者を取り締まる民間パトロール隊が設立されたが、初代と2代目はパトロール中に命をおとしている。なぜ彼らは無償でそこまでするのか知りたくて映画を作った』と書いている。
それは監督がそういう彼らに感動してこれを作ったのかと思っていたのだ。
だがこれはなんだか違う。

確かに感動ではあろう。何の報酬も名誉もなく命を賭して密猟者を追い続ける男達の姿には。
だが密猟者と民間パトロール隊の攻防は常軌を逸した空しさばかりがつのり、多くの人が賛辞している様な「気高き男達の戦い」というものではないのだ。
適当な言い方だが何となく大友克洋の初期の頃の劇画(今の彼の作品を知らないだけなんですがすみません)を思い出してしまった。
むさい男達が懸命に走り回るが何か空しい、という劇画をよく描かれていたような印象があるからだが。
いきなり撃たれる様なリアルさも大友っぽい。
ま、それは余談。

極めて男らしい風貌の隊長から下される命令。隊長を尊敬し無償にも拘らず命を捨ててパトロールを続ける部下達のけなげさはストーリーが進むにつれ次第に疑問符が浮かんでくる。「なぜ彼らは無償でそこまでするのか知りたく」もなる。
最大の疑問は「どこからも金をもらえない彼らは密猟者が獲ったカモシカの皮を売ってパトロール隊の資金を得ているが、それでいいの?」ということだ。しかも隊長自身がそれを進んで行っているのだ。
これでは本末転倒だ。あまりにも滑稽ではないか。
後は水商売をしている女性から金をせびることで資金を捻出。男の中の男?

そして隊長は男の意地で密猟者を深追いし厳寒の山道を歩ませる。密猟者も仲間達も命を落としついには自らも密猟者に撃たれる。その最後まで彼は密猟者を捕まえるという信念に燃えており多勢に無勢の状況すら把握できないまま死を迎える。

無論、ルー・チュアン監督は彼らを単に間抜けな存在として笑ったわけではない。
一つの使命を胸にした男達が懸命になれば懸命になるほどおかしくなっていく姿に人間の悲哀を感じてしかもかなりユーモラスに描いているのだ。
それは同監督の「ミッシング・ガン」にも表現されていたものだ。

最もおかしく思えたのはパトロール隊が空気の薄い高山でハアハアいいながら密猟者を追う場面。
極めて厳粛な面持ちにも関わらずズボンを脱いでパンツ姿で髪を振り乱しながら追いかける場面。笑ってしまう。
しつこいが大友克洋の劇画そのまんまだ。
壮大な自然の美しさを背景にここまで男の悲しいおかしさを表現したルー・チュアンはやはりスゲエ監督なのだ。

満天の星空を見上げ「町に戻るとココシリに帰りたくなるんだ」という男達よ。
流砂に飲み込まれてしまった男よ。
今はココシリに抱かれ安らかに眠っているのだろうか。

監督:ルー・チュアン 出演:デュオ・ブジエ 、チャン・レイ
2004年中国

チベットの秘境「ココシリ」海抜4700m、零下20℃、空気は地上の1/3。そこに生息するチベットカモシカの高級毛皮を狙う密猟者とそれを追いかける民間パトロール隊の壮絶な17日は実話を元にしている。

現在「ココシリ」は自然保護区となり森林警察が誕生し、民間パトロール隊は消滅した。カモシカの数も次第に回復したのだという。

「ココシリ」は「青い山々」もしくは「美しい娘」の意味。
ラベル:
posted by フェイユイ at 22:24| Comment(0) | TrackBack(2) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月14日

「ぼくを葬る」フランソワ・オゾン

ぼくを.jpg

映画というのは多かれ少なかれファンタジーである。後はそのファンタジーと現実の調合がどのくらいか、そしてどんな種類かで観客は好き嫌いを決める。

昨日の「イノセント・ラブ」の後これを観たのは偶然なのだが続けて観れたのは面白いことだった。
原作も読んでいた「イノセント・ラブ」と逆に本作のことは「死ぬ前の男性の映画」としか知らなかった。あるいはゲイの男性の話だとは聞いたことがあったかもしれない。
この二つはまったく違う話だが、設定や素材やらがなんとなく重なっている。それでいてやはりまったく違う。
「ぼく・・」の主人公ロマンと「イノセント」のジョナサンは同性愛者であり、麻薬をしばしば使用している。
違っているのはロマンは家族にもゲイであることを最初から公表しており恋人サシャとの関係も皆が知っている。そのことに罪悪感はないように見えることだ。
「イノセント・ラブ」は非常にファンタジー性が強い物語である。リアルに感じさせてはいるが全体が魔法にかかっているようだ。
こちらの「ぼくを葬る」は現実が強く、その為見るものは苦痛を感じる。死への恐怖、孤独感がたまらなく恐ろしく思える。

「ぼく・・」での主人公はある日突然死の宣告を受ける。非凡とまではなくとも順調に仕事をし人生を楽しんでいた彼はそれまでの自分というものを考えこれからの短い人生をどうするのか、考えねばいけなかった。

姉と上手くいっていなかったロマンは姉に仲直りを申し出る。そしてロマンは疎ましくいた姉とその赤ん坊の睦まじい姿をカメラに収めるのだ。
そしてひどい言葉で別れを告げた恋人に復縁を頼む(酷い言葉は病気のためにわざと言われたものだろうが)断られてもただ彼の手で自分の鼓動を感じさせるだけだった。
淡々と現実的に身の回りの整理をするロマンにファンタジーが訪れる。それは見ず知らずの女性からいきなり「子どもを作って欲しい」と頼まれる、ということだった。
彼女は不妊症の夫がいるがどうしても子どもが欲しい。それで感じのいいロマンに子供を作るための相手になって欲しいというのだ。
これはさすがに現実では起こりえないことではないか。同性愛者であるロマンにとって子供を作る為にはこういう魔法が必要だった。
(しかしこれは男性だからこそできることだ。この立場が女性だったら無理だもの。
しかし見ず知らずの男性からいきなり子供を作って欲しい、と頼まれる場合ってのも無理だよね。
「ガープの世界」みたいに死にそうな男に乗っかって子供を作っちゃったってのはあるけど)
「子供は嫌いだ」と一旦は断ったロマンだが幼い日の自分を思い出し、子供作りを引き受けた。
父親が二人で母親が一人、というのも「イノセント」と同じだが、こちらでは主人公とあとの二人の間には愛はない。

そうだ、この二つの作品の一番の違いはボビーがいないことだった。
ロマンの恋人サシャはボビーではない。復縁を頼まれてもサシャはもう終わったこととロマンを突き放す。

ロマンはただ子供を欲しがる女性への親切というだけでセックスをしたわけではないだろう。それで彼のDNAが残される、という思いだったに違いない。ただ彼らの間には何の思い出もなく彼の子供だという証は遺産でしか伝わらないのだ。
ボビーに見守られながら死への旅路を行くジョナサンと違いロマンは一人で死を迎える。
ここにも不思議な相似点がある。原作のほうだが「イノセント・ラブ(原題「この世の果ての家」)ではラスト死を迎える二人が冷たい湖に入る。
「ぼくを葬る」ではロマンは海で泳ぐ。あがってきたロマンは寒さに震えている。
この共通項も面白い。水に入ることはやはり禊をあらわすのだろうか。それとも死に直面した時、胎内を思い出させる水の中へ入りたくなるのだろうか。

「ぼく・・」の中のロマンは結局一人で死を迎える。
一人きりで身の回りの整理をし、子孫を残し海に入ったロマンの死は私にはきっぱりとして心地よく感じた。

監督:フランソワ・オゾン
脚本:フランソワ・オゾン
製作:オリヴィエ・デルボスク、マルク・ミソニエ
出演:メリヴィル・プポー、ジャンヌ・モロー、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ
2006年フランス

「イノセント・ラブ」ではシシー・スペイセクに喜んだが、こちらはジャンヌ・モロー。かっこいい。死に行くしかないロマンに強く立ち向かうことを教える祖母を演じている。
posted by フェイユイ at 17:44| Comment(4) | TrackBack(1) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月13日

「イノセント・ラブ」マイケル・メイヤー(「この世の果ての家」マイケル・カニンガム脚本)

イノセント・ラブ.jpg

実を言うと私としてはマイケル・カニンガムの小説にそれほど傾倒しているわけではないし、コリン・ファレルが大好きでたまらない、というわけではないのでのめりこんで観てしまったわけではない。
それでも色々と非常に興味深い作品であった。

原作と映画は違うもので比べてみるものではないと判ってはいるが小説を読んでしまった以上どうしてもその違いについて考えてしまう。
ましてやこの作品は脚本を原作者自身が書いているのだからどうして違いがでてしまったのか考えないわけにはいかない。

映画の冒頭部分からこれは随分原作と違う、と感じてしまった。
切り捨てられた部分の事ではなく小説の中の雰囲気というものが映画からは感じられなかったのだ。
その思いは映画が進むにつれ強くなりあの胸が締め付けられるような悲しさ、というのはこの映画で表現されたのだろうか。人にそう伝わっているのだろうかと思ってしまった。
なぜこういう風に変えてしまったのか。

原作で感じたのはどこにも行き場のないような者たち、普通の家庭という中に入りきれない者たちが寄り添って生きるような悲しさと暖かさだ。
小説ではジョナサンとボビーがエイズにかかって余命いくばくもないエリック(ジョナサンの恋人だった)と一緒に冷たい湖に足を浸す所で終わっている。
その冷たい水から早く上がれとジョナサンとエリックを見守るボビーの優しさが感じられる。
苦痛でしかない水の冷たさは人生または死を思わせそこへ足を浸そうとする
ジョナサンとエリック、そしてそこから助けだそうとするボビーの姿は献身的で胸をうつものがある。
入れ込む、というまではなくともこの小説からそういった美しさを感じ取ったものだ。

だが映画ではエリックという存在が消去されてしまっている。これだと最後はただ単にジョナサンとボビーの恋人同士、という感じになってしまって
寄りそって作った家族というイメージが失われてしまう。
とんでもない気がしたがなんと脚本はその原作者であるマイケル・カニンガム本人なのだ。
ということは本人としては小説と映画をまったく同じモノにしたくなかった、違う作品として生み出したかったという事なのだろうか。
つまり「こういう映画」「小説とは違う作品」にしたかった。
小説は多分これ以上ないほどの美しい仕上がりとなっているのだ。
映画ではまた違う何かであって欲しかったのか。

またいつものように自分勝手な考えを書いていく。
正直に言うと小説を読んでいる時、私にとってはクレアとエリックが邪魔で、
「この二人がいなけりゃボビーとジョナサンは二人きりなのにな」と下賤な事を考えた。
まあそれじゃ普通の恋人同士の話になってしまって原作に表現されている異端の家族の話ではなくなってしまう。
物語のテーマを覆してしまうのだけど不謹慎にもそう思ったわけ。
そしたら映画ではお望みどおりクレアは去り(原作でも去りますが)エリックは出てこない。
一体これは???
まさかカニンガム氏本人も私同様ボビーとジョナサンを早く二人きりにしたかったのか。
ここではジョナサンがエリックの代わりにエイズ(と思われる病気)にかかっているような状態で終わっている。彼は病院に行きたがってないので不安は大きい。
だがそれもどうなるかは不明のままである。
彼らにはまだ時間があるかもしれないし、それはわからない。ただ人生は不確かで結局どうなるかはわからないのだ。

何を言いたいのか、ちっとも伝わってないと思うけど(自分でもよくわからない)カニンガム氏がこの映画ではボビーとジョナサン二人の関係をより強く出したかったのかもしれない。それは私も原作を読んだ時点でそう願ってしまった、ということ(回りくどいよな私はほんと)

この映画の最後は小説に負けないほど好きである。
小説では4月だったがここではまだ冬だろう。息が白く寒そうだ。
そんな凍てつく日にボビーとジョナサンはジョナサンの父親の遺灰を野原に撒き家路につく。
ジョナサンが先に家にむかいボビーがそれを見守っている。ジョナサンが家に入ってしばらくすると2階の右側に灯りがともる(この時ジョナサンの影がまだ1階に見えるのはどうしてだろう。一階にスイッチがあるのだろうか)
やがてボビーが家に入る。しばらくして2階の左側に灯りがともる。
さて二人は別々に寝たんでしょうか。
それとも?(クレアがいるように灯りをつけ二人は同じ部屋に、
さあ、どうでしょうか)

ジョナサンの母親をシシー・スペイセクが演じている。うまい。
もう少し彼女をじっくり観ていたい。
ボビーの少年時代の子、可愛くてうまいのに眉毛と髪型が。
こればかりは思わず微笑まずにはおれなかったのですが
いいんでしょうか、あれで。

コリン・ファレル、特に大好きではないんだけど、あの目でじっと見つめる
のは反則だよな。物凄く女性にもてるの納得の必殺眼力です。(ゴリラ落しくらいある)
特にこのボビーは純真で一途な若者ということでどうしようもないくらいセクシーです。
真面目なのがセクシーというのは普通あまりいわないのかもしんないけど私にはこういう無骨な感じが一番セクシーなの。
ちょうど何も知らない少女に一番エロを感じる狒々爺と一緒ね。
ボビーとジョナサンのダンスシーン、男同士のダンスシーンと言うのは幾つかあれどこれも名場面ですね。

監督:マイケル・メイヤー 出演:コリン・ファレル 、ロビン・ライト・ペン 、シシー・スペイセク 、ダラス・ロバーツ 、マット・フルーワー 、エイジア・ヴィエーラ
2004年アメリカ

ところでこの最後を見ていると特に映画のほうは、金庸の「笑傲江湖」や「神[周鳥]侠侶」「射[周鳥]英雄伝」を思い起こさせるのですね。
こちらは男女ではあるけれど禁じられた恋人同士で世を捨てて生きていく感じが似ています。
こういう人生観が好きで惹かれます。武侠の世界?
ラベル:同性愛
posted by フェイユイ at 22:11| Comment(6) | TrackBack(1) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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