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2006年11月14日

「ぼくを葬る」フランソワ・オゾン

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映画というのは多かれ少なかれファンタジーである。後はそのファンタジーと現実の調合がどのくらいか、そしてどんな種類かで観客は好き嫌いを決める。

昨日の「イノセント・ラブ」の後これを観たのは偶然なのだが続けて観れたのは面白いことだった。
原作も読んでいた「イノセント・ラブ」と逆に本作のことは「死ぬ前の男性の映画」としか知らなかった。あるいはゲイの男性の話だとは聞いたことがあったかもしれない。
この二つはまったく違う話だが、設定や素材やらがなんとなく重なっている。それでいてやはりまったく違う。
「ぼく・・」の主人公ロマンと「イノセント」のジョナサンは同性愛者であり、麻薬をしばしば使用している。
違っているのはロマンは家族にもゲイであることを最初から公表しており恋人サシャとの関係も皆が知っている。そのことに罪悪感はないように見えることだ。
「イノセント・ラブ」は非常にファンタジー性が強い物語である。リアルに感じさせてはいるが全体が魔法にかかっているようだ。
こちらの「ぼくを葬る」は現実が強く、その為見るものは苦痛を感じる。死への恐怖、孤独感がたまらなく恐ろしく思える。

「ぼく・・」での主人公はある日突然死の宣告を受ける。非凡とまではなくとも順調に仕事をし人生を楽しんでいた彼はそれまでの自分というものを考えこれからの短い人生をどうするのか、考えねばいけなかった。

姉と上手くいっていなかったロマンは姉に仲直りを申し出る。そしてロマンは疎ましくいた姉とその赤ん坊の睦まじい姿をカメラに収めるのだ。
そしてひどい言葉で別れを告げた恋人に復縁を頼む(酷い言葉は病気のためにわざと言われたものだろうが)断られてもただ彼の手で自分の鼓動を感じさせるだけだった。
淡々と現実的に身の回りの整理をするロマンにファンタジーが訪れる。それは見ず知らずの女性からいきなり「子どもを作って欲しい」と頼まれる、ということだった。
彼女は不妊症の夫がいるがどうしても子どもが欲しい。それで感じのいいロマンに子供を作るための相手になって欲しいというのだ。
これはさすがに現実では起こりえないことではないか。同性愛者であるロマンにとって子供を作る為にはこういう魔法が必要だった。
(しかしこれは男性だからこそできることだ。この立場が女性だったら無理だもの。
しかし見ず知らずの男性からいきなり子供を作って欲しい、と頼まれる場合ってのも無理だよね。
「ガープの世界」みたいに死にそうな男に乗っかって子供を作っちゃったってのはあるけど)
「子供は嫌いだ」と一旦は断ったロマンだが幼い日の自分を思い出し、子供作りを引き受けた。
父親が二人で母親が一人、というのも「イノセント」と同じだが、こちらでは主人公とあとの二人の間には愛はない。

そうだ、この二つの作品の一番の違いはボビーがいないことだった。
ロマンの恋人サシャはボビーではない。復縁を頼まれてもサシャはもう終わったこととロマンを突き放す。

ロマンはただ子供を欲しがる女性への親切というだけでセックスをしたわけではないだろう。それで彼のDNAが残される、という思いだったに違いない。ただ彼らの間には何の思い出もなく彼の子供だという証は遺産でしか伝わらないのだ。
ボビーに見守られながら死への旅路を行くジョナサンと違いロマンは一人で死を迎える。
ここにも不思議な相似点がある。原作のほうだが「イノセント・ラブ(原題「この世の果ての家」)ではラスト死を迎える二人が冷たい湖に入る。
「ぼくを葬る」ではロマンは海で泳ぐ。あがってきたロマンは寒さに震えている。
この共通項も面白い。水に入ることはやはり禊をあらわすのだろうか。それとも死に直面した時、胎内を思い出させる水の中へ入りたくなるのだろうか。

「ぼく・・」の中のロマンは結局一人で死を迎える。
一人きりで身の回りの整理をし、子孫を残し海に入ったロマンの死は私にはきっぱりとして心地よく感じた。

監督:フランソワ・オゾン
脚本:フランソワ・オゾン
製作:オリヴィエ・デルボスク、マルク・ミソニエ
出演:メリヴィル・プポー、ジャンヌ・モロー、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ
2006年フランス

「イノセント・ラブ」ではシシー・スペイセクに喜んだが、こちらはジャンヌ・モロー。かっこいい。死に行くしかないロマンに強く立ち向かうことを教える祖母を演じている。


posted by フェイユイ at 17:44| Comment(4) | TrackBack(1) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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