

今回は映画より小説に焦点をあてながら話を進めて行きたい。
しかし結局昨日の如く支離滅裂になることは請け合い。
映画「ギャツビー」を再観し一度は目を通したはずの小説「ギャツビー」を読み直す。これは野崎孝訳であった。村上春樹氏は「永遠の名作はあっても、永遠の名訳はない。」と言われている。訳というのは時代を経つにつれ古臭くなってしまうからということだ。
確かにそういったことはあるだろうが、私自身が旧い人間であるがゆえか1974年のこの訳にさほど違和感は感じなかった。
その後、話題になっている村上春樹訳「ギャツビー」に興味を持った。とりあえずことわっておくが、私は春樹氏の熱心な読者とは言い難い。小説はごく初期のものしか読んでいない。但し、氏のエッセイは大好きで何冊も何度となく読み返している(最近のは読んでないが)氏のエッセイの文章は内容も含め読みやすく好きである。
その上で読んでみて感じたことが幾つかある。
原書との比較は私には無理だが、ここでは「日本語に訳された小説」として話していく。野崎訳と村上訳、細かい部分では多分村上氏の方が現在の感覚に適していているのだと思う。
だが問題なのはもっと大きな重要部分のことである。野崎氏訳を読んでいた者で村上氏がどう訳したか最も気になるのはもしかしたら「old sport」という言葉かもしれない。これはギャツビーがニックなどに親しみを込めて使う口癖の呼びかけなのだが当時においてもアメリカ人には慇懃に響く言葉なのだという。これは実にギャツビーを表すのに重要な口癖で、イギリス人がよく使うらしいのだ。
「オックスフォード出身である」というアメリカ人ギャツビーにとって彼を演出する言葉なのである。
これを野崎氏は「親友」と訳している。「大丈夫ですよ、親友」というようにニックに話しかけるのだ。自己流で上流階級の言葉遣いを学んだギャツビーの話し方は、はもともと「いい育ち」である(金持ちとは言わないが)ニックには滑稽に聞こえる。この「親友」はかなり愉快で読んでるとつい使ってしまいそうである。
ところが村上氏はこの訳には不満のようで自分でも数十年の間、なんと訳すか考え抜いたらしい。結局見つからず自身の本では「オールド・スポート」という原語をそのままカタカナ表記されているのだ。
この訳を楽しみにしていた私はがっかりだった。
氏にとっては「old sportはオールド・スポートとしか言いようがない。日本語では表せない」ということらしい。
その通りなんだろうが英語が解らない一般日本人にとっては「オールド・スポート」という言葉には意味がない。村上氏の人気でこれから一般化するかは判らないが。
こういった呼びかけの言葉には深い愛着がわくものだ。野崎氏の「親友」赤毛のアンの「腹心の友」映画の中のスペイン系男性のアミーゴに対しての「よお兄弟!(古い?)」ジャイアンの「心の友よ〜」(これは訳じゃないが)
どれも決まり文句として心に残っている。村上氏も名訳でこの仲間入りをして欲しかった。
氏は「60歳になったら「ギャツビー」を訳す力がつくのではと思っていたのに前倒しして早く訳してしまった」と書かれている。確かに60になったらもう少し柔軟に対処されていたかもしれない。残念だ。将来、この部分だけ変更されてもいいのではなかろうか。再考されたいと願う。
それから村上氏絶賛の冒頭と終幕部分。
冒頭部分は村上氏のほうがわかりやすいようにも感じるが問題は終幕の名文である。
二人の訳者はニックの一人称に、村上氏は「僕」野崎氏は「ぼく」を与えてあるのだが、この最後で村上氏は突然ニックに「我々」と言わせている。野崎氏は「ぼくたち」である。
これは村上氏の深い考えなのか(そうとしか思えないが)もしれないが、私の勝手な好みでは「ぼくたち」で文章を終えてもらったほうが魅力的に感じる。
最後の2行はまさしく美しい文章である。この文章の是非も大いに気になる所だ。野崎氏が最後の言葉を「漕ぎ進んでゆく。」という動詞で終えているのに、村上氏は動詞を先に出して「押し戻されながらも」で収めている。
これは英文を生かすとこうなるのであろうか。
私の好みでは野崎氏の文章の方が好きである。「だからこそ」より「こうして」がいいし、繰り返しが村上氏は「前へ前へ」で野崎氏は「過去へ過去へ」である。「過去へ」繰り返しの方がギャツビーを彷彿とさせる。村上氏「ボート」より野崎氏「舟」がいい。(要するに私は日本語がいいのだが、村上氏はカタカナ語が好きっていうことか)最初に「ながらも」使って最後動詞で括ったほうが力強く切なく感じ、最後が「ながらも」だとちょっと素人っぽく思えるのだ。日本人感覚なのかもしれない。村上氏はきっとずっと英語に接しているからこうなるのかもしれない。
ただ勿体無いのは野崎氏訳が左ページの3分の2ほどでゆったりと終わっているのに、村上氏のは左ページをめくって次ページの一行で終わっている。つまり名文章が尻切れトンボになっているのだ。そしてページをめくって一行だけ。
これではリズムを欠いてしまう。
なんとか途中で余白を置いたりして左ページもしくは右ページの半ばくらいで終えて欲しかった。
村上氏にとって大事な小説なのにどうしてこのようなことになってしまったのだろうか。
さてさて重要部分はこれからである。
村上氏は先日読売新聞でフィッツジェラルドとギャツビーについて語っておられたのだが、そこで「ギャツビーの中でフィッツジェラルドは自分の視線を3つに分割しています。主人公ギャツビーと語り手ニックと対抗する存在としてのトムとです。そしてその三者のくっきりした造形にはまさに目を見張るものがあります」と。
フィッツジェラルドの生涯を知ればこの3者が彼自身の投影なのは明白なのだが、私はむしろこの3人以上にフィッツジェラルドが自分を投影した、もしくは投影してしまったのは自動車整備店店主・ウィルスンなのではないか、と思う。
華々しいギャツビー・デイジーたちの邸宅周辺と違い、灰の谷と形容される陰鬱な場所に住む男だ。
美貌の影がかすかに残るというこの男は妻が金持ち男トム・ブキャナンと情事を続けていることに長く気づかないで来た。
そしてついにその事を知っても妻を閉じ込めようとするばかりで離縁したり、暴力を振るったりはしない。
トムと会えず、精神錯乱状態になった妻・マートルが車に轢き殺される。嘆き悲しむウィルスンは、トムに「犯人はギャツビーだ」とそそのかされ、ギャツビーを撃ち殺す。
フィッツジェラルドが執筆中に妻ゼルダに浮気され続けたことを考えればウィルスンもやはり彼自身なのだ。
さらに貧しい生い立ちであったフィッツジェラルドがもし小説家という手段がなければウィルスンのように灰の谷に住まねばならかったと想像したとしても不自然ではない。
つまりは4人の主要登場人物である男性は皆スコット・フィッツジェラルドその人なのだ。そして女性デイジーとマートルが妻・ゼルダなのも当然のことだろう(デイジーの女友達ジョーダンについてはわからない)
そしてここでフィッツジェラルドは自分で自分を殺したことになる。
彼にとって他の二人に比べ、より自分の分身であるのがウィルスンとギャツビーである。
貧しさ(負)の分身であるウィルスンが成金(正(勝という方がいいのか))の分身であるギャツビーを殺してしまいまた本人も死んでしまう。
ギャツビーは一瞬だけ勝利を手にしたかのように思うが(もしかしたら思わなかったかもしれないが)結局は裕福な者によって(手を下したのはウィルスンだがそそのかしたのはトムである)瞬く間に失墜してしまうのだ。負である自分が成功した自分を殺してしまう、と言うのは彼の未来がどうしようもなく閉じてしまっている事を暗示している。
ここでまたギャツビーというヒーローについて少し。
これは野崎氏が解説に書いておられることだがエドマンド・ウィルスンの「二重ヴィジョン=ロマンティックであると同時にロマンスに対してシニカルである」と指摘するアイルランド的二重性をフィツジェラルドも持っているということ。
このロマンスの部分をギャツビーが体現し、ニックがシニカルに眺めているわけだ。ロマンティックヒーローと言えば(アイリッシュの作家に対し引き合いに出すのもなんだが)西洋ではドン・キホーテである。
日本ではドン・キホーテと言うと頭のおかしなおじいちゃん(か、とある店の名前)というイメージでまったくロマンティックヒーローとしての受けとめ方をされていない。貧しき生い立ちのギャツビーが富裕な人々と戦う姿をドン・キホーテになぞらえても多分受けそうにないが。とあきらめるほど日本では破滅型ロマンティックヒーローは難しそうだ(ましてやそれが恋の為という理由ならなおさら)
多くのファンも「ギャツビー」の文章を讃えこそすれギャツビー自身に憧れはしないようだ。
長々と話し続けたが、まだ「ギャツビー」の本筋に対しての感想は書いていない。またいつか書くかもしれない。
またここにあげた村上春樹氏の言葉は小説「グレート・ギャツビー」のあとがきと読売新聞に書かれていたものだけによるもので他の文献で書かれたものついては読んでいないことを記しておく。