映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2006年12月31日

2006年今年最後の挨拶

あと少しで2006年が終わる。休みもなくエンドレスに働き続けている日常なので区切りと言う実感がない。
とはいえ新しい年には何かいいことがおきないかという期待、何かやりたいという希望はあるのだけどね。

そういうだらだらした毎日の楽しみが映画を観る事になっているこの頃(この頃が長いが)この状況は当分終わりそうにない。
アジア映画主体から抜け出してしまってもうだいぶ経ってしまった。
私はブログを始めた9月前に一年のまとめをしているのでまだ締めくくりには早過ぎるのだが、最近の感激としてはやはりフランス映画かなあ。「ぼくを葬る」が最初だったと思うんだけど、ギャスパー・ノエそして「変態村」と凄い好みの世界を観ることができて楽しかった。
反面、アジア系映画で感動することが少なくなって(ていうか観たい作品がない・・・)悲しい。特に中国映画でそういう出会いがなくて寂しすぎる。ドラマも「神[周鳥]侠侶」よりやはり「天龍八部」「笑傲江湖」「射[周鳥]英雄伝」だったし。

日本映画は近年稀なほど盛況のようだがそれほど観たいと思っていない。つい昔の映画に興味がいってしまうしな。
最近の時代劇ブームより「眠狂四郎」「座頭市」の方がかっこいいし、観たい(人情モノ時代劇は鳥肌)

などと脈絡もないが来年もこんな調子で好きな映画を観れる事が楽しみである。
私としてはまたぞっこん入れ込むようなステキな誰か(何か)に出会いたいと願っている。

ではもうすぐ新年の挨拶をせねばならないが「今年一年、見てくださってありがとうございます。来年もよろしくお願いします。良いお年をお迎えください」フェイユイ
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「ボーン・スプレマシー」ポール・グリーングラス

ボーン・スプレマシーb.jpgボーン.jpgスプレマシー.jpg

どうにか年末の仕事をやり終えてへとへとながらもほっとしているところです。昨日の続きで「ボーン・スプレマシー」を観ました。マット見たさで観てしまったんですが、疲れている状態で鑑賞できるものではありませんね。
感想としては以前観た時とそう変わらないと思うんですが、前作「アイデンティティ」がのんびりしていたように思えるほど、全編にわたって緊張感が走っており息をつく間もないほどです。
前作で恋人になったマリーがあっという間に殺されてしまい、ジェイソンは全くの孤独な存在になってしまう。他の映画でありがちな新しい恋人の出現ということもなくジェイソンは誰も頼ることがないまま戦い続けなければならない。
いつも映画の中で友達とか兄弟とかコンビを組む事が多いマットとしてはその点でも珍しいことだし、より孤独を感じてしまう。
この映画の中でマットが笑うシーンはなかったのではないでしょうか。

そういった緊迫感の中でジェイソンはまたもわけのわからない何者かに追いかけられていく。
CIAとの攻防、トンネル内でのカーチェイスなど前作以上の質の高い仕上がりになっています。

そんな中で正直マット・デイモンというキャラクターがジェイソン・ボーンのような人間兵器になれるのかな、という危惧があったりもしました。
大体マットはどの役でもはまりきっている、という感じがしないのです。これは褒め言葉になるのかそうでないのか、それも受け取る人によって違ってくると思うのですが、あまりにハマりきっている、というより少しズレた感覚があるのが私としては妙に気になり好きなのかな、と思っているのですが。

マットの演じるジェイソン・ボーンは完全な殺人機械には見えずそこが観るものが感情移入できる魅力なのではないでしょうか。


監督:ポール・グリーングラス 出演:マット・デイモン、フランか・ポテンテ、ブライアン・コックス
2004年アメリカ
posted by フェイユイ at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

松坂大輔、ダンキンドーナツのCM出演?!

松坂、米国でもCM依頼。ダンキン・ドーナツ社が興味

なんだか熱烈な松坂ファンのブログみたいになってきた(笑)いや別に松坂くんは嫌いじゃないけどね。
それにしてもダンキンドーナツのCMですと。後はマットが共演するだけじゃ。しつこいけど(笑)

(註)初めてここを読まれる方のために。
マット・デイモンがレッドソックスファン(だと思われる)ので今度レッドソックスに入った松坂大輔投手のことが気になってしょうがないのであります。先日「もしかしたらマットと松坂のCM共演なんてこともあるかも」なんて書いていたのでまたうれしくなっているとこです(実現したからと言ってなんてこたないんだけど)馬鹿です。

posted by フェイユイ at 19:53| Comment(0) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今夜もへろへろ

今年もあと少し、ということで私の仕事は追い込み。今夜もヘロヘロ状態で「ボーン・スプレマシー」を観ていましたが「ふたりにクギづけ」はいいけど「スプレマシー」はエネルギーいるので駄目ですね。結局半分いかないうちにダウン。ポール・グリーングラス監督を認識しての再観なので集中してみたいんだけど、無理だわ。ハンディカメラの多様やドキュメンタリーのような映像は面白いんだけど。ここでも説明なしに色んな機械操作してる。それがまた本物っぽくて楽しいんだけど。しかも昨日とうって変わったマット・デイモンの緊張した表情が素敵ですのだ。
うーん、こんなにうつらうつらしながら観ちゃだめだな。これは疲れてるからであってつまんないわけではないよ(笑)
早く仕事を終えてしっかり観ようっと。
posted by フェイユイ at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月29日

「ふたりにクギづけ」 ボビー・ファレリー&ピーター・ファレリー

クギ2.jpgクギ3.jpgクギ5.jpgクギ6.jpg

年末で忙しくくたくたのぐにゃぐにゃである。
こういう時は大好きな映画を観たいものだ。というわけでマット・デイモンの「ふたりにクギづけ」を観る。
もう何度目かだが見飽きる事がないのだ。なんといってもマット・デイモンが滅茶苦茶可愛い。他のどの役柄よりマット自身に近いのではないかと思い込んでしまうのだが、兄貴思いで内気でシャイでナンにでも一所懸命な姿が抱きしめたいほど愛しくなってしまう。
中国人のメル友メイ・フォンに対する一途な思いも切ないではありませんか。
結合双生児であるボブ&ウォルトのおかしくてほろりとなるいい話。これはそのまま受けとってもいいし、いつも離れられない関係の「ふたり」の比喩的表現であると思ってもいい。ずっと離れられずにいる二人が離れてしまってからお互いの大事さを知る(と言ってもずっと大事だと思ってもいるけどね、この二人は)無理に離れる事もないともう一度くっついてしまう最後はなんともほっとしてしまう。
特に最後の最後、二人が互いを指さすシーンが凄く好きなのだよ。

ところで最初観た時はそう意識してなかったんだけど、今回観てホント、ダンキンドーナツでしたし、ケンカをするまい、というボブが怒ったのがレッドソックスを悪く言われた時でしたね。

それにしても二人の子供時代、可愛いな。

監督: ボビー・ファレリー&ピーター・ファレリー  出演:マット・デイモン、グレッグ・キニア、シェール
2003年アメリカ
posted by フェイユイ at 23:37| Comment(3) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月27日

「同級生」サイモン・ショア

同級生b.jpg同級生k.jpg

普段まったく観ないタイプの映画でした。いかに自分か隠微な世界ばかり追いかけているか思い知らされましたね。
主人公の少年も恋の相手である同級生の少年も好みの範疇外なのですがしかしそれゆえ冷静にも観ることができました。観始めた時は「同性愛」という題材なだけであまりにも普通の話のような気がしましたが、段々と面白く感じていきました。

何と言っても一番感心するのはやせっぽちの主人公くんが悩みながらも「自分に嘘はつけない」とゲイである事を隠したくない、皆に言って認めてもらいたい、両親にもありのままの自分を愛して欲しいと願い続け負けない強い意志を持っていることです。
その彼と対照的に位置づけられるのが学園のヒーロー的存在でもあるジョン。大柄でスポーツマン。自分がゲイであることを人に知られるのが怖ろしく、そのくせスティーブンに欲望を持ち続けている。愛してるとかいっても単にセックスの処理をして欲しいだけなんでしょ。最後スティーブンがまだ言いすがるジョンに別れを告げた時はほっとしたよまったく。
だがしかし相手が男だというだけでこういう性向の男は異性愛・同性愛に限らずいるもんだ。
まあ、これからもっといい男見つけてください、スティーブン。も少し太ってね。

しかし公衆トイレがゲイのたまり場というのはいつもどこでも変わらないのですね。
主人公が少年ということでどうしても台湾ドラマ「ニエズ」を思い出してしまうがあちらはどうしたってとても学園内でカミングアウトできるような状態ではないし、物凄く悩んだ末とは言えこういう行動が取れるもしくはその事を考えられるというだけでも時代は(場所も違うけど)変わったのでしょう。
イギリスなんてオスカー・ワイルドみたいなゲイであると投獄されるようなイメージがずっとあったんだけど(すみません、時代錯誤で)最近は某歌手の方々も次々ゲイであることを公開されたりしてびっくりしてるような私です。ゲイの政治家。ゲイの結婚などヨーロッパは随分変わっていってるように思えます。実際がどうなのかはそこにいないとわかんないんでしょうがそれでも少し前とは違って来てるようですね。

映画と離れてしまいましたが、そういうことを考えながら観た映画でした。一番いいキャラクターはリンダですね。彼女にもかっこいい大人になって欲しいものです。

スティーブンにやたら絡んでいじめるケヴィン。実は彼も気づいてないだけのゲイかも。ジョンと仲良くなりたいためにスティーブンに嫉妬したとしか思えません。数年後には仲間入りしてるかもね。

監督:サイモン・ショア 出演:ベン・シルヴァーストン、ブラッド・ゴートン、シャーロット・ブリテン
1998年イギリス
posted by フェイユイ at 23:40| Comment(3) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月26日

またまた「王の男」

「王の男」韓国では物凄い動員数だったのですが、やはり、というか日本では駄目だったようですね・・・残念ですが。

『グエムル』に続き『王の男』も…日本でコケたのはなぜ?

なぜなんでしょう。私はとてもいい映画だと思うんですが、何しろ妙な映画ばかり好きになる体質なので答える資格はなさそうです。

さちさんからお面の根付の話を聞いて「王の男」に出てくるお面って凄く気になったのを思い出しました。
とてもいいデザインだなあ、なんて感心してたんですがこれはもともと韓国の歴史あるお面なんですね。才能あるデザイナーがこの映画のために作ったんだと思っていたんですよ(笑)どーりでいい感じのデザインなんだ。
私はお面て言うと能面みたいな怖くて格調高い感じがしてたんですね。これはどちらかというとおたふく、ひょっとこみたいな感じでしょう。女の面なんてなんともコケティッシュで可愛らしい(日本人から怒られそうですが日本のおたふくさんより美人だと思うなあ。勿論能面の美人より愛らしいしセクシー)多分、少しは現代風にアレンジされているとは思うんですが(いやこれもよく知らないんで)こうして見るとちゃんと存在するモノだったんですねー、知らなかった。しかし可愛い。

「王の男」でのお面
お面.jpgお面いろいろ.jpg

そして韓国のお面について
この辺なんかなかなか

歴史モノだとすぐ「知識がないから」などと言われてしまいがちですが「王の男」はそんなに知識がないと判らないような話でもないと思うのですが。
「チャングム」を観てる人の方が解りやすいというのはあるかもしれませんが(笑)
後、コンギルとチャンセンがただの平民ではなく酷く差別を受けていた人々だというのは知っていたほうがより悲しいかもしれませんね。
posted by フェイユイ at 21:29| Comment(8) | TrackBack(1) | 韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月25日

「マッド・マックス」ジョージ・ミラー

マッド・マックス.jpg

昔、とにかく惚れこんでしまった作品だ。観たのは「マッド・マックス2」が先でべた惚れだったのだが、本作もまたシンプルな迫力に満ちている。
当時の走り屋たちにはSF感の強い「2」より走りに徹底した本作のほうが人気だった。
車に詳しい知識はないがそれでもマックスの乗り込むインターセプターのかっこよさは解ったし、それ以上に不死身のグースの走りにはゾクゾクする快感があった。(マックスよりもグースの人気が高かったような気がする)

全く車とバイクの走りそのモノを映す為に作られたような映画であってその辺の感覚は「イニシャルD」にも感じられたがあちらがコーナリングの繰り返しによる快感なのに対し、こちらは果てしなく続く直線での単純なスピード感だ。一体何キロ出ていればこの疾走感が出るのか。物凄いスピードで追うカメラの乗った車の前をバイクが走りぬき去っていく。
その信じがたいスピード感をカメラワークも助けている。
私は全くカメラ用語などわからないので説明できないのがもどかしいが怖ろしいほどの速力を感じさせるのがカメラの位置や動かし方にもある。その感覚は当時「アメリカ映画では感じたことがない」と思い心酔していたのだった。

「マッド・マックス」はSFというより西部劇と言ったほうがいい。馬が車とバイクになっただけだ。
人物はマカロニ・ウェスタンの雰囲気に似ていてやはりそういう映画が好きだった私が好きになるのは当然だった。

もう一つ私が好きだったのは勿論マックス役のメル・ギブソンで私は「マッド・マックス2」の時のメルほどかっこいい男は他にいない、と思っている。本作のメルはやや若いせいで顔が甘く「2」ほどのかっこよさには達していない。そのせいもあってグースに軍配が上がるのだが、それはいいとして大好きなのはマックスの上司フィフィ隊長なのだった。
つるつる頭に髭のマッチョな隊長でオーストラリア男にしては(アメリカ生まれだが)小柄なメル・ギブソン=マックスをいたく気に入って可愛がっている様子なのだ。
警察を辞めようとするマックスを引き止めるときなんか上半身裸にネクタイ(?)である。「ひざまずいて泣けというのか」というマックスへの深い愛もステキでマックスXフィフィ隊長はやたらセクシーな関係に見えたのだ(これは私だけです、念のため)

まあ、そういう淫らな妄想を抱きつつも「マッド・マックス」の爆走は最高に刺激的なのだった。

妻子を失い復讐を誓う、というのはメル・ギブソンが監督になってもやった設定だが、確かにヒーローの心を燃えさせる為に必要な悲劇なのだ。
しかし車の疾走感は徹底しても残虐な場面を映す事はない。そういった演出と言うのも気に入ったことなのだが。

監督:ジョージ・ミラー 出演:メル・ギブソン、スティーブ・ビズレー、ロジャー・ワード
1979年オーストラリア


posted by フェイユイ at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | オセアニア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

クレイグ、“007”にゲイ・シーンを提案

石公さんの「夜目、遠目、幕の内」の近況報告で紹介されたダニエル・クレイグの記事を読んで一人興奮。この前観た「Jの悲劇」の衝撃シーンにひき続きまたまた驚きました。石公さん、ありがとうございます。いつものことで申し訳ありませんが勝手にこちらでも紹介させていただきます。

「クレイグ、“007”にゲイ・シーンを提案」

なんだかにやけてしまいました。ふっふっふ。
石公さんは「内容の真偽はともかく」と言われてますが、本当に本当だったらうれしいなあ。
クレイグがそう言ったというだけでもうれしいですね。
posted by フェイユイ at 20:40| Comment(0) | TrackBack(0) | ダニエル・クレイグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月24日

「フローレス」ジョエル・シューマカー

フローレス.jpg

ニューヨーク、ロウワーイーストサイドのぼろいアパートに住む元・警官ウォルトと斜めはす向かい上方向の住人でドラッグクィーンのラスティを中心にしたそこら辺に住む人々の悲喜こもごもを描いた物語、なのだろうか。

ドラッグ・クィーンに対し拒否反応を示していたウォルトは突然脳卒中で右半身が麻痺してしまい動く事・話すことも自由にならなくなってしまった。そのリハビリの為勧められたのが歌の練習。その教師となったのがいつもウォルトと言い争いをしてしまうドラッグクィーンのラスティだった。

元・警官ウォルトを演じているのがロバート・デ・ニーロ。ドラッグ・クィーン・ラスティがフィリップ・シーモア・ホフマンということで二人が話している場面はなかなか見ごたえはあるのだが、全体的に観て散漫な感じで話がどれも中途半端な印象なのだった。ウォルトの悩みもラスティの悲しみも判るけれどもありがちな感を免れない。
とは言えやはりフィリップ・シーモア・ホフマンのドラッグ・クィーンぶりは相変わらずの嫌味な感じもはまっていて楽しいものであった。
私にとってはフィリップ・シーモア・ホフマンというと「リプリー」で散々マット・デイモン=トムを苛め抜いてくれたあの皮肉な笑い顔が忘れられない。ここでもその意地悪な顔がそこここに出てくるのだがその彼女が元はゲイ嫌いのウォルトを救おうというけなげさがあるのが面白いし、生真面目なウォルトがゲイ嫌いだったのが少しずつ変わっていくのはデ・ニーロのうまさなんだろう。
最初、ウォルトの部屋の窓からラスティたちドラッグクィーン達が歌う姿を見ると窓ガラスが歪んでいて彼女達も歪んで見えているのがウォルトの彼女達への見方だというのがわかってちょっと面白かった。

こういう周辺の人々の物語、みたいのをやるとどうしても散漫になって難しい。ブラジル映画「カランジル」でごちゃごちゃした物語をまとめているのは、一人の医師の目が観た物語、人々が医師に話をするという方式になっていたからなんだな、と思ったりもした。
つまり色んな場所で筋が進むとこんがらがってしまうのだね。視点を一つにするか、その場面ごとで誰が視点なのかはっきり伝えるか、でないと。
でもそれ以上に一つ一つのエピソードがいかに魅力的で心を捕まえるか、なんだけどね。

監督:ジョエル・シューマカー 出演:ロバート・デ・ニーロ、フィリップ・シーモア・ホフマン
1999年アメリカ
posted by フェイユイ at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「月刊スカイパーフェクTV!」「神G侠侶」の宣伝記事ありましたね。

「月刊スカイパーフェクTV!」今回さすがに「神G侠侶」についての記事が堂々3ページにわたって掲載されておりましたぞ。
タイトルのいわれ(ちょっとネタバレだが)やストーリーについて。キャラクター紹介なんかも載っている。登場人物も多いし、前物語である「射G英雄伝」を見てない方などはしっかりチェックしておいた方がよいかも。しかし、おいおい、霍都=高虎や甄志丙=程皓楓なんかは説明なしじゃん。作品DATEにガオ・フーとだけ。んー、しょうがないかな。

とにかくスカイパーフェクTV!チャンネルNECO261ch.1月5日スタート!毎週金曜日(金庸の日ってことね!)全41話です。

そういう私は21話からまたDVDで観ていくつもりなんですけどね(笑)でもよろしく!!
ラベル:金庸
posted by フェイユイ at 18:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 神[周隹]侠侶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月23日

「フル・モンティ」ピーター・カッタネオ

フル・モンティ.jpg

こういう地味な作品のわりに知らない人はいない映画のような気がする。やはり気になる題材なのだろうか。
私もテレビでちらりと観たりはしたんだけど改めて観てみました。
何と言ってもネイサン君が可愛すぎる〜。こんな情けないおやじにとことん付き合い、預金を下ろしてパパに融資。この時ネイサンは「パパを信じてるから」と言ったけど半分はあきらめていたと思う。ただ一所懸命やってる姿にほだされただけなんだよ。

一時期は鉄鋼で栄えた街も今は寂れ、そこで働いていた男達は失業。職探しと言いながら毎日を何となく過ごして行っているガズをいつも見守ってくれている可愛い息子ネイサンがいた。だが離婚した妻は新しい夫と共にネイサンを父親であるガズから引き離そうとしていた。理由は無職のガズが養育費も払わないから。愛しいネイサンを手放したくないガズは何とかして金を手に入れたいと願う。だが彼が思うような職はない。そんな時、街の女たちが男のストリップ・ショーを観に行くのを知り罵倒する。しかし女たちが男性ストリップに払う金額を考え、ガズは男性ストリップ・ショーを行う事を決意する。

大体メンバーがしょぼくれている。ガズ自身がやせっぽちで貧相な風貌だし、友達はデブッチョ(と言って悩んでいる)自殺未遂の奴を仲間にいれ、元・上司にダンスを教えてもらうと言った具合。
一番ダンスが巧いのは黒人ホースだが今は年をとって腰を痛めている。ダンスはからきしだがモノはでかいガイという6人組。
並んでみても踊ってもまったく情けない中年男達なのだ。なんとなく「少林サッカー」の連中を思い出してしまう。ま、あっちはサッカーだからいいけどこちらはもう裸だけしか売り物がない、と腹をくくってしまったんだねえ。(「少林サッカー」でもフル・モンティしちゃった人もいたけど)
すべて貧乏たらしくもの悲しいんだけどそれがまたおかしい。最後で怖気づいた父ガズを男らしく励ます息子ネイサン。仕事もなくデブッている自分にどうしようもなく自信が持てないデイブは「誰が俺のストリップが見たい?」とここでも自信喪失。「私が見たいわ」と言う妻の愛がまた切ない。

職業安定所でラジオのドナ・サマー「ホット・スタッフ」に合わせてつい踊ってしまうシーンは何度見てもやはりおかしい。
途中で警察に稽古場を押さえられたことが却って宣伝になりチケットが売れてしまう、というのがうれしい。
最後に覚悟を決めた男達が踊りフル・モンティ(素っ裸)になる。傑作でした。

このしょぼくれた感じがなんともイギリス的で味わい深いのだが、途中でロンパーとガイが怪しい関係になってしまう。これなんかもやはりイギリス的、なんでしょうねえ。

監督:ピーター・カッタネオ  出演:ロバート・カーライル、トム・ウィルキンソン、マーク・アディ、ウィリアム・スネイプ、スティーブ・ヒューイソン、ヒューゴ・スピアー、ポール・バーバー 
1997年イギリス
posted by フェイユイ at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月22日

写真集「周杰倫Jay Chou依然范特西」届く

今日HMVから「周杰倫Jay Chou依然范特西」なる雑誌が届く。そういうタイトルだが、中身は今までのジェイのあれこれや映画「満城尽帯黄金甲」についても載っているという幅広いもの。
大陸版ということで大雑把で写真も荒いがなかなか可愛いジェイの写真が載ってます。
もうすでに色々持ってる方はもう珍しくはないでしょうが「満城尽帯黄金甲」もあるし結構満載な写真集かも。

あと、アルファミュージックでジェイの新しい壁紙「黄金甲」になってましたね。
順ぐりで我がパソコンにご登場していただくつもりです。
posted by フェイユイ at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月21日

「黄金甲+依然范特西」MV

黄金甲kk.jpg

先日届きました「黄金甲+依然范特西」DVD観て行きます。
まずは

01.「黄金甲」映画「満城尽帯黄金甲」の映像を組み込んだ周杰倫監督、傑作MVです。
衣装もジェイ・テイスト炸裂。紫の烏賊足コート、黒い皮手袋にびらびら。バックバンドの皆さんの衣装は中国風というより日本の忍者を連想してしまうのは手前味噌か。菊の模様ってどうしても日本的に思ってしまう。中国の花なんでしょうけどね。右側のギターは将棋の駒のように見えるんですがー。
こう見せ付けられると早く観たいです。

02.「夜的第七章」これはすでに観ておりますが、倫敦の雰囲気よろしいです。何と言っても血を流したジェイはかっこいいです。

03.「聽媽媽的話」可愛いMVだなあ。たくさんのおもちゃが置かれた子供部屋でジェイが少年にお説教してるわけですが、少年がまず愛らしい。ジェイのMVに出てくる人たちって可愛いです。(おもちゃの中にはアトムやガンダムがあります)
ジェイ淡い色合いのカーディガンを着てお母さんの話がどんなに大切かお母さんがどんなに君を思ってるかを唄って聞かせてます。
最後にジェイの子供時代の写真が出てきて和みます。えくぼができて可愛いですね。お母さんとのつながりを感じますね。

04.「千里之外」これも鑑賞済みですが、綺麗なMVですね。費玉清とジェイのコラボ素晴らしい。
顔を汚して働いてるジェイがチャーミング。

05.「本草綱目」アメリカ風をおちょくり中国風を賛歌。ストリートを練り歩きながらのグループダンス。いかにも今風なんですがこっから先がジェイならでは。街にはジェイ・チョウの文字があちこちに飾られジェイの服にも周の文字。相変わらず自分大好きやってます。いきなり髪の毛がだらっと前にかぶさってリング。中薬房の男の子が着てるのは「霍元甲」の時の服?キョンシー坊やも跳ねだして、可愛い。
楽しいMVです。

06.「退後」ジュース屋台の女の子とのラブストーリー。いつも前髪を下ろしてるジェイがおでこを見せてます。ずっと悪い子だったジェイがいい子になったんですね。いい子になったら前髪下ろして無精ひげになってます(笑)間に合わなかったんですね。可哀想に。

07.「紅模[イ方]」思いっきりかっこよくやってます。今度はバスケット映画もありますしね。

08.「心雨」以前ラジオでジェイが説明していたMVです。遠く離れて暮らしている病気の恋人を思いながら手紙を出すジェイ。ジェイの甘く切ない唄い方が悲しい物語とともに心に残ります。

09.歌の感想の時も「なんと言っていいんだか」てな感じで書いてますが、MVもまたしかり、で何と言っていいんだか(笑)別に恨みはありませんがなんとなくさらりと流した印象があります。

10.「迷迭香」うらぶれた雰囲気の酒場の歌手の役を演じるジェイがすてきです。これまでにないセクシーなナンバー。ジェイのルンバも見逃せません。こうしてるとジェイ細いですね。
MVにはジェイが大好きなお婆ちゃんも登場します。

11.「菊花台」「黄金甲」が動ならこちらは静。やはり映画から組み立てられたMVになっています。ここでのジェイ王子のかわゆいことといったらば。
こんなに王子姿が似合うなんてな。菊尽くしのようですね。薔薇のお風呂じゃなく菊のお風呂。
発音に気をつけた悲しい調べが胸をうちます。
posted by フェイユイ at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月20日

「時計じかけのオレンジ」スタンリー・キューブリック

オレンジ.jpg

最初観たのがいつだったか覚えてないんだけど、とにかくこういう世界がかっこいいと思いましたねー。
アレックスを演じるマルコム・マクダウェルの可愛いこと。片目だけのつけまつ毛も真っ白でぴったりした服に気になる局所。黒い帽子。袖にくっついた目玉の飾り。憎ったらしい眼差し。ぎょろりとした青い目。団子鼻みたいなのにすごく魅力的な顔立ちなのですよ。いつも不満そうな唇もかわいい。
近未来のSFという映画なんだけどなぜかイギリスの近未来って逆に古臭いデザインにしちゃうところがおかしいの。ファッションなんかも。時々いかにも未来を意識したところもあるんだけど妙に古い感じに仕上げてしまうのが好きなんですよね。
ところでこういう映画でいつも思うのはマルコムは大好きで彼がぴったりとは思うんだけど実際の主人公の年齢って15歳くらいなんですよね。マルコムは20代後半なわけで若くは見えるんだけどね。つまりマルコム=アレックスが変な飲み物飲んでても次々と女とHしても(レイプはいけませんが)問題はないわけで。15歳の少年がホームレスのオヤジを叩きのめしたり嘘をついて他人の家に入り込みその家の主人を半身不随にしたり奥さんを強姦して殺したり、と怖ろしいことを「仕事」とか言ってやっている。子供だからちゃんとパパとママがいる家に帰って学校にも行かなきゃいけない(行ってないけど)っていうのが怖いわけですね。
そういう意味では15歳の子供を使わないと面白くないんだけど15歳の子供じゃ27歳のマルコムの魅力はないわけで、難しいものです。
とは言え、勿論マルコムを使ったが絶対いいとは思っております。

製作当時は衝撃的だったが今ではまったく、なんていう人もおられますが、こんなにシンプルでインパクトのある作品はこの後にもそう作られてはいない、と感じます。
アレックスだけをずっと映している感覚がいいですね。
アレックスが捕まって早く出所したいためにいい子ぶりっ子してるところも可愛い。
殺人罪で投獄されたアレックスが14年の刑期から逃れたく政府が考案した悪人を善人にするという「ルドヴィコ療法」の人体実験に自ら志願する。それで成功すればすぐに出所となるというのだ。その治療とは、注射や投薬をされた後、クリップで目を見開かされ絶対閉じない状態にされて映画を観続けるというものだ。それらはアレックスが今まで好んでやってきたレイプや暴力などの映像なのだが、それを観ているうちに吐き気がしてくるのだった。特にアレックスが信奉しているベートーベンの第9が暴力シーンとともに流れた時、彼は気が狂いそうになる。
この時の治療法で目をクリップで留めるのが痛そうで痛そうで。他のどの映画にもこんなに気持ちの悪いシーンはない。目関係は苦手なのだ。

この映画では音楽が大変重要な要素になっているがアレックスが好きなベートーベン、威風堂々などのクラシックとアレックスが夫婦を襲った時に歌う「雨に唄えば」が印象的である。
そしてアレックスによって車椅子の生活になった男が再びアレックスの「雨に唄えば」を聞いて正気を失ってしまう表情が凄い。この表情にその後の劇画なんかが大きく影響を受けている気がする。

一旦は治療の為に暴力を連想だけで吐きそうになるアレックスであった。が、ベートーベンを聞かされ自殺しようとして一命をとりとめ治療の間に元のアレックスに戻ってしまう。高らかに鳴り響くベートーベンを聞きながら女性とのセックスシーンを想像する。アレックスは「完璧に治ったね」とにやりと笑う。

数々の衝撃作を作ったキューブリックだけどこの映画は特別に神経がざわつく作品なのである。
ナッドサット言葉も使いたくなる。ガリバーが痛い。スパチカ寝んねだ。ライティ・ライト?

監督:スタンリー・キューブリック 出演:マルコム・マクダウェル、パトリック・マギー、マイケル・ベイツ
1971年イギリス
posted by フェイユイ at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月19日

松坂がマットに?

またしょーもないネタなんですが、ボストンレッドソックスに入団した松坂大輔が「マット」と呼ばれるかも。

「マツザカ」発音できない米国人

この記事によるとアメリカ人には「松坂大輔」は発音しにくいので「D-マット」と呼ばれるかもしれない。が、ドア・マットみたいな名前はどうか?っていうものだ。

松坂って呼びにくいだろうからもしかしたらマットって呼ばれるかも、とはちょっと思ってましたが、(後から言っても駄目ね)D-マットとは考えなかった。

ドアマットみたいって。じゃ、もとからマットって名前はどうなるの?とふてくされてもしょうがないですが(笑)
D-マットとマットじゃ全然違うのかな。じゃ、やっぱりマットでいいんじゃない?
野茂があそこまで受けたのは発音しやすかったからっていうのも(しゃれじゃないよ)あるね、きっと。

活躍しだしたら自然に呼び名は決まると思うけどねー。
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ジェイの「黄金甲」EP+DVD到着しました!

ジェイの「黄金甲」EP+DVD到着しました!

時間がなかったので内容は後日、と言っても我慢できずチラ見しました。
監督がジェイに代わってからいっそうDVDが楽しみで。一時期質が落ちた感があったのが周杰倫監督になってから凄くよくなりましたね。
今回も色々と楽しませてくれそうです。
お気に入りの「迷迭香」想像したとおり酒場で歌うジェイが見れてうれし過ぎ。 「依然范特西」を聞いて←ここに予想を書いてたんですがうれしいんで自慢自慢。

観なければいけない映画と記事アップがあるので少しずつとかになるかもしれませんが、後日また感想書いていきますね。
posted by フェイユイ at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月18日

「Jの悲劇」ロジャー・ミッシェル

Jの悲劇j.jpgJの悲劇.jpg

ダニエル・クレイグは6代目007に抜擢、と聞いて初めて知った方であります。その「カジノ・ロワイヤル」のために来日宣伝。テレビで拝見し確かに今までのジェームズ・ボンドとはイメージ違う。そして青い瞳がなんとも美しくややはにかんだ感じがとてもキュートでありました。
いつものように劇場へは行けないし、とりあえず以前の映画を鑑賞しようとしてレンタルできたのがこれ。全く内容を知らないまま観始めたのですが、
まさか初のダニエル・クレイグで男性との濃厚なキスシーンがあるとはなー。

のんびり原っぱで大学教授のジョー(ダニエル・クレイグ)と彫刻家のクレアはデート。と、思ったらいきなり気球が子供を乗せたまま浮かび上がったとかでそこにいた数人の男がその気球に飛び掛りナンとか降ろしたのですが突風で再び舞い上がってしまいまだ掴んだままの男達は手を離してしまう。だが気球の籠にはまだ子供は乗ったまま。ただ一人医者の男だけが綱から手を離さずかなりの高度まで上がってしまった。しかしついに男は力尽き手を離し、落ちてしまったのだ。
子供は運よく自力で助かったのだがジョーは一人手を離したことを気に病んでいた。そこへその時一緒だった男から「会いたい」という連絡がはいる。
最初は何気なく対応していたジョーだがその男・ジェッド(リス・アイファンズ)は執拗にジョーを追い掛け回す。そして「君を愛してる」と言い出したのだ。

クールな大学教授のジョーがストーカー男の出現によって次第におかしくなっていく。しかし何と言っても恋人クレアが気の毒である。
結構酷い場面があっけなく出てくる映画でもあった。最後まで気球にしがみついていた医師が落ちたのをジョーたちが見に行くと落ちた衝撃で医師は体がぐしゃぐしゃになっている。クレアがおなかを刺されるシーンも結構痛そうだ(見えてるわけではないが)しかし一番の衝撃はその後のかなりためをとったキスシーンだったけど。
リス・アイファンスも初対面なのでストーカーがリアルであった。
こういうストーカーものってどうしたって気持ち悪く見えるし先が気になるし色んなバージョンで作れそうだ。
にしたって男が男のストーカーって言うのはしかも恋心でっていうのはあまり作らないよな。
なんとなく「恋の方程式 あなたのハートにクリック2 」のフィル氏を思い出しました。あちらはコメディで楽しかったんですけどね。

ジョーとクレアがどうなるのか微妙に終わらせただけでなく、施設に入れられた(つまり死んでなかった?)らしいジェッドのにやりでまだまだジョーの悲劇は終わらないようでありました。

これはやはり愛の物語なんでしょうか?(予告編でそう言ってますが。公式HPには薔薇の花があしらってあったりして意味深だし)

ダニエル・クレイグはメガネをかけたインテリの役っていうのもあってか、まったく007というイメージがわかない。でもそれとは関係なくステキですね。

監督:ロジャー・ミッシェル  出演:ダニエル・クレイグ 、サマンサ・モートン 、リス・エヴァンス 、ビル・ナイ 、スーザン・リンチ 、ジャスティン・サリンジャー
2004年イギリス
posted by フェイユイ at 22:47| Comment(2) | TrackBack(0) | ダニエル・クレイグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月17日

「グレート・ギャツビー」後編・小説野崎孝訳と村上春樹訳

ギャツビーz.jpgギャツビーm.jpg

今回は映画より小説に焦点をあてながら話を進めて行きたい。
しかし結局昨日の如く支離滅裂になることは請け合い。

映画「ギャツビー」を再観し一度は目を通したはずの小説「ギャツビー」を読み直す。これは野崎孝訳であった。村上春樹氏は「永遠の名作はあっても、永遠の名訳はない。」と言われている。訳というのは時代を経つにつれ古臭くなってしまうからということだ。
確かにそういったことはあるだろうが、私自身が旧い人間であるがゆえか1974年のこの訳にさほど違和感は感じなかった。
その後、話題になっている村上春樹訳「ギャツビー」に興味を持った。とりあえずことわっておくが、私は春樹氏の熱心な読者とは言い難い。小説はごく初期のものしか読んでいない。但し、氏のエッセイは大好きで何冊も何度となく読み返している(最近のは読んでないが)氏のエッセイの文章は内容も含め読みやすく好きである。
その上で読んでみて感じたことが幾つかある。
原書との比較は私には無理だが、ここでは「日本語に訳された小説」として話していく。野崎訳と村上訳、細かい部分では多分村上氏の方が現在の感覚に適していているのだと思う。
だが問題なのはもっと大きな重要部分のことである。野崎氏訳を読んでいた者で村上氏がどう訳したか最も気になるのはもしかしたら「old sport」という言葉かもしれない。これはギャツビーがニックなどに親しみを込めて使う口癖の呼びかけなのだが当時においてもアメリカ人には慇懃に響く言葉なのだという。これは実にギャツビーを表すのに重要な口癖で、イギリス人がよく使うらしいのだ。
「オックスフォード出身である」というアメリカ人ギャツビーにとって彼を演出する言葉なのである。
これを野崎氏は「親友」と訳している。「大丈夫ですよ、親友」というようにニックに話しかけるのだ。自己流で上流階級の言葉遣いを学んだギャツビーの話し方は、はもともと「いい育ち」である(金持ちとは言わないが)ニックには滑稽に聞こえる。この「親友」はかなり愉快で読んでるとつい使ってしまいそうである。
ところが村上氏はこの訳には不満のようで自分でも数十年の間、なんと訳すか考え抜いたらしい。結局見つからず自身の本では「オールド・スポート」という原語をそのままカタカナ表記されているのだ。
この訳を楽しみにしていた私はがっかりだった。
氏にとっては「old sportはオールド・スポートとしか言いようがない。日本語では表せない」ということらしい。
その通りなんだろうが英語が解らない一般日本人にとっては「オールド・スポート」という言葉には意味がない。村上氏の人気でこれから一般化するかは判らないが。
こういった呼びかけの言葉には深い愛着がわくものだ。野崎氏の「親友」赤毛のアンの「腹心の友」映画の中のスペイン系男性のアミーゴに対しての「よお兄弟!(古い?)」ジャイアンの「心の友よ〜」(これは訳じゃないが)
どれも決まり文句として心に残っている。村上氏も名訳でこの仲間入りをして欲しかった。
氏は「60歳になったら「ギャツビー」を訳す力がつくのではと思っていたのに前倒しして早く訳してしまった」と書かれている。確かに60になったらもう少し柔軟に対処されていたかもしれない。残念だ。将来、この部分だけ変更されてもいいのではなかろうか。再考されたいと願う。

それから村上氏絶賛の冒頭と終幕部分。
冒頭部分は村上氏のほうがわかりやすいようにも感じるが問題は終幕の名文である。
二人の訳者はニックの一人称に、村上氏は「僕」野崎氏は「ぼく」を与えてあるのだが、この最後で村上氏は突然ニックに「我々」と言わせている。野崎氏は「ぼくたち」である。
これは村上氏の深い考えなのか(そうとしか思えないが)もしれないが、私の勝手な好みでは「ぼくたち」で文章を終えてもらったほうが魅力的に感じる。
最後の2行はまさしく美しい文章である。この文章の是非も大いに気になる所だ。野崎氏が最後の言葉を「漕ぎ進んでゆく。」という動詞で終えているのに、村上氏は動詞を先に出して「押し戻されながらも」で収めている。
これは英文を生かすとこうなるのであろうか。
私の好みでは野崎氏の文章の方が好きである。「だからこそ」より「こうして」がいいし、繰り返しが村上氏は「前へ前へ」で野崎氏は「過去へ過去へ」である。「過去へ」繰り返しの方がギャツビーを彷彿とさせる。村上氏「ボート」より野崎氏「舟」がいい。(要するに私は日本語がいいのだが、村上氏はカタカナ語が好きっていうことか)最初に「ながらも」使って最後動詞で括ったほうが力強く切なく感じ、最後が「ながらも」だとちょっと素人っぽく思えるのだ。日本人感覚なのかもしれない。村上氏はきっとずっと英語に接しているからこうなるのかもしれない。

ただ勿体無いのは野崎氏訳が左ページの3分の2ほどでゆったりと終わっているのに、村上氏のは左ページをめくって次ページの一行で終わっている。つまり名文章が尻切れトンボになっているのだ。そしてページをめくって一行だけ。
これではリズムを欠いてしまう。
なんとか途中で余白を置いたりして左ページもしくは右ページの半ばくらいで終えて欲しかった。
村上氏にとって大事な小説なのにどうしてこのようなことになってしまったのだろうか。

さてさて重要部分はこれからである。
村上氏は先日読売新聞でフィッツジェラルドとギャツビーについて語っておられたのだが、そこで「ギャツビーの中でフィッツジェラルドは自分の視線を3つに分割しています。主人公ギャツビーと語り手ニックと対抗する存在としてのトムとです。そしてその三者のくっきりした造形にはまさに目を見張るものがあります」と。
フィッツジェラルドの生涯を知ればこの3者が彼自身の投影なのは明白なのだが、私はむしろこの3人以上にフィッツジェラルドが自分を投影した、もしくは投影してしまったのは自動車整備店店主・ウィルスンなのではないか、と思う。
華々しいギャツビー・デイジーたちの邸宅周辺と違い、灰の谷と形容される陰鬱な場所に住む男だ。
美貌の影がかすかに残るというこの男は妻が金持ち男トム・ブキャナンと情事を続けていることに長く気づかないで来た。
そしてついにその事を知っても妻を閉じ込めようとするばかりで離縁したり、暴力を振るったりはしない。
トムと会えず、精神錯乱状態になった妻・マートルが車に轢き殺される。嘆き悲しむウィルスンは、トムに「犯人はギャツビーだ」とそそのかされ、ギャツビーを撃ち殺す。
フィッツジェラルドが執筆中に妻ゼルダに浮気され続けたことを考えればウィルスンもやはり彼自身なのだ。
さらに貧しい生い立ちであったフィッツジェラルドがもし小説家という手段がなければウィルスンのように灰の谷に住まねばならかったと想像したとしても不自然ではない。
つまりは4人の主要登場人物である男性は皆スコット・フィッツジェラルドその人なのだ。そして女性デイジーとマートルが妻・ゼルダなのも当然のことだろう(デイジーの女友達ジョーダンについてはわからない)
そしてここでフィッツジェラルドは自分で自分を殺したことになる。
彼にとって他の二人に比べ、より自分の分身であるのがウィルスンとギャツビーである。
貧しさ(負)の分身であるウィルスンが成金(正(勝という方がいいのか))の分身であるギャツビーを殺してしまいまた本人も死んでしまう。
ギャツビーは一瞬だけ勝利を手にしたかのように思うが(もしかしたら思わなかったかもしれないが)結局は裕福な者によって(手を下したのはウィルスンだがそそのかしたのはトムである)瞬く間に失墜してしまうのだ。負である自分が成功した自分を殺してしまう、と言うのは彼の未来がどうしようもなく閉じてしまっている事を暗示している。

ここでまたギャツビーというヒーローについて少し。
これは野崎氏が解説に書いておられることだがエドマンド・ウィルスンの「二重ヴィジョン=ロマンティックであると同時にロマンスに対してシニカルである」と指摘するアイルランド的二重性をフィツジェラルドも持っているということ。
このロマンスの部分をギャツビーが体現し、ニックがシニカルに眺めているわけだ。ロマンティックヒーローと言えば(アイリッシュの作家に対し引き合いに出すのもなんだが)西洋ではドン・キホーテである。
日本ではドン・キホーテと言うと頭のおかしなおじいちゃん(か、とある店の名前)というイメージでまったくロマンティックヒーローとしての受けとめ方をされていない。貧しき生い立ちのギャツビーが富裕な人々と戦う姿をドン・キホーテになぞらえても多分受けそうにないが。とあきらめるほど日本では破滅型ロマンティックヒーローは難しそうだ(ましてやそれが恋の為という理由ならなおさら)
多くのファンも「ギャツビー」の文章を讃えこそすれギャツビー自身に憧れはしないようだ。

長々と話し続けたが、まだ「ギャツビー」の本筋に対しての感想は書いていない。またいつか書くかもしれない。
またここにあげた村上春樹氏の言葉は小説「グレート・ギャツビー」のあとがきと読売新聞に書かれていたものだけによるもので他の文献で書かれたものついては読んでいないことを記しておく。
posted by フェイユイ at 22:35| Comment(2) | TrackBack(2) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月16日

「グレート・ギャツビー」前編・映画「華麗なるギャツビー」

ギャツビーg.jpg

映画「華麗なるギャツビー」及び小説「グレートギャツビー」野崎孝訳・村上春樹訳についていつものようにだらだら書いていく。
これらについて詳しい方にとっては付け焼刃の浅い考えにすぎず、失笑されることは覚悟の上として。
また構成力が乏しい為に話が前後左右寄り道してしまうこともお許しいただきたい。

まずは映画「華麗なるギャツビー」1974年アメリカ映画。二枚目の代名詞であったロバート・レッドフォードがギャツビーを演じたこともあり、日本でも多くの人が観たことであろう。
脚本はフランシス・コッポラ。破滅する天才男が好きな彼らしい選択である。
物語は1920年代。後にジャズエイジと呼ばれる好景気に沸き酒とダンスに明け暮れる華やかな一時期である。
映画でもラルフ・ローレンが担当したという金持ちの男達のスーツ姿は勿論、当時の女性達のファッション・化粧にも目を奪われる。
あくまで細く胸の薄い女性がシンボルである。それまで長かった髪はばっさりとボブカットされかっちりとしたパーマネントウェーブで形どられている。こぼれるような大きな目と反り返ったまつ毛。
濃いアイシャドウ。ヒロイン・デイジーを演じるミア・ファローは狂気じみた感性もぴたりとはまっている。
女性が解放されていく時代でもあったろうがその勢いが性的にも向けられているようだ。
禁酒法時代がそのまま享楽の時期でもあったというのは皮肉なことだが、まさにこの時期に生まれた「ギャツビー」の物語はそれらの背景失くしてはあり得ないのだ。

ところで私が見回したところではこのアメリカの名作は日本ではいまいち「?」的評価のような気がする。
小説「グレートギャツビー」の信奉者である村上春樹氏もその事を不思議に思っておられるようで「あれってそんなにすごい作品ですか?」と聞かれたりするのでこれがすごい作品でなくて何がすごい作品なのか?と詰め寄りたくなる、と書かれている。
これには噴出したくなったが私にも他人の多くには「?」だが自分にとっては「すごい作品」というのがいくつもある。
だがしかし私にとっても「ギャツビー」は「?」な作品なのだ。そこで余計にこの作品について考えてみたくなった。
村上氏は小説家なので「ギャツビー」の文章自体の美しさと、そこから生み出される味わいや意味を愛でておられるのだろうけど、一般的読者は主人公の言動から共感を得るかどうかが第一である。
本来の主人公であるニックは目立たないし、彼がヒーロー視するギャツビーの心情がそれほど共感されないのだと思う。私とて「男にとっては美学かもしんないけど、金のことばかり気にして女に捨てられたのも気づかずミジメだよ」っていうのが正直な思いだが、この年になって読めば(ありゃいつの間にか小説の感想になってる)かなり面白い事は確かだ。
(註:私にとって「すごい作品」は氏の言う「ギャツビー」「ロング・グッドバイ」よりは「シャーロック・ホームズシリーズ」と宮沢賢治の諸々の物語である。氏のお薦めのひとつ「カラマーゾフの兄弟」は同感である。一つでも同じ趣味があってよかった)
とにかくギャツビーに共鳴する日本人は少なさそうである。もう一人の訳者・野崎孝氏は1974年の解説で「初めてこの訳がでた当初より(繁栄を経験した)今の日本の方が鑑賞する条件を備えている」と書かれているが現在でもどうなのだろうか。
ジェイ・ギャツビー。貧しい生まれで金持ちの娘に恋をし、娘の気に入るように金持ちになろうと決心して悪行によって成金となる。が、娘はすでに大金持ちの男と結婚していた。ギャツビーはストーカー的に元・恋人を追いかけるが女の心は夫から離れてしまうことはない。ギャツビーは女のしでかした罪を被ってしまう羽目になる。
愛を誓った女が大金持ちの男と結婚してしまう、というと日本では「金色夜叉」を思い出してしまう(イメージだけで実は内容は知らないのだが)あれでは男が金に走った女を罵って蹴飛ばしているようだが、ギャツビーは女に好きになってもらうために金持ちになろうと努力するのだ。
けなげだ、と言っても差し支えないはず。ただその手段が悪事だったのは所詮貧乏男が短時間で儲けるにはそれしかないんだろう。
悲しい話なのだ。
とにかく金持ち男に走った恋人を一途に思い続けるヒーロー、というのは日本では受けない気がする。
だがこの物語のヒーローはギャツビーだが主人公は彼ではない。

再び映画に戻る。
枝葉末節ばかりに触れてるが、「華麗なるギャツビー」を再観して驚いたのは男達がこれ以上ないほど汗をかいていることだった。
真夏の物語である。金持ち達の話とは言えまだエアコンがない世界。しかも常にスーツに身を包んだ男性達の顔には常に汗が噴出している。(なぜか女性はさらっとしてる)これは真夏の暑さの演出なのか、どんなにぬぐっても
すぐに汗だくになったのか。
「ギャツビー」の物語が暑いひと夏の出来事なのも重要な要素なのだ。
作中でも登場人物らが暑い暑いと言ってはぐったりしている。
ある夏の日に突然登場したギャツビーという謎の男。2週間おきに繰り返される饗宴。踊り狂う人々。酒に酔いしれ溢れるほどの用意されたご馳走を食らう人々の様は地獄へ堕ちる者たちの図のように感じるのは私がそこに入ることはない貧乏人だからだろう。

小説から読んだ人には映画は受け入れがたいのだろうが先にも言ったように当時の風俗を観る事ができるし観て損はないはずだ。
それぞれの役を演じる俳優達がとてもいい。
特にサム・ウォーターストンは主人公のニック・キャラウェイを実によく演じている。
ニックは平凡な存在なのだが「人を批判しない」寛容な性格でありそのために非常に人から好かれるという特質を持つ。
だが時に「ある点を越えればもうその行為が何からでているかなどと考えておれなくなってしまう」のである。
またギャツビーを「ぼくが心からの軽蔑を抱いているすべてのものを一身に体現しているような男」だと言い、なのに世間に対し絶望した時もそのギャツビーだけに反発を感じなかった、というほど共鳴してるのだ。
多くの場合「ギャツビー」を主人公として観てしまうのだがあくまで主人公はニックであってちょっと名を知られた家柄とはいえ平凡な会社員である彼がギャツビーの人柄を知り、ひと夏の事件に巻き込まれることで世間や人々の心の奥を観察することとなるのだ。
彼に同調して見て行けばこの物語も共感出来るものになるのではないか。

そしてギャツビーを演じたロバート・レッドフォード。あまりにもスター過ぎてギャツビーに思えないという人もいるようだが再観して私はこの桁外れのロマンチストギャツビーにぴったりだ、と感じた。
ギャツビーが愛するデイジーを想いつつ湖の畔に立つ姿が決めポーズだがレッドフォードの立ち姿は美しい。悲しいほどの率直さも表現されていた。

ミア・ファローは先にも書いたが当時の美人をそのまま描いたようである。また狂気じみた眼差しもギャツビーの恋人デイジーにぴたりとはまる。

そしてデイジーの夫の浮気相手マートルを演じるカレン・ブラック。彼女が一番印象的な人もいるだろう。貧しいが人の良い夫を騙して金持ち男トムと浮気を重ね、エキセントリックに喚きたてるマートル。
彼女も金という魔力から逃れることができないのだ。
主人公ニック以外は金にこだわり続ける登場人物たち。
やはりこの物語に共感することは難しいのだろうか。
いやしかしここで私もそれなりの感想を述べて行きたいと思う。
(おいおい今まではなんだったのか)
しかしここで時間も立ち過ぎてしまった。
なのにまだ言いたい所まで行き着いていない(しょうがないな)
さらにまた明日も脈絡ないおしゃべりを続けてみよう。
posted by フェイユイ at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする