映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2007年04月30日

「陸軍中野学校 雲一号指令 」森一生

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陸軍中野学校第二弾。
一作目において日本初のスパイ養成学校で鍛え抜かれた卒業生たちが世界各地で活躍し始める。
主人公・椎名次郎は北京へ向かう途中であったが、参謀本部からの暗号電報で神戸へ行く事になる。
そこには中野学校の創立者である草薙中佐が彼を待ち構えていた。神戸港から出発する大型軍用船が度々時限爆弾により爆破されていいるというのだ。草薙中佐は第一期卒業生である椎名に捜査を任命し中野学校の名誉にかけて解明を求めた。これを「雲一号指令」と呼ぶ。

81分という作品の為もあるが粗筋だけを追っていった様な仕上がりで深みやスリルといったものが欠落してなんとも物足りない。
それでも市川雷蔵と加東大介の演技だけでなんとか見せてしまうのだから凄いものである。
私としては北京に行った椎名の活躍を見たかったんだけど指令変更なんでしょうがない。
椎名が朝鮮半島を北上する列車の中で朝鮮の衣装をつけた乗客がいたりするのが当たり前なんだけど日本の映画ではあまり見れないようで興味深かった。
また芸者・梅香に変装した中国人スパイが凛としてたじろがない美貌であった。

実際はどうなのか解らないし、この映画のせいなのかもしれないが、スパイ映画と言っても随分のんびりした風情がある。街ものどかである。憲兵だけは怖いというイメージがあるのでびびるけど。
緻密な計算だとか、人間離れしたアクションだとか惨たらしい光景だとかもなし、かといって007のような華やかさもないという不思議な感じ。爆発も小さいし。あの程度でいいのかな。
端正な市川雷蔵が変装したりしてるのを楽しみながらぼんやり観ていた。
なんとなくこのまま日常的スパイ物パロディが出来そうな匂いもある。この辺のパロディ漫画とかありそうだ。
とはいえ、どうしてもこのシリーズ観たいのでそう数があるわけでもないので観ていこうと思っている。

監督:森一生 出演:市川雷蔵、加東大介、村松英子、佐藤慶
1966年日本
ラベル:スパイ
posted by フェイユイ at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月29日

「ワイルド・アット・ハート」デヴィッド・リンチ

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エルヴィスと「オズの魔法使い」をミックスした作品、ということで「オズ」を知ってればリンチ映画としては解りやすいのではないかと思えるのだけど、知らなければまたまた困惑するのであろう。
ニコラス・ケイジ演じるセイラーとローラ・ダーン=ルーラのあふれる純愛ストーリー且つメイクラブシーンたっぷりの色っぽい映画でもある。
母親の反対を押し切って仮出所中のセイラーとルーラは規則を破って州を飛び出し疾走する。純愛ロード・ムービーと「オズの魔法使い」が注入されプレスリーが味をつける。
二人の愛を邪魔する母親は悪い魔女を意味しているようだ。彼女は二人を付回し最後に水をかけられて消えてしまうのだ。映画では写真が消えてしまい知らない者は?だろうがそういうこと。
映画中にも「オズの魔法使い」と言う言葉が何度となく出てくるのですぐにそうと解る仕組みになっている。大体「オズの魔法使い」はロード・ムービーだし(ロード小説か)犬のトトの話とかね。深読みすればルーラはドロシーなんだし、セイラーは頭脳(案山子)と勇気(ライオン)と優しさ(ブリキのロボット)のないそれらを兼ねていて最後に手に入れるというわけなんだろう。心温まるハッピーエンドなのであるがそこに行くまでの過程が想像通り普通では済まされない。
一番変てこなのはルーラが話す従兄弟のデル(クリスピン・グローバー)のエピソード。クリスマスが大好きで一年中クリスマスにしたい通称ジングル・デル。ほんのちょっとの挿話なのに相当気色悪いのだ。あの変な動きはパンツの中にゴキブリが入っているからなのか。うげげ。音が聞こえそうだ。
服を撒き散らして事故った男女。男達は死んでおり残った女は奇妙な言葉ばかり口にしている。
もう一つ、最後あたりに事故場面があるが前回観た作品でもそうだったけどリンチ監督かなり交通事故を心配しているのであった。
そしてモーテルで知り合ったボビー・ペルー(ウィレム・デフォー)がまた不気味。太った3人の女、不思議な会話。まったくもってリンチなのである。

いつもの不思議な音の群れ、響くベース音、マッチを擦る音までも、すっかり神経をやられながらリンチ映画を観るのは楽しいことなのだった。

最後に出てくる「いい魔女」を「ツイン・ピークス」のローラがやってるのも面白い。
ローラとルーラ、名前が似てる。

監督:デヴィッド・リンチ 出演:ニコラス・ケイジ、ローラ・ダーン、ウィレム・デフォー、ダイアン・ラッド
1990年アメリカ

ニコラス・ケイジの歌声っていいね。ケイジって好きなんだよ、あんまり作品観てないけど。何しろ私は「バーディ」でだから。

悪い魔女ママに対するジョニーの愛もけなげだったなあ。
posted by フェイユイ at 23:14| Comment(0) | TrackBack(9) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「藍空放浪記」3分の2年

「藍空放浪記」を始めてからもう3分の2年という時間がたってしまった。
索引のタイトルを眺めて思い出深いものもあれば(良きにつけ悪しきにつけ)さっぱり思い出せないものもある。
悪しきの最たるのは「ゆれる」でこんなに怒った映画というのも他にない。どこを見ても好評なだけに余計苛立ってしまったのだ。これは今も考えは変わっていない。しかしアクセスもかなりあった、その時だけは。
映画を観る時の自分の楽しみの一つは映画に隠された謎を解き明かすことなのだが、そういう意味で一番楽しく書けたのは「ハードキャンディ」これは正解か否かは不明なものの凄く面白く書け田んではないかと思っているのだが、さほど読まれてはいないようなのがちょっと残念。他でこういう意見をまだ見てないので結構面白いんではないかと思ってるんだけど(←いいのか、そんな強気で)

これまでに無かった型が「グレート・ギャッツビー」映画と小説、それも翻訳の違いについて書いたものでこれも楽しかった。
私は絶対昔の野崎氏派なのだが、村上派には負けるに決まってるのだ。

鑑賞で新しいのが「舞台劇」蜷川氏そして藤原竜也モノに偏ってはいるがなかなか楽しいものである。舞台は生で観るのがいいに決まってるが観れない者にはせめてもの慰め。それでもやはり映画とは全く違う感動があるもの。これからも観て行きたい。

放浪記ゆえ、できるだけ色々な国を回りたいと思うものの、やはり偏りは否めないのである。アメリカものを解禁してしまうとどうしても一番多くなってしまうものなのだな。
日本がぐんと増えて、韓国モノは記事数に比べると実際観た映画は極端に少ない。台湾モノは一部作品に偏ってはいるけどまあまあ頑張ってる。中国モノ、南米モノはたくさん観たいのに観る機会が極端に少ないのが悲しい。

ジェイだけは止められないのが特徴ですね。映画も未見ばかりだし、これからも続くぞ。
マットも早く新作観たいよ〜。
「神G侠侶」残りも僅か。面白くなってきましたぞー。
posted by フェイユイ at 20:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月27日

「オーシャンズ13」トレーラー&マット・デイモン関係

オーシャンズ13(日本語字幕版)  2007年8月11日公開
(文をクリックしてください)


The Good Shephard(ベルリン映画祭)


Matt Damon, Brad Pitt and George Clooney


Inside the Actors Studio - Matt Damon (Part 1)


Inside the Actors Studio - Matt Damon (Part 2)


Inside the Actors Studio - Matt Damon (Part 3)


Inside the Actors Studio - Matt Damon (Part 4)


Inside the Actors Studio - Matt Damon (Part 5)


Matt Damon - "The Good Shepherd"


Matt Damon hosts "Ocean's Animals" on PBS


Matt Damon
(これもクリック)

Matt Damon and Ben Affleck Preview

ナニこれ?突っ伏し
posted by フェイユイ at 23:23| Comment(5) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「天使の涙〜堕落天使〜」王家衛

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何をどう書いていいのかわかんない。だからと言って嫌なわけじゃなくて、それどころかやっぱり好きなんだけど。何をどう好きなのか、今は言えない(いつになったら言える?)

どうしたってウィリアム・チョンの美術とクリストファー・ドイルのカメラの魔術を先に感じてしまう作品なのである。
広角レンズで映しだされる人物と風景が幻覚を見ているようだ。
光と影、色彩、街、部屋の中、ミュージックボックス、すべてが物憂く気だるくていい。

レオン・ライが「恋する惑星」のブリジッド・リン。金城武がフェイ・ウォンで男女が入れ替わっているという説明が面白い。
掃除する女性という王家衛好みの場面もしっかり登場。掃除フェチっていうのもいるんだな。

ストーリー的には金城武パートが気になる。特にお父さんをビデオで撮りまくり、嫌がってたお父さんが後で一人喜んで観てるという。
あと居酒屋の斎藤さんとのやりとりも。
金城武はほんと可愛らしい表情で観てて楽しい。
バイクシーンも爽快だった。高層ビルが堕ちた天使たちを見下ろしている。

それとカレン・モクの金髪の女も可愛いね。

監督:王家衛 出演:レオン・ライ、ミシェル・リー、金城武、チャーリー・ヤン、カレン・モク、陳萬雷 、斎藤徹
1995年香港

原題「堕落天使」の方が好きだな。そのままでも日本語として通じるのに?解りやすいし。
posted by フェイユイ at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 香港 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月26日

神G侠侶・第36集

神G侠=楊過は襄に金の針を渡しながら「どんな願いことでも3つ叶えてやろう」と言う。襄は「あなたの顔が見たい」と一つ目の願いを伝える。奇妙な皮に隠された素顔をみて襄は驚いた(あんまりかっこいいんでびっくりしたわけです)
続けて2つ目の願いは自分の誕生日に襄陽の城に来て欲しいと言う。楊過はどんな願いも叶えるというのに子供のようなそんな願いでいいのかとあきれる。が、他のものには会わず襄だけに会うのならと請合った。

勝手な思いですがこの物語を映画にするならこの襄と楊過の出会いの場面から始めてもいいかもですね。
謎の正義の味方でしかも憂いを秘めた美男子、と言うのは素敵ですからねー。性悪な郭芙がやたら活躍する前半部分は辛いし(とはいえこの性悪な美女、というのが金庸ものの醍醐味だったりもするんですが)明るくて優しい襄が出てきて少しほっとしました。
ところでやっぱり郭芙は耶律斉と夫婦になってたんですね。耶律って偉いなあ、あんな女性と。耶律の前では郭芙もいい子になるんでしょうか。それとも耶律って耐える男なのか?絶対わがまま言ってるはずなんだけどね。

すっかり楊過を好きになってしまった郭襄は友達になった史兄弟と大頭鬼たちが姉・郭芙と剣を合わせているのに気づいた。さほど強くない郭芙は大頭鬼たちの敵ではないのだが、驚いた襄が声をかけると史兄弟らは手を止めてしまった。それを見た郭芙は其の機を逃さず史猛捷の胸を傷つけてしまう。
襄は慌てて駆け寄り手当てをするが郭芙は全く意に介さず去ってしまう。仕方なく襄は史猛捷を心配しながらも姉の後を追いかけるしかなかった。あまりに違う姉と妹の性格に皆あきれてます。
襄のいいところは単に優しいというだけでなく気さくで大らかなところなんですね。女性だっていいですが男だったら本当にリーダとなれるような大きな器といった感じがします。それにしても双子の片割れは影が薄いね、今のとこ。

郭襄はおじいさんと言ってもいい魯有脚とも仲がよくてよく酒を酌み交わす関係なのだった。魯有脚は丐幇の幇主である。しかし襄は16歳なのに随分イケる口だね。
その魯有脚がなんとクドゥに殺害され打狗棒を奪われてしまったのだった。

仲のよい魯有脚が死んでしまい、襄は夜更け一人で魯有脚のために酒をついで供養した。それを見つけた姉・郭芙はその様子を咎めた。そして襄の誕生日は次の丐幇幇主を決める英雄宴の最後の日になるので誰もあんたの誕生日など祝ったりしないと意地悪を言うのだった。
そこへ尼摩星が突如現れついて来いと言うのだ。郭芙・襄は二人がかりでかかったがとても適うものではない。その時、襄の耳元で「怖れるな、暗器を使え」と言う声がした。「もうないわ」と襄が身を伏せると髪に刺していた細い飾りがひとりでに飛んで尼摩星の額に突き刺さったのだ。
駆けつけた郭靖・黄蓉は細い髪飾りが尼摩星の命を絶ったことに驚く。わけを聞いても襄はわからないというばかり。

昔からのんびりした郭靖は気づかないが敏感な黄蓉は娘・襄が戻ってからぼんやりしたり嬉しそうにしたりする様子を見ていた。
一人で襄の部屋に行き、話しかけるが襄は何もわからないと答えるだけ。母が去ってから寝台の中で襄はもらった神G侠人形を抱きしめて眠るのだった。

郭襄は客を招いて酒宴を開いていた。客はどうやら突然やって来た見知らぬ者達らしい。襄の誕生日に祝いの品を持ってきたのだ。
黄蓉は見知らぬ者達の贈り物に疑念を持った。何かの陰謀ではないかと感じたのだ。それらは珍しい宝ばかりで千年を経た白人参もある。彼らは黒衣尼聖因、百草仙、人厨子、九死生、狗肉頭陀、韓無垢、張一氓である。どうやら郭襄の誕生日と重なった新丐幇幇主選びの大会にやってくるようなのだ。黄蓉は不安を郭靖に訴えたが豪放な郭靖は大丈夫というばかり。黄蓉も郭靖に賛同することにした。

ところでドラマでは言ってたかな、小説では自由奔放で飾らない郭襄は小東邪と呼ばれているのです。つまり黄蓉のパパである東邪みたいに変り種ということですね。

ところで丐幇というのはご存知でしょうか。これは国中を網羅している物もらいの人々たちの集団なのですね。幾つかの派閥はあるものの武芸を身につけ互いに助け合う巨大な組織なのです。かつては郭靖・黄蓉の師匠である洪七公が幇主であったしそれを黄蓉が打狗棒を受け継ぎ幇主になったのです。それで彼女は座を退いた今も幇主と呼ばれているのですが。その後、幇主となった魯有脚が突然死に新しい幇主が選ばれるわけですが丐幇幇主となるのは物凄いことなのでした。「天竜八部」では蕭峯も丐幇幇主でした。

いよいよ英雄宴が開始され新幇主を選ぶ為の戦いが始まった。
襄は一人ぽつんとその場を離れ約束した楊過の訪れを待っていた。
ラベル:金庸
posted by フェイユイ at 10:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 神[周隹]侠侶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月25日

「八墓村」野村芳太郎

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別部屋「雑文手帳」で書いてたんだけど、先日のバージニア工科大学乱射事件犯人が両手に銃を持った写真を見てかつて日本で起きた津山事件を思い出してしまった。
と言っても無論そのイメージを抱かせたのは山岸凉子の「負の暗示」と映画「八墓村」によるものだが。ただし、本人もそのとおりの格好をしていたのを『津山三十人殺し』筑波昭著で見て怖ろしくなった。「八墓村」はあくまでも津山事件に触発されて作り出されたフィクションなので物語は別物である。むしろ「丑三つの村」を観ることが出来ればいいのだろうが、こちらはビデオしかないようで自分には観る事ができない(再生機がないのだ)

野村芳太郎監督、金田一耕介を渥美清が演じたこの作品は以前にも観たものであるが、改めて観ても重厚なコクのあるしかもケレン味あふれた楽しめる一作である。
特に私はこういうおどろおどろしい田舎の旧家の話を好む者であるし、出演者の達者な事豪華な事この上ないのである。
ここではほんの狂言回しとして登場の金田一=渥美氏しかり、すぐいなくなる長男と怖ろしい父親二役=山崎努、姉=山本陽子、叔母=市原悦子である。下に出演者の名前を列記するが、いやもう楽しい。
突然莫大な遺産を相続することになるとはいえ山奥の屋敷に連れ込まれ奇奇怪怪な経験をすることになる主人公には萩原健一。
いつもはちょっとワルなイメージのショーケンだが本作では普通の青年という役柄。但しそのためもあってなかなかの美青年ぶりで八墓村への案内人となる美也子が惚れてしまうのも納得である。美也子役の小川真由美はすごく色っぽい美人であるし、母親役中野良子も綺麗であった。
しかもその小川真由美の変貌にはさすがにびびる怖さがあって顔の変化と言う事ではなく、奇声を発しながら追いかけてくる姿は他のどんなホラーより心底怖いものがあった。
そして八墓村の語源となる古の惨劇が時代を越えて復讐されるというこの物語は怖いけど観たい聞きたいという怪談の醍醐味を充分に発揮したものである。
このねっとりとした面白さは今ではもう出せないものなのではないだろうか。

というように非常に楽しんで本作を観終わったわけだが、この映画の出来とは別に思うところも書いてみたい。
というのは横溝正史氏は津山30人殺しを元にこの物語を書いたということなのだが、その逸話は主人公らの父となる(実際は違うのだが)多治見要蔵が二十数年前に起こした村人32人を日本刀と猟銃で次々と惨殺したという話に組み込まれている。多治見要蔵の狂気が先祖の犯した落武者謀殺の因果だったのかそうではないのかはわからない。そういった古の怨念と現代の欲望・狂気が織り交ざった所に面白みがあるのだが、現代の恐怖としていえば津山事件をそのまま読んだ方がやはり興味深いのである(実際の事件なので面白がるのは気がひけてしまうが事実そうなのだ)
体が幾分弱かったとはいえ、学業優秀で小説を書いたりする才能もあった一青年が突如常軌を逸した冷酷な大量殺人を犯してしまう、という筋書きはまさに先日の事件を思い起こさせてしまうものである。
このような恐怖の中にも何らかの怨念が入り混じっているものなのだろうか。
そういった恐怖こそ描いて欲しいと思うのであるが。

監督:野村芳太郎 脚本:橋本忍 出演:萩原健一(寺田辰弥)小川真由美 (森美也子) 山崎努(多治見要蔵・久弥) 山本陽子(多治見春代) 市原悦子(多治見小竹)山口仁奈子(多治見小梅) 中野良子(井川鶴子) 加藤嘉(井川丑松) 井川比佐志 (井川勘治) 花澤徳衛(磯川警部) 綿引洪 (矢島刑事) 下絛アトム (新井巡査)夏八木勲(尼子義孝) 田中邦衛(落武者A) 稲葉義男(落武者B) 橋本功(庄左衛門) 大滝秀治(諏訪弁護士) 夏純子(美也子の妹・和江) 藤岡琢也 (久野医師) 下絛正巳(工藤校長) 山谷初男(馬喰吉蔵) 浜田寅彦 (吉岡太一郎) 浜村純(森荘吉) 任田順好(濃茶の尼)
渥美清(金田一耕肋)
1977年日本

ラベル:恐怖 犯罪
posted by フェイユイ at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月24日

「Water」吉田修一+オゾン映画スタッフですと

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「Water」

芥川賞作家の吉田修一、自身の処女小説を映画化! オゾン映画の実力派スタッフを迎えた耽美な作品

Water公式HP>>

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観たわけではありません。
一番上の写真、なんだか「17歳的天空」みたいな雰囲気。
原作よりホモセクシュアルな要素が強くなってます、ってのが気になるね。
ショート・ムービーのようですが、観れたらいいなー。

トレーラーで少し拝見。
ラベル:同性愛 青春
posted by フェイユイ at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月23日

ウラジーミル・ナボコフの「ロリータ」と映画「ロリータ」

今日は小説「ロリータ」をメインに書いてみたい。キューブリック映画「ロリータ」と比較しながら。といっても別に原作はこうなのに映画はなっとらん、みたいなことではなくて。
キューブリックは「シャイニング」でも原作の主旨と全然違うと作者スティーブン・キングが怒ったりしてるように小説をそのまま再現する人ではないのである。
それしても「狂気」というイメージのあるキューブリックがこの作品では随分と大人しい。少女を愛するだけで充分狂っているといわれてもやはり物足りない。

映画の冒頭はハンバートがロリータの足の爪にペディキュアするところから始まる。足、というのは西洋では(東洋でだってそうだが)性的な意味を持つ。男の手がその爪を優しく手入れしているのは性的でもありその足の持ち主に従順でありまたその足の持ち主を支配していることも示しているようだ。
この表現が結局この映画の中で最も二人の関係を示しているのかもしれない。

小説「ロリータ」は冒頭からしてかなり気色悪い。小説はよく出だしの部分を紹介されると思うが確かにこの1ページ目だけでハンバートの少女愛の本質が表現されていると思う。そういう意味でも名文ではないんだろうか。口に出して読むのも嫌なほど気持ち悪いんだけど。小説でもこの冒頭部分が様々な事を暗示しているようだ。

小説で感心したのはハンバートの思い描くニンフェット像だ。ニンフェットというのはハンバートのような男が理想とする少女の総称。その最も理想の形がロリータなのだ。
ロリータを代表とするニンフェット(ロリコン男が好きになる少女)と言うのは必ずしも美少女ということではない。美少女でもニンフェットではない少女もいる、というのだ。だがニンフェットを見ればハンバートの心はすぐに反応しそれとわかるのだ。
ロリータはその姿、顔かたち(並より小柄であるのがいいようだ)といいだらしなく気ままな性格すべてがハンバートの理想だった。映画のロリータはブロンドだが、ハンバートの愛するロリータは濃い茶色の髪なのだ。それは随分違うイメージだと思える。そして少年のように狭い腰と細い足でなければいけない。
だが彼女は神秘的な神々しいばかりの美女ではなく軽薄なことしか考えない普通の女の子、といった感じでむしろそれが怖ろしく思える。彼女はこの世に存在しないほどの稀な存在ではない。どこにでもいる女の子なのだ。
ニンフェットなどという枠を作り普通の女の子たちをその中に入れてしまう。このやり方だったらどんな男でも自分の好みをニンフェットだといえばよろしい。難しいテストは必要ないのだ。

ハンバートは可愛いロリータの賞味期間も15歳までと決めていてそれを越えてしまえばただの女になると言い切っている。なのに後半17歳になって他の男の子供を孕んだロリータを見て愛しているなどという嘘を並べ立てるのだ。そのくせロリータを失ったからと言って少女を愛するのをやめたわけではない、と認めている。まったくナボコフのハンバートの描き方の巧みなことといったら!自分の理想のロリータを追い求めるその姿に絶対共感しない、と言ったら嘘になるだろう。ロリータを愛する、と言うハンバート。ロリータの本名ドロレスではなく彼が慈しむのはあくまでもローティーンのロリータであって15歳を越えた彼女ではない。

映画の前半で名演を見せるのはロリータのママを演じるシェリー・ウィンタースだ。なぜだかこのママは可愛いロリータを嫌っていじめている。おまけにロリコン男ハンバートに熱を上げてしまい、結婚を迫るのだ。映画ではこの部分がやたら長い。だもんで観客はなんとなくロリータママに同情してしまわないだろうか。なにしろハンバートはロリママをデブのオバサンとしか見ておらずその娘に入れ込んでいるのだから。そしてロリータと暮らせることだけが目的で結婚する。そして唐突に自動車事故で死んでしまうのだ。
小説ではこの部分はまったくあっさり書かれているのではないか。所詮このママは邪魔なだけなのだ。そして信じられないスピードで死ぬ。映画の長さは必要ない。映画ではここまで半分を費やしてしまうのだ。
ママはロリータをハンバートの前に連れてくるだけの役目なんだから。

小説ではハンバートは一人称で物語を語っていく。というのはこの物語は後にハンバートが記したものだからなのだ。
ということはすべての記述が事実かどうかはわからない、ということでもある。実に奇妙な事故だ。
映画では一人称というのはあやふやになるのでここでも差がついてしまう。こういった話は一人称で吐露していくものなのだ。

映画の半分をママとの葛藤に使ってしまったため重要なロリータとの逃避行、愛するニンフェットとのハンバートの夢の時間は短くなってしまった。と言っても中年男と少女との肉体関係を伴った旅行記を60年代の映画で描けるわけもなく(今でもやれるんだろうか。エイドリアン・ライン監督作品ではどのくらい描けているのか)
作者ナボコフが当時起きた、中年男が少女を伴って性的関係を持ちながら全米を転々とした、というローカルニュースをもとにこの話を書いたということらしい。ロードムービー好きとしてはもっとこの部分に力を入れて欲しかった。セックスシーンは抜きでもいいから。

小説と映画の一番の違いは筋書きではない。これは小説を読んでみれば一目瞭然なのだが、小説に注ぎ込まれた情報量の凄まじさなのだ。それら全部を読みこなし読み解くのは簡単なことではない、というか無理なのだろう。少なくとも私は注釈を読んでなんとか少し解ったつもりになっているようなものだ。
言葉遊び、様々な文献からの引用、ハンバートの趣味嗜好、ロリータの魅力、ニンフェットのあり方などがとくとくと語られていく。しかもナボコフは推理小説が好きだということもあって謎解きの面白さサスペンスも含まれている。
そしてそれらが飽きさせない面白さを持っていて何度も読ませられてしまう。映画にはそういった饒舌さがないので物足りなくなってしまうのはしょうがない。

面白い、と思ったのはロリータがハンバートに都合のよい男嫌いの少女ではなく当たり前に男性に興味のある女の子だということだ。
ヨーロッパから来たハンバートはアメリカ娘ロリータの奔放さに振り回される。ハンバートはロリータを独り占めしようとし、あっけなく逃げられる。ロリータは劇作家でこれもロリコンのクィルティが好きだったのだ。なんと別のロリコン男にロリータを奪われてしまうとは(と言っても彼は不能らしい)その上、ロリータはクィルティにえげつないエロ映画に出演させられそうになりここも逃げ出す。
なんとか働きながら出会った青年(純朴そうなのだけが取り得の貧しい若者)と結婚してしまう。17歳にして酷くやつれてしまったロリータはそれでもハンバートの元へ帰ろうとはしない。愛するロリータを失いハンバートは現実の辛さを思い知っただろう、といいたい所だが、結局ロリータはもう17歳。ハンバートの好む年齢ではないのだ。
ハンバートはロリータを愛していたのか。誰かを愛するという時それは多くの場合「永遠に」「ずっと」「死が二人を分かつまで」である。ハンバートがロリータを愛したのは彼女が12歳から15歳までの二人が自動車で旅をした間の時間である。
そしてロリータはその愛らしい時間をハンバートに与え、普通の女になって去ってしまった。「愛していると言ってたくせに」どーのこーのと騒ぎになるより都合よい終わり方ではある。かくして都合よくロリータを手に入れ都合よく別れられ奪った男に復讐し、病死している、都合のよいハンバート。
しかし読まずにはおられない不思議な怖ろしい魔力の小説なのである。
ラベル:小説
posted by フェイユイ at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ジェイ・チョウ:大陸コンサートで会場総立ち

ジェイ・チョウ:大陸コンサートで会場総立ち

というわけでその模様はこんな風。周杰倫成当晩人气王
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そしておまけ
周杰倫人形と周迅人形
ジェイはそっくりだけど周迅がこれって!???
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posted by フェイユイ at 20:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「ロリータ」スタンリー・キューブリック

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今、ナボコフの小説「ロリータ」新しい訳で読み直していて以前思った以上に面白かったので映画も観たくなったのだった。

この映画は大好きなキューブリック監督作品で1962年製作のものなので今までに観ていてもよかったのだが写真で見るロリータ役の少女スー・リオンが非常に可愛いとはいえロリータというには大きすぎるようで観る気がしなかったのだった。

原作と映画は違うものとはいえ、ロリータというのは一応年齢が重要だからして自分としてはロリータは15歳以下であって欲しいし。17歳でロリータはないだろ。一応原作のロリータは12歳で身長144センチ35キロから始まっているので。

というわけで今まで観てなかったのだが、ついに観る決意をし、結果色々と興味深く鑑賞できた。
問題のロリータは年齢的体格的不満はあるがやはり綺麗で原作にもある軽薄ですらある普通の少女を可愛らしく演じていたと思う。ロリータという名前ではなく中年男が恋をする年若い娘という役ならいいんだろう。でもやっぱりロリータなんである。胸も薄く腰も少年のような子供っぽい娘でなければ中年男にやられる痛々しさが感じられないではないか(こんな言い方していいのかわかんないが)

そしてストーリーは確かに原作をなぞってはいるのだが、全体からくるイメージが全く違う。
小説では彼の目を通してみたロリータや世界がハンバート・ハンバートの一人称で語られる。
映画ではハンバートの老いが強く感じられ憐れにすら感じられるが小説での彼は明らかにロリータとの逃避行の期間を享受している。少女愛好家が理想の美少女を我が物にしてその体を愛撫しながら旅行を続けるという夢のような体験を楽しんでいるのだ。
結局は一方的な嗜好を愛だと言い張っている異常性が感じられてそこが非常に面白いのだが、映画ではロリータという一少女に対する愛情がロリータのわがままで破られてしまったかのように見えなくもない。
ハンバートはロリータとの間に娘を作りその子が12歳になったらまた同じように愛し、その子が孫娘を産んだらまた、と考えているような男なのである。映画の彼はちょっと老けてるが実際はまだ30代後半なので。
12歳の少女のみを嗜好するからロリコンなのであってずっと愛し続けるなら普通の人である。

それにしてもやはり12歳の少女を愛する映画を作るというのは難しいことなのだろう。特に欧米圏では。
ナボコフもその設定を出版社に嫌われて閉口したと書いてあった。「農夫が12歳の少年を納屋で犯すという筋書きをリアルなタッチで描けばいい」と言われたそうでそういうものなのか、と変に頷いたりもした。

ところでロリータでもなくロリータ好きの男でもない自分のような女はこの小説や映画を好んでみるものだろうか。
ロリータと言えば日本には最古の長編小説であり最高のラブストーリーである「源氏物語」の紫の上である。
主人公の源氏が幼女でしかない紫の上を自分のものにしてしまうというくだりは痛々しくショッキングそのものだがその作者はもう少女ではない女性である。
少女ではない女性でもなぜか心惹かれるもしくは興味をそそられる何かがあるのか。

映画の話はどこかへ行ってしまった。背が伸びてしまったロリータと悪いおっさんのくせに憐れさをかもしだすハンバート、妙なインパクトを与えるクィルティ(ピーター・セラーズが怪演)物凄く存在感があって気の毒としか思えないロリータママなど、不思議に思える設定ばかりなのだが、これが精一杯だったのかもしれない。
最近の「ハードキャンディ」ですら巧妙なすり替えの物語だったと思えるし。
ジェレミー・アイアンズの「ロリータ」は未見。こちらも是非観たい。

監督:スタンリー・キューブリック  出演:ジェームズ・メイソン、スー・リオン、シェリー・ウィンタース、ピーター・セラーズ
1962年イギリス
posted by フェイユイ at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月21日

神G侠侶・第35集

史兄弟の3番目の内傷を治すには九尾霊狐の血が必要だったのに一窟鬼たちのせいで逃してしまったのだ。
一窟鬼たちは狼狽する。
九尾霊狐は数里四方の泥沼に住んでいて捕まえるのは容易ではないのだ。
襄はそれができるのは神G侠しかいないと言う。

神G侠=楊過は襄を連れて九尾霊狐を捕まえようと沼に近づいた。二匹の霊狐を見つけたが一軒の小さな家に入り込んでしまう。そこには白い髪の老女がいた。
老女の名は瑛姑。かつて傷ついた黄蓉を助けたその人であるが、娘・襄と楊過は知る由もない。
神G侠・楊過は内傷を負った者のために狐を渡して欲しいと頼むが狐と住んでいるのだという瑛姑は首を縦に振らない。

そこにどこからか一灯大師の声が聞こえた。
本人は遠くにいるのだが、声だけを届かせる技なのだ。声を頼りに近づくと一灯大師が倒れた慈恩・裘千仞の側に立っていた。金輪国師にやられたのだ。裘千仞は昔、瑛姑の子供を殺した事を悔い、彼女に許してもらうためやってきたのだった。
それを聞いた楊過は気合声を出して瑛姑を呼び寄せた。
倒れている男が子供の仇と聞いて瑛姑はもがき苦しむ。仇を討ってよいといわれても我が子を殺された悲しみは癒されるわけではない。
瑛姑は周伯通を連れて来てくれれば霊狐を渡すし、恨みも忘れると言う。

老頑童と気の会う楊過は引き受けた。

周伯通は百花谷で養蜂をしていた。楊過は瑛姑が会いたいと言っていると伝える。とんでもないという周伯通に楊過は武芸を仕掛ける。武芸好きの老頑童は大喜び。
楊過はあきらめたように出て行こうとするが老頑童が引き止める。楊過は老頑童の子供を死なせてしまい申し訳ないと一灯大師もと段皇帝が謝っていたと伝える。
老頑童は自分の子供がいたと聞いて驚いた。

周伯通は瑛姑に会いに行った。二人の子供の事を聞いて喜び、だがその子はもう死んだのだと思い出してしょんぼりした。可哀想な二人である。老頑童に子供がいたら強かっただろうし可愛かったはず。
瑛姑も泣き出し、老頑童は慰める。
側に倒れている慈恩・裘千仞を指し一灯大師は仇をとるがいいと言う。が、二人はもうそのつもりはなかった。瑛姑はもう昔の恨みは忘れるという。それを聞いた慈恩・裘千仞はほっとし息絶えた。一灯大師は彼の極楽往生を喜ぶのだった。

瑛姑から二匹の九尾霊狐をもらい受けた楊過に大師は殺さずに交互に少しずつ血をもらい内傷を治すとよいと助言した。
霊狐が可愛いのでこれを聞いてほっとしたよ。

楊過たちが史兄弟、一窟鬼の元へ戻るとみなひれ伏して出迎える。
皆で喜び酒を酌み交わそうとすると外で妹を取り戻しに来た郭芙の声が聞こえた。襄は名残惜しくも姉のほうへ帰ることにした。
襄は楊過に愛する小龍女に会えたら是非襄陽に一緒に来て欲しいと言う。
楊過は襄にもし困ったことがおきたらいつでも助けを呼ぶようにと言った。

ラベル:金庸
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2007年04月20日

神G侠侶・第34集

黄蓉が襄陽に戻りようやく郭靖は双子の子供達、襄と破虜を共に見ることができた。
郭靖は小龍女と楊過の事を心配した。郭靖が二人は16年後にまた会えるのだからと言うと黄蓉は二人が会えるかは縁次第だと答えるのだった。

楊過は義妹である無双に玉女心経の口伝と型を教え終わり、最後の解毒である断腸草を口にした。
陸無双と程英が楊過の部屋に食事を運んできた時、彼の姿はそこにはなかった。「しばしの別れだ」と書き残し去ってしまったのだ。泣き出す無双に程英は行かせてあげてと抱き寄せるのであった。

楊過は大鷲のG兄の元へ行き、G兄から与えられた木剣で修行を始める。これまで使っていた大剣と違い、軽い木剣は速さを求めるものであった。
小龍女がいなくなって10年の歳月が流れた。楊過は修行の末、敵がいないと思えるほど強くなっていた。
同じように独孤も敵がいなくなり山奥に隠居したが楊過は人助けをしながら小龍女を探すと決意した。そしてG兄と共に山を出た。

さらに月日は流れる。

開慶元年、蒙古は大挙して中原へ攻め込んだ。人々は家を焼かれ故郷から追われ地獄の日々を過ごしていた。
郭靖と黄蓉は襄陽に総攻撃をかけられる不安を覚え、各地の英雄達に助けを求めていた。
夫婦になって30年以上、二人の絆はより強いものとなっていた。だが二人の子供達は襄陽の城を離れていた。

成長した襄と破虜。そして郭芙は共に旅路を急いでいた。郭芙は相変わらずわがままで情けがないのだが、妹・襄は浮浪者たちを丐幇と思い込み優しくする。郭芙は騙されていると言って怒るが襄は丐幇の幇主に紹介するから襄陽に訪ねて来てと約束する。
狭い橋の上で郭芙が対向者と争えば謝る。この時の男は人形劇の人形を運んでおりその中に片腕のないものがあった。それは神G侠なのだという。大鷲に乗り人助けをする人気者なのだ。
それを聞いた襄はその人形がとても気に入ってしまう。それを見た人形劇の主は襄に神G侠の人形をあげようと言った。襄は喜び、是非襄陽に遊びに来てというのだった。

姉と違い、襄はくったくのない優しい気立てで可愛いですね。破虜はいまいちよくわかんないけど。それにしても郭芙もう随分いい年になってるはずなのにいつまでたってもこのわがままぶり。ん、結局、耶律さんとは何にもなかったのか。

渡しに急いだ3人だったが酷い寒さで黄河が凍り足止めを食らう。雪の中、集まった人々は焚き火に当たりながら襄陽の戦で郭靖・黄蓉夫婦の活躍の話を聞いた。
そして神G侠が民を苦しめる役人を懲らしめる話となり襄はもらった人形を抱き話に聞き入った。
そこに今から神G侠に会うという男が口を挟む。襄はそれなら私も連れて行って、と言うと郭芙達が止める間もなく男は襄の手を取って飛び去った。男は西山一窟鬼の一人。郭芙と破虜は後を追った。
男に連れられた襄の前に西山一窟鬼の面々が登場。作戦を練り楊過と戦うのだと言う。襄は約束が違うと驚く。

彼らの前に現れたのは、万獣山荘の主人、史のご兄弟だった。猛獣を意のままに操れるのだと言う。
気がつくと西山一窟鬼と襄は史兄弟の猛獣達に囲まれていた。彼らが狩りの邪魔をしたのだと言う。
九尾霊狐を逃がしたのだと責めた。忽ち一窟鬼たちは史兄弟の攻撃を受け、猛獣達をけしかけられた。
襄も豹に襲われそうになったがあわやという所で豹たちは去っていった。襄は赤ん坊の時、豹の乳をもらって飲んでいたので仲間だと思い込んだらしい。
そこへ登場したのが、神G侠。顔に皮をつけてわからないが勿論、楊過である。
史兄弟が攻めようとするが叶わない。一窟鬼たちを襲う猛獣を止めろというが血を見るまでは止まらないと言う。それを聞いた神G侠は襄に耳を塞がせ不思議な力のある声を発した。
人間達も参ったが動物達は皆逃げ出してしまった。
一窟鬼たちは神G侠との果し合いをすっかりあきらめていた。そして神G侠に何なりと申し付けてください、と頼む。神G侠はそのうちの一人が細君に暴力を振るったのを見咎めていたのでこれからは大事にするよう言いつけた。

一窟鬼たちは大事な九尾霊狐を逃したことを詫びる。襄は九尾霊狐って。と訊ねた。
ラベル:金庸
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2007年04月19日

「大正四谷怪談」岸田理生・脚本、栗田芳宏・演出

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舞台劇である。時代は大正となっている。

昨日は優しい伊右衛門を褒めたがやはり伊右衛門は悪男だからこそ繰り返し作品となるのだと納得。また岩も忍従の妻だからこそ涙を誘うわけなのだ。

本作の伊右衛門は17歳の藤原竜也。長い睫毛が影を落とす美貌の悪い夫を演じる。10歳年上で娼婦である妻・岩への態度の冷酷なことこの上ない。「暑気払いだ」で岩を殺してしまうくだりは酷すぎる。
いつも別の女を抱きにいく若い夫・伊右衛門を盲目的に愛する岩を演じているのは女形の松井誠。
岩を女形が演じているのが興味深い。ここまで従順に仕える女を演じるには女形でなければ無理なのかもしれない。伊右衛門を愛する為だけに存在する女という夢想のような女は女形だからこそ演じられるのだ。伊右衛門を愛しぬく己に酔わなければあり得ないだろう。
岩の義妹(岩の家の養女となった)袖に寺島しのぶ。病気の夫を抱え娼婦として生きる女を演じる。
伊右衛門の生家の下僕として働き、伊右衛門が東京に出てからも寄り添い仕えることが運命と決めている。金を稼ぐ為に何でも屋としてどんな仕事でも引き受ける。その金を伊右衛門のために使う。岩の義妹・袖を心から愛しているが実は袖は養女に出した実の妹なのだった。

登場人物は以上の4名だけ。舞台装置もシュールな背景が据え付けられているだけで、雷の音や音楽が響くだけである。小道具も新聞紙のようなものとスカーフとナイフだけのシンプルな舞台。
4人の台詞だけで物語は進む。

豪華な出演人だが、本作で最も惹かれたのは藤原=伊右衛門ではなく多分一番地味な出演者であろう田山涼成の直助であった。
貧しい出生で末娘を養女に出すという父親を、13歳の身で働くからと引き止めた直助。裕福な伊右衛門の家で使われながら岩の家に養女に行った妹・袖に叶わぬ恋心を抱いてしまう直助。やがてそれを父に知られ殺してしまった直助。
家を出た伊右衛門の後を追い、しなくともいいのに彼を慕い仕える直助。娼婦として生計をたてる袖から「買ってください」と頼まれ実の妹と知りながらそれが言えずその体を買うしか道のない直助は生きながらして地獄にいるとしか思えない。
演じる田山涼成は小柄で失礼ながら見栄えのする風貌でもないが(DVD写真でも一番下の目立たない位置に窮屈そうにおられる)それだけに卑小な直助が生きていこうとする最後は涙を覚えずにはいられない。

本当言うと何を感動していいのかよくわからないのだが、何故だか妙に感動させられれてしまうのだった。
岩はやたらと伊右衛門伊右衛門でどうかしてるという所だし、伊右衛門が悪党と言っても岩と直助に当たっているだけのしょうもない奴のようであるし。何の義理もないのに(彼の中ではあるのだろうが)伊右衛門に従う直助というのも今現代となっては不可解な存在でしかないだろう。
だが伊右衛門、岩、袖が死んで地獄に堕ちてしまい自分は百年生きようと言う。百年すれば彼らは生まれ変わり姿かたちは変わっても自分にはわかる。それを見届けてゆっくり死んでいこう、という直助の決意は何の意味もないようだが泣けてしまうのだ。

他の3人もいいのだが直助の心細い立ち姿にすっかり負けてしまったのだった。直助は他の3人から取り残される存在なのだがそうした古臭い人間に悲しさを見てしまうのだ。

ここのところ続けて「四谷怪談」ものを観て同じような設定でこうも豊かにバリエーションが作れるものかと面白かった。
名作というのは力強いものだと改めて感じたものである。

脚本:岸田理生 演出:栗田芳宏 出演:藤原竜也、松井誠、田山涼成、寺島しのぶ
1999年日本
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「ニエズ」のプロモーションビデオ

ドラゴンCDさんから「台湾ドラマ「ニエズ」のプロモーションビデオが完成しました」という情報をいただいたんですけど。
 
ここをクリック→「ニエズ

ひとつは<関西版>、もうひとつは<全国版>ということらしいんですが、なぜこのプロモーションビデオが作られたのか知らないんですよー。日本字幕ついてるし。なぜ?なぜ?

知ってる方いたら教えてください〜。

追記:一応、ドラゴンCDさんに伺ったら

「台湾ドラマ「ニエズ」の日本でのライセンスを弊社で取得致しました。ビデオは宣伝用に製作をさせて頂きました」

だそうです。何かが起こる???!


ラベル:ニエズ
posted by フェイユイ at 18:08| Comment(12) | TrackBack(0) | 台湾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月18日

「嗤う伊右衛門」蜷川幸雄

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心に残るラブ・ストーリーだった。「四谷怪談」をこういう愛の形に変えられるとは思いもしなかった。
「四谷怪談」の決め台詞「うらめしや」は「愛している」という意味だったんだ。

蜷川映画今まで観た2作が芝居の呪縛から逃れられてないのと脚本の物足りなさと構成・演出に不満を感じたが、本作は全くそういった奇妙さがなく時代劇と芝居的要素がうまく混じりあっていい風味になっていた。
台詞のうまさは芝居的要素がうまく作用している。美術に関しても同じように効果的に表されている。芝居的というのではないが長屋のぬかるんだ地面や荒れた部屋の様子。相反して伊東邸の大きな花活けの絵など舞台を思わせる。

主人公・伊右衛門が唐沢寿明なのは軽すぎるのではないかと思ったのだが、観ていく内にその軽さが何かこれという取り得のあるわけでもない伊右衛門にちょうどいいと思えてきた。彼は頼りない存在で一見優柔不断のようだが実は一途で自分を偽ってはいないのだ。縁あって民谷家の岩と結婚し民谷家に入ることになるが顔に酷い疱瘡の痕が残る彼女を心から愛するのだ。
岩は武家の娘らしく気位が高く自我が強く初めは控えめな伊右衛門に反発するが彼の優しさに気づき深く愛する。
だが愛し合うゆえに二人は引き裂かれ別々の生活をすることになってしまう。

一般的に知られる「四谷怪談」そして先日観た同じ蜷川監督の「魔性の夏」と比べると実に面白い。
だが伝えられる「四谷怪談」と同じ部分もありそういった幾つもの要素が複雑に効果的に組み直され感心するばかりである。
「魔性の夏」の伊右衛門は岩に酷く非人道でそれに対し岩は観客の同情を乞うような耐え抜く良妻として描かれている、古臭い印象が残る。
引き換え、本作の二人の魅力はどうだろう。特に岩は現代の若い女性のようなイメージを受ける。頭がよくしっかりしすぎて男を遠ざけてしまう。適齢期を過ぎていても周囲から笑われていても自分がよければいいと強がり結婚などしなくてよいと考え働いている。晩婚で結婚した夫にも思ったことをはっきりと言い放つ。だが、心が通いあってからの岩は一途で女性的な優しさを持っている。なんて可愛いんだろう。
そんな岩をずっと思い続ける伊右衛門はそういう女性にとって理想の男性のように思える。
岩を演じた小雪は顔半分爛れていても美しく、きりりとした声と姿勢に強い女性を感じさせる。微笑むと可愛らしくて素晴らしかった。
伊右衛門は弱々しいようだが罪なき子供を殺した梅を怒り殺すのがむしろ毅然と感じた。

あちらでわがまま娘だった梅はここでは哀れな女になっている。お調子者で岩の妹・袖に恋していた直助はここでは妹・袖を強姦した筆頭与力・伊東喜兵衛を追い詰めていく。が、直助は実は妹袖を恋し姦していたのだった。この辺は直助と袖は恋仲だったが実は兄妹だった、という物語に基づいているようだ。
映画の最後に突然美形の侍が登場するがこれが佐藤与茂七であった。名前だけ登場というところなのか。

御行乞食・又市(香川照之)が物語の狂言回しとして登場。前回観た映画の時は悪く言ったが本作ではよかった。美味しい役だし。

監督:蜷川幸雄 出演:唐沢寿明、小雪、椎名桔平、香川照之、池内博之 、六平直政 、井川比佐志 、藤村志保
2003年日本

台詞が徹底しすぎて聞き取りにくく字幕が欲しいと思った人が少なくなかったらしい。自分は映画で聞く現代言葉が嫌いでむしろ昔言葉の方が聞きやすいのだが。
しかし字幕が欲しいなんてこういう言葉ってもう死語なのか。だから時代劇なのに現代言葉で話す映画が作られるのか。
posted by フェイユイ at 22:07| Comment(0) | TrackBack(1) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月16日

「魔性の夏 四谷怪談より」蜷川幸雄

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四谷怪談。日本人なら誰でもそのタイトルくらいは聞いたことがあるし、内容をよく知らなくてもお岩さんがどんな風に現れるか何かの形で見たことはあるだろう。
私もその程度には知っていたけど何しろ怖くてそれ以上に映画などを観るのはこの年まで出来なかった。是非にと思ったわけでもないが蜷川映画を観たくてあえて挑戦してみた。

「青い炎」の時に感じたようなふらふらしたまとまりのない脚本であった。主人公はこの作品ではお岩さんではなく夫の伊右衛門なのだがいまいち焦点が定まってないために短い作品なのに散漫に感じるのだ。
音楽もなぜか軽快で怖い雰囲気を無理にかきたてるものではないのがいい。
が、舞台的要素が効果的に使われている場面もいくつかあって並列的に同時に物事が行われる。こちらで人が殺され、隣でも人が顔の皮をはがれ脇に人が立っている、などといった映像は面白い。

侍・伊右衛門は剣の腕は立つのだが、貧乏で傘張りや凧作りで生計をたてるしかない。彼の妻・岩は美しく聡明でそんな伊右衛門に甲斐甲斐しく仕えていた。
だが裕福な隣家の娘うめが伊右衛門に一目惚れしてしまう。娘に甘い父親は伊右衛門の妻・岩に顔が醜くなる毒薬を服用させ伊右衛門が離縁するよう企んだ。
岩に毒を飲ませうめと結婚するよう進められた伊右衛門は自ら岩が毒を飲むよう促していく。


わがまま娘うめと貞淑な岩が極端で面白い。うめを演じるのは森下愛子何も言わなくても顔にそのままわがままが出ている。
岩は高橋恵子。色っぽさもあって美しい。
恨みがあって幽霊となるのか、幽霊などいないのに恐怖で見てしまうのか。
この場合は後者で伊右衛門が何もないのに気が狂っていくというのが面白いと思うのだが、その辺もどっちつかずでそうしたかったのかもしれないけど、私はいない幽霊を見てしまうという恐怖を描く方が面白い、と思う。大概最後にでもいるんだよね、っていうオチがつくけど。それは好き。

岩の妹そでに夏目雅子。綺麗だ。
この話が赤穂浪士の話であるというのも把握してなかった。仇討ちだけに身を捧げて妻を顧みない夫(勝野洋)を持つそでは直助(石橋蓮司)から夫は死んだと言われ信じて結婚してしまう。
姉・岩も男のエゴに殺されたのだが妹そでも愛されながらも自分勝手な男達に追い詰められて死を望む。気の毒な姉妹なのだ。
石橋蓮司はそでに恋焦がれている男の役でしょうもないのだが一途なので可愛い気もする。
そでの夫与茂七は仇討ちだけを目的にしていて顔も体も立派(勝野洋がってことだが)なのに最後まで伊右衛門に勝てないのはどういうこと。弱すぎる。

しかしこの話も殺さずともいいのに殺してしまう話のようで蜷川氏はそういう物語が好きだということなのだろうか。

監督:蜷川幸雄 出演:萩原健一 関根恵子(高橋恵子) 夏目雅子 森下愛子 小倉一郎 石橋蓮司 勝野洋
1981年日本

しかし毎年夏に日本人を怖がらせている鶴屋南北という人は凄いものである。

ラベル:ホラー
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2007年04月15日

第二十六屆香港電影金像獎

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ひえ〜お茶目で可愛いゾ

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第二十六屆香港電影金像獎

おお!まだ観てないので偉そうには言えませんが、「父子」が最優秀作品ですね。「満城尽帯黄金甲」といい「夜宴」といい家族ものが多いようですね。
そしてジェイは「最佳原創電影歌曲賞受賞」です!おめでとう!
ずっと下の方の写真も楽しめますぞ。

例えば
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カモーン!!         ぶちゅう!!         うまかった?!

日本語記事
posted by フェイユイ at 23:46| Comment(2) | TrackBack(1) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神G侠侶・第33集

楊過と小龍女について話しながら陸無双と郭芙は言い争い剣にまで手を伸ばす。それを見た程英と耶律斉が間に入った。
郭芙相変わらず懲りませんがその品位のなさはとても郭夫妻の娘とは思えないという言葉にぐさり。

楊過と小龍女は寄り添っていたが小龍女の心はもう決まっていたのだった。花が咲き乱れる木の下で添い寝をしている間に小龍女の姿は消えていた。
目覚めた楊過は小龍女の名を叫びながら皆に訊ねる。そして昨日黄蓉が小龍女に話しかけていたことを咎め、憎しみに満ちた声で恨みを言う。あまりの興奮に気絶してしまうほどに。
黄蓉は自分の言ったのは楊過を癒すには断腸草を用いて欲しい、と言っただけと言う。

皆は小龍女を探しに山の中へ入っていった。どこにも姿はない。突然楊過は駆け出し切り立った崖の淵に立った。そこには楊過が彼女の髪にさした花と断腸草が落ちていた。
そして側の石には彼女の文字で「16年後ここで会いましょう。小龍女」と刻まれていた。16年後。あまりの長さに楊過は茫然としてしまう。
それを見た黄蓉は「よかったわ」と言う。驚く楊過に黄蓉は「小龍女さんは南海神尼に会ったの。仏法と武芸に秀でた素晴らしい女僧です。16年に一度中原に現れ悪者は運がつき善人には慈悲をかける。小龍女さんは気に入られ弟子となって南海に行ったの」と言う。
それならなぜそうと書かないのか、と楊過は疑う。黄蓉は自分も16年という年月から推測しただけだが他にそのような人はいないと言い、大師にも賛同させる。
楊過は石に彫られた字と二人しか知らない絵を見て信じ、断腸草を飲む決心をした。
大師はそれを飲むには点穴をして心脈を守り服用すること、間を空け次第に量を少なくする事を楊過に教えた。
楊過の無事を見た黄蓉は安心して襄陽に帰ることにした。楊過はここを離れない、と言う。陸無双、程英が楊過につきそう事になり、皆は旅立っていった。黄蓉は陸無双、程英に楊過が治ったら襄陽に来て欲しいと頼んで去った。

残った楊過は二人に義兄妹の契りを結びたいと言う。そして情花を根絶やしにすることにした。
そして断腸草で次第に毒が消えていった。恩返しはしてやれないという楊過は陸無双に古墓派の奥義・玉女心経を口伝しようと約束した。

襄陽にいた郭靖は蒙古軍が流行り病で撤退したという知らせを受けた。郭靖は流行り病は宋の者達も苦しめているだろうと心配する。
そこへ黄蓉たち一行が戻ってきた。
ラベル:金庸
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「青い炎」蜷川幸雄

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なんだかとても断片的に色々と考えてしまう映画だったので、これから書くことも切れ切れになってしまうに違いない。
とりあえず書いていこう。

17歳の少年秀一の他を許せぬ純粋さイコール愚鈍さでもあるのだが。二宮和也が演じる事で繊細で美しく見えてしまうのはずるいのか、映画として当然か。全てが早とちりで他の方法も手段もあると言うことが幼い彼には見通せない。
なら大人なら全てが把握できるのか、というとこれが少年以上になんの知恵もないとしかいいようがない。この映画で一番腹立たしいのはこの母親(父親は当然だが)でもう少し考える、と言うばかりで息子を苦しめ最悪の結果に陥れてしまった。この映画の主題は「人間同士はきちんと会話をしないと何も伝わらない」ってことなのかも。

秀一は義父と昔住んでいた頃を覚えてないという。それが何か物語の大切な鍵なのかと思っていたら放りっ放しだった。母親の思惑もどこへ行ったのか語られないままだったので一体なんだったんだろう。

秀一は愛する母妹との生活を守ろうとして二人によって死へと導かれてしまう。
なぜ母と妹は彼の人生を終わらせてしまったのか。勿論わざとそうしたわけではない。ただそこまで考え付かなかったのだ。
二人が「その事」を話していれば秀一の行動は変わっていたのだから。
クラスメイトの石岡に対しても秀一は彼を守ろうと助言をしたことで秀一自身を追い詰めるきっかけになっている。
どちらも随分空しい結果ではないか。
ただ母親の中途半端な考えも色々な出来事の尻切れ蜻蛉な感じもリアルといえばそうである。物事はなにもかもキッチリ進むわけではない。ただし映画としてはどうしても散漫な印象を受けてしまう。

監督は舞台での優れた演出家・蜷川幸雄であるがやはり芝居と映画では随分違うのだろうな、と思えてしまう。
舞台では主人公の思いを吐き出す独白シーンができるし幻想的な場面を織り込んでいけ。しかし映画では会話と行動と景色だけが主人公や登場人物の心を表現していく。過剰だとうるさいし、説明が足りないと伝わってこない。
この映画での会話は時々大げさで舞台的なニュアンスが出ていたり、秀一の部屋の様子なども舞台のような雰囲気がある。
それらは楽しくもあるのだがちょっと妙な感覚もある。舞台と映画の違いを考えさせられる。

主人公・秀一の二宮和也はテレビでは見慣れているが演じているのを観るのは初めてかもしれない。こういった思いつめていく少年が似合っていた。
秀一のガールフレンド紀子は松浦亜弥。下手だという批判を受けまくっているが私はあまり気にならなかった。女友達もいないし犬だけが相手のような変わった少女にはちょうどいい。大体、映画ではよく主人公のガールフレンド役の少女は一人でいるがアレは不思議。普通女の子は女の子と連れ立っているものだ。友達の一人もいないなんてかなり変わっている。なのに変な女としては表現されてないことが多い。この映画でも彼女について何の説明もないが完全に孤立した女生徒だった。なぜなんだろう。

義父は山本寛斎。どうしてこの配役を思いついたのか凄い。妙にリアルで怖い。一番面白かった。
秋吉久美子。本人に恨みはないがこの母親ほど嫌な存在もない。大体本人から受けるイメージとしてこんなうじうじしたキャラクターはどうなのか。もっと徹底して暗ーい女優でもよかったのかもしれないが、どっちにしても嫌いだ。こんな気持ち悪い女なのにあのからっとした表情って、不思議すぎ。

作り方次第でどうにでも変わってしまう映画のようだ。二宮和也のイメージもあり軽い感じで仕上がっている。
殺したこと自体に罪悪感はないとしか見えないし。
「殺されてもかまわない人間はいないけど、人を殺さなければならない事情を抱え込んでしまう人はいる」と紀子がいうのだが、そういうほどに秀一が追い詰められているのか、個室もあって裕福にしか見えないし、どうしようもなく殺すしかなかった、とは思えない。その辺り、他人から見ればどうにかなりそうな状況であるのにむかつく、邪魔になるという理由で人を殺してしまう。秀一の普通さが現実の犯罪と重なり却って怖い感じはする。
そういった動機の浮薄さ、殺した後のあっけらかんな様子、「今風」といって説明するしかない感覚なのだろうか。
映画自体が秀一の悲しみだけを訴えているのも怖い作り方である。

あの刑事も先が見えない、というかあれでいいのかね。自分自身悔やまれるよな。

人生がどうなるのか誰も知らない。

監督:蜷川幸雄 出演:二宮和也、松浦亜弥 、鈴木杏 、秋吉久美子 、中村梅雀[2代目] 、山本寛斎
2003年日本
ラベル:犯罪 青春 家族
posted by フェイユイ at 20:49| Comment(2) | TrackBack(1) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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