映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2007年05月31日

「レイヤー・ケーキ」マシュー・ヴォーン

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前にも何度となく書いたと思うんだけど、私はどうしてもこういう暗黒街みたいな話が嫌いではないつもりなのにすんなり頭に入ってこない。
だもんで「インファナル・アフェア」も随分苦労してやっと理解したという人間なのだが、今回も麻薬ビジネスストーリーということで1度目は苦悩した。というより「007/カジノ・ロワイヤル」を観たばかりなのでダニエル・クレイグ演じる「名なしの男」のキャラクターがいまいち掴めず混乱したのかもしれない。なんだかシリアスにかっこつけていて事実切れ者という設定なのに且つ臆病で銃が苦手でナイスバディガールに弱いというのが上手く消化できなかったのだ。
2度目を観て007が遠ざかり「レイヤーケーキ」のダニエルがよく見えるようになった。
名前がない男(名前を教えない男というべきか)である主人公はビジネスとして麻薬取引を行っているのだが、銃は苦手で暴力は振るわない。冷酷でもないがオチャラケてもいない「普通の男」といったタイプをダニエルが渋く演じているのがわかってきた。

監督のマシュー・ヴォーンは「ミーン・マシーン」「スナッチ」「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ 」などのプロデューサーをやってきて本作が初の監督作品ということらしいのだが、前述の映画に比べるとシリアスで固い雰囲気である。
表向きの不動産賃貸業を真面目に勤めながら、裏稼業で麻薬売買も成功し、稼いだ状態で足を洗おうと考える若い男が裏社会の奥に引っ張り込まれたことから次第にヤバいことになっていく。
という話なのだが、私としてはもう少し表の稼業を見せて普段の善良な顔と裏での悪の顔を両方見せて欲しかった気がする。勿論、友達や好きになる女性の比較なども。
そうしてやはり表に戻ろうとした時、バーンと言う結末になる、というほうが判りやすかったと思うのだが、結構評価もされているようなのでこういう語り口が好きな人も多いのだろうか。
ダニエルが好きで観てるのにこう言ってはなんだが、かっこいいダニエルがやるよりもっとかっこ悪い男がやった方がリアルで面白かったような気もするし。普通の若造か、普通のオジサンみたいな人。それじゃ観客は減るだろうけど。
表の顔をもっと出していた方が最後の台詞も決まると思うのだが。

とはいえ、ダニエル・クレイグ目当てで観るならなかなかに見ごたえあるものではあった。
白い布団の中でごろごろしてたり、殺人を犯して苦悩していたり、最後の撃たれて死んでいくダニエルも色っぽくて実によいのだった。
ナイスバディガールともう少しでいいところ、ってとこで悪い奴に浚われてしまうのも、うれしい場面。
スーツ姿もよいけれど、ピッタリしたTシャツがそそるダニエルなのである。
殴られて血だらけの顔で、ジーン、モーティと並んで酒を飲んでる場面もステキ。
相変わらずある青い目のアップとジーンズをはいた引き締まった臀部がたまらなく魅力的なのであった。

ところでジーン役のコルム・ミーニイみたいな顔を見ると凄く愉快になる。

監督:マシュー・ヴォーン 出演:ダニエル・クレイグ 、コルム・ミーニイ 、ケネス・クラナム 、ジョージ・ハリス 、ジェイミー・フォアマン 、シエナ・ミラー
2004年イギリス


posted by フェイユイ at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | ダニエル・クレイグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月29日

「ロング・エンゲージメント」その2 ジャン=ピエール・ジュネ

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今夜になりました。

第一次大戦。ドイツ軍と睨みあうフランス側の塹壕で自らの手を撃ち抜いた5人の兵士がいた。負傷すれば帰国できることを狙った故意の行為ととられ(サッカーでも一番反則とられちゃうね)死刑を宣告される。その処罰はドイツ軍とフランス軍の「中間地帯」に放り出されることだった。

5人の兵士のうち、一番若い兵士マネクには恋人・マチルドがいた。彼女は不自由な足を懸命に引きずりながらマネクが生きている事を信じて探し続ける。

全編が遊び心で溢れている作品だった。戦場シーンが非常にリアルで惨たらしく感じる部分も多いのだが、一方大変にコミカルで明るいノリでやっていく映画なのである。
登場人物も多い上、饒舌な語り口で情報やエピソードが溢れるほどつまっている。
私は初めて観る監督の作品だったが古めかしい色彩と愉快なキャラクター設定、テンポいいストーリー展開など凄く楽しめたのだった。
コメンタリーで知ったことだが、様々な場面で監督が好きだった映画へのオマージュが込められていてその念の入れように驚くほどだ。
だがこのコメンタリーで非常に困ったことに陥ってしまう。大変楽しんで心地よい気持ちになっていた私なのだが、この戦場シーンがスピルバーグの「プライベート・ライアン」を徹底して取り入れられていることを知り、突然熱が引いてしまったのである。
「プライベート・ライアン」はリアルな戦闘シーンを作り出したことで多くの映画製作者に影響を与えている。だが私はあの作品でのスピルバーグ監督の意識がどうしても受け入れ難いのだ。それと本作においてその技術のみに影響を受けたものとは違う(と思いたい)が人を傷つけることへのリアルさの追求とそれを楽しい見世物にしてしまうことにはどうしても反発を覚えてしまうのだ。

本作と「プライベート・ライアン」は違うのだが、監督自身が「大いに取り入れて作った」とあってはそれだけで好きな気持ちが半減してしまうのだった。

もう感想を書くのもどうかと思うほどだったのだが、それ以外はとても好きな作品だった。
マチルド役のオドレイ・トトゥのマネクへの一途な思いも可愛らしい。何かあるごとに「これがうまく行けばマネクは生きてる」という占い(?)をするのがいじらしくて特に出兵するマネクの乗る車より早くカーブの場所へ行けたらマネクは生きて帰ってくる、と願って不自由な足で必死で駆けるところは涙がこみ上げてくるほどだった(今思ったんだけどあのシーンは「初恋のきた道」に似てるような。でもオマージュではないようだ)
そしてついにマネクを探し出した時の眩しい日差しの中にいる彼の姿が愛らしくマチルドと彼の幸福を願わずにはいられない思いだった。
この作品でマネクを演じたギャスパー・ウリエルのキュートなことといったら。彼はいわば助けをまつ姫君なわけで王子が惚れこんで捜し求めるだけの魅力を溢れさせていた。姫の宿命としてそれほど活躍はしていないが、調達の鬼・セレスタン・プーに蜂蜜を塗ったパンとココアをねだるシーン、マチルドの胸に手を当てて添い寝するシーンなど印象的な場面で茶系に調節された色彩が彼の美少年ぶりをより強調しているようだ。じつは「かげろう」の彼よりこちらの方が美形であったようにも思えるが多分姫だったからだろう。無論「かげろう」の方が彼の才能を堪能できることは確かである。

また脇役でジョディ・フォスターの姿を見、彼女の流暢なフランス語を聞けたのは嬉しい驚きだった。
彼女のクールな美貌は目を引かずにはおられない。フランス人ではないジョディなのになぜか他のどの女性より古きヨーロッパを思わせる美しさであったと思う。古風な気品を感じさせてくれるのだ。

というわけでスピルバーグの名前さえ聞かなければ存分に楽しめた一作であった。
問題のコメンタリーもその発言以外は監督がいかに映画に対して多くの思いを注ぎ込んでいるかが伝わってくる。
ゴッホの住んでいた家に日本人が大量に観光に来るという話も関係ないのにおかしかった。私だって行けば観てしまうだろう。後、ジョディのベッドシーンで男性の尻が見えるのは珍しいことなのだとか。日本ではその男性の尻に処理が加えられたとか。DVDでは映ってますが、男の尻すら映してはいかんのか、日本は。ほんとかな。

もう一つ忘れられないのがベッドでマチルドに甘えていた猫。ふくふくと太ってごろごろに甘えていた。なんであんなに甘えてたんだろ。マチルドの手に何か塗ってたのかな。可愛い。

監督:ジャン=ピエール・ジュネ  出演:オドレイ・トトゥ 、ギャスパー・ウリエル 、ドミニク・ピノン 、クロヴィス・コルニヤック
、ドニ・ラヴァン 、ティッキー・オルガド 、マリオン・コティヤール
2004年フランス
posted by フェイユイ at 23:09| Comment(6) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「ロング・エンゲージメント」ジャン・ピエール・ジュネ

大変面白く楽しんで鑑賞し終わり、さてどう褒め称えようか、と思いつつ監督のコメンタリーを少しだけ見たら「戦場シーンは『プライベート・ライアン』を参考にした。あれほど凄い戦闘シーンはない。うまくいかない時はスタッフにも必ず見直させた」みたいなことを語られていて急激に醒めてしまった。

作品自体をきちんと見た上で面白かったのだから感想を変える必要はないわけだが知ってしまった以上、もう作品への気持ちが半分くらいなくなってしまったのはどうしようもない。コメンタリーを見なければよかったんだが、褒め称えた後で種明かしを知ったらもっと落ち込んだろうから、まあよかったと言うしかない。
しかし言葉ひとつでこうも関心を失ってしまうんだから私も適当だとしか言いようがないな。

そう言われてみれば(原作ありみたいなので監督の創作ではないのだが)若い兵士を懸命に探すというのが同じだと言えば同じだ。後は違うけど。そして探しだす兵士がどちらも凄く魅力的で可愛らしい。可愛くなかったら探し出してもがっかりだが。

今夜また続きを書くつもりだが、「こんなことってなあ」という気持ちで少しだけ書いてみた。

これも後で知ったが「アメリ」の監督と言うことも少しだけマイナス点に。ってまだ「アメリ」観てないんですが。勝手な思い込みで。
スピルバーグも素直に賛辞してるとこや様々な監督への様々なオマージュを盛り込んでいて映画が大好きな人なんだろうなあ、とそれなりに感心。
確かに凝ってて楽しめる作品だとは思えます。ちょっと残酷な部分が平気ならば。

「プライベート・ライアン」というのは戦闘シーンにおいて多くに影響を与えているのだなあと感心はします。
posted by フェイユイ at 10:24| Comment(4) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月28日

ジェイ・チョウ、「カンフーダンク」記者会見に出席

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ジェイ・チョウ、「カンフーダンク」記者会見に出席

過激なシーン、どころか。はははっ。ジェイらしいというか、そういうシーン苦手なんでしょうねー。もし要求があればアクションシーン同様、挑戦しているのでしょうかー?
慌てず、一歩ずつ成長していただければ、と思います。
でもなんだかジェイ・ファンって彼のキスシーンは観たくないのかもー。私もだけど(笑)
posted by フェイユイ at 22:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「11'09"01/セプテンバー11」 

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2001年9月11日米国同時多発テロ事件をモチーフに世界各地の11人の映画監督がそれぞれの視点で描き出している。
特にNYワールドトレードセンターが崩れ落ちる場面がその象徴としてイメージされている。一つの作品の長さはテロ事件の日を表し約11分となっているという。

さすがに11人の監督の作品となると好みや不出来が気になってしまうものもある。
が、また人の感情はそれぞれなので各種の作品の中から様々な意見、感動、反発、が生まれてくることが重要なのだろうと思う。
様々な視点と書いたが見通してみると意外とアメリカに対して皮肉な見方をしている方に偏っていたようにも思えるのだが。

この映画作品を観たのは中にイギリス、ケン・ローチ作品が入っていたからなのだが、私はまだローチ映画をそれほど観ている者ではないのでまたさらに監督の凄さを見せ付けられてしまった。
「藍空」から読んでいただいていれば判っていただけると思うのだが、中南米の映画から見て取れるアメリカ合衆国というのはまさに「敵」そのものである。(例えば日本人の多くが)アメリカ映画などで洗脳されてしまっている単純に愛すべき国家ではないということをこの短編の中でローチ監督は描き出している。同じ日付で過去に悲劇が起きていたのにアメリカが攻撃された時だけを記憶に残すのか。
9:11をテーマにということでケン・ローチ監督の視線は鋭い。

順番めちゃくちゃだが、最初の作品、サミラ・マフマルバフ編(イラン)
イランに亡命したアフガニスタン人が核攻撃を怖れてレンガ造りの核シェルターを作っている。その中には多くの幼い子供たちが泥だらけになって原料を足でこねている。若い女教師がそんなものでは核を遮断できない、と言い子供たちを集めて授業を開始する。
子供たちの表情がたまらなく可愛らしい。若い教師の説明が適当すぎるからだが、幼い子供たちは教師が言う「ニューヨークの大きなビルに飛行機がぶつかったので黙祷しましょう」という意味がさっぱりわからない。
核シェルターのための泥を少ない井戸水でこねている子供たちに遠い国の大事件を理解しろと言ってもしょうがない。むしろ亡命した子供たちの姿の方に胸が痛む。が、子供たちは明るく笑っていて天真爛漫そのものなのであった。

ユーセフ・シャヒーン編(エジプト)
1983年にベイルートの自爆テロで死んだアメリカ海兵隊員の亡霊との会話で物語が進む。
ここでもアメリカに対しての批判が行われる。映画監督を主人公にしたストレートな作りとなっている。

イドリッサ・ウエドラオゴ編(アフリカ・ブルキナファソ)
僕たちの町にビン・ラディンがいたら!?捕まえたら莫大な賞金が転がり込む!!
よく似た男を見かけたことから病気の母親を持つ少年とその仲間達がその男を捕獲せんと武器を手に行動を起こすが。
おかしな話だがいかにも田舎町の少年達がやらかしそうな出来事だ。病気の母親の薬代を逃してしまった少年の涙は悲しいが、友達思いの裕福な仲間によって一件落着。よかった。

ショーン・ペン編(アメリカ)
正直言ってちょっと気持ち悪かった。自国を風刺した、といってもそこに多くの人々の命があるのに日当たりがよくなったーって。
あまりにブラックでぞっとした。自国を批判するのは勇気がいるがッ私の好み的にはもっと違ったアプローチでやって欲しい。この作品は結構気に入ってる人も多いのだから謎。

今村昌平編(日本)トリである。
この作品も(日本人の感想としては)賛否大きく分かれていたようで。私は実は今村監督も入っていたとは知らず驚いて鑑賞。
さらに作品として一番面白かった。ケン・ローチは物凄く賛同したのだが、様々なフィルムを組み合わせて作り上げられた映像だったが、こちらは全くの創作ドラマで最もまとまった映画らしい作品になっていた(へんな言い方かな)
ただし設定が9:11と離れていてしかもかなり奇抜なものだったのが評価を左右してしまったのだろう。しかも日本ではこういう田舎を舞台にしたものはかっこ悪いと敬遠されるようだ。
私としてはもう冒頭の蛇男からぶっとんで見入ってしまった。なんで9:11なのに日本兵の蛇男???今村昌平って自由すぎる。
しかもその蛇男は田口トモロヲだったのですね。最後まで気づかなく物凄い人がいる、と度肝を抜かれてしまった。生きたネズミも食ったし(違うだろ)
出演者がさすが今村監督がらみの凄い役者陣で見ごたえ充分。特に丹波哲郎スケベ和尚には涙もの。「豚と軍艦」ではかっこいい兄貴だったのに〜。蛇男・父が柄本明、母が倍賞美津子、他にも緒方拳、市原悦子、役所広司、麻生久美子など、11分間が濃い。
田口トモロヲ演じる日本兵・勇吉は聖戦と言われお国のために戦い、蛇となって帰ってきたのだった。
ネズミを食らい母に追い払われた勇吉は蛇のまま身をくねらせて山の中へ逃げていく。その姿が悲しい。
とはいえ今村監督のものはいつもなにやらおかしくてたまらない雰囲気があるのだが、これにもそのおかし味が溢れていて悲しいけどおかしい。という味わいがある。
最後に勇吉が水に入っていくとこもトモロヲ氏の素晴らしさもともなっておかしくてつい笑えてしまうのはどうしてなんだろう。そして笑いながらも悲しい。
聖戦というのはない、っていうことでこれは最後にテロリズムに対しての批判ということで他の作品とは違うものであるのか。
勿論、アメリカに対しても聖戦と称しての攻撃・侵略をしているのではないかと突きつけそれを否定しているのだと思うのだが。

追記:この作品が今村昌平監督の遺作だったんだ。ウーム、70代後半にして最後の映画でこのふざけた感覚。他の諸監督と全く違う奔放さ。
改めて凄い。


監督:サミラ・マフマルバフ[イラン]、クロード・ルルーシュ[フランス]、ユーセフ・シャヒーン [エジプト]、ダニス・タノヴィッチ [ボスニア]、イドリッサ・ウエドラゴ [アフリカ]、ケン・ローチ[イギリス]、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ[メキシコ]、アモス・ギタイ[イスラエル]、ミラ・ナイール[インド]、ショーン・ペン [アメリカ]、今村昌平[日本]
2002年フランス


ラベル:テロリスト
posted by フェイユイ at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月27日

「かげろう」アンドレ・テシネ

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優れた短編小説を読み終えた後のような暫し陶酔感に浸る。
戦争の悲惨さ、恐怖が現実のものとして迫ってくるリアルな描写であた。軍人である父親が戦死した後の母と13歳の少年とまだ幼い少女の3人家族がパリを逃れ南仏へと逃げる途中、襲ってくるドイツ軍の爆撃の中で17歳の少年と出会う。
家族は森の中を彷徨う内、出会った少年が見つけた屋敷に留まる事にした。

物語は2人の子供の母親であるオデール(エマニエル・ベアール)の視点で進んでいく。
夫を失いなんとか二人の子供を守らなければ、という思いが痛いほど伝わってくる。
その為、過剰なほどの緊張感を持つ母親を息子フィリップ(グレゴワール・ルプランス・ランゲ)は大人びた口調で励ましていく。
突然彼らの前に登場した謎の少年イヴァン(ギャスパー・ウリエル)は家族の心を大きく揺れ動かす。

イヴァンの描き方はミステリーな雰囲気を持っている。彼は善なのか悪なのか。フィリップは最初イヴァンに強く惹かれ、母親オデールは強い反発を覚える。
出生や以前の生活に関することには触れようとしないイヴァンの秘密が少しずつわかっていく。丸坊主なのは感化院を抜け出したからだ。イヴァンは同世代の少女には興味がない、と言いオデールと体をあわせる時には「自分にまかせて」と(多分)アナル・セックスを求めているということで今までは男性との性交渉しかなかったのだということなのだろう。
次第に自分に優しく接してくれるようになったオデールにいきなり「妻になってくれ」と言い、突如出来上がった擬似家族を続けて行きたいと願う。
説明はないのだが、学校に行ったこともなく読み書きも出来ないイヴァンのそれまでの生活を想像するとこの願いは彼が持つ最大の思いだったんだろう。
一瞬、ずっと続くかに思われた幸せな関係と生活が(いつ死ぬかもわからない戦時下でありながら)2人のフランス兵の出現を機に崩れ始める。
だがそれまでイヴァンを子供として扱っていたオデールがフランス兵の訪れの後でイヴァンを男として求めたのはなぜだったんだろう。
オデールはもしかしたら最初からイヴァンに惹かれてはいたのだが、母親である為それを打ち消していたのだ。彼を見る度に彼を信じたい、という気持ちが強まっていったに違いない。拳銃を隠したのはそれがあることでどうしても拭えない疑惑と恐怖を消してしまいたかったのだ。フランス兵が来た時、イヴァンがいなくなってオデールは彼を失う危機感を感じた。それでもう自分を偽るのをやめてしまったのだ。
だが、物語は非情な方向へと進む。

農家で鶏を盗んでいるところを捕らえられたイヴァンについて警察に問われた時、オデールは何も答えなかった。「友達です」と答えたのは息子のフィリップだった。フィリップはその頃、もうイヴァンに対し失望していたのだが、彼を見捨てる事はいわなかったのに、母たるオデールはここでも子供たちを守る為に不利な弁明を避けてしまったのだろうか。

暫くしてオデールは、イヴァンが尋問を受け、何も答えず自殺したという知らせを受ける。
茫然と座り込むオデールはイヴァンの安否を問うフィリップを傷つけまいとして「イヴァンは無事逃げ出したらしいわ。賢いあの子らしいわね」と嘘をつく。それは相変わらず子供を傷つけまいとする母親の気遣いだったのだが、オデール自身そうあって欲しいという願いがそう答えさせてしまったのではないだろうか。

子連れの母親が、17歳の素性もわからない少年と寝食を共にし、その体も求めてしまう、というのは異常な戦争という状況が作り出したあり得ないことなのかもしれない。
またイヴァンのほうからしても彼のような存在が教師であり母親である女性と体をあわせるようなことはなかったはずなのだ。

リアルで淡々とした描写がそうとは思わせないが、やはりこれも一つの不思議な寓話である。

原題の「LES EGARES/STRAYED」は迷子という意味のようで、不思議な状況に迷い込んでしまったオデールの心を表しているのだろうか。
日本語タイトルの「かげろう」は羽のある姿は一日だけと言うその虫の特性からなんとなくイヴァンのことを表しているような気がする。一日だけ心と体を解放してしまったオデールのことでもあるのかもしれないが。

読み書きができない人にそれを教えてあげる場面、というのはいくつもの物語で愛の形として表現されているようだ。
思いつくままに「嵐が丘」の小キャサリンとヘアトン。愛というのじゃないかもしれないがドストエフスキーの「死の家の記録」刑務所内で美しい青年に読み書きを教える主人公の男性。これも男同士で悪いが「カリフォルニア物語」でのヒースとイーヴなど。
自分の名前よりオデールと言う名前を覚えようとしているイヴァンと熱心に字を教えようとするオデールの寄り添う姿はこの映画の中で一番セクシュアルでもあった。

監督:アンドレ・テシネ  出演: エマニュエル・ベアール ギャスパー・ウリエル グレゴワール・ルプランス=ランゲ クレメンス・メイヤー
2003年フランス
posted by フェイユイ at 00:04| Comment(8) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月25日

「007/カジノ・ロワイヤル 」マーティン・キャンベル

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困ったね。ハートを射抜かれました。
私ときたら、007はピアース・ブロスナンではなく、ショーン・コネリーしか認めないね!というオールドファンなのである。
まあ、テレビで観たものなので思い出す声はコネリーじゃなく若山弦蔵だったりするが。
ショーン・コネリー=ボンドはあの太くてやや下がり気味の眉が男らしくて大人でステキなのであり、常に冷静、ゆとりある紳士なアクションなのであった。次々と現れる美女に対しても精悍且つ鷹揚なのでありその上ユーモアのある軽やかさをもつ大人の魅力を持ち合わせていた。
ロジャー・ムーアで別れを告げ「ネバーセイ・ネバーアゲイン 」で再びコネリーを観て喜んだ後はもう観ていないのだった。一応どのボンド役も顔を見たがその気になれなかった(どの気?)

今回、初の金髪碧眼のジェームズ・ボンドとなったダニエル・クレイグはボンド役を見る前に幾つか作品を観てその魅力は認知していたのでボンド役にも抵抗はなかった。

だがだが、クレイグのボンドはそれどころじゃなかったねー。さすがに今回の007には女性観客が多かった、というのが頷ける。
ブルーの瞳はクールなのになぜかしらん唇がいつも何か言いたげで意味ありげでむずむずするのだ。
金色の短髪もやや太めな感じのする鍛え上げられた肉体も凄く好きなタイプで観初めてこの新しい007に惚れてしまうのに時間はかからなかった。
(コネリーしか知らないので)コネリー=ボンドに比べると落ち着いたゆとり感がなくアクションもせっかちなのだが、それはジェームズ・ボンドの若い頃だという設定だということで何の問題もない。
ガンガン走って頑張ってるのにやたらと失敗してるのも若気の至りということでむしろ可愛く感じてしまうではないか。
美女と目が合うだけでうまくいってしまうのはさすがに007ならではの技。
しかも常にクールであろうとするジェームズがヴェスパーに惚れこんでしまい、シャワー室で泣く彼女を一緒に濡れながら抱きしめる場面(指なめなめ色っぽい)、彼女の裏切りを知ってからも水中に沈む彼女を救おうと我を忘れてがむしゃらに潜っていく様は心かき乱される切なさがあった。

ダニエル・クレイグの007はゲイの方々に大いに賞賛されているということで私はそうではないのでなぜなのかはよく判らないが、そういえば「カジノ・ロワイヤル」はボンドの拷問シーンがホモ・セクシュアルだということで昔話題になっていたのだが、未読なのでその辺もうまく言えない。しかしいきなりジェームズを捕まえて裸にし二人きりになって(なぜ二人きりになる?)拷問していくというのは確かにいやらしい。しかし映画では特にホモセクシュアル、というようにも見えなかったがどこが違うんだろう?
ピアース・ブロスナンはゲイ度0でクレイグは110パーセントらしいが、全くよく判らないものである(というのは嘘で勿論よく判る)

とにかくクレイグ=ボンドが思った以上にセクシーボンバーで粉砕してしまったのだった。大体ヴェスパーって大変な思いを背負って行動しているはずなのにジェームズにタキシードを贈ってそれを身につけた彼を見てるところは楽しげであった。
あの場面はヴェスパーがというよりカメラが正装したジェームズの姿を執拗に映し出しているようななまめかしさがあった。
というか全体にボンドガールの美しさより若いボンドのセックスアピール画面が多いようでその辺りがゲイ的なのかもしれない。

作品自体の評価をまったくしてないが、先にも言ったように冒頭(から少しして)が007としてはバタバタしたアクションの連続のように感じるが、それは若さゆえの暴走なのであろう。
カジノシーンがかなり長いためか144分という作品だが私としては文句ない仕上がりであった。
ショーン・コネリー以来、久し振りに007を堪能できたのも嬉しいことである。
次回作もクレイグ=ボンドが観られるのもまた興奮であるな。

監督:マーティン・キャンベル  出演:ダニエル・クレイグ 、エヴァ・グリーン 、マッツ・ミケルセン 、ジュディ・デンチ 、ジェフリー・ライト 、ジャンカルロ・ジャンニーニ
2006年アメリカ、イギリス、ドイツ、チェコ
posted by フェイユイ at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | ダニエル・クレイグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マットが「売春婦になって…」と超問題発言!

【第60回カンヌ国際映画祭】『オーシャンズ13』会見でマットが「売春婦になって…」と超問題発言!

タイトルだけ見たら「マ、マット、何をやったの?!」てな心臓爆発ものですが。

ははは、なんだか、凄く楽しそうな記者会見です。
テレビで「ブラピとアンジェリーナ、カンヌに登場!」ってな感じのを見ましたけどね。ジョージ・クルーニーまでは映してくれたんですが、マットは省かれてました。く〜、悔しい。
posted by フェイユイ at 20:32| Comment(2) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月23日

「クライング・ゲーム」ニール・ジョーダン

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内容についてばらさないよう監督自身、非常に気を使った作品ということで時間がたっているとはいえ、あまり大っぴらに言うべきではないのか。と言ってもどうしても触れてしまうだろうから特に今回、未見の方はご注意ください。

物語は前半、IRAの一員として活動しているファーガスと捕虜にした黒人の兵士との会話で形作られる。
ファーガスが所属するIRA一団は英国軍に捕らえられた仲間を釈放させる為の手段として黒人兵士のジョディ(フォレスト・ウィテカー)を拉致したのだ。
だがジョディはファーガスが親切にせずにはいられない性質なのだと見抜き自分が殺されたなら、ロンドンにいる恋人に愛していた、と伝えて欲しいと頼むのだった。
語り合ううちジョディに不思議な友情を感じ始めたファーガスは自らジョディの処刑を志願する。

監督自身あり得ない、と語っていたガラス張りの温室での捕虜との会話。蔦がびっしりと絡みついている温室はなにか幻想的で印象的であった。
ニール・ジョーダン監督作品をまだそんなに観てはいないのだが、非常にロマンチックで古風な趣味の方だと思えるのだが、この温室はちょっと素敵なのである。

後半映画の核となる謎が解き明かされるがこの前半のジョディとの会話にその布石が幾つも打たれていて面白い。
それはジョディとその恋人の秘密であり、またファーガスの人生を予感させるものでもある。

ジョディの処刑を志願したファーガスは彼を逃がすかのような仕草を示すのだが、ジョディは事故死してしまう。
ジョディの遺言を果そうとするファーガスの心にはジョディを死なせたのは自分だという負い目があるに違いない(捕虜にしたのは自分たちなのだし)
ロンドンで美容師として働くディルを探しだしたファーガスだが、すぐにジョディの言葉を伝えることはできない。
そしてファーガスは美しいディルに惹かれていく。何度かの逢瀬を重ね(この辺の丁寧な描き方、少しずつ近づいていくのだ)ファーガスはディルの部屋で本当の彼女の姿を見る。
ディルは男性だったのだ。

ジェイ・デヴィッドソン演じるディルが美しくて可愛らしい。同じくジョーダン監督が作った「プルートで朝食を」のキトゥンが現代的な女性(?)としたらディルは非常に古風な愛らしい女性なのだ。彼女の裸を見て仰天してしまうファーガスも非常にウブな男であり、二人の関係そのものが古風な愛に満ちている。
ラストもこれからどうなるのか判らない、という力強く歩き出すキトゥンのそれに比べ、愛する人の元へ通い続けるディルというなんともけなげな女性のディルなのであった。

ディルを演じる男性を探すのは至難の業であったというだけあってジェイ・デヴィッドソンの可愛らしいこと。実は自分の好み的には化粧を取って髪を切られた彼が愛らしくてたまらなかった。といってもジェイ本人にとっては髪は女の命、ということでかつらを使ったらしいのだが(その話も可愛いじゃないか)無論化粧して長い髪をふわふわさせたディルはまさに男が一目惚れしてしまう愛らしさに溢れていた。彼女がパブで歌う「クライング・ゲーム」という歌がそのままタイトルになっている。
それにしてもIRAのストレートの白人男性と女装した黒人男性とは不思議な組み合わせではある。
そしてファーガスはジョディが言い当てたようにどうしても相手を見捨ててしまえない性質なのだった。
悲しいはずの刑務所での面会がこんなにもほのぼのとした美しい場面であるとは。
このラストは監督の思惑通りなのだが、実は出資者の意向でとんでもないハリウッド風ハッピーエンドになるはずだったらしい。だがその出資者が望んだラストが試写で不評だった為、結局ジョーダン監督の本来のラストとなった。いやあ、観る目がある人が観ててくれてよかったよかった。こんなにいいラストはちょっとないでしょう。

IRAを悪く描いているということでジョーダン監督、随分睨まれたようです。特に女性運動家のジュードは冷酷な性格に描かれています。が、フィルム・ノアールを意識したという後半の彼女のスーツ姿の強面ぶりは優しく女性的なディルとの対比が面白いのですが。
また頻繁に出てくるパブでファーガスが最初にギネスを頼む場面、やっと見つけた仕事であろう工事現場でイギリス人に差別的にパット(アイルランドの守護聖人、聖パトリックを皮肉った)と呼ばれたり、イギリス人はクリケットだが、アイルランド人はハーリングを好む(この前知った!)などイギリス・アイルランドならではの描写も興味深い。
「クライング・ゲーム」をボーイ・ジョージが歌っているというのも意味ありげであった。あの場面でおかしい、と思うべきなのだな。
こんな最後に書くのはどうかだが、主人公ファーガスを演じたスティーヴン・レイのくたびれ加減が心地よい。


監督:ニール・ジョーダン 出演:スティーヴン・レイ、ジェイ・デヴィッドソン、フォレスト・ウィテカー、ミランダ・リチャードソン、エイドリアン・ダンバー
1992年イギリス

コメンタリーでジョーダン監督が自分の作品はケン・ローチのような社会派ではなくメロドラマなのだと言っていた。
登場人物は理屈通りではなく矛盾しているのだとも。
私は両監督作品をそれほど観てないので大したことは言えないが、自分的にはニール・ジョーダンへはかなり理屈っぽい感想を書いていてケン・ローチに感情的な感想を吐き出している。
私が観たケン・ローチ作品が後期のものだからかもしれないが、なんだか逆に感じていたのかな、と一人面白がていた。
自分は批評家でなく作り手だから製作当時には気づかず後になってそういう意識があったのか、と気づくことがあるのだ、という話もまた面白かった。無意識に作ることがいい作品を産むらしい。

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2007年05月21日

「春香伝」イム・グォンテク

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韓国の古典を巨匠イム・グォンテクがパンソリの歌声も高らかに映像化した名作である。

久し振りに再観したら以前観た時よりは何か微妙な違和感を感じた。というのは最初観た時は韓国映画をかなりの情熱で観まくっていてこの映画も新鮮な驚きを持って観たからなのだろう。
違和感、というのがどういうものなのか、うまく一言では言えないが、ある意味、昨日観た「母たちの村」に関係した感覚でもある。つまりどうしようもない性差別というのを見せ付けられてしまい、古典だからしょうがない、とは思いつつもやはりなんだか嫌になってしまうのだ。

「母たちの村」と違う救いはあちらが今まだ進行形の現実であるのに比べ、こちらは古典なのであり遠い昔話だということをパンソリの調べが教えてくれるからだ。そのまま「春香伝」という物語を映像化しただけのものだったらもっと拒否感が生じただろうが舞台で歌うパンソリの歌い手の姿がこれは遠い昔話ですよ、と教えてくれることで最後まで観れた気がする。お伽話であれば両班(貴族)の若様にあっという間に妻にさせられ、3年待たされ新しく赴任した領主に逆らったといって拷問にあうという苛立つ話も納得させられてしまうのだ。

と言ってもその国の古典と言うものは是非読んだり映画で観たりして損になるわけはない。
主人公たちや春香の母親の言動など他の国のものと違う面白さがある。身分の差があるといっても結構しっかり自己主張してるとことか、最後、母親が自分の娘を自慢しまくってるとことかなかなか楽しい。
昔の韓国の良家の子女というのは全く外へ出ないもののようなので女性が活躍するにはキーセンでないとうまく行かないのかもしれない。
しかも春香はキーセンの娘であるだけでキーセンではない、という説明がつくところがちょっとおかしい。それなのに結局キーセンの娘だからということで男の前に連れ出されるのが情けない。
お伽話だから仕方ないといっても、若様がやってきたらすぐに結婚してしまうというのもなんだかいやだし、最後出世した若様と結婚して都に行くのでハッピーエンドっていうのも何だかな、と言う感じ。お伽話だから、お伽話だから。
しかし初夜では恥ずかしがっていた春香が幾日か過ぎればすっかりいちゃいちゃしている大らかさとか(でもここ、若い時観たら嫌いだったかも)粗末な身なりで春香の母の家に帰ってきた若様が物凄い勢いでご飯を食べる場面は好きである。あの食べっぷりは他の古典ではちょっとない気がする。

若様の密使ぶりが日本でいうと水戸黄門様みたいでやっぱりこういう悪代官みたいなのを懲らしめてくれる正義の味方が突然現れて欲しいなあ、という庶民の願望なのであろうか。こちらは随分若くてハンサムな黄門様だけど。

他の映画でもちょっと使われていたりとかする時もあるし、やはり古典は観ていたほうが何かと役にたつものなのだ。うるさいCGなんかも使われないし、携帯電話も出てこないのがうれしい(映画で携帯電話使用禁止にして欲しいくらいしょっちゅう使われるのだ、あれ)

しかしこれって2000年製作なのだね。もっと昔の映画のような気がする。

監督:イム・グォンテク 出演:イ・ヒョジョン, チョ・スンウ, イ・ジョンホン
2000年韓国






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2007年05月20日

「母たちの村」ウスマン・センベーヌ

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女性器切除をしている国があるということは最近になってニュースで知ったのだが、そんな怖ろしい事が今も行われているなど信じられない、というのが正直な思いだった。
不衛生な環境下でナイフあるいは石などを使用し女性外性器の一部もしくは全部を切除し縫合するという行為は例え異宗教であり異文化なのだといっても頷けることではない。
映画の中でもこの儀式は大昔(2千年ものあいだという)からの伝統なのだというのだが、その施術自体の想像を絶するであろう痛み、感染症、それ以降の排泄痛、性交時の激痛、恐怖、難産加えてHIV感染、という生涯における苦痛と恐怖は想像できる範囲のものではない。

長い間の慣習を部外者が軽々しく反論すべきではない、という人もいるのだろう。しかし施術時に死亡する例や性器切除により難産の上、母子死亡率が高い、ということでそれを受ける女性達が苦しんでいるのであればどうしても心は動いてしまうのである。
それにしてもこのような根深い慣習を映画の中でどのように描き導いていくのか、どうしようもない悲劇で涙を誘うのか、という懸念もあった。だが、本作の描き方の力強さはどうだろう。そこで映し出されるのは、のどか、といっていいテンポと明るく伸びやかな調子なのであった。

とりたててどこ、という名前はないが西アフリカ(セネガルのどこか、ということであろうか)の小さな村のようである。
そこでは女性達は明るい色彩の美しく清潔な衣服を身につけ、水や薪を頭に載せて運び、働いている。ラジオで音楽やニュースを聞くことが女たちの楽しみのようで質素ではあるが村の暮らしはのんびりとした秩序が保たれているようだ。
女主人公・コレの住む家は比較的裕福であるようだ。第一夫人、第三夫人たちと仲良く家を守っている。主人は勿論他の男に出会っても女性は身を低くして礼をするのが習慣のようだが、そんな中でも女たちはお洒落をし音楽を聞き、明るく生活している。

そんなコレの所に突然4人の幼い少女達が駆け込んできた。「性器切除」の儀式を受けなければいけないのだが、怖ろしくて逃げて来たのだ(映画では「割礼」と言ってるがやや中途半端な響きにも聞こえる。「割礼」というとユダヤ人の少年が行うものを思い浮かべてしまうが、先に言ったようにその内容は全く違う)
不思議なことであるがそうやって逃げて来た少女を保護する「モーラーデ」というものがあり、その力は強いもので「モーラーデ」を受けている少女を連れ去る事は出来ないという決まりがあるのだ。それを破れば呪いがかけられるというほど強固なものなのである。
だが「性器切除」の儀式を行う女性達や村長ら男達を断固として撥ね返さねばならない「モーラーデ」の役は容易いことではない。
「性器切除」を行わなかった女は「ビラコロ」と呼ばれ結婚もできない、と言われる。
自らの娘の性器切除をさせなかったコレは逃げて来た4人の少女を「モーラーデ」=保護することを決意した。

コレ自身は性器切除をしておりその為、セックス時に激痛を伴い、2人の子供を亡くしている。
コレの夫は優しくコレを愛しているのだが兄を始めとする村の男達に「夫の尊厳はどうした」と罵声を浴び仕方なくコレを鞭打つ。
村人の目前で激しく鞭打たれるコレはその痛みに耐える。

娘の性器切除をことわり、他の少女達を守るコレの力強い行動に賛同せずにはいられない。
コレが鞭打たれてから後の現象はもしかしたら「性器切除」を行っている社会への願いを映像化したものなのかもしれない、と思う。
コレの夫が勇気ある妻に賛成し、ビラコロの娘とは結婚させないと父親に言われた息子が父から離れ歩き出す。
女性達がコレに賛同して「これからはもう誰も性器切除はさせない」と叫ぶ。
慣習に逆らう女達に戸惑う村長ら男たちにコレたちは勝利を確信したように叫び踊る。コレの夫が妻を見てにっこりと微笑む。
これは実際にあったことなのか、夢なのか。
こうなって欲しいという希望なのではないだろうか。

女性たちに余計な知識を与えた、ということでラジオが燃やされる。それを見て女達は「(男達は)何も知らないんだから」と笑っている。
燃え盛るラジオの炎の中に性器切除のためのナイフが投げ込まれ、もくもくとした黒い煙が美しい青い空へ昇っていく。
何も知らないよそ者が衝動にかられ言う言葉かもしれない。だけどもやはり願わずにはいられない。
長い間の慣習というだけでこのような苦しみを受ける人がこの映画のようにもうこれからは存在しないですむように、と。
何の知識も与えられない子供達が泣き叫ぶ苦痛はもう存在しないようにと。

「傭兵」と蔑まれて呼ばれていた物売りの男。小さな村にパンや衣服や小物を高値で売り女と見れば誘いかけるような男だったのだが、鞭打たれるコレを見てつい止めに入ってしまい、村の男達に殺されてしまう。軍隊を追われたのもわけがあってのことだったのだが。
蔑まれる彼もまた偏見の中で生きなければならない存在であった。

先に書いたが本作は「性器切除」の反対を訴えたものだが、それだけでなく、全体に流れているのんびりと穏やかな雰囲気、会話の明るさ、衣装や人々の美しさ(若者たちの手足が細長くてかっこいいこと)もまた堪能できるものなのである。
コレを始めとする人々の言葉の簡潔で力強い響きなどわからずとも聞いていて楽しいものであった。話のやり取りがアジアや欧米とはまた違った感覚があって面白い。
しかし何と言ってもコレという女性のかっこよさに見惚れてしまったのである。

監督・脚本・製作:ウスマン・センベーヌ 出演:ファトゥマタ・クリバリ マイムナ・エレーヌ・ジャラ サリマタ・トラオレ アミナタ・ダオ ドミニク・T・ゼイダ
2004年フランス・セネガル
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2007年05月19日

「ファントム」ジョー・チャッペル

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マットの相棒も観て行こう!シリーズの手始めとしてこれ。マットと共演でDVDで観れるものは鑑賞済みなのだが(ビデオだと観れないの。機械なくて)ベン単独第1弾かな?

どうしてもこういうサスペンス、ホラー、SFといったものに手が伸びてしまう私なのでこれになった。しかもピーター・オトゥール付き!これは観なきゃいかんでしょう。且つDISCASでの評価が結構よかった。

で、観たのだが。いやあ、皆さん、心優しいのか、それともこういうのが本当におもしろいのかなあ。
いくら少し前の作品とはいえ、あまりにも当たり前な設定と演出。同じ話でももう少し見せ方に工夫があったらもっと面白くなるのではないかと思うのだが、役者たちは悪くないだけに全ての罪は監督にあるのだね。

物凄い慌てた展開であっという間に美人姉妹が田舎町で突如起きた住民皆殺しという謎の中に置き去りにされてしまう。
一見、異常者の大量殺人か、と思いきや後にこれが謎の生命体の仕業だというSFへと変化してしまうのだが、んじゃ最初にパン焼き機の中に首をおしこんだりというようないたずらはナンだったんだろうとか、思うのである。やたらと大きな音で脅かしていくのだがこういうのなしで静かに淡々とやった方が不気味でいいのに、と思うのだがそうすると評価は落ちるのだろうか。
山の中の小さな町が孤立して正体不明の敵に襲われる若者達の恐怖を描いていくのか、と思ったら、半ばにしてもう助けが来てしまい、ホラーが終わってSF活劇になるのには驚いた。

ピーター・オトゥールのような名優を使って格調を出すというのもこういった類の作品では常套手段のようである。
確かについ見入ってしまう。

宗教がかった話を盛り込むというのもよく使われる手である。教会内での殺戮などいかにも反響を呼びそうであるし。
敵が自分を神と言ったり悪魔と言ったりするのもわかりやすい説明で観客の反感を呼ぶのに適しているのだ。
その辺、なんとなくこの前見た「サイレントヒル」とこの作品似通っている。あちらの方が随分と予算はあったようだが。

肝腎のベン・アフレックはまだ若くて申し分ないハンサムである。これっと言うほどの活躍をしないのがちょっと残念ではあるが(もっと惚れ惚れするようなアクションシーンなどあるとよかったのだが)なぜかその辺は淡々と進んでいった。
しかもヒロインとのラブストーリーもなし。何故?

実際気持ち悪かったのは神だの悪魔だの言ってる「太古の敵」じゃなくて保安官の一人で取り付かれる前から妙な言動をする男の方だった。最初から変だったので取り付かれたからおかしくなったのか本人自身の怨念みたいなものかよく判らない。こいつが最後の最後までおぞましさを漂わせていた。この男自身と「太古の敵」どちらが最後に残ってたんだろうな。

監督:ジョー・チャッペル 出演:ベン・アフレック ローズ・マッゴーワン ジョアンナ・ゴーイング ピーター・オトゥール
1998年アメリカ
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2007年05月18日

「ミュンヘン」スティーブン・スピルバーグ

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イスラエルとパレスチナを公平に描いている、ということを聞いて観たのだが、当然の如くイスラエル側の物語であった。
なのに観客に公平な見方をしていると思わせるのは監督の巧妙な手法なのであろうか。
物語は、ミュンヘン・オリンピックでのパレスチナ人テロリスト「黒い九月」によるイスラエル選手団11人殺害、というのが発端となる。よってイスラエル人のやむにやまれぬパレスチナ・テロリストへの報復、という運びになるわけで何も知らなければうなづいてしまいそうだ。だがユダヤ人がパレスチナに入植していった上イスラエルを建国してしまった、という事実はここで判り易く説明されてはいない。冒頭、パレスチナ人テロリストが何の罪もないイスラエル選手達が殺されまた人質にとられる。そのやり方はいきなり頬に穴を開けてしまうなどいかにも残虐で非道なものである(テロは非道に決まってるが)この残虐さを見ればその後の主人公たちの報復はやむを得ないものとして納得させられてしまうのだ。
パレスチナ人たちは英語を話さない異国の者たちで個々の人格がないのだが報復をしていく主人公たちは英語で会話しそれぞれのキャラクターがある。主人公アブナーには妻子がいてよき夫であり生まれたばかりの赤ん坊を愛している。料理もうまく仲間達に手料理を作って振舞う。楽しげに会食する暗殺者たちは家庭的にすら見える。

一体どうしてこんな事が起きたのか、という詳しい説明はなくかなり駆け足で物語の導入部が描かれる。私などは何がどう起きたのかよく判らないほどだった。
とにかくパレスチナ人がオリンピックに出場する未来ある若者を殺したのだ、残酷に。

ここから突然物語は面白くなってしまう。人を殺したこともない善良なアブナーをリーダーに才能あるユダヤ人が集まり祖国の為に暗殺者チームが結成されるのだ。そのために莫大な資金も提供される。
ヨーロッパを巡りながらパレスチナテロリストを暗殺していく面白さはさすがヒットメーカーの手腕である。持ち味であるコミカルさも加えられ、子供に対する心配りも忘れない。可愛い女の子をばらばらにするのは良心が痛む。
あんまり面白くなりすぎたのか、後半、仲間達が次々と死に暗殺に対する反省が促される。主人公アブナーは狂気に陥るほど苦しむ。仲間を死なせた悲しみ、本当に自分たちが暗殺したのは本人なのか、それは罪ではないのか。
「プライベート・ライアン」でも主人公たちがドイツ軍を殺していく様子が小気味いいほどに描かれていたことに嫌悪感があったのだが、ここでもスピルバーグは暗殺を面白く描いてしまう。
だがそこですかさず主人公の行為への疑問と苦悩を挿入することでバランスをとっていく。
そして最後、度重なる暗殺と仲間の死と失敗の無念の後、アブナーは疲弊しきっている。不安定な精神で妻を抱く。
一方的な性行為のシーンとパレスチナ人によるイスラエル人虐殺のシーンが交互に映し出される。この場面はこれ以上ないほど気持ち悪く、アブナーの表情は醜悪とさえ言える。
このパレスチナの残虐さとアブナーの苦悩を見て再度暗殺がやむを得なかったのだと確認される。
そしてさらにその後アブナーは上官に対し、暗殺の無意味さを訴え、イスラエルへの帰国を拒否する。
結局スピルバーグは面白い活劇を作り、イスラエルに偏りながら、パレスチナにも公平な態度をとったと言われ、自分はアメリカに居るのだと言うことを描いているのだろうか。ただすべての思惑がうまく行ったわけではなく、やはりそこまで欲張りに成功するのは難しいのだろう。結果、なにか煮え切らない、何かを隠しているような、映画に仕上がってしまったのだろう。
同時多発テロで破壊された世界貿易センタービルがラストの場面でCGにより再現されているのもなぜか不気味である。

ところでこの映画を何故観たのか、というとそれは暗殺者チームの一人をダニエル・クレイグが演じていたからなのである。
「プライベート・ライアン」でマット・デイモンがライアンを演じていた為仕方なく観てしまいしかもその姿が魅力的であったので却ってめげたのだが、ここでのクレイグもまた壮絶に色っぽくて参ってしまった。
スピルバーグなので特になにやらクレイグがやらかすわけでもないがちょっと耳打ちしたりする仕草など妙に色っぽさが滲み出る人なのだった。最初の仕事の成功で仲間とダンスするところなどスピルバーグと来たらちらとしか映してくれないんで頭に来たが、結構出番は多いし、最後まで相棒役を続けるので彼目的に観る価値はある。青い目のアップもあり。

もう一つ面白かったのは敵かみかたか謎のフランス人情報屋ルイとパパの存在。すべてのパレスチナテロリスト探しを彼らに任せているのだが、一体何者なのか、不思議な家族であった。
家族の中にこの前「明日へのチケット」の最初の彼女の顔が見えてうれしかった。

なんだったのか、の存在は女殺し屋。男ばかり登場する映画には一人お色気役としての女性が登場するものだが(アブナーの奥様は清楚であるべきなのでこの役は除外)全くもってそのために登場としか見えない。暗殺集団が人間性を失っていく証明としてという言い訳も成り立つがその役にセクシー女殺し屋を使い残酷に殺す。この辺も娯楽作品ならでは、ということなのか。スピルバーグさすが配慮が細かいのである。

監督:スティーブン・スピルバーグ 出演:エリック・バナ、ダニエル・クレイグ、マチュー・カソヴィッツ、キーラン・ハインズ
2005年アメリカ
posted by フェイユイ at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | ダニエル・クレイグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月17日

第60回カンヌ国際映画祭 王家衛『My Blueberry Nights』

王家衛が話題作引っ提げカンヌ入り

とか

【第60回カンヌ国際映画祭】3度目の悪夢はなし
オオ、美男美女


Teaser Trailer for My Blueberry Nights


なんだか「ブエノスアイレス」みたい・・・涙
ラベル:映画祭
posted by フェイユイ at 17:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月16日

『スモーキン・エース/暗殺者がいっぱい』ベン・アフレック

『スモーキン・エース/暗殺者がいっぱい』ベン・アフレック

すみません。ベン・アフレックの記事だと必ずついてくるマット・デイモン^^;と思って覗いたら。

やはり登場、可愛いなこの写真。

それ見たさに出しました。ごめん、ベン、ベンファンの方々。いややはり二人の絡みがいいですね。
posted by フェイユイ at 22:57| Comment(2) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ジェイ・チョウ主演映画の英題が「カンフーダンク」に

ジェイ・チョウ主演映画の英題が「カンフーダンク」に

だとか。よくわかんないけど中華圏の映画なら単に「スラムダンク」より「カンフーダンク」の方が受けるのだろうな。
posted by フェイユイ at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「ブラックダリア」ブライアン・デ・パルマ

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2度観ました(笑)全部把握したとは言い難いですが、まあなんとか状況飲み込めた気がします。
なんで感想やってみます。

多くの人の批評としてデ・パルマ監督や出演者に対し不満があるようなのだが、私はデ・パルマ監督に思い入れがなく(「キャリー」しか知らない。後2,3作観てるはずだが記憶なし)出演者も誰も知らないので却って楽しんで観れたようである。
内容が理解できなかった1度目ですら集中して面白く観てはいたのだ。なのに登場人物と話がよく判らなかったというのは無論自分の知能の為だがあえてややこしく作ることで迷路のような面白さを狙ったのではとも思える。
咀嚼さえ出来ればそう難解な物語ではないのだが。ただ要らない登場人物まで入り込んできて掻き回されるので混乱してしまうのだろう。

ジョシュ・ハートネット、スカーレット・ヨハンソン、ヒラリー・スワンク観る人によってそれぞれ不満があるようなのだが、私は正直アーロン、エッカート、ミア・カーシュナーを含めてさしたる不具合もなく鑑賞した。特に大好き、ということはないのだが、この物語には皆ちょっとしたひっかかりを感じさせながらも合ってるのではないかと思えた。このちょっとしたひっかかる感じというのは観ていて苛立つ感じもあるのだがあんまりぴったりというより記憶に残る気がする。
特にヒラリー・スワンク演じるマデリンとミア・カーシュナーのエリザベス・ショートが似ていない、というのが大方の不満だったようだが、ブルネット同志だから似てるんだろうくらいに観ていた。

それにしてもどうしてもアメコミを思い出してしまうのは何故なんだろう。だから「シン・シティ」のようだと感じたのだが、アメコミがこの時代の雰囲気を持つものが多いのだろうか。
もう一つの理由は登場人物がいかにも、といった定番をそのまま演じているのでそんな風に思えてしまうのかもしれない。
つまり悩める主人公、金髪の美しい人妻(過去があるが今は家庭を守っている)黒髪の謎の女、顔に傷のある残酷な性質の男(「バットマン」のペンギンだね)頭のおかしなお金持ちのマダムなどなど。
だからといってつまらないわけじゃなくそういう世界だと思って浸ってみれば(そんな世界が好きでさえあれば)面白いのだ。
あえて言わなくても当たり前だが、徹底した娯楽作品なのであって(かなり怖い暗闇の迷路のような楽しい娯楽)割とスタンダードな登場人物を筋書きと人間関係を解り難くする事でひっかかりを作っているのかもしれない(なんだか、全然褒めてないな)
というのは1度目のよくわかんなかった時は面白かったのに2度観て少し判ってきたらそうでもなくなったかもしれないなとか(笑)いうこともあるかな。

なんだか書けば書くほど駄目になってきたなー。つまりなんだろ。
この監督だからどーなのか、だとかこの役者だからどーとか思わずに観れば結構面白い作品であった、ということである。
猟奇的な部分もあまり強烈に出さずに上品に隠されていたと思う。ちらっとしか見せないしね。
最近、デビッド・リンチを観てたせいもあるかもしんないけど、こんな猟奇ものを映していても、リンチの異常性に比べるとデ・パルマさんと言う人は普通な感覚の人のようだ。他のを観ると違うのかもしれないが多分、昔の作品で(「キャリー」の後)続けて観てないとこをみると好きでなかったのかも。
といってもなかなか面白かったので(上げたり下げたり)もう少し作品を観てみたい気持ちにもなった。
ああ、酷いシメだな。

監督:ブライアン・デ・パルマ 出演者:ジョシュ・ハートネット 、アーロン・エッカート 、スカーレット・ヨハンソン 、ヒラリー・スワンク 、ミア・カーシュナー 、マイク・スター
2006年アメリカ

ラベル:犯罪 猟奇
posted by フェイユイ at 22:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月15日

「ブラックダリア」一度目

「ブラックダリア」一回目の鑑賞を終えたとこです。なぜ一回目かというと懸命に且つ結構面白く観てたはずなのにさっぱり内容がわからなかったからです、とほほ。

大体において私は警察vs暗黒組織(なのか)という図式がいつもよく飲み込めないのですが本作はまた特にこんがらがってしまいました。
全体のムードみたいのは決して嫌いではないのでもう一回観てもう少し頭の中を整理してみたいものです。
私としてはこの映画の仲間は「シン・シティ」なのかな、と思ったのですが。
どこだったか「絆創膏だらけの」という台詞があってついミッキー・ロークを思い出し笑ってしまいましたし、やったら強いとことか、とにかく似てますね。でもそれなら「シン・シティ」の方が面白かったですけどね。
時代が昔というだけでなく、懐かしい昔の映画というのを再現したかったのでしょうか。でも昔のものはシンプルでわかりやすいのがいい所なんですけどね。
後、とにかく煙草吸ってますねー。もう次から次へと。マッチが手がかりになってるのなんかも昔っぽい。

ではもう一度観てまた書くことにします。

ラベル:犯罪
posted by フェイユイ at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月14日

「明日へのチケット」エルマンノ・オルミ、アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチ

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何度も書いているが「放浪記」などというタイトルをつけるだけに旅の物語が大好きなのである。自分がそこへいるかのような共にどこかへ移動しているかのような錯覚を見させてくれる映画には酷く弱い。飛行機はちょっと旅という気がしないが、自動車、オートバイ、バスなんか、そして列車の移動というのは独特の雰囲気と大勢の人々を運ぶだけあって数多くの映画で取り上げられるシチュエーションである。私の趣味としてはやはり「オリエント急行殺人事件」のようなミステリーがまず先に出てくるのだけど「何か事件が起きる」予感でどきどきしてしまうのである。

列車の音。窓から見える風景というのはどうしてこうわくわくするんだろう。遠景と近景が不思議な速度の違いで変化していく。線路上を一定のリズムで走っていく音が心地よい。通り過ぎる町も人々の姿も不思議な映像を観ているようだ。

第1話。エルマンノ・オルミ監督。
小柄で優しげな初老の教授がオーストリアからローマへ急ぎ帰ろうとしている。可愛い孫の誕生日に呼ばれているのだ。飛行機が欠航のため、仕事先の秘書の女性が急行列車の切符を用意してくれた。駅で切符を受け取る僅かの時間に教授は秘書女性に恋をしてしまう。
食堂車で揺られながら、その存在を確かめてもいない想像上の初恋の少女と切符を渡してくれた美しい女性秘書と重ね合わせてしまう教授。
発信することはないメールを打ちながら教授は甘い想像を続ける。そこへ入り込んできた兵士たちの行動が教授の夢を切断してしまう。
乗り合わせた難民家族が赤ん坊にミルクを飲ませようとした時、リーダーらしき男が乱暴に歩いた為ミルク壜が落ち、中身がこぼれてしまった。こぼれたミルクが酷く悲しい。
いつも恋に臆病で声をかけ切れなかった初老の教授はウェイターにホットミルクを注文し仕切りドアの向こうにいる難民の家族へと運ぶ。
小柄な教授と背の高いオーストリア女性の絵が楽しい。小柄な男性と背の高い女性の組み合わせって凄く好きなのだ(私は全く背が高くないが)夢ばかり見てるような内気な教授の最後に起こした勇気に拍手なのである。

第2話。アッバス・キアロスタミ監督。
一番不思議な謎の物語。1話目が初老の男と若い女の物語で甘く切ないのに、こちらの初老の女と若い男だとこうも苛立つ話になるというのはちょっと不公平なり。しかも教授はなかなかハンサムだったのにこの女性の厚顔ときたらば。
しかも若い男とはいえ、また昔を思い出す話である。どうも男は昔を思い出してばかりいるようだ。話相手は厚顔で体格も厚いオバサマの方ではなくほっそりとした14歳の少女。オバサマはほっとかれてますます憤りとうとう大爆発である。
男性が見てたら、当たり前なんだけど、オバサマとしては連れの男がスレンダーな若い女性や少女にばかり愛想を振りまいてちょっとやっかんでしまった部分もあってちと可哀想ではある(男はそんなことは考えもしないんだろうな)
若い男が主人公なのかよくわかんないが老いた女の哀愁を感じさせる一編であった。老いた男の哀愁っていうのはよくあるけど女のはホントに悲しくないか。

第3話。ケン・ローチ監督。
まずはセルティック中村俊輔、スコットランド・サッカー記者協会選出の年間最優秀選手賞を受賞、おめでとう!俊輔のおかげでセルティックが凄く近しい存在になったのであった。
この1話は主人公たちと同年の女の子達がちょっと出てきて彼らにひと時の夢と絶望を与えるが殆どはセルティックサポ・トリオの騒動に終始している。
彼らの夢はなんといっても最愛のスコットランド・セルティック対A.S.ローマの試合を観ることにある。
決して裕福ではないスーパー店員の彼らは金を貯めスコットランドからローマへと向かっているのだ。
列車内で出合った難民家族にサンドイッチをあげたことがきっかけで切符を奪われてしまう。
疑いをかける友達フランクを留めて彼らを信じようとするジェムジーだったが、事実は彼らの仕業だった。
自分たちが夢に見たセルティックのチャンピオンズリーグ準々決勝を観るか難民家族に切符を渡すか、彼らの懊悩が情けなくもおかしく愛おしい。
父親に会うためアルバニアからローマへと必死の旅をする家族を見て切符を盗まれたジェムジーは「俺だって盗む」と断言する。私もそうだと叫びたい。
ジェムジーの切符を取り戻そうと怒り狂ったフランクは家族の悲しい目を見て自分の切符を上げてしまう。
あんまり馬鹿でお人よしなサポーターくんたちよ。私もこれからセルティックを応援しちゃうよ。日本相手じゃない時はね。
アルバニア難民家族を救ったために車掌たちに捕まり警察に引き渡される事になった憐れなサポ3人。
僅かな隙をみつけ脱兎の如く逃げ出したときは大喝采。行け行け、わー!!!
こけつまろびつ大逃走。最後は敵のASローマサポと鉢合わせ。ローマサポの助けられながらもセルティックを高らかに応援するのであった。なんてステキなエンディングなんだ!この前ローチ監督を「この一作で愛してしまった」と書いたが、この作品でさらに愛は深まったのである。

ラベル: 鉄道
posted by フェイユイ at 22:07| Comment(13) | TrackBack(3) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「明日へのチケット」ケン・ローチ編

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エルマンノ・オルミ、アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチという名監督3人(といっても前二人は観た事ないのだすまん)がローマへと向かう1台の列車の中でおきる3つの物語を映し出す。

こういう場合、結構一つは面白くないとか、嫌いとかあるものだが、3つとも楽しめたというお得な映画であった。
普通は最初から語るものだが、時間の都合と偏った愛着の問題で最後のケン・ローチ編だけ今夜は語る。

なんだ、このおバカ映画映画は!!!モー恥ずかしー。なんだか自分の姿を見てるようだもんな。サッカーサポーターほどの馬鹿は地球上にいないという証明だよ。
とりあえず「やっぱ生きてるじゃん、信じてよかった」というアホな喜びから始まり、別に同一人物じゃないだろ、と自分に突っ込みを入れながら鑑賞。あの映画からこの展開じゃあんまりアホすぎる(泣)
とにかくそのまんまのお間抜け3人組の珍道中。サンドイッチというのがまたイヤーな過去を思い出させる。ちょうどこのよーなトンチンカンな田舎サポーター3人組であった私らは丁度このように思い切りなまりのきつい言葉を交わしながらフランスくんだりまで日本代表を応援にワールドカップへ出かけたのだった。おフランスでサンドイッチを買ったらまずいのなんの、一体なんで出来てんのか正体不明のサンドイッチをかじり「まずくて食えんバイ」などと九州弁でぎゃーぎゃー叫んでいたのだった。そしてやたらコーフンしてはあちこちでサポーターらしく日本代表を応援しマクっていたのだが。読んでる人には大して伝わらないのは承知だが、その時の自分らのアホさとこいつらがまともにかぶってしまいまともに観ちゃーいられないのだが、サポというものはどこの誰でも同じようなものなんだろう。
サポとして旅行をすると普通の旅行よりはるかに色んな出来事に出会ってしまう気がする。

ちょっと成長したでもあまりイメージ変わらない3人との再会を喜び特にマーティンはなまりがきついような気がするんだけど相変わらずのあの独特な英語発音を聞くのも楽しく観たのだった。

愛するセルティックのチャンピオンズリーグ準々決勝試合を応援せんが為、スーパー店員3人組が積み立て貯金でローマへとやってきたのだった。
列車内ですでにセルティックユニフォームを着込み大声でチームを応援する(馬鹿)サポ3人。サンドイッチが不味かったのでちょうどベッカムユニフォームを着ていた少年にそれを与えてみたことから事態はとんでもない方向へ走り出す。

いつのまにか3人組の一人、ジェムジーの列車の切符が無くなってしまったのだ。車掌から無ければ罰金か警察に突き出す、と言われ青ざめる3人。
フランクはあのベッカムシャツの少年が怪しいと睨んだ。

怒るフランクとジェムジー、スペースマンは、少年とその家族がアルバニアから必死でやって来た難民で、ローマで待つ父親の所へ行くところなのだということを知る。だが、貧しい彼ら4人は3枚の切符しか買えずジェムジーの切符を取ってしまったのだ。

一気に落ち込み、悩むセルティック・サポ3人。難民家族の幸せと愛するセルティックの試合のどちらを取るか。

スコットランド人の熱さと人の良さが心に迫る。おかしくてちょっとほろりと泣いてしまい最後やっぱり大笑い、の最高に楽しめた映画であった。その上、恥ずかしかった。サッカーファンってアホの見本だね。でもこんなにいい映画ってそうそうないよ。一緒に手を上げて叫びたくなったもん。



ラベル:サッカー
posted by フェイユイ at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする