映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2007年07月31日

ジェイ・チョウ、ワン・リーホンの映画が続けて公開

ジェイ・チョウ、ワン・リーホンの映画が続けて公開

いよいよですねー。観客の反応はどうなるでしょうか?ワン・リーホンの「色,戒」(アン・リー監督作品)も気になります。どちらも観たい!!

ジェイのルンメイへの気配り優しいです。
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「世界最速のインディアン」ロジャー・ドナルドソン

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いいなあ、やっぱりこういうの。感動するだろうと思ってそのとおりいい映画だった。男の子との語り合いから始まる、というのも老人映画のセオリーみたいなもんだけど、思いは受け継がれていく、ということが言わなくても伝わってくる、そんな気持ちにさせられる。

アメリカから見ればニュージーランドなんて地球の果てみたいなもんで訛りのきつい爺様が物凄く時代遅れのバイクをえっちら運んできて申し込みもしそこねて参加しようなんて大笑いだったはず。
でもそんな爺様にもそこにたどり着くまでの歴史があるわけなんだよね。
まだ若い時に購入したバイク・インディアン。最初は時速90キロも出なかったそれを長い年月をかけて爺様チューンナップ。そのやり方はお手製・自己流もいいとこなんだけどバート・マンローは持ち前の技術で見事にレース用バイクを作り上げてしまう。
とはいえ、他の最新式レースマシーンに比べれば前世紀の遺物。恐竜時代などと呼ばれてしまう。
心臓はいつ発作を起こしてしまうかわからない、前立腺にも問題を抱えている老人がニュージーランドを出発し、アメリカ・ボンヌヴィル(干上がった湖があり、どこまでも塩を含む平地が広がっている)でのバイクレース(直線を走りその最高速度を競う。遥かに平たいその地だからできる)に一生の悲願をかけて出場する。

バイクの騒音で近所迷惑。庭は手入れもせず荒れ果て草は伸び放題。息子は変人爺さんに肩入れして入り浸っている、となっちゃ隣人は大迷惑だがバート・マンロー氏は一向意に介せず。
ガールフレンドの勧めもあってついに夢だったアメリカ・ボンヌヴィル・バイク大会に出場する決意をする。
貧乏なバート・マンローにカンパをするためパーティをしたり爺様を馬鹿にした暴走族も餞別をくれたり、バート氏、女性にはモテモテだし、男性からもいつも何かと世話を焼かれるのだがそれはバートの飾らない子供のような人柄のせいなんだろうな。
大体。アメリカに到着して何人かの意地悪に会った以外はみんな良い人ばかりである。
モーテルで知り合った女装の男にもだだっ広い平原の道路で出会ったネイティブ(つまりインディアンね)にも取締りをする警察にも好かれてしまうのである。
後で考えるとうまく行き過ぎてるような気もするが観てる時はそんなこと気づかない。
それはバート役のアンソニー・ホプキンスのうまさもあるんだろけど、こんな変なことにこんなに一生懸命頑張ってる人間(爺様だというのも勿論助けたい条件の一つだが)をそんなに無情にホッテはおけない。よかったなー、と素直に思ってしまう。(他の映画だとあんまりうまくいってると文句つけたくなるへそ曲がりなのだが)
そうやって人情にほだされてほわほわんとなってるとこへ爺様バート・マンローのあの走りぶり。
ただただ一直線を早く走る!
小さな田舎町の倉庫で男の子とおしゃべりしながらこつこつと作り上げたオンボロマシーンがなんと時速300キロを越えた時、思わず(知っているのに!)涙がぐっとこみ上げてきてしまい困るのだ。
ボロのブレーキしかなく速度を落とす為のパラシュートもついておらず、身を守るスーツもブーツもなく(そのために足が焼け焦げてしまう)古びたヘルメットしか身を守るものがナイバート・マンロー。怖くないのかと聞かれバイクで走る5分間は一生に匹敵するのだと答える彼はその言葉通り時速300キロのスピードの中で人生の全てを出し尽くしたんだろう。と言っても老人の彼はその後もレースに出場し続け9回もボンヌヴィルで走り、何度も記録更新をしたそうな。
1000cc以下のバイクではいまだに(2007年まで)その記録は破られていないという。まさに世界最速なのだった。

ボンヌヴィルでの走りは物凄いが故郷ニュージーランドで暴走族相手に競走した場面は爽快だった。
やはり誰かを追い抜くっていうのは気持ちのいいことなのだ。それもぶっちぎりで。その後、こけたとしてもね。

監督:ロジャー・ドナルドソン 出演:アンソニー・ホプキンス クリス・ローフォード アーロン・マーフィー クリス ウィリアムズ ダイアン・ラッド パトリック・フリューガー ポール・ロドリゲス アニー・ホイットル
2005年ニュージーランド/アメリカ
posted by フェイユイ at 21:24| Comment(0) | TrackBack(1) | オセアニア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月30日

「墨攻」ジェイコブ・チャン

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大変に期待した映画だった。久し振りに香港映画で観たいという気持ちが湧いたし、なによりそのキャッチコピー「10万の敵にたった一人で挑む」というのが一体どうなるのか素直にわくわくさせられた。実際観ると敵10万と味方も敵だというより困難なものであったが。

アンディ・ラウはあまり好きでなくて「インファナルアフェア」の時ですらそう素敵には見えなかったのだが今回初めてかっこよく見えた。しかもなぜかイチローに似てた(顔は全然違うのだが、なぜかそう見えた)
知る人には歴史的背景(服装・住居)がめちゃくちゃということでアンディ演じる革離なんかは短髪だしね。というのはあるんだろうが私はあんまり気にしないので。アンディの短髪は世間から外れ、ストイックで理性的な主人公を演じるのにはぴったりの外観だったと思う。

物語のテーマとなる「墨家」の「兼愛・非攻」は作中でわずかしか言葉にされていないがそういった言葉による説明ではなく出来事や行動で示されていて非常にうまく作られていた。
しかし空しいのは革離が「墨家」集団から抜け出して味方となった梁の国王より敵である趙の将軍(アン・ソンギ、かっこいい)の方がよほど革離の才能を認め敬意を持っているという現実(まあ、映画に中の)である。
息子である王子や民衆から人気を取ってしまったということで王の嫉妬を買ってしまうとは。作中に敵が趙の兵が言っていたがその嫉妬心まで計算できなかった革離がまだ甘かった、ということなんだろうか。
そういった虫唾の走る味方側の王や側近と尊敬の眼差しを見せる王子や弓の達人そして騎馬隊長である美女。敵から城を守りながらも結局難しいのは人間関係だったのか。

墨家という集団が実在ながら次第に姿を変え消滅しなければいけなかったのはその思想がやはり伝わり難く実現しにくいからなのだろう。どんな思想も永久に不変ということはないだろうが今まで知らなかったというのは面白い物語にはなりにくい為なんだろう(不勉強で知らなかっただけだが)
敵から仲間を守るためとことん戦い、終われば平和に暮らす、という話なら山のようにあるだろうが、思想として表し、弱者のところに駆けつけては守り抜き、兼愛の精神でもって次は敵側につくかもしれない守りのスペシャリストという発想が凄い(発想じゃなくていたわけだが)

マンガの絵がちょいと苦手なので原作である酒見賢一氏の小説も読んでみたい。
それにしても中国の故事を日本人が物語にし、また中国人が映画にしてるというのは楽しいことではないか。

監督:ジェイコブ・チャン 出演:アンディ・ラウ アン・ソンギ ワン・チーウェン ファン・ビンビン
2006年 中国/日本/香港/韓国

ちょっと前に少し書いたんだけど、最近香港映画で観たいのがたくさん。
問題はどのくらい日本版DVD化されるかだが。気になるのが多くて楽しみだが、いつ観れるかなあ。
ラベル:戦争
posted by フェイユイ at 20:55| Comment(1) | TrackBack(0) | 香港 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月28日

「ベルリン、僕らの革命」ハンス・ワインガルトナー

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こんなにどきどきはらはらして観続けた映画も久し振りのような気がする。
こういった若者の情熱で暴走してしまう話は他にたくさんあるのだが、この作品ではそれが直にひりひりと感じてしまうようで痛かった。
なんとはなれば年齢的には主人公達の攻撃の的であるブルジョア男に近いものの生活状況は主人公に近いという(涙)己の実生活に基づくものであろうか。思い切り主人公に肩入れして観れる私であった。

昔は髪を長くしていれば革命だったが今の革命は難しい。
主人公ヤンと親友ピーターは「エデュケーターズ」と名乗って富裕層の邸宅に忍び込み何も盗みはしないが、家の物を動かして「贅沢すぎる!」という貼紙を残していくことで彼らに恐怖感と罪悪感を植えつける運動に没頭していた。
親友ピーターが旅行している間彼の恋人の手助けを頼まれたヤンは借金を抱える彼女ユールに同情し自分達の秘密行動をばらしてしまう。
ユールは自分に高額な交通事故賠償金を課している富豪の男の邸宅に忍び込むことを願い出る。
成り行きでその家に忍び込んだヤンとユールは忘れ物を取りに行った際に顔を見られ男を殴り失神させる。
動転した二人はピーターを呼び3人は富豪の男を誘拐して逃げ出すのだった。

このお粗末な復讐と見つかりそうになる危険に身をよじりそうだった。親友の恋人とできてしまう、という展開も切なさがつきまとう。
他の映画、ハリウッド映画ならなんとも思わず見てしまうような筋書きなのにここで語られる3人の若者はなぜこんなに痛々しく見えるのだろうか。
普通なら問題を引き起こした苛立ちの原因であるユールさえもどうしようもなく心細く感じさせてしまう。
彼女の失敗で仕方なく男を誘拐し逃亡する時、3人は結合しているというより互いに反発しあってしるようで苦しいのだ。

ここで3人が持つ理想に賛同しはしないし、彼らの行動が間違っているのは当然だし、彼らの未来も決して明るくはない。
彼らがこれから予告した事件を起こすのかもわからない。彼らもまたブルジョア男と同じように理想を忘れ日々の仕事に追われ金だけを追い続け買い物に喜びを見出すようになるかもしれない。
だが彼らの何かを変えようとする若さが自分の心に迫ってくるのだ。

「グッバイ、レーニン!」「青い棘」と観て来たダニエル・ブリュール。ハンサムで律儀で真面目な青年がどれも印象的であったが今回凄く素敵だと感じた。本当に綺麗な男性なのだ。しかもまた真面目で一途。好きになってしまうしかない。
今回は親友の恋人を取ってしまうというのだがそれも真面目さゆえ、と見えてしまうのだから得な人である。しかも友人からはその関係を許されて最後、3人でベッドに寝てる。それも女の子ではなくダニエルが真ん中である(笑)いいのか。意味深だ。
髪も綺麗なのだが髭がすてきであった。茶色の目も可愛い。これからが楽しみな若者である。

監督:ハンス・ワインガルトナー 出演: ダニエル・ブリュール ジュリア・ジェンチ スタイプ・エルツェッグ ブルクハルト・クラウスナー
2004年ドイツ


posted by フェイユイ at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月27日

小説「エデンの東」ジョン・スタインベック

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凄く気になった名作映画「エデンの東」あまりの不思議な名作に気になってついにこの年齢になって初めて原作を読む。勿論日本語訳である。

とりあえず断っておくと映画と原作は別物なのだからして、どこがどう違うからどうだというわけではない。
映画は映画としての作品なのであの内容で多くの賛辞を得た名作として残っているのだし、あの内容だから認められ売れたのだと思う。
スタインベック原作は原作で高い評価を受けているはずだと思うのだが、ここでは同じ名作として残る(映画のほうが有名だと思うが)二つを比べて楽しんでみるだけである。まさかこんなに違うとは思いもしなかったのである。

前書きが長くてしょうがないが私は昔から斜め読み走り読みの悪癖があるのだが今回もその通りで読んでしまった(というか読んでる途中)である。
勘違い、読み飛ばしは多々あるかもしれないがご容赦願いたい。追々読み込んで間違い訂正や追加を入れるかもしれない。

勿論スタインベック「エデンの東」ネタバレになるのでご注意ください。

そして原作「エデンの東」はかなりの長編で映画はその後半を映像化したものなのだが、ここではその部分だけを取り上げる。

映画を観て様々な違和感を覚え、原作を初めて読んであっと驚いた事実がある。それは映画と原作を徹底的に違うものにしているのだ。ジェームズ・ディーン演じたキャルの家族トラスク一家に中国人の召使リー老人がいたのである。
彼はよく欧米小説にあるお飾り的な中国人の登場人物ではない。キャルたちが誕生する前から存在し、女手のないトラスク一家の家事を一人でこなしている。
その上、非常に経験豊富で頭脳明晰であり哲学的ですらある。父親アダム、アロン・キャル兄弟、そしてアブラまでがこのリー老人に深い信頼と愛情を持っているのだ。
私は「このアブラどうしてこうおせっかいなんだろう」と訝しんだものだ。10代の少女らしからぬ言動を見せるのでちっとも可愛くないのである。
当然だった。映画でアブラが母親ぶって忠告したり諌めるのはこのリー老人の役目だったのである。
確かにこの老人が言うのなら理解できる。映画のアブラは老人が語る言葉を言わされていたのだ。少女なのに。

このリー老人。ちょっとかっこよすぎるくらいかっこいい。この映画化された部分では切ってしまっているのだが、もともとは弁髪だったのだ。
両親は中国(広東語圏)からアメリカへ渡ってきて鉄道を敷く過酷な労働を強いられる中で赤ん坊を産み、母親は男と偽って渡って来ていた為惨殺される。
赤ん坊のリー老人はそういう環境で育ったのだった。
アメリカに渡った中国人が低賃金で働くということで過酷な労働にあてがわれたという白人が書いた小説を初めて読んだきがしたし、差別を受けながらもリー老人が毅然とした態度で生活している様子も興味深かった。そして召使とはいえトラスク家での彼の存在は殆ど妻か母親のような意味を持っているのにも惹き付けられた。
父と二人の息子は何かとリー老人の助言を受け、頼っているのだ。そしてリー老人も一度家を出ようとしたのに寂しくなって帰ってくるという箇所があるほど一家を愛している。
リー老人は料理が大変うまいだけではなく医学の知識も医者以上でラスト、アダム氏が具合が悪くなり倒れる辺り、彼の腕の見せ所である。
私が「アブラのラストの言葉は感動した」といったあの台詞アブラがアダム氏の耳元で囁く「あなたの息子を助けてあげてください」というのはリー老人の言葉なのだ。

一体なぜこれほどまでに「エデンの東」という物語を支えているリー老人が映画では姿を消してしまったのか。
無論それは彼が中国人だったからだろう。
中国人がこの名作の全ての舵を取り回すわけにはいかなかったんだろう。
あのキャルがアブラを抱きしめてる表紙絵だってジェームズ・ディーンと中国老人が抱き合ってる絵になっててもよかったんだから(そんなシーンはないが、でも原作ではアブラとキャルはキスしたりしてないしね)

それにしたってこの魅力的な中国の哲学者のような老人を一切姿かたち出さないとは。
小説を読み進め、彼に惹かれながら茫然としてしまっても当然だろう。

この全てを覆してしまう事実の中には原作で非常に重要な台詞アダム氏が最後に口にするヘブライ語の「ティムシェル!」というものもある。
この言葉はリー老人と仲間の中国人が聖書を学びながら悟りえた言葉「汝、意思あらば、可能ならん(Thou mayest)」という真理なのである。
映画ではこの部分も消えていた。難しすぎたのだろう。最後の決め台詞なのだが。

後はまあ色々、違う部分、箇所はたくさんある。
重要な部分から言っていけば双子の兄弟アロンとキャルの印象である。
映画ではあくまでもジェームズ・ディーン演じるキャルを若者の代弁者、ヒーローとするために彼を盛り立て泣ければならない。
が、原作ではキャルは容貌としては暗くジミーのようにハンサムではないようだ。そしてどうしても曲がった行動をとってしまう、というアベルをモチーフとした行動がはっきり伝わるように書いてある。だが映画にはないアロンへの愛情も強くて決してアロンを嫌っているのではないのだ。
一方映画では嫌なイメージしかないアロンは原作では金髪碧眼の美少年で誰からも愛された、とある。
映画では描かれてなかったようだが、父親がアロンを偏愛してるのはいい子だからではなくアロンが家出した美人の母親の容貌にそっくりだからなのだ。つまりパパは美少年のアロンが可愛かったのだった。
キャルは外見も可愛くないし、自分でもコントロールできないほど人に嫌われる行動をとってしまうので「いい子になりたい」とお祈りしたりする。でも兄弟二人は仲よしで映画のようなそっけない感じではない。
映画では可愛くないアブラも原作では少女らしい雰囲気である。確かに最初アロンが好きで途中そっけなくなってしまうアロンに失望していきキャルに惹かれていくのだが、自然な感じで描かれていて映画のようにいきなりキスしたりはしない。
アロンを嫌いになるのもアロンがあんまり教会に没頭してしまうからなのだ。牧師に嫉妬したりする場面もある。このアロン、深読みかもしれないがちょっと同性愛的な印象がある。
そして母親の正体を見せられ入隊して戦地で死ぬ。カインとアベルをきちんと踏んでいる。映画では死んでしまうとキャルが悪者になってしまうので途中で終わったんだろう。
が原作ではあくまでもキャルは「悪い事をしてしまう人」なのである。それを救う、というのが話しなのでジミーをあんまり悪人にしない程度に不良にする、というのでは人気を気にして物語の意味をなさない。
家出した母親も原作ではもっと悪辣な印象だが、映画では少し甘くなっていた。これも酷すぎると母親としてあんまりだという配慮だろう。そして自殺するがそうされるとジミーが悪者過ぎるのでこれまた省略。

キャルの父親アダム氏は映画で随分キャルに冷たいが原作ではそうでもない。母親の面影があるアロンをより好きではあるがキャルだけに冷たくはないのだ。
父親とキャルが腹を割って話し合う場面もある。
あの贈り物の金を拒絶する場面も逃げ出すキャルに「怒らないでくれよ」と声をかけている。固いが優しいんである。これも驚きだった。映画ではジミーが父にすがりついたりする「名演技」をしているがキャルはただ出て行くだけで涙も出てこない、とある。その後、アロンを母親の元に連れて行くが。

私が気になったキャルが遊びで付き合ったメキシコ娘というのは(多分)登場しなかった。売春宿で遊んではいるようだが、映画では売春宿に行くよりはメキシコ娘と遊ぶ設定のほうがよかったんであろうか。どっちがいいのかよくわからない。

以上走り書きである。
結局映画ではジェームズ・ディーンを悩める不良少年として描きたいがためにあんまり酷いとこは柔かくし、難しいとこは省きとしてるためにかなり設定・物語が歪んでしまっている。
重要なリー老人が登場しないのはどうしたって歪みの大元になってる。
が、原作を読むきっかけになってよかった。このように面白い小説だとは考えもしなかった。
アブラも映画と違い可愛い少女であった。特に11歳頃のアブラ、キャル・アロン兄弟のエピソードがあるのだが、ませたことを言って二人をやり込めるアブラはとても面白い。
心理描写は当たり前だが映画と違い解りやすくて共感できるものであった。

原作に忠実なリメイク映画というのも企画されたようだが製作されたのだろうか。
最初からの映像化は一体何時間になるのか、これはこれで端折った感じになりそうで怖いが少なくともリー老人がきちんと描かれた映画というのは観てみたい気がする。
ラベル:小説
posted by フェイユイ at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

給我一支猫 (DVD) (台灣版)!!

給我一支猫 (DVD) (台灣版)
張孝全(ジョセフ・チャン)出演してます(はずです)

yesasiaさんで発売されてます。これ、観たかったんですよねー。おもしろいかどうかは未見なのでわかりませんが(笑)
武田真治くん出てます。てかこちらが主演(笑)英文字幕つき。らしい。
ラベル:張孝全
posted by フェイユイ at 12:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 張孝全 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月26日

「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」トーマス・ヤーン

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公開時にテレビで取り上げられてた記憶があり、評価も非常に高くていい映画ということだったので借りてみた。人気がありなかなか借りられず随分待った。

重病で死の宣告をされた若い男二人が病院を逃げ出し、そこに駐車されていたベンツを盗んで海へ向かって走り出す。片方がまだ海を見たことがないというので。
だがその車はギャングの持ち物でトランクには大金の入った鞄が入っていたのだった。
途中でそのことに気づいた二人は、ギャングに追われ、警察にも追われ、あちこちで金を使い込みながら海を目指す。なぜなら天国では今海について語るのが流行っていて海を見たことがない者は仲間はずれにされるのだ。

頭に脳腫瘍があり時折激しい発作をおこすマーチンには若いながら渋い面構えのティル・シュヴァイガー。片やちょっととぼけた味わいのヤン・ヨーゼフ・リーファース 。
死を目前にした二人の男が巻き起こす目茶目茶な騒動絡みのロード・ムービー。
全てがいかにも私好みの予感だが、なぜかがっかりであった。

一番の原因はあまりにもかっこよく面白くできすぎていたからなんだろう、と思う。
別段、病気であれば何をしてもいいのか、だとか、ギャングが間抜けすぎ、だとか(しかしこんなんで暗黒社会が渡れるのか)、リアリティがない、だとか堅苦しい事をいう気はないのだが、それでもこんな風に単純にことが運ぶのは拍子抜け、である。

それにしてもこの映画に対する賛辞はかなり高いものがあるようだけど私としては映画の中で最初に思っていたことと違った方向へ進み、だがそれに意義がある、というような話の方が面白いと思うのだ。
最初の希望通りでそのまま終わるのでは意味がない。到達した場所は全然違う所だったのに、よく考えるとそこが願った場所だった、とかはいいけど。
目的地につくのもかまわないけど、そこに到るまでに何かが変わって欲しい。彼らの思いとか。何かが。
何も変わらないけど面白い、というのもあるがそこまで深くはないようだ。

それにお母さんが可哀想過ぎる。せめてこっそり置いてくるだけ、とかできなかったのか。手紙とか置いて。息子が強盗でしかもすぐ死ぬなんていうのをまざまざと見せ付けるなんて酷いではないか。

ルトガー・ハウワーがあそこで行かせるのも不思議だった。殺せばいのに、と思って観ていたのだが。

この監督は凄い映画好きであるらしいが「真夜中のカーボーイ」は観なかったのか。とことんかっこ悪い二人の男が夢見るカリフォルニアへ行こうとしてバスに乗るあのラストシーンまでの物語を思い出せばいい。

こういうのがかっこよくて大好きな人もいるのだから、そういう人たちのためにこの映画のような作品はあるのだろう。
私には向いてなかった。残念。

監督:トーマス・ヤーン 出演:ティル・シュヴァイガー ヤン・ヨーゼフ・リーファース モーリッツ・ブライプトロイ ルトガー・ハウアー ティエリー・ファン・ヴェルフェーケ フーブ・シュターペル
1997年ドイツ


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2007年07月25日

ジェイ会見:『言えない秘密』ついに明かされる!?

ジェイ会見:『言えない秘密』ついに明かされる!?

何事かとどきどきしましたねー。ジェイのグイ・ルンメイへの心配り優しいです。

「ジェイは本作のために同題の主題歌も作曲。映画の予告編を同時収録したCDが8月10日に発売される」
というのが気になります!!
posted by フェイユイ at 21:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「青い棘」アヒム・フォン・ボリエス

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実はこれパッケージと題名で美形だけが売りのやおい映画かと勘違いして二の足を踏んでいたのであった。
そういうのではなかった(申し訳ない)
何故か若い時には死を身近に感じ死への憧れを持ってしまう。ただ一度恋に失敗してもそれが自分の全てだと感じてしまう。そして死を選ぼうとする。通り過ぎてしまえば思い出の一つになってしまうのだとは考えることもできずに。

私がイメージするドイツ映画そのもの、という内容であった。暗く重く救いようがない。
恋に奔放な女、と言って登場しても許されない。
十代の夏の夜のパーティなのに何かしら重苦しい。友達同士で列車に乗っていても空気はよどんでいる。
斯くも青春というのは痛みに満ちているものか。この雰囲気、たまらないのである。

単純に利口な発言をするならば、ギュンターの行動は短絡的でそれを止め切れなかったパウルも不甲斐ない。
だが二人の痛みをちくちくと感じて切なくなってしまうのだ(だから青い棘か)

ギュンター、ヒルデ兄妹の家に不思議な占い機械(?)があってヒルデがパウルの将来を占う場面がある。
縄跳びの握り手のような部分を握って念じるとその結果が現れるのだとヒルデは説明する。
回り出した機械にどきどきする。止まった機械が示したのは「隠者」パウルは一生誰とも結婚しないのだという。
この占い機械、本当にあるものなのか?単に回すんでなく握り手があるのが不思議。熱か電気が反応するのだろうか?

パウルを演じたダニエル・ブリュールは「グッバイ、レーニン!」での熱演を観たばかりだったので凄く楽しく観れた。こちらでは大変な美青年になっていて、でも性格は真面目で一途な所が同じ。
ギュンター役のアウグスト・ディール、凄く痩せているのでちょっとぎょっとしたが、こちらもなかなかの美形である(私は痩せ型よりがっしりタイプが好きなのでちょっと)彼はハンスという青年と恋仲だったのに妹に寝取られてしまい復讐と自殺を計画する。
この映画でちょっとした驚きだったのはゲイであること自体が問題だったり隠したりすることでなく語られていることだった。
他の作品が同性愛ということに引け目を感じたりそのことで死を選んだりするのとは違うのが新鮮だった。
そしてこの二人、パウルとギュンターは単なる友達とも言えず、同性愛でもなく「共生」の関係で成り立っている。
ギュンターを失った後、パウルはどんな人生を歩んでいくのだろうか。

兄妹の両方と肉体関係を持つハンス。やせっぽちでどこがいいのか判らない。
ギュンターの妹ヒルデは一人の男に縛られるのは真っ平と公言し、また非常に男性を惹き付ける魅力ある少女として登場する。が、後に魔女狩りに会い、図書館司書として生きていく、というのがおかしい。この物語は実話ということなのでこういう結果が実際にあるのだ。図書館で働いていても男性遍歴はできると思うが?
一方、ヒルデの友人エリはただ一人の人を愛したいと願い彼女も独身で過ごしたらしい。一度会っていたパウルに顔も覚えてもらえなかったというこれも悲しい運命の女性なのだ。

監督:アヒム・フォン・ボリエス 出演:ダニエル・ブリュール アウグスト・ディール アンナ・マリア・ミューエ トゥーレ・リントハート ヤナ・パラスケ
2004年ドイツ
posted by フェイユイ at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月24日

「小説家を見つけたら」ガス・ヴァン・サント

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何と言っていいのか。一言では言い難い作品であった。なのでいつもだがだらだらと書いてしまう。
まず最初に言っておきたいのは自分としてはとても好きな作品なのである。

だがその内容を分析(なんて難しく言わなくてもいいが)してしまうとまずは物凄く「グッド・ウィル・ハンティング」に似過ぎていて監督は同じガス・ヴァン・サントなんだからどうした事かと考えてしまう。しかも主演のマット・デイモンが最後に登場してくるわけでこっそり真似したとも言えないではないか。
埋もれた才能を持つ少年がある時、突然その才能を見出される。彼に理解のある教育者(ここでは小説家でもあるが)が彼の道しるべとなる。といった具合。しかも頭のいい金持ちのガールフレンドが出来るというところまで同じ。
だがまあ監督が同じであるなら内容が似ているからと言っていけないわけではない。他人と似てるのは問題だが、似た内容を再度作るのはそれなりの意味があるのだろうし、中味がよいなら問題はない(と思う)
しかし正直、天才同士が偶然出会って互いに好意を持ち互いの才能と精神を高めあう、なんていう気恥ずかしくなるような設定は苦手なのである。その辺は「グッド・ウィル・ハンティング」の時も感じたのだが、二人の若造(マットとベン)が書いた脚本ということでまあ納得はした(偉そうだな)あえてガス・ヴァン・サントが同じような話をまた作ったのはなぜなのか、とやはり考えてしまう。

では違いは何かというとウィルには家族がなかったのにこちらには暖かな家族(母と兄)がいることとウィルにはいた親友が逆にこちらのジャマールにはいない。ウィルの時は彼の理解者が友人と二人の教授に分かれてしまってたのがこちらでは小説家であるウィリアム(グッド・ウィルと同じ名前っていうのもややこしい)一人になっているのでその分濃厚な関係になっている。
というならそこの部分がこの映画の描きたい要素であったのか。

ブロンクス育ちの黒人少年であるジャマールとかつて一冊の素晴らしい小説を出版しただけで世間から身を隠してしまった小説家ウィリアム・フォレスターとの出会い。
ジャマールはバスケットが得意でありながら実は隠れて小さな手帳に小説をこつこつと書き溜めていたのだ。ひょんなことからジャマールはウィリアムの部屋に忍び込み、その手帳の入ったバックパックを置いてきてしまう。彼の手に戻ってきた時、その手帳には彼の文章の手直しと批評がびっしり書き込まれていた。

今も読み継がれている一冊の名作を書いた失踪した老作家とこれから成長していく才能ある若者が誰も来ない一部屋で何日も語り合い教え学んでいく。なんという羨ましい貴重な時間であろうか。
若者にとっても老人にとっても掛け替えのないひと時であったと思う。
そんな感慨を持ちながらもそれを支える設定、演出、ストーリーに自分としては不満を持ってしまうのだ。

もう一つ「グッド・ウィル・ハンティング」と大きく違うのは主人公が黒人である、ということだろう。
変な話、主人公を黒人にしたということで予算も観客動員も変わってしまうはずだ。金髪碧眼のマット・デイモンが主人公なのとでは全く違ってくるに違いない。
よく似た話。でもあえて作ったのは少年が黒人ということだったからなのだろうか。

この黒人少年ジャマールを演じたロブ・ブラウンが可愛いったらない。監督がガス・ヴァン・サントなので当たり前だがメチャ美少年なのである。美少年っていうか凄く可愛い男の子なんである。時々はっとするほど綺麗できゅんとしてしまうほどの魅力なのだ。
そのブラック美少年が街中でバスケットをやってる姿は涎が出るほど美味しそうなのであるが、それを双眼鏡で覗き見してる変態親父がショーン・コネリーである。皆は渋いだのどーのと言ってるがこれはもう絶対変態なんであって単に顔がコネリーだからかっこいいだけなんである。
なんという都合のいい事かブラック・ビューティは彼の方から老人の部屋に忍び込む。
そして二人は出会い、二人きりで何度も密会するのである。
なんて羨ましい!!どっちが。よく解らんが、007と美少年が人目を忍んで部屋に閉じこもってるんである。一緒に食事をしたりデートしたりこれに何か作者の陰謀がないとは思えないではないか。

と興奮したりもさせられる映画なのであるが、どうしてもどうしても色々とひっかかってしまうのだ。
最も残念なのはクロフォード教授。彼が単なる悪役というだけで終わってしまったのが空しい。
私としてはコネリーを出さず、クロフォード教授とジャマールの話でもよかったんでは、とも思う。
天才、とかではなく一度本を出しただけのクロフォード。今でも大人気とかじゃなくていいからそれはなかなかいい本でジャマールはその小説を好きだったとか。クロフォードとフォレスターが合わさったような人物で彼自身も変わっていく話などどうだろうか。全てのストーリーが変わってしまうが。(挫折した者にもチャンスをくれ)

そんなんで凄く好きながら残念な気持ちが残る作品だった。残念だけど好きでもある。
フォレスターとジャマールの話をもっと深くやって欲しかったとも思う。

マット・デイモン。彼を見たくてこの映画がずっと気になっていたのだった。
物語のラスト、フォレスターの消息を伝える役。マットは語り口がよいのでぴったりの役である。
笑顔も素敵だった。うれしい。

もう一つ思い出した映画は「苺とチョコレート」部屋の中で話してるっていうだけで別に共通点はないんだけど。

監督:ガス・ヴァン・サント 出演:ショーン・コネリー ロブ・ブラウン F.マーリー エイブラハム アンナ・パキン バスタ・ライムス
2000年アメリカ
ラベル:教育
posted by フェイユイ at 18:27| Comment(2) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月22日

「ツバル」ファイト・ヘルマー

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登場人物たちが話すのはどこのものか解らない言語と誰でも解る簡単な言葉と名前くらい。後は偏った色調と反対に豊富な音色で物語を語っていく。どこか解らない国のどこか解らない町なのに懐かしい気持ちになってしまうような不思議な感覚。古いプールのある建物の中で外へ出て行くことができないアントンを主人公にしたファンタジーなのである。

ファンタジーといってもアントンは少年ではなく少年のような精神の結構無骨な顔の男である。言葉がないのではあるが背の高い強面の父親と太った受付嬢(といっても年配の)と古くてあちこち壊れかけたプールを経営している。
このプールは先祖代々受け継がれているらしい。
アントンには兄がいるがこれが相当怖い顔でこの古びたプールを壊してしまおうとやっきになっていてアントンを目の仇にしている。
ある日、アントンのプールに可愛い女の子がやって来てアントンは恋に落ちてしまうのだが。

というお話。この女の子が凄く可愛くてちょっとロリータ的な印象のある女性である。名前はチュルパン・ハマートヴァ。チュルパンなんて可愛い名前だなーと思って検索してたら彼女は「グッバイ、レーニン!」のロシア人のガールフレンドだった人であった。勿論彼女自身ロシア人(タタールスタン共和国人)である。「レーニン!」の時は凄く華奢な感じだったので気づかなかった。こちらではむしろふっくらした感じのまだ少女という印象である。そのままアニメのヒロインみたいである。
なにせアントンは引きこもりのオタクっぽい男なのでまあぴったしということだろう。このアントンが確かにオタクで不気味な時もあるのだが彼女の天真爛漫な可愛らしさと茶目っ気がそれを救っている。
(といっても彼女はこの時24歳で二人の子供もいるようである。驚き。)

そして主人公アントンを演じるドニ・ラヴァンの素晴らしさ。中年男と言っていい上になんだか一見いかつい顔立ちなのに少年のように可愛らしいのである。
彼が本当に少年や若者だったらこんな味わいはなかっただろう。この石造りのプールの番人として懸命に働く姿が愛らしい。
そしてそして一番素敵なのが小さな黒いサングラスのお父さんなのである。目が見えないということで騙されているという設定なのだが果たして本当に見えないのか謎なのである。
背が高くて威厳があるかっこいい老人なのだ。

とにかく映画自体徹底したオタク風味というか自分の好きなモノを追求した世界という感じで面白い。
時代も国籍も不明、あちこち崩れていく石造りの建物の中にあるプール。その水を送り込むための奇妙な機械。その機械を動かす為にはめ込まれているピストン。建物内は複雑に入り組んでいてそこに行ってみたい気にさせる。この辺の趣味は前に観たダニエル・クレイグ「ホテル・スプレンディッド」を思い出させるがあちらがちっとも可愛くなかったのに(失礼)こちらは子供のような無邪気さである。

ラストはまるで昔のアニメ映画を観てるよう。今でもそうなのかよく知らないが昔のアニメ映画って必ずこういう風に建物が崩れていってヒーローとヒロインがわーって逃げていってめでたしめでたし、だったよな。
というわけでホントにオタクのバイブルと言うが如き「ツバル」である。
私もこういう密室引きこもりオタク的要素強くてこんな古い建物好きだし思い切り楽しませてもらった。

この映画は前述のとおり殆ど台詞はないので全て想像するしかないのだが、DVDではサブタイトルで字幕を入れると監督の説明が入る。
これは実に面白いので特に自分だけのイメージで感じたいという方でないならご覧になって損はないと思う。私は何も知らなかったので「こういう説明を読みながら観るという映画」なのかと思って観てしまった。途中で「よく無声映画と言われるが」という所で気づいた。さすがにそんな映画ないよね。

“ツバル”は南太平洋上の小さな島の名前である。皆が憧れる場所、行ってみたいところという夢を表しているのだ。

監督:ファイト・ヘルマー 出演: ドニ・ラヴァン チュルパン・ハマートヴァ フィリップ・クレイ テレンス・ギレスピー カタリナ・ムルジア
1999年ドイツ
posted by フェイユイ at 21:33| Comment(0) | TrackBack(1) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

張孝全「拍賣世界的角落」

どばしさんから教えていただいた(ありがとうございます!!)張孝全くんのドラマ「拍賣世界的角落」気になります→ここ

ここでも孝全くんはゲイの役のようで、しかもとてもいい作品のようです。うーん、観たい。


こちらは「花蓮の夏」オフィシャルサイト

YouTubeで観れるようですが→ココ

これもあったり「水滸伝」
ラベル:張孝全
posted by フェイユイ at 00:00| Comment(3) | TrackBack(0) | 張孝全 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月20日

「グッバイ、レーニン!」ヴォルフガング・ベッカー

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どうしてアレックスはここまで母親の事を気遣うのか、なんて母親思いの青年だろう、と涙ぐんでしまう映画である。人によってはマザコンだとかお涙頂戴だとか思われてしまいそうだ。
勿論その通りなのだがこの映画にはもう一つの意味が隠されているように思える。
それはこの母親こそが消滅してしまう東ドイツなのであってアレックスはそこに住む故郷を愛する人々の代表としての姿なのではないのだろうか。

東西に分かれていたドイツが再び一つになったというニュースは遠い国のこととはいえ非常な驚きであったのは記憶に残っている。ましてそこに住む人々にとっての生活の変化というのは果たしてどんなものであったのか。この映画では社会主義国家から全く一夜にして資本主義の世界に変わっていくことを驚きと笑いを交えながら描いていく。
アレックスの母親は東西ドイツの壁が壊された時こん睡状態にあり、歴史の動きを知らなかった。
目を覚ました母親に突然現実をばらしてしまうと病気の母はショックで死んでしまうかもしれない。アレックスは次第に、というよりあっという間に失われていく社会主義国家であった東ドイツを復元しようと奔走する。姉や恋人に反対され、それが空しい行動だと気づきながらもアレックスは東ドイツを捨て去ることができないのだ。

アレックスが西側に憧れていてたまらないほどの青年だったらこういう行動にはならなかっただろう。自分が祖国を愛していたからこそ母親に変わってしまった世界を見せたくなかったに違いない。祖国と言っても場所は同じなのだが。
あっという間に西側の文化や商品を受け入れてしまう周囲の人間に反抗しているかのようにも見える。
社会主義国家から資本主義国家へ。無論、資本主義の社会で生まれ育った自分にはいいことのように思えてしまう。多くの資本主義国の人間はそう思うだろう。
だが、思想や社会のあり方とはまた別に生まれ育った町への郷愁というのはきっと皆の心に潜んでいるはずなのだ。

例えうざったい王権制度に悩まされた国民でも自由になって暫くはなくなってしまった封建社会がよかったと思ってしまう、という話は歴史的によくある。
かつて住んでいた町が変わり、人々の意識も変わってしまうと人間は寂しくなってしまうようだ。

アレックスの母親(東ドイツ)はいきなり真実を知れば(西側の経済・文化を受け入れれば)心臓発作を起こすと(国が崩壊する)と医者に言われアレックス(東ドイツを愛する人々)はそんな母親を守ろうと必死になる。
だが歴史は全てを動かし飲み込んでいくものなのだ。
母親は父親を追って西側に行きたかったけど怖くて行けなかった、という事実を話し(これも意味深)発作を起こして死ぬ。
ダブルミーニングは徹底している。
母親はアレックスの恋人ララによって真実を知るが、息子の懸命の母への愛を感じ優しい眼差しを向ける。
母(東ドイツ)を愛していた人は泣いてしまいそうだ。「もういいのよ。解っている。あなたが私を愛していたことは」
世界は変わっていくのだ。そこに住む人々はかつての国を嫌っていたのではない。そこに生きていたのだから。

アレックスは最後にもう一度夢をと母親に嘘の世界を見せる。それは資本主義国の若者が自ら求めて社会主義国へ移り住むという理想郷だ。物質だけが全てではないという考えのもとに。
互いの国は自由に行き来が出来、社会主義を賛同する者は東ドイツに住んでいいという社会になったという嘘のニュース番組を制作して見せたのだ。

アレックスの恋人がロシア人であったり、嘘のニュース番組の製作をしてくれる技術者が西ドイツの青年だったり、意味深い設定が全部にふられている。無論進歩的な姉の恋人が西ドイツの男性なのは当然である。

こうして一見親孝行の青年の物語に全て意味が隠されているのは面白い事である。
とまあ、多分どこでも書かれていることだろうが(笑)自分なりに考えて書いてみた。
郷愁を追い求め、祖国(生まれ育った場所、というべきか)への愛を示したいと走り回った者の話であった。
そして母の骨は旧東ドイツの空に散った。彼らはいつも思い出すことは出来るのだ。

久し振りに外へ出た母親の前に大きなレーニン像がヘリコプターで運ばれてきてその大きな手を差し伸べる場面は印象的である。
これも非常に象徴的である。取り壊されたレーニン像、郷愁を意味する母親へ手を差し伸べるが二人が結ばれることはない。

先程書いたトニー・レオンが返還される前の香港への郷愁を語った話が思い出される。
状況は逆である。そのまま真逆、ではないが。
が、イギリス植民地から本国へ戻る、というめでたい(?)状況においてもやはりそこに住む人々の心には郷愁は宿るものなのだろう。

監督:ヴォルフガング・ベッカー 出演:ダニエル・ブリュール カトリーン・サーズ チュルパン・ハマートヴァ マリア・シモン フローリアン・ルーカス
2003年ドイツ

このレビュー、もっと簡単に書くつもりだったのに、トニー・レオンの香港への気持ちを聞いてやっぱりそうなんだと急に長くなってしまった。
posted by フェイユイ at 22:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トニー・レオン「傷だらけの男たち」舞台挨拶

トニー・レオン、新潟県中越沖地震の被災者に励ましのメッセージ

トニーは災害が起きると義援金を送ったりしてとても徳の高い人だと感心します。新潟の地震被災についても心配りをするなど気にしてないとなかなかできないことだと思いますねー。

「傷だらけの男たち」(「キスだらけの男たち」って打ってしまった^^;)の秘話おもしろい。驚きです。

そして原題「傷城」(傷ついた街)の話。なんだかしんみりしてしまいますね。なぜトニーのインタビューを載せたかというとこれから書こうとしている「グッバイ、レーニン!」とこの話が関連していたからなんですよ。自分の住んでいた町が故郷がなくなってしまう、あるんだけど自分が住んでいた町とは違う、というのは体験した人でないと本当の気持ちはわからないんでしょうね。
トニーってやっぱり素敵です。

こちらも→映画『傷だらけの男たち』トニー・レオン舞台あいさつ
posted by フェイユイ at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 香港 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月19日

20年ぶりにデビュー作が公開されるガス・ヴァン・サントを直撃!

20年ぶりにデビュー作が公開されるガス・ヴァン・サントを直撃!

わわわ。これは観たいものですねー。

「マラノーチェ」オフィシャルサイト←この絵だけでも好きになりそう。相変わらず、どっかへ行ってるって奴だ!!
ラベル:映画 同性愛
posted by フェイユイ at 18:22| Comment(6) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ジェイ・チョウ、新ホームページを公開

ジェイ・チョウ、新ホームページを公開

ということです!!→杰威爾音樂(JVR Music)

まだ見つけたばかりで覗いただけなのですが^_^;楽しみです!!!

声が聞けた(泣)
posted by フェイユイ at 18:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月18日

「リプリーズ・ゲーム 」リリアーナ・カヴァーニ

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マット・デイモンが演じたトム・リプリーの20年後の物語をジョン・マルコビッチが演じ、監督はリリアーナ・カバーニと聞いては捨ててはおけない。こういう作品があったとは全く知らなかったのであるが、早速観てみた。

何もかも行き当たりばったりで常にコンプレックスに責められ、発覚を怖れながら涙と汗を流していたトム・リプリーもン十年たつとすっかり落ち着いた大人の男である。良心を捨ててしまったというだけあって冷静沈着。大金持ちとなって豪邸を構え、しかも美人ハープシコード奏者と結婚していたのである。ふさふさしていた前髪は今はもうなく、というのは誰でも書いていそうだがそれも含めてセクシーで素敵なのであった。

「リプリー」を鑑賞済みの方なら「トムはゲイではなかったのか」というところだが、この作品で女性と結婚していて(かなり濃厚なラブシーンもあるが)やはりトムはゲイなのである。その印はよく観てるとそこここに出ていてトムの趣味や仕草、そして仲間であったリーブスもゲイである(こちらは男性とベッドを共にしていたと思わせるシーン、壁に男性の裸体の絵などという証拠が)ということから匂わせる、という形で表現されている。今なら別段ゲイであることをはっきり語っていてもいいんだろうが、私はこういうこっそりと判る者だけに判る的表現が好きなので余計ゾクゾクするのである。冒頭でイカロスの象を見る目からしてもう妖しいのではあるが。

本作ではトムが主人公ではあるがジョナサンという平凡な額縁職人の男がストーリーの主軸となっていてトムはその彼に絡んでいくような形になっている。
ジョナサンは純朴である、ということでトムから目をつけられる。そしてトムを蔑んだことで恨みを買う。
重病を抱え込んでいて、まだ幼い息子と美しい妻を持つジョナサンは大金を餌に殺人を依頼され次第に深みにはまっていってしまうのだ。
年齢は違うがその姿はなんとなく昔のトムを思い出させてしまう。
トムは最初ジョナサンが自分の悪口を言ったことで復讐しようと思っているのだが途中から彼の味方となって助けていくのだ。
一方のジョナサンも初めはトムを疎んじていたのに彼を頼りにし始め、トムが危機に陥った時は自ら助けに行ってしまう。
そしてついに殺されそうになったトムを庇って死んでしまうのだ。

トムは多分最初からジョナサンが好きだったんだろう。それが悪口を言われて余計気に障ったのだ。
トムを庇った時のジョナサンを思い出す場面は官能的である。命の恩人であるトムに唾をはくジョナサンの妻の行動は何となく夫とトムの間に隠微な関係を感じていたからではないだろうか。

殺し、という怖ろしい題材が扱われているのだが、誰も気づかないような静かで落ち着いた雰囲気なのである。壊れたハープシコードを修理して妻に演奏させるまでの出来事なのであった。

トムがジョナサンに花の球根をプレゼントするのだが、何の花かは芽が出てからのお楽しみ、と言っていた。
何の花なのか、どういう意味があるんだろう。

マルコビッチのよさはわかっているけど本当に惚れ惚れである。
このトム・リプリーはこの映画だけ観たなら全く謎の男なのである。妙に強かったり、女性的だったり、音楽や美術に詳しくスフレを焼き、平気で人殺しをしてしまうという相当不思議な人格なのだがマルコビッチがやるといかにもいそうに見えてくる。
この若い妻は彼の正体を知っているのだろうか。ちゃんと知っていそうな感じであったのがまた謎である。

監督:リリアーナ・カヴァーニ  原作:パトリシア・ハイスミス 出演:ジョン・マルコビッチ ダグレー・スコット レイ・ウィンストン レナ・ヘディ キアラ・カゼッリ ダグレイ スコット
2002年アメリカ/イギリス/イタリア
posted by フェイユイ at 23:43| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月17日

ジェイ・チョウが初監督作品のプロモーション

ジェイ・チョウが初監督作品のプロモーション

ははっ!気がきいてます!ジェイ。もういつもいつも聞いていてみーんな知ってるはずなのにねえ。
posted by フェイユイ at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「エデンの東」エリア・カザン

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一昨日の「二十日鼠と人間」に引き続きこれを選んだのは勿論原作スタインベック続きである。そのくらい「ハツカネズミ」に参ってしまったんである。
監督はエリア・カザン。主人公はジェームズ・ディーン。この映画をまったく観ていなくとも走る列車の屋根の上で寒さに震えながらセーターの袖を体に巻きつける超有名シーンは誰もが一度は観てるであろう。孤独な若者の心を表現した名場面である。

本作は、原作者が同じということで「二十日鼠と人間」と幾つか似ている部分がある。カリフォルニアが舞台であり、まず気づくのはどちらも農場を営む主人に束縛され反発する妻が問題の原因となっていることである。
この設定は女性としては共感もできるが、苛立ちも覚える。どちらの女性にも同情しつつ、事件の要因となる悪女として描かれているからなのだが。
とはいえ「エデンの東」を観ていてまず思い出したのは「ハツカネズミ」ではなく台湾ドラマ「ニエズ」である。
「ニエズ」でも主人公は男兄弟の兄で弟の方が可愛がられている(この場合は主に母親からだが)束縛する夫に嫌気がさした母親は家出し聞こえの悪い職業につく(出世振りは随分違うが)主人公はその母親と自分が似ていると感じている。厳格な父親と仲違いをする。
というような設定である。無論そういった部分以外は全く違うし描こうとしている事も違っている。ただイメージが重なっていったのである。キリスト教的な部分はないが「ニエズ」はまた別の意味でも「エデンの東」なのかもしれない。

そんな風に3つの作品を見比べてみたのだが「エデンの東」にあって他の二つにはないものが、“アブラ”という女性の存在である。
「エデン」はさすが名作と言われるだけあって感動的な作品で特に最後のアブラがキャルたちの父親に行う独白、そしてキャルがアブラに励まされて父親に打ち明ける場面は涙なしには観れないが、この“アブラ”という女性にまず疑問を感じてしまう。
なにしろ恋人の父親に認められ、優等生のアロンに気に入られ、不良のキャルとも共感し合えるという物凄く優れた女性なのだが、あっちにもこっちにもいい顔している気がする。その辺の心理の変化をうまくこなして描かれてはいるとは思うのだが、デキがよすぎではないのだろうか。とにかくアブラがいなければこの話まとまらなかったはずなのだ。
「ハツカネズミ」と「ニエズ」にはアブラの存在がなく、そのために事件は解決しないのだ。この名裁判官のようなアブラがいればこの二つの物語もうまくいったかもしれないのだが。
だがアブラがいないからこそ「ハツカネズミ」と「ニエズ」の方が私は好きなのだ。

多分この“アブラ”は物語の説明のために登場しているのだ。そのため少々おせっかいででしゃばりである。自分ででしゃばってすみません、とわざわざ父親に謝ってもしるし。
アロンの心もキャルの心も二人の父親の心も彼女が説明しどうすればいいか案内をしていっているようだ。その上、双子のどちらとも出来てしまうというちょっと嫌な設定である。

随分アブラを責めていて可哀想であるな。とにかく彼女はむしろ狂言回しという役柄なのではないだろうか。
でなければ彼女が主人公であり、どうしようもない駄目な3人男の間で苦悩しているのである、というのはどうだろう。

可哀想、といえばアロンも気の毒な人である。結局父親も恋人もキャルに盗られてしまった。キャルのせいでおかしくなりあれほど嫌っていた戦争をするために兵士になってしまう。
めでたくキャルは父の愛を手に入れたけど、アロンはどうなってしまったんだろう。

もう一つ気になるのは画面では匂わせる程度にしか出てこないキャルの「お相手」であるというメキシコ人の女達、である。
どうもキャルは彼女たちと付き合って(つまり肉体関係がある?)ようなのだがアブラが来るとキャルは「あんな女どうでもいい」という態度を見せる。もし本当にキャルが関係していたなら、アブラの愛を手に入れたことでメキシコ娘は捨てたというわけで随分酷い話である。原作にはその辺書かれているのかもしれないがあくまでも映画を観ての印象として。

そしてキャルの母親への仕打ち。確かに子供を捨てて行った母親なのだからあんまり文句も言えないが、途中まで随分甘えてお金まで貸してもらってるのに最後に嫌がるアロンを叩きつけるように置いてくるのはあの後のアロンの母親への態度を考えるとかなり残酷である。

と、こう考えてくるとこのキャル、本当にかなり酷い青年のようである。スタインベックがこう描いていたのかエリア・カザンの演出なのか読んでみないと定かではないが、ホントに自分勝手なのだ。
しかもこの自分勝手さを含めてキャルという若者が魅力的なのか、あくまでも父親に愛されたいと願った純真な若者を描いていたらこうなってしまったのかがはっきりとしない。

物語は旧約聖書の「カインとアベル」を題材に作られている。父親が神の役である。兄・カインは農作物を神に捧げ、弟・アベルは羊を殺して捧げた。が、神はカインの農作物は受け取らず、アベルの殺した羊だけを受け取った。カインはアベルを殺し、それを知った神が「アベルはどこにいる?」とカインに聞くと「私はアベルの番人ではない」と答え、楽園を追われたという話はキリスト教徒でなくともよく知られている話である。
大体この神様が農作物を受け取らなかった、というのが農耕観族としては不満なのだが、働いたからと言って威張っているカインの高慢が原因らしい。殺した羊という神様(父親)が求めるものを捧げたアベルこそ尊いのだというのはどうかと感じてしまうのだが「エデンの東」ではこの話がうまく脚色されていて、豆で金を稼ぐキャルと婚約という父の求める贈り物をするアロンという具合である。ということはこの場合アブラが殺された羊なわけでそれを父親に供するわけなのだな。結局アブラもまた「束縛される」と言って出て行きそうではある。
そしてさすがにアロンを殺しはしないが潔癖なアロンに母親の真実の姿を見せて戦場へと追いやるのだから殺したのと同じではある。

聖書ではカインはエデンの東へ追われるが、キャルは父(神)の側に残る事になる。アブラの助言によって。
やったことはカインと同じなのにこれは聖書への反逆なのだろうか。

文句ばかり書き連ねてしまったが、やはり見ごたえなる名作には違いない。
観終わった後、何かにつけ思い出し、どうしてなのか、と考えてしまうんだろう。
ジェームス・ディーンがこの色んな意味で不良であるキャルを演じたのは幸運であった(「色んな意味」が両方にかかっている)
このナンだか謎の残る物語は考えていく価値があるのは確かである。

監督:エリア・カザン 出演:ジェームス・ディーン ジュリー・ハリス レイモンド・マッセー ジョー・ヴァン・フリート リチャード・ダヴァロス
1955年アメリカ


ラベル:家族
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2007年07月15日

「二十日鼠と人間」ゲイリー・シニーズ

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1930年代アメリカ、大恐慌のカリフォルニアが舞台となる。
原作は残念ながら未読だが、ジョン・スタインベック「二十日鼠と人間」を忠実に映画化した作品ということらしく簡潔で緊張感のある作品であった。

小柄で頭の切れるジョージと対照的に大男で怪力なのに子供のような精神と知能であるレニーの物語である。
ジョージはいつも足手まといになるレニーに正直嫌気がさしている。ジョージは知能が遅れているレニーといつも行動を共にしているのだが、見つけた仕事場の先々で彼の執着心と怪力が面倒を起こしてしまうのだった。
しかもポケットには死んだネズミの死骸を入れている。彼は小さくて柔かい手触りの動物や物が好きでいつも触りたがるのだ。ジョージは苛立ちながらレニーから死んだネズミを取り上げ投げ捨てた。

他の男が二人がかりでやっと持ち上げる重いものを一人で軽々と持ち上げてしまうレニー。だが頭と心は子供そのもので、頭のよいジョージを頼りにしている。だがジョージがかっとなって別れたいと言われた時は「一人でやっていくよ」という健気さもある。が、そう言われると逆にジョージはレニーを離せなくなってしまうのだ。

小さな動物が好きで純朴なレニーは可愛らしい存在だ。
もう一つ彼が好きなのはジョージの話を聞くこと。それは将来二人で小さな牧場と家を買って住むという夢の話なのだ。馬と牛と鶏とレイニーのためにウサギを飼うという他愛もない希望。頭の弱いレニーなのにジョージの言葉は驚くほど覚えていて話をせがみながら次々と先を話してしまうレニーが酷く可愛い。ジョージも少々うんざりしながらもレニーが屈託なくせがむので仕方なく話して聞かせてやる。そんな二人の様子が凄く幸せそうでこっちまで嬉しくなってしまうのだ。

ジョージが新しく見つけた牧場の仕事を二人はなんとかこなしていた。牧場主の息子が頭の弱い大男のレニーに目をつけたのとその妻が美人でやたらと話しかけてくるのが気になるが二人は「面倒は起こさない」といい続けてやり通していた。
二人がまた夢の話をしている時、いつの間にかその話を聞いていた老人がいた。老人は可愛がっていた老犬を「臭いから」という理由で銃殺されたのだ。老人はせめて自分で殺せばよかった、と悔やんでいた。その時二人の夢の話を聞いてその話に乗りたいと言い出したのだ。牧場を買うための半分は自分の貯金を出すと言う。老人はいつか自分も役立たずとなるのを恐れ二人の牧場に住みたいと言うのだった。
二人の遠い夢が突然現実のものとなった。
残りの金額を稼ぐ為、二人はますます頑張ろうと思った。

若い女性が物語の波乱の元になっている。しかも始めから注意していたのにどうしてもその災いを祓いのけることができないのだ。

簡潔な物語なのだが、伏線がうまく使われ出来事にも言葉にも意味がある。
レニーが小さくて柔らかなものを触るのが好きなことが大事件となる人妻の殺害のきっかけになる。
そして老人が可愛がっていた犬を自分で撃ち殺すべきだったという一言が殺人を犯してしまったレニーを自ら撃ち殺すジョージの決意にかかってくる。

レニーは逃亡している時もジョージが怒っていないかだけを気にしている。言われたとおりの隠れ場所を探そうとしたが見つからなかったのだ。でも言われたことは覚えていたよ、と言い訳する可愛いレニー。最後までジョージの話をせがんで聞こうとしたのだ、レニーは。

ジョージはレニーが自分の言葉だけを覚えていたことに愕然とする。何とかしてレニーを逃がそうと思っているのだが、追っ手がせまり捕まったらどんなリンチを受けるかしれないのだ。

貧しく身よりもない二人は互いしか頼る者がなかった。レニーは何度も繰り返し聞きたがった「流れ者には家族も身よりもいない。でも俺達は違う。お前がいる」「そしておいらにはお前がいる。お互いが大切だろ。これからのことも話してくれ」「農場を持つ。牛と豚と鶏を飼う」ジョージは懸命に涙をこらえ、レニーは嬉しくてたまらないようだ。そしてジョージはレニーを撃ち殺した。

レニーがジョージの帰りを待っていたようにジョージにもレニーが大切だったのだ。だからこそ他の者に殺させるわけにいかなかったのだ。

他の者からも「二人組みというのは珍しい」と言われながらいつも二人
だったジョージとレニー。
彼らの関係と言うのは同性愛というのでもなく友情というものでもないのだ。
二人がずっと一緒に暮らしていくことは叶わぬ夢だったんだろうか。
逃げたレニーを追っ手より早く見つけ出すと言って転びながら走っていくジョージ。そして本当に誰よりも早くレニーを見つけた。互いを見つけた時、走り寄ってしがみつくレニーをジョージが抱きしめる場面。
そしてジョージが覚悟を決めてレニーに最後の話をしながらレニーの肩で涙をこらえる場面は我慢できないものがあった。

変な言い方だが文芸作品なのにも関わらず、この映画を観るとそれ以上の身近な感じがしてしまう。
それは主演の二人ジョージ=ゲイリー・シニーズとレニー=ジョン・マルコビッチの素晴らしい演技のせいなのだろう。
二人のつながりが単なり創作ではないものを感じさせてくれるのだ。
本作でゲイリー・シニーズは主演だけでなく製作・監督も担っていてその才能を思い知らされる。(関係ないが私は彼のことを小隊長殿と呼んでいる)
最近よく観ているジョン・マルコビッチ。本作では本当にイッテしまってる人でさすがに素晴らしい。しかもこんな大男だったとは。確かに「魔王」の聖クリストファーは大男の聖人がモデルになってるので彼がぴったりだったわけである。こうして見ると物凄い怪力男にみえるのも不思議。
それにしてもレニーの純真な可愛らしさ、大男の悲哀が愛おしくて切なくてたまらなかった。
何とかして二人の夢が叶わないかとどうしても思わずにはいられない。ふと「ブロークバックマウンテン」のジャックがイニスと農場を持って暮らしたいと願うのを思い出してしまう。
はみ出し者であるなら自分達の農場を持って誰からもとやかく言われず暮らしたいと願うのは当然だろう。その夢さえも叶わないのが悲しい。

監督:ゲイリー・シニーズ 出演:ジョン・マルコビッチ、ゲイリー・シニーズ レイ・ウォルストン ケーシー・シーマズコ シェリリン・フェン
1992年アメリカ


ラベル:友情
posted by フェイユイ at 22:50| Comment(4) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする