映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2007年07月11日

神G侠侶・第41集 完結

やっと出会えた楊過と小龍女はいつもでもこの谷の底で暮らそうと約束する。
だがその時、楊過は郭襄の涙を額に感じたのだ。

宋の襄陽城は蒙古軍に攻められ窮地に陥っていた。郭靖を先頭に必死の攻防が続いた。
疲れ果て皆が眠り込んでいる時、郭靖は愕然とする。なんということか、城の前で愛娘・郭襄が金輪国師によって柱に縊りつけられまさに火をつけられようとしているのだ。
郭靖を始め皆が郭襄を助けようとするが果せない。母親・黄蓉は嘆き苦しんだ。郭靖は今は宋を守る事が先決と城へ戻ろうとした時、大鷲と共に楊過・小龍女が現れたのだ。

小龍女は美しい舞いのような戦い方で敵をなぎ倒していく。楊過は金輪国師と対決しあわやという危機に陥りながらもついに金輪を倒し得た。
そして楊過は蒙古の大ハーンをも倒し、宋に勝利をもたらしたのだ。

歓喜の行進の中で楊過は30年前、郭靖が重陽宮に自分を入れてくれたことで今の自分があると感謝した。

そしてやっと楊過と小龍女は二人だけの世界へと旅立った。見送る郭芙は二人がいつまでも幸せに暮らせるよう祈るのだった。

かなり端折った書き方ですが、この最後の一話はこれまでの物語をかなりぶっ壊してくれるような破壊力があってなんとも言い難いものがあるのだ。

楊過は宋のために蒙古と戦っていて郭靖からも「民の為に戦う者こそ本当の大侠だ」と讃えられるのだが、蒙古への反撃の凄さ、大ハーンを串刺しにしてしまう酷さ。郭芙までにんまり笑ってるのが戦争というのはこういうものだなと思わせられるのであるが結局宋が蒙古に破られる運命にある。つまり漢民族が征服されるというのをここで鬱憤を晴らしているわけなんだろう。
というかここらで鬱憤を晴らしておかねばならないほど蒙古軍は怖ろしいものだったのであろう。
それにしてもその戦いを演出する特殊効果がかなりミジメなもので無理に入れなくてもよかったのではと思わせる。

全編に渡ってひねくれ者であった郭芙も夫・耶律斉を楊過が助けてくれ、一旦は叩頭しろと言った楊過に覚悟を決めた郭芙を「冗談だ」と言って止めてくれたことでやっと心を改めたようである。

原作のイメージと違い一躍人気者になった金輪は弟子にしようとした郭襄を柱に縛り付けて人質にするなど人気も失墜かと思いきや最後に襄を庇って倒れてきたものの下敷きになり「最後に一言師匠と呼んでくれ」と言って泣かせる。うーん、いいけど先程まで殺そうとしてたくせに師匠と呼べっていうのは。呼んであげる襄って本当にいい子だ。

そしてやっとやっと結ばれた楊過と小龍女。最後はやはり谷底に戻ったのだろうか。
郭襄の言葉通り二人がいつまでも幸せに暮らせるよう願いたいものである。


ラベル:金庸
posted by フェイユイ at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 神[周隹]侠侶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「エム・バタフライ」その2

文化大革命の頃の北京のフランス大使館に勤めるルネ・ガリマールはそこで中国人女優ソン・リリンが演じた「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」を観て心を奪われる。
ルネは妻帯者だったが、慎ましく美しいソン・リリンの魅力に溺れていってしまう。
実はソンは紅衛兵のスパイだったのだ。

この作品はDVD化されてないのだが私はヤフーオンライン配信で鑑賞。確か15日からシネマナウでも観れるのでは。
ビデオ化はされている。

ジョン・ローンのソン・リリンが男の理想の女を演じているのだとはいえ、あまりにも頼りなげで色っぽく初めて「蝶々夫人」を知ったルネ・ガリマールはどんどん心酔していくのだ。蝶々夫人は日本人なのだが、それをごちゃ混ぜにしてしまっていること自体がルネが理想の女のイメージだけを追い求めているのが判る。
「東洋の女性は愛に命を捧げるんだ。男に従順に仕えてくれるんだ」と惚れまくってるのだが、同時代を扱ったチェン・カイコー「覇王別姫」のコン・リーの気の強さを思い出すとそうでもないようである。確かに情熱的ではあった。むしろやはりというかレスリーの演じた蝶衣の方がイメージは似ている(どこかでこの役をレスリーがやる話もあったとか。私としてはジョン・ローンでよかった、と安堵。レスリーにこの役はさせたくない)
しかし中国男性(女性でもいいけど)はこの映画にどんな感想持つのだろうか?ちょっと知りたい。

この映画は実話を元にした舞台劇(トニー賞受賞)をさらにクローネンバーグが映画化したわけなのだが、そういうことは知らずに「こういうことがあったんだって」という話だけ聞いた(読んだ?)記憶があった。
その時は粗筋だけだから、数年同棲して勿論メイクラブもありながらまったく同性だと気づかなかったらしい、という話で一体どうやったらそういうことが可能なのか随分考えてしまった(考えなくともいいのに)映画を観てその辺がうまく描かれていたのでやっと納得したのだが(でもやはり不思議よねー)メイクラブしてても相手の体の作りはよく判ってないのだ、というのは本当に謎である。幻想というのは無い胸もあるようにあるものもないように思い込ませることができるのだ。

ルネ・ガリマールが愛したのは美しく儚げで、男に忠実に仕え、しかも性的には大胆・巧妙であるという男の作り上げた幻の女。
だから現実の妻や浮気相手の女の飾らない剥きだした肉体に嫌悪感を覚えたのだろう。
子供を産んだ方が効果的だというのもソンの策略なのだろうが、ルネは見事にこれに騙されソンをフランスに連れて行く、と誓う。ソンが京劇で男が女を演じるのは、男にしか本当の女らしさはわからないからよ、というのを聞いて女は頷きながらもむっとしてしまうのではないだろうか。それは彼のいう女らしさというのは男の求める女らしさ、ということだからだ。

一番悲しくておかしいのはラストの展開なのだが、ラブストーリーだったら「男でもいい」とまではいかなくても何となく希望を感じさせてくれてもいいのだけど、きっぱり男は駄目!女が好きなんだ!って。
この辺が(別映画のネタバレになる)ニール・ジョーダンの「クライング・ゲーム」と全然違うのだが、こちらのルネ氏は愛する最高の女が男だったと知らされ狂気の世界へ入ってしまうのだ。そして自分が理想の女になればいい、てんで刑務所内の囚人達の前で一人芝居をする。
京劇風化粧となぜかパーマネントウェーブの黒髪かつらをつけ女になり「知りたい人は尋ねに来て。きっと知りたくなるはず」などと言いながら。
それを観た囚人の男達はどっと拍手をするんでまた驚いたのだが(凄まじい顔なのだ)これも男というのは誰しも幻想を見てるものだとクローネンバーグは言っているのだろうか。
posted by フェイユイ at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「エム・バタフライ」デヴィッド・クローネンバーグ

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凄く面白いものを観てしまった気がする。今慌てて書いてるので調べたりしてないのだが、こういう西洋人の目から見た中国の文化大革命と人々というのを描いたものというのはあまりないと思うので非常に興味深かった。

最初、ルネがソンに惚れこんでいくとこなんておかしくて「やれやれ」と応援していた。
クローネンバーグの作品をそれほど観てはいないのだが、不思議な世界に入って行く話が好きなのでは、という印象がある。
ジョン・ローン演じるソン=バタフライが妖しく神秘的でしかもか弱いという理想の女性そのものになっていてこちらもすっかり魅せられてしまった。

ルネは二人で作り上げてしまった幻の女に恋をしていたわけで、結局ソンはマダム・バタフライになってしまったのだが、この映画ではバタフライを捨てた男自身もバタフライになろうとするというのがなんとも、またグロテスクにおかしいのだ。
さっきからおかしい、とばかり言ってるが決して馬鹿にしてるわけではなく人間の作り出す幻想というのはなんと不思議なものだろうと思っているわけなのだ。
西洋・東洋、男・女、それらが作り上げる幻想が恋になるわけで幻想なしには恋というのはあり得ないのかもしれない。
例えば真っ裸で座っていた西洋女のようにさらけ出してしまっては。

監督:デヴィッド・クローネンバーグ 出演:ジェレミー・アイアンズ、ジョン・ローン
1993年アメリカ
posted by フェイユイ at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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