映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2007年08月31日

フェイユイ映画祭 授賞式

ブログ開始3年目を完了・「藍空放浪記」1年の区切りで予告通りのフェイユイ映画賞授賞式である。新作は殆どいや全くないというほぼDVD鑑賞のみでの選択なので新旧ごちゃまぜである。ただし再観したものは除くことにする。そうしないと同じ映画ばかり1等になってしまうので(「ブエノスアイレス」とかね)
では始まり。

最優秀作品賞:「SWEET SIXTEEN」(ケン・ローチ監督)
アジア系映画に偏っていた「藍空」時代と違い今年は各国の映画を手当たり次第に観て行った。今まで観てなかったいい作品が目白押しではっきり言って一番を選ぶのは至難の技。
観た日にちという条件もあるだろうけど、何と言ってもこの作品は何も言えない衝撃を受けたのだ。従ってこれの感想記事は他のようにストーリー紹介だの分析だのやっていない。そういうことができないくらい、どうでもいいくらいぐっさりやられた。今になってケン・ローチを知って遅すぎるが幸せだった。他の作品も観たいのだがDVDになっていない。不幸だ。

最優秀監督賞:今村昌平
日本の誇る名監督なので今更という気もするが何せ昔「楢山節考」を観て大嫌いだったので観れるようになったのは自分が年をとったせいかなー、と思っている(と言ってもこれはまだ再観してないが)
「豚と軍艦」「復讐するは我にあり」「女衒」「赤い橋の下のぬるい水」「11'9''01/セプテンバー11」(オムニバスのラスト作品)とどれも凄く面白かった。重厚で太いがっしりした作品というのは今の日本映画にはない味わいである(多分そういうのは受けないから)ダイエット無視のこってり豪快な料理人といった感じなのだ。残りの作品も楽しみに観て行きたい。

最優秀主演男優賞:ダニエル・クレイグ
私はもしかしたらそれほど“この人”が主演だから、という理由では作品を選んでないのかもしれない。そんな中で今年、“この人”が出てるから観るというのをやったのはダニエルなのである。
自分の中で物凄い大ヒット、ということはなかったのだが^^;どれもなかなか面白くて楽しめる映画・ドラマが多かった。一番好きなのはドラマ「アークエンジェル」だったりするし。
ある意味一番楽しい映画の見方であった。

最優秀主演女優賞:田中絹代「サンダカン八番娼館」
この賞に限っていつも日本人にあげてるのはどうして?ッて思ったがこの作品の田中絹代を観たら他の女優にあげるわけにはいかないのだ。実は田中絹代さんを今まで知らなくて(いいのか?)衝撃だった。まるで童女のように喜ぶ可愛らしいおばあちゃんの姿は忘れられない。

最優秀助演男優賞:新井浩文「青い春」
主演は譲ったのでこちらで授賞。
あーゆー役にとにかく弱い。切なかった。よかった。

最優秀助演女優賞: 楊淇(ケイト・ヨン)「盛夏光年(花蓮の夏)」
こういう役って個人的にうらやましい(笑)実際には苦しいんだろうけど。「夜奔」のレネ・リウみたいなのとかね。

特別賞:「悪魔のいけにえ」トビー・フーパー
なんでこれが、という声もあるだろうがこの年(1974年)でこのシュールさ。いかにも低予算という作りにも関わらずこのクオリティ、この恐怖、面白さ。今観れば単なるホラーではない。

最悪賞:「ゆれる」西川美和
いちいち書くのは大人気ないのでは、という気もしたがここまで怒った映画も少ないし、自分が嫌う見本のような映画なのであえて表記。
あのセックスシーンほどおぞましいものはないし、あんなに気持ち悪いラストシーン(8ミリを見て泣く辺りから)もない。
気持ちの悪い映画を作るのが目的だったかもしれないので(ゆれるっていうくらいだから)げろっとして正解なのかもしれないが。

この作品の監督が女性ということも残念である。様々な分野で女性クリエイターが生まれてきているが、映画製作ではまだまだ女性監督というのは少ない。
なのに今年観た幾つかの女性監督作品はあまり良いと思えないものが多かった。(アジアの女性監督ばかりという上での感想だが)
DJ・チェン「僕の恋、彼の秘密」とかオーブリー・ラム「ジェイ・チョウを探して」のような可愛くて明るい映画は大好きだがシリアスなものは残酷性が耐え切れない性質のものである事が多く神経を逆撫でされる気がする。
小説やマンガではそういうことはないのだから(というかそうでない作家がたくさんいるのだから。(嫌いな人はどこにでもいるから))女性映画監督にも大好きになる人はこれからどんどん出てきてくれると思う(願っている)
(註:私が観た女性監督作品って日本人を含むアジア人ばかり。なので他の地域の女性監督に上の感想があてはまるかはわかりません)

楽しい余興の中にに嫌な文章を書いてしまい申し訳ない今回の授賞式だが、美しいものばかりではないのが世の中だから、そういう部分もあってしかるべきなのだろう。

とにかく色んな国の色んな監督のいい作品を数多く観て実りある一年だった。
本年度の最後はテリー・ギリアム「ローズ・イン・タイドランド」で締めくくれたのもうれしい偶然だった。去年は陳果監督。一昨年はキム・ギドク監督であった。私の好みは実によく出ている。
後これにデヴィッド・リンチを入れて今年ギャスパー・ノエ、ファブリス・ドゥ・ヴェルツが加わった。

来年はどんな作品に巡りあうのだろう。昨年の目標として日本映画を積極的に観よう、なんていうのは割かし頑張った気がする。
この一年は広く色々観てたのでもう少しマニアックになりたい気はする。充分マニアックだという声もあるかもしれないが、もっと偏ってみたい。どちらに偏るかはまだ判らないが。

ちょっと前にドイツものにはまりたい、といってそれほども観てないが最近そして当分の間イギリスものを観ていきたくなった。
実は(というか)自分的にはイギリスものが一番好きで抵抗なく楽しく観れる。観れるためにそればかりになる、と少々避けていたところがあったのだが「エリザベス」見た辺りからやっぱり観たい、と思い出してここんとこ続いている。クレイグ氏の映画もそうだが、なにやら面白いのである。生真面目におかしい。悲しいものも何か一味違う気がする。暫く楽しませてもらおう。

最近の「藍空放浪記」は訪問者数が少ない時で164、ページビュー314、多い時は訪問者数227、ページビュー396みたいな感じである。このようなDVD鑑賞ばかりで新ネタなしのブログにありがたいことである。

深く感謝し、また明日からもどうぞよろしくお願いします、と頭を下げるフェイユイなのである。


タグ:映画
posted by フェイユイ at 23:06| Comment(8) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月30日

「ローズ・イン・タイドランド」テリー・ギリアム

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昔、女の子だった人間ならローズだったはず。と私は思ってしまう。

ローズと同じくらいだったかつて、同じように(頭だけじゃなかったが)人形片手に延々と空想遊びに没頭していた。ローズのようにぶつぶつぶつぶついいながら自分だけの世界に浸っていた幸せな日々。
遊び場は(こんな草原じゃなかったが)れんげ畑だったり刈られた後の田んぼだったり、すぐ近くに線路がありいたずらする者がいて列車が止まった事件もある。ディケンズみたいな子も近所にいて遊んでたし、大人は別世界の人間で怖い存在でしかなかった。
殆ど思い出と重なってしまうのだがみんな同じようなものではないのかな。

物語は「不思議の国のアリス」を踏んでいるということですぐに首をはねてしまう女王様と気違い帽子屋(なんでこう言いにくい言葉が多いんだ?)が登場する。
ラストは夢から醒めたアリスのパロディなのだろうか。怖ろしい目覚めである。

DVDの表紙絵がさかさまになった世界の木の枝にローズだけがまともに座っているという皮肉な構図になっている。

ローズ役のジョデル・フェルランドの可愛らしさ演技力の高さは言うまでもなく、あっという間に動かないままになってしまうジャンキーパパ=ジェフ・ブリッジスもよい。
ジャンキーパパが着ていた「ことぶき」文字入りはっぴと最後にローズが口にする日本みかん(だと思うが、アメリカにもあるのか?)がちょっと気にかかる。

どれを観ても(まだ全部観てないのだが)やっぱり変てこで面白いテリー・ギリアム。好きである。

監督:テリー・ギリアム 出演:ジョデル・フェルランド ジェフ・ブリッジズ ジャネット・マクティア ブレンダン・フレッチャー ジェニファー・ティリー
2005年イギリス/カナダ

現代版「不思議の国のアリス」というより日本のマンガねこぢるを思い出した。
posted by フェイユイ at 23:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

華流のイケメン俳優チャン・チェン来日!

華流のイケメン俳優チャン・チェン来日!

「呉清源 極みの棋譜」オフィシャルサイト

オフィシャルサイトのチャン・チェンがすてき。

監督は「青い凧」の田壮壮。これは観たいですね。
posted by フェイユイ at 20:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月29日

「リチャードを探して」アル・パチーノ

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まずこの顔を見てほしい。どういう人だろうか。

何故この作品を観たかというと「リチャード3世」の映画が観たくて探したのだがレンタルになくて(ほんとに「リチャードを探した」わけである)仕方なく、と言ってはなんだがアメリカ人役者であるアル・パチーノがイギリスで「リチャード3世」の映画を撮ったらどうなるか、という仮定ドキュンタリー映画を見つけ、借りてみたわけだ。
結果、非常に面白かったのだが、しかしなかなかに渋い内容である。アル・パチーノの初監督作品ということらしいがこの映画に出てくる一般人の反応どおりに興味がなければ全く面白くないのかもしれない。

この記事では本作はいつもどおり、そしてジョセフィン・ティ「時の娘」のネタバレになるのでご容赦を。

前置きが長いのだが何故急に「リチャード3世」を観たくなったかというと↑に書いたようにジョセフィン・ティ「時の娘」を読み返していたからなのだ。もう何度も(癖の斜め読みだが)読んでいても面白い。
名作ミステリーの一つといわれているこの小説はイギリスでは知らない者のない有名なこの国王リチャード3世の言い伝えは本当なのだろうか?という謎解きなのである。
(差別的表現を多く出すので申し訳ない)せむしで片腕が不自由で冷酷な心を持ち王になるために兄弟と二人の幼い甥っ子を殺したとされる怖ろしい悪党、それがリチャードのイメージなのだそうである。
しかし反面このように有名な王もいないということらしい。
舞台はイギリス・ロンドン。ケガでベッドに寝たきりになり暇を持て余したイギリス人警部が若いアメリカ青年を足にして情報をかき集めさせ500年も昔に(この小説自体が古いので)起きた真相を解き明かす、という筋立て。
設定も面白く頭の切れるイギリス警部と屈託のないアメリカ青年のやり取りも楽しい。
誰もが疑わない悪党を違った視点で見つめる発想は他のものにも応用できそうで(されているが)興味深いものである。一番ぞくぞくするのは予備知識のないまま彼の肖像画を見た時の人々の感想のまあ一致しないこと。そして彼の病状をぴたりと言い当てた医者の眼力。
うーむ、しかしこれはいくら美化して描いているとはいえ、人物をリアルにかく西洋画だからできることで日本の絵でもできるのだろうか、とは考えてしまう。例えばあの有名な織田信長の絵には彼の全てが映し出されているものなのだろうか。それにしては劇画などで観る信長は随分違う顔かたちになってるが。どんどん話がそれて行く。
元に戻すと「時の娘」を楽しんで読んではいるものの肝腎のリチャード3世の一般的姿はちっとも知らぬ。歴史の本、というよりどんなイメージなのかを知りたくて映画を観たかったのだが、本作になってしまったわけだ。

が、むしろ「リチャード3世」のイメージを知るにはこの映画を観てよかったのかもしれない。
監督・主演のアルを始め、登場してくるイギリス人俳優達のリチャードの印象がよく判った。平行して街行く一般の人にシェークスピアが好きか聞くのだが殆どの人(イギリス人)が興味がないようで何度も「日本人がシェークスピアに興味を持っている」というややあきれた感の発言があって苦笑なのだが私も興味はないわけではない。但し読むのは戯曲じゃなく小説化された読み物だけど。戯曲は無理。しかも英語じゃなければ意味はない、などと言われると小説でいいや、と思ってしまう。

で、本作であるが。
アメリカ映画ということもあり、アメリカ人のアル・パチーノがシェークスピアかよ、と言われないための防御がまずされる。イギリス人の口から「アメリカ人は自分で障壁を作りすぎ。劣等感を持っている。アメリカ英語だから無理ということではなくその心を知ることが大事」と言ってもらう。アル自身も「とらわれずにやるつもりだ」と自分を励ましている。だがやはり発音が重要らしく練習する。
舞台では大声で話しながらも自分の内面を出すのが難しいが映画では抑えた方法でいいのでは、という助言がありながらもパチーノ氏、結構大げさにやっているかも。
観る人が観たらパチーノ氏のシェークスピアがどう観えるか判らないが、どうせ私はアメリカ英語とキングスイングリッシュの区別もつきはしない。

しかし思うのはパチーノ氏、本当はマジでリチャードを演りたかったのに「アメリカ人じゃ無理だよ」或いは「アメリカでマジな「リチャード3世」じゃ受けないよ」てなことでこーゆードキュメンタリー風に逃げてしまったんではないのだろうか。(なにか事情があるとかは知らないので想像だ)
製作の過程を映す(ような場面)はいいとしても映画の部分はかなり暗く重く、自由なアメリカ人的発想でもないようでやはりイギリス風に縛られてしまっているのではなかろうか。そのままやってたら重すぎたに違いない。
忠実な風でいて醜いはずのリチャードがアルだとハンサムすぎるし。

とにかくリチャード3世がどういうイメージでどう作られえていくのか、目的にぴったりの映画で大変うれしかった。
次は本当のリチャード3世を観たいものだ(というとアルに失礼だが)
それにしても確かに悪い人間というのはいつの世でも一番人の心を惹きつけるものなのだ。困ったことに。

監督:アル・パチーノ 出演:アル・パチーノ アレック・ボールドウィン ウィノナ・ライダー エステル・パーソンズ アイダン・クイン ケビン・スペイシー ジョン・ギールグッド ケネス・ブラナー バネッサ・レッドグレーブ ケビン・クライン エイダン・クイン (ご覧のとおり怱々たるメンバーである)
1996年アメリカ

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タグ:演劇
posted by フェイユイ at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「不能説的秘密」が遅くなった理由(涙)

ジェイの「不能説的秘密」サウンドトラックの感想はどうなってるの?と待っておられることでしょう(違うか^^;)
ちゃーんとyesasiaさんに注文済みなのですが実は張孝全出演(武田真治主演)の「猫をお願い (給我一支猫)」も一緒に頼んでいて一向にこれが入荷されないのですね。
今日さすがに痺れを切らして問い合わせたら、「ちょっと無理かも」というような答え。がーん。そうと知ってたらとっくにキャンセルしてたのに(涙)
仕方ないのでそれだけキャンセルしてやっと「不能説的秘密」送ってもらえそうです。
なので今しばらくお待ちを。(だから待ってないって)
それにしても入荷できないなら何故表示されていたのか?
今からでも欲しいけど、それだけだと送料かかるので何か抱き合わせじゃないと頼めないんだよねー。ジェイと一緒にだったら最高に幸せだったんだけど。
人生ってこんなもんです(泣)

幸せはひとつだけ・・・か。
posted by フェイユイ at 21:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月28日

「赤い靴」エメリック・プレスバーガー マイケル・パウエル

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バレエが好きなのですでに観ていてしかるべきなのに今まで未見だった。名作といわれるだけあってすばらしいバレエ映画であった。

何と言ってもヴィクトリア・ペイジを演じたモイラ・シアラーというバレエ・ダンサーの踊りと美しさに見惚れてしまう。
赤い髪と大きな目が印象的である。

物語はバレエを愛し、踊る事に喜びを感じている駆け出しのバレエダンサー・ヴィッキーとその才能を見出し一流のダンサーに育てようと意気込むレルモントフ、そしてそのレルモントフに同じように才能を認められバレエ団のお抱え作曲家として迎えられた若いクラスターはヴィッキーと恋に落ちてしまう。
掌中の珠を奪われたレルモントフは怒りのあまりクラスターを追い出してしまう。ヴィッキーはプリマの地位を捨ててクラスターと結婚するのだった。

本来なら傲慢で身勝手なレルモントフに怒るところだが、映画がそう思わせるためか次第にレルモントフに肩入れしクラスターの強情に苛立ってしまう。映画作りをしているならばレルモントフに同情的になってしまうものだろうが。
ヴィッキーのように美貌と才能と性格のよさを併せ持つ女性を見つけるのは難しいことなのだろうし、やっと少しだけ芽が出たかというところで男に横取りされ主婦にされてしまってはレルモントフでなくとも憤慨する。
最後の最後でクラスターが許してあげれば(少なくとも彼女の言うとおり公演が終わるまで待ってあげれば)こういうことにはならなかったのに。悔やんでも悔やみきれない。男のプライドなんてむかつくだけである。

まあ、映画はそうやって踊りもやめられず愛をとめることもできず死を選ぶ事を美しく描くものであるからここではそうそう青筋をたてるものでもあるまい。

さて、タイトルの「赤い靴」はアンデルセンの童話を原作にして作られたバレエでこの舞台によりヴィッキーは一躍スターとなるのである。その舞台は映画の中でたっぷりと映し出され見ごたえがある。
なにやら怪しげな靴屋が勧める赤い靴に魅せられた少女はその靴を欲しがる。願いどおりその赤い靴を履いた少女はいつまでも踊り続けなければならなくなる。踊り疲れ果て、神父に助けを求めた少女はやっと赤い靴を脱がしてもらうことができた。だが少女はその神父の前で死んでしまうのだ。
幻想的な舞台。特に新聞紙とヴィッキーが踊るシーンは不思議な雰囲気に満ちている。
悪魔のような靴屋の踊りにも惹きつけられる。

ヴィッキーはこの「赤い靴」の少女のように踊り続けることはできなかった。願いどおり赤い靴を手に入れ死ぬまで踊り続けた少女と踊ることなく死に急がねばならなかったヴィッキーとどちらが幸せなのだろう。
ヴィッキーを演じたモイラ・シアラーは若くしてこの映画「赤い靴」で有名になりすぐ結婚しダンサーをやめているようなのでヴィッキーの人生に近い。がこのような結末ではなく、幸せな結婚生活を送り4人のお子さんをもうけ、ダンサー以外の仕事をして80歳の生涯を終えられたようなので確かにダンサーだけが人生の全てではないかもではある。
但し観客はどうしてもバレエ一筋に生涯をかけるダンサーを夢見るものである。結婚するのはいいのじゃないか、とは思うものであるが。
(しかし女性は出産が大変である。全てをかなえた女性はやはり凄いのではなかろうか)

それにしてもこの映画1948年のものである。つまりは戦後間もないわけで日本人がこんなもの見せられたらたまんないであろう。
すぐそういうことを考えるのが年寄りなのだ。


監督:エメリック・プレスバーガー マイケル・パウエル 出演:モイラー・シアラー アントン・ウォルブルック マウリス・ゴーリング ロバート・ヘルプマン
1948年イギリス
posted by フェイユイ at 23:37| Comment(4) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

リウ・イエ、ルー・チュアン監督新作に主演

リウ・イエ、ルー・チュアン監督新作に主演

日本人にとっては勿論正視し難い題材ではあるが、「ココシリ」で唸らせてくれた陸川監督がこの歴史をどう撮ってくれるか是非観たいと思う。

主役をリウ・イエ、日本人俳優では寺島進が出演するということでますます観てみたい作品である。
posted by フェイユイ at 20:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月27日

『ツイン・ピークス』シーズン 1 Vol.1 第1章 デヴィッド・リンチ

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ある少女がどんなに魅力的だったかを表現するのにその少女が殺されたあとでみんなの評価と思い出を辿るというのは実に効果的である。
思い出はどうしても美しく蘇ってくるものだし。
殺人事件推理ものというのは大概殺人が行われてから物語が始まるものである。その被害者が美しい少女であった場合よりいっそうその効果は強く表れる。

ローラは綺麗で明るく人気者だっただけでなく色々なバイト、家庭教師、ボランティアまでやっている。そこまで活動的な少女がいるのかちょっと不思議でもあるのだが。その上、二人の(表と裏の)ボーイフレンド、いや他にもまだボーイフレンドがいるようである。さらに問題となる影のバイトもやっていたという殆ど超人的スケジュールで生きている。ぼんやりしたりしてるヒマはなさそうだ。
だがある種こういう表の裏の顔を持つ少女はいるだろうし、ますますミステリアスな魅力を持ってしまうのであろう。

ローラの母親はこの回でローラが行方不明になった時表れたという“ボブ”という男の姿を見る。

ローラの親友ドナとジェームズはすっかり恋人同士に。

ジョシー・パッカードは亡き夫の妹であるキャサリンにいびられ通し。だがキャサリンの夫ピートはジョシーの味方。
そのピートがクーパー捜査官とハリー保安官に出した珈琲のポットに魚が入っていた。飲む前から生臭いと思うが?

クーパー捜査官、ダブルRダイナーへ行ってチェリーパイを褒める。
丸太おばさんに声をかける。

片目のネイディーン。音のしないカーテンレールのアイディアをひらめく。

ダブルRダイナーのウェイトレスをしているシェリーは夫レオの洗濯物の中に血まみれのシャツを見て怯え隠す。
そのシャツが見つからず苛立ったレオはシェリーに暴力を振るう。

ローラからテープに声を吹き込ませていた精神科医ジャコビーはその声を聞きながらクーパーたちが捜している割れたハートのペンダントの片割れを手に取り泣き出す。

多くの謎が投げ出され、ますます混沌としていく。だが物語がもっと混沌としていくのはこれからである。


posted by フェイユイ at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | ツイン・ピークス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月26日

「珈琲時光」侯孝賢

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この映画、侯孝賢監督をちょっとでも知っていてタイトルやあらすじを見たらば退屈かもと手を伸ばせなさそうだが(実際そう思って観るのが今になった)意外や非常に面白く観通した。

これという事件がおきるわけでもなくどこから始まったか判らず何も終わらない単調な物語のようだが、様々な要素が絡み合っている。それらを陽子(一青窈)とハジメ(浅野忠信)が力の抜けた自然な演じ方で見せてくれる。
まずはフリーライターの陽子がその足跡を尋ね歩いている台湾生まれで日本で活躍したという作曲家・声楽家の江文也。作中でご本人の奥様と娘さんも出演されているのだが、その存在を初めて知った。(主人公役の一青窈自身ともイメージが重なることになる)
陽子が2・3日の予定で帰郷する。父親(小林稔侍)が娘を車で迎えにきている。無口だが優しい父親だとわかる。小林稔侍が大変にいい。
たどり着いたのは田舎の日本的な家。父親は座り込んでテレビで夏の甲子園大会を観ながらビールを飲む。そしていそいそと夕食の準備をしている妻に、つまみを用意してくれと言う。典型的な日本の家族の風景である。疲れて寝てしまう娘をそのままにしているのも、起き出した娘にご飯の用意をしてあげる母の姿もまた。

だがここで娘が母親に妊娠している事を告げる。相手は台湾の男性だが結婚するつもりはないと言う。
母親は驚き(だが声を荒げたりはしない)後で父親になんとか言ってとせがむが無口な父親は何も言わない(言えないというべきか)

また優しい母親は父の後妻であることがわかる。産みの母親が陽子の幼い時家を出て行ったため、彼女は北海道の親戚の家で育てられたのだ。
優しげな平凡な家族に見えたが人生というのが決して単純なものではない。

陽子が家族や親戚とお墓参りをするシーンがあってその風情がなんとも懐かしい。自分も昔殆どこんな感じで夏墓参りをしたものだ。
周りの風景もこんな田舎の田んぼばかりであった。

懐かしいといえば行ったことはないがテレビや映画で見慣れているはずの東京の町もこんなに懐かしい雰囲気のするところだったのか、と奇妙な郷愁に襲われながら観ていた。
陽子が乗る電車のゴトトンという音が心地よい。窓から見える風景も乗っている人々ものんびりとしている。

陽子が珈琲を好きでよく喫茶店にはいるのだが、確かに今風の珈琲ショップではなく喫茶店というのも酷く懐かしいものである。店主が高齢な人が多いのもいい感じである。(但し陽子は妊娠中でホットミルクばかり飲んでるけど)

陽子に何か忠告をしようと両親が陽子のアパートを訪ねる。
ここでもまめな母親は陽子の好物の肉じゃがを持参している。父親は何か言いたげにしかし何もいわず肉じゃがをぱくつく娘をじっと見ている。結局父親は一言も陽子に言い出せないままだった。

無論、陽子の判断は陽子自身の体験から来ていることでもあるだろう。母親から見捨てられても彼女はいい娘に育った。
そして結婚する事が束縛を意味すると嫌っているのも母親が父の元を去ったことに起因している。
とはいえ、無論彼女はまだ若くこの先どうなるのかはわからないのだ。台湾の彼とやはり結婚するかもしれないし、ハジメちゃんと結ばれるのかもしれない。本当にシングルマザーを通すかもしれないし全く違う男性と暮らすのかもしれない。だがこの先どうなるとしてもかまわない。
父親として娘が本当に困って駆け込んできた時助ければいいのだ。そんな風に思ったのではないだろうか。
というか、これは自分が母親なのできっと娘に対してそう思うと考えるからなのだけど。
「お前はジャガイモが大好きだったな」そう言った時、父親は幼かった時の娘を思い出して大人になった、と感じたんだ。

ハジメちゃんは絶対陽子が好きなんだけどあっさりしてるとこがいかにも今風である。
パソコンで電車をモチーフにした絵を見せて自分をアピールしている。
勿論陽子だってハジメの気持ちがわからないわけじゃないだろうけど、この関係は気持ちいいよね。つかず離れず違う電車に乗って通り過ぎてしまったり偶然乗り合わせてしまったり。彼女達の関係を表すかのような演出だった。

演出といえば、陽子が義母に妊娠を打ち明けた時、雨が降ったり、話しにくいな思ってる時電話の呼び出し音が途中で切れたりといった細かい演出が色々あって退屈しない。
陽子が夢に見たゴブリンの話は自分が生みの母親にとってチェンジリング(取替えっ子)じゃなかったのか、これから生まれてくる子は?という恐怖感があったのでは。だからゴブリンの絵本を見て産みの母親の記憶が蘇る。単純なようで複雑な物語が東京の町を上下縦横無尽に走る線路と電車に重なる。
陽子がこれからどうなるのか何もわからないし決まってないけど、大丈夫。
大好きな珈琲を飲んで一息つこう。

監督:侯孝賢 出演:一青窈 浅野忠信 小林稔侍 余貴美子 萩原聖人
2004年日本

陽子という名前は一青窈がこの映画の最後に流れる歌「一思案」の作曲をした井上陽水から取って監督に薦めたのではなかったかな。
タグ:家族 人生
posted by フェイユイ at 22:54| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月25日

張孝全 水滸傳を演じる

張孝全 演 水滸傳

タグ:張孝全
posted by フェイユイ at 23:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 張孝全 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「ハンニバル・ライジング」ピーター・ウェーバー

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ギャスパー・ウリエル=ハンニバル・レクターとコン・リー=レディ・ムラサキを観てるだけで満足な作品だった。

シリーズ、ということで誰でもホプキンス=レクターと比較して観てしまうものだろうが、私的には殆ど切り離して観てしまっていた。無論ホプキンスの「羊たちの沈黙」は素晴らしい作品だが、それとはまた違った意味で面白く怖ろしい出来栄えだったt。

その面白さはギャスパーの魅力なくしてはちょっと考えられない。果たして他の役者だったらここまでゾクゾクと感じさせてくれるのか想像がつかない。
彼のある意味救済者となり師となり初恋の相手ともなる日本人女性ムラサキを演じたコン・リーもまたしかり。すらりと伸びた脚や一体いつまで綺麗なんだろうと感心するしかない美貌に見惚れながら日本人には不思議としかいいようのないオリエンタルムードを楽しんだ。レディ・ムラサキに剣道や刀の手入れを教えてもらっている時のギャスパーは突然初々しい無垢な青年の顔に戻っていてなんとも言えず可愛らしい。
そしてその純真な顔が復讐を思い出した途端、悪魔のような表情に豹変してしまう、なんという色っぽさ。
レクターの復讐は単なる殺害に留まらずカニバリズム(食人)という最も重い禁忌でその結末を終えるためにその嫌悪感を拭えるわけもないのだが、ギャスパーがハンニバルの悲しみ怒りを演じる事で次第に賛同してしまうのはやはり間違いであろうか。いやそうだろう。そこで彼を愛し、彼を守り続けたムラサキが最後に彼に反対し、離れていくことで観る者はなんとか心の均衡を保つ事ができる。
これはいけないことで味方になるわけにはいかないのだとほっとするのだ。

「羊たちの沈黙」のホプキンス=レクターのおぞましい魅力は心から消え去る事はないだろう。
私にとってはいくらギャスパーが愛らしくても彼にはかなわない。
だがそれはそれとして、自分が想像した彼の過去はこういうものではない気がする(繰り返すが本作の面白さとは別の意味である)
彼の嗜好がこういった戦争の悲劇から生まれたものだとは思いたくないのだ。そういう人もいるだろうが、気位が高く頭脳明晰なレクター博士の食人嗜好は頭の中での考察により生み出されたもの(近親や友人関係などといったことがきっかけということはあっても)
で、戦争による被害なのだとされると彼の存在の意味が違ったものになってしまう。戦争が原因だという落ちにして欲しくはないのだ。

だからこそ自分の中ではレクター博士と青年ハンニバルは別ものとして観てしまった。
それでもいいのではないだろうか。
可愛い少女を食べなかったのもレクター博士らしくない。青年らしい甘さがある。
コン・リー姐さまがどこまであの美貌でいるのかも見届けたいが、ギャスパー・ウリエルがまたどんな人物を演じてくれるのか、期待は高まるばかりである。

監督:ピーター・ウェーバー  出演:ギャスパー・ウリエル コン・リー リス・エヴァンズ ケヴィン・マクキッド スティーヴン・ウォルターズ リチャード・ブレーク ドミニク・ウエスト チャールズ・マックイグノン
2007年 アメリカ/イギリス/フランス

追記:書こうと思ってたのに書き忘れが多々あり。
まずは食人でフランスといえば日本人によるフランス女性食人事件がある。衝撃的で忘れられないものだが、ハンニバルの師ともなった女性が日本人だというのはまさにそこからきているとしか思えない。

ギャスパーの頬に印象的なえくぼ?傷のようなくぼみ。ジェイ・チョウにも同じようなものがあって笑うとうかびあがる。
怖いようなチャームポイント。

もうひとつ印象的なのが、この映画のテーマソングとも言える童謡。ミーシャが好きだったと言うこの歌を口ずさみながら復習を遂げていく演出はこういった猟奇的物語にはよく使われる手段だがやはり怖い。しかもこの歌は自分も小さいときよく歌ってて今でも時折思い出して口ずさんだりしてたものなので余計に怖い。覚えているのは映画の中の訳とはちょっと違ってて「小人が森に立っていた。何にも言わず立っていた。迷子のようにノバラの中にぽつんと一人立っていた。
小人は真っ赤なマント、頭に黒いとんがり帽」てな感じの歌詞だった(いざとなるとうろ覚え)
posted by フェイユイ at 23:19| Comment(2) | TrackBack(1) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月24日

「ふたりの人魚」ロウ・イエ

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これもまた何度も観返している映画のひとつ。そしてこれも昨日観た「悪い男」と同じように純愛ものだが、こちらの“男”の一途さはストレートでまた悲しい。

ムーダンとメイメイという美しい少女を巡ってマーダー、そして“僕”が絡まりあって構成されていく。
手持ちのカメラ映像と相まって時間、場面、人間達が交差していくのでまるで蘇州河に浮かぶ船に乗っているかのように酔ってしまいそうである。
私ときたらこの映画が好きで好きでしょうがない。なんだか不思議な魔力にとりつかれたかのように感じるのだが、それは冒頭の蘇州河の場面からすでに始まる。

新しい高層ビルを背景にして、古びた建物が取り壊されていく。そしてその前にはもっと貧しい生活を送る人々の家々が立ち並ぶ。蘇州河に浮かぶ船で暮らす人もいる。街を横切る蘇州河にはそれらの人々から投げ出される塵が浮かびまたは沈み川はどんよりと澱んでいる。心を掻き毟るような音楽が河の上を滑る船と共に流れていく。

「蘇州河」というタイトルが現れる瞬間も好きだ。

ムーダンとメイメイを演じた周迅の魅力なしにこの映画はあり得ないだろう。
まだ幼いといえる少女ムーダンが自分の送り迎えをすることになったマーダーから靴の紐を結んでもらった時、その時の彼女の見上げる目がマーダーを好きになった瞬間だったと知らせる。
そしてメイメイの周迅。人魚になるために髪を結いかつらをつけ衣装を着る一連の動きに見入ってしまう。
そしてマーダーを抱きしめた時の彼女の顔が。それまでの幼い表情と違って突然不思議な色香を感じさせる。
笑ってガムを噛みながら街を歩く場面も橋から飛び降りるという彼女もマーダーにもたれかかり夕日を眺める時もなんという“魔”を持つ女性なんだろうか。

ムーダンを失ってマーダーは変になってしまう。
ひたすら愛した少女を探し続けるのだ。
そして出会ったのがバーで人魚の姿になって水槽で泳ぐという仕事をしているメイメイだった。

“僕”とメイメイは恋人同士なのだが狂ったようにムーダンを捜すマーダーによってその関係が崩れてしまう。
そしてマーダーは旅立ち、再びムーダンの面影に出会う。

抜け道のない迷路であり、繰り返される時間である。奇妙な恋物語であるがそれだけがこの映画の面白さではない。
私が導かれたのは、ごみごみとした上海の街並み、そこで生活する人々の光景、バイクで物を運ぶ事が生業のマーダーとビデオで物を写し撮る事を仕事にしている“僕”
激しく降る雨、夜の闇。マーダーとムーダンがバーで黙ったままジュースを飲みながらTVかなんか観てる様子。
取り壊されていく古い建造物。盗んできた大型のモーターサイクル。
そういった色々な物が幻想の世界のもののようで心を惹き付けてしまうのである。

愛し合った恋人達の死を飲み込んでも河の流れは止まることはなく海へと向かう。また繰り返される物語を映しながら。

監督:ロウ・イエ 出演:ジョウ・シュン ジア・ホンシュン ヤオ・アンリェン ナイ・アン
2000年中国/ドイツ
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2007年08月23日

「悪い男」キム・ギドク そしてまた二人は

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先日「I tuoi fiori」が流れる場面を観ていてどうしてもまた観なおしてみたくなった。

もう何回となく観た映画である。回数を重ねると始めの衝撃は薄れるものだろうけど、久し振りに観てみて前に観た時以上に鋭い痛みを感じる映画だと思えた。
ストーリーや感想は「藍空」でもう何回も書いているが、観る度に違った思いに襲われる。
ハンギとソナはずっと不幸であり、映画のラストですら普通の感覚なら不幸なままである。
彼らはもう常識的な幸せを願ってはいない。ラストが幻なのか、現実なのかはっきりとは判らない。が、幻としても幸福でないというのは不思議な結末だ。
不幸であってももう離れないと二人は決めたのだろう。

ハンギとソナの間を隔てる一枚のマジックミラー。ハンギがライターの火をつけたためにその魔法が解けてしまう。
闇の中に浮かび上がる互いの顔が鏡に映し出される。美しい場面だ。
ソナを愛しながらもどうしても抱く事はないソンギには隠された謎があるのだろう。
喉の傷、話そうとすれば話せるのに口を開かないハンギはそのまま過去が語れない傷であると表しているようだ。

女である以上ソナが受けなければならない災いを認められることはないだろうし、男もまたハンギであることはできないはずだ。
ソナとハンギは全ての女と男の罰を受けているかのようにさえ見える。

ソナの体は傷つきこれからも責め苦を受け続けていく。ハンギの体も何度も手酷い暴力を受け続けてきた。そしてこれからも愛する者が傷つけられていくのをずっと見ていくのだ。

ソナは海に入って死んだのかもしれない。ハンギはナイフで刺され死んだのかもしれない。
その後、二人は生きて苦しみを味わい続ける。ただ一緒にいるために。

監督:キム・ギドク 出演:チョ・ジェヒョン ソ・ウォン チェ・ドンムン キム・ユンテ キム・ジョンヨン
2001年韓国
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2007年08月22日

『ツイン・ピークス』 シーズン 1 Vol.1序章 デヴィッド・リンチ

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「ツイン・ピークス」の面白さを今更語る事もないだろうが、久し振りに観なおしてやはりその面白さは色あせる事がなかった。
というか今尚更にこのような事件、心理というのは身近なものとして感じられないだろうか。
その舞台はアメリカの田舎町である。製材工場が町の主な産業のようであり、緑豊かな自然に恵まれた環境だ。

物語はそのパッカード製材所に勤めるピート・マーテルが釣りをしようとした水辺でビニールシートに包まれた死体を見つけるところから始まる。
それは高校でも町の中でも人気者でありながら様々な秘密の顔を持つ17歳の少女・ローラ・パーマーであった。

今回は第1話を観たのだが、次々と奇妙な登場人物が現れる。といってもこれからもどんどん現れるのでここで驚いていてもしょうがない。
都会から車を駆って登場するFBI特別捜査官・デイル・クーパー(カイル・マクラクラン)からして不思議な存在である。
田舎町に巣くう異常な人々に勝るとも劣らない強い個性を持っている。樹木、ドーナツ、珈琲に強い愛着を示す。彼の個性は今後ますます発揮されていくわけでここらはまだまだ序の口なわけである。

異常な人々の中で最もまともな印象を持ちほっとさせてくれるのがトルーマン保安官である。マイケル・オントーキンがひょろりとした穏やかな保安官を魅力的に演じている。とはいえ、クーパー捜査官の超自然な手腕に絶大の信頼を置いているところはやはり変わっているのかもしれない。パッカード製材所のオーナーであり香港人のジョシー(ジョアン・チェン、後で彼女の事を知り驚いた)にぞっこんなのである。その辺も変わっているといえるのかも。

「世界で最も美しい死体」という(確か)コピーだったローラの遺体。途中で挿入される写真やビデオテープからローラがどんなに親しみやすく愛されていたかが伝わってくる。だがここですでに表向きの恋人と秘密の恋人がいること、1万ドルの所持金があったこと、ローラと共に怖ろしい体験をした少女が痛々しく傷だらけの下着姿で彷徨っていたところを保護される。秘密の恋人ジェームズと彼女の親友ドナの口からローラが聞いたものが嫌悪感を持つようなことに関わっていたことが示される。
愛娘が殺されたのだから当然ではあるが異常な反応を見せるローラの両親。冒頭部としてローラ殺害事件に大いに興味がかき立てられる。彼女の爪の奥から見つかった小さな紙片に書かれた“R”の文字の謎。大体なぜそんなとこにそんな紙片が?

高校生にしちゃ偉く色っぽい美人が続々登場するが、まあその辺はTVドラマとして当然の対策で。
クーパー捜査官が宿にするホテルの小悪魔娘オードリーの行動も気になる。
ローラの親友ドナはマイクと言う恋人がいながら、ローラの裏恋人ジェームズと恋仲になり、高校中退で暴力男の麻薬密売人レオの妻でありダブルRダイナーのウェイトレス・シェリーはローラの表向き恋人ボビーの恋人である、というややこしさ。
アダルトチームも面倒くさいので端折るが結婚していながら別恋人がいちいちいたりしてますます関係が複雑化していく。

ちなみに私は孤独なバイカー・ジェームズが好きだった。

片腕の男、丸太おばさん、片目のネイディーンらは今回はちょい役ながら誰もが謎の片鱗を見せている。

TVドラマとはいえ、デヴィッド・リンチ独特の不可思議映像は如何なく発揮されている。
拘置所で一緒になってしまった恋敵ジェームズに威嚇するボビーの吼える口はなるほど、フランシス・ベイコンのようである。

うたた寝しながら突然目を覚ましたローラの母・セーラが叫び声をあげ、ジェームズがドナと共に証拠隠滅に地面に埋めたローラとのハートのペンダントを何者かが掘り起こす所で続くとなった。
気になるではないかー!!!
posted by フェイユイ at 23:29| Comment(4) | TrackBack(0) | ツイン・ピークス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「キング 罪の王 」ジェームズ・マーシュ

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酷く気持ちの悪い映画だった。とても面白かった、などと言うつもりはない。

勿論、この映画はそれが目的なのだからそれでいいのだろう。

主人公はもとより父親牧師の言動は奇妙である。再三の買春でできた子供に対して最初は脅迫し、後ではいきなり息子として受け入れる。しかも罪の子と呼びながら。
いなくなった息子を神にゆだねると言ってあきらめてしまう。泣き出す母親の方がまともな感情のはずだ。妻の気持ちを理解せずにエルヴィスを家に迎えるのも変である。
聖職者でありながら鹿狩りに行くのも銃に興味を持っているのも異常ではないのか。

信仰深いはずの彼の家族もとてもそうとは思えないし、愛情も薄い気がする。
兄が殺されたというのに動揺しない妹が不気味である。

そういったものを映し出しながら、愛を求めて狂気の行動をとる主人公と対峙させていく。
どちらも怖ろしいとしか言えない。

ラストは当然こうなるべきものであったと思う。

惨たらしい内容なのにガエルの美しい容貌やウィリアム・ハートの存在感で見せられてしまうのも怖ろしい。

またここでもカインとアベルがモチーフとなっているということで兄弟殺しと父親への愛の渇望が描かれている。
それに妹強姦も加算されてよりおぞましさが増えているわけだ。

懺悔をすれば許されるのか、という根本的な問いかけで物語は幕を閉じる。

罪は誰にあるのか。

心に残ってしまう映画には違いない。

もう一つ気になるのは主人公がメキシコ人であり、演じたのがメキシコ人であるガエルということだ。
この映画の視点が父親側にあったなら理解不能なメキシコ人の犯罪ということになる。
が、視点はメキシコ人のガエルの側にある。アメリカ人である父親の元に行くのは不可能に近い。だからこそエルヴィスはアメリカの軍隊に入ったのだろう。
父親が最初慕ってきた息子を撥ね付けるのも得体の知れないメキシコ人だからだろうし、父親の娘(つまり自分の妹)を抱いてしまうのもメキシコ人だから、と取れなくもない。
他の映画でもアメリカ人のメキシコ人への差別的な目線は感じるわけで、ガエルのように性的魅力のあるメキシコ人が突如出現する恐怖というのはアメリカ人としてあるのかもしれない。
などと考えるとますます嫌な気持ちになる。

それにしてもガエル。やはり魅入ってしまう。さほど好きというわけではないが目を話せない。あの眼差し。気になってしまう。

監督:ジェームズ・マーシュ 出演:ガエル・ガルシア・ベルナル ウィリアム・ハート ペル・ジェームス ローラ・ハーリング ポール・ダノ
2005年アメリカ

タグ:家族 宗教
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2007年08月20日

キム・ギドク「悪い男」 Bad Guy. Scena con "I tuoi fiori".



美しい場面、心に響く音楽。
タグ:音楽
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2007年08月19日

「日の名残り」ジェームズ・アイヴォリー

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(後半に「上海の伯爵夫人」のネタバレあり)

まずは古き英国貴族の生活を誠実な執事の目を通して描かれていくその面白さを堪能する。
そしてアンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンの味わいある演技に見惚れる。

この作品は有能な執事スティーブンスが常に主人に忠実に仕えることで物事の本質を見誤っていく過程とミス・ケントンへの打ち明けきれなかった密かな愛が描かれている。
そしてそのミス・ケントンもスティーブンスに惹かれながら自分を誤魔化してしまったのだ。

頭がよく人間性もある二人なのになぜ間違った道を歩んでしまったんだろう。
浅はかに結婚を決め仕事をやめる若いメイドを見てミス・ケントンの気持ちは複雑に揺らいだはずだ。貧乏をしてでも愛を取るという若い女の考えなしの行動に軽蔑と共に憧れの気持ちもあったろう。ミス・ケントンも結婚のため仕事をやめた。だがその相手は愛のない男だったとは悲しいことである。自分に振り向かないスティーブンスへのあてつけで彼女は人生を変えてしまった。
そしてスティーブンスは唯一好意を持った女性に素直に打ち明ける事もせず、主人には余計な口出しをしないことが執事の役目とばかり全ての厄介ごとに目をつぶってしまった。
何が美徳なのか、すべき事はなんだったのか。幸せだった日々を思い返しても人間は歩いていかねばならない。
何事も起こそうとしないスティーブンスは本当に悲しい人間である。
そしてミス・ケントン(後は名前が変わるが)もまた。
自分の心に素直に言わなければいけないのだ。たとえ、どんなに怖ろしくても。

スティーブンスは涙も流さないので車の窓にしとど降る雨が彼の気持ちを代弁している。

古きイギリス伝統の執事を題材に描いたものだが、原作者のイシグロ氏が日本生まれのせいなのか、何となく昔の日本人的なものも感じてしまう。親が亡くなっても好きな人が泣いていても仕事第一。ミス・ケントンのあきらめもまたしかり。

などと言うことのみ書くとなんだか空しさだけを感じるが作品そのものに他に無いほどの深い情感があり、なんともいえないコクを感じることができるのだ。

先日観た同監督の「上海の伯爵夫人」でも主人公は好きになった女性にすぐには打ち明けきれずもう少しで大事なものを失うところだった。だがこちらでは二人は危ないところで自分に素直になることができた。本当に自分に大切なものは何か、例え未来が不安でもそれを掴まねばいけないとあの作品では描いていた。

「日の名残り」ではヒュー・グラントも登場して英国青年らしい雰囲気を出している。
そして何と言ってもクリストファー・リーブが颯爽と表れた時、作品とは別に感慨深いものがあった。
 
監督:ジェームズ・アイヴォリー 原作「カズオ・イシグロ 出演:アンソニー・ホプキンス エマ・トンプソン ジェームズ・フォックス クリストファー・リーブ ヒュー・グラント ミシェル・ロンズデール ピーター・ボーン
1993年アメリカ


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2007年08月18日

「ノミ・ソング」アンドリュー・ホーン

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この年齢なのに彼=クラウス・ノミのことを全然知らなかった私。勿論有名なジャケの彼の写真は知ってるし名前は聞いてはいたのだが(私の年代で彼の顔を見た事ない人はいないはず)
このDVDで初めて彼の歌をきちんと聞き、彼のパフォーマンスを観たのであった。衝撃。

と同時に酷く悲しくなった。このDVDを観てる限り、ノミというアーティストの孤独を感じて辛くなった。
突出したアーティストというのは往々にして孤独から逃れられないものなのかもしれないが。
この中の出演者が、ゲイであった彼が最も欲しがっていたのが愛であり、恋人であった、という話をしていた。その人はノミから恋人になって欲しいと求められたのだが彼を受け入れ切れなかったという。他の出演者でノミが“ハッテン場”でやってるとこを見てしまいおーっとと目を背けたというのがナンだか意地悪く聞こえてしょうがなかった。
そして彼の音楽と個性が多くの人々から絶大な賛辞を受けるようになった頃、彼は多忙で体を壊し、そしてエイズにかかってしまう。
当時まだエイズは「ゲイの癌」と呼ばれ認識が薄かったという。「伝染する」ことを怖れた仲間達はノミを見舞う事も最期を見取る事も無かったらしい。
宇宙人として登場した彼はそのままのイメージで消え去ってしまったのだ。

私としても僅かに知っている彼の写真からアンドロイド的なイメージだけを持っていたのだが、この作品を観てクラウス・ノミの歌の魅力、彼の孤独な魂を知ることができた。
ただ、残された映像を観ていると彼という存在が何となく彼の周りの人々とはかけ離れすぎているように思える。彼という個性がまだこの時代では充分に生かされてない気もする。時代が彼に追いついてないような。
と言っても今、彼がいてもやはり浮いているのかもしれないが。

デビッド・ボウイがノミを認め彼をバックコーラスに加える、という形で登場する。さすがにボウイは貫禄の宇宙人的存在である。ノミがボウイを意識して衣装や方向性を確立したというのも面白かった。ボウイさん、さりげなくタイトスカートはいて歌っててかっこいい。

私はミュージックシーンなど語る資格はないのだが、ニューウェーブという形態が音楽界を大きく変えたという話を聞いてると懐かしいものを感じる。

監督:アンドリュー・ホーン 出演:クラウス ノミ ケニー・シャーフ アン・マグナソン デビッド・ボウイ マーティン・シーン
2003年ドイツ
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2007年08月17日

「フランケンシュタイン」ケネス・ブラナー

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「ドラキュラ」と同じように皆が知っているけど、イメージが先行して本当の話を知らない人が多い。と言っても私も原作をきちんと読んでいるわけではないのだが。

時代劇ということで機械類の奇抜さ、感情表現過多の部分も含め楽しめる作品である。
とはいえ、その本筋であるヴィクター・フランケンシュタイン氏とその造形物であるクリーチャー(怪物)の物語は決して古臭いものではなくむしろ現在において様々に考えさせられる話であった。

まず単純に新しい生命体を人間自身が作り出す、ということで言えば、現在すでにクローン、DNA操作、人工授精などが倫理問題の正否を問われながらも進行しつつあり、今、不可能であっても近い未来に大きく変化し需要と供給により当然のこととなっていくのだろう。それが果たしてどこまで進むのかは判らないが。

本作では人間が神に背いて作りだした生命体は「クリーチャー/怪物」と呼ばれてしまう。それは彼が人間の常識的な判断から言えば美しいとは言えず、醜いと呼ばれる外見をしているからのように思える。つまりフランケンシュタインの未熟な技術によるものであって、彼がもし優れた美容形成外科医であったなら話は全く違ってしまったのではないかと思えてしまう。
普通より美しい形で生まれてきた「人工生命体」なら逆にもてはやされたのではないか。
それでも正体を知られたら軽蔑されてしまうのか。しかし「それ」の数が増えていったらまた評価も変わってしまうかもしれない。

もう一つの見方は「怪物」と忌み嫌われた「子供」というものである。
「クリーチャー」はまるで親から生まれたのにも関わらず「怪物」「醜い」「出来損ない」と罵られる子供そのものの姿のようだ。
親は「こんな子に育つとは思わなかった」と言って自分の子供を嫌悪し見放してしまう場合がある。
愛されない子供はもがき苦しむ。彼らには巧く話す言葉がない。暴力と反抗でますます親を追い詰めていく。
ラスト、怪物が死んでしまったフランケンシュタインの側で「お父さん」と呼んで泣く場面がある。
怪物はただ愛して欲しかったのだ。なぜフランケンシュタインは我が子を醜いと斥けたんだろう。
なぜ愛さなかったんだろう。彼が怪物を「可愛い」と慈しみさえすればこんな事にはならなかったのに。
「赤毛のアン」で酷いコンプレックスに苦しめられているアンを支えていたのは彼女を産んですぐ亡くなった母親がアンを「とても可愛い」と言ったということだった。愛されたという思いがアンを勇気付けたのだ。
親に「醜い」「出来損ない」と言われてしまう子供はどうやって生きていけばいいのか。
多くの親なら他人には可愛くない子供でも可愛いものである。血がつながってないから?例えが気の毒だがあんまり可愛くない犬猫も飼ってるうちに情がわくものだ。
本作の怪物もさすがに始めはびっくりしたが観てる内に可愛く見えてきた。性格凶暴のみだと困るが理性も知性もあるのだから全然OKである。パパ=フランケンシュタインと仲良く暮らせたなら怪物も凄くチャーミングに変わっていったんではないだろうか。残念だ。

フランケンシュタインの我が子への非情さは怪物に名前をつけなかったことに表れている。
読んではいないけど虐待児の本に「It(それ)と呼ばれた子」というのがあった。映画の中でもフランケンシュタインが怪物が死んだと勘違いして「奴は死んだ」という英語が「He is dead」ではなく「It is dead」と言っているように聞こえた。怪物は生みの親にとって彼=人間ではなくそれ=ものにしか過ぎないのだ。
名前さえも与えてもらえなかった、と怪物は泣く。名前のない生物、それが彼に愛が与えられなかった証拠なのだ。
 
最後に死んでしまった父親ともろともに怪物は火を放つ。悲しい最期である。そうすることでやっと彼は父親の側にいることができたのだ。
そして技術も愛する心も未熟だったフランケンシュタインは死をもって償うしか道はなかったのだろう。

クリーチャー/怪物を演じたのがロバート・デ・ニーロ。大男のイメージの怪物を小柄なデ・ニーロが演じているのにまったく違和感がない。彼の怪物は本当に悲しい。目が見えないために怪物に優しい声をかけてくれた老人とのひと時だけがほっとする時間だった。
とはいえ、もともとはデ・ニーロ。いくら傷だらけで引きつれがあってもハンサムな土台が怪物を可愛く見せてしまう。自分がフランケンシュタインなら絶対可愛がるのにな。実際は(って創作物語だけど)もっと本当に醜悪だったのか。というかそんな醜悪さというのも想像がつかない。普通の顔をしてても醜悪、と思えてしまう人もいるけどね(自分の事は棚に上げてごめん)
ケネス・ブラナー監督・主演。すごい才能の人である。
しかし、フランケンシュタイン氏のあの再生方法、乱暴すぎる。手術とかってもっと落ち着いた繊細なものではないのか。
やたらばーんばーんって。出来立ての怪物の頭の上になんか落ちてくるし。縫い目ももっと細かくしてやって欲しい。全体に雑すぎ。その辺だけでも思いやりにかけるんだよね、この人。
ブラックジャック先生がいたらよかった。

監督:ケネス・ブラナー 出演:ロバート・デ・ニーロ ケネス・ブラナー ヘレナ・ボナム・カーター トム・ハルス エイダン・クイン
1994年アメリカ


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2007年08月16日

「叫」黒沢清

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「アカルイミライ」で興味を持てず「CURE」を観て大いに興味を持ち、次に選んだのが新作の「叫」だったのだが。

その他の作品は観てないので比較はできないが、本作は私が観た同監督作品としてはかなりホラーの定番を踏んでいるもののようである。
別に定番ホラーでも構わないがそうなると単純に面白いか、好きなタイプか、ということになり、自分的にはそう面白くも怖くもなかったのである。

とはいえ、まったくつまらない、と言うことではなく、もしそうならいちいち書きたくもないだろう。「CURE」がかなり面白かったのでどうしても期待してしまうのだ。

作品自体は多分エンターテイメント・ホラーということで楽しく観れる方向で作られていると感じたのでそうそう深刻な追求をすることはないと思う。
例えば作品中で問題となる見捨てられた人間、取り残された建物、意思が通じない親子・男女などが表現されてもまさにホラーを作り出すための設定という感じである。そう思う心が怖ろしいのだと言い返されたら困るけどホラーというのは無理矢理不幸を作ってしまわなければ成り立たないものであるのだ。

その上で、ただ純粋に楽しめるかといえば自分の好みとはちょいとずれてたということなんであろう。
まずは人物設定。勿論名優・役所広司の演技に不満はないが、恋人役・小西真奈美との年齢差にやや戸惑う。始め、娘なのかと思った。娘でもよかったのかも。どうしても恋人でなければいけないなら役所さんでなくても良かった気もする。小西真奈美が彼女らしい優しい性格の女性でぴったりなのでもっと彼女の年齢に近い若い男。年下でもいいくらい。それの方が十数年前、幽霊と出会った時、何もできなかったのがよく判るし。役所さんだと気がきいてそこで何かしてしまいそうだし。かなり若手の刑事ということになるがそれでもいいのでは。やたら短気なのも若いならまあそうかな、と思えるし。主人公の苛立つシーンが多かった。
次に幽霊さんの葉月里緒菜。痩せていて綺麗で幽霊にぴったりだが、しゃべるとがっかり。タイトルが「叫」なんだから話さないで叫ぶだけでもいいのに。後変に手を出してるのもうまくない。いるだけで充分怖い顔なので、できるだけ演技させずに立ってるだけのがいい。
オダギリジョー。今回も駄目だった。ちょい役なのでいい味出せるかも、と思ってたのに、余計下手さが目立つ。大体問題の鍵を握る重要な役をこんな若造にさせるなんて。もっと渋いいい役者がいっぱいいると思う。これは絶対オダギリファンで観客を増やす為の算段であろう。エンタメとしては当然の索だが、こういう役は年配にやってほしいなあ。美女なら若くてもいいんだけど。おまけにこの精神分析医の台詞で「彼は若い巡査で・・・」というのがあったが目の前にいる人をわざわざ「若い」と説明せんでも見れば判る。どう見ても70歳なのに「実は若いんですよ」ていうのなら判るが。
よかったのは井原剛志。こういう全然幽霊感じない人っていいな。
でも一番好きになったのは作業船の船員さん。かわいい。と思ったら加瀬亮さんだった。今迄で一番ステキに見えた。ちらっとしか映らないかもしれないが。働く男が好きなんだ。

「叫び」のポーズがそのままムンクの「叫び」ポーズだったり笑わせる場面が多くホントに楽しませる映画なのかもしれないが、自分の好みな世界でなかっただけかもしれない。
好きだったのはとにかく作業船の出てくるとこで、ステキな船員さんもだけど船の走る場面、周りの光景、古びた建物などよかった。好きな映画「ふたりの人魚」の冒頭シーンに似てたんで。

というわけで自分の趣味とは少しズレていて残念だったが愉快なホラーとしてやはりよくできていることは確かだろう。
些細な駄目もあるが些細な楽しみもある。
深刻にならずに楽しめばいいはず。

監督:黒沢清 出演:役所広司 小西真奈美 伊原剛志 オダギリジョー 葉月里緒菜
2006年日本


タグ:ホラー
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