映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2007年11月30日

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』もう一度考えてみる

ヘドウィグ.jpgヘドウィグ2.jpg
Hedwig and the Angry Inch

ヘドウィグというのは何だろう。何故彼女は美しく皆は彼女に惹かれてしまうのか。
彼女は最初からヘドウィグではなくハンセルという名前の男の子だった。
ヘドウィグはハンセルが自由になる為につけた架空の名前である(母親からもらったものではあるが)
ハンセルは自ら望んだわけでもなく男性器を失い、ハンセルでなくなった。
だが彼の怒りはなくなったはずのその場所に1インチ残ってしまったのだ。

夫であり自分を自由の国に連れ出してくれたその人は彼女の元を去ってしまう。ハンセルはヘドウィグとして必死で生きていこうとする。
化粧という仮面とウィッグという魔法を身につけた。ハンセルという自分を消してヘドウィグになる為に。
でもハンセルはアニメーションの中で書いている「僕を否定すれば破滅する」

観ている者たちがハンセル=ヘドウィグに共鳴してしまうのは当たり前だ。彼は自分自身だから。
ハンセルの母は「幸せを手に入れるために何かを失わなければならない」という。ハンセルはその為に大切なものを失ってしまった。
自分自身がハンセルと同じように自由のない場所にいる、と考え、彼と同じように大切な何かを失い、引き換えに手に入れたはずのものを再び失ってしまうこともある。
そしてヘドウィグと同じように化粧で自分自身を偽っていく。
彼女の眉はいつも困惑しており、自分を誤魔化そうと化粧はますます濃くなる。彼女のウィッグは翼を広げて飛んでいってしまいそうだ。

そんなヘドウィグが恋に落ちる。トミー。ヘドウィグの心は穏やかになり「アングリーインチ」を暫し忘れる。
そのために彼女のメイクはしとやかに女らしくなりウィッグも飛んでいってしまうような形にならなくていい。
トミーの側でハンセルは優しい女性になっている。
だけどそれは束の間の夢でしかない。なぜならヘドウィグは秘密を隠していたから。真実を知ったトミーは彼女から去っていく。彼女の大切な魂である“歌”を盗んで。

ヘドウィグが願ったのは自分の片割れを見つけることだった。だが愛しあったはずの相手から大切なもの一つは肉体を一つは魂を奪われてしまう。
ヘドウィグにはもう一人の夫・男装している女性イツハクがいる。彼は女でありながら男性の格好をし、髭も持っている。だが誰も見ていない所で女性のウィッグをつけて女性の姿にも憧れているのだ。イツハクはヘドウィグそのものになりたいのかもしれない。
他のどのキャラクターよりイツハクは寡黙でその心の中は読み取りにくい。その上イツハクが自分を表現しようとするとヘドウィグが邪魔をする。もしかしたらこのふたりこそ互いにないものを持っている一対なのかもしれないのだが。だがここではヘドウィグが彼のことを邪険にしているように感じられてしまう。イツハクはその心がわかって苛立っている。
最後、戻ってきたイツハクがヘドウィグにウィッグを被せようとするともう被らないときめたへドウィグはそれをイツハクに被せる。
望んでいたものを手に入れたイツハクは自分というものを取り戻し喜びを感じている。
二人の男に肉体と魂を奪われたヘドウィグはここで希望を与えている。

ヘドウィグはもうヘドウィグである必要はなくなった。彼は化粧もウィッグも取り去った。裸になって歩いていく彼は本当に自由になったのだ。

ヘドウィグはハンセルにとって「否定した自分」だった。そうすれば破滅すると知ってもそうせざるを得なかった。
否定した自分を隠すための強烈な化粧は見る人をぎょっとさせる。嘘を見れば人は苛立つからだ。
でも多くの人はそうやって自分を隠したいという気持ちを持っている。それだけでは生きていけなくてもたまにそうしてみたいとか。
誰かがしていることで自分がそうなったように仮想してみるとか。
ヘドウィグに惹かれるのはそうした者たちだろう。
ヘドウィグという名前になり、魔法のウィッグをつけてみたいのだ。

ジョン・キャメロン・ミッチェルだけでなく多くの役者(女性もいる)がヘドウィグを演じている。日本でも。
元の話は同じなのに演技者によって様々なヘドウィグが生まれるという。エキセントリックだったり、穏やかなヘドウィグだったり。
様々な役者がヘドウィグに憧れ自分の中のヘドウィグを演じるのだろう。そして観客も彼女の姿になり一緒に歌いだすのだ。

作品の中でヘドウィグ=ハンセルは片割れを見つけることはできなかった。でも大丈夫。
彼はもう自分を否定することはなくなったのだから。

この2日間ジョン・キャメロン・ミッチェルを観続けていたのですっかり虜になってしまい困ってしまった。
あの大きな青い目がちょっといかれた感じなのに凄く弱い。じーっと見つめるとこがゲイっぽいけどそこがまたよいのだ。
普段の彼はやせっぽちにしか見えないのに舞台や映画の中だと凄い存在感があってどうしてなのか不思議。
本人はちょっとシャイな感じで優しげなのにヘドウィグは物凄く攻撃的で、そのギャップもまた魅力である。

ミッチェルはハンセルでありヘドウィグなんだけど同時にトミーでもあるのだ。
トミーは彼自身がモデルだというのは不思議でもあるけど頷ける。
この物語は愛を語っているけど恋愛物語ではない。
ハンセルが自分というものを探求していく物語なのだ。

いい歌ばかりでどれが一番とは言いにくいがやっぱり心にしんみりくるのは「ウィッグ・イン・ア・ボックス」映画だとさらに楽しい。
この時のヘドウィグがちょっとたそがれててチャーミングだ。「ファラ・フォーセット」というのがツボだった。セクシー美女の代名詞なのである。

この映画で最も印象的なものの一つアニメーションについて殆ど触れてなかった。物語をさらに美しいものにしている。

監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル 出演:ジョン・キャメロン・ミッチェル スティーブン・トラスク ミリアム・ショア マイケル・ピット セオドア・リスチンスキー ロブ・キャンベル
2001年アメリカ
ラベル: 同性愛
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2007年11月29日

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』ジョン・キャメロン・ミッチェル

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Hedwig and the Angry Inch

とにかく大好きなんだけどこれはどう書けばいいのか。この素晴らしさは観なきゃ絶対判らないし、観て音楽を聞いて胸が張り裂けそうな気持ちになってベッドにもぐりこみたくなる。好きな人がいるなら一緒に重なって。

ヘドウィグはトウが立ってると言っていいのかもしれないし、若い恋人トミーと一緒だと照明の具合では殆どお化けみたいな顔になってしまうんだけど、それでもやっぱり可愛くてしょうがない。
重力のせいでたるんでしわがよっててもそれをはっきり見せてしまうところが悲しく切ない。
東ドイツで生まれて(懐かしい響きの国)アメリカの音楽がずっと好きだった小さなハンセル=ヘドウィグ。
アメリカ黒人兵に結婚を迫られアメリカへ行こうと誘われるがその代償は男性器を失うことだった。

幸せを手に入れるためには何かを失わなければならない。よく言われることだけどハンセルにとってそれは男性でなくなること。
そしてハンセルは母の名をもらってヘドウィグとなる。

しかしアメリカへ渡って間もなく彼は新しい“恋人”と出て行ってしまう。
ヘドウィグは新しい世界に投げ出され何とか糊口をつなぎながら、再び「自分の片割れ」を探し始める。

だがヘドウィグのなくなったはずの“モノ”は手術の失敗でわずか1インチ残っていたのだ。それがタイトルの『アングリーインチ』
ヘドウィグはロックに自分の怒りを込めてぶつける。

愛のために生きているようなヘドウィグ。恋人だったトミーの後を追いかけるように移動しながら歌い続けるヘドウィグだが、大きなコンサート会場で歌うトミーと違い彼女のバンドが歌うのはいつも小さな店の何人かの一般の客の前。なんてミジメで悲しいんだろ。でもヘドウィグはいつでも魂を込めて歌うのだ。

ヘドウィグであるジョン・キャメロン・ミッチェルって不思議だ。そんなに整った顔ではないかもしれないけど、観てると凄く可愛くていい顔に見えてくるし時々はっとするほど美しくも感じる。
化粧した顔も綺麗だけど米兵に見初められた時みたいな素顔も魅力的なのだ。ちょっといかれた感じのする大きなくぼんだ目は本当に素敵である。
本作でとても好きなというか気になるキャラはヘドウィグの現・夫バンド仲間で彼女とは逆の男になった女性である。
他の多くのゲイムービーと違い男性の姿になった女性がここまで描かれているのは珍しいことなんじゃないか。夫として登場する、というのも面白いし。ヘドウィグとしては自分の片割れなら男装した女性なのかなと考えたのだろう。

恋人トミー役のマイケル・ピットは『ラストデイズ』の時にも書いたけど甘い顔が好きじゃなくて覚えてなかった(すみません^^;)
ここでは特にヘドウィグに酷い仕打ちをする役なので余計むっとしてしまうのだが最後に裸になってヘドウィグに歌うところは感動的だった。

一つ一つの歌がヘドウィグの心を表していて揺さぶられる。歌えなくったって思わず一緒に歌ってしまいたくなる。
おかしくて悲しくて楽しくて切なくて泣けてくる。
最後のシーン、薄暗い路地をヘドウィグもといハンセルが裸、素足で歩いて行くシーンは彼の通ってきたこれまでの道のようだ。
水溜りも越えて彼は人々が行きかう大通りへと出て歩き続ける。彼そのままの姿で。

監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル 出演:ジョン・キャメロン・ミッチェル スティーブン・トラスク ミリアム・ショア マイケル・ピット セオドア・リスチンスキー ロブ・キャンベル
2001年アメリカ

ところで全然関係ないんだけどジョン・キャメロン・ミッチェルと高虎ってなんか似てない?
John_Cameron_Mitchell.jpgガオフー.jpg
私の好きな顔っていうだけなのか?
ラベル:同性愛
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2007年11月28日

『薔薇の名前』アノー監督解説を聞いて

The_Name_of_the_Rose.jpgホルヘ.bmpbrother-salvatore.jpgnotrcssc2.jpg

アノー監督の解説を聞いてみた。裏話のネタバレである。ご注意を。


まずは舞台となる僧院を決めることや(一つではなく場面ごとに様々な場所が選ばれしかもイメージどおりにするため新しい建物を作り上げている!)小物が借り物でなく全部作っていったという凄まじいほどのこだわりの説明。その情熱は確かに画面を観ていれば伝わってくる。(使われた僧院のひとつがエーベルバッハ修道院というドイツの建物で名前が凄くうれしいのであった)

最初はショーン・コネリーを使うつもりはなかったということらしい。これは判らなくもない。私もコネリーといえばジェイムズ・ボンドである。中世の僧院に007を出演させたら観客も混乱するだろう。しかしコネリー自身が監督に何度もその意志を伝えて台詞を聞いてもらいそのあまりの素晴らしさに監督が一気にコネリーに決めたという。結果、この役をコネリー以外で考えられない気がする。
だがコネリーの前に無名ながら素晴らしい役者が候補に上がっていたということで彼にとっては一躍有名になるかもしれなかったのに、運命というのはどうなるか判らないものである(アノー監督は007をダブルオーセブンと発音せずゼロゼロセブンと言ってた!フランス人ってそう言うんだ!)
アドソ役のクリスチャン・スレーターのことを監督は知らなかったらしい。他の大勢と共にオーディションを受けたらしい。15歳だった。「台詞を覚えてないので台本を読んでもいいですか」という言葉に一同大受け。これがなかなかうまかったので監督が公園に連れ出して写真を撮ったらしいんだけど、この時クリスチャンは監督をその方面の人、と考え「襲われる」と思い怖くてしょうがなかったんだって。可愛い。というかかわいそー。

こだわりにこだわった美術なのにたったひとつだけ監督の無念があってそれはマリア像なのだが出来上がったものがどう見ても中世じゃなくルネッサンスのものであり監督は文句を言ったそうだ。だが美術監督らが「監督以外誰もそんなの気にしない!」と猛反撃したため涙を呑んだらしい。結果公開後に「中世なのにルネッサンスのマリア像はおかしい」という苦情が殺到したそうだ。監督としてみれば「ほら見ろ!」と再び涙だったろう。中世には色気がないのだ。

逆にとてもいいものの一つはウィリアムとアドソが着ている僧服だ。ゆったりとしてしかも頑丈で温かそうである。実際現場は物凄い寒さだったらしい。吐く息も白いが効果音のピューピューいうのがいかにも寒そうであった。コネリーは寒いのでフードをなかなか下ろしてくれなかったらしい。あの頭を寒気にあてるのはそりゃいやだろう。

監督が「宗教は信じないが修道院は子供の頃から好きだった」というのがおかしい。お寺マニアである。私もその気持ちは凄く判る。宗教を信じてないのに宗教本を読むのは大好きなのである。宗派は問わない。建物や衣装・小物なども好きだ。どれかの宗教に入ったら別の宗教を勉強できなくなるようで嫌だ。今くらいの日本人的適当宗教だといいが。

この映画の重要な題材である書物に関しても同じく共感する。知識の詰まった本を読めることは現在では想像もつかない喜びだろう。ましてウィリアムのように探究心の強い人物にとっては。
現在日本においては禁書というのは想像しにくいが「読んではいけない書物」というものはどんな宝石より手に入れたいものではないのだろうか。
ここではまさしく書物のために次々と人が死んでいくのだ。いまだったら「本がないならインターネットで調べれば?」というところである。価値観の違いというのは怖ろしい。

そして“問題の場面”ラブシーンと字幕があったが監督は「エロスシーン」と言っていた。
クリスチャンは本当にこの村娘役の女性が気に入ってしまったらしい。アメリカンネイティブとスイス人のハーフで南可愛い南米なまりで話すのだとか。色気が溢れてくる女性で男性は皆彼女にクギづけだったらしい(うわーあやかりたい)
クリスチャンは“お母さん”を通じて彼女だけをテストして欲しいと頼んだそうな。彼にとってほんとの「薔薇」だったんだ。なにしろエロスシーンを撮り終わったよと言っているのにやめなかったって。もう虜になってたのでありましょうなー。
なんとこの場面を撮るのに監督は娘役のヴァレンティーナとは打ち合わせをしたのにクリスチャンには何も言わなかったということらしい。つまりクリスチャンはこの場面マジで女性に誘惑されているのだった。15歳だからねー、これは大変ですよ!!どおりでこの初々しさ、服を脱ぐのがもどかしい感じリアルでありました。

そのクリスチャンくん、ショーン・コネリーにも熱愛で「ヒーローと共演できるなんて」と感激していたと。コネリーは厳しくてクリスチャンが失敗すれば怒っていたのにクリスチャンは喜んでその怒りを受けていたらしくさすがのショーンも「グッボーイ」と褒めてたらしい。クリスチャン、ほんとに可愛い。

他の色々な役者についても監督は細かく論評している。自分が知らないだけで地元では大物の役者さんもいれば全く無名の人もいる。
とにかく奇抜なほどの個性溢れる面々である。
特にサルヴァトーレと盲目のホルヘ氏には目が向いてしまう。太っちょさんもしかり。

この名作がアメリカでは酷評だったというのはどういうことだろう。つまり子供だ、ということなのか。

監督は“1ページ”を「いちページ」と発音してるけど聞き間違い?

迷路図書館の場面は何度観ても秀逸としか言いようがない。このセットはイタリアに残されているそうだけど、同じようなものを遊園地に作って欲しい。中に入ったことを考えただけでわくわくする。だが方向音痴の自分はとうとう出てこれずにミイラとなって発見されそうではある。

賛美するショーン&クリスチャンと対象的に監督を大いに困惑させたのがマーリー・エイブラハムだったらしい。アカデミー賞俳優だと威張り横柄だったらしいのだが確かに監督のいうようにその後、これという役には恵まれていないような気もする。ガス・ヴァン・サント『小説家を見つけたら』でもちょい役でショーンと共演しているが同じように嫌な役だったのがおかしい。サリエリは嫌な役というより哀愁のある役ですばらしかったが本作ではどうしようもなく悪役である。そういう人にはぴったりの役だったのではないか。

最後の雪の場面は本物の雪だという。場所がローマなので雪は滅多に降らないのがこの撮影日だけに降ったというのだ。
もう予算もなく人工雪もあきらめなければならない状況で降った雪はまさに神様の贈り物だったのかもしれない。なにしろその後全く雪は降らなかったらしいのだから。
ウィリアムとアドソが修道院から去る場面は雪が降って素晴らしい光景になっている。
いい映画にはこういう奇跡がおきるものなのだろう。

興味深い解説だった。映画作りにかける監督と役者の情熱というのは面白くてたまらないものがある。
火事の場面で老ホルヘ役のシャリアピン氏は焼けた木材が体の上に落ちてきたのに火傷よりいい場面が撮れたかを気にしていたという。役者魂である。
アノー監督が最後にハリウッドを褒め称えているのがおかしかった。フランス人としてはハリウッドは攻撃の対象でなければいけないらしいのだ。いい出資者であるなら別段攻撃する必要はないだろうし、面白い映画が観れるならハリウッドだろうがかまわない。
とはいえできるだけハリウッドから離れた映画を観たい、というのが自分の本音ではあるのだが。
ラベル:ミステリー
posted by フェイユイ at 23:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月27日

『薔薇の名前』ジャン・ジャック・アノー

薔薇の名前.jpgNameOTRose.jpg
THE NAME OF THE ROSE

遠い昔に観たきりだったがまさかこれほど面白かったとは。もっと何度も観ればよかったと後悔しつつ。
とにかくもれまで「昔観て面白かったけど難しくてなんだかよく判らなかった」という記憶しか残ってなかったのだ(なんてことだ)
確かに今も判ったフリをしているだけでもっと判らないでいる部分もあるのだろうが、この重厚な凍てつく空気、異様な風体の僧侶たち、惚れてしまうショーン・コネリーと可愛らしいクリスチャン・スレーター(昔観た時はあまり可愛く思えなかったが今観たら可愛いの。もう若ければ誰でもよくなったか?)(私は彼のことを知らないつもりでいたら『トゥルー・ロマンス』の彼だった。あの映画もよかった)のコンビの素敵なことといったら!を確認しただけでも観る価値あり、だった。

特典の監督解説も面白そうなのだが、あまりにも興奮冷めやらずで先に感想をちょっと書いてみる。解説を見たらばまた意見も出て来るだろうけど。

中世イタリアの壮大な石造りの修道院。若い修道士の死を発端に次々と修道士たちに謎の死が訪れる。
バスカヴィルのウィリアム(なんて素敵な名前)は若い見習修道士アドソをつれて重要な会議に出る為この修道院に来たのだが、その明晰な頭脳で謎の死解明に立ち上がった。
カソリック教会の内部、宗教裁判、異端審問、教会と住民達の関係、当時を彷彿とさせる衣服や建物、思想、人間関係などが興味深い。殺人事件の解決と異端審問官との対決に知恵を絞る間にウィリアムは禁書となっている蔵書ヘの強い執着があった。
その禁書というのは「喜劇」に関する著作であり、キリスト教においては「笑い」は悪魔の所業だと老いた盲目の文書館長ホルヘはその書物を葬り去ろうとするのだった。
昔はこの意味がわからず、というか一体なんのことなのかと思っていたのだろう私は。
今も何故笑いが禁じられるのか、とは思うが先日絵画の説明を読んでいたら「キリスト教では“笑う”というのは精神の堕落であり絵画にも描かれていない」というような説明があって(適当な記憶だが)ホルヘ修道士も言ってるように悪魔にそそのかされたように思われる行為なのだろう。従って底辺の貧しい人々は笑うのだが高貴な人間は笑わないのである。
無論、聡明であり自由な発想を持つウィリアムはこの蔵書に強い興味を抱く。というより僧院に隠された蔵書を見つけ大喜びし、火事で自分の命が危うい時にも書物を我が身で庇おうとするのだ。この場面には胸を打たれる。

そしてこの不思議な香りのするタイトルの原因である、アドソの恋。これも昔の記憶があるのだが、清らかであるべき若い修道士が村の貧困でうす汚れた(すみません、差別的だが若い頃はそう思ったのだ)娘と肉体関係を持ってしまう場面に嫌気がさしたのだ。その恋の尊さというものを若い私は理解する事ができなかった。
今観てアドソのたった一つの恋が彼の中でどんなに美しいものとして残ったのか、その娘の名前さえ知らない彼にとってそれは「薔薇の名前」なのだと、今にしてようやくわかったような気がする。
『薔薇の名前』というと思い出してしまうのが『市民ケーン』の「薔薇のつぼみ」冷酷なケーン氏の心から決して消える事のなかった美しい思い出である。どちらも素晴らしいイメージだ。美しい色と香りが込められているような気がする。

また美術に見惚れてしまう本作だが特に隠された図書室がある塔の内部には圧倒されてしまう。
迷路を塔の中に再現した入り組んだ階段と小部屋はどこから声が聞こえてくるのか判らず賢いウィリアムとアドソですら迷ってしまう。
この情景はまるで人間の心と魂のようではないか。複雑に絡み合い、謎を秘めている。
人に知られては困る秘密がその奥に隠されているのだ。

ということですっかりこの作品の虜になってしまった。これから解説も楽しませていただく。
かなり以前の作品だが、この面白さを現在で作れるのだろうかという気さえする。

監督:ジャン・ジャック・アノー 出演:ショーン・コネリー F.マーリー エイブラハム クリスチャン・スレーター エリヤ・バスキン フェォドル・シャリアピンJr
1986年 / フランス/イタリア/西ドイツ

posted by フェイユイ at 22:28| Comment(6) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月26日

『ドッグ・バイト・ドッグ 』ソイ・チェン

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狗咬狗

この映画の中のエディソンの魅力をどう表現していいか、わからない。
ただ生き延びる為だけに生きている。そんな生き方をしてきた男の話である。

光線が黄色っぽく覆っていて異世界の出来事のようでもある。香港で言葉の通じない(カンボジア人)青年と普通語を話す少女はゴミ捨て場の汚らしい小屋で出会う。
青年は劣悪な環境で生まれ育ち生きていく為に仲間を次々と殺すことで命をつなぎとめており、ここへも殺人のために送り込まれたのだった。少女は遠い場所(大陸のどこか)で生まれ母をなくし父親と香港のゴミ捨て場で生活をしていた。そこで彼女は父親に犯されながら生きていくしかなかった。
彼らがたとえ命を落としたとしても誰の関心を呼ぶこともなく涙を誘うこともないのだろう。彼ら自身がゴミ捨て場に運ばれたゴミでしかないのだ。生きていても死んでしまってもどうでもいい、そんな存在なのだ。
自分というもの以外何も頼るものもないふたり。賑やかで富める街のゴミ捨て場で出会った青年と少女には生きていく希望も価値もないのだろうか。

出会う者を皆殺すことしかできない青年がもう少しで手にかけようともした少女を殺さなかったのは少女が自分と同じ存在だったからなのだろうか。
青年が船の絵を描いた上に少女が男と女が手を握って乗り込んでいるのを描き加えて喜んだ時、青年はこの少女と行こうと思ったのである。

どこにも行き場はない二人の逃避行と心に傷を持つ若い刑事の救われることのない復讐が絡んでいく。
刑事は尊敬する父親の堕落に失望し刑事としても人間としても生きていく事ができなくなった惨めな存在である。その心のあり方としては殺人者である青年よりさらに人間性を失ってしまっているのだ。

彼らはまさに『犬』でしかない。彼らが出会い殴りあう様は野良犬が咬み合っている、その姿なのである。彼らのケンカの場面では犬の唸り声が聞こえている。
彼らの争いには何か特別なものが伴っているわけではない。国だとか組織だとか金銭だとか名誉だとかそういうものは何もないのだ。
彼らのケンカは単なる犬同士の咬み合いでしかない。彼らのどちらが勝ってもまた死んだとしても誰も何も思うことはない。ある者は無意味だと笑うだろう。また醜いと罵るだろうか。
最後に聞こえてくる『You Are My Sunshine』は胸に刺さるものがあった。


エディソン・チャンはノーブルといっていいほど綺麗な顔立ちなのだが、この獣のような青年をこれ以上ないほどの魅力で演じている。
少女は可憐で愛おしい。互いに言葉が殆どないのが効果的である。
歪んでしまった刑事役のサム・リー。相変わらず細身でしかも男らしくて素敵である。

『狗咬狗』というタイトルを見た時から観たくてたまらなかった作品だったが期待以上の出来栄えだった。
エディソンとサム・リーが主演だというのも観たい理由だったが、こちらも満足以上の素晴らしさであった。

こういう話は欧米ではちと無理であるだろうし、東南アジア・香港だからこそ作られる作品なのではないだろうか。
がつがつと食べ物を飲み込みながら殺人を犯す青年というキャラクターには身震いを覚える。

監督: ソイ・チェン 出演: エディソン・チャン サム・リー ペイ・ペイ ラム・シュー チョン・シウファイ
2006年香港



ラベル:暴力
posted by フェイユイ at 21:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 香港 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月25日

『絶対の愛』キム・ギドク

絶対の愛z.jpgぺミクミ彫刻公園.jpg
TIME

観ていて「これは監督自身のことを描いたわけではないのかな」といつもながら穿った見方をしてしまった。
というのは、無論これはギドク監督お得意の異常な形のラブ・ストーリーであるのだが「自分を愛してくれていたはずの人が他の人に心変わりしていく。いつも同じ顔じゃ飽きられる。これ以上美しくはなれないけど、違う顔に変わりたい」というこの物語がまるで今回のギドク監督自身の心の声のように感じられたからだ。

本作は今までのギドク監督作品とは非常に異なった印象がある。普通の生活をしている若い男女が登場人物であり、まるでギドク作品ではないかのように大量の台詞で心の中が説明されていく。
だがどうなんだろう。ギドク監督を好きだった人たちほど「以前の方がよかった(セヒのほうがよかった)」と言われてしまうのではないか。
ギドク監督が皆がそう思うところまで計算してこの映画を作ったのだとしたら。
でもギドク監督はセヒより幸運なはずである。整形してしまった顔と違い監督はまた元の様な映画を作ることはできるのだから。

この思い付きがあたってるかどうかは判らない。インタビューでも(私が見た数少ないものでは)監督は「永遠の愛はないと言うことを描きたかった」とだけしか言われてないようだし。そんなひっかけというか遊びというか、で自分の心を表現しているのかは想像がつかない。
ただもしこの考えがあたっているなら整形した(他人の好みに合わせて見せた)スェヒ(ギドク監督)が「これで願いはかなったのに、こんなに悲しい」と泣きだしてしまうのもおかしいような悲しいような気持ちになってしまう。

今までとは違うとは言っても整形したスェヒとする前のセヒが出会うという時間の交錯や広げた手の形の彫刻が海の中に入ってしまう美しさ、その階段の先が天に続くイメージはギドク監督らしい。
またジウがパソコンで編集しているのがギドク監督の『3-IRON(うつせみ)』という遊びが楽しい。
もしかしたらこの映画はホラーコメディなのかもしれない。

それにしてもここでもまたギドク監督は「女性の目」になっている。いつも私はギドク氏は男性役ではなく女性側に立っている、と思うのだが、監督自身はマッチョなイメージの方だけにいつも不思議である。 

監督/脚本:キム・ギドク 出演:ソン・ヒョナ ハ・ジョンウ パク・チヨン 杉野希妃 キム・ソンミン
2006年 / 韓国/日本
posted by フェイユイ at 20:49| Comment(2) | TrackBack(1) | 韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月24日

『ツイン・ピークス』シーズン 2 Vol.3 第18章デヴィッド・リンチ

巨人.jpg

少佐が消える前にクーパーに話しかけた言葉「ホワイトロッジ」は「人と自然を支配する霊の住処」といわれていてその影は「ブラックロッジ」また霊はそこを通らなければ悟りを開けないといわれている。自分の影に会えるのだ。「戸口に住む者」と呼ばれる。勇気なくしてブラックロッジに会うと魂の破滅となる。

今回の驚きはなんといってもブライソン捜査官デニス改めデニース。クーパーよりデカイ体の女装捜査官である。
これを観ていた当時は彼のことを知らなかったので何も思ってなかったが、彼は『Xファイル』フォックス・モルダーを演じたデビッド・ドゥカブニーである。再放送で観て気づいた時は転げた。ちょっと化粧して女装してるだけだがなかなかに美人である。モルダーからは想像がつかない。
彼というか彼女はクーパーを調べる為にツイン・ピークスへやってきたのだった。だがまあ昔クーパーと組んだこともあるという仲でいたって穏やかな雰囲気である。

ジェームズはバイク旅の途中で金髪で色っぽい年増女と出会い目をつけられる。
ネイディーンはドナの元カレ・マイクに夢中になる。
ベン・ホーンはすっかり落ちぶれてしまい、弟や家族と撮った昔のフィルムを観て懐かしむ(『ゆれる』を観た時、この場面を思い出しておかしかった)
ハンクはベンから離れジャン・ルノーへつきクーパーを陥れるために彼の車にコカインを撒く。
いつもけんかばかりしている老兄弟のダギーが少女のように若い女性と結婚。ドウェインは激しく反対する。

クーパーに再びウィンダム・アールからの手紙が届く。中には「ポーンをQ4へ」というメッセージとテープが。そこには「今回の私の手で我々は古典的な対決へと向かう」「パターン化は君を攻撃に対してもろくする」「目的を達成するためにクイーンさえも犠牲にする」という声が録音されていた。

ジョシーが戻ってきてハリーはまたぞっこんとなっている。だがジョシーはエッカートという名の男の影がちらついている。
同じく戻ってきたキャシーはジョシーをメイドとして扱うことに決める。そして驚いたことに死んだはずのジョシーの夫・キャサリンの兄が生きていたのだ。すべてはキャサリンたちの陰謀だったのだ。

ここまで来ると次から次へと起こる出来事がなにもかも信じられなくなる。だがそれでも面白い。
ディックは突然少年を連れて来て面倒を見ているのだがこの子供はとんでもない悪魔なのである。

posted by フェイユイ at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | ツイン・ピークス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『ツイン・ピークス』シーズン 2 Vol.3 第17章デヴィッド・リンチ

赤い部屋aaa.jpg

ローラ殺人事件が一段落し、物語は新たなる岐路に立った。
ツイン・ピークスを去るはずのクーパーが嫌疑をかけられFBIから尋問を受ける。。
「片目のジャック」の件でカナダ側へ通告もなく侵入したことが災いしたのだ。
クーパーを庇うハリーの友情が痛々しい。

レオの面倒を見続けるシェリーは落ち込み、ボビーは何とか事態を打開しようとベン・ホーンを訪ねる。
ノーマの店ダブルRは謎の評論家に手酷い批評を書かれてしまうがその本人とはノーマの母親だったのだ。
ノーマの夫ハンクはまた悪だくみをして「片目のジャック」のルノーと取引を始める。
ネイディーンはすっかり女子高校生になってしまいチアガールになるテストを受ける。突然身についてしまった恐るべきパワーは失われていない。物凄いタンブリングを決め、男子学生を投げ飛ばしてしまうのだった。

真夜中、ハリーの家へ突然ジョシーが戻ってきた。喜び彼女を抱きしめキスをするハリー。

そんな中、拳銃とバッジを取り上げられたクーパーは少佐と夜釣りを楽しんでいた。少佐が「ホワイトロッジ」についての話を仕掛けた時、クーパーは用を足しに場所を離れる。
暗闇の中で強い光を見た少佐がクーパーの名前を呼ぶ。戻るとそこには少佐の姿はなかったのだ。
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2007年11月23日

『ツイン・ピークス』シーズン 2 Vol.3 第16章デヴィッド・リンチ

赤い部屋.jpg

ドナはリーランドの家を訪れる。リーランドの中にボブは存在していり新しい獲物の到来に興奮している。
ダンスを促されたドナは突然リーランドから抱きすくめられ動揺する。ハリーの来訪で何とか命拾いをしたドナはジェームズに会い、マデリーンが殺された事を知らせる。
それまで優しかったジェームズは別れを告げバイクで走り去ってしまう。

ボブに乗っ取られたリーランドが捕まった。

クーパーは酒場に必要な人物達を集めたのだ。ベン、リーランド、ボビー、レオ、ホテルの老ボーイ、ブリッグズ少佐、エド、ハリー、ホーク、アルバート。
激しい稲光の中でクーパーは魔法を使うと宣言する。
クーパーは赤い部屋に老人の姿になって座っており小人が踊っている。ローラがクーパーの耳元で何かをささやく「私の父親が私を殺したの」
真実が告げられた。
そこに現れたのは巨人、クーパーに指輪を返した。
その指輪はボブとマイクの欲望と満足の黄金の輪を現していた。

皆が見守る中でクーパーはリーランドに尋問する。無論答えているのはボブである。
ボブ=リーランドはローラを殺したことを認め、マディもまたその手にかけたことを述べた。そして“いい車だった”リーランドがもうボロボロなので出て行こうと思っていると告げる。
疑念を抱いていたハリーもこのりーランドの言葉に納得するしかなかった。

クーパーは皆に説明をする。ベンが犯人でないことは血液検査ですでにわかっていた。
夢の中の小人が踊っていたのはリーランドがいつも踊っていたのを示しており、幻のボブが白髪だったようにリーランドの髪も白髪に変わった。子供の頃会った男はロバートソン「ボブの息子」という意味だ。爪の中の文字は自分の名前を綴っていた。悪魔の署名だ。
リーランドは閉じ込められた部屋の中で叫んでいる。その時スプリンクラーから激しく水が噴出してきた。
ずぶ濡れになり狂ったようにドアに体をぶつけだしたリーランド。クーパーたちが慌てて中に入った時は血だらけになり倒れていた。リーランドは正気に戻りローラを殺めたことを謝った。そしてボブが体の中に入ってきたことを語った。
クーパーは彼の頭を膝にのせ語りかけた。道を辿る時が来たと。そして苦しむリーランドが光の中へ入っていけるように導いた。そこにはローラが待っており、リーランドはそこへ入っていったのだった。

ボブは人間の悪行の姿でありリーランドから離れどこかへ行ってしまったのだ。

クーパーの素晴らしい力が発揮される一話である。
悪魔に乗っ取られ地獄の苦しみを味わったリーランドがクーパーの導きで天国へと向かった。
だがなおもボブは存在しており、再び暴力が振るわれる予感がある。

ジェームズはドナを支える事もできず逃走。可哀想なドナである。

そういうシリアスな展開の脇で相変わらず妊娠問題で頭を悩ます、ルーシー、アンディ、ディック3人である。
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『サイコ』ヒッチコック版とガス・ヴァン・サント版を観比べる・その2

しつこいけど昨日の続き。といっても最後のほんの僅かだが。

ヒッチ版では子供部屋にあったレコードが『エロイカ(英雄)』だったのにサント版ではジョージ・ジョーンズ『The world needs a melody』になっている。監督の趣味がはいっているのかもしれないがカントリー・ミュージックの歌手で麻薬とアルコール中毒に溺れ精神的苦悩を味わった人であるようだ。子供部屋にあるレコードじゃないのかもしれない。

ライラが老女の正体を見た時、女装したノーマンがあのテーマ曲と共に入ってくる。襲い掛かるノーマンを押さえ込むサム。
ヒッチ版ではこの時のノーマンの表情が歪んでいて非常に怖い。
サント版はノーマンが大きすぎてサムの方が小柄なので抑えきれない。サムの手を逃れたノーマンをライラが蹴り飛ばすのだ。女性が強くなった事が判る。

最後のノーマンの謎解きの場面。ヒッチ版は説明をする医者が妙に気取っているように見える、というのは私の思い込みかもしれないが、何さか気に触る。サント版は普通に観れる。
ノーマンに警官が毛布を持っていく場面。ヒッチ版は戸口を開けてすぐ出てくるのだが、サント版では中に入って椅子に座ったノーマンに渡すシーンまである。どういう違いなのかよく判らない。

最後の最後。沼から車を引き出すシーン。ヒッチ版は車の御尻が出てきたところでEND。すっきりした感じがする。サント版は車がすっかり引き上げられ周りを警官がうろうろするのがタイトルロールのバックで流れる。

以上、まあ適当にヒッチコック版とサント版の違いを並べてみました。本当の違いは台詞にあるようで確かに時代が移れば古めかしい言葉遣いになってしまうから随分と違うだろうけど、その辺は私には判らないので省略した。

サント版も悪くないよ、と言いたくて始めたのだが結果ヒッチコックの大賛辞になってしまった。
しかたないかもしれない。
サントは自分の好きな映画をとり続けている人だと思うのだが、この映画もまた彼が大好きなものなのだろう。
メイキングを見ていてもいかにも楽しそうである。
古いものは廃れてしまうもので新しい人にこの名作を味わってもらう為にはその時代にあった作品を作らなければいけないという理屈もあるのだが、それ以上に監督自身が作りたくてしょうがなかったのではないか。
しかし同じ内容を何度も繰り返し観たのにこんなに飽きの来ない映画もそうないのかもしれない。楽しい体験だった。
ラベル:サスペンス
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2007年11月22日

『サイコ』ヒッチコック版とガス・ヴァン・サント版を観比べる

マニアでもあるまいし、片方だけ観ればいいや、と思っていたのにどうしても気になってオリジナルサイコを近くのレンタルショップから借りてきた(笑)オタクといわれてもしょうがない。
まあそんなに細かく観ていくわけではないがそっくりと言われるヒッチコック版とサント版を下心ありで検証していく。

まずはオープニング。聞いているだけでサスペンスが走る素晴らしい曲である。映像もストライプの交錯するデザインで名前の出し方もかっこいい。
これはカラーであるかという以外どちらも同じなのだが、最初に出てくる名前がオリジナルは「ヒッチコック」なのにサント版は映画会社であった。

冒頭俯瞰からビルへカメラがぐーっと近づく場面は技術が進んでいるのがわかる。
ビルの部屋でマリオンとサムが逢引している。サント版ではベッドインしててヒッチ版はすでに二人とも裸ではなくマリオンは起きているのだがなぜかヒッチ版のほうが色っぽい。しかしサントのほうはマリオンがすぐ服を着てしまうのにサムはいつまでも全裸(!)である。
昨日も書いたようにマリオンはヒッチのジャネット・リーも当時としてはショートヘアーではあるが女性的なのにサントのアン・へッシュは少年のような可愛らしい感じである。
マリオンが食べるはずだったサンドイッチ。サント版のみハエがたかる。これは最後の蝿のシーンにつながっているのだろうか。
進み方は同じくらいなのだけどサント版のほうが若干早いのがわかる。

モーテルに着きノーマン・ベイツの登場。その前にあの禍々しい自宅は印象が同じだが実は違うのであった。オリジナルの前に新しくべイツハウスの外観を建てたのである。
ノーマン・べイツ。サント版ヴォーンの大きな体は魅力的でアメリカ田舎らしい感じがするがさすがにアンソニー・パーキンスは素晴らしすぎて見直してみてもどうにも太刀打ちできない気がする。
スマートすぎる気もするが田舎にも繊細な人間がいていけないわけではない。最初の対応などはいい人そうで安心してしまう。ヴォーンの方は最初からちょっと嫌味で怪しい感じがしてしまう。
サント監督がパーキンスのイメージでやらなかったのは案外彼が好みのタイプではなかったんでは、と思うのだがどうだろう。
ノーマンの勧めで食事をするマリオン。アメリカ映画でいつもイライラするのだがどういうわけか食事をする、と言っておきながらちっとも物を食べないのである。他の国の映画ではむしゃむしゃもりもり食うシーンがあるのにどうしてアメリカ人は物を食べないのか。いつも食べ物は食欲がない、という演出のために使われる。通常はあんなに大量に食べているくせに不思議だ。
ここでもヒッチ版のマリオンは少しではあるがトーストを食べているのに、サント版マリオンは最初になにかちょこっとつまんだだけで肝腎のサンドイッチは手に持っただけで一口も食べない。主人の方も「どうぞ食べて」と言いそうなものなのに言わない。物を食べない、という点に関してはどうしてもアメリカ映画に反感を持ってしまう。あんなに長旅をしたんだから普通がつがつ食べるものだろう。
無論ここでマリオンはノーマンに気持ち悪さを感じ始めたので食べないのだ、という演出なのである。しかし食欲は抑えきれないと思うんだけどねえ。
食事もしないまま部屋へ戻ったマリオンの着替えをノーマンが隣の部屋の覗き穴から盗み見る。
ヒッチ版ノーマンはただ見るだけだがサント版ノーマンは覗きながら自慰をする(音がする)これはかなりの違いになっている。

問題の殺人場面。ここはどういうものか。じっと観てしまうからそう思うのか、随分印象が違う。
さすがにヒッチコック版は名場面として名高いだけに一つ一つのカットが物凄い緊張感を持っているのだ。
画面がなんだか変な気持ちになる奇妙な構図になっていて一体どうしてこう微妙なずれ方をするのかな、という不安定感がある。モノクロだからこそできる美しい画面なのかもしれないがそれだけではない。
人間のいる位置が真ん中ではなくちょっとずれている。そのずれ方が気持ち悪い。あの心に残る音楽と共に画面も不協和音を響かせている。
マリオンが刺されて壁をずり落ちる場面。サント版はマリオンが真ん中にいるのにヒッチのはやや右に寄っているのが印象的なのだ。画面を広く覆っている白いタイルが不気味に美しい。
最後のジャネット・リー=マリオンの死に顔ももぬけの殻になったような悲壮感がある。この場面、サント監督も随分時間をかけたそうなのだが、天才ヒッチの前にどうにもならなかったのかもしれない。
またその死に顔の後サント版は真直ぐ金を包んだ新聞紙にカメラが移動するのだがヒッチは一度シャワーから流れる水を映している。これも時間と空しさを表現していて物凄い。こうやって比較するとヒッチの名作たる所以がありありとわかってくるのだ。
そしてマリオンもろとも車を沼に沈める場面。モノクロの勝ちというか、白っぽい車が真っ黒な沼の中にゆっくりと沈むコントラストが不気味である。そしてそれを見守るパーキンスの笑顔もまた秀逸であった。
(掃除をするシーンはどことなくサント版もいい。なかなか血の色が落ちないもどかしさといった所が。これはカラーだから余計思うのか)

アーボガストが殺される第二の殺人シーンも他にないぞっとする光景である。
ノーマンの母親に会おうとしてこっそり階段を上るアーボガスト探偵。階段を上った所で俯瞰となり突如部屋から出てきた女性から刃物で切りつけられる。泳ぐようにして階段を落ちていく探偵。
ややシュールな映像なのだが、サント版では監督の思いつきというか短いカットで幾つかの心象風景のようなものが入る(これはシャワー殺人現場でも使われたが)

ノーマンが階段を上っていくシーン。なんこたないがすっとしたパーキンスの尻に比べヴォーンの尻は随分扇情的である。サントの目が感じられるなあ。
マリオンの姉(ヒッチ版ではライラが姉、サント版では妹になってる何故)が老女に会う為、ノーマンを引き止めるサム。ヒッチ版はただ引き止めてるだけだがサント版はなぜか色っぽいの止め方が。
あの入り口に両腕をかけるのってセクシーだよね。

いよいよ母親の正体を見てしまう場面。
まず子供部屋に行った時サント版では子供の声がこっそりと聞こえている。
ヒッチ版では「エロイカ(英雄)」のレコードがありタイトルのない本があったのが気になったが、サント版ではレコードタイトルが違っていて本は出て来なかった。
そしてライラが地下室で母親の後姿を見つける。サント版では鳥たちが賑やかに鳴いている地下室。ヒッチは狭くて寂しい地下室である。
母親に触るとなんとその正体は。
その時ノーマンが女装してかつらをつけてくる。パーキンスはむしろ男っぽい感じだがデカイからだのヴォーンの方が女っぽくなってる。かつらも薄い金色の長めのかつらで色っぽく見える。サント監督はこういうとこでもしっかり自分の好みで長めの金髪にしてる。っていうかこの場面を撮るためにここまで頑張ってきたのかもしれない。

今夜はここまで。また明日。
ラベル:サスペンス
posted by フェイユイ at 23:57| Comment(4) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月21日

『サイコ (1998)』ガス・ヴァン・サント

サント・サイコ.jpg

ヒッチコックのオリジナルと全く変わらないリメイク、と言われていて、一体何故そういうものを作ってしまったのか、リメイクってあまり好きではないし、と思いつつも気になって観てしまった。

まず思ったのはやはり面白い、ということ。大体脚本がよくてヒッチコックの演出を忠実に再現したのだから面白くないわけがない。悪くなりようがないほどきちんとリメイクされている。並べて観たわけではないが今年最初にオリジナルを観ていてさすがに記憶力の悪い私でも少しは覚えている。無論、そっくりそのままといわれるには小さな所は色々変わっているのも判る。
では何故これをリメイクしたのか、ということになるとまずすぐにはわからない。ボーナスとしてついていたメイキングを観ればガス・ヴァン・サント監督の気持ちが多少わかる。
映画会社はいつも企画としてリメイクをさせたがるのだが、どうせリメイクをやるなら聖域とされている名作をやりたかった、というもの。しかもこの作品は完璧で変えてしまう余地もない。それで誰も触れることのできないこの作品を自ら何の変更もせずリメイクしたということである。
この説明で頷ける人もいるだろうし、ますます困惑し納得できない人もいるだろう。
名作とはリメイクされていくものでまた3百年後にリメイクされるだろう。そのうちの一つであるということらしい。
とりあえず非常に面白く観れたし、ガス・ヴァン・サントだからこそ、と思える部分もあった。

オリジナル『サイコ』の感想記事は『変態村』と比較しつつ書いている。というのは『変態村』の方は『サイコ』の設定を大いに利用しながら新たな物語にしている作品だからである。あちらはリメイクといわれる範疇ではなくリスペクトして作り出した、という作品だろう。
『変態村』を観る時も『サイコ』が頭に入っていれば随分また面白みが加わるのではないかと思う。

そっくりとはいえ絶対違うのは役者である。
一番の違いは何と言ってもアンソニー・パーキンスが演じたモーテルの管理人である。パーキンスは内向的なイメージのあるほっそりとした知的な青年が怖ろしい本質を持つという役でこれ以上ないほどの印象を残している。
『サイコ』イコールパーキンスなわけで彼に代わる役をどう表すのか、これもそっくりなのか、と思いきや登場したのは体の大きな短髪の男で繊細なオリジナルと大きく変わっている。
だが、アメリカの田舎町に住む男としてはむしろこちらのイメージの方がぴったりなのかもしれない。女だけでなく男も刺し殺し、その死体を抱えて葬るにはこの体の主のほうが頷ける。

『サイコ』という作品は殺人者がマザコンであり女装癖があり内向的でホモセクシュアルな雰囲気がひそかに感じられるものだが脚本家の方は「後からそういうことを指摘されたが当時は匂わせる程度でそういうことは描けなかったのだ」とメイキングで言われていてなるほど、と思った。サント監督ならそういう嗜好を強く出すこともできたのだろうがあえてそのまま撮ったのはやはりオリジナルに対する尊敬なのだろうか。(『変態村』ではその部分が強烈に描かれているが)
とはいえ、サント・リメイク『サイコ』ではどうしてもサントの作品だという意識が働いてそういう目で観てしまう。
殺されてしまう女性を演じたアン・ヘッシュは金色の髪がとても短くスレンダーで胸も小さいのでまるで少年のようである。
ヴィンス・ヴォーンは大柄な体が却ってゲイ的に感じられるし金髪のかつらをかぶって女装するのはどうもサント監督の趣味としか思えない。こういう下賤な目で観てはいけないのかもしれないが、最初からそのつもりで観ていたのでしょうがない。
ヴィゴ・モーテンセンは「ディラン&キャサリン」のディランのように見えておかしくてしょうがなかった。これは別にサント監督のでいではない。

このDVDに関してはメイキングが非常に面白かったのではないだろうか。メイキングで納得されられていいのかどうかわからないが、オリジナルに対する尊敬とスタッフの情熱が伝わってきて楽しかった。
リメイクに反感を持っていた自分だが、こういう気持ちのものなら作られていいのではないか、と思わされたメイキングであった。

監督:ガス・ヴァン・サント 撮影:クリストファー・ドイル 出演:ヴィンス・ヴォーン アン・ヘッシュ ジュリアン・ムーア ヴィゴ・モーテンセン ウィリアム・H・メイシー ロバート・フォスター
1998年アメリカ
ラベル:犯罪 サスペンス
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2007年11月20日

『夜叉ケ池』三池崇史

yasha02.jpg夜叉ヶ池2.jpg

DVDであるとはいえ、芝居というのはどうしてこう面白いものなのだろう。同じ空間でさほどの背景があるわけでもなく幾人かの人間が出たり入ったりして台詞を語るだけなのに、情景が見えてくるのはどういうことなんだろう。これを映画として場所を選びCGなど駆使して作り上げたならここまで豊かに感じることはできないのだろうが。

武田真治、田畑智子、松田龍平、松雪泰子という若い役者たちがメインの芝居ではあるがなかなか面白かった。特に武田真治はぞくりとするような色っぽさがあって一つ一つの動作から目が離せないのだ。
松田龍平も独特の台詞回しが面白く味わいのある演技をしている。
田畑智子が絶世の美女と思しき若妻・百合を演じているのも面白いし、松雪泰子が魔物の世界の姫君・白雪というはまり役である。
また丹波哲郎、萩原聖人、遠藤憲一、きたろうといった個性派が脇をしめる。
丹波哲郎氏は黄泉の国から現れいでたるという雰囲気でまさにぴたり。伝説の鐘を撞き続けてついに命尽きる老人と魔物姫の乳母役であるが声がやはり素晴らしい。
きたろう氏は姫の恋人の手紙を運ぶエロくて情けない坊主役と百合の叔父でなんとも性根の腐った男役。彼がこの劇の一番の悪役であり重要なのだがさすがに巧い。
萩原聖人と遠藤憲一の二人組みがおかしくて、姫にいれこんでいる鯉(萩原)とその彼をひそかに愛している蟹(エンケンさん)という設定なのである。
全体にギャグやら駄洒落やらがちりばめられていて飽きないし、それがまたちょっと色っぽくておかしいのだ。
かと思うと人間と魔物の間の約束が断ち切ることができない悲しさや苦しみ。二組の恋人達の深い愛が激しい口調で語られて感動させてくれる。

泉鏡花原作の芝居ということで様々な組み合わせで映画化・舞台化されているのではあろうが、演出が三池崇史、脚本に長塚圭史。そして武田真治と松田龍平の共演というこの作品の魅力はちょっと他に変えられない。
武田真治の作品をそれほど観ているわけではないが、とても好きである。なんだかちょっと腐った感じのするところが素敵なのだ。

演出:三池崇史 脚本:長塚圭史 美術:会田誠 原作:泉鏡花
出演:武田真治 田畑智子 松田龍平 松雪泰子
2004年日本
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2007年11月19日

『Helpless』青山真治

Helpless.jpg

一体どうしたんだろう。同じ所をぐるぐる回っているようだ。
本当にこの映画が何なのか、監督のこともまったく知らず観たのだが、主人公ケンジがニルヴァーナの「泳ぐベイビー」のTシャツを着ているし、浅野忠信と光石研がヤクザで共演。ストーリーはまた淡々としたロードムービーで死が目の前にある。

なんだか巡り会わせがそういう時期なのだろうか。わざと選んでいるとしか思えないが適当に気になったタイトルを選んでいるだけなのだが。

それはそれとして、これもまた非常に気になる作品であった。わずか80分あまりの長さだが、それ以上に長い必要はまったくない。
ここでは昨日と逆で(というわけではないが)光石研が悩みながら彷徨うヤクザになっている。『インビジブルウェーブ』より10年前の浅野・光石共演作品である。

出所したばかりのヤスオ(光石)は組がなくなり親父さんも死んだと聞いても信じることが出来ない。自分を使い捨てたヤクザの親父と兄貴分を許すことができず苛立っている。しかも彼は片腕を失ってしまったのだ。
高校生のケンジはそんなヤスオの頭の弱い妹を預かりバイクを走らせる。
仲間同士では優しく話しかけている彼らだが一旦切れると抑えが利かなくなってしまう。そのギャップが激しくて戸惑ってしまうほどだ。浅野はここでもおっとりとした性格のようでいて癇に障ると怖ろしいほどの暴力をふるってしまう。ヤスオもまた同じで穏やかのようでいて瞬間に爆発してしまうのだ。
それは警察や友人や店員たちのちょっとした一言が引き金になっている。別人のように拳を振りかざし銃を発砲し命を奪う。(その友人や店員もいきなり暴力を振るってくる)
それでいて妹の命を奪おうとすることにはまた激しく怒るのだ。そこには彼らだけの法則が働いている。優しさと暴力と。

舞台が北九州であり言葉も方言が使われている。私自身福岡県在住なのである程度の雰囲気が伝わるのだが、同じように都市といわれながら明るく華やかな福岡市と違い北九州は独特のほの暗い雰囲気を持っている。かつて栄えた街が次第に寂れていく悲しさがある街だ。言葉も荒っぽい。映画の舞台としては福岡市よりずっと興味が持てる雰囲気がある。イギリス映画の古びた地方都市のような重苦しいイメージだ。
浅野もそれらしくかなり荒々しい言葉を使っているが九州弁としては当たり前、といった感じなのだ。

街そのもののように暗く沈んでいるのに彼らの奥には隠された火がちらちらと燃えている。
その火はいつ噴出すのか判らない。
頭の弱い妹ユリだけは終始変わらずウサギの心配をしている。
それまで好意を持っていたヤスオが妹を撃とうとした時ケンジはその身勝手さを罵る。
だがヤスオから預かった鞄の中身が「Help me」と書かれた彼の腕だったのを見る。
ケンジはウサギを探すユリを守るように歩き続ける。ヤスオだろうか、袖を翻して車が走り去っていく。

皆、意地をはっているが心の中では「助けて」と呼んでいる。しかし店員も虐められっこの友人も自殺する父親も親父さんを殺したいと叫ぶヤスオも助けられる事はないのだ。
そしてケンジ自身も。

ただケンジがユリを助けたいと思いバイクを走らせる場面は心が疼く。助けて欲しい、と求めるのではなく助けてあげたいと願う、というひたむきな意志のあるこの作品であった。

というわけで『ラストデイズ』『インビジブルウェーブ』と似通いつつもそのテーマはかなり違うものである。
他の二つと比較にならないほど暴力的でありながら最も希望に満ちている、というのも不思議なことである。

監督:青山真治 出演:浅野忠信 光石研 辻香織里 斉藤陽一郎 永澤俊矢 伊佐山ひろ子 諏訪太朗
1996年日本

私はバイクを走らせる場面がある映画に酷く弱い。しかもギターの音色が被さってきたら。
ケンジとユリの関係の描き方も好きであった。
男女が出てくるからと言ってすべて恋愛に結び付けなくてもいいのだである。
ラベル:死  暴力
posted by フェイユイ at 22:50| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月18日

『インビジブル・ウェーブ』ペンエーグ・ラッタナルアーン

invisible-vcd-hk.jpgInvisible Waves.jpgインビジブルウェーブ.jpg
Invisible Waves

とても不思議な味わいのある映画でクリストファー・ドイルの映像とも相まって楽しめた。

粗筋だけを言ってしまえば不倫と殺人と復讐でさほど面白みもない気がするが、なぜか展開は思ったとおりにはいかなくて妙な具合にばかりなっていく。
香港でボスの妻と不倫関係にありながら殺害命令を受け、タイ・プーケットへ逃亡する日本人キョウジ。タイへ向かう船の自室が情けなく酷くて灯りは点いたり消えたり、シャワーから突然水が噴射したり、それまでが思い切りシリアスだったのでおかしくて噴出してしまった。演じている浅野忠信はいつもどおり力の抜け切った自然な演技で一体演技なのか地なのか判らないくらいである。ここまで力の抜けた話し方をする人もあまりいない気がする。
部屋は轟音が響くので耳栓が絶対不可欠。空気孔からはもうもうと煙が入ってくる。しかも中にいるのに何者かに部屋の鍵をかけられ外に出られなくなってしまう。
すべてが淡々と静かに進んでいくのだが、一体何なのか、誰の仕業なのか判らない。

謎の坊さんに香港人エリック・ツァン、旅の途中で出会う赤ん坊連れの若い女性に韓国人カン・へギョン。タイで助っ人として現れる日本人に光石研という多国籍映画。

浅野の独特のおかし味のある演技と光石研のうるさいけどなんだか悲しさがある佇まいを楽しむ。
同監督の『地球で最後のふたり』でも主人公の男(浅野忠信)は自殺志願であったのだが、本作でも主人公は最後に「本当に死ぬべきはどちらか」と考え自らの死を許容してしまうのだ。
正直そういう考え方は素直に頷けないのだが、仏教的自己犠牲がこういう形で表現されているのかもしれない。

そういえば昨日記事を書いたガス・ヴァン・サント『ラストデイズ』とイメージとしては殆ど同じ映画である。
ここでも主人公は生きていても死んでいるようなものであった。ずっと顔色が悪く人との会話がうまくいっていない。なぜかぼんやりとした意識のまま延々と彷徨い続ける。片方は川へ入り、こちらは海である。ここでも死を目前にした水の儀式があるわけだ。一体何故死の前には水にはいるんだろう?
死を前にしても「生きていたい」という渇望がない。
期せずして同じテーマの映画を続けて観てしまったようだ。好きではない、などと言いながらやはり自分はどこか「死」というものを考えたいという気持ちがあるからなんだろう。
本作は『ラストデイズ』よりユーモアもアクションもあるのだが(『ラストデイズ』も結構おかしかったけど)物語性がいくらかこちらがあるので主人公への悲しさもより伝わりやすいのではないだろうか。
奇妙に面白い体験であった。

監督:ペンエーグ・ラッタナルアーン 撮影:クリストファー・ドイル 出演:浅野忠信 カン・ヘジョン エリック・ツァン 光石研 マリア・コルデーロ
2006年 / タイ/オランダ/香港/韓国



ラベル:
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2007年11月17日

『ラストデイズ』ガス・ヴァン・サント

ラストデイズ3.jpgラストデイズ2.jpg

これもまたどうにも好きになってしまう映画だった。
テーマもイメージも作り方も『ジェリー』を思わせる。

最後にサント監督が「カート・コバーンの最後の数日間に想を得た架空の物語だ」と書いているが、無論ファンでそういう映画だと聞いて観たならば様々な感慨を持つのであろう。
だが私は申し訳ないがカート・コバーンも彼のバンドである「ニルヴァーナ」も知らなかったので純粋に映画作品として観ていた。なので感想もそういう者の意見である。先日観た「ブライアン・ジョーンズ」と同じような立場だ。

『ラストデイズ』というタイトルから最後の数日を描いた作品だということはすでに判るわけだが、冒頭主人公ブレイクが服を脱いで冷たそうな川の中に入る場面からもう彼がこの世からいなくなってしまうことを予感させる。
川は死の国へと渡るためのものだし、水の中へ入ることは身を清めることになる。『僕を葬る』でも『イノセント・ラブ』でも死の前には水の風景が入ってくるものだが、本作では冒頭からもう彼は水の中に入ってしまう。
どこからか響いてくる鐘の音も聖歌隊の歌声のような声も彼の死を暗示させる。
彼は薬をやっていて病院に入れられたのを抜け出してきているようなのだが、もう言葉も巧く話せず存在自体いないようなものだ。体はまだこの世にあるがもう精神は遠い世界へ行きかけている。
彼の名前も象徴的だ。ブレイクといえばウィリアム・ブレイクを思い出してしまうが、多くのアーティストに多大な影響を与えた詩人であり画家であるブレイクの名をこの主人公につけているのではないだろうか。というのはサント監督は他の出演者には役名をそのままルーカス=ルークという風に被せているのに彼だけは違う名前にしている。何らかの意味があったには違いない。
『天国と地獄』『無垢のうた』『病める薔薇』『迷子になった女の子』『神曲』『最後の審判』などといったブレイクの作品から連想されるテーマが本作の中に様々に表現されているような気がする。
ビートの詩人アレン・ギンズバーグがウィリアム・バロウズの本棚で彼の名を知ったというのもサントの作品と関係がありそうだ。カート自身もバロウズに傾倒していたらしいし。
余談だが、ケン・ローチ監督『麦の穂を揺らす風 』で、主人公が入れられた牢獄の壁に「愛の園」(詩集『無垢と経験のうた』の「経験の歌」のなかの短詩)の一節が刻まれていたらしい。
またブレイクを題材にしたSF『ブレイクの歴程』では彼の異次元と異空間の探索が描かれているというのも本作を連想させる。

まったくサント監督の作品というのは名前や映像から色々な想像を喚起させてくれてあきない。
時間はゆっくりと流れ、カメラはあまり近づかず、激しく動き出す事はあまりないのだが観ている間、どきどきとしてしまう。

『ジェリー』はまだ死ぬ前の世界のようで乾ききって暑く水もなく荒れ果て酷く苦しかったのだが、ここでの世界は彼のバンドの名・ニルヴァーナの如く緑滴る美しい自然の中である。
美しい風景の中を朦朧として彷徨うブレイクはもうあまり辛そうにも見えない。ただ現実の人間と話す時だけは引き戻されるようで苦しそうに逃げてしまう。彼はもう向こうの世界へ行ってしまっているのだ。
『ジェリー』と同じように焚き火にあたるシーンもあって面白かった。焚き火にあたる、というのも何か意味があるのだろうか。

ブレイクはまだ肉体がこの世に留まっているためにかれは自分自身の体を切り離さなければならない。
小さな小屋の中で横たわった彼の体から裸になったブレイクが天上へと昇る姿が見える。梯子をよじ登っていってるようで不思議な光景だ。

劇中、ブレイク役のマイケル・ピットが歌をうたう。ギターの音色が悲しく胸を刺す。彼自身が作った歌らしい。だが非常にこの映画に合ったしかも凄く心に響く歌である。
歌詞がとても面白くて笑いたくなってしまったがこれは年をとったからであろう。
実が熟して腐るのが人生に似ている、というのが悲しくおかしいのだ。その後矛盾した比喩が続き人生のわけのわからなさを物語っている。死から誕生までの長く孤独な旅、というのも泣かせる(笑わせる)
馬鹿にしてるわけではなく人生というのは涙と笑いの両面が常にあると感じられるのだ。

かくして若い詩人は死へと旅立ってしまった。彼の死に対しては諸説があるようだが(この辺もブライアン・ジョーンズのような)本作ではそこには立ち入っていない。
生と死の境を彷徨う歌い人の姿が映されているだけだ。

ブレイクを演じたマイケル・ピット。金色の長い前髪が美しい。いかにもサント監督が好きそうな金髪美少年である。
加えて音楽の才能もあり彼のギターと歌は凄く素敵であった。
彼の顔は私としてはあまり好みではないのだが(口が小さいのがどうも。私は凄く大きな口が好きなのだ、ギャスパー・ウリエルの裂けてるみたいな口とか)からだの線とか佇まいとか前髪は綺麗で見惚れた。殆どアップはなくて遠目が多いので大変美しい人だと思えた。冒頭の濡れた尻も素敵であった。
とがいえ、彼を観てたらまた『ヘドウィグ』を観たくなってきた。近々観よう。(宝物DVDなのだ)

監督:ガス・ヴァン・サント 出演:マイケル・ピット ルーカス・ハース アーシア・アルジェント ハーモニー・コリン キム・ゴードン
2005年アメリカ
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チャウ・シンチー、実写版『ドラゴンボール』の監督断る

チャウ・シンチー、実写版『ドラゴンボール』の監督断る

ありがとう!チャウ・シンチー!!私もエディソンで観たかったよ(涙)
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2007年11月16日

『ツイン・ピークス』シーズン 2 Vol.3 第15章デヴィッド・リンチ

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ついにローラを殺害したのが誰だったのかがわかった。そしてボブが宿ったのが誰だったのか。

鏡にその姿が映る、という演出が怖い。

リーランドが妻の注文を快く引き受けながらゴルフバッグにマデリーンの遺体を切り分けて詰め込んでいるのがちらりと映る。
すべてが何気ない調子で進むのである。
ホテルで踊っているリーランドにハリーは「ローラ殺害の容疑でベンを逮捕した」と伝える。驚き嘆くリーランド。リーランドはベンの弁護士なのだ。ハリーとクーパーから離れて泣き出すリーランド。だがその顔は実は笑っていたのだった。
欲望を満足させ、容疑はベンにかけられ、上機嫌のリーランドはいい気になって車を蛇行運転させハリーとクーパーに止められてしまうがもう少しというところでクーパーはリーランドの鞄を見ないまま去っていく。この辺はむしろ明るくさらりと映されているだけに余計怖いのだ。マデリーンの霊が「助けて」と呼んでいるような気さえする

ダブルRにノーマの母親がやってきた。どうやら彼女たちは折り合いがよくないらしい。ノーマのやる事すべてに文句をつけるという母親。意地が悪い。
しかも母親は再婚した夫を連れてグレートノーザンに泊まっているという。心穏やかでいられないノーマ。
だが母親はノーマとハンクを夕食に誘うのだった。

ベン・ホーンと弟ジェレミー、兄弟萌えというのがあるが彼らには絶対感じないであろうなー。感じる人がいたら怖い。というか凄い。
ベンがローラ殺しと疑われ拘留されたところへ一応弁護士の勉強をした弟駆けつけ、檻の中の2段ベッドを見て昔を思い出す。仲がよいといえばそうなんだがなー。

拘留されたベンのもとにピートがやって来る。死んだはずのキャサリンの言葉をテープに吹き込みベンに聞かせたのだ。
実はローラが殺された晩、ベンはキャサリンと一緒にいたのだ。キャサリンだけがベンのアリバイを知る人間なのだった。死んだものと思っていたベンはテープを手に入れようともがく。だがキャサリンはアリバイを証言する代わりに製材所を返すようベンに持ちかけるのだった。

ジョシーが去って苛立ち気味のハリーはいつもなら冷静なのにベン・ホーンを起訴した。クーパーが「勇み足だった。彼は犯人ではない」と言っても今回は「君の夢の話を信じているわけにはいかない」と荒れ気味だ。やはりジョシーを失った心の痛手が影響しているのだろう。さすがにクーパーはあっさり折れてハリーの意見を聞き入れた。

ノーマたちはグレートノーザンで夕食。ノーマと母が席を立った隙にハンクは義母の新しい夫の肩を抱いた。その男はハンクの刑務所仲間だったのだ。・・・一体どこまでこじれた関係やら。

ホテルの自室でダイアンに連絡していたクーパーをオードリーが訪ねて来た。父親に愛して欲しかったのだと言う。
そこへ電話がはいった。クーパーはオードリーに部屋に戻るよう言いつけ急いで部屋を出た。

クーパー、ハリーが連絡を受け現場へ駆けつけるとそこにはマデリーンの遺体がローラの時のようにビニールシートに入れられていたのだった。

出演:カイル・マクラクラン Kyle MacLachlan( デイル・クーパー)
マイケル・オントキーン Michael Ontkean( ハリー・S・トルーマン)
ジョアン・チェン Joan Chen( ジョスリン・“ジョシー”・パッカード)
パイパー・ローリー Piper Laurie( キャサリン・マーテル)
シェリル・リー Sheryl Lee( ローラ・パーマー/マデリーン・ファーガソン)
シェリリン・フェン Sherilyn Fenn( オードリー・ホーン)
ダナ・アッシュブルック Dana Ashbrook( ボビー・ブリッグス)
ジェームズ・マーシャル James Marshall( ジェームズ・ハーレイ)
ララ・フリン・ボイル Lara Flynn Boyle( ドナ・ヘイワード)
メッチェン・エイミック Madchen Amick( シェリー・ジョンソン)
リチャード・ベイマー Richard Beymer( ベンジャミン・ホーン)
ペギー・リプトン Peggy Lipton( ノーマ・ジェニングス)
ジャック・ナンス Jack Nance( ピート・マーテル)
キミー・ロバートソン Kimmy Robertson( ルーシー・モラン)
エリック・ダレー Eric Da Re( レオ・ジョンソン)
エベレット・マッギル Everett McGill( ビッグ・エド・ハーレイ)
レイ・ワイズ Ray Wise( リーランド・パーマー)
ウォーレン・フロスト Warren Frost( Dr. ウィリアム・ヘイワード)
グレイス・ザブリスキー Grace Zabriskie( サラ・パーマー)
ドン・S・デイビス Don S. Davis( ガーランド・ブリッグス)
シャーロット・スチュワート Charlotte Stewart( ベティ・ブリッグス)
ラス・タンブリン Russ Tamblyn( Dr. ローレンス・ジャコビー)
ハリー・ゴアス Harry Goaz( アンディ・ブレナン)
マイケル・ホース Michael Horse( トミー・ホーク・ヒル)
キャサリン・E・コウルソン Catherine E. Coulson( 丸太おばさん)
メアリー・ジョー・デシャネル Mary Jo Deschanel( エイリーン・ヘイワード)
フィービー・オーガスティン Phoebe Augustine( ロネット・ポラスキー)
ミゲル・ファーラー Miguel Ferrer( アルバート・ローゼンフィールド)
ウェンディ・ロビー Wendy Robie( ネイディーン・ハーレイ)
ゲイリー・ハーシュバーガー Gary Hershberger( マイク・ネルソン)
クリス・マルケイ Chris Mulkey( ハンク・ジェニングス)
アル・ストロベル Al Strobel( 片腕の男)
デビッド・パトリック・ケリー David Patrick Kelly( ジェリー・ホーン)
ウォルター・オルケウィック Walter Olkewicz( ジャック・ルノー)
ビクトリア・ケイトリン Victoria Catlin( ブラッキー・オライリー)
マイケル・J・アンダーソン Michael J. Anderson( 小人)
カレル・ストリッケン Carel Struycken( 巨人)
モリー・シャノン Molly Shannon
ビリー・ゼイン Billy Zane
posted by フェイユイ at 21:11| Comment(0) | TrackBack(0) | ツイン・ピークス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ドラマ『始皇帝暗殺 荊軻(けいか)』 本日より「ライブ台湾on goo」で配信スタート!

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ドラマ『始皇帝暗殺 荊軻(けいか)』 本日より「ライブ台湾on goo」で配信スタート!

リウ・イエとピーター・ホーが出演。うむむ、観たい。観たいがドラマは大変だからなあああ。
posted by フェイユイ at 16:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月15日

この世で最もセクシーな男性はマット・デイモン=米ピープル誌

マット・セクシー.jpg

この世で最もセクシーな男性はマット・デイモン=米ピープル誌

「少々ゆがんだ笑顔」というのがツボでついアップしてしまいました(笑)
しかしファンなのにこういっちゃなんだけどそうなんだあ驚き。
日本ではそうでもないような・・・今は結構人気上昇中なのかな?

去年はジョージ・クルーニーだったそうでこれは納得ですがセクシーじゃない所がセクシーというのがマットの魅力かも(なんなんだ)
年を重ねるごとに素敵になっていってるってことでしょうか。
「人をひきつけてやまないユーモアのセンス、心を和ませる謙虚な姿勢、家庭人としての磐石の地位などによって、デイモンは賞を受けてしかるべき人間だ」という賛辞です。セクシーってそういうことだったのね。男の色気むんむん、じゃないのだね。

ベン・アフレックも選ばれているそうなのでセクシー部門でも仲のよいことで喜ばしい。
マット自身はナショナル・フットボールリーグ(NFL)ペイトリオッツのスター選手、トム・ブレイディの方がふさわしいと謙虚に言ってるようですが。その辺もマットらしい。
posted by フェイユイ at 23:06| Comment(4) | TrackBack(1) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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