映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2007年11月15日

『ドラッグストア・カウボーイ』ガス・ヴァン・サント

ドラッグストア・カウボーイ.jpg
DRUGSTORE COWBOY

しょっぱなからマット・ディロンが救急車で運ばれて死にそうな顔なのでもうラストが見えたようで驚いたがこれはなかなか面白い作品だった。大好きな移動シーンも堪能できた。いつ観ても彼の動く風景は素敵だ。

ガス・ヴァン・サントの35ミリデビューということだが物凄い山場とかいうことでなしに淡々と進んでいく感じはいつもどおり。
マット・ディロン演じるボブは重度の麻薬中毒で恋人ダイアンもしかり。仲間のリックとナディーンを牛耳っている。
ボブのダイアンへの愛情と信頼を感じる。だが肉体的接触は僅かなキスだけだった。中毒のせいなのか、男女間の恋愛なので接触場面は無視されたのか。だがそれでもボブとダイアンの関係が結構好きだった。
麻薬なしでは生きていけない彼らにはそれなりの生き方とやってはいけないことがある。
思い切り迷信とジンクスを信じているのもおかしい。ベッドにハットを置いてはいけない、というのは『すべての美しい馬』で観て気にしていたその彼はやはり悲劇が待ち受けていた。
自分などさっと思いつくジンクスもないので几帳面に気にしている彼らに感心してしまう。すぐ忘れてしまうのだ。

盗みを繰り返しては麻薬を切らさないように必死の努力を惜しまない彼らの青春というのは大人になって観てみれば若い時をそんなことに費やしてもったいないと思えてしまう(年取ってからでもいいんじゃないか)と思えば筋金入りの麻薬中毒者である老神父(なんとこのかた、あのウィリアム・S・バロウズ)も登場してくるが。
親からも見放され麻薬を打ちながら旅を続ける彼らのような生き方に酷く興味をもってそういう類の本ばかり読んでいた時期もあった。
それでも自分では怖ろしくて一度も麻薬を使用してみたい、とは思わなかった。読めば読むほど、彼らの快楽を知るほど引きずり込まれる恐怖の方が勝っていった。それでもそういう小説を読みたくなる気持ちは強かったのだ。

恐怖というのはなんだろう。人生の喪失感。なにもかも失い思考も生活も滞ってしまう。
そういうものすべてを犠牲にしてもいい、というのは何もかも価値がなくなってしまわなければそこへは入り込めないのではないか。

だがここでの主人公ボブは仲間の死により生きる事を選ぶ。彼女を埋葬しながら「このまま警察に見つかる事もなく死体を埋めることができたら、更生します」と誓いながら。
だが恋人ダイアンはボブと別れなおも麻薬の道を辿っていくのだ。彼女がどこまでその道を進むのか。どこかでその道は途切れてしまうのは間違いないのだけど。

最初悲しい結末を予感させたが、生きているだけでよかった、と思わせてくれる最後であった。
人生は判らないけど、生きていたいと思いたい。

破滅型であるがボブの恋人ダイアン役のケリー・リンチがめちゃかっこいい。佇まいというか煙草を持つ手が、というか。彼女を観てたら自分もやりたくなってしまわないか、ちと不安ではある。

マット・ディロン。何と言っても昔ヤングアダルトというスター達の一番格であった。あまり好きと思ったことがなかったが(私はラルフ・マッチオが好きだった)本作はとてもいい感じであった。年を取ってからの方がよくなっていったような気がする。

リック役ジェームズ・レマー。あまり目立ってはいなかったがお馬鹿なカワイコちゃんナディーンを愛する心は持っていた。最後に出世した。

おつむが弱くて失敗ばかりの可愛い女の子ナディーンにヘザー・グラハム。その後結構色んな役で活躍中。『ツイン・ピークス』にも登場。本作にはジンクスに逆らってはいけないという見本で出演。

ジャンキー神父にウィリアム・S・バロウズ。神父でジャンキーというのが凄い。そのカリスマ(?)に敬意を表しての役柄か。麻薬の話に興味を持った者ならその名を聞いていないことはないだろう。ここでは死ぬまでヤクは止めないようだ。

監督:ガス・ヴァン・サント 出演:マット・ディロン ケリー・リンチ ジェームズ・レマー ジェームズ・ルグロス ヘザー・グラハム ウィリアム・バロウズ
1989年アメリカ


ラベル:青春 麻薬
posted by フェイユイ at 22:03| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『花蓮の夏』予告編

今更ですが『花蓮の夏』予告編が観れるのでどうぞ。

映画『花蓮の夏』 11月10日(土)よりユーロスペースほか全国順次ロードショー!
ラベル:張孝全
posted by フェイユイ at 18:03| Comment(4) | TrackBack(0) | 張孝全 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月14日

『ゾディアック』アレクサンダー・バークレー

ゾディアックcc.jpg
THE ZODIAC

もう一つのゾディアック映画である。監督はアレクサンダー・バークレー。2005年製作となっているので2006年のフィンチャー作品より少し早いわけだ。かなりの長時間(157分)だったフィンチャー作に比べかなり短い92分となっている。制作費は見るからにかなり低いものであることがわかる。殆どテレビドラマのようですらある。

だがしかしこれがなかなか面白かった。むしろこちらの方が『ゾディアックを扱った作品』としてはまとまっていたのではないか、とすら思える。

フィンチャー作品では感じなかったのだが本作は低予算のために画像が荒い分、現場辺りの田舎っぽさがよく出ていて物悲しく感じるのが却ってよい。新聞社もしょぼくて親しみが持てる。
まあ、自分はバレーホという場所を知っているわけではないからどちらが正しいかなどは言えないが、田舎町の凶悪犯罪という雰囲気はこちらの方が伝わってきたように思える。それこそポン・ジュノ『殺人の追憶』のアメリカ版的雰囲気は本作に感じたものである。(と言ってもどちらの『ゾディアック』もあれほど面白くはない。まったく『殺人の追憶』というのは他にない傑作だと思う)
制作費というのはあまりかかってないほうが結構面白い映画ができてしまう気がするのだがどうだろうか。

無論フィンチャーも楽しませてもらったのでいけないことはないのだが、こちらの時間と出来ばえでも十分面白いしそんなに物凄い差があっただろうか、とさえ思ってしまうのである。
あちらはグレイスミス氏の原作があり、こちらは多分そういうものがないと思うのだが同じ事件を同じように扱っていてもこのように脚本と演出で違ってくるのが興味深い。
その上、時折時事ネタを入れてその時代に何が起きていたかを知らせてくれる。

あちらでは様々な登場人物が事件によって苦悩し道をはずしていく様が描かれているようにここでは主役の警視が家庭を犠牲にしていく。その様子はグレイスミスが人のいい感じであったのに対しかなり落ち込むものであった。しかもあちらは結果的に大金を手にするが本作での警視は叱責を受けておしまいという悲惨さである。

結末に変わりはないので無論未解決のままなのだが、事件の出し方、道のりは随分違う印象がある。
殺人場面は残酷性を抑えていたのにこちらの方が怖いようであった。特に暗闇でなぜ正確に射殺できたのかという答えなど不気味なものがある。

逐一比較して本作の方がよかった、といい続けていてもしょうがないが結局映画の一般評価の差というのは制作費と宣伝費の違いなのだなと改めて納得したのである。
気になったのは警視の息子があまりにも意味ありげなので事件を解決してしまうのか?と思えてしまったことだ(まさか!)
資料を集め、小さいながらに「犯人はやって来たのではなくずっとここにいたのかもしれない」などと言ったりする。
凄くパパ思いなのにパパはあまり気づいていなくてかわいそうである。もう少しこの子の視点で描けたらもっとよかったのかもしれない。
グレイスミスは我が子をバスに乗せなかったのにこの子はバスに乗らなければいけなかった。ぞっとする場面だ。

監督:アレクサンダー・バークレー 出演:ジャスティン・チェンバース ロビン・タネイ ロリー・カルキン ウィリアム・メイポーザー ブラッド・ウィリアム・ヘンケ フィリップ・ベイカー・ホール
2005年アメリカ
ラベル:犯罪
posted by フェイユイ at 21:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月13日

ついに到着『我很忙』

私は忙しい.jpg

ようやく我が家に到着しました『我很忙』CD+DVDカレンダー付きですが、なぜか一緒に頼んだはずのポスターが届かない。どうしてだー。

とりあえずDVDを観る。『牛仔很忙』もうYouTubeですでに観てるがやはりこれはよい。映像も音楽も楽しくて何度もリピートしたくなる。
もう一つのMVは『我不配』ジェイの実体験を映像化したような作品。どちらもジェイ自身の監督作品でMVも自分でやってしまうほんとに忙しいことでしょう。

さてCDですがこれは毎日ヘビロテで聞いていきますので感想はまた後で。
短いけどまずはご報告まで(笑)
posted by フェイユイ at 20:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「英語でしゃべらナイト」マット・デイモンインタビュー

昨夜のNHK「英語でしゃべらナイト」見ました。主にマット・デイモン出演部分だけですが。
工藤静香さんが英語がうまいのに驚いた後、渡邉邦門さんの英語によるマット・デイモンインタビュー。
若手俳優に対してアドヴァイスを求めました。マットの答えは「俳優になるのをやめたほうがいい」というもの。
驚いて聞き返した渡邉さんにマットは続けて「こう言われてすぐやめてしまうのでは役者にはなれない。僕も若い時、そう言われたんだ「難しい職業だからやめた方がいい」って。でも絶対やめなかった」
なるほどー。素晴らしい答えでした。
思えばマットは「グッドウィルハンティング」で華々しいデビューをしたわけですが若いときにあまりにも凄い目立ち方をしたためにその後の活動はむしろ地味だったのかもしれませんねー。私はむしろその地味さが好きなんですが。雑誌で見たインタビューで「『バガー・ヴァンス』『すべての美しい馬』が続けてこけて『ボーン』第1作も危ぶまれていたんだ」というようなことを答えていました。特に『すべての美しい馬』が好きな私としてはエー?という感じですがそういう危機もあったのですね。ところがそのボーンシリーズがマットをまた有名にしてしまうのだからわからないものです。
若い時、だけではなくずっとこの言葉と戦い続けなければいけないのでしょう。これマットのような俳優というだけでなくみんなが色んな意味で考えることでは考えることではないでしょうか。
posted by フェイユイ at 09:21| Comment(4) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月12日

『盛夏光年〜花蓮の夏〜』またもう一度

守恆.jpg正行.jpg正行と守恆.bmp

阿信の主題歌を聞きなおしたりMVを観たりしてもう一度観たくなってしまった。

私は映画館へは行ってないのでこれは台湾版DVDでの鑑賞である。

台湾の風景というのはなんとも言えず懐かしくなるようなものでしかもこの舞台は田舎町であるため田んぼ道を二人乗りして走る正行と守恆の姿にまず心惹かれてしまう。

物語は年を取ってから観る者には羨ましくなるような青春で悩み傷つきでも離れる事はできない若者達の友情と愛が描かれていく。

青春と言うより彼らの場合はタイトルどおり暑い夏なのだが。台湾の夏というのはまたマジで暑そうである。

タイトルどおり、というのは映画館で観た方にとっては『花蓮の夏』というやや涼しげな趣だが、原題は『盛夏光年』で永遠に真夏みたいな物凄く暑いタイトルである。青春ならぬ青夏というかんじなのである。

この宇宙の中の盛夏で正行、守恆、慧嘉という惑星、恒星、慧星を表す3人の若者が互いの間をくるくる回りながら成長していく話なのである。

こうして見直しているとほんとに慧嘉役の楊淇が女の子らしくて可愛くていいなあ、なんて思ってしまう。仲のよい男の子どおしの話には必ず彼女みたいな女の子が必要なんだけどその中でも慧嘉は凄くよいのではないか。でもこれは同じアジア人だから思うことなのかもしれないが。

私は張孝全が大好きなので無論彼中心で観てしまうわけだが、正行を演じた張睿家の訴えかける眼差しの切なさ。未成年の崩れてしまいそうな繊細さ。すぐに変わっていってしまうだろうひと時の美しさに見入ってしまう。

幼い時からその名が示すように互いがなくてはならなかった二人。ただ友情であったら苦しむ事はなかったのかもしれないのに恋をしてしまったことで苦しまなければならなくなる。受験の時期という人生のなかでも重要なものを犠牲にしてもその思いを封じ込める事はできない。

その苦しみと友情が正行だけのものではなく同じように守恆も感じていたということを正行は気づかない。

たとえ肉体が交わっても正行の苦しみが終わらなかったことが彼にとって本当に必要なのがなんだったのか教えている。

彼らの友情は押し付けで作り出されたものではなくてもっとずっと前から二人が作ったものだったのに正行ってほんとうにどうしようないバカな奴である。

でもいいんだこれでまた二人は星のままで永遠にくるくる回り続けるんだね。

正行と守恆が愛し合う場面をもっとずっと観ていたかった。部屋の外では蛙がげーこげーこ鳴いてるし。いい感じ。

まもうさんのブログで拝見して勝手にここでも使わせていただいてます。まもうさん、ことわりなくすみません。ひらに感謝。 映画『花蓮の夏』日本公開記念 ジョセフとブライアンのインタビュー!(動画つき) 互いに気を使いながら話してるふたりがいい感じです。ブライアン、ますます綺麗になったような(笑)孝全ほんと体ごっついです。(笑)好きだ〜。
ラベル:友情 同性愛 青春
posted by フェイユイ at 21:53| Comment(3) | TrackBack(0) | 張孝全 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月11日

『2046』再び 王家衛

2046c.jpg
2046

今更ながら感じているのだけど王家衛の作品というのはひたすら青臭くて子供っぽい映画なのである。
この辺を好きになったらもう入り込んでしまうし、駄目だったら何がなにやらさっぱり。てな感じになってしまう。
私としては恥ずかしいと思いながらもそういった青い時間を眺めていたくてつい観てしまうのではないだろうか。
「俺と一緒に行かないか」がキーワードになっているなんていうのがもうすでに子供の感覚なのであって主婦だったら晩御飯の用意もしなきゃいかんし洗濯物も溜めたくないしそんな言葉くらいでそうそう出かけられはしないのだ。と言っても作中のヒロイン達は全くついていってはいない。女はなにかとしがらみが多いのである。
「すべての記憶は涙で濡れている」ちょっと恥ずかしくなる言葉である。自分の記憶を覗いてみてもまあそんなに涙ばかりでもなく馬鹿馬鹿しいのやらただただおかしい奴もころがっているわけでこれなんかも若い時代になら書いてみたい言葉なのだ。

トニー・レオンがまるでセンチメンタルな男を代表するかのように終始悲しみを胸に抱いている。若い女を抱く時も別の女と話すときも彼の心に住んでいるのはかつて愛したただ一人の女性。許されない恋のために別れなければならなかったその人。
本作では新しい恋の相手としてチャン・ツィイーが登場する。彼女とはひたすら肉体交渉を持つトニーであったが、ひそかに本気で愛してしまうフェイ・ウォンとコン・リーには精神的つながりのみである。
本気の相手は精神だけ、浮気な相手は肉体のみ。男の愛の形が現れてしまったようだ。

私が最も同情してしまうのはカリーナだ。彼女が思い出して泣く相手はレスリーだから。
この中ではその説明はない。
知っているものは知っている。ただそれだけのことなのだ。

ミステリー・トレインのパートに木村拓哉が登場する。どういうものか彼の起用に不満を持つ観客が多いようなのだが私はなかなかよいのではないかと思っている。(日本人役なら金城武でもよかった、というか彼も観たかった、と思わなくもないが)
このSF的雰囲気の漂うトレインパートが結構好きなのだ。
1224−1225区間は寒いので相手を見つけて体を温めなければいけない。また数字遊びだがクリスマス期間だから人恋しくなるというところがまた子供っぽい。
フェイ・ウォンはアンドロイド役もホテルの娘役も可愛らしいが特にアンドロイドの彼女は素敵である。

トレインの中でアンドロイドが10時間後100時間後1000時間後と待っている。
小説を書き直そうとしてトニーが万年筆を止めたまま10時間後100時間後と待っている。1000時間後となったらどうしようかと思ったがさすがにそこまではなかった。

2046と言う数字は男の思い出の部屋の番号なのである。彼が愛する人のことを思い出す時その数字が浮かんでくる。
2046に記憶を探すことはできても彼がそこへ戻ることはもうできないのだ。
秘密の言葉は穴の中に封じ込められ誰にも知られることもない。

王家衛の世界は独特で秘密クラブのようでもある。会員でないとその扉は容易に開かない。
本作は今までの作品をすべて思い出させるようなつくりになっているのでそれらを知らないままに観た者にはますます判りにくいに違いない。知っている者ならその秘密を知っていることに密かな喜びを感じてしまうはずだ。
少しだけ登場するチャン・チェンなんて大好きな音を求めて彷徨う旅人なのである。

監督/脚本:王家衛 撮影:杜可風 美術:張叔平 出演:梁朝偉(トニー・レオン) 章子怡(チャン・ツィイー) 王菲(フェイ・ウォン)、劉嘉玲 (カリーナ・ラウ)木村拓哉、張曼玉 (マギー・チャン) 鞏俐(コン・リー)、チャン・チェン、ドン・ジエ
2004年香港/中国
posted by フェイユイ at 23:15| Comment(8) | TrackBack(0) | 香港 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『花蓮の夏』主題歌『盛夏光年』訳 のようなもの

映画『花蓮の夏』の主題歌「盛夏光年」の歌詞とその後に書いているのはフェイユイが乏しい頭脳で勝手に書いた訳詩です。
決して信じてはいけません。ハチャメチャな意訳だし。

「盛夏光年」

作詞:阿信 作曲:阿信 演唱:阿信(五月天)

我驕傲的破壞 我痛恨的平凡 才想起那些是我最愛
讓盛夏去貪玩 把殘酷的未來 狂放到光年外 而現在
放棄規則 放縱去愛 放肆自己 放空未來
我不轉彎 我不轉彎 我不轉彎 我不轉彎
讓定律更簡單 讓秩序更混亂 這樣的青春我才喜歡
讓盛夏去貪玩 把殘酷的未來 狂放到光年外 而現在
放棄規則 放縱去愛 放肆自己 放空未來
我不轉彎 我不轉彎 我不轉彎 我不轉彎
我要 我瘋 我要 我愛 就是 我要 我瘋 我要 我愛 現在
一萬首的mp3 一萬次瘋狂的愛 滅不了一個渺小的孤單
我要 我瘋 我要 我愛 就是 我要 我瘋 我要 我愛 現在
盛夏的一場狂歡 來到了光年之外 長大難道是人必經的潰爛
放棄規則 放縱去愛 放肆自己 放空未來
我不轉彎 我不轉彎 我不轉彎 我不轉彎

僕は勝手に革命を起こした 平凡でありたくなかったんだ
やっと思い出したんだ
それらが自分の一番大切なものだったということを

真夏に僕らは遊びまわった
残酷な未来は宇宙の果てまで続く そして今

ルールを投げ捨てるんだ 思うがままに愛すればいい
自分を解き放て
何もないままに未来へと走ろう
もう戻らない 戻らない 戻らない 戻らない

法律がもっと簡単になり秩序がもっと混乱したら
そんな青春を僕はやっと好きになるだろう
真夏に僕らは遊びまわった 
残酷な未来は宇宙の果てまで続く そして今

ルールを投げ捨てるんだ 思うがままに愛すればいい
自分を解き放て
何もないままに未来へと走ろう
もう変わらない変わらない変わらない変わらない

僕は狂いたい 僕は愛したい 絶対に
僕は狂うだろう 僕は愛するだろう 今

一万曲のMP3 一万回の狂った愛
なくならなかったほんの小さな孤独さえも

僕は狂いたい 僕は愛したい 絶対に
僕は狂うだろう 僕は愛するだろう 今

真夏の大はしゃぎしたあの場面
宇宙の果てまでたどり着いてしまった

成長すれば人は必ず腐ってしまうわけじゃないだろう

ルールを投げ捨てるんだ 思うがままに愛すればいい
自分を解き放て
何もないままに未来へと走ろう
もう戻らない 戻らない 戻らない 戻らない

  。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


うっひょーい(О>艸<О)さんからお問い合わせがあったもののどうにも自信がなかったのですが、思い切って書いてみました。
おおくぼさんから歌詞を提供してもらいましたし。多謝。
赤面モノですが何かの足しになるなら・・・ならないような。
ほんとに本気にしてはいけませんぞ。

それにしても何度聞いてもいい歌です。かっこいい。


ラベル:
posted by フェイユイ at 15:12| Comment(8) | TrackBack(0) | 張孝全 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月09日

『花様年華』王家衛

花様年華y.jpg
In the Mood for Love

やはりどうしても好きなのだ。この光と影はどういうものなんだろうか。

王家衛・杜可風・張叔平の魔力にとりつかれてしまったらもう逃れられない。
アパートの部屋、薄暗い路地、ぼんやりと見える思い出の中の一場面。夢なのか本当にあったことなのか、今から起こる事の練習をしている二人。
初めはすれ違うだけ、いつの間にか糸が絡み合ってしまった。

互いに結婚している男と女。彼らの伴侶が不倫関係にあると知って自分達も、と思いながら二人は一線を越える事ができない。
女は夫の不倫を思って泣き、恋する男との別れを思って泣く。男にはどうすることもできない。

多分同じ物語を別の監督が撮っているのなら全く観ないのではないか。ここで観ているのは単なる過程ではなく大人であるはずの二人の危うさ、心の揺れ、二人で過ごす甘く切ない時の流れである。
やがて訪れる別れの苦しさが言葉としての説明ではなく幻灯で映し出されたような画面で感じ取っていくのだ。
離れてしまった二人が再び同じ時に同じ場所に戻ったのに運命は二人をすれ違うように仕組んだ。
男は遠い国の遺跡の柱に穴を見つけそこに想いを封じ込める。

登場するたびに違うチャイナドレスを着たマギー・チャンの美しさに見惚れ、トニー・レオンの悲しげな眼差しを見つめる。
画面には二人だけが映し出され互いの伴侶の姿は出てこないのが二人を余計印象づける。
二組の夫婦はあるアパートの隣同士に越してきたのだ。互いの伴侶のいない間に女は男の部屋に入り込むが大家たちが帰宅して徹夜マージャンを始め出られなくなる。
仕事を休み部屋に隠れ男が買ってきた食事をとる。それでもふたりがそれ以上の関係になることはなくただ一緒にいたいと思うだけなのだ。

解説で王家衛が「香港の役者はいつまでも子供の役をしたがるのだが、ここでは成熟した大人を演じてくれた」と言っているのだが、私にはむしろ王家衛こそ子供のような感覚なのではないかと思ってしまう。肉体関係を持たないから、というだけではないのだが二人の愛し方はまるで純粋な少年と少女のように思えるのだ。
それは大好きな『ブエノスアイレス』でも『欲望の翼』でも感じたことだが登場する役者たちはもう子供と言う年齢ではないのにいつまでも青い魂を持ったままのように見えるのだ。
それは悪いことではなく、私にはとても貴重な美しいものに思える。
そういう透明な感覚は他ではそう出会えるものではない。変わらないで欲しいと願うばかりだ。
マギーのチャイナドレスは肉感的というよりむしろ清楚に見える。ほっそりしていつまでも観ていたい美しさだ。

トニー・レオンが借りたホテルの部屋の番号はもちろん「2046」だった。

監督/脚本:王家衛 撮影:杜可風 美術/編集/衣装:張叔平
出演:梁朝偉、張曼玉 、藩迪華 、雷震
2000年香港
posted by フェイユイ at 23:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 香港 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

男同士のベッドシーンは大緊張!「花蓮の夏」主演俳優2人に聞く

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男同士のベッドシーンは大緊張!「花蓮の夏」主演俳優2人に聞く

明日から公開されるのですねー。しかし過激なポスターです。
孝全くん、ひもが絡まって困ってるようにも見えますが^^;
ブライアンいわく「早くしてくんない?」


『花蓮の夏』オフィシャルサイト

ラベル:同性愛
posted by フェイユイ at 18:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 張孝全 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月08日

『ゴッド and モンスター』ビル・コンドン

GODS AND MONSTERS 3.bmpGODS AND MONSTERS 4.jpg
GODS AND MONSTERS

この作品だけを観た人がすべてを理解するのは無理があるのではないだろうか(別にそうであってもかまわないのだろうが)
これはどうしても本作の主人公ジェームズ・ホエール監督が作り上げた『フランケンシュタインの花嫁』を観てから観るべき映画なのかもしれない。

というのはこの映画のホエール氏と青年はまさに『花嫁』の中の隠者と怪物の写し絵であるからだ。
この二人の関係は撮り方としては逆の視線になっているのだが『フランケンシュタインの花嫁』での怪物と隠者の出会いを思い起こさせる。
無論ブレンダン・フレイザーが演じるクレイは醜い怪物どころか大変美しい若者なのだがその大きな体と筋肉は怪物のシルエットを思い起こさせる。
彼はかつて父親に疎まれた苦い思い出を抱えている。そして恋人と思っていた女性に嫌われ、孤独感に苛まれていた時期でもあった。
まさに隠者のように世間とのつながりを切って暮らしているホエールとの出会いはクレイにとって父親に認められたような女性に代わってその美しさを讃えられたような不思議な安堵感を与えてくれたのかもしれない。
『花嫁』の場面を彷彿とさせるかのようにホエール氏とクレイが葉巻をくゆらす場面がある。
それは火(ここでは“ゲイ”ということだろうか)を怖がる怪物と隠者の心が通い合った瞬間でもあった。

クレイが最後怪物の真似をするのも彼がその役を演じていたのだという暗喩であろう。

この物語にはホエール、クレイともう一人ホエールが愛していた戦友の思い出が深く刻まれている。
残虐だった第一次大戦の怖ろしい記憶がホエールを苦しめる。そして労働者階級出身であることのイギリス人としての辛い思い出。年老いたホエールにはそれらの思い出が現在のことより強烈に蘇ってくる。
ホエールは思い出の中だけで生きているようだ。

ホエールが才能が枯渇したことに嘆く姿を見たクレイは彼が求めていた裸体になり絵を描くよう促す。
その逞しい体を見たホエールはクレイに怪物になって欲しいと願う。「怪物となって自分を殺してくれ」と。
クレイは拒絶し自分はホエールが作ったモンスターではないと泣く。
クレイは怪物ではなくまたホエールは隠者ではなかった。
だが夢の中でクレイは怪物のシルエットとなりホエールをかつて愛した戦友の元へ誘うのだ。

ホエールとの諍いの後、クレイが目覚めた時ホエールはプールの中で死んでいた。急ぎ助け出したクレイに容疑がかかることを怖れた家政婦のハンナは主人の遺体を再びプールへ投げ入れる。
ゆっくりと踊るように水の中に浮かぶホエールの体。両手を広げたその姿勢はまるで磔にあったキリストのようでもある。
『花嫁』のなかで怪物は恐怖に追い込まれた村人達によって磔にされる。
ホエール自身が怪物でもあったのか。

クレイを演じたブレンダン・フレイザーがとてもいい。
ゲイではないはずの彼が次第にホエールに惹かれていく。その作品も彼は深い感銘を覚える。自分を理解してくれる友人を求める孤独な二人の心をクレイは感じ取るのだ。
逞しく優雅な体は怪物に例えるには美しすぎるが髪の刈り方やセットがやや四角になるようにして怪物に似せているのが判る。
彼の演技を見るのは3度目だがこの作品がもっとも魅力的なのではないだろうか。

イアン・マッケランは本人もゲイだということもあるのだろうが、引退したホエール監督の寂しさと性的欲求の表現がなんとも言えずいやらしく(つまりセクシーに)表現されている。
老人の恋愛を枯れた淡いものではなくここまで露骨に表現することは差別感を持った観客には特に嫌悪感を抱かせるものであるかもしれないのだが、ほのめかすなどという表現に逃げることなく老人の欲望をさらけだしてしまったことには驚きも感じた。
それは先日観た『あるスキャンダルの覚え書き』にも通じることなのだが。

家政婦ハンナのリン・レッドグレイブが素晴らしい。この病弱で欲望を隠すこともないゲイの老人を健気に時に口やかましく面倒みる老婦人。ゲイの作品には彼女のような存在が非常に重要なのである。

余談ではあるが奇妙な一致を面白く思ったことがある。
少し前に観た『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男』もブライアンと庭師の(こちらは)そこはかとないゲイ関係(のようなもの、というべきかもしれないが)を描いていたが、そこでも自分の才能の枯渇に落ち込むブライアンはプールで死ぬ。こちらは自殺ではなく庭師によるものだが「擬似ゲイ関係(そのものではない)、芸術家(ミュージシャンと映画監督)、庭師、プールでの死、自殺か他殺か疑わしい、女性が最後助ける」という事柄が微妙なところで重なっている。ホエール氏はイギリス人でもあるし。
こういった相似点というのはよくある話なのだ、ということなのだろうか。

タイトル『GODS AND MONSTERS』複数形の神と怪物。何が神で何が怪物なのか。

監督:ビル・コンドン 出演:ブレンダン・フレイザー イアン・マッケラン リン・レッドクリープ ロリータ・ダヴィドヴィッチ
1998年アメリカ
ラベル:老年 同性愛
posted by フェイユイ at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月06日

『あるスキャンダルの覚え書き 』リチャード・エア

あるスキャンダルの覚え書き.jpg
Notes on a Scandal

「かわいそう」などという感傷を抱かせることがないほどのクールな展開が面白くしがみつきで観てしまった感じである。

ケイト・ブランシェット演じるシーバが大変魅力的で、同性愛者であるバーバラ(ジュディ・デンチ)が生涯の友にと願うにふさわしい美しさである。バーバラは彼女が他の連中と違う美的センスと知性を持つが自分より能力は劣ることに優越感を感じ、彼女の若さと美しさと特権階級の女性であることに惹かれている。
シーバが15歳の教え子と肉体関係を持っているのを知ったことで切り札を握ったバーバラはシーバを次第に手繰り寄せ自分の友達にしていこうと画策する。

92分という短さに合った早い展開と巧妙な構成が緊張感を持って見せてくれる。
孤独を背負ったバーバラに悲哀を感じることができないくらいドライに彼女の高慢さや支配欲が見せ付けられる。
シーバを追い詰めた、と確信したバーバラが自分自身の首を絞めていたとなる結果などなんとも苦い味わいであた。
かくしてシーバはバーバラの手を逃れ夫の元に戻るのだが、傷心のはずのバーバラがしっかり次の獲物に照準を絞った落ちは女性のしたたかさを描いてむしろにんまりしてしまう。
男性同性愛の話は死で幕が下りることが多くがっくりしてしまうのだがこう前進してくれると応援したくもなるものだ。

男性の同性愛を題材にした物語というのはそれが純愛的にしろ、こういう犯罪的にしろ「隠されたもの」と言われながらも数多くある。だが女性のそれとなると男性客向けのポルノめいたものを除くならその数は大したものではないだろう。
ましてや片方が定年間近の老女(失礼)と夫と2人の子供がいる中年女性が登場人物ときては。
まあ本作は「レズビアン」の代表作としてあげるには「不毛の愛」でありすぎるが。女同士の関係であるからこそ出来上がったサスペンスであることは確かで女性同性愛の映画が多く作られたおりには是非そこの「サスペンス部門」の上位にランクされて欲しい作品である。

男性同性愛者なら特別に内気な人でなければそういった出会いのある場所や売買で欲望を沈めることもできるだろうがバーバラがそういう話をする場面も(多分)なかったようなので女性の場合は大変なものなのだろうか。
人に触れられた事がない体、と言っていたのでそういった場所に行けばよかったのでは、と余計なおせっかいも考えてみたり。知識があるわけではないからどういう店があるとかは知らないが。
あくまでも普通の世界でビアンの相手を見つけたかったのか。


監督:リチャード・エア 出演:ジュディ・デンチ ケイト・ブランシェット トム・ジョージソン マイケル・マロニー ビル・ナイ アンドリュー・シンプソン
2006年イギリス
posted by フェイユイ at 22:50| Comment(2) | TrackBack(4) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『ボーン・アルティメイタム 』マット・デイモンインタビュー

「結婚してすっかりセクシーじゃなくなったよ」

いえいえ、これからですよ(笑)
『グッドウィルハンティング』のイメージが残るのでしょうが、私がマットを好きになったのは最近でもあるし今からいい年齢でありますよ。(昔もかわいいですけどね)
子育て疲れのマットの顔、楽しみです〜。
posted by フェイユイ at 14:53| Comment(2) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月05日

『フランケンシュタインの花嫁 』ジェームズ・ホエール

フランケンシュタインの花嫁.jpgフランケンシュタインの花嫁2.jpg

ジェームズ・ホエール監督『フランケンシュタイン』の同監督による2作目である。ホラー映画においてこの2作目が屈指の名作と呼ばれている。

フランケンシュタインの怪物は誰と出会ってもその怖ろしい容貌のために人々は叫び声を上げて逃げていく。彼自身は優しく接しようとしてもその気持ちは通じないのである。怪物の心は荒れ果てていくのだった。
私はこの映画を観て解説で初めて知ったのだが、この映画監督ホエール氏は同性愛者だったということである。
その映像も出てくるが長身で素晴らしい美貌の男性である。『フランケンシュタイン』が有名ではあるが当時たくさんの映画作品を作っている人気監督であったらしい。が、同性愛はまだ非常に迫害を受けていた時代である。ホエール氏にとって忌み嫌われなぶり者にされるこの怪物は自分を写した姿ということなのだった。

と、こう書いてくると高尚な芸術めいたものを想像させてしまうかもしれないが、本作はあくまでも人々を楽しませたホラーなのである。
しかも全編を通して思わず笑ってしまうコメディなのであって深刻な哲学や告発ではない。多くの観客が怪物の真似をして関節の曲がらない歩き方をしてみたり唸り声をあげたり「アローン・バッド、フレンド・グッド」などという片言の言葉で話したりしてみるものだろう。
知識のない怪物がもがけばもがくほど人々に危害を加え怖れられていく様は哀れな笑いに満ちている。何も知らないままそんな怪物を恐れ逃げ惑い、また捕らえようとする人々もおかしさと悲しさが隣り合っているのだ。

本作で最も感動的なのは森の中で一人きりひっそりと住んでいる隠者の老人がいる。
彼は盲目で忘れ去られた存在であるらしい。彼も怪物同様仲間はずれにされているのだ。
目が見えない老人は怪物の外見は気にならない。人に追われて怪我をした怪物を家に招きいれ、食べ物と飲み物、寝床を勧めてくれた。そして「私にも友人ができた」と喜ぶのだった。
それまで絶えず迫害を受けていた怪物が初めて暖かいぬくもりを覚える。老人は彼に言葉を教え、音楽の喜びも与えた。怪物は老人によって人間の心を持つことを知ったのではないか。
楽しそうに葉巻を咥えて老人の弾くバイオリンに身を躍らせる怪物。だがその楽しい時間も結局普通の人々によって奪い去られてしまうのだ。
この場面で本作は単なるホラー映画ではない作品になっているのだ。一人ぼっちの老人と怪物の心の触れ合いが温かく伝わってくる。

映画は小説『フランケンシュタインの怪物』を書いたメアリー・シェリーが夫であり詩人のシェリーとバイロン卿に物語の続きを語り始める、という手法で展開される。
美しく装った(胸の広く開いた優雅なドレス)メアリーの手を取りながら「このような繊細な指からあの怖ろしい物語が生まれるとは」というバイロン卿の台詞が効いている。贅沢な城の一室で轟く雷鳴を聞きながらメアリーは語り始める。

焼死したと思われた怪物は生き残っており森の中を彷徨う。同じく死んだと思われたフランケンシュタイン男爵も生き長らえていた。

フランケンシュタイン男爵は人間を造ってしまったということに後悔していた。だがそこにプレトリアス博士と言う男が登場し彼の力を借りて怪物の女版を作りたいと言い出すのだ。
愛妻を誘拐されフランケンシュタインは仕方なく怪物の花嫁造りに加わる。
狂喜じみたプレトリアス博士が印象的である。彼は瓶の中で小さな人造人間を作っていたりしてなんとも不思議な人物である。
フランケンシュタインがファウストならプレトリアスはメフェストフェレスなのだという説明が頷けた。
怪物の花嫁は結局怪物を受け入れることができず、怪物は失望する。そして彼は自分を生んだフランケンシュタインは許して逃がしてやり、夢を与え奪ったプレトリアスは「死に値する」といって自分、花嫁ともども実験室である塔を破壊してしまうのだ。

知らない人はいないだろうボリス・カーロフの怪物像と共にその花嫁のスタイルも印象的である。日本ではそれほど知名度がないのかもしれないがアメリカではカーロフの怪物に負けないほど有名な女怪物であるらしい。私もさすがに写真であの奇抜なヘアスタイルは知っていたのだが。

それにしてもこの孤独な怪物をここまで有名にした映画監督が自分の体験から来る心情でこの作品を作っていたのだとは。
イギリス労働者階級の生まれでありながら芸術家的才能に溢れていた彼は幼い時からその才能ゆえに孤独だったらしい。
成功した映画監督でありながらも専属だったユニヴァーサルがなくなり,MGMに移ってからは自由を奪われ型どおりの製作を押し付けられ引退。後に自ら命を絶ったという。
彼を映画化した作品もあり(『ゴッド・アンド・モンスター』)是非観たいものである。

監督:ジェームズ・ホエール 出演:ボリス・カーロフ ヴァレリー・ホブソン エルザ・ランチェスター コリン・クライブ ウォルター・ブレナン
1935年アメリカ

1作目では無名で名前表記が“怪物=?”となっていたというボリス・カーロフも2作目は一躍有名俳優に。
名前もトップに刻まれている。(変わりに花嫁が“?”に)
posted by フェイユイ at 23:56| Comment(0) | TrackBack(1) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月04日

『ゾディアック』デビッド・フィンチャー

ゾディアックz.jpgゾディアックk.jpg

殺人事件の後に奇怪な暗号文が新聞社に郵送されてくるという謎解きの面白さが次第にそれに取り付かれておかしな方向に流されていく男達(何故男ばかりなのか)の苦悩に変わっていくという笑いたくなるような悲しみを帯びた作品であった。

実際に起きた未解決事件を映像化した、ということで韓国映画『殺人の追憶』を引き合いに出されることも多かったようだが、私としては観てる間にそれを思い出すことはなく、すぐにカブって思い出したのはスピルバーグ監督の『未知との遭遇』だった。
主人公がUFOの光を見て取り付かれてしまい、頭に奇妙な山(デビルスタワー)のイメージが浮かんで消えず家に巨大なオブジェを作ってしまう。仕事を辞め妻子にも逃げられる。男はそれをつきとめるまでひたすら追い続けることを止めることができない、というあの話。
有名だから言ってしまうが(観てない人は飛ばして)アレでは取り付かれた主人公はとうとうUFOに乗ってあっちの世界へ行ってしまう。本作の主人公は自分の調査を本として出版することで地球に留まる事ができたようだが、同僚のポールはまさにUFOに連れ去られた如くである。気の毒なことであった。

観る前は「現実に起きた殺人事件を謎解き遊びにして怒られないのかな」という疑念もあったのだがこういう風に悲劇にアレンジすればそういった誹謗も起きないだろうし謎解き遊びもできるし、という巧いやり方であるなと感じ入りもした。
私自身はアガサ・クリスティ大好きの人間なので「さあ、殺人はおきたかしら?」というミステリを楽しむことにためらいはないが。というか多くの人が勿論大好きなはずではある。

さて真犯人はということで本作では容疑者であるリーがやはり怪しいのだということでまとめている。特にトースキー刑事たちが訪ねていった時にリー・アレン本人がは右利きだと言うのにも関わらず右腕に腕時計をしている。その腕時計が「ゾディアック」という銘柄だったことは別としても右利きが何故右腕に時計をしているのかを問わなかったところが「こいつが怪しい」という演出であったように思える。
だからと言ってそれが証拠というわけにもいかないだろうが。

観客は映画でしか(その当時を知っている人は別として)情報を得られないからナンとも言いがたいがいくら調べても(DNA鑑定も)「シロ」となったわけだし実際別に真犯人がいたりして、と思うことも可能なはずではある。

グレイスミスがうっかり連れ込まれたヴォーンという男の家での出来事は彼の思い込みかどうかわからないにしてもかなり心臓が縮まった。あの男はもうどうでもよくなったのか。筆跡はほぼ重なるということだったが。
地下室に誘われた時のグレイスミスの恐怖の顔はむしろおかしいほどだったけど。

主人公が気弱で何の権力もない男であり、仕事としてではなく(本人がどう主張したとしても)単なるのめり込みで事件を追い続けた、というのがとても同調して観やすいものになっている。グレイスミス役のジェイク・ギレンホールは大変似合っていて私としては『ブロークバックマウンテン』の時の彼よりこちらの方が好きだったりもする。とても可愛らしいオタク系漫画家ぶりであった。
それにしても主人公の苦悩の結果が本出版且つベストセラーというのはいかにもアメリカ的エンディングではある。

監督:デビッド・フィンチャー 出演:ジェイク・ギレンホール マーク・ラファロ ロバート・ダウニー・Jr アンソニー・エドワーズ ブライアン・コックス
2006年アメリカ
ラベル:犯罪 人生
posted by フェイユイ at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月03日

ジェイ・チョウ「芸能界のバットマンになりたい」

ジェイ・チョウ「芸能界のバットマンになりたい」

予約販売枚数は4万8011枚!その一枚は私です(笑)
レコード会社が「全アジアで107万枚を販売した!」という発表をしたというのに正直なジェイです。
ミルクタワーも可愛いですねー。

早く届かないかなーわくわく。でもまだ発送もされてないんで。

posted by フェイユイ at 17:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『キング 罪の王』再び

キングkk.jpg

『罪の王』を再び観たのだが、困ったことに言い表しがたい不思議な感情を覚えている。
というのは一度観た時にはどうしようもない嫌悪感を持ってしまったのだが、今思えばそれはこの作品の表層部分しか観ていなかったとしかいいようがない。
つまりテレビで殺人事件を知り、その結果と人間関係だけを聞いて「気持ち悪いね」と思ってしまうようなものだ。
つまりこの物語は確かにそういった事柄だけに気をとられてしまえばどうしようもなくおぞましい事件だとしか言いようがない。だがその奥にある隠されたものが一度目の私には見えなかったのだ。

今回はそういった事件だけを追って騒ぐのではなく静かにガエルの表情を見て彼の声を聞こうとしてみた。
そうしてみると一度目とは全く違う思いが心の中を満たしていったのである。今までにない感覚であった。

ガエル演じるエルヴィスは亡くなった母がいつも語っていた彼の父親に会う為、除隊した後父親を訪ねた。
彼は町でも人気のあるの牧師で裕福な暮らしをしていた。父を慕っていったエルヴィスだったが彼はきつい口調で彼が来る事を拒んだ。
エルヴィスは父の娘マレリーに近づく。何も知らない彼女はエルヴィスに惹かれやがて二人は肉体関係を持ち、マレリーは妊娠してしまう。
エルヴィスが妹に近づくのを知った兄ポールは忠告しようとして彼の家をつきとめるがその場で刺し殺されるのだった。

エルヴィスが求めたのは父親の家族の中に入ることだけだったのだろう。だが父もその妻も異母弟になるポールも彼を拒んだ。
マレリーだけがエルヴィスを受け入れたので彼はマレリーから離れられなくなってしまうのだ。
異母妹であることを知りながらも彼女の妊娠を喜び「子供を産んで」というエルヴィスの願いは酷く悲しい。医学、常識として間違ったことであってもそれだけがエルヴィスに「家族」というものを与えてくれる望みだったのだから。
そしてエルヴィスはその家族から再び追い出そうとするポールを殺してしまう。
「家族でなくなる」という恐怖感だけで彼は動いてしまったのだ。

ここから物語は奇妙な展開を見せる。息子を失ってしまった父親が(犯人は誰かとは知らない為)今まで寄せ付けなかった息子エルヴィスを引き寄せるのだ。
これは一体どういうことなのだろう。
子供を失った親というものはその身代わりになるものがいれば愛情を持ってしまうものなのだろうか。
突然の出来事であったが父親の愛をずっと求めていたエルヴィスは
この怖ろしい幸福を享受する。その愛は彼の犯した罪のために得たものなのだけれど。
息子の居場所を横取りしに来たエルヴィスを父の妻は受け入れられない。
だがその彼女もエルヴィスが庭の花の手入れをする様子を見て次第に心をとかしていく。
その家の息子を殺したエルヴィスとそれを知っていて彼と肉体関係を持つ娘、何も知らず息子を受け入れようと思い始めた父親とその妻が居間の椅子に座りテレビ番組を見ながら笑っている光景は凍りつくような恐怖を覚えざるをえない。
彼は家族を求め家族を崩壊しに来た悪魔のようなものなのだ。彼自身はそうとは気づかぬままに。
この時、エルヴィスは今までに感じた事がないほどの幸せであったのだろう。それは普通の家族なら当たり前に感じる安らぎ。普段気づきもしないもの。彼が幼い時から母にその存在を聞きながら夢見ていたもの。ごくありふれた幸福だった。

だが歪んだ道を通って手に入れてしまった幸福はあっという間に消えてしまうものだった。
牧師である父親が礼拝の時、皆の前で打ち明けたエルヴィスと自分との関係。それによってエルヴィスは彼の息子であることを祝福されたのだが、マレリーにとっては自分の妊娠が罪の関係で出来たものであることを知らされた衝撃であった。
義兄妹でありながら肉体関係を持ち妊娠したことはマレリーにはもう耐え切れず、母親に打ち明けてしまう。
その様子を見ていたエルヴィスの目のなんという悲しさに溢れていたことか。
彼はまた家族でなくなろうとする二人を手にかけなければいけないのだ。
そしてエルヴィスは牧師である父親に懺悔をする、他愛もなく。彼が許され天国へと行ける様に。

マレリーに向かって「椅子になりたい」とエルヴィスは変なことを言い出す。「椅子」というのはなんだろう。後で彼が家族のように座ったあの椅子だろうか。
マレリーにも自分が罪の子であることが知られ沼地でひとりソファに座るエルヴィス。その眼差しはどうしても自分には家族ができることはないのだと思い知らされてしまった寂しさがある。

エルヴィスの罪を聞いた父親はどう答えたのか。この作品では語られていない。
彼がかつて夢を与えた女性からそれを奪ったのと同じように今その息子から家族を奪われた。
この父親の持つ「愛」というものがその場だけの頼りなく崩れやすいもののように感じられるが、その因子はエルヴィスにも他の2人の子にも受け継がれているように思える。血(遺伝子)が止まることはないのだろう。
彼に何かが言えるだろうか。

今回感じたのはガエル=エルヴィスの言いようもない孤独感。彼がどんなに求めてもそれは
もう手に入らないのだ。
ただ泣きじゃくる乳飲み子のように彼は暖かい愛情を求めただけだった。
マレリーを抱いたのも父親に近づいたのも弟を殺したことですら彼にはそれ以上の何もなかったのだ。
映画は言葉少なに彼らの姿を映し出す。その心の中が見えてくることはないだけにより静かに彼らの思いが伝わってくるのだ。

牧師である父親には真実の愛というものがあるのだろうか。エルヴィスの母親への愛に対する不実さ。いなくなってしまった息子への愛にしても神を口実にして自分の諦めを正当化しているとしか思えない。狂ったように嘆き悲しむ母親の気持ちは当然の事である。
そして博愛を唱えながら鹿狩りや銃への興味を持つことになんのためらいもない。
この父親を観ているうちに一度目は酷く気持ちが悪くなってしまった。その要素はもしかしたらそれぞれの子供たちにも受け継がれているのかもしれない。勿論エルヴィス自身にも。ここでまともに見えるのは母親だけなのだ。
父親は自分のすることが正義だと思い込んでいる。牧師は自らの傲慢さを戒める言葉を発した。
その気持ちはこの物語の後に続いていくのだろうか。エルヴィスとの間においても。

一度目の記事は読まずに書いたのだが全く違う感想なのであきれられる方もあるかもしれない。
私は何度かこういう全く違う記事を書いているのだが、それは観なおしてみてそう感じたことなのでどうしようもない。
一度目にどうしてもその真意が汲み取れない時もある。また2度観るとさほど面白くなくなる時もある。
この映画では再観した時にぞくぞくとするような感動があった。それを感じられたことがうれしい。

監督:ジェームズ・マーシュ 出演:ガエル・ガルシア・ベルナル, ウィリアム・ハート、ペル・ジェームズ, ローラ・ハーリング, ポール・ダノ

追記:初めに感じた気味の悪さというのは「親の因果が子に報い」という図式によるものだった。
父親が犯した罪とその意識を懺悔という形で昇華させてしまうという行為を子供であるエルヴィスも繰り返すのだ。
何気なく罪を犯し、父親がするのを真似するかのように懺悔したい、という彼。
父親はその行動をどう受けとめるのか。間違っている、と彼にはいえないはずだ。
先に書いたのとそう違わないのかもしれないが、宗教というだけでなく血の報いというものになんともいえない気持ち悪さを感じてしまったのが最初の恐怖感だったのだろう。
やはりぞっとする作品なのである。

ラベル:犯罪 家族
posted by フェイユイ at 00:04| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月01日

『ツイン・ピークス』シーズン 2 Vol.2 第14章デヴィッド・リンチ

ツインピークスll.gif

今回は一つの山場になる重要な一話であり、最も怖ろしい場面が登場する。

ゴードンは極秘の任務でオレゴンへ行き、ホークはハロルドの家を捜索することになり、片腕の男はクーパーたちとグレートノーザンホテルにボブの霊が宿る者を探しに行くことになる。
ホテルには多くの客や従業員がいる。一人ずつ対面しながら当たっている時、ベンがその異常な状況に気づき入ってきた。
男は突然倒れてしまう。

シェリーはレオの看護のためダブルRの仕事も辞めざるを得なくなり前より酷い経済状況に陥る。
ボビーはなんとか状況を打開しようとするがなす術もない。その時意識のないはずのレオが「新しい靴」とつぶやいた。修理に出されていた靴のかかとを叩くと中から小さなカセットテープが出て来た。

オードリーからベン・ホーンがローラと肉体関係を持っていたことと彼女が「ジャック」で働いていた事を聞いたクーパーはハリーに令状を出すよう告げる。
「薬品なしで男は指さす」片腕の男が気を失った時入ってきたのがベン・ホーンだったのだ。

ホークがハロルドの家を訪れた時、彼はすでに首を吊って死んでいた。散乱した部屋の中に引き破られたローラの日記が落ちていた。

ピートは自宅に突然入り込んできたタジムラにキスされ驚く。なんとタジムラはキャサリンの変装だったのだ。
ピートはまだタジムラの変装のままのキャサリンを抱きしめて喜んだ(結局好きなのね)

バンバン・バーには多くの客が入っていた。女性歌手が気だるく歌を歌っている。
ドナはジェームズにハロルドが死んだのは自分のせいだと言い、ジェームズはそれを打ち消した。
そこへクーパー、ハリー、丸太おばさんが連れ立って入ってきた。ここから怖ろしいことが始まる。
歌っていた女性歌手がいつのまにかクーパーが見たあの巨人になって舞台に立っているのだ「今また始まっている」

その頃、パーマー家ではマデリーンが家に戻る事を告げ最後の夜になっていた。
ローラの母親サラは具合が悪くなり床を這いまわっていた。そして部屋の中で白い馬の幻覚を見る。
レコードは終わったのに針を上げられる事もなくいつまでも回っていた。リーランドは鏡を見ながらネクタイをきちんとつけている。その鏡にリーランドではなくボブの顔が映った。
なんと怖ろしい霊ボブはリーランドに乗り移っていたのだ。
「叔父様、叔母様」と言いながらマデリーンが2階から降りてくる。ボブに乗り移られたリーランドは白いゴム手袋をはめていた。マデリーンはその顔にボブを見た。叫ぶマデリーン。リーランドは首を絞める手つきをしながら彼女の後を追いかけた。2階に逃げようとするマデリーンを捕まえ手酷くその顔面を殴りつける。逃げ惑うマデリーンの姿に狂喜するかのように追い詰めさらに殴りつける「家に帰ろうとしたな」と言って壁にぶつけた。
マデリーンの顔は血だらけになり気を失った。リーランドはその指をとって爪の奥に紙片を差し込んだ。
クーパーは巨人の言葉を聞き動けないままでいた。
グレートノーザンホテルの老ボーイが「まことに遺憾です」とささやいた。
物悲しい女性歌手の歌声が流れて泣き出したドナをジェームズは慰めた。一人着ていたボビーは思案にくれている。
クーパーは考えていた。

今回は特にリンチ監督が手がけたのだろうか。恐怖の表現がただ事ではない。酒場での妖しい雰囲気も。
何故か正装し薄いゴム手袋をつけるリーランド。そして逃げるマデリーンの首を絞めるような手の形で追いかけるのがおぞましい。
狭い入り口を通り抜け2階へあがろうとするマデリーンを追うリーランド。画面には戸口を通して叫び声と床に映った二人の薄い影が重なって見えているだけだ。間もなくリーランドはマデリーンを捕まえ引きずり下りてくる。戸口越しに襲われるマデリーンの悲痛な悲鳴ともがくさまが。これ以上ないほど不気味な一場面である。
マデリーンがタイトスカートを穿いているのも何かセクシュアルなイメージがともなう。恐怖と欲望を糧にするというボブにのり移られたリーランドは愛するローラにそっくりなマデリーンを手にかけたのだ。
ローラの日記にはボブが何度も登場し小さな時から何度となくいたずらされたと書かれていた。
それはいわばボブに乗っ取られた父親からの性的虐待のことだったのだろうか。
posted by フェイユイ at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | ツイン・ピークス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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