映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2007年12月31日

皆様、よいお年をお迎えください!

最近は殆ど日常の話のようなものはしていなかったが、さすがに年末ということでほんの少しご挨拶を。

年末の最後の仕事を終え、ぼんやりしているところです。今年最後に観た映画がDVDの不具合で最後まで観る事ができず残念でしたが、事の次第を伝えたところ、DISCASさんからは適切な処置を取っていただきました。
というわけで最後の感想記事(になっていないが)は『ツインピークス』になり私としては私らしい趣味かなと満足しております。さすがに今の状態では一本きちんとした映画を観るのは無理でして、面白さ満載のこのドラマは年末にはぴったりでしょう。

年始は最初からいい映画を観る予定で今からもう楽しみです。

今夜はかなりの吹雪のようで寒い大晦日になりました。
今年一年、『藍空放浪記』読んでくださいましてありがとうございました。
来年、明日からまた同じように変わりなく映画感想記を続けていくつもりです。
2008年がよい年でありますように!
では来年まで後僅か。
また明日からよろしくお願いいたします。  フェイユイ
ラベル:挨拶
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『ツイン・ピークス』シーズン 2 Vol.5 第25章デヴィッド・リンチ

ダブルRで丸太おばさんと少佐の刻印を描いていたクーパーにアニーは「洞窟の絵のようね」と言う。それを聞いたハリーも確かに洞窟の絵だと頷く。
クーパーたちは洞窟へと赴く。暗い洞窟の中で梟に襲われアンディは思い余ってつるはしを壁に打ち込んでしまう。偶然にもその部分が落ち、穴の中に梟のシンボルマークのような絵が描かれた棒状のものがあったのだ。

クーパーとアニーはさらに親しくなって行く。互いに変わり者と思われている二人はどこか似ているのだ。

ドナの母親とベンがかつて深い関係があったことがわかる。ドナは動揺し父親に問うが父親は思うところがあるのか、はぐらかすように答えるだけだった。

ウィンダム・アールはクーパーたちが去った後の洞窟へと入る。そして梟のようなシンボルマークのついた棒を回し絵を逆さにする。
すると壁から砂が零れ落ちだしたのだ。

ウィンダム・アールの策略。ミス・ツイン・ピークスの募集。少しずつまた事件へと向かい始めている。

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『ツイン・ピークス』シーズン 2 Vol.5 第24章デヴィッド・リンチ

丸太おばさんと少佐には同じようなシンボルマークが体に刻印されていた。
少佐には3つの三角。丸太おばさんは二つの山のような印。そして二人とも同じように光を見ている。

ツイン・ピークスで一番まともでナイスガイのハリーが壊れてしまった。ジョシーの死の為に。

ウィンダム・アールはクーパーのチェスが彼自身のものではないと見破りルール破りだと怒る。そして変装してドナ、シェリーに近づいていくのだった。

ダブルRにはノーマの妹アニーが到着。店で働く事になる。コーヒーを飲みに来たクーパーはその美しさに目を奪われる。

ベン・ホーンはキャサリンの土地開発を阻止しようと「パイン・ウィーゼル」保護運動を始める。ツインピークスの森に住む可愛いイタチである。
善人のような運動を始めたベンにキャサリンは疑惑の目を向ける。
そのキャサリンの家にエッカートの秘書という女が訪ねてくる。油断なく銃を向けたキャサリンに女はエッカートからの贈り物を渡す。

すっかりマイクと恋仲になったネイディーンに離婚話を持ちかけるエドだが、ジャコビー先生の助けを借りても彼女に現実を飲み込ませることは難しかった。
ネイディーンとマイクは変装してグレートノーザンホテルに宿泊しようとするがマイクのクラスメイトにばれてしまう。
他にホテルはないのか。

エッカートの秘書は荒れ狂ったハリーがやっと眠りについた頃、見張りの者を殴って気絶させ、ハリーと添い寝するのだった。

ところでウィンダム・アールってクーパーが天才と怖れる男にしては貧相に見えるがそうではないのか。クーパーの元相棒としてもちょっとかっこ悪くないか。
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2007年12月30日

『ツイン・ピークス』シーズン 2 Vol.5 第23章デヴィッド・リンチ

ツインピークス滝.jpg

クーパーはかつての相棒ウィンダム・アールのチェスを受けるためにピートの力を借りる。彼はチェスの名手なのだ。
ウィンダムはレオをすっかり隷属させていた。そしてオードリー、シェリー、ドナに謎の手紙を3つに裂いて郵送していた。
3人は手紙を持ち寄り、どういうことなのかと頭をひねるのだった。

パッカード兄妹に翻弄され、エッカートからも逃れられないジョシーはハリーに頼る事もできず、エッカートのいるグレートノーザンホテルに向かう。
知らせを受けたクーパーがエッカートの部屋へ飛び込む前に彼はジョシーに撃たれ死んだ。
駆けつけたハリーの目の前でジョシーも命を落としてしまう。
泣きながらジョシーを抱きしめるハリーを見ているうちにクーパーはそこにボブの姿を見る。彼は言う「ジョシーはどうしたのかな」
赤い部屋の小人の姿も現れる。ベッドの脇の机の取っ手にジョシーの苦しむ顔が浮かび上がる。
ジョシーの度重なる殺人もボブの仕業だったのか。だが救われて美しい世界へ行ったリーランドと違い、ジョシーは救われないままに苦しんでいるのだ。なんという酷いことだろう。

ネイディーンがマイクと情熱的な一夜を過ごしたためにエドとの離婚を決意する。そのためにエドはノーマと結婚する事を決意し、ノーマはハンクと判れる決意をする。また檻の中のハンクは離婚の条件にアリバイを証明してくれと都合のいいことを頼み込む。だがノーマは断り去っていく。

立ち直ったベン・ホーンは傾きかけたホーン家を復興させるため、ジャックという若い男を呼ぶ。彼はそういった危ない状態の会社を建て直し、高い値で売る、という凄腕なのである。
且つ色男なので早速オードリーとの間に意味深な雰囲気が。どうなる。

ノーマは修道院を出たという妹を呼び寄せる。この妹がまたもや重要な役どころになるのだ。
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2007年12月29日

『Short Films』4:「アダージェット Adagietto Sehr, langsam」安藤政信

アダージェット2.jpg

年末忙しい仕事の人間なのでこの時期ははっきり言って映画なぞ観る元気は残っていないのにどうしても何か書きたいこの性分はどうしたらよいものか。
だが先日偶然借りたのがオムニバスだったので毎日少しずつ観て行くのにちょうどよかったのである。15分程度の作品を観て感想を書く。
これはいいや、毎年年末はこれにしようと決めたのであった。と言ってもこれくらいちょうどよいのがそうそうあるのかは疑問だが。
あんまり頑張りすぎてないくらいの力加減で疲れ果てた脳みそにはぴったりの作品なのだった。
そして今夜は

SF 4:「アダージェット Adagietto Sehr, langsam」(安藤政信初映像作品/13分 [出演]麻生久美子 [音楽]グスタフ・マーラー)
なんと安藤政信初映像作品である。
マーラーのアダージェットに乗せて麻生久美子の姿を追い続ける、という仕上がり。テーマは亡くなった妻の思い出ということでこれも男のセンチメンタルな作品だ。
特に冒頭の夕暮空を背景に高速道路わきの彼女を映している場面は風が感じられて気持ちよい。
ぼんやりと灯りが点りだすこの時間帯はなにやら寂しげに感じられるのである。薄着姿の彼女がちょっと肌寒そうにも思える。
そして花火をつけて喜んでいる彼女。花火というのは儚い魂のようにも思える。楽しげなのが余計に悲しく思えてしまうのだろう。
マーラーの音楽も心地よい甘く切ない短編であった。

追記:この後、
『仲良きことは良き事かな』
中野裕之監督作品
出演:シテイボーイズ(大竹まこと、きたろう、斎木しげる)中村有志 犬山犬子 安 妙子



『Slow is Beautiful』
中野裕之監督作品
出演:麻生久美子 村上淳 桃生亜希子 森下能幸 藤真美穂 ほか

を観る予定だったのだが、突然ここからDVDがまったく観れなくなってしまい、普通ならDISCASさんに文句を言って取り替えてもらう所だが、時期が時期だし、観たいのは(安藤政信目当てだったので)観終えたし、唐突だがここでおしまいにする。なんだか中途半端な年末鑑賞だが、こういうこともあるんだからしょうがない。映画館での上映だって事故もたまにはあるだろうしね。
他のDVDは観れたのでやはりこのDVD自体が悪いようだ。
前、ガエルの『アモーレス・ペロス』がそうだった時は大騒ぎで再発送してもらったけど。


ラベル:オムニバス
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2007年12月28日

『Short Films』3:「ハナとオジサン」芹澤康久

ハナとオジサン.jpg
Short Films3

SF 3:「ハナとオジサン」(芹澤康久初監督作品/16分 [出演]ピエール瀧 hanae 優恵 [音楽]伊藤求)

とても可愛らしい10歳の女の子の家の前に突然現れた見知らぬオジサン。
ハナが海辺へ行った時もそのオジサンの姿を見かける。逃げ出すハナをオジサンが追いかけてくる。
逃げる途中でハナが家の鍵をなくしたのをオジサンは一緒に探してくれるのだった。

ハナがとても可愛くてオジサン役のピエール瀧はとぼけてて映像は綺麗だし、オジサンは実は女の子のお父さんじゃないのか、と思わせる感じなのでほんわか可愛い物語です、と言ってよさそうなんだけど、やっぱりこれってどうしても少女誘拐、変態親父、殺人前の光景にしか見えないよね。このまま、そういう展開にもっていけそうである。
やはり私は鬼畜系なのか。
そう思って観るとある意味、ぞくぞくと怖い雰囲気があって幼いエロティシズムも感じられる。
これを単にメルヘンチックな作品と捉える事ができるのだろうか。
ならば男性というのはこういうメルヘンに憧れているのだ、と思えてしまう。

見知らぬオジサンがやって来て女の子が徹底的に嫌う過程で少しずつ理解し繋がりが生まれるというのならわかるのだが、警戒する時間が短すぎる。最後までむすっとした女の子を観たくなかったんだろけどね。
母親のいない時ばかりに会いに来るのが怪しく思えてしまうではないか。(ママに会いにくいのだというのが本当の理由なのだろうが)
あっという間に女の子の心を和ませてしまう怖ろしい才能の男である。誘拐事件の被害者の親が「絶対見知らぬ人にはついていかない子なんです」という実態がここに現れているようで怖い気もする。
本当の父親だとしても10年間何をしてたのだ。
深ーい事情があるとしてもその事情を教えてもらってはいないので警戒を解くわけにはいかないね。

ピエール瀧の雰囲気はいいし、女の子は可愛いのでもう少しぴりりと塩味のある話にして欲しかった。
オジサンのメルヘン。
ラベル:オムニバス
posted by フェイユイ at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月27日

『Short Films』1:「Return」中野裕之・2:「県道スター」ピエール瀧

ショートフィルムということでオムニバスである。
時間の都合で今夜は第1話と2話を鑑賞。

ショートフィルムズ1.jpg
SF SHORT FILMS 1

SF 1:「Return」(中野裕之監督作品/16分 [出演]麻生久美子 村上淳 浅田泰 田中要次 ほか [音楽]バートン木村)

麻生久美子演じる空子(くうこ)と言う名前の若い女性が主人公。ある日突然バイト先の会社が倒産し、2か月分のバイト料の代わりに各種の商品券が支給されてしまう。
仕方なく現金引換えに行く為に乗ったタクシーの運転士に触発された彼女はタクシーの運転士になるのだった。

だがしかし若くて綺麗なタクシー運転士というのは難しいのだろうな。特に日本のタクシーは前部と後部に仕切りがないし。実際職業にされている方というのは大変だろう。
結局東京の仕事に見切りをつけ、田舎へ帰ることにした空子。お母さんとの会話が本ものぽくておかしい。

日本映画でもこういう短編物というのは結構あるのだろうか。こういう感じ増えてくると嬉しい。

中野裕之監督作品というのは初めて観たと思うけど、普通の女性らしい女性が描かれていてなかなかよかった。
麻生久美子は『回路』で観ていたが、今回自然な感じで魅力的な女性だと思った。

弁天.jpg
SF SHORT FILMS 2

SF 2:「県道スター」(ピエール瀧監督作品/20分 [出演]安藤政信 ゲッツ板谷 大竹奈緒子 ほか [音楽]小宮山真介 Kagami)
これ最高ッス!映画で初めてってことはないけど久し振りに声出して笑った。
田舎道をカワサキでぶっ飛ばす重量級の弁天さんとジャージで二枚目だけど軽いのりのゴローのコンビっぷりが大好き。
弁天さん演じるゲッツ板谷とゴロー=安藤政信のボケとツッコミがなんともいい味なのである。
いい年してバイクを転がす太目の弁天さんはいつもUFOを追いかけているのである。追いかけているというより彼の前にUFOが現れるのだと言う。茶髪でスクーター乗りのゴローは弁天さんの舎弟といったところで彼の言動には感心しきり。常に尊敬しているのであった。
そんな弁天さんの憧れの女性は「エンヤさん」というバス・ロープウェイのガイドさん。キュートな笑顔とガイドぶりに舎弟のゴローも胸を弾ませる。だが弁天さんの彼女への愛は深く彼女の傍に行くとその目を離せなくなってしまうほどなのだった。

スピード感たっぷりのヒップホップ調でスクラッチな映像が田舎の風景を引き立てる。田んぼ道に停めた軽トラの窓にスプーンを挟んで超能力で曲げようとしてるおじさんもおかしいし。
寂れたガソリンスタンドも弁天さんとゴローのファッションも田舎の侘び寂びを充分に表現してあまりある。

ロープウェイに乗り込む「エンヤ」さんに勇気を振り絞って話しかけた弁天さんが聞いたことは「UFOを見た事ありますか」とんでもない質問にゴローも思わず駆け寄る。だが答えは「ええ、葉巻型なら」
美貌だけでなくUFOを見る能力もある彼女に二人は驚くやら喜ぶやら。
「絶対いけますよ、弁天さん」と騒ぐゴローに、しかし恥ずかしがり屋の弁天さんは「いいぃーっ!いいぃーっ」と言って逃げ出すのだった(ここが転げて笑った。何がそんなにおかしいのかは観てみないと判らない(笑))

再度勇気を振り絞って花束持って出かけた弁天さんの前に登場したガイドさんは全然きもい別女だった。
ロープウェイの窓からすれ違うそれに乗っていたのはキスをする「エンヤ」さんとゴローであった。

何しろゴローちゃんは安藤政信なのでいくらジャージで軽薄でもかっこよいのである。実はこの映画、彼目当てで観たのだが、こういう兄貴を見上げるやや卑屈な舎弟の役って凄く似合うのである。
いかにも田舎の暴走族くずれ的な弁天さんとの掛け合いが可愛らしいやらおかしいやら。
最後はエンヤさんの呼びかけも聞こえず弁天さんをスクーターで追いかけるゴローの姿が微笑ましくよかった。
ところで「エンヤ」さんというのは二人が彼女の名前札を読み違えたのであって、本当は円谷(つぶらや)さん。UFOオタクなら絶対知ってる名前なのである。

監督がピエール瀧氏であるがこのような才能のある方だとは今まで知らなかった。敬服。

2003年 / 日本
ラベル:オムニバス
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2007年12月26日

『インプリント 〜ぼっけえ、きょうてえ〜 』三池崇史

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Imprint

久し振りに食いつくようにして観てしまった。
三池監督のは凄く共鳴できるものとそうでもないものがあるが(ってどの監督でもそうだろうが)これは最高に面白いしぎゅっと締まった上手い出来栄えの作品だ。
華やかに見える遊郭も寒く侘しい日本独特の田舎の情景も地獄であることに変わりはないという怖ろしい比喩。
字幕ではついに「間引き」という訳が書かれていなかったような。うっすらと知ってはいても表向きには語り継がれる事はない隠された事実。
日本のホラーには“血の呪い”というアイテムが頻繁に使われるようだ。この作品では兄と妹の禁じられた関係が繰り返し行われ、またそこから生まれた姉と妹の因果という呪縛が語られていく。
またこの物語には「優しくしてはいけない」という教訓が含まれているようだ。
それは例えていえば「同情するととり憑かれる」という下等霊に対する教えのようなものである(かなり怖ろしいことを言ってる気がする)小さい頃はそういうものが寄り付かないように唾を吐いたものだが小桃は「鬼である女」にうっかり優しくしてしまったがためにとり憑かれてしまったのだ。とり憑いたのは霊ではなく生きた女の怨念だったが。
この女に対して「可哀想に」などと思ったら最後とり憑かれそうで絶対書くわけにいかない。優しくしてはいけないのだ。(そう言ってもなお可哀想に思う優しき人もいるかもしれないが、殺されてしまう覚悟をしなければいけないようだ)

冒頭の遊郭へ船で向かう一行の前に孕んだ女の水死体が漂ってくるところから風情たっぷりである。
船がすんでのところで沈みそうなのも恐怖感をそそる。船を操る水先案内人によって客は鬼の住む遊郭島へたどり着く。

日本の遊郭で遊女達が太い柵の向こう側から手を出して手招きするのは何故こうも楽しいのか(女の子だったら“遊び”でやったことあるでしょう、そういう場所で)
遣り手婆さんの指輪がなくなっての拷問などいかにも遊郭らしい展開である(しかも拷問女が原作者・岩井志麻子氏とは。怖ろしい)
この拷問シーンは原作にはない三池監督ならではの思いつきなのだろうがさすがに痛そうだが、吊られた格好など絵画の如く綺麗であった。

アメリカ資本のためか小桃を尋ねて遊郭を訪れる男がアメリカ人記者となっている。そのことが却って不思議な世界を作り上げているし、日本人の髪色が青や赤や金髪などになり三味線を弾く女の横にいかにも電気の回り灯籠が置かれていたり(これアメリカ人にはわからないよな)と奇妙な雰囲気が濛々とたちこめているのである。

アメリカ人記者は最後におかしくなってしまうがこれはどうこう言い訳しても小桃を早く迎えに来ず彼女に儚い望みを抱かせた罰だということなのだろうか。

監督:三池崇史 出演:工藤夕貴 ビリー・ドラゴ 美知枝 根岸季衣 岩井志麻子
2005年 / アメリカ

世界のホラー映画監督13人の名匠を集めて作られた「マスターズ・オブ・ホラー」シリーズの中のひとつで、米ケーブルテレビ(SHOWTIME)用に製作された映画なのにも関わらず、本作だけアメリカで放映されなかったというのは・・・まあわからなくもない。日本でも数箇所でしか上映されていないらしく勿体ないがDVDで淫靡に楽しんでいただきたいものである。

言っても詮無いことであるがせっかくおもしろい「ぼっけえ、きょうてい」という響きが言葉として発せられないのは残念である。反面、日本舞台で全部英語というのはちょっと面白い。『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』早く観たい。
ラベル:ホラー
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『BULLET BALLET』塚本晋也

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BULLET BALLET

恋人が拳銃で自殺したことから自らも拳銃を手に入れたいと願う中年男と死の淵ぎりぎりまで近づくのに死ぬ事ができない少女が出会った。
中年男と少女の接点といえば買春などといったことでしか通常ないものだろう。この作品の中ではそういうありきたりの接点ではない部分で彼らが出会い触れ合っていることに共感する。
男も少女も自分の願いがかなわぬことにいがいがとした苛立ちを覚え常軌を逸した行動で突っ走っていく。

物語の構成がやや散漫で幾つかのエピソードがばらばらにでて来る感じがするのだが、それもまた作品の荒っぽい映像と走り抜ける感覚に合っているのだ。

男は真面目なサラリーマンであり、少女は親父狩りを常習とするチンピラグループの一人である。
男は拳銃を手に入れるために大金を使って偽物を掴ませられたり、材料を集めて奇妙な自家製拳銃を作ったりする。最終的に手に入れた方法は外国人女性との偽装結婚の見返りである。
少女は進んで危険な行動をしたり、出入りの先頭で立ち向かっていくことで死を手に入れようとする。
一丁の拳銃が男と少女を出会わせ、走らせる。
塚本晋也監督・製作・脚本・撮影・主演である。前回観た狭い通路を這いずりまわるのも辛かったが本作もぜいぜいと息切れしながら走り回る。どの映画も自分を痛めつけるものばかりである。
少女役の真野きりな。少年のような細い体と鋭い視線を持つ。突っぱねた態度が心地よい。
二人の関係は死を見つめ、再生するという形で終わる。最後には反対方向へ走り出していく。
変に肉体関係などでつながりをもってしまうのではなく、逆方向に行ってしまうのである。音だけ聞いてると男女でハアハア言ってるんだけどね。

元BLANKEY JET CITYの中村達也がかっこよかった。

最後にやって来る殺し屋は、本物だった、ということか。いきがっているガキどもが皆殺し(に近い)である。

監督・製作・脚本・撮影:塚本晋也 出演:塚本晋也 真野きりな 中村達也 村瀬貴洋 鈴木京香 田口トモロヲ 井筒和幸 金森珍 井川比佐志
1997年日本
ラベル:
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2007年12月24日

『ショートバス』ジョン・キャメロン・ミッチェル

ショートバス.jpgショートバス2.jpg
SHORTBUS

セックスは大好きで気持ちいいけどオーガズムを感じたことはない、という恋愛カウンセラー・ソフィアの「オーガズム探求物語」を表向きに人間の愛と孤独を描いた作品。
夫を愛していて生活にもさほどの不満はないのだが、他の女性が感じるという絶頂感を自分も感じたい、と求めているソフィアだが、その方法は“ショートバス”というサロンで繰り広げられる多数の男女の様々な性体験の中に自分を置いてみるというもの。
ここでソフィアは色々なアドヴァイスを受け、様々な試みをしてはオーガズムを追求する。
そこにいるのはゲイ、レズビアン、サディスト、マゾヒストなど多々な性嗜好を持つ人々である。そうした人々がサロンの中で自由な性を楽しんでいるのだった。

しかしなんという健全な嗜好のもとに作られた作品なのかと思ってしまう。多々の性交渉を氾濫させながらもその回答例はまともな中に納まっており、生真面目に主人公はその答えを模索していく。オーガズムという言葉から結びつくかもしれない危ない世界へははいっていかないのである。
無論、監督は女主人公のオーガズム探求という旗印が掲げられるだけで目的は他人とのつながりを描いているのであり、オーガズム探求そのものがテーマであるわけではない。
とはいえ本作ではその旗印のもとに多数のセックスシーンが表されるわけでそこに目を向けないわけにはいかない。その為、ソフィアがオーガズムを求める方向性に疑問を持ってしまうのだ。といってもそれも個人差の問題だろう。しかしそれなら最後に歌われる「心の悪魔」という歌詞は何を指すのか。

オーガズムの探求というのは結局どこにたどり着くのだろう。私はそこだけを追及するなら社会で禁じている犯罪もしくは不道徳に行かなければ人間の欲望は満足することはないと思ってしまうのだ。
ソフィアは最後、オーガズムを得たのか。映画的手法で幸せになったように思えるが、私には彼女のオーガズムが共感できなかった。
ここでソフィアはいたって健全に大人のクラブでその探求を続ける。それは主に肉体の快楽を求めたものだが、オーガズムというのは精神的な快楽によるものが多いのではないか。
興奮を呼ぶ危険な状態に身を置いた時、感じるオーガズムほどの快楽はないだろう。
それは不倫などといったことから始まるが最初は興奮を覚えた危険性も次第に摩滅し安定すれば快楽でなくなってしまう。より強い刺激を求めればまずます危険な状況でないと“感じる”ことができなくなってしまうはずだ。
簡単なところで麻薬であり、別方向としては窃盗、暴行、殺人などを絡めないとオーガズムを得られなくなってしまう。
または小児愛(女性でも子供を無理矢理勃起させて性交してしまう嗜好の人がいる)獣姦、死姦などといったものへ入っていく。もしくはフェティシズムやコスプレなど。
極端すぎて馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないがオーガズムのみの探求というのならそういった領域に行ってしまうと思えるのに、ここで登場するのは真っ当で健全な範囲でのオーガズムであってそれを越えてはいないのである。
主人公が女性だから、ということで温いオーガズム追求になってしまってはいないか。

手塚治虫の『きりひと賛歌』では衣をつけられて煮えたぎった油に入れられる女性が特殊な体の男性にしか欲情しないというのがあるがここまでしないとオーガズムがないのなら、どうする?

つまり健全な中でオーガズムを得たい、とあなたはおっしゃるわけで。

もう一つこのオーガズム探求が私と違う世界だと思ってしまうのは、ここでの題材が生きている人間ばかりだということ。
もし日本でこのテーマを作るなら勿論オタクのオーガズム(マンガ、アニメなどの)を主軸にしてしまうのではないか。
現実の男には欲情せず、実写映画ならまだしも、アニメのキャラとの妄想セックスにしかオーガズムを得られない者が主人公ならこの映画のキャッチコピーになっている「みんな誰かとつながっている、あなたはひとりじゃない」というのは当てはまらなくなってしまう。
こんな実在の裸の男ではなく綺麗なアニメキャラと妄想(実際にできるわけない)セックスしたい女性、さらに自分の存在はさておいて美しい男達のやおい場面をみていたい(ここでもゲイは出てくるが日本アニメオタク女性の好みではないようなので)女性などのオーガズムはどうなるのだろう。

まあ、この女性はアニメオタクじゃないのでオーガズムが体感できないのかもしれないが(アニメオタクはかなりオーガズムを感じられる種族ではないだろうか)

監督が男性でゲイのジョン・キャメロン・ミッチェルであるために主人公ソフィアの結末よりゲイ・カップルの愛情の方が心温まる結果になっているのが皮肉な感じにも受け取れる。
ソフィアは本当にあれで感じたのか?一体どうして?ナンに対して?

平和でなければこのような探求もできない。
「9/11が最もリアルな体験だった」と“ショートバス”の女主人がいうように現実感のない世界でふわふわと幸せに生きている人間がオーガズム探求をできるのかもしれない。

最後に“ショートバス”の女主人が歌う「心の悪魔は最良の友」というのにはぎくりとするわけだが。

ミッチェル監督『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』でも男装女性に不満な待遇をしていたが、ここでも女性は中途半端である。ゲイカップルの方は生き生きと描かれて感動的なのに!
ゲイの物語に徹した方がよいのかも。むしろ期待する。

監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル 出演:スックイン・リー ポール・ドーソン リンジー・ビーミッシュ PJ・デボーイ ラファエル・バーカー
2006年アメリカ

ゲイ・カップルの一人が『マイ・プライベート・アイダホ』のことを話題にしたのでちょっとびっくり。確かに何かとつながっている。
ラベル:オーガズム
posted by フェイユイ at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月23日

『マイ・プライベート・アイダホ』今夜も

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My Own Private Idaho

『マイプライベート・アイダホ』はその後の作品『ジェリー』『エレファント』『ラストデイズ』などに比べるときちっとした筋立てがあり判りやすい作品になっている。とはいえ、そこここに見られる演出はやはりガス監督らしい好みが表現されているのだ。

冒頭部分にこの物語のすべてが現れている。前方と後方にどこまでも続く道。アメリカの広大な平原には主人公マイクだけが佇んでいる。マイクはその道が殴られた人の顔のようだと言う。逃げ去るウサギを見て「逃げても駄目だ。俺と同じさ」とつぶやくのだ(ちなみに中国語では兎子はゲイの意味だが)
手持ちカメラがマイクの不安定な状態を示しているようだ。ナルコレプシーの彼は唐突に道に倒れてしまう。

夢の中でマイクは母親の膝の上で眠っている「何も心配しないで」と優しく声をかけられながら。その膝は彼にとって安らぎの場所に違いない。怖ろしいナルコレプシーの発作に襲われた時に彼は安らぎを観ることができるのだ。

時間の経過を示す空と雲の動きが美しい。UFOも凄い勢いで飛んでいく。

スコットが登場する。彼らが店頭に並ぶゲイ雑誌のカバーボーイになってしゃべりだす、というちょっとおかしな演出がなされる。
スコットは他のストリートキッズとは違い市長の跡取り息子であり、もうじき莫大な財産を受け継ぐことが語られる。彼は父親に反発してゲイ売春や麻薬、強盗をしているにすぎないのだ。
そしてスコットが父親より愛するという男・ボブが登場する。ボブというキャラクターはオーソン・ウェルズの『フォルスタッフ』がモデルらしく(自分は未見だが)でっぷりと太って従者を連れ確かにシェイクスピア喜劇のようなエピソードが展開される。
スコットはボブに「21歳の誕生日になったら生まれ変わる。親は放蕩息子が更生した方が喜ぶものさ」と言う。スコットの変身は最初から彼の目論見なのである。

焚き火の場面は何度観ても素晴らしい。
すれ違う二人の心を焚き火が映し出していく。

イタリア旅行で二人の仲は決定的なものとなる。スコットがイタリア女性と恋に落ちるのだ。マイクはスコットに取り残され一人でアメリカへと帰る。
イタリア女性とアメリカへ帰ったスコットは父の死により遺産を受け継ぎ、彼の予定通りもとの生活に戻ったのだ。

以前観た時はマイクを放ってしまい、一人だけ裕福な生活に戻ったスコットにたまらない寂しさを感じたものだ。
だが今見返すとそれはスコットの生き方であり、どうしようもないことだと思えてしまう。
物語のラストにマイクの持ち物を盗む者もいるのだが、彼を(多分)助けようとするものがいてなにかしら希望を抱かせる。ほんのかすかな希望のようではあるが、それでも彼は果てしない道を歩いていこうとしているのだ。

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ラベル:同性愛 青春
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『マイ・プライベート・アイダホ』ガス・ヴァン・サント

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My Own Private Idaho

この作品も思いいれの強いものでとても簡単に書けそうにもない。明日もう一度観ようと思っているが今回久し振りに観た感想をおもいつくまま書いてみたい。

ぐっと心をつかまれてしまうのはやはりリヴァー・フェニックスの演技とその繊細な美しさである。美しさとしっても、ゲイ相手の男娼でストリートキッドであり薄汚れ着たきりの服装でいつもぼさぼさとした髪をしてその目は荒々しさとか弱さを併せ持っているといった風情である。しかも彼はナルコレプシーという持病を抱えている。それは強い眠気に襲われるというものなのだが、彼が過度の緊張を覚えた時突如として現れるので非常に危険な症状なのである。

彼は3年半越しの親友スコットがいるのだが彼は市長の息子で数日後の21歳の誕生日にはには莫大な財産がはいることになっている。リヴァー演じるマイクはスコットに対し友情以上の想いを持っているのだった。

マイクは行方知らずの母親の思い出をいつも追いかけている。思うだけでなく母親に会おうと彼女の居場所を探し始めるのだ。

マイクがナルコレプシーで眠ってしまった時見る夢はいつも自分が幼い時まだ母親のそばにいるイメージ、そして母親の膝で眠る現在の自分のイメージである。
ナルコレプシーといういつ夢の中に入ってしまうか判らない病気のせいでマイクの存在は非常に不安定なものである。彼には絶対に庇護者が必要なのである。
その庇護者になってくれたのがスコットであった。彼は眠り込んでしまったマイクを自分の膝にのせて抱き上げていてくれた。その様子はまるで磔刑に処せられ死についたキリストを抱いた聖母の絵画=『ピエタ』のようである。母を思わせるその優しさゆえにマイクはスコットに母への思いのような愛を覚えたのではなかったか。唐突に母がイタリアにいる、という筋書きもピエタのイメージから引き出されたもののように思える。

物語の半ば、焚き火をしながらマイクとスコットが語り合う場面がある。このシーンは後の『ジェリー』と重ね合わせられる(また『ラストデイズ』では一人きりのシーンになる)印象的で美しく悲しい場面である。
ただ金の為に男色行為をし続けたいたマイクがスコットに好きだと打ち明ける。スコットは「男とセックスするのは間違っている。金の為だけにやっていることだ」と言い返す。思いが通じなかったマイクはうまい言葉を見つけることもできず「俺は金の為じゃなくても愛することができる。・・・もういいんだ。でも君がすきだ」と自分の膝を抱え込む。それを見たスコットはややうんざりした様子ながら横たわる自分の脇の地面を叩きながら「ここへこいよ」と言う。意地を張ることもせず、素直にスコットの傍にまるで猫の子のように入り込みながら寄り添うマイクの気持ちが痛いほど伝わってくる。

この映画ではスコットは裏切り者のようで冷酷に見える。だが別の作品ならば強盗、麻薬、買春などを繰り返すならず者も生活から更生した立派な話だと言ってもいいのだ。
スコットは女性に恋をしてマイクと別れ、堕落した生活から足を洗ってまともな大人へと成長していくのである。
一方のマイクはそれ以後も同じように広大な平野を彷徨い続け、ある人からは大事なものを奪われ、ある人からは助けられながら子供時代から抜けきれないでいる。彼は一生子供のままで危ういままに歩き続けていくのだろう。どこまで続くかわからないうねうねとした道路が彼の歩かねばならない道なのだ。その道は殴られているようにも見え、スマイルのようにも見えるのだ。

リヴァーが若くして亡くなってしまったことは悲しい。
この作品だけでも彼がどんなに素晴らしい感性と人の目を惹かずにはおかない類稀な美貌を持っていたかがわかる。
悲しい想いを湛えている眼差しは他の何にも代えられない。
スコットを演じたキアヌ・リーブスもほっそりした面立ちが美しい。

そして何と言っても私が大好きなのは二人がタンデムでバイクを走らせる場面。
運転するキアヌの後ろに跨るリヴァーという絵はバイクシーン好きには垂涎なのである。
物凄いスピードで街中を走る、またはホテルに横付けする、建物の中まで入り込んで止める瞬間リヴァーが飛び降りるシーンなど見惚れずにはいられない。いつまでも彼らがタンデムで走り続けられたら、と思わずにはいられなかったのだった。

思いが溢れるこの作品。明日また鑑賞して感じたことを書いてみようと思う。

監督:ガス・ヴァン・サント 出演:リヴァー・フェニックス、キアヌ・リーブス
1991年アメリカ
ラベル:同性愛 青春
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2007年12月20日

『故郷』山田洋次

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夫婦で石船を操縦する様子がこんなにかっこよくセクシーだとは思いもしなかった。
長年連れ添った夫婦は何一つ会話をしなくても相手の考えがわかっている。妻は船を操縦する夫に黙ってお茶を差し出し、黙ったまま操縦を交代し舵輪をまわし始める。慣れた手さばき、夫もいつものことで煙草を吸いながら何も言わず海を見つめている。
うねる波、海の上に響くエンジン音、船の上で洗濯物を干し、それを眺めている小さな娘。
古びた小型の石船の横を綺麗な大型船が通り過ぎていく。背景には工場が立ち並んでいる。
やや遠方から撮るそんな光景も素敵である。
石を精一杯積み込んだ船はやがて目的の場所に着き夫婦で力を合わせバランスを取りながらあわやというところまで横倒しになって積荷の石を海の中に落としこむのだ。
こんな仕事があるとは知らなかった。夫も男らしくかっこいいが何と言っても妻がなんなく操縦し、船で生活している様子が自然で見惚れてしまう。夫と娘が甲板で昼寝をしている間も足で操舵し船を動かしていく。船から波が後方へと流れて行き風が洗濯物をなびかせている。
大変な仕事だが海と空が美しくのどかである。
この冒頭を観ただけでこの仕事に憧れてしまったのだ。

山田洋次監督の意志は知らないのでこのような感じ方がいいのかどうか判らないし、懸命に苦境と戦っている夫婦を見た感想が軽はずみな「かっこいい」などと言う言葉ではお叱りを受けるのかもしれない。が、監督の意識なしにこうも夫婦で働く姿にゾクゾクとセクシュアルな感銘を受けてしまうだろうか。

瀬戸内海の小さな島で石運搬の仕事をしている夫婦が主人公である。彼らの乗る船は時代遅れの小さな木造船で長年の使用でエンジンも船体も疲れきっていた。
大きな金属製の船の出現に同業者は次々と廃業し、木造船を燃やしていく。精二夫婦の仕事も収入は少なくなる一方なのだ。
だが精二は大好きな仕事に見切りをつけ切れない。周りの忠告に荒れて乱暴な態度を示すのだった。

この時の夫の暴言にも妻・民子は怒ったりもしない。夫の性格を知っていて動揺することもないのである。
代々の仕事を受け継ぎ真面目に働いてきた精二がとうとうあきらめ町の工場で働くことを決意した時、夫が船長でなくなったように民子も機関士でなくなる。それは彼女が結婚後、懸命に勉強して得た資格だった。

最後の仕事もまた力を合わせて働く民子と精二の姿が美しい。石の重みで沈みそうに見えながらも懸命に進んでいく古びた石船に夫婦の姿を重ねてしまう。
運んできた石を落とす為に船が横倒しになった時音楽がなり涙が溢れて参った。石が落ちただけなのに泣かされてしまった。
船を操る民子の真剣な眼差しが印象的だ。
戻っていく時の船の風景も心地よい。船から見える工場、島の人々の様子。吹き渡る風の匂いがしそうだ。
夕焼けの下でお役ごめんになった同業の船が燃やされるのをみて精二は民子に訴える。
「時代の波だとか、大きいもんには負けるとかいうが、大きいもんてなんだ。そのために俺はお前と暮らしたこの海の仕事を辞めなければいけないのか」とそれまで我慢していたものを吐き出すかのように言う精二。民子には何も言えない。
俯瞰で海と二人の船を映しながら音楽が流れるがそれは怒りと言うよりあきらめのようなものに感じる。
故郷での仕事から離れる事になっても夫婦と子供達はまた進み続けるのである。そこにはすでに郷愁のような思いが漂っている。

大きな悲しみが起きた『家族』に比べここでは死ぬものもなく極端な悲劇もなかったのが嬉しい。
日本を縦断するような大移動ではないが、瀬戸内海を行く船も心地よい、『家族』に負けない素晴らしい作品だった。
好み的にはこちらの方に憧れてしまう。
工場マニアなところもある自分なのでこういう働く映画というのは他にない見ごたえがあった。
懸命に働く姿、夫婦の愛を感じた作品である。

監督:山田洋次 出演:倍賞千恵子 井川比佐志 笠智衆、 渥美清 前田吟
1972年日本

本作は、登場人物が昨日観た『家族』と同じ妻・民子=倍賞千恵子、夫・精二=井川比佐志、弟=前田吟、お爺ちゃん=笠智衆、そして渥美清が出演という設定である。

ラベル:家族
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2007年12月19日

『家族』山田洋次

家族.jpg

1970年長崎の小さな島に住む一家が北海道へと移住する為に旅立つ。
いかにも九州男らしい頑固な“父ちゃん”精一に明るく健気な女房・民子、まだ幼い長男と乳飲み子の娘、そして精一の父親であるお爺ちゃんという5人一家である。
突如として精一は今の仕事は自分に向かないと言い出して友人がいる北海道の牧場で働く、と言い出す。妻である民子は悩んだ挙句家族で移住しようと言い出したのだ。

九州の人間にとって北海道は遥か遠くその広さも冬の寒さも想像することができない。
九州人である自分にとってこの一家の旅はまさに自分も伴って行っているような気持ちにさせられた。
言葉も感情も共感できることしきりである。大きな工場や都会の人の群れの脅威、気持ちが通じない事への反感、不安などともに大荷物と子供を抱えた旅に疲れきってしまった。

冒頭の精一の言葉で北海道での苦労話が語られていくのかと思いきや映画の殆どは列車や船での移動を描いたロードムービーなのであった。
不安を抱えながらも島の人に温かく見送られ旅立つ一家。お爺ちゃんを置いていくつもりでいた広島に住む精一の弟家族に「押し付けは困る」と断られるお爺ちゃん(つまり次男のお父さん)の悲しみ。次男には子供といまもまたおなかの大きな妻がいてアパートに父を住まわせるゆとりもないのである。妊娠した妻が黙ったまま茶碗を拭く様子がいかにも不満げに見えて心苦しかった。どの家族も精一杯で突然同居するという父親を受け入れきれないのだ。
「もう会えんかもしれん」と言って別れを告げるお爺ちゃんとそんな父親を引き取ることができない次男の辛さも伝わってくるのだ。

この映画で最も辛いのはほぼ中間地点(東京)で起きた乳飲み子の突然死である。大阪万博によっている間に疲れを感じるのだが東京で赤ん坊の異変に気づく。
幾つかの病院で診察を受けられず、やっと診察してもらった時はもう手遅れだったのだ。
カソリックである一家は娘の葬儀をし、再び北海道へと向かう。
東北をなおも北上しながら母である民子は何のために北海道へ向かうのかと思い悩む。船の中で別の人の抱く赤ん坊の泣き声に涙する。そんな民子を見て精一は「俺は一人で行くと言ったのに無理に同行したために赤ん坊を死なせた」「親父は弟の所にいればよかったのに何故ついて来た」と口走る。傷ついた民子とお爺ちゃんを船内に残し精一は海を見ながら泣き出すのだ。

やっと友人の牧場にたどり着いた時、温かく歓迎してくれた友人の家の中に上がる力さえ残っておらず一家は玄関でくず折れるように座り込んでしまった。

まだ仕事は始まってもおらず、長崎から北海道にたどり着いただけなのだがこの何日かの旅が家族の生活を大きく変え、大事な子供も失ってしまった。友人宅に到着した彼らの疲労が判るようだった。

そして近所の人々の歓迎を受けた夜、眠っていたお爺ちゃんはそのまま帰らぬ人となってしまう。
たどり着いた北海道にお爺ちゃんを葬る。
それまで頑固に意地を張っていた精一は「俺はなんという馬鹿なことをしたんだろう」と泣く。民子はそんな精一を抱きしめ「お父ちゃんが泣いたら私はどうなるの」と慰める。
意地っ張りだが気弱な所のある精一とそんな亭主を支える民子はいかにも九州男女というた戯画のように見える。
物語も不安、死、絶望、それを支える希望とややあざといまでの構成であるが九州から北海道までのたびそのものが人生の縮図のようにも見えてくるのだ。
九州よりずっと遅い春の訪れを迎える北海道。春と初夏の花がいっぺんに咲き乱れる緑の大地の中で精一と民子は新しい仔牛の誕生とわが子が民子の腹に宿った喜びを感じる。苦しかった冬が過ぎ春の風に吹かれて民子は明るく笑う。

何と言っても倍賞千恵子の清々しい美しさが光っている。こんなに綺麗な人だったんだと改めて感じた。お爺ちゃんの笠智衆はどことなく自分の父親にもかぶって見えて泣けてしまった(いや、父は健在ですが)赤ん坊の死はあまりにも酷いのではないか、と恨んでしまったがこんな風に人生はわからないものでどうしようもないものなのだ。
当時世の中は高度経済成長で華やかであったがこうして必死に生き延びなければならない家族もあった。大勢の人々で賑わう大阪万博に彼らは入るゆとりさえないのである。
貧しい旅路ではあるのだが不安を抱えた列車の中でも家族は笑い語らい幸せそうに見える。支えあって生きていく家族のなんと微笑ましい温かさなんだろう。
それだけに赤ん坊とお爺ちゃんの死は辛く悲しい。耐え切れず泣き出す精一を抱きしめる民子の愛情にほっとする。
旅の間ずっと腕白な男の子がなんとも言えず可愛らしく微笑ませてくれる。
こうして観ていると家族の幸せというのは互いに支えあい励ましあうことなんだなと素直に思える。
山田洋次監督は何日かの旅の中に家族の人生を見せてくれた(しかもいつもあるユーモアも忘れていない)素晴らしい作品である。

監督:山田洋次 出演:倍賞千恵子 井川比佐志 笠智衆 前田吟 富山真沙子
1970年日本
ラベル:家族
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2007年12月18日

『ツイン・ピークス』シーズン 2 Vol.4 第21・22章デヴィッド・リンチ

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ウィンダム・アールが大きく動き出した。迎え撃つクーパーの手はすべて読まれ太刀打ちできない。
クーパーはハリーに過去を打ち明ける。かつてウィンダムの妻・キャロラインと自分が恋仲であり彼女はウィンダムに殺されたのだと。
クーパーの最初の相棒であり指導者であったウィンダムはその後気が触れ精神病院へ行くがそれは彼の演技であり彼はそこを脱出してしまう。ウィンダムの標的はクーパー。ここに来てウィンダムの復讐が始まったのだ。
立ち上がれるようになったレオはシェリーに足を刺され逃げ出す。そしてウィンダムの小屋に逃げ込んだ。そこでレオはウィンダムに電気を通される首輪をはめられ彼の手下になりさがってしまう。
今まで恐怖の対象であったレオがウィンダムの元ではまるで子供のように扱われてしまう。今までが酷かったので散々にやられるのがいい気味である。字を書けないといっては電気を流され、うまく書けたといってはお菓子を食べさせてもらいすっかり洗脳され哀れな存在となってしまった。小屋の中でウィンダムは尺八を吹きながら日本の武士は刀を禁止されても尺八を武器にした、と言ってレオに殴りかかる。そうだったのか。
クーパーを撃った犯人の遺留物である繊維とジョシーの服の繊維が同じであると判明。調べたのはシアトルから再び舞い戻ったアルバートである。今ではすっかりハリーと仲良くなってしまった彼はハリーの恋人ジョシーが非常に怪しいのだと言う。クーパーははっきりするまでは公表するなと釘を刺す。

キャサリンは夫ピートに兄が生存している事を知らせる。そしてトーマス・エッカートがジョシーに会うためにツイン・ピークスへ来ていることを知り家へ招待するのだった。
ジョシーと同じくエッカートの手下だった東洋人クマガイが殺害されたことをジョシーが知る。
『ツインピークス』はチベットや香港、日本などアジアテイストがちりばめられている。
それにしてもジョシーって気持ち悪いと思うのだがどうだろう。

精神科医ジャコビは美しいラナには呪いなど関係ないと断言する。それを聞いていた男たちは皆納得。クーパーでさえラナの性的魅力には口笛を吹いてしまうほどなのだ。そこに弟を魔女に殺されたといって猟銃を持って来た兄貴町長。亡くなった弟の若妻ラナを撃とうとする。クーパーは町長とラナを二人きりで話し合わせたほうがいいという。暫くして皆が二人の様子を覗きこむとなんとラナは町長の膝に座って彼の顔をキスマークだらけにしていたのだった。町長は彼女を養子にすると言い出した。
なんとも凄いセクシーダイナマイトなラナである。こういう女性には特別なフェロモンが蓄えられているのかもしれないなあ。

リー将軍になりきってしまい周囲のものも巻き込んでいくベン・ホーン。オードリーの願いでジャコビ医師は南北戦争を終結することを決意。グラント将軍になりすまして降伏のサインをする。ベン・ホーンのリー将軍が南軍に勝利をもたらしたのだ(無論歴史上は北軍の勝利)ここでベンは倒れてしまう。そして正気に戻るのだ。オードリーたちはほっとして笑い出す。
大きな敗北感を味わったベン・ホーン。リー将軍になって南軍を勝たせることでやっとバランスをとるとは。大変なリハビリであった。

ジェームズはエヴリンたちの罠にはまり窮地に追い込まれる。訪ねてきたドナが彼を救う。
ツイン・ピークスだけでなく様々な街で様々な事件が起きている。
ジェームズは結局ドナでなくローラのようなタイプの女性が好きなのだ。美人で秘密の影のある悪の匂いのする女性。一時期ドナが悪ぶって見せてたけどあれはジェームズがそういう女性が好きだと感じていたからなのだろう。でもドナは心底悪女じゃないからジェームズは本当は物足りないのだ。ローラとマデリーンの死から逃れる為、旅に出たジェームズはエヴリンに出会いローラに似た悪の雰囲気を感じたのだ。最後に「僕も君が好きだ」と言ってしまったのは嘘ではないのだろう。むしろそこに本音が出てしまった。
本人は純真なのに悪女が好きなジェームズと悪女じゃないのにそんなジェームズを好きなドナ。彼らの愛情は常に危険な状態なのかもしれない。

最後、クーパーの部屋にウィンダムがテープを残していた。「いつまでもキャロラインを愛している。君もそうだな。デイル、よく聞けよ。君の番だ」
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2007年12月17日

『ツイン・ピークス』シーズン 2 Vol.4 第19・20章デヴィッド・リンチ

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やや緩やかに進行しているので2話をまとめて。
ベン・ホーンはおかしくなってアメリカ南北戦争オタクになってしまいリー将軍になる。
ベンと組んで金儲けをしようと企むボビーは当てが外れる。

行方不明になっていた少佐は突然家の中に現れ優しき奥さんを驚かす。
彼は炎の間から抜け出し闇の中に何かが、と思ったら焚き火が消え、2日間が経っていたのだと言う。他には何も思い出せないが感覚は残っていて巨大なフクロウの不吉なイメージが残っているのだ。
右耳の後ろに傷跡が三角形に残っている。
クーパーたちに「ホワイトロッジを探している」と言いかけたところで少佐は大佐の命令で連行されてしまう。

ディックは悪魔っ子ニッキーに殺されそうになりアンディと組んで、彼の秘密を探る。

ネイディーンはレスリング部のハンサムなマイクにお熱をあげ猛アタック。投げ飛ばされてさすがにマイクは怖気づくが激しいキスをされてたじたじとなる。

ノーマとエドが急接近。その様子をハンクに見られてエドは殴られてしまうがそれを見つけたネイディーンがハンクを投げ飛ばしてしまう。

傷心旅行中のジェームズはワケありの美女エヴリンとただならぬ関係に。彼女は夫に2週間に一度殴られるというのだ。心配している美女の兄、と思ったらエヴリンは兄マルコムと激しい(こればっかり)接吻を。

ボビーが悪だくみに夢中になっているのでレオの世話を一人で背負い込み鬱憤の溜まるシェリーであった。だがある晩突然レオが立ちあがったのだ。どうなるシェリー。

帰ってきたジョシーは悪女キャサリンにメイドとなる事を命じられる。それを見たハリーはジョシーを救おうとするのだが。

そのキャサリンはおかしくなってしまったベンに会いよりを戻そうとする。
オードリーは相変わらずクーパー捜査官一筋。考えたら結構けなげである。彼を窮地から救おうとルノーたちが密会している写真を盗みだす。
クーパーはFBIの資格と拳銃を取り上げられているがハリーによって保安官補に任命される。
ツインピークスに居住しようと家の物件を探すうちに彼の投げたコインが一枚の写真に落ちた。「デッド・ドッグ・ファーム」というその家には誰も寄らないという。何かを感じたクーパーはその家を訪れそこに下剤とコカインの粉が残っているのを発見する。
一味であるアーニーを抱き込んでルノーたちを捕まえようとするのだがあと一息で失敗し、クーパーが身代わりとなって捕まる。
クーパーを助けようと女装捜査官デニースがウェイトレスの格好で差し入れに近づく。
スカートの下の太ももに拳銃を隠しているのをクーパーがすかさず取り、ルノーを撃つ。だが彼を殺してしまった。

若い女性と結婚した老人がベッドで死亡。彼女は高校生の時から付き合う男性がいつも不幸に見舞われるのだと言う。
だがその色っぽさはいつも男性をひきつけてしまう。
アンディまでもが彼女にうっとりしているのを見つけ、ルーシーは怒り心頭となる。

クーパーはウィンダム・アールの手が読めずに苦戦する。クーパーが出した手はウィンダムにすでに読まれていたのだ。
そしてウィンダムは見知らぬ男の死体でチェスの一手を示すというグロテスクな表現でクーパーに挑戦する。その手は針金固定されチェスを指さしていた。

2話に渡って橋渡し的な展開だった。どれもこれも気になる、というところか。
クールなホークが美人の前で威張って見せてドジを踏むという茶目っ気を見せた。
シェリーはいつまでも不幸な人である。
エドがハンクに殴られどうなるのかと思ったらネイディーンが助けるとは。彼女がいたらどの犯罪も解決しそうなのだが。

それにしてもモルダーの女装は可愛いゾ。
posted by フェイユイ at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | ツイン・ピークス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月16日

『藍宇 情熱の嵐』關錦鵬

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かつて何度となく観返したこの映画を久し振りに観るのなら寒い冬にしよう、と思っていた。
夏の場面もあるのだが何と言っても印象的なのは旧正月前に再会した藍宇に捍東がマフラーを巻いてあげる場面である。
その場面でその温かさを感じたかったのである。旧正月前ならもっとよかったが待ちきれず少し早めになってしまった。

『藍宇』この作品には色んな思いが詰まっていて一口にあっさりと感想を述べることはできそうにもない。
こうして藍宇と捍東の部屋を観ていると過ぎ去った日のことを懐かしく思いだしてしまうのだ。

この映画の粗筋だけを追えばもしかしたら陳腐だと思われるのかもしれない。
それでも傲慢で身勝手な捍東を心から慕い続ける藍宇の純真な気持ちにはやはり惹かれてしまう。
そしてもう一つの魅力は昔話ではなく、文革の頃でもないかなり身近な中国の都市の情景が映し出されていることである。
そして文革後の中国都市の大きな変化が恋物語の背景に描かれていく。この情景が物語と絡んでいく様がこの作品の妙味でもある。
北京人で裕福な為にやや自堕落な捍東と田舎(東北)出身で懸命に働き勉強する藍宇の姿が対照的に描かれている。
高度成長で街中に高層建築が建てられ始める、その仕事に藍宇自身が関わっている。
捍東の浮気で仲違いした間に天安門事件が起こる(1989年6月4日)その夜藍宇を案じた捍東は銃声が響き学生達が走り回る街中を彼の姿を探し求める。
出会った時抱きしめあう二人、藍宇の泣き声が印象的である。
よりを戻した二人は郊外に建つ洋風の家に住む事になる。捍東の金持ちぶりが判る。他にも捍東がいかにも田舎じみた格好の藍宇に洋服を買い与えると「まるで日本人みたいだ」と言ってみたり、捍東がメルセデスに乗っているので「珍しい車だ」と別の青年に言われたり、二人で日本料理店(食べていたのは中華料理だったが)で落ち合ったり捍東の弟衛東が坂本龍一を聞いていたり、藍宇が借りているアパートが日本人がいた場所を安く借りれたなどその頃の中国の都会の様子が伝わってきて面白いのだ。反面、捍東の家の中国的な旧正月の雰囲気、全体にやはりまだ古めかしさが感じられるところなどが見て取れる。そういった古さと新しさが入り混じった街に興味が惹かれてならない。

自己中心な捍東は身勝手に藍宇を求め捨てる。常に金でかたをつけようとする。藍宇は一途に捍東を思い続けている「病気なんだ。こんなに好きになってしまうなんて」
捍東の我儘で何度も別れと再会を繰り返したどり着いたのは藍宇の小さなアパートの狭いベッドの上。
窓の粗末なカーテンの隙間から入り込む光の中で抱き合う二人にずっとこのままでいて欲しいと思ったのも束の間、残酷な運命の知らせが捍東に届く。

車に乗った捍東が藍宇が働いていた建設現場を訪れる。二人がいた北京の街には次々と高層ビルが建ち、街は大きく変わろうとしている。
藍宇の思い出が消えていくかのように捍東の胸の悲しみが突き刺さっている。
捍東が疾走する車から見える建設中のハイウェイ。そこに藍宇がよく歌っていた黄品源の歌が甘く切なく聞こえてくる。街並みは二人の思い出のように過ぎ去っていくのだ。

思い出の中で藍宇を抱きしめる捍東。

この物語は観る人によって涙を誘い或いは何の意味もないのかもしれない。
過ちを繰り返し、取り返しのつかないことになってしまった秘められた恋物語。
傲慢で馬鹿な男と一途過ぎて馬鹿な男の話である。
でも私には狭いアパートで抱きしめあいながら眠っていた二人の安堵にも似たその姿に目を奪われないではいられないのだ。

監督:關錦鵬 編集/美術/衣装:張叔平  出演:胡軍、劉Y、蘇瑾、李華彤
2001年香港


捍東を演じた胡軍、藍宇のリウ・イエのどちらも素晴らしく見惚れてしまう。
二人とも大柄で男性的な顔立ち、体格である。
この映画に惹かれた理由の一つは香港のスタンリー・クワンが映画監督とはいえ、舞台が中国北京であり(かなりのゲリラ撮影であったらしい)主演者たちも現地生まれ育ちであるということだ。
同性愛が題材である為撮影は困難を極めただろうが出演者の素晴らしい演技もあってぞくぞくするような出来栄えになっている。
胡軍、リウ・イエの二人はゲイではないと思うのだが、この作品の中では深く愛し合っているようにさえ感じる。
最後のベッドの中のキスシーンで受けになっている藍宇が捍東がキスをするより早く自分の顔を近づけて彼の唇に触れるのが感動的ですらある。

私はこの映画を台湾版DVDで鑑賞したのだが、それには『ビハインド・ザ・スクリーン』『メイキング・ブルー』なるものが付録されている。
そこでこの映画を撮るスタッフ、主演の二人の姿が映し出されているのだが、本編に負けないほどの出来栄えになっている。
本編に出てこない映像もありその中には切ってしまうのが惜しいほど仲睦まじい二人の様子が撮られている。
号泣する藍宇をなだめる捍東、風呂場で藍宇にシャンプーをしてあげる捍東、公園で肩を寄せてベンチに座り歌を歌う二人。
監督が見守る目の前で愛の言葉を囁く捍東と藍宇はまるで監督の存在に気づいてないかのようにさえ見えて二人だけの世界に入り込んでしまっていると思えてしまう(そんな二人をじっと見つめる監督の眼差しも熱く心酔しきっているようだ)
撮影の合間の二人も仲がよさそうでくすぐったいほどだ。はっとするほどいい表情の映像もあってこのまま一つの作品にできないかと思うくらいである。
実際二人は撮影が終わった後も余韻が残り普通の状態でなくなっていたためにスタッフが「会わないでしばらく離れていた方がいい」と忠告しなければいけないほどに影響を受けてしまっていたらしい。互いに妻と恋人の女性がいる為に心配なほどだったというのだ。
そこまでのめりこんでしまう演技というのは、と思わずにはいられなかった。

ところで私のブログ名『藍空』を何と読んでいただいているだろうか。ま、ここで問うたら自ずと知られてしまうが「あいくう」とか「あいそら」とかまちまちのような気がする。
実はこのブログ名、前にも書いたがこの『藍宇〜ランユ(Lan Yu)〜』からいただいているのだ。ということで読み方は「ランコン(Lan Kong)」なのであった。
『藍宇〜ランユ〜』という字と響きが好きでそのままつけたかったのだがファンも多いし誤解を生じてしまうので「宇宙より下で空にするか」と『藍空』になったのである。なのでこの映画には特別な感情を持たざるを得ないのだ。
読み方に関してはどれでも別にかまわないです(笑)私も変換する時は大概「あいくう」でやってるし(ランコンじゃ変換しない)

そして今回見つけてしまったのが黄品源とジェイ・チョウがデュエット(?)している『ニーゼンモショダウォナングォ』
この歌をまさかジェイが歌っているのを観れるなんて!!!鼻血が出るかと思った。

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2007年12月14日

『SWEET SIXTEEN』と『大人は判ってくれない』

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最初この映画を観てどうしようもないほどの衝撃を覚えた。再度観た今回、リアムの苦しみ、悲しみが余計に伝わってきた。
昨日『大人は判ってくれない』を観てどうしても『SWEET SIXTEEN』を観なおしてみたくなったのだ。
確かにこの二つの作品はよく似ている。義父がいるところ(リアムのいは義父でもないようだが)次第に悪い道にはまり込んでいくところ、親友が助けてくれるところ、そして最後の場面。
逆に最も違うと感じるのは主人公の母親への愛情なのだ。『大人は判ってくれない』では心底自分を愛してくれない母親に対し、もうアントワーヌの心は冷め切ってしまっているように感じる。鑑別所でも友人ルネが訪ねてきたのを見た時は凄く喜んだアントワーヌが母親の姿には固くなってしまう。アントワーヌが最後に見せる虚脱感は誰も家族が愛してくれていない寂しさだ。
リアムは母親を深く愛しすぎるほど愛している。彼が悪い事をするのはすべて母親を喜ばせたいという一心からだけなのだ。母親は彼に対して冷たくはないが、気持ちはリアムから離れてしまっている。彼女が本当に欲しているのはリアムが嫌っているヤク中のスタンなんかの男だけなのだが、リアムはそれを気づかない。気づきたくないのかもしれない。だが彼にはもう一人彼のことを本当に心配してくれる姉と甥っ子がいる。リアムがアントワーヌより少しだけ救われるのは彼女達がまだ彼を愛してくれているからだ。
アントワーヌもリアムも欲しがっていたのは親からの愛情だけだった。ただそれだけのものを彼らは与えられる事がなかったのだ。
その事実を突きつけられた時、アントワーヌは鑑別所を脱走し、リアムはそれを教えた男スタンをナイフで刺してしまう。それだけは聞きたくなかった事実だったのだから。
その後、二人は海辺へと走っていく。相手のいない孤独なアントワーヌは一人海の中にはいり悲しみを湛えた目でこちらを見る。その目ほど悲しいものはない。
リアムは姉からの電話を受け取り皆が探していることを伝える。リアムはもうバッテリーが切れそうだ、と言い茫然と波打ち際まで歩いて行く。
もう何も残っていないアントワーヌよりもリアムにはまだ何かできるような希望を抱かせてくれる。
どちらが凄いかというようなことではなく、二つの作品ともに私は他にないほどの強い悲しみと愛情を持ってしまう。

二人の少年どちらにも深いつながりのある親友がいてくれることは本当に嬉しいことだ。
両方とも共に悪だくみをし、そして窮地に立った時は助けに来てくれるありがたい友人である。
この物語の間だけではなくこの後もずっと友人でいてくれるような相棒なのだ。

非常にクールで主人公の心理描写なしに映像を作り上げたトリュフォーの『大人は判ってくれない』に対し『スイート・シックスティーン』では台詞でも表情でもたっぷりとリアムの心情を表現している。そのために彼の母親への愛情、それを失った時の悲しみが痛烈に伝わってくる。ピンボールとの友情と仲違いも心に響いてくる。リアムが襲われたのを見て助けようと飛び出して行くピンボールの姿、リアムに裏切られたと思い自分の顔をナイフで傷つけたピンボールを見て驚くリアムの悲しげな表情も印象的である。
そういった表現方法の違いも興味深くまたどちらも素晴らしいと思ってしまう。

この二つの作品のどちらかを選ぶという事はできそうにない。
感情表現の豊かな分『スイートシックスティーン』が判りやすいということはあるかもしれないがクールな『大人は判ってくれない』がかっこいいとも思える。
ラストシーンも似てはいるけどこちらは際立った演出の『大人は判ってくれない』のすぱりとした切り口が印象的ではあるだろうか。

主人公の少年もどちらともいえないくらい両方とも可愛らしい。さすがにパリっ子で金持ちではないのだけどなんともおしゃれな印象のアントワーヌといかにも田舎者じみたダサい格好のリアム、どちらも好きなのだ。アントワーヌはしゃべり方も可愛かった気がするが、リアムの英語は物凄く聞きざわりが酷いのではなかろうか。英語の訛りなど全くわからないが彼の言葉はかなり田舎っぽいように思えるのだがどうなのだろう。その辺も含めて可愛らしく思ってしまう。

ラストシーンだけではなく全体の物語が非常に似ていると思えた『SWEET SIXTEEN 』と『大人は判ってくれない』を並べて考えてみた。『SWEET SIXTEEN 』のリアム・ピンボールの関係は北野武『キッズ・リターン』から影響を受けたということらしくなるほどと思えた。あの作品も大好きなのである。

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ラベル:少年期
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2007年12月13日

『大人は判ってくれない』フランソワ・トリュフォー

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少女時代にこの映画を観て、どこへ行っても小突かれるばかりで行き場のない彼、少年アントワーヌのもの言いたげな眼差し、そしてその日本語タイトルにも強く惹かれたものだが、大人になって観なおしてみると余計にアントワーヌの孤独が伝わってくるようであった。

この映画でどうしても思い出してしまうのは先日観たケン・ローチ『スイート・シックスティーン』
本人は懸命に頑張っているつもりなのに男の子ゆえの本能なのか、どうしても悪い方向に歩いてしまい、親達には嫌われ行く当てのない状況に追い込まれてしまう、という物語が非常に似ている。
しかしより切なくどうしようもない圧迫感を感じるのはこの『大人は判ってくれない』のように感じたのだが、それは時代のせいと主人公の年齢がこちらが少し幼い(あちらは16歳でアントワーヌは13歳くらいか)こと、そしてこちらではすべての大人がアントワーヌに辛い態度を取るせいだろうか。『スイート』にはまだ救いがあった気がする(悪い救いもあったが)
アントワーヌは確かに学校での態度は悪いのだろうが、家庭では母親の言いつけを忘れない限りはよく手伝いをしてむしろ良い子のようにさえ思える。母親の連れ子だが義父とも仲良くしようとする気持ちがある。
大人になった自分の目からは両親特に実の母親の冷たさが信じられなくて憤ってしまう。だがこういう現実を背負った子供も実際にいるのだろう。13歳の子供には逃げる権利も自由もない。
残されているのは小さな反抗だけだ。それでも家がなければ食べる事もできず首根っこを摑まれて帰されてしまう。
ただ時がたち子供でなくなるのを待つしかない。
だがそう簡単に大人にはなれずそれまでに何度も何度も叩かれ罵られるのだ。
日本語タイトルは印象的で大好きなのだが、映画を観るとやや意味が違うような気がする。『大人は判ってくれない』だとわがままな子供が駄々をこねているようで、もしかしたら誤解されているのかもしれない。アントワーヌはそんなことを口に出してはいないのだ。
原題は『LES QUATRE CENTS COUPS』直訳では『400回の殴打』となるらしい。アントワーヌは言葉と体罰をひっきりなしに受け続けているのだ。

母親から「もうお前を引き取るつもりはない」という酷い言葉を言い渡されたアントワーヌは少年鑑別所から脱走する。
一人ぼっちで逃走し海辺へと向かう。波打ち際で途方にくれたように立ち止まるアントワーヌのクローズアップに胸を打たれる。
唐突に終わってしまうこのラストは衝撃的ですらある。
彼がどうなるのか、彼をどうしてあげればいいのか、彼の目が忘れられない。
このシーンもまったく『スイート・シックスティーン』と同じである。

確かに泥棒はいけないに決まっている。親が死んだという嘘もいけないことだ。
でも自分にとってはアントワーヌが可愛くてしょうがない。ストーブに石炭をくべて汚れた手をカーテンで拭う場面、映画館からポスターをさっと盗んでいく場面、家出をしておなかをすかし牛乳を盗んで飲み干す、捕まって檻のなかでタートルネックのセーターに顎を埋める仕草、悪友と連れ立って歩いて行く様子は少年のまだ細い体だが、真直ぐに足早に進むのがとても綺麗である。
その親友ルネだけはアントワーヌを見捨てず鑑別所にも会いに来てくれる優しい友人である。(この関係も『スイート』の友人関係と重なる)

物語は事実だけを追っていくような形で作られている。アントワーヌの心情が細かに説明されることはない。それだけに彼の気持ちを考えてしまうのだ。

時代が移り変わってもこの作品はトリュフォーの優れた映画の中でも一番心に訴えるものとして人を惹きつけていくのだろう。
アントワーヌを演じた少年ジャン・ピエール・レオーのその眼差しも。

それにしても少年達の悪戯振りの可愛らしいことといったら。まあ当事者だったらそうも言ってられないのだろうが眺めているぶんにはやんちゃ坊主たちに喝采したくなる。
町中を先生が引率する列から一人二人と脇道や店の中に抜けていってしまうのがおかしい(これはジャン・ヴィゴ監督の『新学期・操行ゼロ』のパロディらしい)とにかくじっとしてはいられない時期なのだ。
アントワーヌに対する母親の態度はどこの国でもあることなのだろうがフランスといえば『にんじん』を思い出してしまう。実の息子なのにどうしても虐めてしまう母親が不思議でもあったが実際そういうことは少なくない事実なのだろう。
親友ルネの部屋で煙草を吸ってその煙りに父親が気づくのだが「小遣いから煙草代を引くぞ」とだけ怒っていたのも驚きだった。

胸に迫る悲しい話ではあるが舞台がパリだからだろうか、少年達の格好もアントワーヌの仕草も小粋で素敵なのだ。
鑑別所で新聞紙を引き裂いてポケットから煙草のクズを取り出して巻き、慣れた風で吸うのもかっこいい。
寒そうな冬のパリの街を小柄な二人の少年が細い足を忙しく運ぶのも美しい光景である。

監督:フランソワ・トリュフォー 出演:ジャン=ピエール・レオ、パトリック・オーフェー、アルベール・レミー 、クレールモーリエ
1959年フランス

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ラベル:少年期
posted by フェイユイ at 23:09| Comment(3) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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