
変な映画が好きである。奇妙なもの、驚かされるもの、あり得ないもの。先日観たアルモドヴァルもそうだし、デヴィッド・リンチ、日本では三池崇史や塚本晋也なんか。
それらの映画監督の作品以上に初めて観た五社英雄、凄かった。シリアスに荒唐無稽であった。
大正から昭和初期にかけての土佐のヤクザの話ということもあるのだろうか、登場人物の考え方、言動にいちいち驚かされてしまう。
そのぶっ飛び方は尋常じゃない。だからと言って彼らの心情に共感できないのではなく、土佐弁の迫力と鬼政親分に度肝を抜かれながらも見入っていたのだった。
まず驚くのはタイトルで、途中何故これが『鬼龍院花子の生涯』なのだろう、と思ってしまう。その半生を辿られるヒロイン(夏目雅子)の名前は松恵なのである。
だが観終わってしまえば自分にもうっすらと物語の構造が浮かんでくる。そしてこの破天荒な物語に固い骨組みがあることを知る。固すぎてまた驚くほどである。
この物語では時代の移り変わりが描かれている。旧時代を代表するのは鬼政こと鬼龍院政五郎である。世の中を力で支配しようとし、女は無論自分の支配化に置く存在だと信じている。妻・歌(岩下志麻)が腸チフスになり医者から隔離入院を勧められても女を外に出すものじゃないと頑として聞かなかった。この頑固で無知な支配のために鬼政はよき妻を死なせてしまうのだ。
だがその鬼政は妻・歌との間に子供が出来ず、貧しい商売人から養子をもらうことにする。始めは男子だけと思っていた鬼政はその場で突然横にいたその子の姉・松恵の利口そうな顔を気に入って共に養女にする。
幼い姉弟にはヤクザの家は怖ろしいものであった。弟は我慢できずすぐに家出してしまう。松恵は弟の分まで頑張ってヤクザの義父に尽くそうと決心する。
ここでもすでに旧時代である鬼政が何を思ったのか、女の子である松恵を気に入る、ということで一つの兆しが見えている。
また男である弟は恐怖に耐え切れず逃げ出し、女の松恵がその試練に耐えたのだ。
この松恵こそが新しい時代、新しい女性像を象徴しているのである。
旧時代の姿・鬼政の言動はいちいち気に触る。特に女に対しては差別的意識しか持っていない。
その鬼政を義父としながら松恵は持ち前の聡明さと素直さで一つ一つの障壁を越えていくのだ。
その松恵との対比となるの鬼政の娘・花子である。旧時代の父である鬼政は遅く生まれた妾腹の花子を溺愛する。
そして娘・花子もまた父の庇護の下で甘えて育ちやがて父が探してきた結婚に幸せを感じているだけなのである(本当なのだろうか。花子にはまったく何の考えもないように見える。そんな人間が本当にいるのだろうか)だが、その結婚が駄目になり敵方のヤクザに誘拐された花子は救いに来た父親に逆らい、そのまま行方不明となる。暫くして花子は父・鬼政に「助けて」という手紙を書き、遊郭で死体となって発見されるのだ。
何もせず育ち何も出来ないまま死んでいった哀れな花子の生涯。彼女は古い考えを持つ鬼政の檻から飛んでいくことができなかった。
一方の松恵は小さい時に実親から離され、怖ろしい力を持つ義父の下でそれでも負けまいと戦いながら成長した。自ら勉強を続け、女子校への進学を渋る鬼政を説得し、教師となって自活できる女性になったのだ。
古い人間鬼政の娘でありながら二人の女性はまったく違う人生を辿った。
だが松恵の成長のために鬼政もまた関わってはいるのだ。彼は松恵を見出し、松恵の性格を知って好意を持っている。女に学問はいらないと言いながら折れて進学を認めている。
また鬼政は松恵を一度強姦しようとしている。
鬼政が気風のよさに感心した男・田辺(山本圭)を花子の婿にと考えたのだが、田辺は松恵を嫁にと願ったのに腹をたて、他所の男にやれるかと鬼政は松恵を手篭めにしようとしたのだ。だが激しく抵抗する松恵の前にあっさりと折れて謝る。義娘に手を出すなど信じられない行為だが、あくまで男本意の鬼政には多分当たり前のことなのだ。だが、松恵が意思をはっきり示したので鬼政はそれ以上のことはしない。実にあっさり男らしい態度なのである。(などと言えるか、といってもいいが本当に鬼政はあっさりとしているのだ)
そして最後を感じた鬼政は松恵に「お前だけが俺の自慢だ」と優しく語り掛ける。この場面はさすがにぐっときた。
鬼政は自分はヤクザではなく侠客だと名乗ってきた男である。その生き方は単純明快で極端であるが隠微な所はない、男らしさがある。反面、融通がきかず、頑固で騙されもする。
そんな鬼政は実の娘は甘やかし、一人前の大人にすることができなかった。花子自身、何も判らないままの人生だったのは不幸だった。
最後、悲しい花子の手紙を川に流し、日傘をさして立ち去る松恵の姿は凛として微塵の不安もない。強い彼女ならまた一人で働き生活しまたよき伴侶を得ることが見えているからだ。
守られかわいがられ、何もできなかった『鬼龍院花子の生涯』ほど悲しい一生はない、とこの作品は物語っているのである。
本作は役者陣が有名で豪華絢爛でありながら実に素晴らしい。
まずは鬼政を演じた仲代達矢。この鬼政役こそがケッタイ極まりないというのか、どうしたらこんなキャラクターが出来上がったのか不思議でしょうがない。土佐の男はこういうものなのだろうか。とにかく仲代達矢の台詞回しが気になって気になってしかたない。と思ったらこの話し方『龍が如く』の岸谷五朗同じではないか。あちらの方がもっと癖をつけていたがこの破天荒な行動とともに岸谷氏、絶対この仲代=鬼政をパクリもといモデルにしたに違いない、と思うのだが、誰か詳しい方如何だろうか。
とにかく旧時代の古臭い男の典型で時には腹立ち、ムカつくが男らしいことには違いない。男も女も惚れるだろう。ただ父親としては最悪なのだ。
苦境の中を懸命に生き抜く松恵を演じた夏目雅子。この作品では特にその魅力、美しさが際立っているのではなかろうか。きりりとした知性と優しさを併せ持つ彼女をヤクザの子分たちが「まっちゃん」と呼んで慕っているのも頷ける。花子にはまったくそういう魅力がないのだから。
(今、気づいたが名前にも意味があった。儚く散ったのが「花」子で長く強く生き抜くのが「松」恵なのだ。日本的)
確か、公開当時はこの映画の過激さと彼女の「なめたらあかんぜよ」という台詞が話題になっていた。
この台詞は彼女の夫・田辺(貧しい人々のために労働運動をしていた)の死後、夫の父親がヤクザの娘に大事な息子の遺骨を渡せるかと息巻いている時、松恵が「私は鬼政の娘。なめたらあかんぜよ」と吐き出すのだ。それまでヤクザを毛嫌いしていた松恵が、この台詞は言うのは不思議である。
だが亡くなった夫との苦労した生活は一言で言い尽くせないものがあり、それを察しない夫の親に対してぶちまけた時、この言葉になってしまったんだろう。松恵と田辺の愛はそれほど真剣な激しいものだった、という思いがこの台詞になったという表現なのだと思えるのだ。
また他にも、鬼政の妻を演じた岩下志麻の美しさ。彼女もまた旧時代の女性の姿でその最後は悲しい。死の間際にも化粧して美しくあろうとし、夫・鬼政との愛撫を思い出すのである。
鬼政の妾・牡丹に中村晃子、子分たちに室田日出男、夏木勲、アゴ&キンゾー、結婚話の際に梅宮辰夫と成田三樹夫、鬼政も膝をつく大親分に丹波哲郎、敵方の女将に夏木マリ、土佐電鉄ストライキの時にちらっと役所広司(!)といった面々である。
そしてタイトルロールである鬼龍院花子を演じた高杉かほり。これ以外に有名な作品はないようなのだが、それもまたこの悲しい存在にぴったりなのかもしれない。何を考えているのかわからないような、甘えたお嬢様そのものに見えた。ぴんと背筋の伸びた夏目雅子の清々しい美しさとはあまりに惨い辛辣な対比であった。
この作品、男性にとっても興味のあるものだろうが女性が観た時、より鮮烈な印象を残すのではないだろうか。
監督:五社英雄 出演:夏目雅子 仲代達矢 高杉かほり 岩下志麻 山本圭 仙道敦子 佳那晃子 高杉かほり
1982年日本