映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2008年02月29日

『カンフーダンク』大ヒット!祝賀会でジェイはお水で乾杯

『カンフーダンク』大ヒット!祝賀会でジェイはお水で乾杯

単に飲めないからでしょ、とファンならツッコミたくなるのだ。
それにしてもせっかくのお祝いの席で断固として自分の主義を通すのも偉いことだ。なかなかつきあいもあってそうできませんよねー。こういう世界ってお酒がつきものだろうし。感心します。お茶くらいにしてもよさそうなのに。いつもの牛乳はどうしたのかな。

こういう喜ばしい話もあり。
ジェイ・チョウ『カンフーダンク』続編は2010年公開へ
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2008年02月25日

『キャンディ』ニール・アームフィールド

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CANDY

麻薬というものには物凄く惹かれると同時に激しい怖れもある。これは私だけではなく多くの人が同じように思っているのではないだろうか。特に若い頃は興味があってたくさんの本を読んだりしたものだ。結局恐怖の方が強い上に体験するような機会がまったくなかった為に未経験のまま今に到っている。幸運だったというしかないのかもしれないが、常習者にとっては不幸な人間に思えるのかもしれない。
麻薬を題材にした物語は殆ど同じような筋道を辿っていく。軽い気持ちからはいり、いつでも抜け出せると信じ、少しずつしかし間違いなくはまり込んでいく。途中下車してしまう者は殆どいない。やがて無気力になり、麻薬を買う金も底をつき、仕方なく売春を始めるか強盗へと走る。次第にその回数が頻繁になり精神と肉体が壊れていく。

先日観たガス・ヴァン・サント『ドラッグストア・カウボーイ』と本作はまったく違う話でありながらも殆ど同じ筋である。
仲のよい恋人同士がドラッグ漬けになりながら共同生活を続ける。その経過はどちらも上に書いたとおりである。違うのは『ドラッグストア』が他の仲間がいてこちらは二人きりということ。あちらにはウィリアム・バロウズが演じていたジャンキー神父が登場し、ここでは話の判る大学教授が出てくる。
こうも似てるのはおかしいほどだが、ジャンキーの行く道はどこでもあまり変わらないだろうと予想はつく。
互いに相手を叱らないから仲良しでそしていつまでも続いていくのだ。

本作は「天国」「地上」「地獄」と分けられていたが、「天国」と題されているはいえ、非常に不安定で頼りなく彼らの思う天国が他者からはさほど天国には思えない。考えているのはただどうやって麻薬を手に入れるか、ということだけ。障害に当たると自分流のすり替えの理屈で逃げ出してしまう。次第に逃れられなくなってしまってもその時はもうどうしようもなくなっている。

美しい恋人キャンディを心から愛しながらも麻薬からも逃れ切れないダンを演じているのがヒース・レジャーである。
ファンが本作を見れば彼が亡くなった時、麻薬をやっていたという噂とか、麻薬をやっている映像が残っているだとか(彼自身はやっていなかったようだが)そんな話がこの映画と悲しく重なって見えてしまうだろう。
そしてこの映画でもヒースが魂を込めて演じているのが伝わってくる。
本当に麻薬でおかしくなってしまったのでは、と思うほど顔色が醒め、目は落ち窪み、体もわざとたるませているのではないだろうか。焦点が合わず、酷く無気力で呂律も回らない。
そんな中でもキャンディを愛し続けているのだが、その愛が彼らを不幸にしてしまっているのだ。

『ドラッグストア・カウボーイ』では麻薬の幻想をアニメっぽい映像で表していたが、ここでそのイメージはプールの水の中である。
美しい水の中に泳ぐ間、ふたりはこの上なく心地よい。だが溺れてしまえば苦しくなり、あがけばあがくほど浮かび上がれなくなる。
また冒頭の回転遊具で遊ぶ二人の姿もそのイメージなのだろうか。身動きできないほどの回転の中で生まれる浮遊感。喜び笑いあう二人だが、その激しい回転から逃れる事はできない。
この回転遊具からは『大人は判ってくれない』を思い出した。アントワーヌはあの回転の中で逃れられない苦しみを味わっていたのか。

本作と『ドラッグストア・カウボーイ』の違いはあちらは麻薬の苦しみというよりジャンキーというのはこういうものだと醒めた視線でもしかしたらやや肯定的とも思えるかっこよさを描いていたのに対し、こちらはジャンキーの惨めさ、悲しさが強く訴えてくるという所だろう。
特に妊娠したキャンディがそれでもクスリを止められず、死産と言う形で赤ん坊を抱く場面は怖ろしく悲しい。
それでもまだ麻薬を止められないまま売春とクスリを続ける姿はおぞましくさえ見えてくる。

唐突にキャンディは病院に入ったことで地獄から抜け出す事ができた。
最後のダンの姿は何を示しているのだろう。落ち窪んだ目から彼はまだ抜け出してはいないように見える。何も言わず去ったキャンディは彼に何を言いたかったのか。
ここで映画は観る者に判断を委ねているようだ。この後、キャンディとダンがどうなるのか。助かったと思ったキャンディもまた逆戻りするかもしれない。泣きながらキャンディを見送ったダンもやがて更生できるかもしれない。
だがダンが言うように「すべては、はかないもの」彼らがどうなるか、観る者がどう思うか、それはそれぞれが決めることなのだろう。

この作品を観ればまたヒース・レジャーという役者を失った悲しみを覚えるだろう。
最初の頃のまだ明るく体も損なわれていない状態の彼と次第に破壊されていく彼の変化を見ていれば言葉の説明はいらない。
キャンディをひたすら愛し続ける姿も辛い。
冒頭の回転遊具の場面でヒースの首筋に綺麗な書き方でひらがなの「ず」という字が見える。刺青なのだと思ったが次の場面では消えているし、大体「ず」ってなんだかわかんないし、もしかしたら後の文字がシャツの下に隠れているのかも。それでも「ず」のつく文字って何かあるか?ずんどう、ずばり、ずわいがに・・・まさか。
上の写真右側のヒースの首に“ず”の字が。

何故か凄い金持ちでジャンキーの教授役にジェフリー・ラッシュ。アビー・コーニッシュはかわいかった。ヒースと違ってそれほど変化しない、と思っていたら途中から怖ろしく見えてきた。本当にジャンキーで妊娠して、なんて考えただけで辛くなってくる。

世界中にいるジャンキーたちにこの映画を観て更生してもらいたいけど、この映画の主人公達のようにそんなことで逃げ出せる世界ではないのだよね。空しい。

ヒースがアメリカ映画だけでなくこうして母国オーストラリア映画にも出ていたことを思うとまた寂しい。

監督:ニール・アームフィールド 出演:ヒース・レジャー アビー・コーニッシュ ジェフリー・ラッシュ トニー・マーティン ノニ・ハズルハースト
2006年オーストラリア

追記:ほんとは追記じゃなく先に書くべきことだったかもしれないが、親はどうして娘の危機を傍で見ているだけなんだろうか。文句は言うけど羽交い絞めにしても止めさせる、という気持ちはないようで。
ここでは娘と母親の確執があったことになっているが「かわいい娘」とか言ってるし。父親も娘の夫に気持ちをつたえるだけで何が何でも娘を救う、ということはしない。
結果的にこうなった、というラストだったがどうかして助ける、ということはできない、ということなのか。
その辺が少し腑に落ちなかったのだが。
posted by フェイユイ at 22:45| Comment(2) | TrackBack(0) | オセアニア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第80回アカデミー賞授賞式

第80回アカデミー賞、発表されましたね。
私としてはとにかくまだ何も観ていない作品に思いいれもできにくいので傍観者という立場でありますし、気になっていた助演男優賞ノミネートのケイシー・アフレックと外国語部門ノミネート『モンゴル』の浅野忠信氏が壇上に立つのを見れなかったのが残念です。
助演男優賞はおかっぱヘアのハビエル・バルデムが最有力ということでしたし、外国語は『ヒトラーの贋札』が題材的にも強そうでしたから仕方ないというところでしょうか。
ケイシーも浅野氏もこれからますます期待できますしね。
ちらちらとTVが見れたのですが過去の授賞式で若かりしマット・デイモンとベン・アフレックの興奮した様子が見れて嬉しかったですし、今年亡くなられた俳優の中にヒース・レジャーの若い顔があったのは悲しいことでした。

さて作品賞、監督賞、助演男優賞、脚色賞と4冠を制した『ノーカントリー』コーエン兄弟のひょうひょうとした挨拶がよかったです。
勿論未見ですが内容も80年代、メキシコ国境沿いのテキサスを舞台に、麻薬取引がらみの大金を持ち逃げしたばかりに、理不尽なまでに容赦のない宿命を背負わされてしまう男の運命を描いたバイオレンスもの、ということでいかにも私好みでありますし、原作があの『すべての美しい馬』のコーマック・マッカーシーですからどうしても観たい映画です。
トミー・リー・ジョーンズ主演ですし。

主演男優賞のダニエル・ディ・ルイスは女王に跪いてすてきでした。
主演女優賞はみなさん、ちょっと驚きだったのでしょうか。私も噂ではケイト・ブランシェットかエレン・ペイジかと聞いていたのにマリオン・コティヤールでしたね。可愛らしかったです。

ところでこれは好みにもよるのでしょうが、最近“誰々さんを演じて驚くほどそっくり”ということで受賞していることが多いような気がします。勿論そっくりに演じる事には演技者として最高の技術と感性が必要な事はわかりますがその辺を狙うと賞が取れる、という考え方があるのでは、というのはゲスの勘ぐりというものでしょうか。
昔から多かったのか最近の流行なのか詳しいことはわかりませんが、こういうことを考えてしまうのは私が“〜にそっくり”という褒め方があまり好きでないからでしょうか。
無論、未見なのでコティヤールがどうなのかは知らないのですが。
カポーティにしてもそれほど感心しなかったからでしょうか。『クィーン』でエリザベス女王になったヘレン・ミレンは凄かったですけどね。ケイト・ブランシェットのエリザベスは「本人にそっくり」という賛辞ができませんがそっくりかどうかだけではないと思うのですがね。
むしろ本人と全然違うじゃん、という型があってもよさそうに思うのですが、そうすると「全然違う。あれは彼(彼女)じゃない!!」という怒りの声が上がってしまうのでしょうかねー。

そんなことを考えつつアカデミー賞授賞式、華やかな美男美女に見惚れておりました。

『ボーン・アルティメイタム』は編集賞など色々取りました。マットの姿も見たかったなあ。勿論男優賞でね。


『ノーカントリー』主要4冠! アカデミー賞、全受賞結果一覧

そして公衆の面前でジョージ・クルーニーにチュッとキスしたダニエル・ディ・ルイス、あらまあと思っていたらこんな記事も。

主演男優賞のダニエル・デイ=ルイスが、受賞後ジョージ・クルーニーにキスした理由を語る!
クルーニーもルイスもかっこいい!!

アカデミー賞『モンゴル』外国語映画賞逃す
『モンゴル』で知っているのは浅野忠信だけかと思ったら孫紅雷も出ていたとは。
浅野氏とのツーショットだけでも見たかったな〜。『梅蘭芳』撮影の為、欠席ですか。残念。でもこれでますます観たくなりましたよ。

助演男優賞を受賞したハビエル・バルデムが、壇上からスペイン語で母に語りかけた言葉の中身は?
posted by フェイユイ at 15:17| Comment(12) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月24日

『 DEATH NOTE 証言 〜Beginning of the Movie〜 』と『DEATH NOTE profile report from L ナビゲートDVD 』

death_note_.jpg『 DEATH NOTE .jpg

『 DEATH NOTE 証言 〜Beginning of the Movie〜 』と『DEATH NOTE profile report from L ナビゲートDVD 』を観る。

どちらも映画『デスノート』に関するインタビュー、宣伝などで更生されたものである。
一時に鑑賞したのでどのようなタイミングで出されたのかはよく判らない。
前者は藤原竜也に重点が置かれ、後者はまあそのタイトルどおりLに重点が置かれている。

こう言っては身も蓋もないが『デスノート』という作品自体に疑問を持っているので内容が面白いわけではない。
とはいえ、感想記事でも書いたがとにかく出演者が抜群にいいので観ていて飽きは来ない。
出演者の皆さんたちも原作作品にある程度疑問を持っているところが大人というか正常というかまっとうなのだと安心した。
監督自身が肉体で戦って殺しあうならまだしもノートに名前を書くだけで殺すなんて不健全だと言われているのも納得できる。

でも?と思う部分もあってそれはそう対して記憶に残っていたわけでもないのだが、映画版のみのキャラクターであるライトの恋人に言わせた「革命は常に裏切られてきた」という台詞を香椎由宇が特に取り上げて言っていたのだがこれは「?」という台詞で革命のすべてが完全に実らないまま終わったということはなく、完成度の高い低いはあれどフランス革命にしろ、チェ・ゲバラにしろ、文化大革命にしろ賛否は別にして何らかの変革を起こしたことに間違いはなくこれほどの大きな革命が幾つも世の中を変えてきたことを無視して「裏切られてきた」というのはナンなのか。まあ、どうにでも取れる言葉なので完璧じゃなかった、とだけ言いたいのかもしれないが。
香椎由宇演じる詩織というキャラクターがそういう認識だということなのか、ライトが行おうとしている革命に対し、映画製作者が危険信号を出す意識での台詞なのか。
聞き流していたのだが改めて言われると妙にひっかかってしまう。これではむしろライトを応援したくなる。

とはいえ、香椎由宇は綺麗でライトの恋人役にぴったりで好きなのだが。

どちらの説明ということでもなくごちゃごちゃになってしまうがどちらも隠し映像なんかが仕込まれていて楽しめます。逆にメンドクサイという人もいるかもしれないが。
藤原竜也も松山ケンイチも落ち着いててかっこいいし、それぞれの役に対する感じ方考え方も納得できる話だった。

一人の人間の妄想するだけの世界のような限られた範囲内だけの物語、積み上げるごとに不自然さが生まれてくる稚拙なルールなのだが、そのことが余計に観る者(主に若者というか子供)の心を掴むのだろう。
退屈な日常を送っている者に捧ぐ、みたいなキャッチフレーズだったが、それじゃ私は無理だな。毎日忙しくやることばかり多くて退屈したことなんかもう何十年もない。

演技をしているセットの裏側みたいなのが見れるのはちょっと面白い。
ラベル:松山ケンイチ
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ジェイ・チョウ 真・三國無双online

三國無双a.jpg三国無双.jpg

mayさんに教えてもらったジェイ・チョウ『三國無双』って何?と思っていたらこういうことだったのですね。

真・三國無双online

そしてこれも

無双OL

さらに

無双杰倫

かっこいいー!!!!
ジェイはやっぱこの世界がステキです。
どんどん探っていってみてくださいませ!!
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2008年02月23日

『ハリウッドランド』アレン・コールター

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HOLLYWOODLAND

この作品でベン・アフレックがヴェネチア国際映画祭 男優賞受賞したということもあって期待して臨んだのだが、どこかしら期待したものとズレがあって失望のうちに終わってしまった。

と言ってもこの作品の出来栄えがそうそう酷いわけでもないのだろう。よく似た題材の作品『ブラックダリア』より地味目で渋い仕上がりであり、ミステリーというより人間ドラマに重きを置いている点などからこちらに評価を上げる方もあるのだろうが、自分としては(そんなに『ブラックダリア』が大好きというのでもなかったが)非常に退屈を覚えてしまう2時間だったのである。

1950年代末、やや翳りを見せ始めたとはいえ、まだハリウッドが黄金の夢の世界であった頃、TVヒーローであったスーパーマン役者ジョージ・リーヴスの自殺は全米中の子供達をショックに陥れた。
だが彼の死は本当に自殺だったのか、ひょんなことから彼の死を調べる事になった私立探偵シモは調査するうちにリーヴスの苦しみと自分の今の状況を次第に重ね始め共感を覚えだすのだった。
欺瞞に満ちたハリウッドの華やかさにはまったく憧れを持つことができないし、そこで有名になったものの当時二流としかみなされていなかったTVヒーローの役しかできないことで苛立つリーヴスの悲しみも共感できない。仕事がなく事務所をたたみ、離婚した妻子からはうんざりした眼差しで見られているシモにも男の哀愁などを感じられない私なのであった。
つまりここで描かれていることは自分の好きな世界とまったく異なっている上に好きであるミステリーの要素が非常に薄い、ときては興味を保つ事が難しく激しい睡魔に襲われながら鑑賞を続けた。
作り手側は今はもう失ってしまったかつてのハリウッドの繁栄に郷愁を覚えながら底で蠢く野望や人間の醜さをリアルに再現したことに満足しているように思えるのだが、そういった要素のすべてがいかにもイメージするハリウッドそのものでそれ以外の何物でもないことを再確認させられることが退屈だったのだ。

これは趣味の問題でこういった話、華やかなハリウッドの裏話、落ちこぼれの探偵の悲哀、疲労した男の色気、などといったものにそそられる人にはなかなかの秀作として受け入れられるのだろう。
ベン・アフレック=リーヴスとエイドリアン・ブロディ=シモに魅力を感じなければいけないのだろうが、私には彼らの苦悩に同情できないのである。
幸運といってもいい仕事に不満を持つリーヴスと妻子のために身を粉にし這いつくばって養うべきなのにふらふらとして奇妙な行動をとってしまうシモ。
そういった存在になお共感と愛情を覚える人もいるだろうがいかにも可哀想だろう、という見せ方に嫌悪を感じてしまうのだ。それがリアルさを追求した表現なのだというのがわかるだけに余計嫌なのだ。
スーパーマンに嫌がらせをする子供や自分勝手な恋人などすべて事実を描いたのだろうが、露悪さだけがこう立て続けにでてくると何のためにそこにいるのか、何のために観ているのかすら判らなくなってしまう。
さらにシモが昔の家族のフィルムを観て反省し元妻子のところへ行くラストシーンにはなぜか激しくむかついてしまう。
この反感はもう理屈でなく感情として湧き出てくるものでどうしようもない。
この反感は以前『ゆれる』で感じたものに似ているのだが、物語はまったく違うのだが「華やかな世界(芸能界とか)」と貧しい生活者との対比、かつての幸せな時期のフィルムを観る事によって反省する顛末、というところが何故か同じだ。幸せだった頃を思い出して自分を見つける、という展開はいくらなんでも当たり前すぎないのか、と思ってしまう。同じように『ツイン・ピークス』の悪人ベン・ホーンも昔幸せだった子供時代のフィルムを再生して反省いい人になるが、これはその姿を笑っていておかしいのである。そういうことだと感じたわけなのだ。

何となくエイドリアン・ブロディ主演作は『戦場のピアニスト』『ジャケット』そしてこれ、と奇妙にも激しい反感を持ってしまってばかりなのだ。どうしてなのだろう。相性が悪いのだろうか。

ジョージ・リーヴスを演じたベン・アフレックはさすがにスーパーマンしかできない役者の憐れさが感じられてよかったが本音を言えばそこまで感動したとは言いにくい。
結局本物のジョージ・リーヴスを再現したご褒美なのかとすら考えてしまう。

ダイアン・レインも実物のトニーにそっくりということで評価されているようだ。年老いても美しい女性という役を魅力的に演じていたが、これも作品自体が疑問なのでそれ以上感じ入る事ができない。

自分的にはエディ・マニックスの片腕的存在の彼がちょっと好きだった。

要するにやたら男の哀愁めいた話はうんざりなのだ。その哀愁を楽しむ、という手もあるわけで。
それに気づかなかったのが悲しいのだといわれればそれまでだがどちらにしても好きなジャンルじゃなかった、ということなのだろう。
同じように悲しんでいても好きな話ならまた感じ方も違ってくるのだろうし。

しかしこの文章を読むのも私がこの映画に感じた同じ苦痛を与えるだろうなと冷や汗が。影の部分をみせるのは難しいものなのだ。

監督:アレン・コールター  出演:エイドリアン・ブロディ ダイアン・レイン ベン・アフレック ボブ・ホスキンズ ロイス・スミス ロビン・タニー
2007年アメリカ
ラベル:
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2008年02月22日

エディソン、香港芸能界引退、他地域での活動か

「香港わいせつ写真事件」でエディソンが引退発表
このところずっと騒がれていたこの問題。私はエディソンにとても好感と期待を持っていただけにショックです。この前観た『ドッグ・バイト・ドッグ 』が素晴らしかったのに。
私はいまいち事情がよく飲み込めていないので詳しくはっきりとは言えないのですが、本当にいけないのは誰なのでしょうか。

一体どうなるのかと心配していたら、引退発表という結末に。
これがもう最終決着なのでしょうか。
無論、あってはならないことでこの答えしかあり得ないのでしょうね。
もし無理に続けても立場もないし、良心も傷つくばかりでしょうから。
とても残念でしかたありません。

と書いていたら今度はこんな記事が
「わいせつ写真事件」のエディソン、今後は他地域で活動か
決めるのはエディソンなのでなんとも言えませんが、この道をとるのかな、とは思っていました。
どちらにしても今しばらくは苦しむことになるのでしょう。私自身としてはエディソンに立ち直って欲しいと願うばかりです。
posted by フェイユイ at 11:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 香港 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月21日

『親指さがし』熊澤尚人

親指さがし.jpg親指さがし2.jpg

えと。好きになった人のことをいうのは凄く恥ずかしいんですが、ここで隠すってこともアレなんで告白してしまうと、最近突然(ていうここんとこ凄い人気なんで不思議でもないですが)松山ケンイチがどうしても気になって、つまり好きになってしまったんですね。
で、無論役者さんですから映画を観ればよいのですが、正直言って観たいと思える作品がない。趣味の範囲内ではないのです。
先日観た『デスノート』は借りて観れる中でもまあ一番かな、と思って観たんですが、これはさすがに噂どおりよかったです。
その後っていうのに苦渋を飲んだんですが、2番目にこれといったらこれでした。(できるだけ、ちょい役でないのではってことですが)
そんなわけで暫く松山ケンイチ観ていこうかと思っています。
では手始めにこれ。

まずは主役の三宅健が意外にも大変よかったのではないだろうか。後で聞けば初主演ということらしいが、人気の高さと知名度を考えたらちょっと驚きではある。
テレビでその顔を観た事は無論あるものの別段よいとか思ったこともなかったが、映画としてみるとなかなか見ごたえある演技・風格だった。
映画そのものは映画というよりテレビドラマ、くらいの気持ちで観てしまった気がするが、なにしろ彼が甘いマスクと誠実そうなイメージなのですっかり騙されたのであった。
結構色んな役ができそうな予感のする人なのではなかろうか。

他の登場人物も(私が知らないだけだろうが)普通っぽい雰囲気の持ち主ばかりで自然に観れたし、全体にチープな感じなのも手作りぽくて好感持てた。

肝腎の松山ケンイチはさすがにうまくて普通の青年らしいとこがステキではないかと改めて感じ入ったのだった。
個性に強いLの真っ白顔とぼさぼさ髪とは全く違う短髪めがねくんでそこがまたキュートなのである。彼は目がちょっと危ない感じにいっちゃってるとこがあるんでめがねは正解だった。彼のチャームポイントはあの不満そうな歪んでめくれた唇でこれはここでも変わらず可愛かった。

伊藤 歩を知らなかったので初めは目立たない存在なのか、と思いきや、彼女が主人公のような展開になっていったのでやや驚きながらも面白く観ていた。

作品はホラーというより6人の男女の青春友情物語と思えてしまう。恋愛、とまではいかない淡い思いがそれぞれの胸にあるわけで、それがちらちらと見え隠れしているのも切なげである。
ホラー自体はこちらが考えなくとも村の見張り番という老人がきっちり心得を教えてくれたので拝聴するだけでよかったし。
つまりホラーはそれぞれの心の闇が生み出したものだということだった。判りやすい。
そのとおり恐怖は心が映し出す現象というモチーフで描いた青春物語の一種なのである。
三宅健主演となっているが実質的にはチエを演じた伊藤歩のほうが特に肝腎の後半、重点が置かれている。その描き方は共感の持てるものがあった。

この作品は松山ケンイチを観るという意味でも他の出演者でも結構いけるし、物語自体もちょっと薄くてラストもいまいちだが軽く楽しめる“ドラマ”に仕上がっていると思える(ほめ言葉になってないか)
1時間ほどのドラマに仕立てたら傑作になっていたかもしれない。

監督:熊澤尚人 出演:三宅健 伊藤歩 松山ケンイチ 永井流奈 尾上寛之 品川徹 春海四方 斎藤歩 野澤祐樹 小野明日香 佐野史郎 手塚理美
2006年日本

posted by フェイユイ at 23:26| Comment(5) | TrackBack(1) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月20日

『天国の口、終りの楽園。』アルフォンソ・キュアロン

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ガエル・ガルシア・ベルナル出演作品、再観であるが、これもまた2回目でやっと何かが伝わってきたような気がする。彼の出演作品というのは他にない深さがあって一度ではなかなか把握できないのかもしれない。

人生の終末に絶望した美しい人妻とまだ人生の始まりに立っている二人の少年の話である。

スペインから来た魅力的なルイサに声をかけた二人の若者フリオとテノッチは彼女の気を引くために“天国の口”という名前のビーチがあると嘘をつく。
ルイサは夫の浮気で決心をつけ、彼らとあるはずのない海辺へ向かう旅に出るのだった。

映像と音の美しさに感動する。
太陽の眩しいメキシコなのにどこか煙ったような日差しの翳った曇り空を感じる。自然の音が絶えず聞こえてきてそれが心地よい。道路の車の音も雑多な人の声もどこからか聞こえてくる感じだ。
彼らが運転する車から見える景色は決して美しいと思えるものではない。自然もどこか荒々しく柔かさに乏しい。すれ違う人々は一体何をしているのだろう。事故にあって倒れた人、警察に捕まっている人たち、行列を作って歩いていく人の群れや集まった人たちも何か意味ありげで楽しそうには見えず、危険が迫っているようにさえ思える。
そんな中を3人は馬鹿話ばかりを繰り返しながら酒を飲みマリファナを味わいながら駆けていくのだ。

冒頭からフリオとテノッチが恋人とセックスしているシーンが続き、人妻ルイサとも話すのはその手の自慢話ばかり。
やがてルイサはまだ少年の彼らを誘いセックスをする。未熟な二人はあっという間に達してしまい、いつもの自慢はどこへやら、彼女を満足させるどころではない。
最初観た時はそれらの繰り返しばかりに戸惑いもしたが観返してみると
それらの一つ一つがフリオとテノッチが背伸びしていく初々しさと可愛らしさの表現だと知れてくるし、ルイサが人生に別れを告げているのだという事が見えてくる。
美しく楽しいものと辛く悲しいものが対となって描き出されていく。甘い喜びの日々のすぐ後には苦い涙がこぼれ落ちるのだ。
若いフリオとテノッチのこれからの人生もまたそうして続いていくのだろう。
二人の少年期の終わり、そしてルイサにとっては人生の最後の日々の旅は美しくまた悲しい。
ただルイサがたどり着いた海辺を好きになり波に漂うように身をまかせることが救いのように思えた。
少年たちは今すぐには彼女の存在の意味がわからなくとももっと大人になった時に思い出すのだろう。

ルイサは凄い美女というわけではないが知的でなんといっても体の線が美しい。カメラの前に投げ出された脚線美といったら。セクシーな脚を絵に描いたかのようである。
ルイサと少年たちの関係が恋愛というよりどちらにとっても一種の儀式のようでじめじめしたものではないのがよい。
姉や教師というより母親と息子みたいでもある。だからテノッチは「ママシータ」と叫んでしまったのかもしれない。

でまかせにつけたビーチ“天国の口”に向かう旅、たどり着いたその浜辺で酔いながら騒ぐ彼らが楽しげで羨ましかった。

フリオのガエルがかわいいのはもう言うまでもないが、テノッチ役のディエゴ・ルナの繊細な美しさが印象的だ。
実際にも仲がいいという二人らしいが、いつも一緒にいてケンカしたり、ふざけたり。最後に交わすキスと訪れる別れの切なさ。
髪型も服装もすっかり変わってしまった二人にはっとするようなときめきを覚えながらも寂しく思うのだった。
このときのディエゴ・ルナは本当にまだ少年と言う感じで華奢で女の子のように可愛らしい。金持ち息子が似合っている。

作品の原題は"Y tu mama tambien"で「お前のママとも…」の意である。これはフリオがテノッチに言う言葉。意味はお判りだろう。

監督/脚本:アルフォンソ・キュアロン 出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、ディエゴ・ルナ、マリベル・ヴェルドゥ

2001年メキシコ

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2008年02月19日

『鬼龍院花子の生涯』五社英雄

鬼龍院.jpg

変な映画が好きである。奇妙なもの、驚かされるもの、あり得ないもの。先日観たアルモドヴァルもそうだし、デヴィッド・リンチ、日本では三池崇史や塚本晋也なんか。
それらの映画監督の作品以上に初めて観た五社英雄、凄かった。シリアスに荒唐無稽であった。

大正から昭和初期にかけての土佐のヤクザの話ということもあるのだろうか、登場人物の考え方、言動にいちいち驚かされてしまう。
そのぶっ飛び方は尋常じゃない。だからと言って彼らの心情に共感できないのではなく、土佐弁の迫力と鬼政親分に度肝を抜かれながらも見入っていたのだった。
まず驚くのはタイトルで、途中何故これが『鬼龍院花子の生涯』なのだろう、と思ってしまう。その半生を辿られるヒロイン(夏目雅子)の名前は松恵なのである。
だが観終わってしまえば自分にもうっすらと物語の構造が浮かんでくる。そしてこの破天荒な物語に固い骨組みがあることを知る。固すぎてまた驚くほどである。
この物語では時代の移り変わりが描かれている。旧時代を代表するのは鬼政こと鬼龍院政五郎である。世の中を力で支配しようとし、女は無論自分の支配化に置く存在だと信じている。妻・歌(岩下志麻)が腸チフスになり医者から隔離入院を勧められても女を外に出すものじゃないと頑として聞かなかった。この頑固で無知な支配のために鬼政はよき妻を死なせてしまうのだ。
だがその鬼政は妻・歌との間に子供が出来ず、貧しい商売人から養子をもらうことにする。始めは男子だけと思っていた鬼政はその場で突然横にいたその子の姉・松恵の利口そうな顔を気に入って共に養女にする。
幼い姉弟にはヤクザの家は怖ろしいものであった。弟は我慢できずすぐに家出してしまう。松恵は弟の分まで頑張ってヤクザの義父に尽くそうと決心する。
ここでもすでに旧時代である鬼政が何を思ったのか、女の子である松恵を気に入る、ということで一つの兆しが見えている。
また男である弟は恐怖に耐え切れず逃げ出し、女の松恵がその試練に耐えたのだ。
この松恵こそが新しい時代、新しい女性像を象徴しているのである。

旧時代の姿・鬼政の言動はいちいち気に触る。特に女に対しては差別的意識しか持っていない。
その鬼政を義父としながら松恵は持ち前の聡明さと素直さで一つ一つの障壁を越えていくのだ。
その松恵との対比となるの鬼政の娘・花子である。旧時代の父である鬼政は遅く生まれた妾腹の花子を溺愛する。
そして娘・花子もまた父の庇護の下で甘えて育ちやがて父が探してきた結婚に幸せを感じているだけなのである(本当なのだろうか。花子にはまったく何の考えもないように見える。そんな人間が本当にいるのだろうか)だが、その結婚が駄目になり敵方のヤクザに誘拐された花子は救いに来た父親に逆らい、そのまま行方不明となる。暫くして花子は父・鬼政に「助けて」という手紙を書き、遊郭で死体となって発見されるのだ。
何もせず育ち何も出来ないまま死んでいった哀れな花子の生涯。彼女は古い考えを持つ鬼政の檻から飛んでいくことができなかった。
一方の松恵は小さい時に実親から離され、怖ろしい力を持つ義父の下でそれでも負けまいと戦いながら成長した。自ら勉強を続け、女子校への進学を渋る鬼政を説得し、教師となって自活できる女性になったのだ。
古い人間鬼政の娘でありながら二人の女性はまったく違う人生を辿った。
だが松恵の成長のために鬼政もまた関わってはいるのだ。彼は松恵を見出し、松恵の性格を知って好意を持っている。女に学問はいらないと言いながら折れて進学を認めている。
また鬼政は松恵を一度強姦しようとしている。
鬼政が気風のよさに感心した男・田辺(山本圭)を花子の婿にと考えたのだが、田辺は松恵を嫁にと願ったのに腹をたて、他所の男にやれるかと鬼政は松恵を手篭めにしようとしたのだ。だが激しく抵抗する松恵の前にあっさりと折れて謝る。義娘に手を出すなど信じられない行為だが、あくまで男本意の鬼政には多分当たり前のことなのだ。だが、松恵が意思をはっきり示したので鬼政はそれ以上のことはしない。実にあっさり男らしい態度なのである。(などと言えるか、といってもいいが本当に鬼政はあっさりとしているのだ)
そして最後を感じた鬼政は松恵に「お前だけが俺の自慢だ」と優しく語り掛ける。この場面はさすがにぐっときた。
鬼政は自分はヤクザではなく侠客だと名乗ってきた男である。その生き方は単純明快で極端であるが隠微な所はない、男らしさがある。反面、融通がきかず、頑固で騙されもする。
そんな鬼政は実の娘は甘やかし、一人前の大人にすることができなかった。花子自身、何も判らないままの人生だったのは不幸だった。
最後、悲しい花子の手紙を川に流し、日傘をさして立ち去る松恵の姿は凛として微塵の不安もない。強い彼女ならまた一人で働き生活しまたよき伴侶を得ることが見えているからだ。
守られかわいがられ、何もできなかった『鬼龍院花子の生涯』ほど悲しい一生はない、とこの作品は物語っているのである。

本作は役者陣が有名で豪華絢爛でありながら実に素晴らしい。
まずは鬼政を演じた仲代達矢。この鬼政役こそがケッタイ極まりないというのか、どうしたらこんなキャラクターが出来上がったのか不思議でしょうがない。土佐の男はこういうものなのだろうか。とにかく仲代達矢の台詞回しが気になって気になってしかたない。と思ったらこの話し方『龍が如く』の岸谷五朗同じではないか。あちらの方がもっと癖をつけていたがこの破天荒な行動とともに岸谷氏、絶対この仲代=鬼政をパクリもといモデルにしたに違いない、と思うのだが、誰か詳しい方如何だろうか。
とにかく旧時代の古臭い男の典型で時には腹立ち、ムカつくが男らしいことには違いない。男も女も惚れるだろう。ただ父親としては最悪なのだ。
苦境の中を懸命に生き抜く松恵を演じた夏目雅子。この作品では特にその魅力、美しさが際立っているのではなかろうか。きりりとした知性と優しさを併せ持つ彼女をヤクザの子分たちが「まっちゃん」と呼んで慕っているのも頷ける。花子にはまったくそういう魅力がないのだから。
(今、気づいたが名前にも意味があった。儚く散ったのが「花」子で長く強く生き抜くのが「松」恵なのだ。日本的)
確か、公開当時はこの映画の過激さと彼女の「なめたらあかんぜよ」という台詞が話題になっていた。
この台詞は彼女の夫・田辺(貧しい人々のために労働運動をしていた)の死後、夫の父親がヤクザの娘に大事な息子の遺骨を渡せるかと息巻いている時、松恵が「私は鬼政の娘。なめたらあかんぜよ」と吐き出すのだ。それまでヤクザを毛嫌いしていた松恵が、この台詞は言うのは不思議である。
だが亡くなった夫との苦労した生活は一言で言い尽くせないものがあり、それを察しない夫の親に対してぶちまけた時、この言葉になってしまったんだろう。松恵と田辺の愛はそれほど真剣な激しいものだった、という思いがこの台詞になったという表現なのだと思えるのだ。

また他にも、鬼政の妻を演じた岩下志麻の美しさ。彼女もまた旧時代の女性の姿でその最後は悲しい。死の間際にも化粧して美しくあろうとし、夫・鬼政との愛撫を思い出すのである。
鬼政の妾・牡丹に中村晃子、子分たちに室田日出男、夏木勲、アゴ&キンゾー、結婚話の際に梅宮辰夫と成田三樹夫、鬼政も膝をつく大親分に丹波哲郎、敵方の女将に夏木マリ、土佐電鉄ストライキの時にちらっと役所広司(!)といった面々である。
そしてタイトルロールである鬼龍院花子を演じた高杉かほり。これ以外に有名な作品はないようなのだが、それもまたこの悲しい存在にぴったりなのかもしれない。何を考えているのかわからないような、甘えたお嬢様そのものに見えた。ぴんと背筋の伸びた夏目雅子の清々しい美しさとはあまりに惨い辛辣な対比であった。
この作品、男性にとっても興味のあるものだろうが女性が観た時、より鮮烈な印象を残すのではないだろうか。

監督:五社英雄 出演:夏目雅子 仲代達矢 高杉かほり 岩下志麻 山本圭 仙道敦子 佳那晃子 高杉かほり
1982年日本

ラベル:女性 人生
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ジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルがヒース・レジャーの遺作に出演

ジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルがヒース・レジャーの遺作に出演

少し前にジョニー・デップが代役だと聞いたのですがそれが3人に。
しかもジュード・ロウとコリン・ファレル。
どんな映画になるのでしょうか。気になります。
posted by フェイユイ at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月17日

『バッド・エデュケーション』ペドロ・アルモドヴァル

バッド・エデュケーション.jpgBad-Education2.jpg

『藍空』で一度記事を書いているのだが、読み返してみたらてんで内容も感想もわからない。多分、アルモドヴァル世界に翻弄されうまく掴めないままに終わったのではないか、と思われる。
今回理解した、と言うほどもないのだが、もう少し何とか書いてみようか。

物語の本筋自体は、厳格なはずのカトリック教学校で神父であり校長であるマノロから性的虐待を受けた少年が長じて金をせびり、当時恋心を通わせていた同級生と関わっていく、というもので目新しいわけでもなくややもすると反感を持ってしまうような内容なのだが、これがアルモドヴァルにかかってしまうとなんともいえない魔法にかかってしまったかのように不思議な幻想を観てしまうのだ。

本作は錯綜してわけがわからない、と言うほどではないが物語の中に物語(映画の中の映画)が入り込んでいるので、夢と現実が入り混じったような感覚に陥ってしまう。

冒頭ではアルモドヴァル監督の分身的存在、エンリケ・ゴデが次回作のアイディアを練っている。高速道路をバイクで走る途中寒さで凍死してしまったのに、なおも走り続けている男、というニュースを取り上げている。「寒い夜、若者はどこへ?」「会いたい人がいたんだ」
会話だけで示されたイメージだが、このエピソードが後にイグナシオと重なって感じられるようだ。
ここで突如現れた青年、エンリケは見覚えがないがかつて同級生だったイグナシオだと告げる。はっとしたエンリケは彼と抱きあう。イグナシオはエンリケが在籍していた神学校での初恋の少年だったのだ。
が、イグナシオに思いを寄せていたマノロ神父によってエンリケのみが退学処分を受け、彼らはその後会うことがないまま過ぎていた。
映画監督となったエンリケの元にイグナシオはかつての思い出を文章にして持って来ており、よければ何か役者の仕事を欲しいと申し出る。エンリケはそんなイグナシオに以前の彼とは違う何かを感じていた。

この映画の見所の一つはガエル・ガルシア・ベルナルの変化の妙で確かに楽しい。
まずは髭面の青年で登場し、物語の中のサハラという女装の男に変わる。金髪のショートヘアに淫らなイメージのドレスを着たガエルの美しさときたら。化粧のせいで大きな目がいっそう妖しい光を持ってこちらに視線を送ってくる。舞台がはねた後の長い金髪の女装ガエルもキュートなのだ。彼は意外と逞しい体つきなのだが、私的にはあんまり痩せた男性より彼のようながっしりした体格の女装が凄く隠微に妖しい色香を感じるさせるのでぞくぞくとしてしまう。
劇中映画のエンリケもいい男なのだがその彼と意味ありげな鍵探しをする場面、一方的なメイクラブ。その後で彼が初恋の人だと知り密かに手紙を書く場面など、ガエル=サハラの女っぷりに見惚れる。
それから兄イグナシオのフリをしてエンリケを騙し続けるファン=アンヘルとしてのガエル。
そしてさらに兄イグナシオから金をせびられたマノロ神父と肉体関係を持つファンとしてのガエル。女性化したイグナシオに失望したマノロが目をつけたのが弟ファンだったのだが、この時のガエルはそれまでの彼とまったく別人の少年のようで驚いてしまうのだった。
だがその彼もマノロと肉体関係を持ち出してからはまるで小悪魔の如き性悪になってしまうのである。
それらを演じ分けたガエルの演技力というのは今更もう驚くこともないのだが、髭でも女装でも少年でも一つ一つが魅力的なのだからやはり参ってしまう。
またエンリケ役のフェレ・マルチネスも素晴らしくて最初観た時以上に見入ってしまったのである。
この作品にはいくつかの関係が描かれていて一番思いが強く表現されている人物がマノロ神父(後・ベレングエル)でイグナシオに対しても弟ファンへの愛も率直で判りやすい。自分勝手で嫌気もさすがファンへの一途な思いは憐れでもある。
一方この物語の中心であるはずのイグナシオとエンリケは互いに思い続けながら再会することはなかった。
女性化し、麻薬中毒になってしまったイグナシオは更生と肉体改造とエンリケとの再会を望みながら果たせなかった。
エンリケに会いたいと願いながらも肉体は崩壊寸前であるイグナシオに冒頭の死にながら走るライダーの姿を重ねてしまうのである。
ただこのイメージをダブらせながらアルモドヴァル監督はことさらにこの場面を強調していないのだ。
イグナシオのエンリケへの思いをまたその逆をイメージとしての映像で語ることをしなかった。ただ淡々とあるがままを綴っていったように思える。
その思いが告げられるのは最後にファンが渡したイグナシオのタイプした手紙の一行「親愛なるエンリケ。多分これでやっと」
エンリケは関係を持っていたファンを門の外へ追い出し、その手紙を震える指で広げる。まだ幼い日にに寄り添った二人の少年は死んだ後にしか再び通じ合うことができなかったのだ。
イグナシオとエンリケの純粋な愛とファンの陰謀にまみれた愛とマノロの自己中心の愛がここに綴られた。

前回も書いたと思うがハビエル・カマラ演じるパキートがかわいい。重く暗い語り口の中で彼の存在が救いになっている。
フェレ・マルチネスはこの役のために随分減量したそうだが、理知的な顔立ちと均整のとれた逞しいがほっそりした体が大変ステキである。
怪しいと思いながらもイグナシオと名乗るファンを見つめる目だとかイグナシオの死の真実を聞き苦しむ眼差しは虜になってしまう。
ガエルはいつもいつも可愛らしく動物的な魅力に溢れていてフェレとどちらが魔力があるのだろうか、という目力合戦である。
私なんぞはどちらを見てもバン!と撃ち抜かれてしまい倒れたままなのだった。
少年期イグナシオの歌声とあの目もまた素晴らしい。

気になるのは本当のイグナシオとエンリケが再会していたら、どうだったのだろうか、ということ。
今のエンリケの好みは男性らしい人(一緒に仕事をしていた中年男性もそうだし)のようだが女性化したイグナシオにも同じように愛を注ぐのだろうか。
女性化すると共に麻薬中毒の為か性格が荒々しくなってしまったようなイグナシオである。
二人の間に純粋な愛を感じてしまうがもし再会していたなら互いの変化に幻滅してしまうのだろうか。
もうそれは判らないままだ。二人はきっと愛しあったに違いないという夢を見ながらもそれはやはりかなわなかったのだろう、という悲しさが物語を締めくくる。


監督:ペドロ・アルモドヴァル 出演:ガエル・ガルシア・ベルナル フェレ・マルティネス ハビエル・カマラ ルイス・オマール ダニエル・ヒメネス・カチョ レオノール ワトリング
2004年スペイン



ラベル:宗教 同性愛
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2008年02月15日

『DEATH NOTE デスノート』今夜も再び

DEATH NOTE2.jpg

散々悪態をついてしまった『デスノート』だが、やはり一度だけでは勿体無く今夜も観てしまった。
繰り返しもしてしまうだろうが感想記事ももう一度書いてみる。

巧いな、と思ったのはLの出番が一作目の後半からにしたこと。このキャラ設定はどうしてもLの方が目立ちやすいので最初から登場していたらライトのキャラが負けてしまっていただろう。
ライトが最初から登場して正義感の強い真面目な大学生という印象を強く与えながら少しずつおかしくなっていく様子の進行がうまい。一方のLは声だけで姿かたちのヒントも与えられず、つまり年齢も容貌も何も判らないままに天才的頭脳の持ち主だということだけを印象付けられていく。
明るい日中に活動しガールフレンドもいる行動的なライトとパソコンの中だけで会話が通じる影の存在Lの対比がくっきりとなされる。
またライトを演じる藤原竜也の存在感、演技力には人をひきつけて話さないものがある。
キャラクターの個性が強いLと違ってライトはやや掴みどころのない難しい役だ。正義の心と行き過ぎて悪魔になってしまう心が共存している。
その歪みは早い段階で現れる。彼の自尊心を傷つけ正体を見ようとしたLの罠にかかってしまったからだ。
善人である人間が悪の心を持った人間に変身したらどうなるかという物語といえば『ジキル博士とハイド氏』だが我々読者は正義の人であるジキルがハイドになるための薬を飲んだ時点で彼は悪に惹かれていたのだと知らされる。
子供時代には必ず読む本であるが、今ではあまり読まれていないのだろうか。それでもマンガと言う形でそういった問題を問いかければやはり皆の興味のあるものなのだ。善と悪というテーマは少年向けマンガの題材としてやはりうってつけ、ということになるのだろう。

Lの魅力となると様々にあって目が離せない。ひょろりとした手足を折り曲げて椅子に座る様子。真っ白な血の気のない顔で唇も白く目の周りは寝不足のように真っ黒で女の子に見えてしまう。髪はぼさぼさで伸び加減の白いTシャツとだれたジーンズを腰パンではいている。
ひっきりなしに甘いものを食べ続け飲み続けている。物を掴む時は潔癖症の者がやるように親指と人差し指でつまみできるだけ接触を少なくしようとしているようだ。
天涯孤独の孤児らしいがなぜか裕福で“ワタリ”と呼ぶ仲介人のような老人を使っている。彼がLの召使なのか、友人なのか他の何かなのか、本作前編後編では判らない。
ワタリ役の藤村俊二氏が抜群にいい。と言うか、この映画はキャスティングがすべて実に巧いのだがキラ、Lを始めとする登場人物の緊張感の中でおヒョイさんの空気がほっとさせてくれる。
本作で人が次々と死んでいってもさほど心が動かなかったのだが、Lの言うように彼が死んだ時はむかっ腹がたった。Lとしては甘いものを用意してくれる人がいなくなったからか?甘いものといっても大変バラエティに富んでいて用意するのも大変そうである。

一話目の後半以降、ライトとLが出会い、互いに腹を探りあいながらのかけ引き問答は絶妙である。
Lのゆっくりだが句読点の部分で突如駆け足になる話し方が癖になる。Lは天才探偵と言われているのにライトになかなか勝てないのは無論ライトの殺人法がこの世であり得ない方法だからなのだが、いまいち奇妙で素直に頷けない気もする『デスノート』使用法を巧みに使いこなしながら難関をクリアしていくライトが面白い。
だが次第に追い詰められ生き残るためには人間としてあるまじき行動(と言っても連続殺人をやっているのだから最初からあるまじき、ではあるが)恋人を殺し、最後に父親殺しを犯そうとする。
また自分を慕ってくる少女・海砂にいたっては最初から利用することしか考えていない。
ライトの変化は怖ろしい。人間が並外れた力を手に入れた時、そうなってしまうだろう悪への変身というものをライトはまざまざと見せてくれる。正義のため、という言葉がいつしか何の意味も持たなくなっていく。

ところで“名前”という代物もなかなか問題のあるアイテムだと思う。女性なら多くの場合結婚時に名前が変わってしまう。また離婚した場合にはもとに戻ったりする。男性の場合でも無論生じることである。養子、または改名ということもある。
ここでいう“名前”と言うのは戸籍上の名前、と言う意味なのだろうか。死神は人間の顔を見ただけで名前がわかると言い切っているが、“本当の名前”というのはどこにあるのだろう。
戸籍上の名前とは別の名前で通している人もいる。例えば姓名判断とか、様々な事情もあるだろう。本人が知らない場合もある。国籍などの関係で親が秘密にしている場合もある。
この場合は特に“ノートに書く”事が必要で漢字の場合、様々な書き方があったりする。旧仮名遣い、線の長さ、点の打ち方が戸籍上と通常で違ったりもする。それらの間違いでどうしても殺せない、ということはないのだろうか。病院の間違いやある陰謀で赤ん坊と名前が入れ替わっていたらどうなるのだろう。その人の名前は“本当の名前”なのか“通常の名前”なのか。デスノートの規則では偽名は無効なのだが真実の名前と偽名はどうやってわかるのだろうか。
ここでの“本当の名前”はどうも戸籍上の名前のようだが、場合によっては戸籍上の名前より“偽名”の方が本人にとって真実の名前の場合もある。そんな場合でも死神は役所の書類の方が大切なのか。とはいえ、事実がどうであれ署名されたものに意味があるというのもわかるのだが。
ル・グィン『ゲド戦記』では真実の名前と呼び名があるが無論この場合はゲドと書かなくてはいけないのだろう。ゲド戦記、というのも「名前を知る」ことが敵の命を握ることになるという話だったが。
外国人も殺しているようだが漢字・英語圏は理解できるがハングル、アラビア語、アフリカの様々な言語を正確に書くのは難しそうだ。
とはいえ、日本人FBIはアルファベットで殺していたようだからアルファベットでもいいのだろう。だがこれも正確なつづりというものをどのくらいできるのか。日本名の変換でもちょっと考えてしまうものもある。ゲドの場合は発音するだけだったからまだ理解できるが。

などという名前に関してだけでもいちいち考えさせられてしまう話ではある。
私の本当の名前は結婚によって変わった今の名前なのか、生まれた時につけられた名前なのか。どっちなんだろう。
自分の本音としては本当の名前は生まれた時につけられたもので、今の名前はやはり途中で変えられてしまった名前、と言う気がする。世界では結婚後も名前が変わらない国もあるが、私自身、結婚した直後はアイデンティティが壊れたように感じ不安定な気持ちになったものだ。戸籍が変わった時点で真実の名前が変わるなら、デスノートに書かれても急いで結婚するなどして名前を変えてしまえばいいのか。
(40秒じゃ無理だろうが)
そして長い時間を経て変わった名前が当たり前になっていく。ミステリーで偽名を使った者がいつしかそれが本当になっていく過程のようで不思議な感覚に陥った。これは名前の変わることのない者には判らない感覚ではないだろうか。
また在日外国人だとか事情で自分の本名を知らずに育った人もいる。世界中にはそういう本名と通り名を持つ人が大勢いるだろう。
名前と言うのは不思議なものである。


ラベル: 松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『DEATH NOTE デスノート』金子修介

DEATH NOTE.jpg

『DEATH NOTE デスノート 』前編後編を続けて観た。原作はまったく読んでいないのでここから書く感想は映画のみのものだ。

話題になるだけあって大変面白い作品で一気に引き込まれて観てしまった(一晩一話ずつだが)細かく説明がされていて非常にクリアで判りやすい物語だった。
なんといっても面白いのは『デスノート』世界が非常に狭い範囲内で行われていることでそれはほぼ普通の高校生くらいの人間が頭の中で考える範囲内の出来事だということだ。
しかも商売のために自己投影する者が多い東京中心の範囲になっている。これが九州の田舎の青年が起こしたものなら当然観客は減ってしまうだろうから。自分が小さい頃から「この地球を征服する為にまずこの東京を攻めよう」というアレである。
キラがどこにいるかを見極める為にまず関東のみのTV放送をしてまさに東京の大学生がキラである、なんていうことになる。
キラの敵である警察がキラの父親という身内で固め、登場するのはテレビ局だとか、アイドルタレントだとか、オタクの高校生がTVで知る範囲内の駒しかない。アメリカだのFBIだのという言葉が出てきて世界がもっと広がるのかと思いきや、飾り的にバイトの外国人が登場するのみで実際の行動をとるのは日本人である。
オタク高校生では英語で考えるわけにもいかないし、世界観はTVドラマとアイドルとパソコンの中だけしかないのだからしょうがないよな、という展開なのである。
などと揚げ足をとっているようだが、無論それでいいのだ。
この映画はそういう者のために作られていてつまらなければ観なけりゃいいのだから(と言っては身も蓋もないが)世界がオタクの範囲内で近所しか出てこなくとも、登場人物がTVそのものでもそんなことはどうでもいいのである。
デスノートという企画が穴だらけで破綻ばかりでもまあいいのである。
そういう子供じみた世界ですらこの作品は観させてしまう力があった。
その一つはキャラクターでありもう一つは演じた役者たちである。
物語は善と悪との戦い、ということになるのだろうが主人公ライトは最初正義の味方として表れ、次第に悪の化身となってしまう。そしてその役割を真面目で優等生で警察上層部の息子が当たることになる。外見も温和な美貌を持っていて女性にもてる。
悪魔と化した彼を倒そうとするエルは逆に悪魔的な風貌である。ほぼオタクのイメージと重なる彼は顔色が悪く甘いものばかり食べて貧相な体をしてぼさぼさと髪が覆いかぶさっていて話し方も目つきも暗く人付き合いのできないタイプと見える。その彼の方が本当の正義の心を持っている、というのもオタクの本音というものなのか。
主人公・夜神月を演じた藤原竜也を観るだけでも充分に価値がある。舞台役者として素晴らしい彼はここでかなり舞台的に大げさな芝居をわざと演じているようでそれが異常な性格破綻者ライト=キラを表現するのにふさわしい。
また面白いのはではその反対のエルを演じるのが気持ち悪い役者か、というと今、最も人気のある若手男優の一人と思われる松山ケンイチで実は私も彼目的で観たのだが、一見悪魔で実は正義という屈折した男をこれ以上ないほどの危ない色っぽさで演じきっている。
キラ=ライトとエルが矢継ぎ早に会話を交わすシーンはまさに緊張が走っているのが伝わってきて怖いほどである。
無論、上手の藤原竜也が余裕と貫禄で勝っているのだが、松山ケンイチが負けまいと物凄い火花を散らしていくのにはぞくりとするものがあった。

次々と人が死に、主人公もそのライバルも若くして死んでしまう、というのも若者ならではの妄想である。
若い時期と言うのはどうしてこうも死を求めてしまうものなのか。
「悪」「善」「死」などという若いときだからこそ考える言葉がキーワードとなっている。じっくり考えてみるものだろう。
それでこそ若い時なのだと思う。

最大の不満を言えば、それにしてもこの物語の女性像というのがこうも古臭いというのはどういうことなのだろう。
男のために命を投げ出す女とか、嫉妬の固まりの女だとか、父思い、兄思いの優しい妹だとかいうどれもこれも型どおりの女というイメージなのである。
特に不幸を背負った運命のために男に身を投げ出す性的魅力をもった若い女という設定はぞっとするものを感じる。
キラという教祖に命を投げ出す哀れな女というキャラクター設定だが彼女をSM的に縛り上げて作品の中で性的な餌食にさせるなど日本の映画・マンガ作品というものの女性蔑視は相変わらずだなとうんざりする。これもオタクものだからこその表現なのだろうから、いい部分もあればげんなりする所もある、というそういう作品なのには違いない。
どちらにしてもオタク男的な幻想を満足させる作品に仕上がっているということなのだろう。

死神が人間臭い、というのが不思議なのである。自分のイメージ的には死神というのは何の感情もないものだと言う気がするのだが、かわいそうな少女に同情したり恋したり肩入れしたり、人間より温かい心を持っていたりする。最後の行動も死神ならではの行動というより突然思いついた気まぐれのようだ。
物語がその時その時でどんどん付け足されていくような展開なのでいきなり崩壊したラストのようにも思える。

監督:金子修介 出演:藤原竜也 松山ケンイチ 瀬戸朝香 香椎由宇 細川茂樹 戸田恵梨香 津川雅彦 藤村俊二 鹿賀丈史
[the Last name :片瀬那奈 マギー(ジョビジョバ) 上原さくら ]
2006年/日本
ラベル:松山ケンイチ
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2008年02月14日

市川崑監督、逝去

日本を代表する映画監督市川崑さんが逝去されました。

私はなんと言っても『犬神家の一族』で強烈な印象を受けました。殺人事件という題材が日本の田舎で(だからこそ)おどろおどろしいぞくぞくとするような秘密と謎に包まれたものになり一種の風格というものが生まれるのだということを知りました。
その映像も他にない斬新なものとして受け止めたことを覚えています

また『ビルマの竪琴』でも戦争という題材で悲惨というだけでない、しみじみとした深みのある悲しさとそこに生きる人々の切ない思いというものを知ることもできました。

今も日本映画は成長し続け、様々ないい作品が生まれていますが、かつての素晴らしい映画を作られていた監督たちが亡くなられていくのは自然のこととはいえ、やはり寂しいことです。
ご冥福をお祈りいたします。

posted by フェイユイ at 10:37| Comment(6) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月12日

『サスペリア』ダリオ・アルジェント

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Suspiria

フランク・ヴェーデキント著『ミネハハ』を原作とした映画作品に『エコール』『ミネハハ 秘密の森の少女たち』『サスペリア』がある、というのを読んで「ナニ?」となったのである。
前の二つは判るがあのホラー映画『サスペリア』が『ミネハハ』から生まれたとは。
『サスペリア』と言えば、当時「けっして一人では観ないでください・・・」というおどろおどろしいキャッチフレーズと共に公開され、興味があるくせに怖がりの私はけっして観ないのであった。
『エクソシスト』はなんだかいつの間にかTVで観てしまったが(というのはこの2本が当時のホラー映画の代表格だったからだが)多分『サスペリア』は観ずじまいだったように思う。多分スプラッタが苦手だったからだ。
あえて観る必要もないし、と思っていたのに『ミネハハ』が原作と聞いては突如観たくなってしまうではないか。
ところがこのDVD売り出されてはいるのだが、ネットレンタルも配信もされてないようで(わたしが見るところでは)仕方なく某動画で見させていただくことにした。画面も小さいし画像も荒いのだが、暫し観ていてたちまち夢中になってしまったのだ。
だが20分ちょっとで映像が途絶えるので、ちょっとまた検索していたら先の話は「監督ルシール・アザリロヴィックの、勘違いによるもので」とあるではないか。つまり『ミネハハ』は『サスペリア』の原作ではない、というのだ。
はあ?じゃわたしはなんで『サスペリア』観てるの?ってことになるのだが、時すでに遅し、というかそういうことはもうどーでもよく、再び『サスペリア』の世界へと没頭したのであった。

魔女というオカルトな世界、美女にナイフが刺さり血が滴る、かなりどぎついシーンも多いスプラッタホラーなのだが、不思議と下品な感じはなくむしろ絵画のような美しさに彩られ、猟奇的場面も一つの様式美の感すらもある。
そしてなるほど確かに『ミネハハ』の雰囲気がある。
これが実際は『ミネハハ』原作なのか、インスパイアされたという意味なのかわからないがアザリロヴィック監督がそう言ったとしても嘘ではない気がする。「きっとそうに違いない」ということではなかったのだろうか。
いたいけな少女が主人公であり、他所からバレエの学校へ入り込んでいくこと(ドイツというのが原作者と重なる)女性教師が関わってくる、男性は出てくるが女友達との会話が多いこと、次々と死亡・失踪事件が起こり、すべては謎に包まれている。
そして少女は何か大きな力に翻弄されていく。
といった具合である。私も「絶対そうだね」と言いそうである。

主人公ジェシカ・ハーパーはか細くて目がぎょろぎょろに大きく少女の雰囲気充分である。そのくせしっかり恐怖に立ち向かっていく所が凄い。
何と言ってもゴブリンの音楽が秀逸でこのテーマ曲は一度聴いたら忘れられないだろう。
そして美術。壁紙をはじめ、調度品、照明など美しい中に赤い色が鮮烈に投げ込まれる。
動画の小さな画面ですらその華麗なデザイン色彩に見惚れてしまった。次回はせめてDVDで鑑賞しなおしたいものだ。

冒頭で一瞬出会った少女が残した謎の言葉、凄まじい殺人現場、少女に襲い掛かる恐怖、秘密めいたバレエ学校、なんとも独特の美学で彩られ織り込まれたホラー映画である。
なるほど『エクソシスト』の対壁をなすだけはある。『エクソシスト』は男性的で宗教的なら『サスペリア』は女性的で幻想に満ちている。悪魔的ともいえる。善に対して悪の匂いのある。
変な間違いから『サスペリア』を観てしまったが、思いもよらぬ拾い物であった。

それにしてもかなりの時を経て単なるホラー映画といわれたものを幾つか観なおしてきたが(『エクソシスト』『悪魔のはらわた』)今観ると唸ってしまうのだ。

監督:ダリオ・アルジェント 音楽:ゴブリン 出演:ジェシカ・ハーパー、アリダ・ヴァリ、ウド・キア
1977年イタリア
ラベル:ホラー
posted by フェイユイ at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2月12日(火)朝 ジェイ・チョウTV出演

そして、2月12日(火)はNTV系「ズームイン!SUPER」、フジテレビ系「めざましテレビ」に出演予定。お見逃しなく!』

と書きましたが、残念ながら見れませんでした。どなたか見られた方いかがだったでしょうか?
posted by フェイユイ at 15:26| Comment(9) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月11日

『ミネハハ 秘密の森の少女たち 』ジョン・アーヴィン

The_Fine_Art_of_Love_Mine_Ha-Ha.jpgミネハハ.jpg
The Fine Art of Love Mine Ha-Ha

以前観たフランス映画『エコール』と同じ原作から作られた作品であり、こちらにはその原題の『Mine-Haha』が使われている。
ネイティブアメリカンの言葉で「笑う水」の意味であるこのタイトル自体がなんとも言えず不思議なイメージを作り出す。

さてロリータの魅力が凝縮されていた『エコール』と比較すると本作はあのような濃厚な色香は乏しいと感じられた。これはフランス映画とイギリス映画の違いでもあるかもしれないし、女性と言うのは少女であるほうがより性を感じさせるものなのかもしれない。とはいえ、これは一部少女趣味の方面と女性自身だから感じることで“まともな”成人男性なら肉感的に成熟した女性に色気を感じる方が正常であろうけど。
ともあれ幼女が多かった『エコール』より年齢はこちらの方がやや上の少女なのでよりセクシーさが表現されていそうなものなのにむしろ学校の厳格さ、冷酷さが強調されさほど「少女の危ない魅力」というようなものは感じられなかった。
特に好みの問題ではあるが主人公ヒダラがややがっしりした体格で少女というきゃしゃな体つき繊細な顔立ちでないのである。バレエをする少女という設定なのだが、ライバルとなるブランカのほうがバレリーナらしい小柄な体つきだと感じたのだが。はっとするほどの美少女がいなかったのはどういうことなのだろう。
むしろ、成人の女性達は美人ぞろいで無論校長役のジャクリーン・ビセットは申し分ない美女である。ちょっとおっかないシンバ先生の巨大な胸には目を奪われてしまうし。謎の人物である「公爵」の代わりに学校訪問する元生徒も綺麗だがローリーに凄く似てる。
ま、それはそれとして、少女達の淡く感じさせてくる性を描きだし、背景は謎に包まれた『エコール』とまるでその種明かしのような本作は同じ原作を映画化してこうも違った作品になるのかと驚いてしまうものである。
かといってこの映画が原作を忠実に再現しているわけでもなく、『エコール』のほうが原作に近い雰囲気なのも奇妙である。
『エコール』での記事にも書いているのだが、この物語はカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を思い出してしまう。そのイメージは本作のほうにより近いものを感じた。
厳格で自由を束縛されやがて大切なものを提供する運命にある人間(ここでは女性)の悲しい物語、というストーリーである。(イシグロも英国の作家であるからやはり本作の方に近いものがあるのだろう)
原作と『エコール』にはそれだけでは説明できない不思議な感情、イメージがもっと溢れていたのだ。

やや批判めいてしまったが、本作は原作や『エコール』とは関係ない、と思って観たほうが落ち着いてより面白く観れるのかもしれない。あの作品が素晴らしすぎてあれを越えるもう一つの同じ作品というのは難しい。
私自身どうしても『エコール』や原作と比べて落胆したのだが、比較しなければ謎めいた塀の中の学校に住む少女達とその生活に充分引き込まれて観てしまったのだから。

監督:ジョン・アーヴィン 出演:ジャクリーン・ビセット ハナ・テイラー・ゴードン ナタリア・テナ アンナ・マグワイア アンヤ・ラヒリ
2006年 / イタリア/イギリス/チェコ


ラベル:同性愛
posted by フェイユイ at 22:07| Comment(0) | TrackBack(1) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『笑っていいとも!』ジェイ・チョウ出演、見た!!

『いいとも!』ジェイ・チョウ出演、見れました!!
よかった〜(ほっ)なにしろビデオないんで仕事中だしその時見れないともう見れない!
しかし、いつも見てるけど、ジェイの時だけすんごい時間短く感じたよ。
それにしてもジェイ、アナのあくほどDVDなんかで見てるけど日本のTVに生出演となると全然違う感じになるのでどきっとするね。
他で見たのは録画だったしね。
ほんの僅かでタモさんや他の出演者との絡みも殆どなかったけど、以前見た時と同じちょっとシャイな雰囲気でかわいいのだ〜。
生意気とかよく言われてるけどそんな風に思えないもんね。

また明日の朝見れるチャンスあり、また頑張らねばっ!
posted by フェイユイ at 13:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月09日

『ブラック・スネーク・モーン 』クレイグ・ブリュワー

Black Snake Moan.bmpBlack Snake Moan 2.jpgBlack_Snake_Moan_3.jpg
Black Snake Moan

「私たちは問題を抱えている。自分で自分がわからない。でも愛せるはず」
セックス依存症のレイと過度の緊張に耐え切れない神経のロニー。愛し合っていた二人だが、ロニーが軍に入隊してからすぐレイの発作は始まってしまう。

レイの母親はレイが町中の男と寝た後始末をさせられた、と小言を言う。会う度にいがみ合う事しかできない関係にレイは苛立ち悲しさを覚える。レイの病気はレイの母親の恋人だった男が子供だったレイに性的虐待を続けたからだった。レイは母親にその悲しみをぶつけるが母親は「お前を生んだのが間違いだった」とだけ言い放つ。

自暴自棄になり男からまた傷つけられたレイを拾ったのは黒人ブルースマンのラザラスだった。
ラザラスは歌うことを止めていたのだが、レイと出会って再び歌い始める。
ラザラスは信心深い男だった。セックス依存症のレイが家の中にいるのを見つめる姿は悪魔祓い=エクソシストを行う神父のようだ。ラザラスはレイを救う決心をする。
逃げ出そうとするレイをつなぎとめたのが太い鎖だった。何度逃げようとしてもちぎれることのない太い鎖。
それはレイの腰にまとわりつく黒い蛇だったのだ。一人きりになったレイのところへ来た少年を襲い掛かるかのように抱きしめたレイは黒蛇そのもののようだった。
そしてレイを救うラザルスの部屋にもまた黒い蛇がいるのだ。ラザルスは愛した妻が堕胎し、家を出て行ったことで苦しい思いを抱いている。
ラザルスがレイを助けようとしたのは白人女性レイに自分と同じ黒い蛇の存在を見たからなのかもしれない。
それからは逃れられず自分の上に覆いかぶさってくるのだ。
ラザルスのブルースが心に突き刺さる。
だがラザルス自身もレイを救うことによって自らを癒していたのだった。そして黒人女性ミス・アンジーの優しさによって。
そしてまたラザルスに救われたレイは恋人ロニーの支えになっているという関係なのである。

素晴らしいブルースマンであるラザルスは差別を受ける黒人であり、レイとロニーは他人から嘲られることしかない存在である。
精一杯勇気をかき集めて生きていくんだと言うラザルスの教えと今にも崩れてしまいそうなレイとロニーが泣きながら身を寄せる最後はいたたまれないほど頼りない。だが「私の小さな光を輝かせよう」というレイの歌に小さな望みを抱かせて二人の人生は続いていくのだ。

冒頭しばらくは単に異常心理を扱った話でショッキングな場面をつないでいくのかと危ぶんだのだが、物語の救い同様、少しずつ彼らの心が表されるのでゆっくり待たねばならない。
救い主であるラザルスもまたレイとの出会いでブルースを歌い始め人々との交流が始まっていく。ミス・アンジーとの出会いもレイがきっかけになっているのだ。
ただ一方的な救済なのではなく互いに安らぎを見出していく過程が素晴らしい。
黒人という存在が単なる飾りや白人の引き立て役という扱いでなく、またかっこよく、ここまで細やかに表現されている作品もそうないのではと思った。
信心深いラザルスだが、聖ラザルス(ラザロ)とは社会からのけ者にされるような人、行き倒れになった人、道徳的腐敗に対する守護聖人の名前、とある。
また一度病死したがイエスによって蘇ったという人でもある。

監督:クレイグ・ブリュワー  出演:サミュエル・L.ジャクソン クリスティーナ・リッチ ジャスティン・ティンバーレイク S・エパサ・マーカーソン ジョン・コスラン・Jr.
2006年アメリカ
posted by フェイユイ at 23:09| Comment(0) | TrackBack(1) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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