映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2008年02月15日

『DEATH NOTE デスノート』今夜も再び

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散々悪態をついてしまった『デスノート』だが、やはり一度だけでは勿体無く今夜も観てしまった。
繰り返しもしてしまうだろうが感想記事ももう一度書いてみる。

巧いな、と思ったのはLの出番が一作目の後半からにしたこと。このキャラ設定はどうしてもLの方が目立ちやすいので最初から登場していたらライトのキャラが負けてしまっていただろう。
ライトが最初から登場して正義感の強い真面目な大学生という印象を強く与えながら少しずつおかしくなっていく様子の進行がうまい。一方のLは声だけで姿かたちのヒントも与えられず、つまり年齢も容貌も何も判らないままに天才的頭脳の持ち主だということだけを印象付けられていく。
明るい日中に活動しガールフレンドもいる行動的なライトとパソコンの中だけで会話が通じる影の存在Lの対比がくっきりとなされる。
またライトを演じる藤原竜也の存在感、演技力には人をひきつけて話さないものがある。
キャラクターの個性が強いLと違ってライトはやや掴みどころのない難しい役だ。正義の心と行き過ぎて悪魔になってしまう心が共存している。
その歪みは早い段階で現れる。彼の自尊心を傷つけ正体を見ようとしたLの罠にかかってしまったからだ。
善人である人間が悪の心を持った人間に変身したらどうなるかという物語といえば『ジキル博士とハイド氏』だが我々読者は正義の人であるジキルがハイドになるための薬を飲んだ時点で彼は悪に惹かれていたのだと知らされる。
子供時代には必ず読む本であるが、今ではあまり読まれていないのだろうか。それでもマンガと言う形でそういった問題を問いかければやはり皆の興味のあるものなのだ。善と悪というテーマは少年向けマンガの題材としてやはりうってつけ、ということになるのだろう。

Lの魅力となると様々にあって目が離せない。ひょろりとした手足を折り曲げて椅子に座る様子。真っ白な血の気のない顔で唇も白く目の周りは寝不足のように真っ黒で女の子に見えてしまう。髪はぼさぼさで伸び加減の白いTシャツとだれたジーンズを腰パンではいている。
ひっきりなしに甘いものを食べ続け飲み続けている。物を掴む時は潔癖症の者がやるように親指と人差し指でつまみできるだけ接触を少なくしようとしているようだ。
天涯孤独の孤児らしいがなぜか裕福で“ワタリ”と呼ぶ仲介人のような老人を使っている。彼がLの召使なのか、友人なのか他の何かなのか、本作前編後編では判らない。
ワタリ役の藤村俊二氏が抜群にいい。と言うか、この映画はキャスティングがすべて実に巧いのだがキラ、Lを始めとする登場人物の緊張感の中でおヒョイさんの空気がほっとさせてくれる。
本作で人が次々と死んでいってもさほど心が動かなかったのだが、Lの言うように彼が死んだ時はむかっ腹がたった。Lとしては甘いものを用意してくれる人がいなくなったからか?甘いものといっても大変バラエティに富んでいて用意するのも大変そうである。

一話目の後半以降、ライトとLが出会い、互いに腹を探りあいながらのかけ引き問答は絶妙である。
Lのゆっくりだが句読点の部分で突如駆け足になる話し方が癖になる。Lは天才探偵と言われているのにライトになかなか勝てないのは無論ライトの殺人法がこの世であり得ない方法だからなのだが、いまいち奇妙で素直に頷けない気もする『デスノート』使用法を巧みに使いこなしながら難関をクリアしていくライトが面白い。
だが次第に追い詰められ生き残るためには人間としてあるまじき行動(と言っても連続殺人をやっているのだから最初からあるまじき、ではあるが)恋人を殺し、最後に父親殺しを犯そうとする。
また自分を慕ってくる少女・海砂にいたっては最初から利用することしか考えていない。
ライトの変化は怖ろしい。人間が並外れた力を手に入れた時、そうなってしまうだろう悪への変身というものをライトはまざまざと見せてくれる。正義のため、という言葉がいつしか何の意味も持たなくなっていく。

ところで“名前”という代物もなかなか問題のあるアイテムだと思う。女性なら多くの場合結婚時に名前が変わってしまう。また離婚した場合にはもとに戻ったりする。男性の場合でも無論生じることである。養子、または改名ということもある。
ここでいう“名前”と言うのは戸籍上の名前、と言う意味なのだろうか。死神は人間の顔を見ただけで名前がわかると言い切っているが、“本当の名前”というのはどこにあるのだろう。
戸籍上の名前とは別の名前で通している人もいる。例えば姓名判断とか、様々な事情もあるだろう。本人が知らない場合もある。国籍などの関係で親が秘密にしている場合もある。
この場合は特に“ノートに書く”事が必要で漢字の場合、様々な書き方があったりする。旧仮名遣い、線の長さ、点の打ち方が戸籍上と通常で違ったりもする。それらの間違いでどうしても殺せない、ということはないのだろうか。病院の間違いやある陰謀で赤ん坊と名前が入れ替わっていたらどうなるのだろう。その人の名前は“本当の名前”なのか“通常の名前”なのか。デスノートの規則では偽名は無効なのだが真実の名前と偽名はどうやってわかるのだろうか。
ここでの“本当の名前”はどうも戸籍上の名前のようだが、場合によっては戸籍上の名前より“偽名”の方が本人にとって真実の名前の場合もある。そんな場合でも死神は役所の書類の方が大切なのか。とはいえ、事実がどうであれ署名されたものに意味があるというのもわかるのだが。
ル・グィン『ゲド戦記』では真実の名前と呼び名があるが無論この場合はゲドと書かなくてはいけないのだろう。ゲド戦記、というのも「名前を知る」ことが敵の命を握ることになるという話だったが。
外国人も殺しているようだが漢字・英語圏は理解できるがハングル、アラビア語、アフリカの様々な言語を正確に書くのは難しそうだ。
とはいえ、日本人FBIはアルファベットで殺していたようだからアルファベットでもいいのだろう。だがこれも正確なつづりというものをどのくらいできるのか。日本名の変換でもちょっと考えてしまうものもある。ゲドの場合は発音するだけだったからまだ理解できるが。

などという名前に関してだけでもいちいち考えさせられてしまう話ではある。
私の本当の名前は結婚によって変わった今の名前なのか、生まれた時につけられた名前なのか。どっちなんだろう。
自分の本音としては本当の名前は生まれた時につけられたもので、今の名前はやはり途中で変えられてしまった名前、と言う気がする。世界では結婚後も名前が変わらない国もあるが、私自身、結婚した直後はアイデンティティが壊れたように感じ不安定な気持ちになったものだ。戸籍が変わった時点で真実の名前が変わるなら、デスノートに書かれても急いで結婚するなどして名前を変えてしまえばいいのか。
(40秒じゃ無理だろうが)
そして長い時間を経て変わった名前が当たり前になっていく。ミステリーで偽名を使った者がいつしかそれが本当になっていく過程のようで不思議な感覚に陥った。これは名前の変わることのない者には判らない感覚ではないだろうか。
また在日外国人だとか事情で自分の本名を知らずに育った人もいる。世界中にはそういう本名と通り名を持つ人が大勢いるだろう。
名前と言うのは不思議なものである。




ラベル: 松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『DEATH NOTE デスノート』金子修介

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『DEATH NOTE デスノート 』前編後編を続けて観た。原作はまったく読んでいないのでここから書く感想は映画のみのものだ。

話題になるだけあって大変面白い作品で一気に引き込まれて観てしまった(一晩一話ずつだが)細かく説明がされていて非常にクリアで判りやすい物語だった。
なんといっても面白いのは『デスノート』世界が非常に狭い範囲内で行われていることでそれはほぼ普通の高校生くらいの人間が頭の中で考える範囲内の出来事だということだ。
しかも商売のために自己投影する者が多い東京中心の範囲になっている。これが九州の田舎の青年が起こしたものなら当然観客は減ってしまうだろうから。自分が小さい頃から「この地球を征服する為にまずこの東京を攻めよう」というアレである。
キラがどこにいるかを見極める為にまず関東のみのTV放送をしてまさに東京の大学生がキラである、なんていうことになる。
キラの敵である警察がキラの父親という身内で固め、登場するのはテレビ局だとか、アイドルタレントだとか、オタクの高校生がTVで知る範囲内の駒しかない。アメリカだのFBIだのという言葉が出てきて世界がもっと広がるのかと思いきや、飾り的にバイトの外国人が登場するのみで実際の行動をとるのは日本人である。
オタク高校生では英語で考えるわけにもいかないし、世界観はTVドラマとアイドルとパソコンの中だけしかないのだからしょうがないよな、という展開なのである。
などと揚げ足をとっているようだが、無論それでいいのだ。
この映画はそういう者のために作られていてつまらなければ観なけりゃいいのだから(と言っては身も蓋もないが)世界がオタクの範囲内で近所しか出てこなくとも、登場人物がTVそのものでもそんなことはどうでもいいのである。
デスノートという企画が穴だらけで破綻ばかりでもまあいいのである。
そういう子供じみた世界ですらこの作品は観させてしまう力があった。
その一つはキャラクターでありもう一つは演じた役者たちである。
物語は善と悪との戦い、ということになるのだろうが主人公ライトは最初正義の味方として表れ、次第に悪の化身となってしまう。そしてその役割を真面目で優等生で警察上層部の息子が当たることになる。外見も温和な美貌を持っていて女性にもてる。
悪魔と化した彼を倒そうとするエルは逆に悪魔的な風貌である。ほぼオタクのイメージと重なる彼は顔色が悪く甘いものばかり食べて貧相な体をしてぼさぼさと髪が覆いかぶさっていて話し方も目つきも暗く人付き合いのできないタイプと見える。その彼の方が本当の正義の心を持っている、というのもオタクの本音というものなのか。
主人公・夜神月を演じた藤原竜也を観るだけでも充分に価値がある。舞台役者として素晴らしい彼はここでかなり舞台的に大げさな芝居をわざと演じているようでそれが異常な性格破綻者ライト=キラを表現するのにふさわしい。
また面白いのはではその反対のエルを演じるのが気持ち悪い役者か、というと今、最も人気のある若手男優の一人と思われる松山ケンイチで実は私も彼目的で観たのだが、一見悪魔で実は正義という屈折した男をこれ以上ないほどの危ない色っぽさで演じきっている。
キラ=ライトとエルが矢継ぎ早に会話を交わすシーンはまさに緊張が走っているのが伝わってきて怖いほどである。
無論、上手の藤原竜也が余裕と貫禄で勝っているのだが、松山ケンイチが負けまいと物凄い火花を散らしていくのにはぞくりとするものがあった。

次々と人が死に、主人公もそのライバルも若くして死んでしまう、というのも若者ならではの妄想である。
若い時期と言うのはどうしてこうも死を求めてしまうものなのか。
「悪」「善」「死」などという若いときだからこそ考える言葉がキーワードとなっている。じっくり考えてみるものだろう。
それでこそ若い時なのだと思う。

最大の不満を言えば、それにしてもこの物語の女性像というのがこうも古臭いというのはどういうことなのだろう。
男のために命を投げ出す女とか、嫉妬の固まりの女だとか、父思い、兄思いの優しい妹だとかいうどれもこれも型どおりの女というイメージなのである。
特に不幸を背負った運命のために男に身を投げ出す性的魅力をもった若い女という設定はぞっとするものを感じる。
キラという教祖に命を投げ出す哀れな女というキャラクター設定だが彼女をSM的に縛り上げて作品の中で性的な餌食にさせるなど日本の映画・マンガ作品というものの女性蔑視は相変わらずだなとうんざりする。これもオタクものだからこその表現なのだろうから、いい部分もあればげんなりする所もある、というそういう作品なのには違いない。
どちらにしてもオタク男的な幻想を満足させる作品に仕上がっているということなのだろう。

死神が人間臭い、というのが不思議なのである。自分のイメージ的には死神というのは何の感情もないものだと言う気がするのだが、かわいそうな少女に同情したり恋したり肩入れしたり、人間より温かい心を持っていたりする。最後の行動も死神ならではの行動というより突然思いついた気まぐれのようだ。
物語がその時その時でどんどん付け足されていくような展開なのでいきなり崩壊したラストのようにも思える。

監督:金子修介 出演:藤原竜也 松山ケンイチ 瀬戸朝香 香椎由宇 細川茂樹 戸田恵梨香 津川雅彦 藤村俊二 鹿賀丈史
[the Last name :片瀬那奈 マギー(ジョビジョバ) 上原さくら ]
2006年/日本
ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 01:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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