映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2008年03月10日

『蒼き狼 地果て海尽きるまで』澤井信一郎

蒼き狼3.jpg蒼き狼.jpg

この映画が製作されている報道を見ていた時は「観ることはあるまい」と思っていたのだが、松山ケンイチが出ているので物凄く観たくなったのだった。
果たして。彼の登場は後半からで時間的にも僅かだが、これは必見だったなあ。
もうめちゃめちゃ可愛いったらないのだ(バタバタ)
17歳の少年を演じているのでより愛らしさをにじませている松ケンなのであった。
とにかく不幸な生い立ちなのである。
父・テムジン(後チンギス・ハーン)も生まれは誰が父親かわからないという苦悩を背負っている。
彼の父はイェスゲイという族長なのだが、テムジンの母はメルキト族からイェスゲイにより略奪された花嫁であり、その誕生が早かった為にメルキトの種ではないかという疑惑をもたれていた。
そのテムジンもまた花嫁を敵メルキトに奪われ妊娠させられてしまう。
生まれた子供は間違いなくメルキトの子であったが母と妻の説得で命を奪わずにいた。
ジュチ(よそ者)と名づけられたその少年を演じるのが松山ケンイチである。
英雄である父を慕いながらも己が生まれた時殺されそうになったという話を聞き、苦しむ。
その父は共に戦いたいと願うジュチを遠い北方の地に追いやってしまう。この時父テムジンにしがみつく松ケンはまるでジェームズ・ディーン@『エデンの東』を彷彿とさせる(嘘ですワルノリしました^^;)
戦利品の中から欲しいものを取れといわれ弓矢を射る時に使う小さな指輪を取るジュチ。
北方の地で毒矢を受け、病に倒れ、父の訪れに喜び金征伐へ行けない自分に涙するジュチをなんともいじらしく演じてみせている。
顔の線が痛々しいほど細くて愛らしい。
なんだか噛み合わせが悪いように見える口元も魅力的なのである。
寝ている顔を下から映すと細い鼻腔とめくれた唇がセクシーだ。
愚かな父親を持つ運命になってしまった可哀想な子供だった。

百三十六分間、この数分間を観る為に観て悔いなし。
なぜか口調が時代劇風に。

まあ、映画自体に対しての感想としてはこれを撮るために巨額を投じた、というのが勿体ない、としか言えない。
「売り」の物凄い人数の集合場面、戦闘場面などどうでもいいのであって(しかも戦闘シーン人数は多いのだろうが演出としてなにか見所があったとは思えない)地味なTVドラマで上に書いた父子愛憎劇をやったとしても同じくらいの感動はあったと思う。

例えば張芸謀の『英雄』だとかO・ストーンの『アレキサンダー』みたいな戦闘場面自体の面白さ、というのは皆無。戦闘シーンで物凄い眠気が襲ってきていつしか寝てしまっていては殺戮の意味もない。

私としては松山ケンイチだけでなく実はちょっぴり期待もあったのはあった。
何しろ『射[周鳥]英雄伝』を愛する者としてはモンゴルの空を鷲が飛んでいるだけでちょっとときめいてしまうではないか。
テムジン、ジャムカ、アンダなどと聞いてるだけで郭靖はどこ?と探してしまうではないか。
あのドラマはモンゴルではなく中国のものではあるが、とにかく出演者はモンゴル系だろうからイメージが本作とは全く違う。まず体格が3倍くらいデカイというか太い。
皆朝青龍か白鵬かという立派な風格だったのに日本人だとみんな細くてへにゃへにゃである。金庸ドラマでモンゴル人をいつも見ていた目には英雄はもっとどーんとしてなきゃなー、とがっかりしてしまう。
まあそれは許すとしても大草原を突っ走るのだから、もっとカッコイイー!!!という爽快な場面がなければ大草原の意味がないのではないか。
やっぱり日本人は狭い土地で小さく生きているから大草原の中でも大きく動けなかったような気がして悲しい。反町が大声で叫べば叫ぶほど小さいなあ、って気がしちゃう。
モンゴルの人が観たらかなり笑えるのではなかろうか。

空しくなってきた。

思い切って源義経がチンギス・ハンになるのをやったら?

よけい寂しいか。

浅野忠信主演『MONGOL』も観れそうだし、これも観ておこうかな、と思ったのもあるのだが。
単に角川春樹が大草原で大エキストラを動かしたかっただけのようにも思えるし、それならマジで感想言うのもまた空しいだけである。

テムジンの弟役をやってた袴田吉彦も好きな雰囲気の人だ。

監督:澤井信一郎 出演:反町隆史 菊川怜 若村麻由美 袴田吉彦 松山ケンイチ 野村祐人 平山祐介 池松壮亮 保阪尚希 榎木孝明 津川雅彦 松方弘樹 Ara
2006年 / 日本/モンゴル






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2008年03月09日

『サッド・ヴァケイション』青山真治

サッド・ヴァケイション.jpgサッド・ヴァケイション2.jpg

なんというか、怖い映画を観てしまった。この作品、本当はコレでいいのか、こういう話を作ってしまって許されるのか。というところまで来てると思うのだけど、観終わって暫くしてると、いい映画だったように思えてくる。
でもそう思ってはいけないような本当には恐ろしい話なのではないか。

健次は母親を慕いながらも怖れている。まさにグレートマザーそのもののような存在の彼女はすべてを許し司っているかの如き風格である。それゆえに彼女の考え行動はある時は暖かな慈愛を感じるがある時は非常に残酷で冷たいのだ。
私はそこに母親そのものを感じて健次と同じように彼女を愛し、怖れる。

北九州を舞台にして地元の話し言葉をそのまま再現したこの作品で語られるのはいかにも九州らしいものだ。
男たちは言葉も性格も荒々しいが女性には母親を求めていて子供っぽい。最後に梢にすがる後藤とそれを受け止める彼女の姿が象徴的である。
また冴子も健次を許し待ち続け、そのお腹には彼の子供が宿っているという母性を強く表している。

子供っぽい男達とそれを抱く母親的な女性の構図は九州では当然のものだが、反発を感じる場合もあるのだろうか。
復讐を誓って母親を見つけ出した健次だが、なんのことはない、母親に飲み込まれてしまった。

このグレートマザーを演じているのが石田えり。ふくよかなその容貌からしてぴったりである。
梢は宮崎あおい。バスジャックに遭ったという辛い少女期から成長した女性を演じているが、その雰囲気はもう当然といったところだろうか。
健次が勤めることになる間宮運送の社長は母親の再婚相手である。この運送会社は様々な傷を持つ人々を受け入れて成り立っている。この運送会社も母性的な意味を持っている。社長は中村嘉葎雄で実にうまい。
そこで働いている後藤は借金取りから追われる身の上。彼を演じているのがオダギリジョーなのだが、初めてとても合っているいい役なのではないかと思った。
お馴染みの斉藤陽一郎がいつもどおりのお調子者で決めていた。

『サッド・ヴァケイション』というタイトルはニューヨークドールズのジョニー・サンダースが、シド・ヴィシャスの死を悼んで作った歌。「君と会えない時間は僕にとってとても悲しい休暇だ」
ここでは健次が慕っていた安男への思いなのだが、嵐の晩に安男の幻影を見た健次はそれから精神状態がおかしくなってしまうのだ。
ヴァケイションが終わり彼は行動を始めてしまう。

健次役の浅野忠信。『Helpless』からの10年後を演じているのだが、これがまたかっこいい。
いつもの彼よりやや男っぽい生な感じが出ていてキスシーンなんかもステキであった。

ところで間宮運送の息子・勇介のベッドの脇にフランケンシュタインの怪物の小さなポスターが貼ってあった。
怖い顔にぎょっとしてしまうが、このモンスターといえば生みの親に愛されず愛を求めて苦しんだ怪物である。勇介の胸の中を表しているようだ。

監督:青山真治 出演:浅野忠信 石田えり 宮崎あおい 板谷由夏 中村嘉葎雄 オダギリジョー 光石研 斉藤陽一郎
2007年日本
ラベル:女性 家族
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2008年03月08日

『拍手する時に去れ』チャン・ジン

拍手する時に去れ.jpg拍手する時に去れ2.jpg
Murder,Take One

キム・ギドクを別にすれば物凄く久し振りの韓国映画ではないだろうか。シン・ハギュン、チャ・スンウォン出演ということとタイトルの面白さ(韓国映画はタイトルがいつもいいが)で観る事にしたのだが、これがなかなかに面白かった。

ミステリーにオカルト風味とコメディを軽く合わせて作り上げた娯楽作品。
9箇所も刺し傷があったという美しい女性の謎の死にチャ・スンウォン演じる検事が究明にかかる。
容疑者はすぐに捕まったのだが、この取調べを48時間生放送というTV番組で放送することになったのだ。

TV司会者、解説者、見物人を含めた大勢が事件について熱論を繰り広げ、犯人がガソリンを買いに来たというガソリンスタンドの店員の推理、とんちんかんな日本人夫婦のやり取り、殺された女を愛人にしていた会社社長の娘、盲目のマッサージ女性、女が宿泊していたホテルの支配人と従業員などが入り乱れ謎は深まっていく。

舞台を映画化したということで物語はTV局特設の建物の中で展開されていく。
冒頭に検事(チャ・スンウォン)と容疑者(シン・ハギュン)が白熱した問答を繰り広げる事から始まり、あっという間に物語りに引き込まれてしまう。
チャ・スンウォンはすらりとした長身で味のある顔立ちでかっこいい。どことなくユーモアのあるところも素敵である。シン・ハギュンは相変わらずイッチャッてる目つきが魅力的だ。
舞台でも彼は同じ役で検事役はチェ・ミンシクだとか。これも観てみたい。
シン・ハギュンは顔だけだとオタクっぽいがいい体なのは『地球を守れ!』で確認済みだったがここでもその肉体をちらりと披露してくれている。ガラス越しにチャ・スンウォンににじり寄って激白するシーンは見もの。
やや登場シーンが少なく感じられるのが寂しいが彼がこの物語の要なのである。
彼が途中から被害者の弟だと言うことが解り、彼と姉との関係がただならぬものであることがあまり大っぴらにせず隠されているようなのはなんらかの事情なのか。
姉を思い出す時のシン・ハギュンの表情に注目するしかない。

私が以前いつも韓国映画で気にしていた残酷な場面や性的な場面も全くなく、登場人物の年齢も高めだし、派手なアクションが売りということでもなく物語と演出の面白さ、シン・ハギュン、チャ・スンウォンを始めとする出演者の巧さで一気に見せてしまうとは韓国映画はますます円熟味を増してきた(偉そうな言い方で^^;だが)と感心するばかり。アイディアの卓越さにまたまたハリウッドがリメイクしそうな予感もするがハリウッドにチャ・スンウォンほどかっこいい男優もいないんじゃないか。
ま、そんな決まってもいない心配をしなくともいいか。韓国ではかなりの観客動員というだけあってこれは確かに面白い作品であった。

凄く日本語の巧い日本人夫婦役は韓国人なのか、日本人なのか。「韓国の焼肉屋は肉は美味いけど換気が駄目ね」なんていかにも日本人が言いそうな台詞でおかしい。でも表情がありすぎてなんだか三谷幸喜の芝居でも観ているようである。彼らに比べ通訳の日本語はうまいが微妙に下手という細かさ(なのか)

最後の解決は霊媒師(というのか)の女性だった、というのが『殺人の追憶』でも出てきた結局科学じゃなく神がかりなのね、ということでまたおかしい。この辺は好みが分かれるところかもしれないが私は好きである。

久し振りに観た韓国映画が思った以上の面白さだったのでちょっと感激である。また以前のようにはまり込んで観て行きたい気持ちはあるんだけどなあ。(とにかく男優がかっこいいからね。美女もだけど)

監督:チャン・ジン 出演:シン・ハギュン チャ・スンウォン イ・ジェヨン シン・グ パク・チョンア チョン・ドンファン キム・ジンテ コン・ホソク
2005年韓国
posted by フェイユイ at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月07日

『フルメタル・ジャケット』スタンリー・キューブリック

full_metal_jacket.jpgFullMetalJacket3.jpg
FULL METAL JACKET

遠い昔に観たきりだったと思うが、久し振りに観てもやはり秀逸な作品である。
言いたい事だけ言って、描きたい事だけ描いてサッと終わる。そんな感じ。

まず驚かされるのはこの映画には“反戦”だとか“人類愛”だとかそういった戦争映画を製作する時に必ず含ませなければならない、と思われるものを微塵も感じさせないところだろう。
「ベトナム戦争」はここでは物語のための装置なのであって、ここに描かれるのは“戦争の狂気”そのものなのだ。人間は巻き込まれたら最後そこから逃れる事はできないのである。

物語は前半のキャンプでの訓練と後半のベトナムでの戦闘という構成になっている。“ジョーカー”とあだ名される主人公が語っていく。
前半の訓練ではもうこの映画を観た事がなくともイメージとして皆が知っているであろう鬼軍曹のシゴキが描かれる。
下劣極まりない罵り声を伴奏に軟弱だった肉体と精神を戦闘のみに機能する海兵隊として作りかえられる若者達。
人間兵器となっていく彼らは次第に狂っていくのだが、それに気づいてはいないのだ。
理不尽でも命令に従い、仲間をリンチしてもそれが当然のこととなっていく。
そして鍛え上げ、服従させた軍曹自身が兵士に殺されるという狂気。

後半、主人公ジョーカーはベトナムの地に立っている。
すでにここから彼がおかしくなっているのだ。仲間があの状態で死んだのにそれを忘れたかのように戦地へ赴いている。
戦闘がなければ退屈を感じ始めるジョーカー。確かに彼は道化師の役を果たしている。
仲間たちと荒れ果てた市街を進む内、どこからか狙撃される彼ら。見えない敵に一人、二人と殺されていく恐怖の描き方が際立っている。
味方を見殺しにしようというのも狂気なら、銃弾の中を走り抜けていく男も狂気である。
恐怖に陥れた狙撃手の正体を知った時の彼らの狼狽。
この実態が最も酷い戦争の狂気なのか。

そしてジョーカーは「もう何も怖れたりはしない」と語る。怖れるのが当然の中で彼の精神はもう破壊されてしまったのだ。
そしてミッキーマウスの歌を歌いながら彼らは戦地を進んでいく。

冷め切った視線であざ笑うかのように彼らの殺戮が映し出される。そこには人間の尊厳も平等もなく、生命は簡単に断ち切られてしまう。
そういった描き方が却って戦争の惨たらしさを鮮烈に映し出す。
胸にはピースマーク。頭には「BORN TO KILL=生来必殺」と書かれている矛盾。

さらに怖ろしいのは。
この映画を観ているとなんともいえない高揚感あるいは快感を覚えてはいないか。
まるで自分もそこに居る兵士のような錯覚、勇敢な行動を取る英雄のような気持ちに。
戦地での狂気に憧れ、快い戦慄を覚えてはいないか。
それはキューブリックの映像の魔のなせる快感であるとしても。
キューブリックはそんな心を知ってあざ笑っているような気がする。

この映画を今初めて観た人はすでに観たことがあるように感じるのではないか。訓練シーンも戦闘シーンもこの映画から剥ぎ取られ続け、ズタボロになっている感がある。
キューブリックといえば『シャイニング』『時計仕掛けのオレンジ』『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』もしかしたら『ロリータ』も含め人間の狂気というものを描き続けてきた映画監督である。
作品数は決して多くはないがこれほど強い印象を残す映画を撮れる人も少ないだろう。
といっても最も有名なのが『2001年宇宙の旅』というSFだというのが物凄い。

監督:スタンリー・キューブリック 出演:マシュー・モディン アダム・ボールドウィン ヴィンセント・ドノフリオ リー・アーメイ ドリアン・ヘアウッド
1987年アメリカ





ラベル:戦争 狂気
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2008年03月05日

『アカルイミライ』黒沢清

アカルイミライ.jpg

本作『アカルイミライ』は以前観たのだが、松山ケンイチ初映画出演ということだったので観直す事にしたのだった。最近、こういう人結構多多いのではなかろうか。

で、初観の感想というのは非常によくなくて自分と合わないな〜というものを感じていた。再観して突如印象が変わるかも、というひそかな期待もあったのだが、殆ど変わらなかったというのが結果だった。
なので今回は「なぜこの映画が面白くないんだろう」ということを考えてみることにする。無論私にとって、ということで。

では、この映画の出来栄えが悪いのか、というとそんなことは全然ない。むしろ今回観なおして大変よくできた作品だと思えた。
よく言われる「解りにくい」ということはなくて、というのが傲慢ならよく「伝わってくる」作品だった。
丁寧で親切な作り方だし、ストーリーもきちっとまとまっている。
すべての登場人物が過不足なく説明されていて物語もしっかりした起承転結で構成されている。使用される小物も伏線も効果的で文句はない。シリアスに攻めてくるところも悪くないし、全体の雰囲気荒い画面や音楽もうまく合っている。
ゆらゆらと浮かぶアカクラゲを雄二や若者のイメージと重ねる。「守さんをずっと待っている」という成長したがらない雄二を怒る守。
親子関係が希薄な時代に守や真一郎と雄二を擬似兄弟・父子として描く。それらを通して雄二の再生と成長を描く。

というように大変巧くできた映画なのだが、テーマ自体、語られている物語自体がもうこういう形で観たくないかなーと思ってしまうのだ。
何かができるはずなのに自分を見失って毎日をだらだらと生き、ある人間(ここでは守の父、真一郎)との出会いで目覚めていく、という筋を書くと(まあ多分いっぱいあるんだろうけど)殆どガス・ヴァン・サント監督の『グッドウィルハンティング』と同じである。
暴力をふるって警察沙汰になるのは『グッドウィルハンティング』では主人公ウィルでこちらでは友達の守。向こうはすぐ出てくるが、こちらは暴力が殺人になってしまっているので死刑、しかし途中で自殺という違いである。
向こうでは大学教授にカウンセリングを受け続け、こちらでは中古品屋の親父に罵倒されて目覚める。
中古品を再生する仕事、というのが駄目になった人間を再生する仕事の教授と似通っているのは面白い。
向こうは大学の掃除人、こちらはお絞りを綺麗にするクリーニングというのも不思議に似てるし仕事後にあちらはバッティングセンター。こちらはボーリング。但しあっちには恋人ができるがこっちにはできない、と。
あちらの移動シーンは電車でこちらは軽トラ。気持ちよさそうな顔をする場面もある。
最後に自分を再生してくれた男と抱き合うところまで一緒というのはどういうことなんだろうか。ここでは男が「君を許す」と言ってるし、あっちでは教授が「君は悪くない」って言ってたっけ。どちらも同じ意味ではある。
真似だとか言いつけるつもりはないが、それでも似ている。
そういうストーリーが若い時には必要で繰り返し違うやり方で語り継がれているのだ、と認識すべきなのか。
若いマット・デイモンとベン・アフレックの共作である脚本と黒沢清脚本がこう似てしまったのか。不思議ではある。
黒沢清にどこかあの映画の記憶が残っていたのか。それとも本当に下敷きになっているのか。


『グッドウィルハンティング』は嫌いで本作は好き、という人もいるだろう。たまたま私はその逆だったということだ。
同じような話なのにも関わらず、どうして私は『グッドウィルハンティング』は好きでこちらは嫌いなのか。

最も嫌なのは守の死である。
『グッドウィルハンティング』での守役(守って名前はそのままずばりでいいね)のチャッキー(ベン・アフレック)はウィルに「Go!」のサインを出しても死なないで生きているのに、ここでは守を死なせてしまう。死ぬ事で美化される友というイメージには反発を感じる。
一人の人間をあーゆー形で死なせる、という感覚が私は嫌いだ。
「一粒の種は死ぬ事によって豊かな実を結ぶ」という言葉を表現したかったのかもしれないがどうしてもこのやり方は嫌いなのである。
チャッキーのようにいつかまた会える、という存在であってほしいのだ。

次は配役である。
一人ひとりの役者は好きなのだが、配役のセンスがどうしてもしっくりこない。主要人物に美形ばかりを使っているのがどういう趣味なのか理解しがたい。
オダギリと浅野忠信というのが似たような美男同士なのが落ち着かないし、何故か観ていて二人の間に特別な関係がじっくり流れてこないのである。擬似兄弟というイメージがあったのかもしれないが、感じないんだよねー、いいものを。
守の父に藤竜也というのもいただけない。これは彼が昔2枚目だったというのが私の中にあるせいかもしれないが、もっとかっこ悪いおっちゃんだといいのに。おまけに藤竜也の話し方が丁寧で気持ち悪い。普通のおっちゃん語がセクシーでいいのに。
そして弁護士もりょうを使うとか配役がいちいちひっかかるセンスで観ていられない。りょうさんは綺麗で嫌いじゃないが配役のバランスが自分と合わないのだ。
唯一雄二の妹の彼がはなわというのはよかったかな。

そして住居と服装のセンス。
工場長の家は普通でよいけど、雄二と守の部屋はいかにもビンボっぽくあり得ないデザインだし、服装がまた凝りに凝った貧乏デザインで気に触って仕方ない。逆に物凄く高価としか思えないのだ。独特の世界観を出そうという試みだったのだろうが、普通の安アパートに住まわせ、安物Tシャツジーンズの方がよっぽどオダギリと浅野の体が綺麗に見えたろうに残念である。無論この辺私の趣味である。

だらだらと書いてきたが、そういった映像と物語の主旨が自分の好みの範疇でなかったわけで、他がいかに巧く作られていても好きにはなれないのである。
雄二の意外にずうずうしい性格も好きじゃない、とかね。おっちゃんに物を運ぶように言いつけたりとかね。自分で運べよ。
つまり、キャラクターのどれも(特に主人公に)恋できないのだ。可愛いと言って抱きしめたくならないのだ。

この辺にしよう。

で、肝腎の松山ケンイチはどうだったか。
これは楽しめたね〜。クレジットでも一塊の最後に表示されてるくらいだからまだまだ目立たない存在だったのか。でも幾つか台詞はあるし、割に真ん中とか前列にいるので結構いいほうだったのか。
こんな十把ひとからげの中でも懸命に演じているのがよく解る。熱い、と言ってもいいくらい。
ゲーセンでだれている雄二を手荒く扱うのも懸命だし、最後チェ・ゲバラのTシャツを着て道路の空き箱を蹴飛ばすにもサッカーの足技を使って見せたりしてどこまでも魂込める人である。後ろの奴の蹴ったのが手に当たったのにも痛がってみせたり。
最後の最後も前列で歩いてきてたがもう頑張って前に出たとしか思えないんだけど。
可愛い。ホントにこれ観るためだけでも観てよかった、と思える松ケンであった。

最後に。
では何もいいところがなかったかというとそうではない。前述したように構成や物語り方は巧いのでつい観てしまうところはある(せめて守が死なないならなー)
作品の発端になったという床板を剥がすと下に水が溜まっていてくらげが光りながら浮かんでいる、というイメージは本当に素晴らしい。ただゆらゆらして漂っているようで猛毒を持つというのが雄二と重なるのもうまい。
単に綺麗ということだけでなく人に被害を与え、迷惑になっているという現実もよかった。最後、そろって「東京を出て行く」という落ちもよかったしね。
これは『グッドウィルハンティング』にないものだ。思うにウィルの天才的頭脳という個性がここでは「くらげを飼う」という個性になっているのではないか。
これは全く違うものなのでこのイメージで膨らませていって、こんな「今時の若者の堕落と再生」みたいな生真面目な話にしなければよかったのに、などと思ってしまう。
これも私の趣味でしかないのですがね。結局は繰り返しになるけど若者にはこういう話が必要、ということなのだろうけど。
『大人は判ってくれない』の方が今観ても衝撃だったし。『スイート・シックスティーン』『キッズ・リターン』とかね。


監督・脚本:黒沢清  出演: オダギリジョー、浅野忠信、藤竜也
2003年日本


ラベル:再生 青春
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ヒース・レジャーの『恋のからさわぎ』映像配信

恋のからさわぎ.jpg

ヒース・レジャーの『恋のからさわぎ』がDISCAS映像配信で観れます。
配信終了日が2009/03/02で、48時間420円なので観やすいのではないでしょうか。
yesasiaのDVD購入ができなかった(売り切れ?)ので私もこちらで是非観てみようと思っています。
posted by フェイユイ at 14:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月03日

『男たちの大和/YAMATO 』佐藤純彌

男たちの大和/YAMATO.jpg男たちの大和/YAMATO 2.jpg

観る前にためらいと抵抗を感じなかったと言えば嘘になる。
だが観続けるうちに予想したものとはまったく違う物語だったと思い始めていた。
但し表現が散漫で奇妙に隠したがる演出なのでなかなか本質が見えてこない。演出過多な箇所も多くあり、そのためによさが消えてしまったのではないか。
非常に面白いいい映画でもあるのに金がかかっただけに様々な障壁が生まれたようにも思える。

躊躇の一つは主役が反町隆史と中村獅童だということだったが、どういうものか実際の主人公は松山ケンイチ演じる少年兵・神尾克己なのであった。
冒頭とラストでも年老いた彼が物語を繋いでいくことからみてもこの作品は神尾克己という一人の頼りなげな少年(16・7歳)が突如戦艦大和の特別年少兵となって乗り組み、そこで出会う仲間と共に戦闘に突き進む姿が描かれていく。
ところが作品の紹介としてはこのタイトルであるし、主役は先に書いた二人となっており、様々な男たちのドラマとして受け止めてしまいそうになる。
無論、この映画の作り方がそういった表現を取ってしまっているので仕方ないことではあるが、自分としてはこの作品のタイトルは『大和に乗ったある少年兵の人生』ということなのであり、もっと神尾克己にのみ焦点を当てていった方が判りやすかったのではないか。
「大和の全貌が見えないために戦闘シーンの迫力が足りない」などという不満も神尾に視点を持たせれば無くなってしまう。神尾が目なら大和の全貌が見えるはずはないのだから。
ただしせっかく巨額を投じて作った戦艦大和が随分勿体無い使われ方になってしまうが。
「戦闘シーンばかりで人間ドラマが希薄だった」というような批判もあったようだが神尾少年を中心に観ていけばそうは感じない。

神尾は当時教育を受けた少年らしい純粋な気持ちで戦争に赴いている。けなげに仲間を守り、敵を討とうとする姿はいじらしいが一方何も考え切れていない憐れさがある。
やや年長の先輩2等兵、森脇(反町)内田(獅童)は幼い彼よりも何かを知っている感がある。
この“感”がくせもので特に森脇は意味ありげに何かを含んでいるのだが言葉にしないためにそれを察知しなければいけない。
人によってその感じ方はマチマチになるだろう。年少兵が「戦って死にます!」という時森脇は何か言いたげに見ている。人によっては彼が「よし、偉いぞ」と満足していると感じるか、悲しげに見ていると取るか。
が、次の場面で森脇が「あんな子供が死の本当の意味が解っているとは思えない」とつぶやく。
また「総員退艦命令が出たら必ず逃げるんだ」と叫ぶ。そして逃げまいとする若い神尾を突き落として海へ逃れさせるのだ。
少年神尾の命は二人の先輩によって救われるが彼はその意味が解らないまま長い年を生き続ける。
両親兄弟、好きだった少女とも死に別れ、生き延びた神尾は生きる意味がなかった。
戦後60年たって出会った内田2等兵曹の養女から聞いた「義父は戦後多くの養子を引き取って育てたのです」という言葉でやっと生き延びた意義を知る。彼の長い人生は無に等しかったかもしれないが、最後に残された時間を意味を持って生きていくのだろう。
神尾は少年の時と老いてからと2度彼に救われたのだ。
とはいえ神尾の人生はあまりにも悲しいではないか。純粋で誠実だった彼はそれだからこそ、長い時を苦悩の中で生きなければならなかった。内田の年齢なら人生の意味が解ったかもしれないが、少年の神尾はまだ何もわからないままに戦争の中に投じられ、すべてを失い、少年のまま成長することなく人生を送ってしまったのだろうか。戦争は彼の人生の殆どを破壊してしまったのだ。

この作品を最初からのめり込んで観たわけではない。観始めても暫くは「やっぱり思ったとおりのいかにも戦争ものだ」という思いで観続けていたのだが、物語も半ば、臼淵磐大尉(長嶋一茂)が静かに言った「今目覚めずしていつ救われる?・・・俺たちは日本が新しく生まれ変わるために先駆けとして散る。将に本望ではないか」という言葉でうん?となった。これはそれまでの物語とかけ離れた感覚があり、この戦闘中に若い士官が言える言葉だろうか?とすら思えたのだ。
物語から突如浮き上がったこの一言にこの映画の意味が表されていると感じ、そこからまったく違う思いで観続けたのだった。だがこの思いも唐突に与えられないほうがよかったのかもしれない。
調べてみると臼淵大尉は実際の人物なのだが、この言葉は本当に言ったのかどうか、伝達者の気持ちから生まれたのでは、ということらしい。
映画の原作とは別に彼を描いた著作にこの言葉があるというのだが、本作の軸ともなるべき言葉が他の著書から出ていたというのは不思議な話ではある。
理解を与えてくれる言葉ではあったがむしろ借り物的な「いい言葉」をいきなり放り込む方法ではなく地道に感じさせてくれればよかったのである。
私が主人公と信じる神尾はこの言葉を聞いていないことが本当につけ足しのように思えるのだ。

いい映画なのだがどこか間違っている。間違っているが神尾少年を中心とした話としてみれば非常にいいような、ちぐはぐだがそれでも悪いとは言い切れないもどかしい映画として記憶に残りそうである。
しつこいが神尾少年の視点だけで物語を構成して金もあまりかけずに作っていたらもっとずっといい映画だったのに。

CGを使った戦闘シーンはハリウッドに比べればイマイチなどと言われているようだが、自分的に戦争の空しさ勿体無さが充分に感じられた。なんという生命の無駄使いだろうか。次から次へと人間が血まみれになり何の意味もなく救護班の元へ運ばれる。なす術もないその有様は地獄としか言いようがない。

また『プライベートライアン』を引き合いに出されているようだったが自分としては『フルメタルジャケット』を思い出していた。といってもそれも遠い記憶だが。

神尾克己を演じた松山ケンイチは文句なくよかった。群集シーンになっても彼ばかり追っていたのだが。いつでも間違いなく神尾年少兵を演じきっていた。
前述したとおり彼がこの作品の若き主演となっていたらまたイメージも随分変わったのかもしれないが(そういう意味でならそうならなくてよかった)
彼の目はちょっとイッチャッテル感があるのだが、若くて純粋で狂信的に戦闘にかける姿は彼にふさわしい役柄であった。
彼の恋人(というには可愛すぎるが)役、蒼井優もぴったりで初々しさが切ない幼い恋人達である。
内田の恋人・芸者の寺島しのぶはちっとも綺麗じゃないのが凄い(褒め言葉である)獅童氏との組み合わせは迫力ある豪快な恋人同士だ。

もう一つの組み合わせは森脇・内田なのだがなにしろ反町・獅童なのでいまいちその気になれない。
それにしてもこの二人が大和最期の場面で神尾を突き落としたのは二人きりになりたかったからでは?などと考えてしまう。ラブシーンに子供は邪魔だ。
とはいえ、物凄い形相のこの二人に抱きしめられていた松山ケンイチは可愛かった。このシーンを観るために私は観た、と言いたいが反町・獅童ではなあ。
この箇所を書くためにここまで書いた、とは言えるかもしれない。

監督:佐藤純彌 出演:反町隆史 中村獅童 鈴木京香 仲代達矢 長嶋一茂 渡哲也 奥田瑛二 寺島しのぶ 蒼井優 松山ケンイチ
2005年日本
posted by フェイユイ at 22:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月01日

『インランド・エンパイア』デヴィッド・リンチ

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INLAND EMPIRE

こんなに映画記事を書かなかったのは私にしては珍しいのだが、何をしていたかというとデヴィッド・リンチ『インランド・エンパイア』を繰り返し観ていたのはタイトルですでにおわかりだろうが。
それですっかり理解できたのかというと無論できてはいない。観れば観るほど袋小路に入ってしまうようでもある。
かといってようよう飲み込めた(ような気がする)ことを書き出そうかと思ってもちょっとネットで検索してみたら次々とこの映画についての解析分析考察がすでに数多くあげられていて監督自身のインタビューもあるのでなんだか今更書くのも気がひける。
なんとか自分なりの考えを書いていきたいものだとは思っているのだが。


ともあれ、ここである程度の本作の謎解きのようなものを書いてみよう。監督自身の言葉や他の方の解析も含まれている。
描かれているのは『ツイン・ピークス』でも題材となっていた「死」と「死後の世界」そしてその間に置かれた場所について。
物語はローラ・ダーン演じるニッキー(スーザン)が一人で引っ張っていくのだが、実の主人公はロストガールと名づけられている若い女性。
彼女はポーランドにいてとある部屋に閉じ込められTVを観ては涙を流している。そのTVにはニッキーの姿も映るのである。
時間と空間が交錯し捻じ曲げられ幾層にも重なった世界が進行していくので物語がすんなり頭の中に納まることはできない。
デヴィッド・リンチはいつもこの難解さを問われる度、「なぜ映画を説明や言葉にしたがるのか。目で見たことをそのまま感じ取ればいいのだ」てなことを言っていて、それならもう誰も解析などする必要はないのだが自分も含めどうしても言葉に置き換えないと居心地が悪い人間が多いのだろう。リンチに逆らいもう少しストーリーを追ってみる。
ハリウッド女優ニッキーは期待していた『暗い明日の空の上で』の主役に抜擢される。だが、その映画はポーランド民話を元にした『47』という映画のリメイクだということを監督により知らされる。しかもその時は未完成のまま終わり、主役の二人は殺害されたという呪われた作品だというのだ。
ゾクゾクとするミステリーとホラーの出だしではないか。ごく当たり前に演奏して欲しいものなのだが、リンチは独自の奏法でなければ作品を弾きたくないのだろう。
TVの前で泣き続けるロストガールは呪われた作品『47』のヒロインで製作半ばで殺害されてしまったのだ。
ロストガールは無念さのあまり成仏できずその名の通り迷い子となって宙ぶらりんの部屋でTVを見て泣き続けている(成仏できない、という感覚が東洋趣味のリンチらしいところ。この部屋は『ツイン・ピークス』でのホワイトロッジのようなイメージなのである)
時間も空間も隔たった過去のポーランドと現在のハリウッドでロストガールとニッキーは同じ映画の主役という共通点で結ばれる。
ニッキーは現実と虚構の区別がつかなくなり様々な苦難に陥るがなんとか映画を撮り終える。
ニッキーと同化することで長年の無念を晴らせたロストガールは今度こそ迷うことなく昇天できたのだ(『ツインピークス』でも昇天の場面があったが)
ニッキーの行動がロストガールを救ったというのは間違いないことのようだが、ニッキーの存在とロストガールとの関係というのは観る人によって解釈がまちまちのように思える。
ニッキーはロストガールが作り出した幻想のように考える人もいるようだが、私はやはりニッキーという女性がいてロストガールを救ったのだと思う。
そしてこの映画の主題はロストガールの救助だけでなくローラ・ダーンと他の女優たちによって表現されている「女性」というものにあるのだ。
ローラ・ダーンはここで女優、妻、恋人、売春婦という役を演じ分けている。ある時は貞淑であり、ある時は道ならぬ恋をし、ある時は怒り狂い、ある時は恐怖に怯える。
彼女の周りに幾人かの女性がいて色々な考えを述べる。彼女はそれを聞いて笑ったり泣いたりしている。彼女が一人で考えているそのことを示しているのではないか。
彼女は自分の内面を深く探っていく。そこには考え付かないような怖ろしいもの、禍々しいものが潜んでいる。
遠くから近づいてくる姿が自分のものだったがその驚愕の表情の異常さに自分で驚いてしまうのだ。
彼女は自分が主演する映画を以前演じて殺されたという女性の存在が深く心に突き刺さっている。彼女の霊が心の中に入り込んでしまった。
ロストガールを救うため暗く細い廊下を通り抜けるのも自分の奥底に入っていっているようである。自分の内面がいかに暗くぼんやりとした灯りしかないものか。傷となった『47』の扉を見つけ傍に現れた男に驚き銃を向ける。だがいくら撃ってもきかない。それは彼女の心が生み出した恐怖なのだ。突然男の顔があり得ないカリカチュアと変貌する。
この顔は一体。これは前に映し出された彼女自身の驚愕の表情ではないか。
彼女によって撃たれたその顔は崩れ落ちた。
彼女はロストガールの部屋との中継点である兎の部屋の扉をあける。
そしてついにロストガールを救うことができたのだ。

ニッキーの家を訪ねて来た女性がいる。この女性は行動は結果を伴うが魔法も生まれると言う。その言葉通りとなったのだ。
そしてその女性が指差す明日の姿のニッキーは毅然とした美しい様子で微笑んでいた。

以前の作品と違い『マルホランドドライブ』そしてこれではさらに女性というものに焦点を当てて作られている。
ロストガールを救うのが王子ではなく同じ女性だということにも注目したい。そしてロストガールを救うことでニッキーもまた救われたのだ。

こうして考えても謎は多くあるのだが、引越しの挨拶に来た女性にニッキーは「殺人の場面はありません」と断言しているのに、映画のラストは殺害シーンだったのは何故。
また不思議な3匹の兎だがリンチ監督自身も兎の説明はできないと答えていた。
死と兎の関連性というと『ピノキオ』の黒い兎を思い出す。あれではピノキオが死にそうになった時、黒い兎が棺を運んでくるのだったが。

私はDVD鑑賞だったので比較的画面の粗さは気にならなかったが、大画面で観ると映像の粗さがますます不安定感を出したのではないだろうか。

監督:デヴィッド・リンチ 出演:ローラ・ダーン ジェレミー・アイアンズ ハリー・ディーン・スタントン ジャスティン・セロー カロリーナ・グルシュカ
2006年アメリカ

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posted by フェイユイ at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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