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2008年03月21日

『神童』萩生田宏治

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ピアノの音色に溢れた映像に浸りきって観てしまった。

映画というのは音と映像による表現方法なので、映像が音楽に乗って目と耳に入り込み、からだの中で共鳴する。
それらが作り上げる感動というのは文字を読んで解析する、ストーリーを理解して分析することよりもダイレクトに脳を刺激する。

私自身は文の人間もしくは絵の人間なので音楽・音というものへの感受性というのはかなり乏しい。
それは非常に残念で悲しいことなのだが、そんな私でも映画の中で美しい映像と美しい音楽がこれ以上ない素晴らしいハーモニーを持つ時、固くなっている精神が揺さぶられる。
ましてや音楽・音に対して敏感な人には音が生み出す「言葉」というのはどんな美しさを持つのだろうか。
「言葉」という言い方はおかしいのかもしれない。音によって伝えられる感情、というほうがいいのかもしれない。

この作品は音楽・音で結ばれた一人の青年と少女の話。それだけに説明の言葉が少ない。
二人がどんな音で結ばれているのか、それは二人だけにしかわからないのだろう。

音楽とピアノを愛する青年ワオにはそれを表現する技術力が足りない。素晴らしいピアノ演奏ができるうたは逆にピアノを弾く事を愛しているのかはっきりと認識できないでいる。
“神童”といえるうたはワオのピアノを聴いて「下手」と言い捨てる。だがうたの耳はワオのピアノにどんな愛情が込められているのかを聞いているはずなのだ。だからこそ巧いだけのピアノ奏者をこき下ろしたうたはワオのピアノを好きと感じている。
またワオもうたのピアノには最高の技術がありながらどこか脆いものを感じているのではないか。
そしてそこにも美しさを聞いているのだ。

言葉でなく音楽ということだけで二人の気持ちを理解しなければいけないのは言葉人間には難しい。
二人が見捨てられたピアノを一緒に弾く時彼らの音が一つに混じりあっていることを感じなければならないのだ。

前半でピアノの下手なワオが音楽大学受験を逃げ出しそうになったのをうたは助ける。冷たくなってしまった指を暖めてあげることで。
後半、耳が聞こえなくなってしまったうたが彷徨い、亡き父の忘れ形見のピアノが閉じ込められた倉庫にたどり着いた時、唐突にワオが現れる。どうしてワオがここにきたのか、もしかしたらワオは来てはいないのかもしれない。
うたを思うあまり魂がうたの傍に辿りついてしまったのかもしれない。
耳が聞こえなくなったはずのうたにワオの指がピアノを弾く「聞こえる?」
うたの耳にはその音が聞こえた。

うたの耳に聞こえたのはピアノの音だけでなくワオの声だった。優しく囁くワオの声がなにか切なくも聞こえてならない。

この映画作品はもしかしたら解りにくいのかもしれない。上にも書いたように言葉での説明をしないままなので。
それに13歳中学生の少女うたと大学浪人生の青年ワオの関係が恋愛なのかどうかもよく解らない、とじれったくなるのかもしれない。
この作品ではうたとワオが性愛によって結ばれているとは感じられない。表現もできるだけ二人がそのような感情であることを避けているようだ。
うたを演じている成海璃子は背も高いしきりりとした眼差しを持っていて大人を撥ねつけるような強さがある。
ワオの松山ケンイチは逆に気弱で自分の下手さを自覚しているが、うたに対して嫉妬のような感情はあまりなく素直に尊敬しているような真直ぐさがある。
今の風潮では男子大学生が女子中学生と同じ部屋に入り浸っているのならロリコンだと咎められてしまうのが当然だが、ワオにその感情があるのかはここで明確には表現されていない。むしろうたのほうがワオに対して恋心(と言っていいのかどうかもよくわからない。うたが好きなのはワオのピアノへの純粋な愛情から生まれる音なのかもしれないから)を持っているのだ。
またワオが同じ大学生の女性と肉体関係があるという話からワオの性愛がうたに向いていないことを示唆している。
無論、だからといってワオのうたに対しての愛が男女のものでないと言い切れるわけではないが、そういった男女の愛と年齢差からくるすれ違いを越えたところでうたとワオの音の共鳴があることは確かなのだ。

松山ケンイチの映画をずっと観てきて(まだ過去も全部観きっていないが。且つ新作『人のセックスを笑うな』も未見である)初めて映画としてのクオリティを持った作品を観た、と言ったら傲慢だろうか。
ここには舌足らずでどこか表現不足でありながらも人と人の魂がふれあった瞬間を見ることができる。
それはうたがワオに対して感じたような「下手だけど好き」というものかもしれないが。
特に感じられるのは現実味があって繊細な前半に比べ、後半はややファンタジーに流れてしまっていることだ。
だがむしろ私はそのファンタジーが嫌いではない。
父親が純粋に音楽でありたいと願って自殺したこと、権威であるピアニスト・リヒテンシュタインの来日でうたがみそめられ自らがコンサートをドタキャンしてうたに弾かせ観衆の絶賛を浴びさせる。
そしてまるで空間を飛んできたようなワオの出現。この甘さには惹かれてしまった。

ここでの松山ケンイチにはもう何も言う事がないようだ。ワオはワオであって松山ケンイチという役者を考えることもない。
ワオのピアノへの愛情は見ていて切なくなるほどだ。しかもどんなに愛しても天才にはなれない。だけどワオはうたの弾く音を聞いて感動し愛する事ができる。
かつて『アマデウス』でサリエリは天才アマデウスに嫉妬し狂うが、ワオはその素直さで愛することができた幸せな人間なのだ。
その素直さに反感を持つか共感するか。
私は松山ケンイチが演じた事もあるが、その感情の美しさに酔ってしまったようだ。

監督:萩生田宏治 原作:さそうあきら 出演:成海璃子 松山ケンイチ 手塚理美 甲本雅裕 西島秀俊 貫地谷しほり 串田和美 吉田日出子 柄本明

さて、ここからまた変な方向に走っていくが、この映画を観てまず思い出さずにはいられないのはどうしたってあなた、周杰倫監督・主演『不能説的・秘密』である。(ここから『不能説的・秘密』にも触れるのでご注意を)
松ケンとジェイが似てる、似てる、と騒いでいる上に物語が音楽学校のピアニストを演じていると来ては!!!
冷静ではいられない。
バスケ映画もあるし、やはりどこかでつながっているものがあるのだろうか。
だが自尊心の高いジェイ・チョウ。さすがに「下手なピアニスト」は演じられない。彼の演じるのは学校でも騒がれるほどの腕前の持ち主。
ここはジェイの見せ所で顔と指を同時に見せながら音が出せるのは本業だから当然のこととはいえ、やはり高揚感が違う。
『神童』ではピアノが弾けるという成海璃子はまだいいとしても松山ケンイチの時はいくら彼が頑張っているとはいえ、どうしても音と体の揺れにズレができて「スイングできなく」なってしまっている時がある。はっきり言ってこれは気持ち悪い。
下手という役だからまあ許せる、としても自ら弾いているジェイ映画はここらの音楽感がどうしたって気持ちいいのである。
と、ここで『神童』の悪口になってしまったが。さすがに音楽家であるジェイ・チョウが作り上げた音楽映画は本物のよさがあることは否めない。且つ、ジェイの映画ではジェイ自身が「学校で凄く上手い」というだけで大家に認められるだの、コンサートを開くだのということはなく、学校内での演奏会に留まっているのが妙に現実的で心地よいのだ。
ジェイが作った曲も素晴らしく、こういったよさを出すのは難しい。
不思議に似ているのは幻想的になる場面だが『神童』では空間を越え、『不能説的・秘密』では時間を越える。
『不能説的・秘密』は音楽を媒体にした歴然とした純愛物語であり、『神童』でさらに純粋な感情になっている。
と、つい比較してしまったが、どちらも音楽を題材にした優れた愛の物語だと思う。

ジェイも「恋人は音楽ができる人がいい」と言ってたっけ。この関係以上のものはないのかもしれない。

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さてどれが松ケンでジェイでしょうか?

『神童』インタビューで松ケンがワオについて「この後ワオは死んだのかもしれない」と言っていたのでちょっと驚きだった。
そして観た人それぞれが考えて欲しいとも。
私は映画で主人公が死ぬのが凄く嫌なのである。無論私が考えるこの後は二人とも死にはしない。
うたは耳が完治しないまでもとりあえず治ってデビューし世界へと羽ばたく。ワオはいつまでもピアノが好きだが、結局は音楽家として成功することはなく八百屋を継ぐか、他の仕事をするか。二人がその後出会うことはない。
ずーっと時が経って二人が老人となり、ピアニストの巨匠となり引退も考えるうたは少女の時好きだったお兄ちゃんを思い出す。死期も近いワオも思い出して二人はまた夢の中で結ばれる。
ってのはどうだろうか。ま、死ぬのには違いないが。

それにしてもこのラストは唐突なわけである。もしかしたらこの時すでにワオは死んでいたのか?
魂となってうたに会いにきたのか?それじゃ『菊花の契り』である(何も契っちゃいなかったが)ん、ワオは名前が菊名だったぞ。うむむ。


posted by フェイユイ at 22:46| Comment(4) | TrackBack(1) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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