映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2008年04月06日

『リトル・ランナー』マイケル・マッゴーワン

リトルランナー.jpgリトルランナー2.jpg
SAINT RALPH

松ケン映画をほぼ観終わって(現在進行形の彼なので完全に終わったわけではないが)哀愁状態の自分である。
だがそろそろ社会復帰もせねばなあ、という気持ちもある。観なきゃいけない映画も待機している。
そういう中で何故今この映画か、というと松山ケンイチ写真集『起』の中で彼が好きな映画を3つあげていて(そのどれも未見だった^^;)そのうちの一つがこれ。
松ケンを追いかけるなら彼の好きな映画も観ておきたいということで早速観てみることにした。

1950年代カナダのカソリック私立学校に通う14歳の少年ラルフの物語。
映画だけ観ていてもカソリックの話はどうにも憤慨することが多いのだが、ここでも厳格すぎるカソリックの規則の中でそれでもある時は相手とある時は自分と戦い続けていくラルフ少年の姿が胸を打つ。
病に侵され入院したまま昏睡状態になった母親に奇跡を見せれば必ず目が覚めると信じてラルフはボストンマラソンに参加し優勝することを誓う。
ラルフは横暴な校長と争い、温かく見守ってくれるヒバート神父のコーチを受けながら厳しい鍛錬を続ける。

何の才能があるというわけでもなく、母を目覚めさせたい一心でただひたすら走るラルフに涙がこぼれてしまう。

このラルフ少年、昨日観た『かまち』と似てなくもない。他人とはちょっとずれた感覚で自分が一番になる事を信じきっている。積極的な物言いや行動も似ているのだ。
だが無論感動は全く違う。ひねって作ったあちらの作品と違い、こちらはほぼ古典的ともいえるような撮影・製作手法なのだけど、却ってそのことが直接心に訴えてくる。

かつてマラソン選手だった神父との交流や親友とのけんかを含めたやり取りも楽しい。
なによりラルフが問題児で先生から怒られてばかりいるのが可愛くてしょうがない。性的倒錯者のように罵られるのが今の目でみれば可哀想である。

ちょっと爽やか過ぎ上手く行きすぎな感じはするけど、妙な計算などまったくしていないようなストレートさが気持ちいい作品であった。

松山ケンイチ推薦映画としてはなるほど、という感じで納得。陸上選手だった彼が選ぶのはよく解る。
いたって生真面目で真剣で。好きな映画も真面目なんだなあ。エログロとかは観ないんでしょうか?血がどばどばとか。
ほんとにロボみたいな人である。

本作の日本語タイトル『リトルランナー』って『リトルダンサー』のもじり?
原題は『SAINT RALPH』で映画の中で色んなセイントが紹介されるのだがラルフは「走る守護神」だよ、ということなのだろう。
カソリックという宗教色の濃い映画なのに日本語タイトルでは意味がなくなってしまうよ。

追記:それにしてもカソリックの教えって(この時代のってことだろうと思いたいが)いちいち考えすぎでおかしすぎる。
ロープ登りで股にロープが接触しているだけでいかがわしいと感じるなんてなあ。
でもでもヒバート神父みたいな人って憧れてしまうんだよねー。スポーツマンで神父。優しくて禁欲的で、こういう人に一番セクシーさを感じてしまうのはいけないことだろうか。

監督:マイケル・マッゴーワン 出演:アダム・ブッチャー キャンベル・スコット ゴードン・ピンセント ジェニファー・ティリー タマラ・ホープ
2004年カナダ



ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

松山ケンイチについての告白・その5

一番最初に『DEATH NOTE』の記事を書いたのが2月15日でそれから松山ケンイチにどっとはまり込んでしまった自分である。
実際はもう少し前に気になり始めたのだが、彼の出演作品名を見るとどうにも自分の好む範囲の映画でないのがブレーキになっていた。
というのは自分はどうしても暗黒面の映画が好きなのだが、彼の作品は主演になるほど善良な映画のようでぞくぞくするほど観たくなる、という気持ちにはなれないのであった。
そんな中で期待はあまりしてないけども多分狂気というものが描かれているであろう『DEATH NOTE』ならなんとか観れそうだ、という気持ちで観始めた。
結果、そこからもうLを演じた松山ケンイチから離れられなくなってしまった。
たとえ、作品自体がさほど興味の持てないものであっても演じている姿を観られれば満足し、観れない日は悲しくてどうしようもなかった。
とはいえチョイ役を含めればかなりの出演作品があるのでこうして2ヶ月近くも追いかけ続けることになってしまった。
興味のない作品ばかり、と思ってはいたがこうして観て行くと今までに決して観ないような作品を経験できたし、それなりに色々考えることもできて楽しい日々を過ごせた。
特に松ケンを追いかけることがなければ絶対観るまいと思っていた角川映画『男たちの大和』『蒼き狼』を観れたのはよかったと思っている。
この二つの作品での松山ケンイチは本当に素晴らしかったし、『大和』にいたっては彼が事実上の主役であったと確信できた。

彼は今もがんがん仕事し続けているので私のようなDVD鑑賞者でももう次の作品が待ち構えているのだが、今現在DVD鑑賞できる映画作品は『ユメ十夜』を残すのみとなった。
ドラマはまだ色々とあるのでそれらはこれからの時々の楽しみでまた追いかけていこうと思う。

今まで観た彼の映画作品で主演級のものでは『神童』がやはり一番のものだと思う。
というのはこの作品で彼は初めて人とのつながりを持った演技をしているから。
それまでのものにはそういうものがなかったと私には感じられた。それは彼がいけないというのではなく作品自体がそうだった、というだけのことなのだが。
つまりそれまでの作品はストーリーを追うものばかりでその世界の中で精神が交わるということがなかったのだ。肉体もまた、なんだけど。
Lとライトは対峙しているわけで交わってはいないし。
まだ未見の『人のセックスを笑うな』はまた他人との交わりを描いたもののようなので期待している。が、大好きな『カムイ外伝』はまた孤独な男の話なので本質的に孤独な話が好きな人なのかもしれない。
松ケンはセクシーさが足りない、と言われているようなのだけどそれはそうした人との触れ合いを描いたものが少ないからなのではないだろうか。
漫画のカムイは孤独に立っているだけでセクシーではあったけど。
そういった触れ合いという意味ではやや不満だが自分的に最も萌え萌えだったのは『ウィニングパス』なのであった。
あまりにも危険な色気があって書くのすら憚られてしまう。動けない松ケンって魅力的だった。


もう少しすれば『椿三十郎』も観れるし、(ああ、またなんでこの作品に。これも絶対観るまいと思っていたのになあ。三船以外の三十郎見て我慢できるか?)

わけあって『ユメ十夜』が最後になりもう少し後日になりそうなのだが、とりあえず松ケンの現在までのDVD映画作品を観終えたというところで書いてみた。
ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 21:52| Comment(8) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月05日

『かまち』望月六郎

かまち.jpg

松山ケンイチ出演映画で現在観る事のできるDVD作品も終わりに近づいてきた。
この『かまち』には彼の出演は僅かなのだが、主人公である山田かまち自身にも興味があった。
山田かまちの名前は無論知っていたのだが、どういう人だったのか詳しく見聞きしたわけではない。
この映画でどういう人物だったのか初めてわかるのかな、という期待もあったのだった。

それでも彼が詩や絵をたくさん残していてエレキギターで感電死したことだけは聞いていた。
自分より少しだけ先に生まれた人物で若くして亡くなったこと、天才といわれ惜しまれたことなど。

だがこの映画では彼の思いというものが伝わってくるようには感じられなかった。

この映画で何となく思ったのは結局「かまち」という少年は特別な天才などではなくごく当たり前のただ少しだけ表現することが好きな少年だったのだ、ということである。
画面上に書かれ朗読される詩も時折映し出される絵も彼の歌も特段天才的なものは感じられない。
それでも自分の可能性を信じ、表現したい、美しいものを愛したい、という気持ちだけは伝わってくる。
それは本当はすべての若者が持っていて当然のものだけど大概の少年少女は恥ずかしい、自信がない、ということで公にできないでいるだけなのではないか。
こうして彼の言葉を聞いて遠い昔の自分を思い出すとさほど変わらないような気さえしてくる。
ただ他の人間と違って(特にこの時代なら)ここまで真直ぐに力強く自分を表現していた若者はいなかっただろう。
正直彼の考えは若いがゆえに陳腐だし、思いばかりが先走って表現する技術には欠けている。
が、これは映画なのであり、彼が真の芸術家か否かが問題なのではなく、少しだけ他と変わった普通の若者の思いを表現していく、という形で描くのなら素晴らしい青春物語になり得たのではないか。
だが映画の構成を現在の若者と重ねながら作り上げていく、という試みがかまちの物語を中途半端にしてしまった。

もしどうしてもこの形でやるのなら、最初に現在を映し、現在の少年を主人公にすべきだろう。
そうして女先生との関係からかまちの話がつながっていくのなら理解しやすいが、せっかくかまちに入り込もうとして時点でぶつりと現在へ持って行かれては欲求不満も甚だしい。
知りたいのは「かまち」の事なのだから、現在の少年の話など持ち出す必要もないのだ。
どうしてもやりたいなら↑に戻る。
かまちの苦しみも今の君たちの苦しみと同じなんだよ、と言いたいのかもしれないがそれは観た者が感じ取れればそれでいいではないか。

かまち役のLeadの谷内信也という人だろうか。恐ろしい棒読みだが私はなかなかこの奇妙な天才少年を演じていて悪くない、と思った。大体が風変わりな少年なのでこの変てこなしゃべり方はむしろ面白い気がするし、容貌も天才少年の傲慢さが表れていて可愛らしい。
自転車で走るシーンや自分の体に色を塗っていくシーンなど時々印象的な部分もあるのだが。
1970年代という時代も今の感覚で観るとかなり風変わりに感じられて面白かった。
現在の部分は殆ど好きになれないが、かまちの詩をラップ調に歌う場面だけは結構よかった。

さて松山ケンイチ君は。パチンコ屋で女性に声をかける謎の男。一見ただの与太者かと思いきや、翌日のニュースで殺人事件となって報道される犯罪者なのだった。
この出演場面で彼を好きになれる人は少ないだろうなあ。
こうやって少しずつ少しずつ今の松ケンに近づいていったのかと思うと感慨深いとすら言える。
いつか本当に犯罪者の主人公なんかもやることがあるのだろうか。そういう彼も観たいものである。

監督:望月六郎 出演:Lead( 谷内伸也 古屋敬多 鍵本輝 中土居宏宜 ) 大沢あかね 奥田瑛二 風吹ジュン
2004年日本


ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『DEATH NOTE』現場記録映像

デスノ コンプリートセット.jpg

最後に特典映像を観た。後編の松山ケンイチのとこだけだが。
といっても藤原竜也の演技に再度感激。

特典映像についても竜也・松ケンのコメントが。かなりこなれて来て冗談交じり。
特典映像では竜也・松ケンがいかに作品に取り組んで行ったかが熱く伝わってくる。
松ケンは噂に聞くとおりかなり演出に口出ししているのがわかる。Lの性格も投影されているようだ。
Lというと甘いものを食べ続けだが、松ケンも相当食べたらしく受け付けずに食べては吐き食べては吐き、だったということで気の毒だ。
私自身、甘いものが苦手なのでLのお菓子シーンにはやたらコーヒーを飲み続けていた。観てるだけで口が甘くなってしまう。
対照的にライトがポテチを食べるシーンでは凄く食べたくなって次の日食べた。せんべい・ポテチ系が好きなのだ。

それにしても藤原竜也は本当に本当に綺麗な人だなあ。まさに悪魔にぴったりの美しさである。
それなのに小憎らしいL=松ケンのほうが好き、というのは一体どういうことなんだろう。自分でもよくわからない。

こうやってメイキングを観るといつもそうだが本当に映画作りというのは楽しそうでもあり、滅茶苦茶大変そうである。
監督の心労というのは物凄いものだろう。
監督始め出演者が『DEATH NOTE』の細やかさ、素晴らしさを語っていたが、自分的にはこの作品の物語自体がいいものだとは思わない。
ただしそれがどうでもいいと思えるくらいの魅力はある。
その魅力は竜也・松ケンが殆ど生み出しているものだろう。

藤原竜也の凄さはもう確認済みだったが、松ケンがLを演じる為葛藤し続けている様子は見ものだった。
松ケンとしてはなんとしてでも竜也くんに追いつきたい意地があったんだろうなあ。
その為に二人が話すこともないのかと思いきや意外に会話をしていたのもちょっと驚きだった。
「Lが舐めていたんだよ」といいながら竜也くんがキャンディを舐めていたり松ケンが合コンに竜也くんを誘ったり(これは冗談ですね)してるのがおかしい。

作品として仕上がった状態ではなく現場で演技している二人の姿を見るとさらにその面白さがわかるようだ。

ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 01:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月04日

そして『DEATH NOTE』に辿りつく・後編

デスノートd.jpg

『DEATH NOTE』は話が薄い、などということを書いた罰があたったのか、昨晩は後編の感想を書こうとしてまとめきれなかった。
今夜とて自信はないが、まあ書いてみよう。
ここに書くのはすべて映画の『DEATH NOTE』についてである。漫画に関しては全く知らないし、今のところ読む気はない。

『DEATH NOTE』の物語には様々な矛盾点があるし、ストーリー自体が好きなわけでもない。思想とそれから産み出た結論も取り立てて驚くようなことでもないだろう。それらの欠陥は物語自体のものであるのにも関わらずこの作品に酷く惹き付けられてしまうのは何故だろう。

まずはライトの思想というものが大概の人間なら一度は考えたことがあることだから。凶悪な犯人をTVニュースで見て「こんな奴は死んでしまえばいい」と考えたことが一度もないという人間は少ないだろう。
そういった殺人衝動を抑圧する為に登場するのがLである。
先日Lが左でライトは右なのか、と書いたがこの二人がつまりは一人なのではないか。特に意味はないが右脳と左脳のようなものであり、またジキル博士とハイド氏を意味している(無論この二人は一人だから)
Lがキラ(ライト)は自分によく似ている、というのも当たり前である。
こうして自分で殺人衝動を感じ、自分でそれを抑えようとする。だが二人は同じ人格なのでL自身もその殺人を止めるために別の殺人を犯すという行動を取っていく。全く違う人格による思想というものがそこには感じられない。
Lとライトがチェスをする場面があるが一人でゲームをしているようなものでぐるぐる同じことを繰り返していくばかりなのではなかろうか。

この物語で最も衝撃的な話はライトが父親を殺害する行動を取る場面だろう。父殺し、というテーマは西洋文学で繰り返し描かれているものであるが、優秀で正義感溢れる父親に対し、ライトが表面上は従順で尊敬を持っているように見えてその実どのような屈折をしていったのかは想像してみるしかない。完璧な正義感を持つ父親に対し同じように優秀であるがゆえにライトの精神はなんらかの歪みを持ってしまったのかもしれない。本来ならこの部分こそもっと深く描かれるべきなのだろうが。
(それにしても物語を創作する上で西洋的なモチーフというものが多く使われるし、自分も思いついてしまう。例えばここでライトがリュークに与えるリンゴは旧約聖書で蛇が人間に知恵の実だと教えたものをイメージしているのだろう(リンゴではないと言う説はあるがイメージとしては定着している)ここではライトではなくリュークが食べているのだが、能力を持ったという意味でライトの傍に出てくるイメージなのだと思われる。
この話と関係ないが日本的なイメージを描くなら悪魔というか悪鬼払いとして桃を投げつけたりしてもよいが漫画でもそういうことをやるのは諸星大二郎さんくらいだ。桃じゃ絵にならないというのか。可愛すぎるのか。どうしても西洋的なイメージの方が「かっこいい」ということなのか)

そして最もほっとする場面はLがライトの父親に対し「あなたは立派な父親です」と言ってまるで彼の息子にでもなったかのような微笑を浮かべるところだ。
息子が父親に対して反抗心を持つと同時に愛情も持っていることを表現しているかのように思える。

映画の中でライトとLの死期が近いのも当然なのだろう。Lは自己の死の覚悟なしにはライトを消せなかった。
ジキル博士とハイド氏の結末も死によるものだったはずだ。
Lとライトが同じような年齢で背格好が似ているのもまた当然のことになる。

上に書いたことはLとライトが役割として一つのものが二つになったということなのであって、二人が同一人物だったと言っているわけではない。当たり前だが。

この物語、娯楽映画としてこのようにミステリー的に描いていったのは成功だったと思うが、藤原竜也が主人公の為か舞台で語りと仕草だけで演じていくのも面白そうである。
無論ライトは絶対藤原竜也しか演じられないと思うが、もしかしたら舞台ならLも藤原竜也が同時に(というのはおかしいが)演じてくれるかもしれない。

Lを演じた松山ケンイチはもう何者にも取り替えられないものになってしまった。
年齢も彼の経験もちょうどぴたりの時期だったのだろう。
細い体も白塗りのせいで華奢な女の子のように見える顔も今の時期を逃したら違ったイメージになってしまう。
独特のしゃべり方も仕草もLという人格そのものになって観る者を魅了する。
だがそれにしたって藤原竜也のライトは素晴らしい。
こうして見返してもこの役はなまじっかでは演じきれるものではない。
この映画が「観れる」映画になったことについて藤原竜也の演技なしには語れないだろう。
一見天使のように見える美しい顔が本当は悪魔の心を持っていたことを藤原竜也は演じきってみせた。

楳図かずおの『神の左手 悪魔の右手』というタイトルを思い出した。漫画を読んだわけではないが。しかし「我が右の手は悪しき者を滅ぼす悪魔の右手」というのはちょっと通じる所があるような。



ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 22:03| Comment(5) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レスリー・チャン『我』

著名作詞家の林夕、レスリー・チャンに書いた詞を悔やむ

レスリーの歌『我』は勿論大好きな歌ですし、忘れられない名曲の一つですが、同性愛をテーマにしていたのだとは知りませんでした。
確かにその通りですね。「私は私なのだ。」という歌でした。そして自分自身が好きなのだと。そういう意味を込めてレスリーは歌っていたんですね。
posted by フェイユイ at 19:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 香港 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月03日

そして『DEATH NOTE』に辿りつく・前編

deathnote.jpg

松山ケンイチ探求も現在あるDVDでは終わりに近づいてきた。ドラマも含め後もう少しあるが、ここで松ケンとの出会いである『デスノート』を観直してみる。

ということで「DEATH NOTE デスノート / DEATH NOTE デスノート the Last name complete set」なるものを購入。
前編をまず見ようとしたら、ライトとLが並んで作品紹介。この二人が仲良く作品を紹介するっていうのはどうなのか、いいけど。
なぜだか二人とも大きく右(向かって左)に体がかしいでいる。ずっとそのままの姿勢なので藤原くんが逃げてて松ケンが藤原くんを追いかけてるような感じになってる。松ケンは相変わらず地のしゃべりだと訛りが強くて可愛い。ほんとに直して欲しくないよね。松ケンがちらっと藤原くんを見るとこもいじらしい。
並んで見ると藤原くんってほんと顔が小さくて綺麗なんですよね。だから松ケンより背は少しだけ低いけど遠目で見るとむしろすらりと背が高く感じるのだ。松ケンって逆に背高いのに頭の大きさで損をしてる。
おまけに服装もなんだかなあ。藤原くんのはまさに若手人気役者というお洒落さだけど松ケンのって作業服?わざと?藤原くんを引き立てるためのあえての格好でしょうか。
最後松ケンが「ごゆっくりご覧ください」と言った後藤原くんが笑うのは何故だー?

今頃思ったんだけど、LってLeftのLなのか。ライトがRightで。
っていうのは単に松ケン=Lが左側で藤原くん=ライトが右側に座ってたからなんだけど。
無論ライトは夜神月のLightなんでライトもLでかぶってるよな、と思ってたもんだから。
右くん、でもよかったんだろうけどまあ日本語的にはLightもRightもライトの発音おなじだからいいやということで(英語的には全く違うんだけどさ)
LはレフトじゃあんまりだからまあLということになったのかな、と。(ヒダリくんってのもいいけど)
ライトがRight(正義)じゃないことだけは確かだけどね、本人は信じてっけど。
で、二人の間にいるのが渡りというのかな、右と左の。
でもってライト=月って言うのはいったいどういう当て字なんだろうって気がするがここでライトがRightじゃなくライト=月=Luna=狂気、っていう説明になってるわけかな。

しかしこうして見返してみるとほんっとにこの映画って薄い。作品としては上手くまとめてあるし見やすいし飽きさせないし娯楽としていい出来栄えなんだろうけど、作品の主題、描き方は子供っぽいのだよね。
って子供向けの作品を観ている自分がいけないのだから文句を言う筋合いではないのだがね。
中学生の妄想というくらいの内容なのがわかりやすい、ということなのだろうし。
それにしてもその程度の物語でしっかり魅せてくれるのはやはり藤原竜也、松山ケンイチ、 鹿賀丈史 、 藤村俊二などの役者陣の上手さゆえだろう。
藤原竜也は今までかなり見てきたのでこの映画でのライト役の素晴らしさを観ても当然納得だったのだが、松山ケンイチは初見だったのとそのキャラクターの特異性にやはり強く惹き付けられてしまったのだった。
観返しても藤原竜也のよさは格別である。やや強めの感情の出し方なのだが、それが解りやすく物語を説明していく。
後半から出場のLも印象的な登場でライトとの対比が際立っている。
松ケン初見だった前回鑑賞時と違いずっと松ケンを観てきての今回は随分印象が違うのだ。
大体が大柄で男っぽい姿の松ケンなのだがこれで観ると女の子のように細くてきゃしゃで小柄に見えてしまうから不思議だ。
かなり猫背にしているため、藤原くんより小さく感じるくらいだ。
真っ白な顔でばさばさの髪も一役買ってるが確かにこのL役で松ケンがまったく違う人格に変わっているのが判る。
それまでの松ケンを知って観た人には衝撃を感じさせたことだろう。
特に声としゃべり方はそれまでの彼と全く違った力がある。

物語自体には共感も感銘も受けないがそれだけに個々の役者の演技に見入ってしまうのかもしれない。



ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 01:06| Comment(4) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月02日

『NANA』大谷健太郎

NANA.jpg

『NANA』はなぜかもう何度か観ているのだが、どういうものか松ケンの印象がなくて(出ていたシーンを観た記憶もあるのに)もう一度観る事にした。

ナナがベースを募集してやってきたのがシン=松山ケンイチなのだが一目見て爆笑。
いくら愛していても出てくるたびに笑ってしまうの。うーん、これは演技派松山ケンイチが「ベーシストを目指して上京してきた屈託のない田舎の若者が精一杯ロッカーになろうと装っているがいかんせん屈託のないままである」という青年になりきっているのであろうか?
いくら銀髪ツンツンにしても唇鎖つけてもロックな顔じゃないのなー。そのあまりな純真さに却ってじーんとしてしまうのだが。他の方の引き立て役に徹している松ケンなのだ、きっと。(それだけに『デトロイト・メタル・シティ』はいいかもしんない)
翻って松田龍平のかっこよさ。まったく重みというもののない超軽な映画さが彼の存在でなんとかそれらしい雰囲気を出しているのではなかろうか。とりたててかっこつけているわけではないが、なにげにこんなギタリスト(ベーシスト)いそうだな、という感じだとかあの陰のある眼差しもロックではないか。

この映画を何度となく観ていたのは無論主人公達、ナナと奈々の魅力である。
ちょっと小憎らしいくらい可愛らしい宮崎あおいの奈々と思い切りハスキーボイスな中島美嘉のナナの美貌には惹きつけられる。
ちょいビアン的な雰囲気のあるのもまた好きである。
ナナ=中島美嘉のあの目と信じられないくらい細い肢体あのしゃがれた声で話す乱暴な言葉、強いようでいて奈々よりも壊れやすい危険性のある感じがステキである。
宮崎あおいはこれ以上可愛い女の子はいないよね、と思わせてやっぱりうまい。甘えて泣き虫のようで実はしたたかではないかというのも女の子らしい要素なのだろう。

漫画が原作で2もあるし、ということでなければこの作品の終わり方というのは随分奇妙な感じなのではないか。一つの物語として観るにはあまりにも中途半端な気もするが。
またロックが主題であるのにこの明るい普通の映像というのも却って驚きだ。普通ならわざと荒い画像にしてみたりハンディカメラにするとか、陰影を濃くしてみたりだとかありそうなものなのに少女マンガだから、ということなのか。
それにしても北国で倉庫のような建物を住居にしてあの風呂だとあっという間にぬるくなってしまいそうだが。
それでもいきなり物凄いビッグスターになってしまうような話ではなく意外と地味だったりするのは結構好きである。
これから、という段階を描いているのが救いかもしれない。

でもやっぱ松ケンかわいくてしょうがない。似合わなくってもどーでもいいっす。
奈々とナナがキスしてびっくりするとこなんて物凄く可愛いぞ。

監督:大谷健太郎 出演:中島美嘉 宮崎あおい 成宮寛貴 平岡祐太 丸山智己 松山ケンイチ 玉山鉄二 松田龍平 木村了 伊藤由奈 サエコ
2005年日本

posted by フェイユイ at 01:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月01日

『王妃の紋章』周杰倫(ジェイ・チョウ)単独インタビュー

周杰倫(ジェイ・チョウ)単独インタビュー

4月12日(土)、東劇ほかにて全国ロードショー ということでもうじきですね。
確かに張芸謀の映画に出演(しかも主要キャストで)というのはほんとに凄いことなんですよね。
映画館に行けるかどうかわかりませんが、日本語字幕でもう一度観たいです。

『王妃の紋章』公式サイト
posted by フェイユイ at 23:14| Comment(4) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レスリーが亡くなって5年が経った

レスリーが亡くなって5年の月日が経ってしまったんだ。

去年の今日は『ブエノスアイレス』を観たんだっけ。
今も手元にその映画の写真を持って眺めているんだけど、こんなにかっこいい映画って他にない。

レスリーがトニーによっかかって写真を撮ってるとこやらトニーの頭を抱きかかえているとこ、階段の壁にレスリーがもたれて上を見上げてる横顔なんかが凄いすてきなの。

今、別の人に夢中になってしまって言い訳してしまうんだけど、レスリーのことを思い出さないでいることはないよ。
いまだにカーウァイとレスリーの映画が一番好きな映画だもんね。
posted by フェイユイ at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 香港 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。