映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2008年05月31日

『椿三十郎』森田芳光

三十郎.jpg椿.jpg椿3.jpg椿2.jpg

やっと森田芳光版『椿三十郎』を観ることができた。多くの黒澤ファンならどうしても三船と織田を比較せずに観るなどということは無理に違いない。何とか意識を切り離してみようと思ってもあの三船敏郎の顔と声を思い出さずにこの映画を観ていくのは不可能である。
なのでまあ無駄な抵抗はせずに思ったままを書いていくことにしよう。
いつものように他にないような変てこなことを書いてしまっているのでご容赦を。

脚本に手を入れずそのままリメイクした、という触れ込みだがそのままとは思えないほど違った印象になるのは不思議である。
無論ストーリーは同じなのだが、細かな部分はかなり変わって感じてしまう。
冒頭部分からしてリメイク版には余計な風景描写がある。黒澤版ではいきなり社殿の窓から灯りがもれているところから始まり中に9人の若侍がなにやら真剣に話あっている情景が映る。のに対して森田版は社殿の周りの林が映り大勢の人影がそれを取り囲むのが見えるのだが、種明かしを先にしてしまうのはどういうことか。緊張感を持たせるつもりなのかもしれないが、まだ何も状況がわかってないのだからこのシーンには意味がない。
万事がこのような違いの重なりになっていて、森田版は説明しすぎの平板な間延びしてしまうのだ。大昔の黒澤版のほうがよりダイナミックでスピーディなのは黒澤だからという説明で納得してしまうしかない。
そして多くの『椿三十郎』ファンが苦渋するのは三船敏郎と織田裕二の比較だろう。
暗闇の中から声がして後登場する三船に対し織田三十郎はどういうものかいきなり姿が映ってにっこり笑っていたのが驚いた。
織田の演技を観ていると、まるで「三船を真似しているのか」と思えたのだが実際の三船三十郎はこんなに大げさな声を出してはいず、低い声であまり抑揚をつけてはいない。織田の演技がいかに奇妙に奇抜なものかをこれで知ったのだった。
優れた脚本とそれを生かした演出と音楽が絶妙なバランスで一つの映画作品となった黒澤版『椿三十郎』を楽しみ親しんだものとしては森田版のそれは脚本が同じである為もあり、黒澤版を越える事も変える事もできなかった試作品となってしまった。

と、こう書いたのは無論本当の気持ちなのだが、だからと言って自分は森田版にまったく幻滅したわけでもなく途中で止めたいとは思わなかったのである。むしろ本音を言うと黒澤版で感じなかった(というか感じてはいたがやや微妙だった)ものをぞくぞくと感じてしまったのである。
というのは(ほんと言うとちょっと書きにくくて勇気がいるが)椿(織田裕二)と室戸(豊川悦司)の濃厚なゲイムードに悩殺されてしまったのだ。
これは森田版だけに現れたわけではなく黒澤版の三船と仲代の間にも充分に感じられる雰囲気ではあった。
唐突に椿を気に入って我が方に引き入れようとする室戸の誘いかけや訪ねて来た椿を別室に招き入れる室戸の表情や言葉遣い、室戸に殺されても仕方ないような状況でもどこか彼を信じているような椿の態度、最期の果し合いのある意味ゲイ的なポテンシャルを感じさせてしまう。且つ三船氏の男っぽさと仲代氏のそのままゲイ的な雰囲気が否応なく二人の秘められた関係を匂わせているのである。
実は自分は織田裕二という役者をドラマでも映画でも観たことがなくTVのCMか芸能ニュースで見る位しかなかった(後、物まねと)豊川悦司のセクシーさは知っていたが、まさかこの二人の「椿と室戸」が黒澤版に勝るとも劣らないホモ・セクシャリティを持って演じてしまうとは想像していなかったのである。
黒澤版がそこはかとなく漂わせるゲイ的ムードなのに対し、森田版ではもう大っぴらに告白しているとしか思えないくらいの二人の眼差しではないか。
こんな部分で感動するのが森田版の目的だったのかどうかはわからないがとにかく日本映画で他にないくらい自分としては感じてしまったのだ。
ところでこの映画の最初(から2番目)に製作総指揮というので名前がバン!と登場する角川春樹、押し出しの強さにはめげるしかないのだが、松山ケンイチ目的で観た『男たちの大和』しかり『蒼き狼』しかりゲイムードに溢れる映画ばかりなのだが、そういう方なのだろうか。

さてこの映画鑑賞の目的である松山ケンイチの若侍はどうだったろうか。
素直で人のいい若侍の役はいかにも彼らしい役どころであるかもしれない。痩せすぎと言葉の訛りがここではやや気になったものの懸命に目的に達しようとする姿勢が彼そのもので好感の持てる青年と観れた。
だが反面身分の高い侍というのは彼にとってなかなか難しい役どころだったのではないか。黒澤版ではその役に加山雄三が当たっていて申し分ない物腰を持っている。大らかで毛並みのいい感じなのだ。
本作のキャラクターの中に松山ケンイチに演じて欲しいというのは見つからない。なぜ彼がこの作品に出たのか。随分と角川春樹氏に目をかけられているように思えるのだが、どれにしても誠実な青年という役ばかりなのだし、別れて欲しい気もするのだが、どうなのだろう。

というわけでこの映画、黒澤映画好きとしては同じく見劣りがしたものの、人に話しにくい点で非常に好ましく観てしまったという作品だった。
松山ケンイチに関しては出ずっぱりのわりには物足りなかったが役に徹したということだと納得したい。
最後近く、伯父さんの「乗ってる者より馬は丸顔」というジョークで黒澤版は引いたカメラで皆が笑うのだったのに、森田版では松ケンがアップで笑うことになっている。彼はちょっと笑うのが苦手気味なのでこれは気の毒な場面だった。いじめとしか思えない。練習したんだろうなあ。

後、三十郎が「おかみさん」の前で四つん這いになって踏み台となる場面。おかみさんが重くて三十郎が「うう」となるのだが、中村玉緒さんだと重そうに見えない。困ったね。

監督:森田芳光 出演:織田裕二 豊川悦司 松山ケンイチ 藤田まこと 中村玉緒 鈴木杏 村川絵梨 風間杜夫 小林稔侍 西岡徳馬 佐々木蔵之介
2007年日本
posted by フェイユイ at 23:50| Comment(4) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月30日

松山ケンイチ「ピクトアップ」バックナンバー

ちょい前のような怒涛の松ケン記事更新は収まったが、彼関係のものはちょこちょこ買い続けていたりする。
雑誌系は買い出したらきりがないほどだが「ピクトアップ」は松山ケンイチの考え、思いが書き込まれているのでどうしても集めたいものである。
ところで以前の雑誌を買うとなったらすぐに検索してしまうのは中古物件であるのだが、これが「松ケンもの」などになるとかなりの高額になってしまっているのだなー。
うっかりしていたのはバックナンバーを見ることでこちらで調べると案外色々と残っているではないですか。
もー最初からここを見るべきでした。
ということで早速購入しましたよ。これだと600円なのに中古だと1000円〜2000円以上したりするんだもん。どういうことなんだろうか。やっぱり私のように調べずそのまま中古品探してしまうのかしらん。

残念なのはバックナンバーでは全部揃わないようですが、できるだけ当たり前の値段で買いたいものですよねー。売り切れならしかたないですけどね。
遅れてきたファンはなかなか大変です。

『ピクトアップ』
ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『僕のピアノコンチェルト』フレディ・M.ムーラー

僕のピアノコンチェルト.jpg
VITUS

語り口が面白くするすると観てしまったのだが最後のシーンにたどり着いて違和感を感じてしまった。

数学と音楽に並外れた才能を持つ天才児が「普通の子」になりたい、と願う話である。
我が子に多大な期待をかける両親(特に母親)も天才らしく生意気な少年にもそれなりの魅力はあるのだが、この展開には感動を覚えない。
天才の物語には必ず葛藤があるものだ。ある分野には秀でた才能を持つ者もその才能をコントロールすることは難しい。自らが己の才能をプロデュースできるのなら物凄いが大方は才能の力に自分自身が負けてしまい、なかなか願うような幸せにはならなかったりする。
ところがこの物語はその自己の才能を徹底的にコントロールできた少年の話なのであり、うまくやるものだと感心はするがではそこから何を感じるのかというと逆に寂寞としたものしか見出せない。
結局は人生は名誉であり、成功であり、財産なのだ、という答えがここに書かれているのではないか。
この作品中に主人公の祖父が何かを得る為に最も大切なものをあきらめなければならないものだ、というようなことを言う。そのとおりだと思う。
同じようなピアノの天才児を描いた日本の漫画さそうあきら『神童』の主人公のように大切なものを失った後、彼女が得ていったものはすばらしい何かではなかったか。
本作の天才少年は天才であることに苦悩し、ごく短い間だけ天才を失ったフリをしてみせる。
だがそれは束の間、父親の陥った危機的状況を見てあっという間にもとの天才を発揮する。この期間が短すぎる。多分あくまでも「天才少年」を描きたかったのだろうが(天才中年じゃいやなのだろう)
そして、その復活が短絡的な株による金儲けという手段だというのは誠に正しい答えではあるだろうが、そのことで父親と祖父を幸せにしたという結果には空しいものを感じてしまう。
例えば少年がそのような道を選ぼうとしているのを見た父親が止めさせる、というストーリーにも出来ただろうが幸せにもこの両親は息子の影での活躍に気づくこともなく富と名声を手に入れる。それを幸せと感じている結末に、では少年があくまで平凡を装い続けたのならどう思ったのか。
例えば彼ら家族は富みも名声も手に入れられなかったが父親も新たな仕事を見つけ、母親も新たな生きがいを見つけ、少年も普通の職業につき、中年男になってからピアノを弾いて「実は僕はずっと天才だったんだよ」という結末もあり得ただろう。
そのくらい天才とし生きたくなかったんだ、と。
セックスもできないガキんちょをふったイザベラが名声を得たヴィトスのコンサートに花束を持ってくる最後の場面はもう目をつぶりたいくらいであった。おいおい結局そういうことかよ。
非常にうまくまとめられた作品なのだが、監督自身が非常に計算高い方なのではないか。よく言えば前向き、積極的、ということなのかもしれないがここまで計算づくで人生をコントロールしてしまえるなんて。

実に感動的な家族愛のドラマのようですべては金と名声が幸せの価値であったという悲しい作品であった。

監督:フレディ・M.ムーラー 出演:テオ・ゲオルギュー ブルーノ・ガンツ ジュリカ・ジェンキンス ウルス・ユッカー ファブリツィオ・ボルサニ
2006年スイス

ラベル:音楽
posted by フェイユイ at 00:51| Comment(4) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月28日

『ONCE ダブリンの街角で』ジョン カーニー

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ONCE

これがまた地味だけどなかなかよい映画だったなあ。

偶然なんだけど、主人公の男性がつい最近観直した『ザ・コミットメンツ』のギタリストだったと後で知ってびっくり。観てる間は気づかなかった(笑)あの時は長髪のやせっぽちだったからなあ。
その男は家業は掃除機の修理業なのだが、仕事は親父にまかせてダブリンの街角でストリートミュージシャンをやっている。昼間はコピー演奏なのでなにがしかの金を稼ぐのだが、夜はオリジナルなので誰も聞いてくれない、という彼なのである。
そこへひょっこり現れたのがチェコからの移民の若い女性。いい歌だ、と彼の歌を褒めるのだった。

互いに裕福なわけでもなく、互いに離れ離れになっている恋人(夫)がいる。
男の方は別れた恋人との再会にあまり期待していないようで目の前に現れた若い女性に心ときめいている。女性は夫を愛しているとはいいにくいが自分に好意を持ち始めたこの男の気持ちに答えるのを怖れている。
「間違いがあるかもしれないもの」という台詞など最近の映画で聞いたことがないような。
男は音楽活動をロンドンでやるために出発すると言いながら未練たらたらであるのがおかしくてしょうがない。
誰か引き止めてくれるなら行かないのに、とぶつぶつ思っているのだ。
だが、彼女と「間違い」を犯す事もなく彼はロンドンへ行き、彼女はダブリンで生活し続ける。

彼の歌はフォーク系の音楽で昔懐かしい。女性に曲を渡して歌詞をつけてもらう奴なんか昔聞いたことがあるような感覚ですらある。
自分の思いをそのまま音に乗せて歌っていくような感じなのである。

映画自体も低予算で作られた、というものらしくまるでドキュメンタリーのようなそのまま映しただけみたいな画面なのだ。
それでも二人の心情が細やかに描かれていてやはりこちらもシンプルな歌とも相まって心の中にしみこんでくるのだ。

監督:ジョン カーニー 出演:グレン・ハンサード マルケタ・イルグロヴァ ヒュー・ウォルシュ ゲリー・ヘンドリック アラスター・フォーリー ビル・ホドネット ニーアル・クリアリー
2006年アイルランド






posted by フェイユイ at 22:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ジェイ・チョウの監督2作目はマジック映画?

ジェイ・チョウの監督2作目はマジック映画、アンディ・ラウも出演か?―香港

ピアノの次はマジックですか。
一体どんな映画になるのでしょうか?やっぱりジェイが天才マジシャンに?
posted by フェイユイ at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月27日

『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』アラン・パーカー

ライフ・オブ・デビッド・ゲイル.jpg
THE LIFE OF DAVID GALE

先日久し振りに『ザ・コミットメンツ』を観返して「やっぱ、アラン・パーカーはいいなあ」と思い彼のコーナーを眺めたら知らないタイトルがあった。それがこれ。
アメリカを舞台にしたサスペンス・ミステリーというイントロダクションが書かれていたのでどうかなー、と思いつつ観出したのだが、これが想像以上に面白いのなんのって。
無論アメリカ的な内容でありながらやはりどことなく古風なイングランド風味もありながら夢中で見通したのであった。

突然、死刑まで後3日という死刑囚デビッド・ゲイルからインタビューを受けたいという申し込みを名指しでされたのが若い美人記者のビッツィーである。彼女は3日間、彼から事の顛末を聞いていくうちに彼への思いが変化していく。そして彼の最期の願いとは。
語り手と聞き手がいて過去の話をしていく、という形式が自分は非常に好きなのである。小説でもこの形態のものが好きなのだが、映画ながらなんだか小説を読んでいる様な気持ちになってしまった。
ケイト・ウィンスレットはイギリス女性なのでそういう要素もあるのかもしれないが、アメリカが舞台でありながらどことなく古風なイギリスのミステリー、アガサ・クリスティの作品にでもありそうな、という印象を持ってしまった。
というのはこの物語がある男と女の壮絶な人生を語ったもので、重いテーマでありながらも全体から感じるものは「ミステリーの面白さ」というエンターテイメントとして成立しているからなのだ。
そこらへんが上手く伝わらないと「こんな重厚なテーマなのにどこか軽々しい演出だ」と捕らえられてしまうのかもしれない。
この映画は「死刑廃止運動の勧め」だとか「他の人命のために己の命をなげうった男女の悲愴な物語」なのではなく、「自分の生命もうまく利用することができるものだ」とぺろりと舌を出しているようなふざけたニュアンスで彩られているのだ。
とはいえ、そこにいきつくまでの殺人犯とされる教授デビッド・ゲイル(ケヴィン・スペイシー)の苦悩は確かに悲愴なのである。
そして苦悩の末に起こした行動が自ら講義していた「自己犠牲」というものだったのだ。
ところでこのデビッドの物語、どこまでが嘘でどこからが真実なのかちょっと混乱してしまうのかもしれない。
それにどうしてデビッドが離婚するのかがはっきりと説明されていないし、女子大生とのエピソードも違和感を感じてしまう。
この教授さん、優秀で子供を愛しているがどこかで妻と行き違ってしまった。かっとなるところもあって「死刑廃止運動」をしているのにうまく論説をやりきれないでもいる。
その上男の性で女子大生の誘惑に負けレイプ犯の汚名を着せられ、酒びたりとなり堕落しきってしまったのだが同じ教授で女友達のコンスタンスが不治の白血病でありながら人命を救いたいという一心で運動を続けていることを知る。
友達関係だった二人だが打ち解けた話をすることで心が通じ合い愛し合うのだ。
「もっとセックスがしたかった」というコンスタンスの笑い話を優しく受け止めるデビッド。二人の愛は悲しい。
この時、二人は自分達がどうしたらいいのか、と話し合ったのだ。その計画は怖ろしいものだったのだが、彼らにとってはそれがすべてだった。
コンスタンスを敬愛しているカウボーイハットの男性ダスティの協力も借りながら二人は自分たちの夢を実行する。
デビッドがなぜ無能の弁護士を辞めさせなかったのか(死刑になることが目的だった)なぜ多額の報酬を目当てにインタビューを受けたのか(別れた妻子に渡したかった)すべての絡んだ糸がほぐれていく。
世界を変えることは難しい。でもほんの少しだけコンスタンスは変えていった。デビッドの流した涙は本物だった。
そして最後にオペラ『トゥーランドット』を観ながらコンスタンスを敬愛していたダスティは涙を流す。それは愛する人のため自らの命を犠牲にする女性の物語だったからだ。

鋭い推理を行うビッツィーがホームズなら、彼女の付き人にされた可愛い顔をしてはいるがやせっぽちでどうも頼りない青年のザックがワトソン役ということなのだろう。
この二人が物語の狂言回しになっていることで判りやすく、感情移入もしやすくなっている。ただ単にコンスタンスとデビッドだけの話だったらやや入り込みにくかったのではなかろうか。

アラン・パーカーの作品に出てくる子供はいつも凄く可愛い。ここでもデビッドの息子くんがめちゃくちゃ愛らしくてこんな子と別れるのは辛いだろう、とほんとに思ってしまった。
また緊張感を持たせるドラムの音、飛び立つ鳥の群れ、なんていうのがいかにもアラン・パーカー監督らしくて自分の好きな演出なのでうれしかった。

監督:アラン・パーカー 出演:ケビン・スペイシー ケイト・ウィンスレット ローラ・リニー ガブリエル・マン ローナ・ミトラ マット・クレイヴン レオン・リッピー
2003年アメリカ

posted by フェイユイ at 22:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月26日

『蒼き狼/地果て海尽きるまで』K&Bパブリッシャーズ編

蒼き狼 www.jpg

古本屋で何気なく眺めていたらば『蒼き狼/地果て海尽きるまで』K&Bパブリッシャーズ編 なるものを発見。
以下の文章はあくまで松山ケンイチ目的ということで書いております。

本体の本のほうは幾つかのジュチの写真があるという以外、正直ぞぞっとする代物でして、角川春樹氏に思い入れがある方には申し訳ないのですがまさにこの映画を観た時「これは角川春樹が大群を動かしたいだけで作ったんだな」と感じたのと同じ角川氏の為の本となっていました。
はっきり言って角川氏に対しては拒否感しか持てないし、ますますこんな映画に反感を持ってしまうだけなのですが、そういうアレルギーを持ちながらも松ケン=ジュチを見ると他にないような美しい顔立ちで参ってしまう自分が一体なんなのか、と考えてしまいます。

本自体はジュチの写真だけ見ることにして大変うれしかったのは付属していたDVDです。レンタルで観たナビゲートDVDよりはるかに多く松ケンの映像とインタビューが入っていてこれを観るために買う価値はありますねー。私は古本屋でしかも特売の日だったので800円で買えてしまったのが申し訳ないようなもんですが(実際は2000円。でも結構中古で買えるみたいですね。私は存在自体気づいてなかったので)角川氏の文章まで読んだのだからまあ許してもらえるでしょう(多少端折りましたが)
それにしてもまっさらでDVDを袋から出してもいないとはどういうこと?よかったけど。

色んな経験をつんで驚くほどに成長していくケンイチくんでありますが『大和』とこれの経験が彼の精神面に大きな影響を及ぼしているというのも角川アレルギーの自分としては複雑な気持ちでもあるのですよね。
しかも今『大和』のケンくんが観たくて購入を考え中だし。やなんだけど、やなんだけど。

話ずれましたが、思いがけない出会いでうれしかったです。

追記:
舞台挨拶の時のケンイチさんはかなり痩せてます、顔も細いですしなによりスーツがあまってしわが寄ってます。肩の線をぐいと引っ張って直してやりたくなります。
ちらりと見えてるハンカチが浮いています^^;
そして気になるのがケンイチさんはチンギス・ハーンのことを一人だけ「チンギス・カーン」と呼んでいる・・・。いえ、これは「ハーン」と呼んだり「カーン」と呼んだりするものらしいので別に間違いではなく正しいのでしょう。
でも日本人は普通「チンギス・ハーン」と言うか「ジンギス・カン」というかに分かれますよね。反町さんも字幕も「チンギス・ハーン」と言っているのにケンイチさんは「チンギス・カーン」
私は詳しく知っているわけではないのですが彼が生きていた当時は「チンギス・カーン」と言っていたのだとか。つまりケンイチさんは映画の表記を無視してまで正しい発音をしているのか?^^;やはり凄いこだわりの人なのかも。



ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 23:07| Comment(2) | TrackBack(1) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

久し振りに超期待の『良い奴、悪い奴、変な奴』

いい奴、悪い奴、変な奴.jpg良い奴、悪い奴、変な奴.jpg

韓国映画のチェックを殆どしてないし、してもあまり食指が動かなかったここ最近ですが、これはちょっと久し振りに気になるなー。

イ・ビョンホンの西部劇、三池崇史作品との違いは?【第61回カンヌ国際映画祭】

こちらに予告編が
【動画】映画『良い奴、悪い奴、変な奴』の予告編

三池崇史『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』には期待しすぎてやや不満の感想を持った自分だが、こちらもキム・ジウン監督で超豪華なキャスト。めちゃ二枚メな二人イ・ビョンホン、チョン・ウソンにソン・ガンホ。といってもこの中で一番好きなのはソン・ガンホだけどさ。
なんだかめちゃくちゃ期待しちゃうぞ。

『良い奴、悪い奴、変な奴』
『いい奴、悪い奴、変な奴』、西欧市場に最高価格で販売
posted by フェイユイ at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月25日

『地獄の黙示録』フランシス・フォード・コッポラ

地獄の黙示録.jpg
Apocalypse Now

『グッド・シェパード』がフランシス・F・コッポラによって映画化される予定だったというのを読んで『地獄の黙示録』を思い出した。
なにかそれらに共通点があるように思えたのだ。
もう観たのは随分昔になる。もう一度観ることにした。

今回観たのは「特別完全版」という奴だった。元々長い映画だったがこれは202分という長時間である。
その長さはどうでもいいくらいめちゃくちゃに面白かった。

面白い、などと言えば眉をひそめられるかもしれない。この映画に描かれているアメリカ軍のベトナム人に対する行為、意識というものは狂気などと軽く言うのが憚られてしまう。ベトナム人は人間と見られていないし、何の尊厳もない。数人のベトナム人を殺して小犬を可愛がる話があるが、そのとおりの価値観でしかないのだ。

そういったおぞましい映像が次々と登場していくのだが、そういった反感を持ちながらもぐいと惹き付けられてしまうのだ。
それはこの映画が非常に漫画的な表現で作られているからに違いない。
戦場でサーフィンをするために一つの村を焼き払ってしまうとか、3人のプレイメイトが大勢の兵士たちの前に降り立ち、男達が悶死するのではなかろうかというようなセクシーさを振りまく場面など。
それだけでなく寡黙な主人公のクールさも、彼が殺害を命じられたカーツ大佐のキャラクターも奇妙に深遠なことを言いたがる支離滅裂さも漫画的手法のように感じられるのだ。
またこの物語がどこか神話的な意味を持っているようにも思わせられる。
ウィラードはカーツに反感を持つどころか、非常に惹かれながら任務であるカーツ殺害を遂行する。
カーツもそのことを待っていたかのような印象がある。
それはどこか「父殺し」のテーマを持っているかのようでもある。

冒頭で述べた『グッド・シェパード』との共通点は感じられただろうか。
アメリカのために、アメリカ国民を守る為に、という名目があれば何をやってもいい、という描き方は同じである。
『地獄の黙示録』でのウィラードとカーツの合体版が『グッド・シェパード』のエドワード一人になる。
エドワードは最初ウィラードのような存在で組織の中にはいりこみ、カーツになってしまった。
悲しむべきはエドワードを殺害してくれるウィラードはいないのである。
そういった意味で魂を救いにきてくれるウィラードの存在はカーツにとって救済そのものである。そのためにウィラードの精神はぼろぼろになってしまったのだろうけど。
アポカリプスというタイトルの通り隠されたものは明るみにだされた。
ウィラードは沼に沈むことで洗礼を受け、カーツの魂を救ったのだ。

監督:フランシス・フォード・コッポラ 出演:マーロン・ブランド マーティン・シーン ロバート・デュバル ハリソン・フォード デニス・ホッパー ローレンス・フィッシュバーン サム・ボトムズ フレデリック・フォレスト アルバート・ホール クリスチャン・マルカン オーロール・クレマン
1979年アメリカ

ラベル:戦争 狂気 宗教
posted by フェイユイ at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月23日

『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』フレデリック・ワイズマン

BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界.jpg
BALLET

1992年、ニューヨーク。アメリカン・バレエ・シアター。ヨーロッパ公演に向けての練習とギリシャ・デンマークでの公演の様子のドキュメンタリー映画である。

バレエに詳しいわけでもなく、この作品の中に知っている名前があったわけでもなかったのだが、170分淡々とバレエ風景を写し撮っただけという感じなのにずっと見入っていたのはどうしてだろう。

若干のインタビュー場面はあるものの、特別な演出だとか映されているものの説明だとかがまったく入ってこないのである。
その分、映しだされるバレエダンサー達に集中してみることができた。もう少し見たいのに、というところでカットされるというようなことがないのが最も素晴らしいところである。

DVDなので「解説字幕」というのを選択すれば場面ごとの説明が読めるという仕組みがされている。
だがまあ自分なんぞはそういう説明を読んだからと言ってそう頭にもはいらないし、いちいち立ち止まって説明を読むのもかったるいし、気分を損なってしまうので観終った後で補足的に読むくらいがいいようであった(実際そうした)
上映当時にはそういった説明は(パンフレットに書かれていたのかもしれないが)画面に表れるわけでもないのにそれで充分観れたのではないだろうか。

まあとにかく映画の中でバレエが上演されている箇所もあるのだが、多くはダンサーと振付師とその他の関係者の練習やバレエ団に関するもろもろを映しているわけである。
ダンサー達の練習風景というのはいつ観てもなんとも言えずいいものだ。まだ未完成の緊張感、焦り、苛立ち、上手くいった時の喜びなどを繰り返し観れることになる。
疲れて廊下なんかで寝転がってたり柔軟運動をしていたりするのなんかも見惚れてしまうような綺麗さがある。思い思いに本を読んだり、壁に張り出された何やらをじっと見つめていたりするのもちょっと気になる様子である。
着ている物も華美な衣装ではなく練習着なので体の線がはっきり見えるのが楽しい。みんな一緒じゃなくてその辺にも個性が出ていたりする。
アメリカのバレエ団なので色んな人種の男女が集っているのがまた楽しい。色んな顔立ちと皮膚の色、でもみんなとても美しいのだ。
それぞれに真剣な顔で練習したり、休憩したり話し合ったりしているのが絵のようで画家ならずとも描きとめておきたくなってしまうのである。
上映作品の録画なら遠目で見えづらいかもしれないが練習風景が多いためにダンサーがより近くで撮影されているのは嬉しいことだ。
腕や脚の筋肉、首筋のラインなんかがはっきり見える。薄色の練習着だと汗がにじんで見えてしまう。

練習における演目がじっくり観られるのがいい。クリスティーン・ダンハムの「ライモンダ」に他の団員たちが歓声をあげる。

振付師とダンサー以外の人々にもカメラが向く。
芸術監督という女性はバレエ団の運営を電話での猛烈な交渉。団員たちとの契約を話し合う男性。ダンサーたちの体を見守る整体師の女性。
どの人もダンサーと深い係わり合いを持つ。
契約交渉を受けていた横顔の女性の美貌が凄い。南方系なのだろうか。やや浅黒い肌と厚い唇をしている。見惚れてしまった。

ロシア人女性イリーナ・コルパコワのインタビューが興味深い。アメリカのバレエとロシアのバレエの違いは?と問うインタビュワー。その問いかけにはやはりロシア人から見たアメリカンバレエとはどういうものか。という気持ちが込められているのだろう。
イリーナの答えは「みんな同じ顔ではつまらない。それぞれの表情があるから面白いの」

アテネ・アクロポリスのコロセウムでの野外公演。
暗くなる頃に最後の仕上げをしているダンサーたちの影が美しい。
「春の祭典」テトリー版というものを観て、こういう振り付けもあるのだと知る(といってもかなり前から存在していたのだが)

海水浴で日焼けし、公演後、ギリシャの町の店で打ち上げパーティの楽しげな様子。
コペンハーゲン公演では遊園地に出かけて遊ぶ姿。

そして最後の「ロミオとジュリエット」アレッサンドラ・フェリ&フリオ・ボッカ
なんという愛らしいバレエなんだろう。
まだ幼いといってもいい少年と少女の恋物語なだけにその踊りも初々しい。
締めくくりとなる演目なだけに素晴らしいバレエだった。

本当にあっという間の3時間弱。何の物語も説明もなくダンサーたちの姿を写し撮ることだけが目的という感じでそれが見ごたえになっている。
幾つかのインタビューも興味深いものだった。

監督:フレデリック・ワイズマン 出演:アレッサッンドラ・フェリ/フリオ・ボッカ/スーザン・ジャフィ/アマンダ・マッケロー/シンシア・ハーヴェイ /ジュリー・ケント/パロマ・ヘレーラ/イリーナ・コルパコワ/ナタリア・マカロワ/マイケル・ソムズ/アグネス・デ・ミル/デヴィッド・リチャードソン/ジョージナ・パーキンソン/ユリシーズ・ダヴ/その他ABTのダンサー&スタッフたち



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2008年05月21日

『ザ・コミットメンツ』アラン・パーカー

THE COMMITMENTS.jpg
The Commitments

今まで観た音楽映画で最も好きなものの一つがこれである。アラン・パーカー作品は好きなものが多いがやはり大好きなものの一つである。

アイルランド・ダブリンの労働者階級の人々の暮らしの中で集まった若者達が選んだ音楽は黒人のソウル・ミュージックだった。

貧しい若者達の生活ぶりも、ソウルミュージックもアラン・パーカーが描きだすとなんだかもう凄く羨ましいくらいはまり込んで観てしまうのだ。
キャストにも有名な役者なんぞいないのだが(バンドの中で役者なのはジョーイ役のジョニー・マーフィだけのようだ)一人ひとりに個性があってきちんと監督の愛情が注がれているのが伝わってくる。パーカー監督がダブリン中の若者を見てまわって決めたということらしいが、みんなチャーミングですてきなんだよなあ。
主人公がマネージャーというのも初めて観た時、ちょっとびっくりした。普通はそりゃ主要メンバーだもんね。しかもその彼が一番ハンサムだという不思議。
マネージャー・ジミーはロックじゃなくてダブリンで黒人のソウルミュージックバンドを結成しようと考える。
ジミーの家に次々と若者達がオーディションを受けにくるのが驚きだったが、これは映画的手法なのか。ダブリンだとこんなに集まってくるのか?とにかくへぼいのばっかり山のように押しかけてくるのでジミーがちょっと聞いただけでドアをバン!バン!閉めてしまうのがまたおかしいんだよね。バリー・マニロウなんていうのが来ちゃうし。
ジミーは選び抜いたメンバーに「アイルランド人はヨーロッパ人の中の黒人だ。ダブリンっ子は黒人の中の黒人だと胸を張って言え」というのがおかしくて。ただでさえ北方の生白い彼らが黒人だって言われてもなあ。言われ彼らが「こくじん、だ」とつぶやいているのがもー笑った。

そして新たに加わったのがジョーイ・ザ・リップスという中年(初老と言ってもいいかな)の男。B・B・キングとも共演したしその他大勢の有名ミュージシャンと旅をし、エルヴィスの家にも泊まったというなんとも信じられないがトランペットは確かにうまい、という謎の男なのだ。
ジミーは彼を信じきれないもののソウルバンドをやるために彼の助言が必要になる。
若者ばかりじゃなくてこういう老獪な人物が入ったのも上手い手法だ。しかもこのオヤジ、他の男は手が出せないでいるのにバンドの3人の女の子全員と肉体関係を持ってしまうというつわものである。

そして彩を添える3人の女性。よくあるバンド物だと女の子達はほんとに添え物に過ぎなかったりするけど、この映画が凄く好きなのの一つはこの3人の女性がそれぞれ魅力的に描かれていることである。男性の憧れの存在イメルダが案外一番ボーカルが上手くってしかもセクシーでかっこいいのだ。
他の二人の女性も、というかバンドのメンバー全員が単に飾りでなくきちんとした物語に組み込まれていることがこの作品のよさで、しかもばらばらな感じになってしまっていないのがなんとも不思議だが、そこらへんがアラン・パーカーの上手さなんだろうなあ。

無論、この作品で最も注目されるのはなんと言ってもメインボーカルのデコ(アンドリュー・ストロング)だ。この迫力のある声と太い体で当時16歳というからあきれた。
この映画がソウルミュージックというテーマで頷けるのはやはり彼の他に聞けない声の凄さにあるわけで。
彼のだみ声と3人の女たちの歌声がまるで戦うように掛け合っていくのが楽しくて愉快でたまらない2時間なのだった。

かといってジミーのアイディアで集められたバンドである彼らは諍いが絶えず次第にケンカばかりになっていく。
ついにはどうしようもない状態になってジミーも愛想が尽きてしまう。
凄いかっこいいバンドが出来上がったと言うのも束の間、爆発してしまった後もそれぞれが自分の道を歩んでいく。
この辺の終わり方がなんともいえない人生の妙でアンチクライマックスというのかでもそれでも人生は続く、という描き方がたまらない。

教会でオルガンを弾いている医者志望のスティーヴン。地味な役割なんだけど、ピアノの弾き方も音楽の愛し方も素敵だった。

有名役者は出てないと書いたがジミーの父親がコルム・ミーニイだったのがうれしい。

監督:アラン・パーカー 出演:ロバート・アーキンズ アンドリュー・ストロング アンジェリン・ボール マリア・ドイル ジョニー・マーフィ マイケル・エイハーン デイヴ・フィネガン マイケル・アーニー
1991年アイルランド/イギリス

ラベル:音楽 青春
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2008年05月19日

『ナイン・シガレッツ』ウーゴ・ロドリゲス

ナイン・シガレッツ.jpg
NICOTINA

ディエゴ・ルナがめがねで髭のオタク青年になってしまった。のだが、これが凄く可愛い。
『ダンシング・ハバナ』の前年の作品である。

殆ど画面には登場しない(一度ちらりと)20個のダイヤモンドを巡って様々な境遇の男女が入り乱れ次々と殺人が起きてしまう。その原因が禁煙のイライラだという皮肉なお話。

とんでもない展開がどんどん起きてしまうのでついつい見入ってしまう。いくら何でも殺人しすぎ、なのだが、まあその辺は大目に見て楽しもう。
現実には起きないだろうけど、でももしかしたら起きてしまうかも、ということがどんどんつながっていく。
出だしはパソコンだが出来事は最先端というようなものではなく地道な話だったりする。
昔懐かしい様式の作品なのだ。

とにかくオタクなディエゴ・ルナくんが結構いいなあ、と思ってしまった自分である。仲良し二人組みもよかったし。
殺人が立て続けで起きる割にはのんびり観れる感じが気楽でよろしい。
一番凄いのは理髪店の奥さんだったなー。
迫害を受けていた理髪店の夫と薬屋の奥さんが残ったね。

監督:ウーゴ・ロドリゲス 出演:ディエゴ・ルナ ルカス・クレスピ ヘスス・オチョア マルタ・ベラウステギ マルタ・テノリオ
2003年メキシコ

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2008年05月18日

『グッド・シェパード』ロバート・デ・ニーロ

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The Good Shepherd

先日待ち望んで観た『ボーン・アルティメイタム』が観るに耐え難い映像でがっくりしたものだが、こちらは落ち着いた画面を充分面白く観通すことができた。
だからと言って好む、という類の映画作品ではなく非常に神経を磨耗させられる点は同じかもしれない。
それでもこの怖ろしい物語には途中で止められない何かがあった。

いつも笑顔を絶やさないマット・デイモンが終始苦虫を噛み潰したその苦さが残っているような顔をしている。アクションでも恋愛でも派手な場面はなく、難しい話ばかりをしているような内容なのだが、わかがわからなくなったりつまらなくなることがないのは不思議だった。
時系列も複雑で登場人物も多いのにさほど混乱せず観ていけるのは映像が殆ど主人公エドワード(マット・デイモン)の目を通しているからだろうか。
例えば彼が外国滞在中の妻マーガレット(アンジェリーナ・ジョリー)の姿と物語が映像として映されることはない。そのために複雑な話もシンプルに感じられるのかもしれない。
おまけにその為に画面にはマット・デイモンが出ずっぱりで観られることになる。『オーシャンズ13』『ボーン・アルティメイタム』で不満だったファンはかなり長い間彼の顔を観ていられるわけだ。
とはいえ、映し出されるその顔はファンが求めているような明るいいつものあの笑顔ではなく殆ど表情の変化のない渋面ばかりである。しかもこの役は「いい人」のイメージのマットを完全に覆す、と言う以上のものがあると思う。それほど露骨に酷いことをした人間でもないように見えてしまうのだが、これほど人間的に最低・最悪の人間はいない。見せ掛けだけではない本質に捻じれた人間なのだ。
ただし、映像は彼を追い続けているのにも拘らずその心の中は全く見えてこない。これだけ見つめ続けてもエドワードは本当は何を考えていたのか、誰を愛していたのか、何も伝わってこないのだ。それは映画の作りがいけないということではなく、彼は何も考えていない、ということが描かれているのでないか。彼には心がないのだ。

笑顔のまったくない「ジョークを解さない男」と言われることがいけないわけではない。だが彼の心は冷たく冷め切っていて何の感情も愛も持っていない。無感動であり無関心であり虚無感だけが彼の心を支配している。
そんな彼の心を少しだけ動かしたのが耳の聞こえない女性ローラだった。だが彼女との交際中にエドワードは突然クローバー=マーガレットに誘惑され彼女を妊娠させてしまう。
エドワードは愛していたローラをあきらめ愛してもいないマーガレットと結婚する。そして復讐するかのように家を離れ仕事に専念する。この部分を観ると彼が国の為に仕事に没頭していったのではなく、自分を陥れたマーガレットへの復讐・あてつけのためにCIAに打ち込んでいるとしか思えない。
エドワードがもしもローラと結婚できていたのなら、もしかしたらあの時、もしローラがエドワードと肉体関係を持っていたのなら、とこの映画は言いたいのかもしれない、エドワードは変わっていたのかもしれない。ローラの笑顔のせいで明るい青年に成長したのかもしれない。
だが運命は彼をそちらへは運ばなかった。
後にエドワードはマーガレットに対し激昂する「出来てしまった息子のために結婚したのだ」と。結婚したのはマーガレットへの愛情ではなく子供が出来た為の責任に過ぎなかった、と叩きつけるのだ。
だが何と言おうとそれは彼が起こした行為ゆえの結果なのであり、それをマーガレットに対し20年後に叩きつけるなど男として、というか人間として最低の行動ではないか。

エドワードは優秀な人間であり紳士であった。違法を犯したわけでもなく責任も取った。
しかし彼が通してきたやり方は温かみがないのだ。
彼の行為には涙を流してすまなかった、と謝り心を通わせようという気持ちがない。
それを感じてローラと再会した時、妻子も組織も全て投げ捨てて逃げてしまってもよかった。
マーガレットと再会した時、やはり組織から抜けて最初からやり直そうとしてもよかった(どちらにしても組織から抜けるのは当然なのだ。あんな所にいたらいい家庭になるわけない)
そして最後に自殺した父親の遺書を読み、妻に謝罪し、息子に「よき夫、よき父親になってくれ」という感動的な手紙を焼いてしまうエドワード。それは彼自身が妻子に言うべき言葉でもあったはずだ。彼は完全に心を捨て去ったのだろう。
彼は恋人も妻も息子も全て捨ててしまったのだ。

彼は何故心を失くしてしまったんだろう。目の前で父の死を見てしまった時からなのだろうか。
人に見せるべき遺書を隠し、封印してしまった。彼が成長する為に読まなければいけなかった父親の言葉を彼はどうしたことなのか、無意識にか故意にか偶然か葬り去ってしまったのだ。
彼は大学時代には女装劇を演じまだ気持ちに余裕があった。だがFBIに促され恩師の盗作を見つけだしナチスの一員であることを密告する。
彼は思いつめたところがあるもののごく普通の青年だったはずだ。だが少しずつ少しずつ何かに追いかけられるように闇の道を歩み始めるのだ。彼自身はそうだと思わないままに。それとも彼はどこか感じていたのかもしれないのだが。

かなり書いてきたのに物語の本筋には触れてこなかった。これが本筋かもしれないが。
CIAの物語は非常に面白く興味深いものだったが、そのことのみがエドワードの精神を歪ませてしまったというのではないだろう。
他の職業であっても似たような家族の葛藤はできあがってくるものだ。だが国の為という大義名分と国際的スパイの疑惑により心と精神が激しく破綻し家族も巻き込んでしまった。その異常性は他の仕事ではあり得ない極端なものに違いない。

正義、のイメージが強かったマット・デイモンがこの映画の中でここまで屈折した人間を演じているとは思ってもいなかった。
ここでの造形は最低の人間であるので無論好きにはならないが、それでもここ最近のなかで最も力を注いだ役柄であったはずだ。
いつもと違ってマットにきゃっとなる場面が殆どなかった作品だったのだが唯一見惚れたのが補聴器をつけているドイツ女性とのベッドを共にした後、一人ベッドに寝ている箇所。眼鏡を外してこちらを見ているシーンのマットがおや、演じるのを忘れたかのように微笑んでいるのだが、この顔が凄くキュートなのである。無論演じそこねたんではなく耳の不自由なドイツ女性にかつての恋人を重ね心を許していたために出て来た笑顔なのだが、それもほんの束の間、数秒後には彼女の正体を知りもとの能面に戻ってしまうのだった。くー。

本作で興味深かったのはCIAもだが、エドワードが在籍したイェール大学の秘密結社「スカル・アンド・ボーンズ」創作ではなく本当に存在する組織なのらしい。
世界中にこのような秘密結社というのは規模の大小はあれど数多く存在するものなのだろう。特にこれなどは有名大学ということもあって数多くの政治家・著名人を輩出している(ブッシュ元大統領&現大統領父子もだ。これを聞いただけでなるほど、と頷いてしまいそうである)
私は有名なフリーメイソンだとか青幇くらいしかぱっと思い出せないが身近にも同じような組織があるものだろうか。無知であるが。

長尺で堅苦しい内容を飽きさせず見せたのは冒頭からミステリーの形を取っていたこともあるだろう。
謎はおしまいに解き明かされることになりそれがまた苦い結果に導かれる。
非常に面白く苦々しくだからと言って喜びも涙もない怖ろしい映画であった。

スカル・アンド・ボーンズの食事会でマーガレットが「ボーンズマン!」「ここに!」と叫んだ後に神に祈る彼らを皮肉って「任務が先、神は二番目ね」とつぶやくシーンが2度繰り返して出てくる。つまりここを強調したい、ということなのだろう。さらに強調して「CIAには“The”が付かない。GOD(神)に付かないと同じように」という台詞があり、彼ら(CIAとスカル・アンド・ボーンズが神と同等或いは上位なのだと皮肉っている)
エドワードがKGBとの取引を断る場面で「ハレルヤ」が子供達の声で合唱されているのも怖ろしい演出だ。ここでエドワードは問いかけに答えない。
結果、息子の妻と自分の孫を見殺しにしてしまう。神を讃える歌の中で。

グッド・シェパード=国家を守る為に我が身を犠牲にする姿を表している。
よき羊飼いであることはすなわち神のよき僕でもあるはずだが、彼らは使命を全うするために次第に神から離れてしまっているのだ。そしてそれが間違っていることだと認識することすら出来なくなってしまった。
使命のために神への愛も家族や恋人への愛も失ってしまう。

エドワードが床下の隠し金庫の中に父の手紙と共に入れていたのが学生時代に演じた『軍艦ピナフォア』(の招待状かパンフレットのようなものだろうか)
この曲がエドワードがCIAの組織の中になおも深く入っていく最後の場面で流れてくる。
この喜歌劇が本作にどのような意味合いを持っているのかいないのか私はあらすじを読んだだけではわからなかったが、女装して喜歌劇を演じたエドワードはもういない、という別れの歌だったのかもしれない。
彼がこの喜歌劇のパンフレット(?)を捨てずにとっておいたのは彼もそれを忘れたくなかったためか。隠しこんでいたのは人に知られたくない過去だったからか。

この映画はもともとフランシス・F・コッポラが作るはずだったらしい。彼の映画は「孤高の天才の哀愁」というのがテーマの底にあるわけで、この映画もその一つなのに違いない。

監督:ロバート・デ・ニーロ 出演:マット・デイモン アンジェリーナ・ジョリー アレック・ボールドウィン ビリー・クラダップ ロバート・デ・ニーロ ウィリアム・ハート ティモシー・ハットン ジョン・タトゥーロ マイケル・ガンボン ジョー・ペシ タミー・ブランチャード
2006年アメリカ

追記:ま、上でもかなり加筆したけど。
随分長く書いたのに肝腎なことはまだ書いてないような気がする。ていうか、この映画自体が一体この男に賛成なのか反対なのかよく判らないのだ。
観る者によって感想が違うだろう、などと言うとそれまでだがそうは言っても作り手がある主人公を作った時に全く反対であるということはないのではないか。
私は上の文でこの主人公を否定的に書いたけど、結局作り手は男なのであってこうした男の生き様に賛辞を送っているのだ。
思えば、この話が昔の日本だったら、ごく当たり前の話なのだ。男が国のために骨身を削って働き、その妻は銃後の守りを務めるのは当然でそれでこそ良妻賢母なのであり、家庭を顧みない夫に文句を言うだとか、寂しいからといって浮気など言語道断。たまに帰宅した夫には甲斐甲斐しく仕え癒してあげるのが妻の役目というものである。そういう内助の功があってこそ男は懸命に働けるのであるわけで。
しかし実際そういう夫に対し、このような態度を妻たる女がとるわけで、男は孤独なのだと、そう言っているわけなのだ。
子供の時代は終わり、男はさらに働き続けるのだと。
男の理想を追った映画だったわけなのだ。

今頃思ったのだが、他の大勢の方は最初からそう思っていたわけみたいで、自分は徹底して否定した映画だと受け止めていたのである。
だってそんな男にまったく魅力を感じないもんね。

マット・デイモン本人は物凄い家庭人なのにこういう主人公をやるなんて。この撮影後には急いで帰宅してお皿を洗ったり、娘さんにお休み前の本を読んでるんだから、役者のいうのは大したものなのだ。


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2008年05月17日

『ダンシング・ハバナ』ガイ・ファーランド

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キューバダンスと言うことで『サルサ!』と比べられがちのようだが、まったく意味合いが違うと感じた作品だった。

『サルサ!』にはキューバとサルサへの愛情が溢れているが、こちらはいかにも『ダーティダンシング2』という企画のもとに作り上げられていった、という印象だけである。

セクシーな激しいダンスという1弾めに続く企画ならキューバダンスにしてキューバとアメリカの歴史も織り交ぜうまくスパイスにしてしまおう、という戦略なのだろう。
だがそこはさすがにハリウッド映画。観客はアメリカ人なのだから、あまり辛味が効き過ぎて逃げられてしまわないよう、巧みに味わいをよくしている。
キューバ人がアメリカ人に差別されているとはいってもどれほど酷いものだったかとか、何故カストロがアメリカ企業を追い出すのか、などの説明はされてはいない。
しかもハビエルの兄が革命のためにダンス会場を滅茶苦茶にしたり、暴力を振るわせてハビエルに「殺人を犯すなら(アメリカ人や政府側と)同じことだ」と革命派をハビエルに批判させている。
アメリカ人側は最初の「田舎者」と言った女の子の台詞以外はハビエルに対しそんなに酷い差別態度を取っていないことや二人のダンスをやめさせるような行為をとらせていない。あくまでダンス大会を破壊してしまったのはキューバ人の方なのである。そのことはアメリカの観客は余計な自己批判をすることなく映画を楽しめるし、アメリカ人がそんなに悪い連中ではないと信じて観ていく事ができるだろう。

ハリウッド映画という物がいかに巧妙に製作されているのかがわかる興味深い一作だった。

そんな中でメキシコ人のディエゴ・ルナも上手く利用されている気がしてしまう。彼はメキシコ人なのだが。アメリカ人にとってはキューバ人もメキシコ人もそう変わらないんだろう(日本人の芸者も中国人がやって当然の如く)
彼があまりにキュートであるだけにその魅力がいいように扱われているのが腹立たしくもある。
結局アメリカ人にとってキューバ人やメキシコ人はセクシャルな意味合いだけの存在ということなんだろうけど。

表向きはいかにも爽やかなアメリカ白人女性(金持ち)とキューバ男性(貧乏人)の純愛ということなのだが。
この映画、アメリカではどんな評価だったのか、またキューバ人に見せたらどんな評価なんだろうか。

ディエゴ・ルナが可愛くて可愛くて。まさに白人女性のためのセクシーボーイという役割りをあてがわれているのが悲しい。
昔は殆どこれの男女が逆で白人男と現地の美少女が恋に落ちると言うセクシャルな欲望を満たす映画がいくつも作られていたのだろうが。男女が逆になったからと言ってその意味合いは変わらない。

パトリック・スウェイジが出演させられているのも戦略の一つか。

監督:ガイ・ファーランド 出演:ディエゴ・ルナ ロモーラ・ガライ セラ・ウォード ミカ・ブーレム ジョン・スラッテリー パトリック・スウェイジ
2004年アメリカ
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2008年05月15日

『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』ヴィム・ヴェンダース

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ bb.jpg
BUENA VISTA SOCIAL CLUB

昨晩観た『サルサ!』でキューバ熱に火がついて今夜はこれ『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』
無論『サルサ!』もこれをきっかけに作られているのだろう。波の荒い海岸べりの道や古いアメ車が平気で今走っている不思議な光景が印象的である。
自分はライ・クーダー氏自身をよく知らないでいるのだが(すみません)なによりもう引退同然で世界的には無名だったはずの年老いた彼らの音楽をこうして集め聞かせ、見せてくれたことには感謝せずにはいられない。
以前にも観て記事にも(『藍空』)書いていると思うが読み返してはいないので感想は重複していると思う。
特にまとまったストーリーというものはないこの映像作品にはライ・クーダーが忘れられてしまった存在のキューバの老音楽家達を丹念に呼び集め、友人の映画監督ヴィム・ヴェンダースにより撮影されたものである。
殆ど音楽活動をしていなかったはずの彼らはライの要求に嫌がることもなくあっさり演奏を再開している様子で彼らが心から音楽を愛していること、生きていることと音楽とが自然に結びついていることが伝わってくる。
この映像にはコンサートの場面から始まり、そんなかれら一人ひとりの語りとそれぞれの音楽が散りばめられるように収録されているだけなのだが、それでいてまったく退屈することがない。誰一人有名だとか知っているミュージシャンだとかいうのでもないのに。
無論この映画の中で彼らを知り、彼らを好きになってしまうはずなのである。
特にコンパイ・セグンドとピアニストのルベーン、歌手のイブライム・フェレールには参ってしまうのだ。
その音楽の素晴らしさは言葉で語られるわけもないのでまずは観て聞いてもらうより仕方ない。ライはフェレールをキューバのナット・キング・コールだと言う。私にはよく判らないが彼の歌声がスペイン語の巻き舌も相まって素晴らしく音楽的に響くことだけは判る。声の一つ一つが不思議な深みのある響きを持っているのだ。
とにかくキューバ音楽の明るく軽やかなのに重く湿った悲しげなこの音色というのはなんだろう。
なぜこうも懐かしく思ってしまうのか。なぜこうも心の中に入り込んでくるのだろうか。

音楽の美しさに加え、ヴェンダースの映像がさらに郷愁を誘うようなそんな趣がある。
冒頭の道路に打ち上げてくる波飛沫の海岸通りの場面は酷く印象的である。
小奇麗とは言いがたい狭い道と街並みを歩きながら歌う姿。昔あったクラブを尋ねると通りかかった人々が口々に教えてくれる。
冷蔵庫を運ぶ人たちに「手伝おうか」と気軽に声をかけるフェレール。

また美しい色彩の窓がある部屋での演奏や人気のない昼間のバーで話をする時、窓から風が吹き込んでカーテンが緩やかに舞い上がるのが涼しげである。
キューバ音楽には悲しげに響く情熱と心を吹き抜けていく涼しさがある。それは暑い国で暮らす人々を安らげるのだろう。

ルベーンの弾くピアノも今まで見て聞いてきたヨーロッパのものとは全く違う音である。
そしてパーカッション!なんて奇妙な不思議な叩き方なのか。パーカッションはうるさくせず極めて軽やかに聞かせないといけないようだ。

ああ、音楽的な言葉を全く持っていないのに判ったかのように書くのは至難である。
どうしたって音楽は言葉ではなく感じることなのだから。

フェレールは歌だけでなく話にも心惹かれる。子供の時に両親を亡くした彼の人生は容易いものではなかったはずだ。
それでも彼の歌声は素晴らしい。彼は母が信じていたという聖ラサロを信じていると言って部屋の壁にラサロを祭り、大好きなラム酒と蜂蜜を捧げ、出かけるときは香水を自分とラサロにふり掛けると言う。そんな信仰心がなぜかじんわりとしてしまうのだ。

フェレールが女性歌手と歌うラブソングがいい。彼らの歌はやはり恋の歌なのだ。
90歳代のコンパイ・セグンドは今なお恋愛現役で「女性と花とロマンス」がないと生きられないという色男である。かっこいい。
『サルサ!』にも描かれていたような恋の力が彼らの原動力なのだ(なんて書いてること自体がもう駄目だね)

『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』夏が来ると聞きたくなってしまうものでもある。熱さの中に涼しい風を感じさせる、打ち揚げてくる波のようでもある。

監督:ヴィム・ヴェンダース 出演:イブライム・フェレール/ルベーン・ゴンザレス/コンパイ・セグンド/オマーラ・ポルトゥオンド/エリアデス・オチョア
1999年ドイツ、アメリカ合衆国、フランス、キューバ
ラベル:音楽
posted by フェイユイ at 23:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 中南米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『笑っていいとも!』DMCつながりで松ケンに?・・・はなかったです

『笑っていいとも!』昨日は「ロバート」が宮崎美子さんを呼んでいたのでこれは秋山竜次さんのDMCつながり、もしやその次は松ケンでは、と期待したのですが、違いましたねー(笑)

とはいえ、松ケンは宮崎ママに電報を送ってました。花でなく自分で言葉を選んだと思われる電報ってとこが松ケンらしい?
丁寧な長い電報で心がこもってました。
さすが役になりきってしまう彼はクラウザーになってるとこを宮崎ママに見られたくないと思っていた、というのがおかしい。
好きです、とか書いてて可愛かったですねー。

ポスターは漫画のままでしたが、8月公開ということで、今後どのように宣伝されていくのでしょうか?

ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 12:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『サルサ!』ジョイス・シャルマン・ブニュエル

サルサ!.jpg
Salsa

映画を観てる間始終にやにやしっぱなし、そして合間に涙をこぼす、という芸当をやりつつ感動の嵐に吹き捲られた!

生粋のフランス人で白人のレミに深く感情移入して鑑賞。『ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』を観て以来、キューバ音楽が最も好きな自分である。あの映画もキューバに魅せられた白人の映画だし。
クラシック音楽学校で素晴らしい成績を収め、将来を嘱望される若者レミは大切な審査(?)でその腕前を披露するが、突如演奏を止め、驚く皆の前でいきなりラテンミュージックを激しく弾きだすのだった。

栄光の未来を全て捨て、パリのキューバ人街に乗り込むレミはキューバ人の友達フェリペを訪ねる。
だが彼の答えは「ここに来る人間はキューバ人の男を求めてくる。白人のお前と組んだら“白雪姫と7人のキューバ人”だ」

移民である彼らの中には不法滞在の者もいる。白人社会の中で黒人である事は差別の対象でしかない。
だがその黒人であり、キューバ人であることに憧れてしまう白人(及び黄色人(私))もいるわけで。
ショパンを弾いては一流の彼もキューバ音楽とダンスにかけてはずぶの素人。特にダンスはフェリペの足元にも及ばない。
仕方なく髪と皮膚を黒く塗り、派手な服を着て、キューバ訛りを必死で覚え、生粋のフランス白人であることを捨て去ろうとするレミがおかしいやら悲しいやらで始終笑いっぱなしで時々その懸命さに涙が出てしまうのだった。
いやあ、白人の時は甘ったるい美少年だったのが色を黒くしたら、あら不思議、セクシーなラテンボーイに変身してしまうのだ。何故だか視線まで心にまで入り込んでくるような強い眼差しに変わってしまう。
無論この辺は映画ならではの演出なのだろうが、こんなに違っちゃうんだなあと感心しきり。確かに色黒キューバ人に変身後のほうが断然いかしているのだもん。

とにかく何とかしてキューバ人になりきろうとする優等生ピアニストのレミが愛おしくてしょうがなかった。
そして彼と恋仲になってしまうのがフランス白人女性ナタリー。職場ではフェリペの恋人である同僚(白人女性)から真面目すぎる、暗い、とばかり言われている彼女がひょんなことからサルサダンス教室でレミもといキューバ名・モンゴと知り合い、ダンスを踊るとこれが一体どういうことだ!物凄いセクシーなサルサを踊ってしまうのだ。
ナタリーにキューバ訛りのフランス語で話しながら深く愛してしまうレミ。知り合ったキューバ人の老人バレートから嘘を言ってはいけない、と忠告されながらもどうしても本当のことが言えない。

情熱的なサルサダンスと音楽に酔いしれながら、レミの奮闘振りとハンサム振りに見惚れ、ナタリーのフックリした唇の美貌と豊かな胸と激しいダンスにも見惚れ、ああ、やっぱりキューバ音楽はいいなあ、と堪能しつくしたひと時だった。『ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』はDVD持ってるし、また観よう!
あの楽しく明るいのに涙が溢れるような悲しみが満ちている音楽はなんだろう。男はあくまでマッチョに女は男を誘うように、愛に溢れたダンスの衝撃的な美しさは。

ナタリーが何故サルサダンスが上手いのか。それはキューバ人男性を愛しながら結婚できなかった祖母の教えと実はその恋人がバレートで、ナタリーにはキューバ人の血が流れていたのだったという物語。
ついに会える恋人を前に年老いてしまった祖母が鏡を見てそれでも勇気を奮い起こし若い時のように上着を脱いでいく場面でまた涙が止まらなくなり。

今年度観たどの映画より好きかもしれない。
今回はこれかな。
最高だった。

最後の場面はまさに『ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』の一場面を思い出させる。
監督があの映画に思いいれが強いことが伝わってくる。

監督:ジョイス・シャルマン・ブニュエル  出演:ヴァンサン・ルクール クリスティアンヌ・グゥ カトリーヌ・サミー エステバン・ソクラテス・コバス・プエンテ ロラン・ブランシュ ミシェル・オーモン アレクシ・バルデス オーロラ・バスヌエヴォ
1999年 / フランス/スペイン )


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2008年05月14日

『フレンジー』アルフレッド・ヒッチコック

フレンジーff.jpg
FRENZY

ヒッチコックの有名な作品だが未見だった。ヒッチの最後から2番目という作品ということらしいが、これは確かに面白かった。

昔の映画は面白い、と思ってしまうのは面白いものだけが残っているからなのだろうが、それでも何故今のよりシンプルなのに面白いのだろうか、と考えてしまう。シンプルだから面白いのか。

ネクタイ殺人事件と名づけられた婦女連続殺人事件。昔の映画だからさして驚きもなかろう、とおもうなかれ。そこはさすがにヒッチコック、今観てもゾクゾクする緊迫感があるし、全裸死体の描写などかなり衝撃的である。冒頭、河に浮かんでくる全裸死体は作り物らしいがそれでもぎょっとさせる。

ヒッチコックがイギリスに戻って製作した、ということでいかにもイギリス風の味わいがあり、殺人事件にも拘らずユーモアがふんだんに盛り込まれている。
その後の映画の見本となるヒッチコック映画であるが、これ自体が却って新しいのではないかとすら思えてしまう。

性的異常者の犯罪という題材もあって、現在起きている様々な事件とも重ねてしまう。
犯人が結婚相談所の女性に言い寄っていく様子も他で観ない様なリアルさがあるし、奇をてらいすぎていないところもまたリアルな恐怖がでている。
親切を装って友人の女性を部屋に招きいれた後をカメラがもう追わず、建物の外から見ている感じだとか、ジャガイモを積んだトラックに死体を放り込んだものの愛用のネクタイピンを殺害時に被害者から取られたと気づき自らトラックに入り込む場面など緊張が続く。
男がネクタイピンを探そうとして死体から足蹴にされるのはブラックな笑いに包まれる。
またトラックの後部から死体の脚がにょっきり出ているのをパトカーの警官が見つけるのも不気味であった。

それにしてもおかしいのは警部とその妻の食卓での会話。
彼の妻はフランス料理に凝っていてなんとも不味そうな奇怪な料理を出すのである。警部も「不味い」と怒ればよさそうなものなのに、愛妻家なのか恐妻家なのか、心優しく「おいしいよ」と言っては鍋に戻したりするのだ。
フランス料理だからと言ってこんな奇怪な料理ばかりあるものでもあるまい、と思うのだが、そこはイギリス人、フランスというのはこういうものだと思い切り皮肉っているのだろう。
それなのにこの妻、警部以上に直観力が鋭くて疑惑をかけられた主人公が無実だということをあっさり見破る。
性的犯罪と悪趣味な食事を並べて見せることでよりいっそう観る者は気持ち悪くなっていくわけだ。

どうも分が悪い主人公が感情的な色男だったり、殺されてしまう彼の妻がもう若い娘ではなくて大人の色気のある肉感的中年女性だったりするのも、意外に他にない設定のようにも思えるがどうだろう。といってもヒッチコックの作品はあんまり若い女性は使われていなかった気もするが。

監督:アルフレッド・ヒッチコック 出演:ジョン・フィンチ バリー・フォスター アレク・マッコーエン バリー・フォスター ビリー・ホワイトロー バーナード・クリビンス ジーン・マーシュ
1971年 / アメリカ/イギリス
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2008年05月12日

『アマデウス』ミロス・フォアマン

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AMADEUS

初めて観た時も「こんなに面白い映画があるものか」と驚いたが、年月の経った今観てもその感動が変わらないことにまた驚いた。
ここ最近、演奏家映画にこだわって観ている自分だが、この映画はやはりその頂点に立つ作品だ。
演奏、という部分でのみ観てもさすがにアマデウス役のトム・ハルスも猛特訓だったに違いない。まったく違和感のない演奏である。その上に演出や編集がいいせいでトム自身が天才であるかのような錯覚に陥ってしまうだろう。指揮の場面も同じくそれ以上の素晴らしさでトム・ハルスの指揮をそのまま、もしくは真似て作ったものがたくさんあると思う。

大天才アマデウス・モーツァルトと凡人の代表サリエリの比較に焦点が絞られていてストーリーはシンプルで非常に判り易い。
アマデウスを殺したのでは?と神父に嫌疑をかけられたサリエリが彼とアマデウスの経緯を細やかに語っていくという構成なのがいっそうエピソードを整理して飲み込みやすく仕上がっている。
そうやってうまく物語を認識させつつ映像は音楽によって次々と高揚されまた恐怖を味わされる。
後で思うと美男美女がまったく出て来ない映画である。特にモーツァルト信奉者が怒ってしまうであろうアマデウスの造形には初め度肝を抜かれたが観ていく内に納得し時にははっとする美しさも感じるから不思議だ。一方のサリエリも全く魅力のないおじさん、というところで凡人の悲哀を感じさせてくれる。
ところで映画を観ている分にはサリエリがいうほど、アマデウスは認められてもいないし、幸せでもないようである。確かにステージパパにつれまわされた子供時代は凄かったのだろうが映画ではその描写は僅かだし、常にその下品な外見と物腰を皆に馬鹿にされている。妻にした女性は美女でも金持ちでもない悪妻だし(この映画では)(アマデウス本人は愛しているようだから余計なお世話だが)サリエリ以外の人々からは殆ど認められていないに等しく、あっという間に堕落していってしまうのだ。
凡人と嘆くサリエリは皇帝からも才能を認知され、活躍した当時はもてはやされ、高い地位へと出世しているわけで神が見放しているとは言い難い。
それでもサリエリが(この映画の中で)本当に自分が欲しているのはモーツァルトの才能だけだった、ということなのだろう。
もしかしたら早すぎたのかもしれないモーツァルトの才能を知識人の中ではサリエリだけが認識していたのだ、というこの描き方は面白い。他の認識者は大衆で、だからこそ記憶に残り、受け継がれていったのだ、というところだろうか。

モーツァルトの音楽と映像が合わさっていく、その表現が絶妙でこれはもう体感してみるしかどうしようもない。
アマデウスがピアノを弾きながら別の場面へ移行する箇所や、幾つかのオペラシーンはいうまでもないが、最後の瀕死のアマデウスがレクイエムを創作するのをサリエリが書き取っていくくだりはぞくぞくしてくる。
青ざめたアマデウスがそれでも天才的な閃きをみせ音楽を生み出す。彼の頭の中に音がある。聞こえないはずのサリエリがそれを感じ取り、譜面に起こしていく。
ずっと敵対していた二人が皮肉な運命によって一つの音楽を作り出していく。それは決して愛に満ちた感動ではなく、サリエリはそうしている間も憎悪と嫉妬に苛まれていたはずだ。
が、そうしたなかでサリエリはアマデウスとの共作に至上の喜びも感じていたに違いない。音楽家としての魂が共鳴していた短い時間なのである。

それにしてもこの二人の役者はこうまで凄い演技をしていながらその後二人ともそれほど有名な役をやってはいないのも不思議である。(詳しい方は違うと言われるのかもしれないが)
サリエリ役のF・マーリー・エイブラハムは『薔薇の名前』で異端審問官ベルナール・ギーを演じてはいたが、アノー監督の「彼ほど嫌な役者はいない。アカデミー賞役者だと威張りきっていた」というコメントがあり、よほど腹にすえかねる態度だったのだろうとおかしかった。アノー監督が言ったとおり彼を使いたい監督はいなかったのだろう。『小説家を見つけたら』でちょい役だったがやはり嫌な奴を演じていた。また謙虚に戻ったのか。
トム・ハルスのほうはもっと不思議だが、人生というものはそういうものなのかもしれない。

これはディレクターズカット版で観た。3時間に及ぶが見惚れ聞き惚れてしまうのだ。

監督:ミロス・フォアマン 出演:F.マーリー エイブラハム トム・ハルス エリザベス・ベリッジ サイモン・キャロウ
1984年(ディレクターズカット版2002年)アメリカ
ラベル:音楽
posted by フェイユイ at 22:56| Comment(3) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ジェイのニュースふたつ

ジェイ 孫悟空.jpg

ジェイ・チョウが母の日で粋なメッセージ
ジェイはしょっちゅう母の日みたいなもんで。
でもやっぱり嬉しいですよねー、こんなカードをもらって。

視聴者が選ぶ孫悟空、ジェイ・チョウがNo.1に!
なんとコメントしていいやら(笑)
自分的には悟空はお茶目な感じな人がいいな、と。いやみんな、ジェイはお茶目だと思っているのか。
確かにこの条件だと香取慎吾は駄目ですな。
ジェイでも身長高すぎだもん。
やっぱ小さくて可愛い人。堺正章でもいいんですが(笑)
posted by フェイユイ at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする