映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2008年05月10日

『カンフーダンク2』アンディ・ラウの出演が決定!

『カンフーダンク2』アンディ・ラウの出演が決定!

こりゃーびっくり!たまげました!!!
はじめ、アンドリュー・ラウの間違いかとも。

いやあー『イニシャルD』のアンドリュー・ラウが『カンフーダンク2』というのはこれでもう確かなようですね。
それにしても、アンディ・ラウがジェイと共演ですかー、すげえ。まあ、アンドリュー・ラウ監督『インファナル・アフェア』がらみですかねー。
一体どういう役なんでしょーか。


posted by フェイユイ at 23:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『グレン・ミラー物語』アンソニー・マン

miller.jpg
THE GLENN MILLER STORY

先日映画『愛情物語』で知ったエディ・デューチンと違い、こちらは日本人でも誰でも知っているに違いないグレン・ミラー(違うだろうか?)である。
映画の中で何度も流れる「ムーンライト・セレナーデ」を始め他の曲もそのタイトルを聞けば自然と頭の中で吹奏楽の音が響いてくるようだ。
映画公開もほぼ同じ190年台半ばだが彼らが活躍した時期も(年表など知らないので確かではないが)近いところだろう。そして大活躍していた最中に太平洋戦争で志願入隊している点も同じであった。
続けて観たこともあり、その辺を比べてみたいと思う。

日本での認知度は別として双方ともアメリカ人から愛された音楽家であることは同じなのだろう。
上に挙げた近似点がありながらも、こうして見比べると様々な違いがあるのが興味深い。無論、映画を観ただけでの比較である(実際のところはわからないからね)
地方からニューヨークへ音楽を求めてやってきたのは同じだが、最初から何も考える事がないくらいとんとん拍子だったエディと比べグレンは「自分のサウンド」が見つからない、と苦悩し続けていく。
ニューヨークで華やかな美女とすぐ結婚したエディ、ニューヨークへ行っても田舎の恋人を呼びだして結婚するグレン。
映画を観ているとグレン・ミラーの成功はこのくったくのない奥さんヘレンのおかげじゃないかと思ってしまう。
何の権威も保障も金もないグレンが婚約をしていると言っているヘレンに強引にというより無頓着にデートの約束をしたり結婚を迫ったりするのがおかしい。他の男ならとんでもないデリカシーのなさだがそういった破天荒さに生真面目なヘレンが惹かれていくのが判る気がする。まったく滅茶苦茶なグレンはこの堅実な妻があってこそ有名になったのではないかと思える。日本的糟糠の妻というか、内助の功というか。グレンのポケットから少しずつ金を取って楽団の為の資金を貯めていた、なんていうしっかり者だが、久し振りの再会の時、パジャマに頭は昔風カーラーのリボンだらけ、と言った具合で可愛いったらないのである。
エディと違ってなかなか目の出ないグレンに常に同行してアメリカ中を旅するヘレン。
そうしている内にヘレンが流産してしまう。
『愛情物語』では愛妻・マージョリーが子供を産んで亡くなってしまう、という悲劇が起こる。
ここではヘレンは流産したためか子供ができない体になってしまうのだが、グレンは「男女の養子をもらおう」と妻を慰めるのだ。
今でも出産はやはり大変なことだが(子供が出来る出来ないを含め)この当時はさらに出産について様々な物語ができてきたことだろう。
妻が亡くなったことでエディは深く傷つき忘れ形見であるはずの子供に会うことすらできないでいた。彼が戦争に行ったのは妻への感傷を忘れる為だったように思える。
グレンは子供を失ったがそのことで妻を責めたりすることはなく慰めていることに寛大さを感じる。当然のことかもしれないがそれを責めることがあるのは事実だろう。
戦争に赴くグレンは音楽で慰問をしたいという積極的な考え方をしている。
だがそれで彼に悲劇が起きてしまうとは。運命というのはなんと残酷なものだろう。

結局は、長い間有名な音楽家として活動し続けたエディと違い、グレン・ミラー楽団というものは(経歴をみれば)戦争に行くまでのほんの5年ほどのようだ。その後、慰問演奏をしてはいるが、その短い間にあれだけの有名でいつまでも愛され続ける音楽を残していったのかと思うと驚きである。
また私などはいい作曲をすればいいもの、のように思っていたのだが、「自分のサウンド」を見つけることが難しいのだとこれを観て初めて判ったようなものだった。
名曲『ムーンナイトセレナーデ』が下品な演出で演奏されるのを見てがっくりするグレン。だがどうしても自分の納得する「サウンド」が見つからない。
そしてやっと見つけたのはやはり自分が好きな吹奏楽を多用した音楽だった。ラッパばかりで屋根が落ちるぞ、などと言われながらそこで奏でられるのは美しい音色。
今でこそ、グレン・ミラーの音楽は普通に聞いてしまうけど、当時としては驚きの音色だったに違いない。
そうした彼の工夫と努力もヘレンの忠告が数々あったのだ。ヘレンも凄いがそういう妻の助言を素直に受け止めるグレンも偉いと思ってしまう。男というのは変に依怙地になってしまうことが多々あるものだ。これも彼の心の寛大さを物語っているのだろう。

エディ・デューチンとグレン・ミラーを何となく比較してしまったが、どちらが偉いだとか、どちらが幸せで不幸だったとかは比較するものではないだろう。
どちらも苦悩があり、幸せがあり悲しみがあった。

それにしてもこうして観て行くと音楽家って本当に羨ましい。音楽のセンスのまったくない自分にとってまあここまで凄くはなくとも、ピアノなりトロンボーンなり演奏できる人に対しての羨望といったらない。
今度生まれ変わったら、言葉でなく音楽で表現するよ、なんていう人になってみたいものである。

監督:アンソニー・マン 出演:ジェームス・スチュアート ジェーン・アリスン ルイ・アームストロング ハリー・モーガン
1954年アメリカ
posted by フェイユイ at 22:48| Comment(3) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月08日

『愛情物語』ジョージ・シドニー

愛情物語.jpg
THE EDDY DUCHIN STORY

映画を観るまでエディ・デューチンというピアノ演奏家の名前を知らなかった。
冒頭部分があまりに明るくとんとん拍子に物事が上手く運ぶので昔の映画は気楽だなあ、などと思っていたらとんでもなかった。
親子、妻子、仕事仲間の愛情が溢れ、心の機微が細やかに描かれた素晴らしい作品である。
途中から涙がこみ上げっぱなしで困ってしまう映画でもあったし。
とにかくまずは鑑賞目的であるタイロン・パワー演じるエディのピアノ演奏に注目しよう。

今まで観て来たようなちょっと鍵盤を押さえるくらいならいいものの、肝腎の演奏になると途端に指先が何かに隠れてしまう、ということが一切ない映画なのである。
激しい指さばきのシーンも全て映し出されていてやはりこれはタイロン・パワーが演奏しているとしか思えない、と思ったのだが、これがやっぱり別の人の演奏であるというのは驚きだ。
見事に指さばきが曲とあっているわけで一体どれほどの努力があったのだろうか。確かにそう思って観ていれば指の動きより音符がいくらか多かったりはする。しかし自分などは言われなければ気づかないに違いない。いかにも楽しげ軽やかにピアノを弾く様子は本人が弾いてるとしか思えない。
後ろから映していてもピカピカのピアノに彼の顔と指先がくっきりと写っているのだ。
それにしても踊るような軽やかなこの演奏のこの楽しさはなんだろう。
またそのピアノ演奏も少しだけ、というのではなくその場面ごとに意味を持たせて次々と演奏されるのがうれしい。映画と音楽が一体になって相乗効果を生んでいく心地よさであった。

エディ自身も魅力的である。
最初はいかにも明るいアメリカ青年と言う感じで夢いっぱいでニューヨークへ乗り込んできたのだ。美女に仕事を推薦してもらったり市長を見ることで素直に大喜びしているのがなんとまあ単純で可愛いことやら。
あっという間に出世して美人と結婚してしまう気楽な映画かと思ったのだが。

胸を打つのは愛する妻を亡くし「メリークリスマス」と叫ぶシーンから。美しく賢明な妻が風の音が怖いと怯えるのが恐ろしい予感となっている。
子供の誕生が妻の死の原因だと感じてしまうエディは息子と長い間合う事が出来ずにいた。その年月が彼と息子の間に深い溝を作ってしまう。
楽団を持つほど出世した彼が太平洋戦争へ赴いたのは亡き妻への思いを断ち切る為だった。
彼はミンダナオ島で汚れたピアノを見つけ演奏する。近づいてきた現地の少年と共にピアノを弾き、その子からキスをされた時エディは今まで逃げていたことの重大さを知る。

再会した息子ピーターとの上手く行かない軋轢、ピーターを可愛がっていた若い女性チキータとの出会い。
時に苛立ちもするがエディの懸命に前進していく姿は感動的である。

こうやって思い出すとこんなに綺麗に生きていけるかしらとも思えるのだが、観ている間はエディの様々な苦しみに涙を抑えきれないことになる。
音楽が物語の中に演出としても上手く混じりこまれていて、お手本としか言いようのないほどのピアノ演奏を使った映画作品になっている。
息子ピーターがいつの間にか父親譲りの腕前を見せていくのだが、グランドピアノを合わせて親子で弾く最後の場面とそれに続くエディがいなくなってしまう場面には深い感動があった。
父と子でピアノを合奏し向こう側で美しい妻が食事の用意をしている、幸福を絵に描いたような彼らの心が悲しみにひたっているという事実。

単純明快でありまた悲劇でありながら深い愛情を感じさせる作品なのである。それをエディ自身が弾くピアノ曲によってさらに情感を深めていくのだ。
1950年代アメリカ映画の力強さを感じさせる。その上、風が怖いという繊細な感情がクリスマスツリーの飾りが揺れることやカーテンの揺れ、そして父との別れを知って並んだブランコを次々とピーター少年が揺らしていくという演出によって表現されていく。
映画の面白さ、感動を思い切り与えてくれる。

この頃の女性のファッションもステキなのだ。方の広く開いた逆三角の襟ぐりときゅっと締まったウェストにふわっと広がるスカート。女性の魅力を思い切り演出しているよね。キム・ノヴァクと後の奥さんどちらも凄い美女なのだ。

エディ・デューチンを演じたタイロン・パワーは美男で有名だが息子ピーター役の子が可愛いのだ。凄く人気のあった子役ということらしい。
彼が友達と3人でちょっとしたセッションをするところはキュートで見ごたえあり。見捨てられて反感を持っていた父親に少しずつ心を開いていく様子にはきゅんとなっちまいます。チキータのこと、本当に好きだったんじゃないかなーとも思えるのだが。

監督:ジョージ・シドニー 出演:タイロン・パワー キム・ノバク ヴィクトリア・ショウ ジェームズ・ウィットモア  演奏吹き替え:カーメン・キャバレロ
1955年アメリカ
posted by フェイユイ at 23:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『肉体の悪魔』レイモン・ラディゲ

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今までレイモン・ラディゲの小説も読んでなかったし、映画も観たことがない。
ちらりとあらすじを読んでもさほど読みたい気持ちが動かなかった。むしろラディゲ自身が16歳でジャン・コクトーにその才能を認められ、同性愛関係にあったという話の方にやや興味は向いたがそれでもそれほど心が動かされなかったわけで。

なのに何故急にここで『肉体の悪魔』でしかもカテゴリが『松山ケンイチ』なのかという話になる。

松ケンが自分そのものだと話している『人のセックスを笑うな』を悲しい事に自分はまだ観れないでいるのだが、その原作を読むことも今回はしたくないでいる。
ところで先日TVで原作者の山崎ナオコーラ氏がラディゲ『肉体の悪魔』を紹介されていて、年上の女性に恋する若者という物語に自分の作品も影響を受けている、というのを聞いていて、こちらを読んでみたい、と思ってしまったのだった。

15歳の少年が19歳の人妻と肉体関係を結ぶ、というあらすじは今ではそう驚く設定ではないだろうが、それでもやはりまだ精神的に幼い少年が精一杯背伸びして年上の女性との恋愛をしていく心情が細やかに描かれていて面白かった。
しかしもし自分が若い時期に読んでいたならそのうじうじとした心理描写、主人公の身勝手さに怒りまくったであろうと想像できる。
ラディゲも年上の女性と恋愛関係にあったというが、彼自身は10歳年上の女性でしかもラディゲの傲慢な関係であったようだ。
映画化するならこの小説ではなくラディゲの話をやってもらいたいものだが、誰からも共感を呼べそうにないのが面白そうである。
天才芸術家に愛された美しい天才少年が年上の女性を身勝手に振り回す、という話である。でもまあ、天才少年は牡蠣を食べて腸チフスで死ぬことになるので作品としても許されるかもしれない。

小説に戻れば、少年期というのは女性に対しても傲慢なものである。主人公は年上の女性を愛してるような行動をとっていてもその実は自分のことしか愛していない。
それは文章ではっきりと書かれているわけで、年上の恋人マルトがもっと年をとった姿はもう見たくないだとか、マルトが妊娠したらその原因は夫であって欲しいと願ったり、そうした彼女と歩くのを酷く惨めなことだと考えたりする。そして別の少女を好きになったりもする。
そういったまさに赤裸々な少年の思考は純粋な愛を願う青少年期に読めば耐え切れないものだろう。
しかしラディゲ本人は10代にそれを書いたわけで確かに早熟な天才としか言えない。とはいえ20歳で亡くなったのだから彼の人生の中ではもう老年期ということになるのかもしれないが。(無論そんな理屈はないが)

自分はやっと今の年齢で「年取った時、若い頃を思い出せばこういう考え方をするものだ」と思える程度である。
『肉体の悪魔』は非常に短い小説の中で10代の少年の恋を描ききっている。
100年近く昔の話でありながら、その心の描写は切られるような痛みを伴っている。

年上などと言ってもまだ19歳のマルトの心情は何も書かれてないに等しい。女の目で読めばそこまで単純にマルトが少年に従うだけなのだろうか、とも思えるのだが。
それはそうとしてもただ単純に恋愛に落ちていった若い男女の物語だからこそ人は惹かれてしまうのだろうけど。

想像だけだが受ける印象では『人のセックスを笑うな』とは随分違うような気がする。
(教えなくていいですよ!まだ後で観ますから!!)(笑)
こういう傲慢な愛の物語は今はあまり受けないのだろうか、とも思う。『罪の王』は傲慢だったがあれは傲慢に理由があるしね。理由のない傲慢な恋愛は、現実に多くても観たくないのだろう。
癒し系の恋愛は多いけど。
posted by フェイユイ at 13:16| Comment(4) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月07日

『マーラー』ケン・ラッセル

マーラー.jpg

ケン・ラッセル。懐かしい名前だ。
若い頃、こういう映画もあるのか、とおっかなびっくり観ていたような。
今観るとかなりチープな作りでまた驚く。グスタフ・マーラーという名作曲家を描く手法としてこのやり方はとんでもないのではないかと思われるのだが。

いかにも70年代のアートであり、イギリス的な雰囲気に満ちた作品だ。
マーラー自身は見惚れるような横顔の美男子で彼を観るだけでも価値があるといった風情なのだが、作品自体はかなりぶっ飛んでいるといった感じ。しかし繰り返すがマーラー役のロバート・パウエルは見ごたえある。
下品で卑猥という表現もあり、こういうのは今は逆にあまり作られることもないのではなかろうか。
手作り感溢れる演出が時々悲しくさえなるが、これがイングランドの味わいといえよう。
特にユダヤ人マーラーとナチス風コジマ・ワーグナーの一騎打ちの場面は信じられないほどのとんでもなさで苦笑いするしかない。

とはいえ、死期を感じたグスタフ・マーラーが列車のコンパートメントで妻アルマとの会話を通しながらこれまでの人生を振り返っていくという構成はなかなかよかったりする。
結局音楽家は言葉では物事を言い表す事はない。音楽で表現するのだ、ということなのであり、文章でしか物事を考える事しかできない自分にとってはやはり音楽家というのは謎の存在なのである。

なお、この映画でもっとも「お!」となってしまったのは冒頭、プラットホームで発車を待つマーラーの目の前に化粧した美男の老人が座っていてその後ろで金髪の美少年がくるくる踊っている。つまりはグスタフ・マーラーその人がモデルとなったというヴィスコンティの『ベニスに死す』をマーラーが眺めているわけである。
この物語も死期を目の前にした男の話なのでマーラーの姿と重なる、というケン・ラッセルの遊びなのだろう。
自分はマーラーさん自身は知らないのでこういう部分だけがぴんと来たわけなのだ。
その後の展開はマーラーの生涯及び音楽に詳しい人ほど面白いのであろうなあ。

監督:ケン・ラッセル 出演:ロバート・パウエル ジョージナ・ヘイル ジョージナ・ヘイル リー・モンタギュー リチャード・モーラント ロザリー・クラッチェリー ミリアム・カーリン
1974年イギリス
ラベル:音楽
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2008年05月06日

『真夜中のピアニスト』ジャック・オディアール

真夜中のピアニスト.jpg
DE BATTRE MON COEUR S'EST ARRETE/THE BEAT THAT MY HEART SKIPPED

そんなに大好きでたまらない、というほどはないがなかなか面白く楽しめる作品だった。

『ラヴェンダーの咲く庭で』のダニエル・ブリュールを観ていたら、なんだか凄く演奏家の映画が観たくなって探し始めすぐに当たったのがこれだったが、ピアニスト、というには渋い設定である。
亡くなった母親の影響で若い頃はピアニストを目指していた主人公トムはいつしかその夢も忘れ不動産の裏ブローカーとして脅迫と暴力を振るう毎日を送っている。夢を抱いていた頃から10年が経ち28歳のトムはある日母親のマネージャーだった男と出会い「ピアノは?」と訊ねられる。
荒んだ生活を送っていたトムはその言葉を聞いた日から再びピアノへと向かう。

だが現実は厳しく10年放っておいた指はもう動かない。
そんな時、見知らぬ青年の紹介で北京から来たという東洋人女性からレッスンを受けることになる。
言葉も通じないままトムは彼女のレッスンを受け次第に感覚を取り戻す。

荒みきったトムの生活と夢のようなクラシック音楽の世界。人を殴る事しかしてこなかったトムがピアノに再会し、今度はその世界に夢中になってしまう様子が切なくおかしい。
愛してはいるがうまく会話がなりたたない父親との関係、不倫と暴力に満ちた仲間の関係となかなか思うようにならないものの少しずつ弾けるようになりピアノへの愛情が強まっていくバランスが危ういながらも変わっていく。

トムの恋愛も最初は仲間の妻という不倫から言葉も通じず苛立つばかりだった東洋人の女性へと変わっていくなど一つ一つが微妙な変化を見せるのが実に細やかに描かれていく。

ところでこの東洋人女性は私が思うには「北京から来た」とはいうもののベトナム女性なのだろう(中国人男性が「中国語、英語、ベトナム語を話す」と紹介しているが)紹介者が中国人男性だったので最初は中国語、少し話せると言う英語を使っているが、途中からは私にはまったく聞き取れないベトナム語を話しているようだ。顔立ちがベトナムというより中国的に見えるけど。
なぜベトナム女性からレッスンを受けるのか、というのは多分授業料が安くすむからなんだろう。
そのため露骨にトムとの言い争い場面がなくなるし、非常に真面目で控えめな彼女が言葉の通じないままベトナム語で涙ながらに言い返す場面はちょっと泣ける。トムもこれでは大人しくならざるをえないわけで巧い演出だと思う。

トムなりに懸命にレッスンし、オーディションを受けるが上手くいかない。2年後、映像的に「お」と思わせるがそれもちょっとした勘違い。これからも一体トムはどうなっていくのだろうか、と思わせながら画面は黒くなる。

あっけなく才能が開花するようなことのない渋い展開ではあるが、怪我をするだとか、オーディションが受けられなくなる、などという気に障る事件が起きないのは嬉しい進め方である。
親の仇を半殺しにしたトムだが、その後もなんとかやり過ごせそうな予感はある。いい最後だった。

ところで演奏家を観たい、という本来の目的はあまり満足されなかった。というのはトム役のロマン・デュリス、全体を通しては大変な熱演で素晴らしかったが、ことピアノを弾く、という部分に関しては完全に指先が物陰に隠れていたり、とそこだけを見ていた自分には「?!」な演技であった。
そりゃ元々ピアニストのジェイ・チョウばりのテクニックを期待してもしょうがないとはしても、もう少し頑張って欲しかったなあ。これを見たらば松山ケンイチくんのほうがはるかに名ピアニストであったよ。
先生であるミャオ・リンも演奏が凄い、ということではなかったようで。
そこだけは不満な作品であった。それだけを期待している自分のような鑑賞者でなければとても面白い映画だったのではないだろうか。

監督:ジャック・オディアール 出演:ロマン・デュリス エマニュエル・ドゥヴォス オーレ・アッティカ リン・ダン・ファン ニエル・アレストリュプ
2005年フランス
ラベル:音楽
posted by フェイユイ at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

チェン・カイコー、新作『梅蘭芳』で再び男性愛を描く

チェン・カイコー、新作『梅蘭芳』で再び男性愛を描く

男性愛ってなにかと思いました。男性同性愛ですね。そりゃあどうしても『覇王別姫』と似るところはあるでしょう。そこも含めて楽しみです。
ラベル:同性愛
posted by フェイユイ at 19:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月05日

『グッドナイト&グッドラック 』ジョージ・クルーニー

グッドナイト.jpg
GOOD NIGHT, AND GOOD LUCK.

90分台の短い尺ながらきりっと要点を描き、尚且つ当時の雰囲気を漂わせた作品である。
その短さの中で幾つもの見所があるのだ。

まず。少女期にアメリカの小説や映画を観ていてどうしても判らなかったものの一つがこの「赤狩り」
共産主義という思想をまだ理解していなかったせいもあるが、自分から見れば最強に強いとしか思えないアメリカ人がなぜこのように「アカ=共産主義」を怖れるのか。確か『あしながおじさん』でも主人公ジェルーシャがが思いを寄せる男性が「アカじゃないの?」って言われる台詞があったんじゃなかろうか。ヒロインは勿論憤慨するけど確かにまあ「あしながおじさん」というのは共産主義ぽいのかもしれない(違うか?)ジェルーシャという名前も考えたらロシア風のような気もするが(関係ないか)
すぐに脱線してしまったが何かというと悪い奴が反抗する主人公なんかに「お前はアカじゃないのか」と言って立場を悪くする、という手段が横行していたような記憶がある。たかだかその一言でなぜそのように主人公が追い詰められたり傷ついたりするのかさっぱりわからなかったが、この映画を観てみたらほんの少しなるほど、と思えるのであった。
自由な国であるアメリカにおいて「アカだ(共産主義者だ)」と言われることでその自由を失ってしまう。自由である、といっても共産主義になってもいいという自由はないのは当然で共産主義者と話をするだけでも思想を脅かされるのではないかという恐怖を持ってしまうのだ。
マローたち報道チームで「この中に共産主義に関係する者は?」と問いかけた時、仲間内でさえ張り詰めた緊張が漂ってしまう。誰かが密告するのではないか、いつの間にか自分が迫害されるのではないかという恐怖。
しかしそれでも判るのは出来事だけなので一体どうしてこのような恐怖が浸透していったかというのは別に調べなければいけないのだろう。

また『エンジェルス・イン・アメリカ』で知ったロイ・コーンの名前も登場する。

そしてマローが立ち向かうのはマッカーシーだけではなく自分が属するTV局自体と視聴者であること。
TVが普及し、人々の娯楽になるほど、求められるのは楽しいクイズ番組、なんていうのはちょうど今の日本の現状みたいでもあるがまあ世界中いつでも同じようなものなのだろう。
ゴールデンタイムに中東問題を論じ合うような時代を求める、TVに娯楽と逃避だけを求めるなら何もないのと同じ、とマロー氏は最後締めくくる。
自分自身はというともうここ何年も夜の時間はパソコンに向かいぱなしでTVを観たことがない。
TVで見る報道というのは視聴者が興味をそそる性的犯罪ニュースばかりのような気もするし。

社内結婚の夫婦のエピソードもやはりその時代問題になったことの一つなんだろうか。

若ければ若いほど理解しにくい作品なのかもしれないが、それでもこの映画のもう一つの魅力はモノクロである為にいっそう感じられる懐古的なかっこよさ。
エド・マローの片手に煙草での放送なんて、今絶対あり得ないと思うのだが(絶対禁煙)振り向いた時に煙がまだ残っているというこの雰囲気。
仕事中も誰もが咥え煙草でもうもうと煙がたち込めていることだろう。ユダヤ人はいるが殆どが白人で黄色人・黒人はスタッフには皆無である。黒人は仕事に疲れた白人が酒を飲む横で楽器を奏で歌を歌う役目。
白人にとって本当にかっこいい時代だったのだろう。
そういった目で見なければ、かっこいい男、かっこいい女だけが画面に配置されたほんとにかっこいい映画なのだった。
(ありゃ、最後皮肉っぽくなってしまった。この時代はそういう時代だったんだからしょうがない。映画も皮肉がたっぷり込められた作品なのだから、いいことにしよう)

最高に二枚目なジョージ・クルーニー。ここではエド・マローをひき立てるためにやや太めになって三枚目に納まっている。
それでもやっぱりいい男であるな。

監督:ジョージ・クルーニー 出演:デビッド・ストラザーン ジョージ・クルーニー ロバート・ダウニー・Jr パトリシア クラークソン ジェフ・ダニエルズ フランク・ランジェラ レイ・ワイズ
2005年アメリカ
ラベル:報道 歴史
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小雪がカムイ外伝のヒロイン役に挑戦

小雪がカムイ外伝のヒロイン役に挑戦


小雪さんが参加されるということでますます期待が高まります。
松山ケンイチくんとの絡みもどんなものになるのでしょうか。小雪さんは迫力ある美女なだけにその凄さ、わくわくしちゃいますね。
ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 11:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月04日

『黒い家』森田芳光

黒い家.jpg

大変面白く観終わった。原作は未読だが他の感想を読むと原作を読んだ場合は映画を観てかなり不満がこみ上げるようなので、未読者の方が楽しめる作品のようである。

とはいえ充分満足した、大好きな作品とは言いがたい。非常に工夫を凝らした観せるエンターテイメントであるとは思うのだが、何といっても主人公がめちゃくちゃイライラする。ホラー映画で悪い奴に向かって「早くこの男(主人公)を殺してしまってくれ!」と叫びたくなったのは初めてである。そういう意味では画期的な鑑賞であった。
だもんだから主人公が敵と戦い倒す場面もカタルシスを覚えるどころかむしろ「ちぇっ。生き残りやがんの!」としか感じなかったわけでこれは監督の意図した目的なのだろうか。もしそれが意図したものならどちらが悪になるのだ?
この映画で最も悪いのは大竹しのぶ演じる主婦・菰田だったのか、いじいじうじうじと主張のないままの生命保険会社員・若槻だったのか、自分自身の感情としては若槻のほうに嫌悪感を持ってしまったために残虐な主婦への恐怖心が薄れてしまったのは確かである。
一体あんなお人よしでプロ意識のない生命保険会社社員しかも主任などという存在があり得るものだろうか。
私としては田中美里がこの役立ったほうが面白かったような気がする。勿論もっとしっかりした性格として。

そういう今までにない主人公へのムカつきがあった上でも面白い作品だった。
ただし(あ、また苦情が)コメディになったことで非常に観やすいホラーになってはいるのだが、その分、菰田幸子の心の闇が行動だけの表現になって奥底の恐ろしい描写は省略されてしまっている。
ねちねちとした説明で心の奥底を描くのを好むか、過激な行動でその異常性を描写するのを好むか、それぞれだろうが私は心の奥を覗く様な作品を期待する。
そのため自分はこの作品の前半は主人公への苛立ちを感じながらも面白く観たのだが、後半のアクションになるとやや興味は薄れてしまった。特に菰田が主人公の部屋を荒す場面や一度いなくなった彼女が再び若槻を襲う場面などはもう興ざめである。

しつこいがそれでもよく頑張って作られた作品だとは思っている。ただ(また)『悪魔のいけにえ』のような行動だけで狂気を描写するという物凄さというものは感じられなかったが。
『黒い家』の韓国映画も作られ公開されている(のだと思うが)自分はDVD化されるのを待つしかないが非常に楽しみである。

監督:森田芳光 出演: 内野聖陽 大竹しのぶ 西村雅彦 田中美里 小林薫 町田康 鷲尾真知子 石橋蓮司 桂憲一
1999年日本

ここに書くのをためらわれたので文章を隠してみた。続きを読む
ラベル:犯罪 サイコ
posted by フェイユイ at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月03日

『ラヴェンダーの咲く庭で』チャールズ・ダンス

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LADIES IN LAVENDER

実はこの映画、昨晩観てすぐ記事を書こうとしたのだった。その時、自分のこの映画に対しての感想は「二人の女優は素晴らしいが、物語には疑問が残る」という否定的なものだったのである。
だがどうしても上手く書いていくことができない。疑問というのは、まるで嘘のような青年の登場の仕方、何の疑惑もなく世話を続ける老婦人達、偶然流れ着いた人物が信じられないほどの美貌の青年が天才的なバイオリニストであり、また偶然村にやって来ていたすこぶる付きの美女が有名バイオリニストの妹だったという事実。
一体彼らは何者なのか、どういう運命の仕組みで二人がこの辺鄙な村にたどり着いたのか、戦争と天才的音楽家がどう作品の中で構成されていくのか、二人の老婦人と美女に恋する老医師はどのような行動にでるのか、いつもの癖であっと驚くサスペンスを期待していたのだが、全ての謎は判らないままで何の行動も起こされなかったという物語にそれぞれの人物の意味はなんなのか、伏線というものがあったのではないのか、それらを全て無にしてしまうとは信じられないようなお粗末な話ではないのか、と思ってしまったことなのだ。

確かに自分は作品中に示される人物や出来事に何の意味があるのかをいちいち考えてしまう癖がある。
伏線が巧妙に張られている物語に感心してしまうし、思いもかけない展開に期待するところがある。
それらを全て裏切られてしまったのだ。
庭先の海岸に心奪われる美青年が流れ着くというのもその青年に恋するのはおかしい年頃の老女が心奪われてでもやっぱり駄目だった、という結末も不満があった。
それなのにそれを書きたてようとしてもどうしても自分で納得できなかたのだ。

この作品ではそういったあらすじだけを追う鑑賞ではいけなかったのだ。
老婦人の前に突如として海の中から表れる言葉の通じない外国の美青年に恋をする、という妖精物語なのだ。
音楽を愛する美しい妖精はあっという間に別の妖精(ここでは魔女のように言われていたが)に連れ去られてしまう。
それは現実的ではないが、もしかしたら自分にも起きるかもしれない夢物語である。
老女になるまで一度も恋した事のなかったアーシュラは初めて夢のような恋をしてしまう。ひと夏の夢。
決してかなうことのない恋に苦しむ姿に悲しさを感じてしまうが、それでも彼女は恋をする、という感情を初めて持てたのだろう。
愛した人の姿を見届けて「帰りましょう」という言葉にはもうしっかりした決意があった。

どうも自分は、起伏のあるストーリー、何らかの確実な結果だけを求めてしまっていたのではないか。
いや、アーシュラは得がたいほどの美しい恋を知ったのだ。そのことが羨ましい。

二人の老婦人を演じたジュディ・デンチとマギー・スミスの素晴らしさは最初から見惚れるばかりだった。
のどかな海岸の村で慎ましくはあるが穏やかな生活を送る老姉妹の様子はずっと観ていたい様な深い味わいがある。
結婚した事のある姉が妹のかなうわけのない恋心に気づき口にははっきり言わないがずっと見守っていくのに心打たれる。妹は思うようにならない恋に苛立ち、時に姉に当たったりもする。
その恋の様子は滑稽でもあり切なくいじらしい。一体自分はこういう老人にならないと誰が言えるだろう。

夢を表したかのような美青年にダニエル・ブリュール。その美貌はこの役にまさにぴったりである。あどけない寝顔にアーシュラが惹かれたとしても当然ではないか。
スペインとドイツの血が混じる彼はそのままそれぞれの魅力を併せ持つようだ。スペイン語、ドイツ語、英語は話せるという彼が英語をうまく話せない演技をしているのが可愛らしい。確かにthの発音は難しい。
地元の若者との顔立ちの差がはっきりしているのがなんともいえない。ご婦人というのは外国の美形に弱いと相場が決まっているものなのだ。
突如登場する名バイオリニストの妹。アーシュラが悲しくなってしまうような美女である。当然アンドレアも彼女に惹かれていたはずだ。だが、この作品中では二人のキスシーンすら出て来ない。これはアーシュラと鑑賞者のためのせめてもの心遣いではなかろうか。

監督:チャールズ・ダンス 出演:ジュディ・デンチ マギー・スミス ダニエル・ブリュール ナターシャ・マケルホーン ミリアム・マーゴリーズ
2004年イギリス




posted by フェイユイ at 20:36| Comment(6) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ジェイ・チョウ『カンフーダンク2』友達価格で出演

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ジェイ・チョウ『カンフーダンク2』友達価格で出演

やった!監督が変わる!誰になるのかな。わくわく。
これで2は凄いいい作品になるのでは!とまた期待してしまう懲りない私。
posted by フェイユイ at 00:34| Comment(4) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月01日

『告発』マーク・ロッコ

告発.jpg
MURDER IN THE FIRST

久し振りに萌え萌えの作品に当たって喜んでしまっている自分である。いや作品自体は非常に感動的な物語でとてもそんな感情を抱いてしまったというのは罰当たりなのだろうが、正直じゅるりな衝動を押さえきれないのだった。

脱走不可能といわれたアルカトラズ刑務所から脱走しようとして未遂に終わったヘンリー・ヤングと計らずして殺人を犯してしまった彼の弁護士となったジェームズとの出会いと交流を描いた物語である。
アル・カポネのような大物犯罪者の為の刑務所だったアルカトラズだが、当時そのような大物犯罪者は少なく、ヘンリー・ヤングはたった5ドルを盗んでそこへと送り込まれたのだった。
脱走未遂者となったヘンリーに対する扱いは想像を絶するものだ。日の差し込むことのない地下牢に全裸で放り込まれ、外へ出れるのは1年に30分だけ。また顔が変形するほどの度重なる殴打を受けた階段から突き落とされた。残忍な副所長の虐待は執拗で逃げないようにと剃刀でアキレス腱を切ってしまう。
惨たらしい虐待と暗闇の小さな独房での3年間はヘンリーを動物に変えてしまった。
やっとそこから出るのを許された日、「お前を密告して独房入りにさせたのはあいつだ」という声を聞いてヘンリーはその密告者をスプーンで刺し殺してしまった。
身の毛のよだつような冒頭でのヘンリーの虐待場面の連続はその箇所を特に大映しにしているわけでもないのに目を覆いたくなってしまう。
彼を弁護する役を与えられた若き弁護士でこれが初めての仕事となるジェームズがヘンリーに出会った時、彼は人間ではなかった。

若いが熱い正義感を持つジェームズが熟練の裁判官、検事を相手に丁々発止と裁判を進めていく姿は思わず引き込まれてしまう。
だが誰が考えても同情してしまうヘンリーへの弁護を聞くことがこの作品の見所ではない。
心を閉ざしてしまったヘンリーと彼を救いたいと願うジェームズの心の交流にいつしか共鳴していってしまうのだ。

同じ年頃なのに全く違う人生を歩み、全く違う立場にいるふたり。
ジェームズはヘンリーの事情を知っていくうちに絶対に助けたいと強く願う。だがヘンリーの答えは「裁判が終わればお前とあんたと別れることになる。死刑までの友達でいてくれればそれでいい」
ジェームズが外に出ても友達だと言っても信じないヘンリー。それは多分実際そうなってしまうことだろう。
事件の解決より一緒にいる間カードで遊びたいというヘンリーの言葉が寂しい。
彼がそれまで生きてきた間、多分一度も友達という者がいなかったのだ。狭い檻の中で寄り添いながら生い立ちの事を話し、ヘンリーが大好きな野球とディマジオの話をする。
一度も女を抱いた事はない、というヘンリーは恋人がいるジェームズの上着の匂いを嗅ぎ、そこに女性の香りを感じる。そしてジェームズの恋人とあった時、彼女からジェームズの匂いを嗅ぎ取るのだ。
途中弁護士の任務を解かれてしまったジェームズの代わりに来たのが彼の恋人だったのだが、ヘンリーは初めての女性との触れ合いに興奮しながらも次にジェームズが連れてきた売春婦と性的交渉を持つことができない。
それは酷く悲しいことでもあり、同性であるジェームズとの強いつながりを感じさせもする。

立場は違うが映画『カポーティ』を思い起こさせる。特にダニエル・クレイグが出演していた『Infamous』の方を。
孤独な犯罪者とその心に入っていく人間がいつしか深いところにまで結びついてしまうのである。
『カポーティ』 『Infamous』では小説家トルーマン・カポーティがそういう体験は初めてだったこともあるだろうし、ここでもプロフェッショナルであるはずの弁護士の初仕事だったことでそれ以降はあり得ないほど深い部分にまで入り込んでしまったのだろう、と考えさせられる。

ジェームズとヘンリーが面会人に会うようにガラス越しに電話で話す場面がある。
互いの顔が重なって映し出されているのが二人の心がそのまま重なっているように感じるのだ。
ジェームズの恋人だと知っていてわざと「あの女とやったよ」と嘘をついて反応を見るヘンリー「でもあの女、カードができなかった」と。

狭い檻の中で、優秀な頭脳と恵まれた環境にいるジェームズが何も持つもののないヘンリーからカード投げのコツを教えてもらっている。

ヘンリーにとって裁判に勝つことなど本当にどうでもいいことだったのだろう。彼が手にした勝利は初めての友達とともに何かをやり遂げたという人間の尊厳だったのだ。
残忍な副所長もそれを奪うことは出来なかった。

ただヘンリーがそこで死んでしまったことが悲しい。どうして彼は死んでしまったんだろう。過酷な日々が彼の肉体を極限まで追い詰めていたのだろうか。
それともまた何か恐ろしいことが起きたのだろうか。
映画はそこをはっきりとは語っていないが、やっと出来た友達ジェームズとの別れを前にもうこれでいいとヘンリーが思ってしまったのではないかとさえ考えてしまう。
その死の直前まできっと彼が幸せだったのだとしても。

ジェームズ役のクリスチャン・スレイター。先日観た『薔薇の名前』の初々しさはないがやはりハンサムな顔立ちである。
『薔薇の名前』ではショーン・コネリー師匠との萌えな関係だったが、ここでの友情もうずうずしてくる感じである。
しかし自分が好きなのはケビン・ベーコンで、彼の顔は『フットルース』を観た昔からもう大好きなのだ。やせっぽちのようで意外に逞しい体つきもステキである。さすがにこの作品では皆彼の姿に見入らずにはいられないだろう。大きな傷を負った顔、アキレス腱を切られて引きずる足。動物のように這いずり回り小さく丸くなって眠る姿。
友達が欲しいと言うことだけが彼の願いだった。裁判の証言台で涙が滴り落ちる場面は胸が苦しくなってしまう。
女を知らないという彼のためにジェームズが連れてくる売春婦役の女性がケビンの実生活での奥さんだったとは。夫婦でもこの迫真の演技ができるなんて、とそういうところで感心してしまった。普通逆に恥ずかしくなってしまいそうじゃないか。

実話、というキャプションがつくのがあまり好きでないのだが、この話は僅かな手がかりを元にして作られたものなのではないだろうか。

ゲイリー・オールドマンの悪役副所長はさすがに凄みがある。

監督:マーク・ロッコ 出演:ケビン・ベーコン ゲイリー・オールドマン クリスチャン・スレーター エンベス・デイビッツ ブラッド・ダリフ クリスチャン・スレイター
1994年アメリカ
ラベル:友情 裁判
posted by フェイユイ at 22:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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