映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2008年05月08日

『愛情物語』ジョージ・シドニー

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THE EDDY DUCHIN STORY

映画を観るまでエディ・デューチンというピアノ演奏家の名前を知らなかった。
冒頭部分があまりに明るくとんとん拍子に物事が上手く運ぶので昔の映画は気楽だなあ、などと思っていたらとんでもなかった。
親子、妻子、仕事仲間の愛情が溢れ、心の機微が細やかに描かれた素晴らしい作品である。
途中から涙がこみ上げっぱなしで困ってしまう映画でもあったし。
とにかくまずは鑑賞目的であるタイロン・パワー演じるエディのピアノ演奏に注目しよう。

今まで観て来たようなちょっと鍵盤を押さえるくらいならいいものの、肝腎の演奏になると途端に指先が何かに隠れてしまう、ということが一切ない映画なのである。
激しい指さばきのシーンも全て映し出されていてやはりこれはタイロン・パワーが演奏しているとしか思えない、と思ったのだが、これがやっぱり別の人の演奏であるというのは驚きだ。
見事に指さばきが曲とあっているわけで一体どれほどの努力があったのだろうか。確かにそう思って観ていれば指の動きより音符がいくらか多かったりはする。しかし自分などは言われなければ気づかないに違いない。いかにも楽しげ軽やかにピアノを弾く様子は本人が弾いてるとしか思えない。
後ろから映していてもピカピカのピアノに彼の顔と指先がくっきりと写っているのだ。
それにしても踊るような軽やかなこの演奏のこの楽しさはなんだろう。
またそのピアノ演奏も少しだけ、というのではなくその場面ごとに意味を持たせて次々と演奏されるのがうれしい。映画と音楽が一体になって相乗効果を生んでいく心地よさであった。

エディ自身も魅力的である。
最初はいかにも明るいアメリカ青年と言う感じで夢いっぱいでニューヨークへ乗り込んできたのだ。美女に仕事を推薦してもらったり市長を見ることで素直に大喜びしているのがなんとまあ単純で可愛いことやら。
あっという間に出世して美人と結婚してしまう気楽な映画かと思ったのだが。

胸を打つのは愛する妻を亡くし「メリークリスマス」と叫ぶシーンから。美しく賢明な妻が風の音が怖いと怯えるのが恐ろしい予感となっている。
子供の誕生が妻の死の原因だと感じてしまうエディは息子と長い間合う事が出来ずにいた。その年月が彼と息子の間に深い溝を作ってしまう。
楽団を持つほど出世した彼が太平洋戦争へ赴いたのは亡き妻への思いを断ち切る為だった。
彼はミンダナオ島で汚れたピアノを見つけ演奏する。近づいてきた現地の少年と共にピアノを弾き、その子からキスをされた時エディは今まで逃げていたことの重大さを知る。

再会した息子ピーターとの上手く行かない軋轢、ピーターを可愛がっていた若い女性チキータとの出会い。
時に苛立ちもするがエディの懸命に前進していく姿は感動的である。

こうやって思い出すとこんなに綺麗に生きていけるかしらとも思えるのだが、観ている間はエディの様々な苦しみに涙を抑えきれないことになる。
音楽が物語の中に演出としても上手く混じりこまれていて、お手本としか言いようのないほどのピアノ演奏を使った映画作品になっている。
息子ピーターがいつの間にか父親譲りの腕前を見せていくのだが、グランドピアノを合わせて親子で弾く最後の場面とそれに続くエディがいなくなってしまう場面には深い感動があった。
父と子でピアノを合奏し向こう側で美しい妻が食事の用意をしている、幸福を絵に描いたような彼らの心が悲しみにひたっているという事実。

単純明快でありまた悲劇でありながら深い愛情を感じさせる作品なのである。それをエディ自身が弾くピアノ曲によってさらに情感を深めていくのだ。
1950年代アメリカ映画の力強さを感じさせる。その上、風が怖いという繊細な感情がクリスマスツリーの飾りが揺れることやカーテンの揺れ、そして父との別れを知って並んだブランコを次々とピーター少年が揺らしていくという演出によって表現されていく。
映画の面白さ、感動を思い切り与えてくれる。

この頃の女性のファッションもステキなのだ。方の広く開いた逆三角の襟ぐりときゅっと締まったウェストにふわっと広がるスカート。女性の魅力を思い切り演出しているよね。キム・ノヴァクと後の奥さんどちらも凄い美女なのだ。

エディ・デューチンを演じたタイロン・パワーは美男で有名だが息子ピーター役の子が可愛いのだ。凄く人気のあった子役ということらしい。
彼が友達と3人でちょっとしたセッションをするところはキュートで見ごたえあり。見捨てられて反感を持っていた父親に少しずつ心を開いていく様子にはきゅんとなっちまいます。チキータのこと、本当に好きだったんじゃないかなーとも思えるのだが。

監督:ジョージ・シドニー 出演:タイロン・パワー キム・ノバク ヴィクトリア・ショウ ジェームズ・ウィットモア  演奏吹き替え:カーメン・キャバレロ
1955年アメリカ


posted by フェイユイ at 23:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『肉体の悪魔』レイモン・ラディゲ

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今までレイモン・ラディゲの小説も読んでなかったし、映画も観たことがない。
ちらりとあらすじを読んでもさほど読みたい気持ちが動かなかった。むしろラディゲ自身が16歳でジャン・コクトーにその才能を認められ、同性愛関係にあったという話の方にやや興味は向いたがそれでもそれほど心が動かされなかったわけで。

なのに何故急にここで『肉体の悪魔』でしかもカテゴリが『松山ケンイチ』なのかという話になる。

松ケンが自分そのものだと話している『人のセックスを笑うな』を悲しい事に自分はまだ観れないでいるのだが、その原作を読むことも今回はしたくないでいる。
ところで先日TVで原作者の山崎ナオコーラ氏がラディゲ『肉体の悪魔』を紹介されていて、年上の女性に恋する若者という物語に自分の作品も影響を受けている、というのを聞いていて、こちらを読んでみたい、と思ってしまったのだった。

15歳の少年が19歳の人妻と肉体関係を結ぶ、というあらすじは今ではそう驚く設定ではないだろうが、それでもやはりまだ精神的に幼い少年が精一杯背伸びして年上の女性との恋愛をしていく心情が細やかに描かれていて面白かった。
しかしもし自分が若い時期に読んでいたならそのうじうじとした心理描写、主人公の身勝手さに怒りまくったであろうと想像できる。
ラディゲも年上の女性と恋愛関係にあったというが、彼自身は10歳年上の女性でしかもラディゲの傲慢な関係であったようだ。
映画化するならこの小説ではなくラディゲの話をやってもらいたいものだが、誰からも共感を呼べそうにないのが面白そうである。
天才芸術家に愛された美しい天才少年が年上の女性を身勝手に振り回す、という話である。でもまあ、天才少年は牡蠣を食べて腸チフスで死ぬことになるので作品としても許されるかもしれない。

小説に戻れば、少年期というのは女性に対しても傲慢なものである。主人公は年上の女性を愛してるような行動をとっていてもその実は自分のことしか愛していない。
それは文章ではっきりと書かれているわけで、年上の恋人マルトがもっと年をとった姿はもう見たくないだとか、マルトが妊娠したらその原因は夫であって欲しいと願ったり、そうした彼女と歩くのを酷く惨めなことだと考えたりする。そして別の少女を好きになったりもする。
そういったまさに赤裸々な少年の思考は純粋な愛を願う青少年期に読めば耐え切れないものだろう。
しかしラディゲ本人は10代にそれを書いたわけで確かに早熟な天才としか言えない。とはいえ20歳で亡くなったのだから彼の人生の中ではもう老年期ということになるのかもしれないが。(無論そんな理屈はないが)

自分はやっと今の年齢で「年取った時、若い頃を思い出せばこういう考え方をするものだ」と思える程度である。
『肉体の悪魔』は非常に短い小説の中で10代の少年の恋を描ききっている。
100年近く昔の話でありながら、その心の描写は切られるような痛みを伴っている。

年上などと言ってもまだ19歳のマルトの心情は何も書かれてないに等しい。女の目で読めばそこまで単純にマルトが少年に従うだけなのだろうか、とも思えるのだが。
それはそうとしてもただ単純に恋愛に落ちていった若い男女の物語だからこそ人は惹かれてしまうのだろうけど。

想像だけだが受ける印象では『人のセックスを笑うな』とは随分違うような気がする。
(教えなくていいですよ!まだ後で観ますから!!)(笑)
こういう傲慢な愛の物語は今はあまり受けないのだろうか、とも思う。『罪の王』は傲慢だったがあれは傲慢に理由があるしね。理由のない傲慢な恋愛は、現実に多くても観たくないのだろう。
癒し系の恋愛は多いけど。
posted by フェイユイ at 13:16| Comment(4) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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