映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2008年06月13日

期待のイケメン集結!ドラマ版「テニスの王子様」ついに登場

チン・ジュンジェ.jpgテニプリ.jpg

期待のイケメン集結!ドラマ版「テニスの王子様」ついに登場―上海市

なんと言っても『王妃の紋章』でジェイの弟だった秦俊杰くんが主人公なので気になります。


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『隣人13号』井上靖雄

隣人13号.jpg
THE NEIGHBOR No.THIRTEEN

またとんでもないものを観てしまった。
むろんこれは表面上はイジメの仕返し劇という手垢のつきすぎたテーマのように思えるし、中村獅童氏の狂気が弾けとんだような壊れっぷりを観るのも楽しみなのだがその実訴えたいことは違うものなのだった。

ことの発端は関君だったりするのだが、この人のいい関君が何故13号に殺害されなければいけなかったのか。それは関君が「赤井を殺したい」と言ったからなんだね。
赤井に酷いいじめを受けた十三そして13号にとってこれは味方を得たかのように思えるのだが、このことで関君は彼らに殺されてしまうのだ。それは十三(13号)にとって目的は赤井を殺すことではないから。
小学生時代、赤井から手酷いイジメを受け続けていた十三が赤井を追い詰めていった目的は赤井と仲良くなることだったのだ。
この作品が単にイジメ復讐物語ならあの13号赤井攻撃シーンでさっさと殺すか彼に対する物凄い残虐行為を行って鬱憤をはらせばよかったのだ。だが、残虐行為は彼の息子に対してだけで、赤井を傷つける行為は殆ど行われない。そうしてここで赤井は「悪かった、ごめん」と謝ってしまう。13号の暴力がこれで止まってしまうのだ。
二人の時間が小学生の時に戻り、十三が赤井を反撃した場面となりそれから二人の仲がよくなったことが描かれる。
これはこのバイオレンスな映画を突然ハッピーエンドにまとめてしまったわけではなくこのこと自体が作品の目的だったのだ。

それにしても同性愛的なイメージを盛り込んだ作品なのである。冒頭から小栗旬の美しい裸体と中村獅童のS的な接触があるのでぎょっとさせられるのだがこれは本当は一人の人間の精神なのだからゲイっぽいと思うのは違うのである。とはいえ、映像的にはそうとしか観えないのだからしょうがない。それにしても小栗君の体は凄く綺麗で見惚れてしまう。
やたらと便所が登場するのもホモ的なイメージを湧かせてしまうし、13号が赤井に銃口をつきつけ唾を垂らすのは性的な比喩である。
小学生の赤井が十三の机に置く花瓶がおちんちんそのものでその口からグロリオサがまるで噴出するかのように咲いている。
十三が赤井を屈服させたのもこのおちんちんのような花瓶を使ってであって、床に倒された赤井の側におちんちん花瓶を握りしめて立っている十三の図はまるで彼を犯したあとのようにも見える。
周りには赤いグロリオサの花(血)と水(精液)がこぼれている。倒された赤井はむしろそのことを喜んでいるかのように見えるのだ。
赤井が十三や関君を苛めていたのももしかしたら同性愛的なものの裏返しだったのかもしれない。
工務店で関君が赤井に話しかけるのを見て他の男がからかう「赤井、モテるなあ、お前両刀か」
特に必要な台詞でもないようなのになぜこんな言葉を言わせるのか、それは赤井がそうだということを示しているのだ。
赤井は不良だが妻子を非常に愛していると描かれている。なのに息子を危険な状況に追いやってしまった妻に対し冷酷な態度を示している。
なぜ妻が見ず知らずの十三に大事な息子を預けてしまったのか、これはよくわからないのだがこのことによって十三は赤井への復讐を愛する者を殺害するという形で行うのだが妻に対しては「そういうことをしでかしてしまった」という罪悪感を与えるということで終わっている。無論これは母親にとっては最大の恐怖であり苦痛なのは確かだ。ただこの場面だけは吉村由美の演技がいまいち乏しくて(監督の意志なのかもしれないが)慟哭というようなものにはなっていない。むしろ通常の復讐劇なら赤井の妻に対し肉体的陵辱を与えることが多いのではないか。その猥褻場面が売りになったりするものだが本作では男性の女性との肉体的繋がりがまったく描かれていない(妻が赤井にフェラチオをしている場面がまったく映らないような遠目であるのみ)
復讐の対象となる赤井の子供が娘ではなく息子だというのも同性へのイジメを意識したものになっている。
そして大事な息子を失ってしまうことで赤井の妻への愛情も失われたように思える。


かくして十三は目的を遂げ、勝手に呼び出され勝手に精神の中の小さな部屋に13号は置き去りにされる。ここで十三が13号にキスしているように見える。

そういった隠された本筋を見なくて表面上のストーリーを追っていても面白い映画である。
中村獅童、小栗旬、新井浩文、吉村由美がそれぞれに素晴らしい。
普通はこういう二重人格者というのは一人の役者が二つの顔を演じ分けるのが売りだったりするものだが、ここでは小栗=善、獅童=悪という二人になっているのは二人の裸の絡みを見せたいからだろう。一人の役者が二つに別れて尻を叩いたり、触れ合ったりするのでは色っぽさがなくなってしまう。
13号はなんだか『ツイン・ピークス』のボブを思い起こさせる。この部屋も赤いし。

十三を苛め続ける赤井の大人版を新井浩文がまたも切れまくって演じている。
それにしても新井さんの映画を追い続けて何作品。主演に近づくほど同性愛的な要素が強いのはどういうわけだろう。そういうつもりで観て言ってるわけではないのだが。男性同士の強い絆という話が好きなんだろうなと思っているわけだが、ほぼすべてそういう話なのかなー。いや、心底嬉しいんですが。
ここではいつもにも増してド不良を演じきっている。すげえ上手い。何作か観てきて面白い作品がとても多くて見ごたえあるものばかり。
ますます惚れこんでしまう。
隣人13号の隣人は三池崇史監督だった。

監督:井上靖雄 出演:中村獅童 小栗旬 新井浩文 吉村由美(PUFFY) 石井智也
2004年日本
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2008年06月11日

『ジョゼと虎と魚たち』 犬童一心

ジョゼ.jpg

どういう映画なのかまったく知らずに観始めたのだが、今までに観たことがない映画のように思えてしまった。
何と言っても強がりばかり言い続けるジョゼがせつなく愛おしい。口も悪くて着ている服も(大阪らしいという気もするが)びっくりしてしまうような変てこさなのだ。

ジョゼは脚が動かなくてたった一人の身寄りであるおばあちゃんから「壊れ物」なんて言われている。障害者の孫と貧しいおばあちゃんがトタン壁の家に住んでいてそこにいかにも今風のハンサムな大学生恒夫がやってくるのだ。
ジョゼの作ったご飯があんまり美味しいんで恒夫はちょっと彼女に惹かれてしまう。他のガールフレンドとは全然違うジョゼを段々好きになってしまう。
ジョゼはいつも悪態をついてばかりなのに恒夫の指に自分の指が触れた時、何も言えなくなってしまうのだ。

脚本が抜群にうまくてそれぞれの男女の心の機微や変化が細かく描かれている。
これを観たら誰でもジョゼの可愛さと強さに惹かれてしまうし、恒夫の揺れ動く心にも共感してしまうだろう。
残念なことに自分はフランソワーズ・サガンを読んだことがないのだが(私の世代なら読んでなきゃいけない作家なんだけどね)あの重要な挿話がそのままこの物語を言い表している。
ジョゼが恒夫を嫌いになったとは思えないけど、彼女は最初から恒夫が去っていくことを予感している。
気弱な恒夫にはいらいらさせられっぱなしだけど、こうして人が出会い別れまた別の人と出会うのだと感じさせられる。

男女の恋愛物語というのをあまり観ないのだが(男同士、女同士ならOKなのだが)これはジョゼがほんとにもう可愛かったので夢中で観てしまった。「帰れと言われて帰る奴はさっさと帰れ」と罵った後に「うそや。おって。帰らんといて」ってジョゼが泣き出した時には我慢できなかった。
ジョゼは身障者ということでこの映画の中で描かれているのだが、彼女のような気持ちというのは女なら誰でも持っているものだろう。部屋の中に閉じこもり、突然出会えたすてきな男性につまらない意地をはりながらも恋してしまう。彼が別の綺麗な女性を好きだと知れば嫉妬する。次第に彼の恋心が冷めていくのを感じてしまう。
恒夫と別れてから電動車椅子で町を疾走するジョゼはかっこいい。

新井浩文は年上なのにジョゼの息子役、ということで登場。無論これはジョゼの変わった人間性の一つなんだけど。
モヒカン頭でいつも以上に口汚く罵りマクってておかしい。

実を言うと妻夫木聡が苦手でこれを観ていなくて今回新井浩文を見るためにとうとう観たというのが本音なのだが、観てよかった。
妻夫木はこれを観ても好きにはならなかったが^^;とてもこの役にぴったりで上手かったと思う。キスシーンはどうなのかなあと思ってしまったがこれは彼のせいなのか、演出のせいなのか。それに比べるとご飯を食べるのが凄く上手くてこっちまで食べたくなってしまった。ご飯と漬物とだし巻き卵と味噌汁が物凄くうまそうだった。
ジョゼ役の池脇千鶴は知らなかったせいもあってほんとにジョゼそのものの人なんじゃないかと思えるほど。
ラブストーリーのヒロインとは思えないどすの利いた声で話すのはびっくりはらはらでもあったが。脚が動かないから恒夫に初めて動物園の虎の檻に連れていってもらうのだが逆に「感謝せえよ」というのがおかしいのだ。

こういう映画でこういう風に感動した、というのも自分には珍しいことにも思えて、とても不思議な体験をさせてくれた作品だった。

原作が田辺聖子さんだというのも驚きでもあり、なるほどなあ、という感じでもあった。

監督:犬童一心 出演:妻夫木聡 池脇千鶴 上野樹里 新井浩文 新屋英子 江口徳子
2003年日本

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なんで三国志の孔明と周瑜がキューピーに?その名も孔ピー!周ピー!

孔ピー(写真左)と、周ピー.jpg

なんで三国志の孔明と周瑜がキューピーに?その名も孔ピー!周ピー!

キューピーが大好きなのでつい反応してしまいました(笑)やっぱりお髭のある孔ピーが特に欲しいですね。頭よさそうです。でも周ピーもやはり対でそろえたいものですねー。これで妖しい関係ごっこができます(笑)

モチロン映画も楽しみです!!!
posted by フェイユイ at 08:48| Comment(6) | TrackBack(1) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月10日

『ラブドガン』渡辺謙作

ラブドガン.jpgラブドガン2.jpg
LOVED GUN

キャストが最高にいいし、物語もそう悪くもないし、唐突に殺し屋と少女の出会いというのが面白そうと期待させるのに、なぜかそこまで乗り切れないという映画であった。

これもまた昨日観た作品とリエゾンしちゃうんだけどファンタジーなんだよね、男の。
まあどうしてこう男というのは殺し屋というのが好きなのか。しかし安易な殺し屋だよなー。
まそれはいいんだけど、殺し屋と可愛い少女(宮崎あおいちゃーん)という男の夢みたいなファンタジーで昨日のにしてもそうだけど夢を具現化することがファンタジーなのだね。
そうでない嫌〜なもう逃げ出したくなるようなファンタジーがあってもよさそうなもんだけどさ。そういうのはあんまりないね(滅多にいや全然)とにかくこうなったらいいなーという男のファンタジーなのである。女は現実を背負っているが。
男のファンタジーと言ったが、感じとしてはむしろ高河ゆんみたいなんである。やたら傷ついて血を流したり銃を振りかざしてみせる嘘っぽさかんかがね。
現実世界のようでまったく現実でないその世界だけの住人が嘘の言葉をぶつぶつ言ってるとこなんかがね。弾丸が撃った人の気持ちで変化する、憎しみは黒、悲しみは青とか、少女趣味。
(注・自分は高河ゆんが好きなんです)
それを認めて観ていくと出演者がいいだけになかなかいい味も感じられたりもする。
何と言ってもよいのは末期状態の老殺し屋丸山(岸辺一徳)と若い殺し屋志望の種田(新井浩文)が最初は激しく反発し合っていたのが次第に心を通わせていく過程なんだけど。
さすが高河ゆんを思わせるだけあって妙に全体のトーンがホモっぽいのだ。丸山と葉山田パパなんか変になにかあるんでないの、という雰囲気だし息子の且士とも意味ありげである。
最後の決着シーンなんかあまりにホモホモで普通なら喜ぶのだがあまりの恥ずかしさにぞわぞわしてしまったよ。丸山さんが撃った赤い弾丸ってこれこそがラブドガン。且士を愛する弾なんでしょ。いやらしいなあ。(親父を愛したくせに息子まで手をだすなんて、なんて殺し屋だ)観てるこっちの顔が真っ赤だよ。つまりピストルは男根だし、弾丸を発射して果ててしまったわけだしね。露骨に倒れてきた丸山さんを且士が抱きしめてるしさ。
しかもさ種田の新井さんまで加わって3人でいちゃいちゃして恥ずかしーよー。すべて意味ありげ、隠されたホモ映画なわけである。言葉が悪いなら男たちの愛の物語であった、と。男はみんな殺し屋だしね。
でも新井さんはやっぱりこういう男の濃い関係が好きなのだなーと思ってうれしくなってしまったのだった(アホ)

ラストシーンはなぜか急にウェスタン調になってこれもまた男のファンタジーだった。

変な映画であったが上に書いたようにとても楽しく観ることができた。
新井浩文さんはとても彼らしいポジションでばっちりステキだった。
久し振りに観た永瀬正敏さんもかっこよかった。



監督:渡辺謙作 出演:永瀬正敏 宮崎あおい 新井浩文 岸部一徳 野村宏伸
2004年日本
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2008年06月09日

『天国の本屋〜恋火』篠原哲雄

恋火4.jpg恋火2.jpg

主役キャストも含めて普通なら絶対観ない映画である。ファンタジーという言い訳であまりにもご都合主義すぎる設定に身の毛がよだつ思いだったが、観ていく内に必死で自分自身を説得しそれなりに観通すことはできた。
竹内結子さんはTV芸能ニュース以外で初めて観た。今まで綺麗と思ったことがなかったのだが^^;ドラマで観てるとなるほど人気があるだけはあると納得できた。
玉山鉄二さんはざわっとするほどの美形で(とはいえ苦手なフェイスなのだ^^;)むしろ時代劇が似合いそうな顔立ちだと思うのだが。『なんたら無頼控』なんていうタイトルで女にもてもての酒豪の剣豪なんて感じだがどうもそういうのはやってないようだね。そういうのだったら観たい気もする。
というのは無論私は本屋の店員サトシ役の新井浩文が目的だったのだ。この作品自体は私にとってはなかなか苦行ではあったけど新井浩文的には大収穫というか、大喜びであった。
なんといってもここでの彼は今まで私が観たいつも目つきの悪い悪たれの彼ではなく、笑顔も可愛い優しいいい人をやっていてこれが結構いい感じなのだった。

ところでこの映画、昨日観た映画と雰囲気は真逆だが設定、というかとっかかりは似たようなものであるのがおかしい。
(自分の才能に疑問を感じ)居場所のなくなった青年が生きながらにして天国へ行くという話なのである。
相方となる女性が竹内結子と寺島しのぶが物凄い反対のベクトルではあるし、青年も思いつめた昨日の生島くんと今日の町田くんの「どーでもいい」感じも正反対である。
加えてどちらでも「店員」役の新井浩文が昨日の鋭い目つきと今日の可愛らしさのギャップが凄くて笑ってしまう。いきなりやってくる青年に対する態度の豹変といったら。昨日は臓物どさりで、今日は「やあ、短気アルバイト。ピアニストなんだって?女にもてそうだなあ」って。声もさわやかなのね。名前は「サイ」と「サトシ」ってなんか似てるようなどうでもいいか。

この「天国」というところ、みょうちきりんな設定をされているものである。何となくわざとらしく幸せそうに演じる人々の姿が逆に怖ろしく感じてしまったのは、本当は怖ろしい国なのに精一杯幸せそうに演じてみせるとある国を彷彿とさせてしまうからだろうか。
一体誰がどのように行政や生産を行っているのか、と余計なことを考えてしまう。死んでしまえば魂だけなのだから食べ物が必要というのもわからんし、食べるなら排泄もするだろうがその処理はどう行われているのか、犯罪ということはないのか、などと埒もないことを考え続けてもしょうがないのだが。
思うにこれはそれぞれの魂が生前に覚えているものをある意味幻影として映像化しているに過ぎなくて無論食べ物を食べているようで食べていないのであろう。美味しいと感じるのも幻覚にすぎない。

深く考えずに観なければいけない(という考え方も怖ろしいが)

しかしなぜ本屋がいきなり出てくるのか。それになんだか図書館のように思えるが。
様々な疑問を残しつつ、考えずに観なければいけないという考え方自体が恐怖であることに気づかせられた作品だった。

ところで何かと名優と評される香川照之氏だが自分はあまりいいと思えないことが多いようだ(『鬼が来た!』は面白かったが)特にこの作品での彼は妙に力が入っているせいもあってぴんと来なかった。
こんな恐ろしい暴力的な感じじゃなくもっとぼーっと無気力になっている人のほうがよかったのでは。その辺は監督の指示もあるだろうから彼のせいばかりでもないか。でもまあいいとは思えなかったなー。

監督:篠原哲雄 出演:竹内結子 玉山鉄二 香里奈 新井浩文 香川照之 原田芳雄 大倉孝二
2004年日本
ラベル:新井浩文
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『赤目四十八瀧心中未遂』荒戸源次郎

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舞台やら物語やら設定やらすべてが物凄い好きな世界なので心から楽しんで観てしまった。主人公生島がなにやら時代がかった昭和初期かそれ以前の書生みたいな話し方・考え方なのも非常に嬉しい。本音を言えば今の若者の話し方はどうも入り込むのに大変なのだ。

生島が最初はっきりとした説明はないが人生に絶望し「尼崎」という町に流れ着く。そこは彼が今までに味わったことのないような凄まじい生活を強いられる場所だった。
汚いアパートの一室で来る日も来る日もモツに串を刺し続けるという仕事を与えられた生島の部屋を色々な人々が訪れる。血を含んだ生々しい臓物と彼を取り囲む人々が重なって感じられる。耐えられないほど痛む刺青の彫り物師から背中に迦陵頻伽を彫られた朝鮮系の女性・綾の妖しい美しさ。生島は地獄のようなこの世界に顔は人間で体は鳥だという迦陵頻伽を背負った彼女に惹きつけられてしまう。
映画の中で蝶が飛んでいるのはこの迦陵頻伽と対になっているからだろう。
生島は居場所がないとこの町に来ていつも怯えているのだが絶えず他人から何かを頼まれ続け嫌ということが出来ずにいる。物語はほぼ人からの他の見事を引き受けることだけで進行していっているような感じである。
綾から「この世の外へ連れ出して欲しい」と頼まれた生島は彼女が約束の場所に来ないことを願うが彼女は到着し待っていた生島に喜ぶ。
二人は赤目四十八瀧を彷徨う。そこはまるで極楽のように美しい場所だった。
マイナスイオンがたっぷりでひんやりとした空気と苔が感じられるようだった。そこで生島は死を恐れ、綾はそんな彼の気持ちを知ったのか知らないままだったのか(きっと感じていたのだと思う)すべてをあきらめることを決意する。
最後に抱き合う二人。生島の履いていた下駄が滝つぼに落ちていき、そこには綾が浮かんでいる。
ここで綾は死んでしまったのだ。(でもそうでないことを願いたい)
水面に浮かぶ女性というと気のふれたオフィーリアであり、彼女が恋人ハムレットから「尼寺へ行け」(売春宿へ行け、の意味である)と言われたことと重ねて観てしまう。生島が強引に綾と逃げることもできたろう。生島のあやふやな態度はそのまま綾に「売春宿へ行け」と示しており綾はそれを感じ取ったに違いない。だが綾は生島の苦悩も愛情も感じていたのでそうとは言わなかったのだ。
帰りの電車の中で綾は突然ここで降りると立ち上がる。情けない生島は下駄を履き損ねて綾と離れてしまう。この大事な時に下駄を履こうとした馬鹿な男だよ。裸足で駆け出せばよかったのだ。
彼女を失った生島はコインロッカーに残されているはずの彼女の下着を取り戻しに行く。だがそこにそれはなくあったのは彼が部屋に置いて来た辞書だった。生島はまだ彼女を愛する資格がない。もっと勉強しろ、ということだな。
居場所がない、生きる価値がない、とおたおたとする生島はぶざまであるが、それは無論自分自身の姿なのだ。
生まれも育ちも決して恵まれていたわけではないがさっそうと生きる綾は迦陵頻伽そのままなのだ。

内容は全く違うのだが上村一夫『昭和一代女』を思い出した。きりっとした強い女とおたおたした男の話なのだ。

寺島しのぶの主演映画は初めてだった。変な顔とも見えるし他にないほどの美しさにも思えるし不思議な女性だ。忘れられない魅力を持っている。
主役・生島の大西滝次郎。聞いたことも見たこともなかった。自信もなく希望もなくだが妙に自意識は高い。あやふやで情けない男をこれも魅力的に演じている。
目的である新井浩文。突然ドアを開けて臓物をどさりと置いていく男役。ただし雇い主にはへこへこする奴。刺青をされて呻いている男を笑った為に頭を彫られて叫び声をあげる場面がちょっとステキだった(なんのこっちゃ)作業服が似合う。
後はもう内田裕也氏のわけのわからなさがここではすごくよかったな。
綾のお兄さんが『ゲルマニウムの夜』のあの人だった。ぎゃ。

監督:荒戸源次郎 出演:寺島しのぶ 大西滝次郎 大楠道代 内田裕也 新井浩文 大楽源太 大森南朋
2003年日本

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2008年06月07日

『4分間のピアニスト』クリス・クラウス

4分間のピアニスト.jpg
FOUR MINUTES

物凄い苛立ちを抑え切れなくなってしまう、そんな映画だった。素晴らしいピアノの才能を持ちながらそれを生かしきれないまま僅かな不満も暴力に訴えてしまう少女。少女の才能を見抜き、育てようとする老教師は案外年齢の割りに間が抜けていて少女を守りきれない。
当然とはいえ、殺人犯(冤罪という設定になっているが)の少女を目の仇にする看守たちと少女を苛め抜く囚人たち。
他の映画のように少しずつ心が通い合う、などという和やかな展開はまったくなく最後までいがみ合う彼らの姿に癒しなどというものは微塵も期待できない。
とことんまで傷つけあい、弄りあう苦しい映画だった。
これはこの映画に対して悪態をついているのではない。
ここまで決して互いを許さない、苦痛に満ちた作品にある意味、驚いてしまったのだ。他の甘い映画にはないぎりぎりまで追い詰めていく恐ろしさに緊張し続けるしかなかったのだ。
苦しみを味わった少女の傷は簡単に癒えるものではなかった。養父から受けた「レイプ」という暴力を少女がどうしても許せないからと言って何が言えるだろう。どちらにしても辛い道を歩み続けるのは彼女自身なのだ。許しを乞う様に少女に話しかける養父に「死ね」とだけ答える少女。私はむしろその言葉に賛同してしまう。
そして少女を救おうとした老教師もまた少女を縛り付けてしまう考えを押し付けていた。少女が求める自由な音楽ではなく自分の思うクラシックを弾かせたがったのだった。
少女は成長したのだろう。老教師のいいなりに練習し、最後の最後で自分の思うがままの演奏をする。それは彼女が今まで押さえつけられてきた思いのすべてを吐き出すものだった。
少女はここでやっと「絶対誰にもしない」と言ったお辞儀を老教師に向かってする。少女は心から老教師であるクリューガーに礼ができるほど大人になったと物語っている。

他人と交わりきれないほど心が荒んだ少年少女と教師の話は山ほどある。物語の中では決まって彼らは優れた教師との触れ合いで「いい子」になっていく。そんな簡単に上手くいくのだろうか、という気持ちになりそういった物語にいつも反感を持っていた。
この映画のジェニーは本当に手のつけられない荒れ方である。彼女は結局看守や父親とは(この作品中では)許容しあえなかった。
老教師クリューガーはさほど教育がうまいわけでも気配りができるわけでもないようだ。彼女がもう少しうまく舵を取れたら、という場面がいくつもある。特にジェニーから殺されかけた看守に対しては配慮がなさ過ぎる(ジェニーをあんな風に助けるなんてあの暴力を思えば本当にいい人なんだと思う。彼自身もクリューガーさんに愛されたかったのだよ)
だがそういった「うまくいかない物語」だからこそクリューガーとジェニーの戦いにも似た物語に共感できたのだろう。
それは観るのが辛いほど互いに傷つけあう怖ろしいほどの対立であった。
物語の進行もすんなり進むのではなく、昔を思い出したり、場面や時間があちこち飛ぶような落ち着かなさが却って不安感を増しているのだ。
クリューガーが同性愛者でかつて愛していた女性を戦争時の処刑という逃れられない痛ましさで失っている。生き続けた彼女が失った恋人を救えなかった苦しみのために生きる道のないジェニーを救おうとしているのは確かだろう。
クラシックらしいクラシックにこだわっていたクリューガーもジェニーの自由な演奏を聞いてそこに彼女の魂が救われたことを感じたのに違いない。
最後の二人の微笑みは二人にしかわからない音楽を通じたものであったはずだ。

この映画を観ていて真っ先に『あしたのジョー』を思い出したのだが。
刑務所の中のどうしようもない暴れ者と彼(彼女)の持つ才能を見つけた老人(といったら段平さんに悪いか)なもんでずーっと『あしたのジョー』と思いながら観てた。
最後に真っ白な灰になることもできたが(といっても彼女が本当に灰になるのはもっとずっとさきだろう、と願いたい)彼女の方は生きている。養父が頑張って彼女の冤罪をはらすよう頑張って欲しいものだ。

監督:クリス・クラウス 出演:モニカ・ブライブトロイ ハンナー・ヘルツシュプルング スヴェン・ピッピッヒ リッキー・ミューラー ヤスミン・タバタバイ
2006年ドイツ
ラベル:音楽
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2008年06月06日

『神童』スペシャルディスク

神童 特典.jpg

随分遅くなりましたが『神童』スペシャルディスクを観てみました。
メイキングを観ていると、好きになった映画のメイキングではいつも思うことなのですが、作り手側の作品に対する情熱を感じてそれだけで打たれてしまいます。多分クラシックという分野にそれほど入り込んでいなかったはずの人々がそこから受ける感動を映像として完成させていくく様子がまた感動的です。

うた役の成海璃子は松山ケンイチとまったく違い感覚的に演技をしているのがその役のままのように感じられて面白かったですね。
松山ケンイチはいつもどおりの熱心な打ち込みぶりでピアニストの清塚信也さんに全幅の信頼を寄せているのが伝わってきます。これを機に彼らが仲良くなったのも頷けますね。
まったくピアノを弾けなかったはずの松ケンが音にあわせて指を滑らかに動かしていく場面は感動的ですらあります。
清塚さんが松ケンさんのことを心から褒めているのが嬉しく思いました。
映画の場面ごとの説明があるのですが、思い出してしまいます。うたがワオの指を暖めてあげるシーンやうたのコンサートの音を聞いてワオがうたの心を感じるシーン、そして最後の二人で寄り添ってピアノを弾くシーンは特に音楽のように響く場面でした。
原作と比べるとその違いに反感を持つこともあると思うのですが、確かに原作は全く違う凄さ、があります。ただこの映画は二人の音楽を愛する人間が共鳴しあう部分に焦点を絞って物語られているのでそこに感動できればいいと思うのですが。

舞台挨拶もなかなか面白くてケンイチくんは監督と初めて会うとき凄くダサいチェック柄のシャツを着て行ったというのですがこれは浪人生らしい格好を演出しての考えだったらしいのですがあまりのダサさに監督がドン引きしていた、というのがおかしかったです。
ここでも自由に演じた鳴海さんと悩みに悩んで演技する松山さんとの違いが語られていました。
でも鳴海さんはいつもピアノの練習を欠かさなかったのに松山くんはぼーっとそれを見ていただけらしかったのもおかしかったですね。多分裏で練習するタイプですね彼は。
舞台挨拶の時は急にかっこよくなってしまうのも松ケンの特徴です。

最後に監督と清塚さんのトークショーで松山くんについて話すところでも清塚さんと松山くんが一体になってワオという青年と彼の音楽を作り上げていった、というのがすてきでした。
清塚さんの腕の動かし方を松山くんがじーっと見つめてそのとおりに動かしてみせていくので最後にはまるで清塚さん自身が弾いているかのように見える、というのが凄いです。
それにしてもやっぱり松ケンさんは清塚さんに初めて会った時はすごい無愛想だったらしくてこんなんで大丈夫かなと彼が思ったそうなんですが次第に心を開いていったというのがいつものケンイチくんらしい内気さでおかしかったです。

これを観てるとホントに色んな人が思いを込めて音楽映画を作り上げていったことが感じられてもう一度観たくなってきました。


posted by フェイユイ at 22:14| Comment(0) | TrackBack(1) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『デトロイト・メタル・シティ』ついにアニメ化!声優に松山ケンイチはじめ長澤まさみも参加!

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『デトロイト・メタル・シティ』ついにアニメ化!声優に松山ケンイチはじめ長澤まさみも参加!

ということでまたまた楽しみが増えました。
しかも「なんと驚いたことにこのアニメ、DVDとして発売される前に6月6日よりAmazonのDVDストアで、1話分をネットで見られるらしい」とのことです。
早速、観ねば、ですね。
posted by フェイユイ at 20:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『松ヶ根乱射事件』山下敦弘

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話自体も凄く面白かったのだが、何より新井浩文さんが素敵でずっと目をハートマークにして観ていたのだった。
『青い春』『ゲルマニウムの夜』と観て(『ゆれる』にもでてた)物凄くツボな浩文さんなのだがやっぱり好きだと再確認。もっと早くによく観てればよかったと反省する。

昨日こちらも再確認した山下敦弘の面白さ、後になるほど面白くなくなるのでは、などという心配は微塵もなかった。且つ新井浩文が弟になる双子兄弟萌えも加勢してちょっとした興奮の内に観終わった。
いかにも田舎にありそうな気持ち悪さが充満している作品である。都会に馴染めず帰郷してやる気のない双子の兄や一体どういう関係になってるんだと考えねばならないだらしのない父親は働きもしなくせに他人にはいかにももっともらしい口をきいてみせる。こういう親父、リアルすぎる。美男な三浦友和氏が演じているのが本当に本当っぽい。
そういう情けない男達を女が支えて生きている、というのも田舎らしい関係ではないか。
知的障害を持つ娘を使って小遣い程度の売春をさせる母親。そしてその娘の元に通ってくる男達の姿もなんとも気持ち悪いのだが。
その気持ち悪い日常に突如現れる凶悪な男女。だがこの男女もいつしかこの世界の日常の住民になってしまうのだ。
異常と思えた人物達が相変わらずの異常さを保ちつつ生活していく中でまじめで正常に思えた光太郎はおかしくなってしまう。
「もう大丈夫ですから」と言う光太郎は本当に大丈夫なのだろうか。

以前『ゆれる』を観て大いに疑問を抱き内容の変更まで書いた自分だが、この作品を観てその答えが見つかったように思えた。
偶然にも設定が不思議にカブってるように思える。だが語り口も答えも全く違っており、あの時持った不満を解消させてもらった。

それにしても、主人公の二人がまったく似ていない双子というのも意味ありげだ。二卵性ならこのくらいの違いはそう驚くほどもないがここではその違いが面白いのだ(ほんとならこの違いの意味は、とか書くのだが『リアリズムの宿』のように「別にそんな意味はないよ」と言われそうで書けない)

繰り返してしまうが、新井浩文さんの魅力というのもちょっと他にない。美男子というのではないのだが、なにやら変な色っぽさがあるのだなあ。
兄役の山中崇さんも可愛らしかった。
ベッドでか弱い双子の兄をねじ伏せてしまう弟の場面はいかがわしくてたまらない秀逸な場面だった。

監督:山下敦弘 出演:新井浩文 山中崇 川越美和 三浦友和 木村祐一
2006年日本


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2008年06月04日

『リアリズムの宿』山下敦弘

リアリズムの宿2.jpg

この原作がつげ義春だとは知らずに観てて(いつもの台詞だなあ)途中でそれだと感じた、などということはなく、後で知って「あー、そうかーなるほどー」とやっと思い知ったわけである。
つげ義春のこの作品は読んでなかったのでそんな次第だったのだが、確かにこの間の取り方や笑い方などはつげ義春の持ち味を感じさせる。

映画を観て笑う、というのは実際そうないものだがこの作品はほんとに何度も笑ってしまったのだった。
このブログに『放浪記』とつけるほどで放浪映画が好きな自分なのだが、この映画も放浪をする。ただし酷くみみっちい放浪で多分移動した距離はそう大したものではないはずだ。
それでもなおどうなるのかわからない、どこへたどり着くのか見当もつかない放浪なのである。

いちいち「そうだよなあ。そういう感じわかるなあ」などと感心してしまうのだが、ほんの顔見知り程度で見知らぬ田舎の宿を転々としていく二人の若者のどうにも情けない内容の話しぶりがおかしい。
旅の中味はまったく羨ましくないものなのだが、こういう何の意味もない時間を持つ、なんていうのをもう何十年もやってない自分には彼らの無為な旅が羨ましいのである。無駄にさえ思えるその会話も。

気詰まりな二人の関係がひとりの少女の唐突な出現によって途端に生き生きとした意味を含んだ道中に変わってしまう。
そしてまた少女の唐突な退場によって二人の間は落ち込んでいく。
上手くいかない苛立ちと諍いのうちに宿泊することになったのが普通の民家なのだが、恐怖に陥ることになってしまう。といってもとんでもないことではなく、いかにもありそうでそれでいて実際にそう状況になったらまさに恐怖である、というものなのだ。

『ユメ十夜』『リンダリンダリンダ』と観てきたが、これが一番面白かった。前の方ほど面白いのがちょっと気にはなるが^^;
明日は『松ヶ根乱射事件』を観る予定なのでそこで何か感じられそうで楽しみである。

監督:山下敦弘 出演:長塚圭史 山本浩司 尾野真千子 尾野真千子 多賀勝一 サニー・フランシス 山本剛史
2004年日本
ラベル:放浪
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『太陽』アレクサンドル・ソクーロフ

太陽.jpg
The Sun

いろんな意味で話題となった映画で観たいと思いつつもいざとなるとどうなのかなと変に尻込みしてしまっていたのだが、これは面白かったなあ。
こういう雰囲気の映画だとは思いそうでまったく思っていなかったのだった。

なんだかヨーロッパのちょっと幻想的ファンタジーかSF映画でも観てるかのような不思議な色彩と音の作品なのである。
日本人であるためにファンタジーとは思えずに「事実と違うのではないか。似てるのか似てないのか」などとつい現実として観てしまうのは仕方ないのだが、これが異国の物語としての鑑賞ならなんとも風変わりで愛嬌のある小柄なおじさんが「エンペラー」であることに微笑ましく思い、戦争に負けて己の生命がどうなるかという瀬戸際に蟹の研究をしていたり、映画俳優の写真を眺めたりしてる様子を面白がったり、怖ろしいはずの戦勝国の将軍相手との対談が中断した折にダンスをしたり蝋燭を消して遊んでいたり、とまるで子供のような姿に見入ってしまうことだろう。
いや日本人である自分だが結局天皇が敗戦のあの時にどのようなことを考え、どう過ごされていたのかは知る由もなく。ただ外国人であるソクーロフ氏が感じた天皇と日本というものはこういうものかと受け取り、彼のヒロヒト天皇への愛情を見てしまう。
 
それにしても中国においての神もしくは龍の子孫であった清の末代皇帝・溥儀が激烈な教育の下で普通の人になった経緯と比べると日本の天皇の人間宣言の緩やかなことか。但し、最後にその為に青年が自決したことを聞き、またもや天皇は苦悩する。だがその苦悩を振り払うようにヒロヒトは皇后に手を引かれて子供達に会いに急ぐのだ。

もっと強い反感を持つのか、途方にくれる思いにさせられるか、と思っていたのだが非常に楽しく観ることができた。
ヨーロッパ・ロシアの人が撮るとやはりそういう雰囲気になるのが面白い。影のある重い色彩がロシア・ヨーロッパらしい暗さであるのが興味深かった。日本人ならもっと白っぽいぺたんとした絵柄になると思うのだが、あの薄暗い廊下や部屋のライティングも影がきつくて重厚なのである。
ヒロヒト天皇と皇后がとても深く愛し合っておられるように描かれているのが微笑ましい。皇后が「あなたは普通の人かしら」神でしょう、と言いながらもまるで子供を抱くように抱かれるのが他の誰も見ていない場面だけに本当らしくて可愛らしかった。
神と呼ばれた人間が人間に戻るまでのひと時を童話のように描いた作品だった。

監督:アレクサンドル・ソクーロフ 出演:イッセー尾形 ロバート・ドーソン 佐野史郎 桃井かおり つじしんめい 田村泰次郎
2005年 / ロシア/イタリア/フランス/スイス
ラベル:戦争 歴史
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2008年06月02日

『陽暉楼』五社英雄

『陽暉楼』.jpg

ストーリー自体はよくある話という感じだが、演じる役者陣の魅力で観てしまった、という感じ。
緒方拳はそこにいるだけで何かの物語を感じてしまいそうな雰囲気があって物凄い。
緒方演じる勝造には、死んでしまった妻とそっくりの娘とどこからか引き取って養ってきたらしい娘と陽暉楼の女将、説明があるわけでもないが、それら女達それぞれと言葉にし難いようなわけありの関係が感じられる。
浅野温子演じる珠子は彼を「お父ちゃん」と呼び、しかも愛人のようでいて彼に芸者か遊郭で働きたいとねだるという傍目に奇妙な関係である。
桃若の死に怒った珠子をなだめようと勝造は「仇をうつなら俺だ」と言う。勝造は時々にしかその姿を表さないのだが、確かに女たちの運命を握っていた男なのである。
そういう勝造という男を緒方拳が演じているとたまらない魅力の男に思えてしまうから不思議である。
今村昌平監督の『女衒』での彼もよかったが、高知の女衒ぶりもかっこいいのだった。

桃若の池上季美子の悲しい運命を背負った美貌としぶとく生きていく珠子の浅野温子の若々しさに目を見張る。
やはり昔の映画を観ていると役者たちの若さにいちいち驚いてしまうのだ。亡くなってしまった人を観るのも判ってはいるがちょっとした衝撃を覚えてしまう。
そういえば昨日まで観ていた『椿三十郎』で気弱な敵の侍を演じていた風間杜夫がここでは心優しい珠子の夫役で登場。彼女を庇って死んでしまう男らしい男を演じている。

男と運命に翻弄されるとはいえ、ここでの主人公は女たち。
桃若と珠子は一人の男を巡ってつかみ合いの喧嘩をやらかすが、その後さっぱりとして姉妹のようになっていく。男たちの映画の中でよくある話がそのまま女版として表現されているというわけだ。

監督:五社英雄 出演:池上季実子 緒形拳 浅野温子 倍賞美津子 北村和夫 風間杜夫 二宮さよ子 熊谷真実
1983年日本

ラベル:女性
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2008年06月01日

『椿三十郎』妄想編

三十郎a.jpg

再観してみた。一度目は織田裕二氏の破天荒な話しっぷりに驚いたのと織田三十郎と豊川室戸が想像外にいけない関係だったのに度肝を抜かれて目的の松山ケンイチ氏にあまり目が行かなかったのであるが、今回は織田三十郎にも慣れたのでゆっくりケンイチ氏を見ることができた。

こうして落ち着いて観直すとケンイチ氏が若侍・井坂伊織を懸命に演じているのが見えてきた。
加山雄三のそれより現代的というのかやや気弱でどうやら恋仲であるらしい千鳥にもあまり厳しい言い方ができないでいるのが可愛らしい。若侍たちが大声で言い争いになった時、様子を見に来た千鳥に対し、加山伊織は侍らしく怒鳴りつけるのだが、松山伊織はそれが出来ずに情けなくなだめている。ここのシーンはむしろ森田版のほうが微笑ましくて好きだった。松ケンの演技が一番よく見えた場面でもある。
慌てふためく様子や話し方はとても侍のようではないが多分そこらへんは演出なのだからしょうがないのだろう。

黒澤版では全体的な話や演出がおかしさを持っていたのだが、森田版では個々がコメディを演じているようだ。ただそれがあまり功を奏してないのが残念なのだが。

ところでここからは比較ではなく同じ脚本なので両方に言えることなのだが、本当に面白い物語である。
大勢の家来達が出てくる以外はさほど大掛かりな仕掛けがあるわけでもないのだが、物語の運びだけで観る者を惹きつけていく。
悪いことをしているのではないが何かクライムサスペンスのような味わいを持っている。
三十郎という男は確かに腕がたつのだが、それ以上に悪賢さが面白くてたまらないのだ。
しかもその悪賢さを悪のほうではなく、いい人を助けるために役立てているのだから文句のつけようがない。
ミステリーの面白さも含まれているわけで、尋ね人がどこにいるのかを三十郎が名探偵の如く推理し、ずばりずばりと当てていく様が小気味よい。大概探偵ものには引き立て役の間抜けな助手的存在がつきものだがここではそれが9人の若侍というのがまたおかしい。
こいつらが言う事を聞かず足手まといなだけでなく、ここは言う事を聞いてはいけないという時だけ素直に言いつけを守るので観てるほうは歯噛みするしかないわけだ。その危機すら三十郎のとんちで切り抜けてしまうのだからやんやの喝采となるのである。
 
ここでまた森田版にいちゃもんだが、髭面の三船三十郎に対して、織田三十郎は非常に若く見えすぎる。
知らない人、外国人が見たら20歳前後であろう若侍と40歳に近いという三十郎の区別があまりつかないのではないか。別にそれは物語の面白さを失うものではないだろうが、年上の男と若い男達の違いというものも話の重要なポイントの一つだと思うのだが。
かつての三船ファンはあの髭の男前に年上の兄貴への憧れを持ったものだろうが織田三十郎にはあまりそういう兄貴的憧れを持つ男性は少ないのではなかろうか。
身なりも風貌も綺麗すぎるがこれも現代だから仕方ないことなのか。
垢なんてついてなさそうだもんね。あのむんむんとした男臭さを現代男性に求めるのは無理なのかもしれない。

とはいえ、昨日も書いたが極めて男っぽい三船三十郎と妙に色っぽさのある仲代室戸の濃厚な関係と同じように現代的に綺麗な織田三十郎と豊川室戸にも危険な香りを嗅いでしまった自分である。
黒澤版のふたりより以上に織田vs豊川は視線の絡み合いを濃厚にしているように思えるのだ。
この二人はこの神社の場面で初めて出合ったのだろうが、なんだか以前からの知り合いのような親密さがある。片思い、というのではなく互いに互いを認め合ったような話し方をしている、
会いに来い、と誘う室戸に「室戸が来いと言ったからな」と会いに出かける三十郎。
早々と訪ねてきた三十郎の姿を見つけた室戸は嬉しそうである。早速に個室に三十郎を招き入れてしまうのでますます怪しく感じるのだが、これは彼を見込んで個人的な仲間にしてしまおうという室戸の計略だった。
まったく一目見てよくそこまで惚れこめるものだと感心する。後で大目付・菊井の味方につこうとした腕利きの侍達には何の興味も持ってないのだからよほど三十郎の何かが気に入ってしまったんだろう。
しかもいきなり酒を飲ませて立て札の文が嘘であることや菊井が悪者であること、自分もそうとうの悪であり、三十郎と手を組んで二人で悪党どもの上に立とうと誘いかけるのだから恐れ入る。
室戸はどこか三十郎に自分と同じ悪の匂いを感じ取っていたのだろうか。三十郎はいい人のように見えているが実は室戸と同じような悪の人間だったのだろうか。
事件が終わって後、室戸は三十郎に決闘を申し込む。これは映像としてはないが三十郎とは義兄弟の契りを交わしたと室戸は信じきっていたのに、三十郎が義理を立てたのが若侍たちの方であったことに激しい嫉妬と失望を感じたのではないか。
つまり心が通い合ったと信じた男に裏切られたかわいそうな室戸なのだった。
三十郎とてその気持ちがわかるからこそ、一旦は果し合いを止めようと言い、また果し合いを受けたのである。
名場面とされる黒澤版の場面に比べ、森田版はくどい動きをしているのだがどちらも三十郎と室戸の恋心というか恋模様を表しているようだ。
黒澤版は極めて男らしく迸っているのだが、森田版では心のすれ違いが複雑に描かれていてより苦悩が感じられる。物凄くゲイ的な表現だと思えてしまうので見ていて恥ずかしくなってしまうのだ。室戸の「好きだったのにぃぃぃ」という声が聞こえてきそうでちょっとおかしかった(という感想は酷いか)なんにせよ、三十郎に止めを刺されてやっと幸せな室戸なのだった。
果し合いの前に三十郎が「俺をやってもこいつらには手を出すなよ」と釘をさすのもなにやらおかしい。室戸は小さな声で「ん」って言ってるんだけど、室戸さんは三十郎にしか恋してないから大丈夫だよん、三十郎。
深読みしていくときりがなくなる『椿三十郎』なのだった。
(やおいパロディ漫画とかすでにないのかな?)
三十郎が室戸を切った刀の血を紙で拭いて袖に入れてしまうのが妙に気になったりもする。

どうしても松ケンの出番が少なくなってしまうなあ(笑)
松ケンとしてはまだまだ子供なんで大人の男の関係の中には入れてもらえない。も少し筋肉つけようね、という感じだろうか。
『男たちの大和』の時も愛し合う主役二人の間に割り込みながらも子供はあっち行けと追い出されてしまうかわいそうな最後だったのだ。
もうそろそろ大人の男の仲間入りさせてもらってもいいのではないですか、角川さん。観たいです。


posted by フェイユイ at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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