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2008年06月18日

『血と骨』崔洋一

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もうなんだか何回も観てるような気がするが。今回は勿論、新井浩文が金俊平の息子役だということで再観。
ここでの彼は表面的には真面目な善人(という形容も言い難くはあるが)なのだがその体には父親・金俊平の因子が含まれているのだ。

この作品は映画を観る前に原作を読んでいてその頃ちょっと小説から離れてたんで久し振りに読書したんだけど、面白くて面白くて貪り読んでしまったのだった。
その後映画化されバイオレンスジャックなイメージの金俊平(何しろデカイ男なわけよ)が北野武だったんでえーとなったんだがいざ映画観るとこれがぴったりなんでまた驚いてこれも映画の出来が原作と自分としてはばっちり合ってたんで崔洋一監督に感嘆したんだった。
でまた観直したんだけどやっぱり面白くてしょうがないの。他の感想では暴力が酷い、重い暗い、というのだけど自分的にはわりとあっけらかんと乾いてて吹き出すほどおかしい場面もあるし、とても楽しく観てしまうのだよね。そりゃ映画として見てるからであって実際俊平が夫やら父やらではごめんだけど。
鍛えてはあったけど小柄なタケちゃんがメチャバイオレンスなのもおかしいし、鈴木京香さんみたいな美女を妻にして手篭めにしたり他の女を連れ込んだりスゲエ雄々しいのも笑えるし蛆のわく豚肉を食べてしまうのも強烈な笑い話みたいだ。
若き俊平が朝鮮から大阪に船でやってくる場面は『ゴッドファーザー』みたいでもあるが話はむしろ昔読んでいた中南米の小説を思い出す。
俊平はまるでマルケス『エレンディラ』の御祖母ちゃんみたいな業突く張りの死にぞこないだし、登場する女たちは男たちに強姦されるしかない運命、男たちは暴力でのみその人生を渡っていく、荒くれた運命のイメージが中南米の物語を彷彿としなくもない。
どうしても日本では日本や欧米の時としてタガが外れることはあるものの統制された理屈の世界しか理解しがたいのだが、実際にはこういった理論の通らない性と暴力の中で生きているのではないか。
俊平の行動は異様のようにも思えるが、その実彼は男性性の戯画化とも見えるのである。
彼の子供である長男は殺され、長女は自らを殺し、三男は父の死を見ながら飯を食っている。物語の語り手である俊平にとっての次男・正男は己の体に父を感じて怖れているのだ。

物語は正男によって淡々と乾いた笑いと視線で語られる。その感覚が自分は凄く好きでしっくり来てしまうのだ。
可哀想な運命の長女・花子がずっと父親・俊平に虐げられ、死んでなお父の暴力でおちおち死んでもいられずあちこち死体を運ばれる場面はかなりのブラックユーモアで何度観てもおかしい。
若い俊平が日本を目の前にして何らかの希望に満ちた目をし、壮絶な人生を過ごし、多大な寄付を母国にした老後、惨めに死んでいくという最後は最大のブラックユーモアなのだろう。

先に『ゴッドファーザー』を思わせるが、と書いたが、この作品はゴッドファーザーというよりむしろ鈴木京香の李英姫のゴッドマザーの力のほうが強いのかもしれない。
どうしても表面的には暴力を振るう俊平に注目してしまうのだが、彼異常に母親・李英姫の生命力の強さに目を見張ってしまうのである。またそれを演じた鈴木京香の美しさ、強さには見入ってしまうのである。

いつもはどうも感心できないオダギリジョーがこの作品では凄くいいのではないだろうか。美形というのはこういう狂った運命の破綻した性格の人間というのがよく似合う。
一番おししい役の高信義:松重豊。李英姫をひたすら慕い続ける一途さにはやっぱり打たれる。
正男役の新井浩文。もうここでは新井浩文とかいうより正男としか見ていない。
誰かを演じているというより正男だった、という感じ。でもやっぱり背が高くてすてきだ。自転車で張賛明に甘えるように二人乗りしていくとこが可愛い。

監督:崔洋一 出演:ビートたけし 新井浩文 田畑智子 オダギリジョー 松重豊 國村隼 鈴木京香
2004年日本




posted by フェイユイ at 01:16| Comment(2) | TrackBack(1) | 新井浩文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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