映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2008年07月15日

『1 イチ』丹野雅仁

1 イチ.jpg

実は昨日の『殺し屋1』再観は今夜この『1 イチ』を観る為だった。他の方の感想を観るとかなり評判悪そうなんだけど自分としては凄く面白かったのは昨日の影響を引きずっているからか。
まそれは多少あるかもしれないがこれはこれで官能的に楽しめたのだった。
しかもナオさんとしては30歳で高校生の役ということでいかがわしさが漂うのである。『殺し屋1』はどうしても浅野忠信のキャラが前に出てしまっていたせいもあってこちらのほうが1=城石一の特異性がわかりやすく描かれている。
1は暴力そのもので性的欲望が満たされるのだがその彼の暴力性を巡って3人の男が1に絡んでいくという構図がどうしても同性愛的な意味合いを兼ねているように思えてならない。そういえばこれもイジメ=暴力を描いた映画『隣人13号』も暴力と同性愛的なものが重なっていたのだがイジメ=暴力にはどこかそういう意味もあるというのだろうか。(1と13って数字にこだわるのも何故)
それはまた考えねばならない事柄だが、1と「やりたい」としつこく追いかける二人の武闘派(?)と彼をひそかに見守る師匠からは力と性的なものとは切り離せないものがあるのだと感じさせる。
1にいたっては過激な暴力を見た時のみに性的欲望が高まり残虐な暴力を与えた時に射精するというわかりやすさで肉体的暴力は通常女性よりも男性のほうが強いものである為に1の欲望は男性に対して強く表れるのだろう。
それにしても最後に種明かしがあるものの稽古場で一人きりになった1が勃起しているのを影でじっと見つめている師匠というのはただ単にゲイなの?と思ってしまったではないか。いくらなんでもこれは最初からその意図だったと思うのだが。
稽古場に置かれたあの物体(パンチキック練習具)はどう見ても男性のアレだし。それと格闘してる1の姿。

千原ジュニアの狂気的暴力もTEAHの端正で熱い闘志も1を高ぶらせ至高の悦楽へと誘う。
大森南朋の情けない1が次第に狂気を帯びてくる。最後の微笑みはやはり容赦しないものだったんだろう。

TEAHの腕力とジュニアの締め技とナオさんの蹴りというように暴力が色分けされているのが面白い。
蹴り、というのはやはり独特な味わいがあるものだ。これはかかと落としを取り入れているのだろうか。

監督:丹野雅仁



posted by フェイユイ at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 大森南朋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『殺し屋1』三池崇史

殺し屋1.jpg
ICHI THE KILLER

あまりにも物凄く面白くて観終わるのが悲しくさえあった。悦楽の2時間余りだった。
などと言うとかつて『藍空』で書いた(よな)この映画の感想を読まれた方が今パソコン画面に飲んでるコーヒーだかビールを噴出してしまわれると申し訳ないのだが、今回再観して(ついに!)そう感じてしまったのだからしょうがない。つまりは数年前、理解できなかったこの作品がいい!と感じることが出来るまでに我が脳が精進したということと思っていただきたい(そんなでもないが)しかしあつかましく言わせていただければ理解不能だったものがこうもクリアに感じ取れるようになるのは快感としか言いようがない。
言い換えれば最初これを観た時は何もかもまったくわからないままに観ていたのである。何も判らず観ても面白かったという方もおられるだろうが自分は描かれているグロテスクな痛みにまず負けてしまい殆ど正視できないような状態だったのだ。こんな痛い映画を我慢させられたというだけでもちょっと苛立ちがあった。
まあこの数年で韓国映画を主とする様々な「激痛ムービー」にすっかり神経も慣らされて強靭にというよりかなり鈍感になることができた。
そうなると色々落ち着いて画面も観れる。また初見の時はただ浅野忠信だけが目的で、監督の三池崇史氏のことも重要人物であるジジイ役の塚本晋也さんも知らずにいた。浅野忠信がマゾ役だと聞いて観た私はさほど浅野のマゾシーンがないことに腹を立てたのだったがこうして再観しているとそういったマゾシーンを特に期待しなくともよかったんじゃ、と思いつつ観たわけで人間こうも変わるものか。
とにかく今回はイチ役の大森南朋が目当てであって彼のことを何も思ってなかった前回とは根本的にまったく違うのだった。

とにかくある意味キャラクター設定の面白さに尽きるのかもしれない。そこを知ってるかどうかで全然違ってくるのではないか。
浅野忠信=垣原の美しさ、妖しさ、危険な個性はもう言うまでもない。いつもまったく自然体で話す浅野のしゃべり方の魅力というのはここで危険な雰囲気をさらに強めている。彼に最上の痛みを与えてくれた安生組の「親父」を探すとともに人間と思えない残虐性を持つイチに対しマゾ的期待を高める。
浅野の傷だらけの美貌はやはり壮絶に魅せられる。裂けた口をピアスで留めているのも顔じゅうの傷跡も色っぽいのだ。
ジジイの塚本晋也。この映画って主人公が誰かよく判んないの。『殺し屋1』って言う割には垣原がずっと出てるし表紙だし、その上、本当の主役はこのジジイなのかな、とも思えるし。塚本晋也さんは映画監督でありながらも様々なとこで役者として登場してるがここでも主役ともいえる重要なキャラクターである。すべてが彼の計画であり彼の駒である1たちを暗示にかけていたという設定はぞくぞくするものだった。
そして1=大森南朋。まだ全部じゃないが色んなナオさんの顔を観て来たが、この1は彼の役の中でも秀逸なものだろう。ジジイによって作られたという彼の歪んだ人間性が大森南朋の表情の上で異常な笑みとして表現された瞬間は神経がゾクゾクと毛羽立ちそうだった。
ヤクザでありながら表情の乏しい緩やかなマゾヒストである浅野と対照的に一見気弱な青年が危険な区域に入ってしまう激情型を見せ付けてくれた大森南朋にこれまでにない魅力を感じてしまったのだ。
自分はどうもこういう危ない目をしたキャラクターが好きでしょうがなくて松山ケンイチもシン・ハギュンもその危ない目に参ってしまってるのだがナオさんの中にもそういったイッチャッてる感性を見せられてますます彼に溺れてしまいそうなのである。
長身で筋肉質な体は1の変てこなボディスーツがかっこよく見えるし、いつもと違う情けないいじけ顔も可愛らしい。ジジイと1の関係、1と金子の関係もなかなかよかったし。

数年後の再観でこの映画がこんなに面白く感じられたというのも嬉しいし、浅野はやっぱり綺麗だし、ナオさんをまたさらに惚れこませてくれたというのでも観なおしてみてよかった。

監督:三池崇史 出演:浅野忠信 大森南朋 塚本晋也 SABU 松尾スズキ 寺島進 國村隼 エイリアン・サン
2001年日本
ラベル: 暴力
posted by フェイユイ at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 大森南朋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月13日

『殺人ゲームへの招待』ジョナサン・リン

殺人ゲームへの招待.jpg
CLUE

元々は、参加者全員が探偵となり、参加者の中にいる犯人を探す有名ボードゲーム「Cule」なるものがあって、それを映画化したものらしい。
近年はゲームといえばもうコンピュータゲームをそのまま指してしまうほどでそういう「ゲーム」の映画化も多数されているが昔からあったものなのね、と今頃気づく。なにしろ85年製作だからもう充分昔だろう。
舞台はさらにそれ以前であり格調高い(?)ドタバタコメディで楽しめた。『ロッキーホラーショー』のティム・カリーが執事役で大活躍(かなりの運動量ではあはあ言ってる感じが伝わってくる。汗の量も半端じゃないでしょ)でありつつ、内容は『名探偵登場』を彷彿とさせる。
こういう作りの映画って大好きなのだ。つまり古めかしい豪邸を舞台に殺人ミステリーのコメディという面白おかしい奴。こういうのっていうのはいかにも面白くなりそうでいて作り手側のセンスでどうにでも変化してしまうものだから観る側と好みがぴしっと合うかどうかなのではないか。子供はあんまり出てこなくて大人の遊び、という雰囲気がよいのではないだろうか。
美男は出てこなかったがティム・カリーの独壇場ともいえるこってり濃い味も楽しめるし、彼の前でやや控えめになっているがクリストファー・ロイド氏の顔が観れるのも愉快である。こういうのは女性陣が魅力的でなければつまらないがそこはセクシー系と意味深系も登場し場を盛り立ててくれている。

3つのエンディングが用意されているというのもコメディならではの演出である。どれでもいい、というのもおかしい。

時間が短いせいなのか、最初はゆっくりなのにどんどん加速して行ってティム・カリーが謎解きをするくだりは物凄いスピードになっていく。謎の女電報配達人なんて数秒登場で射殺。あんまりだ(笑)

監督:ジョナサン・リン 出演:アイリーン・ブレナン ティム・カリー マデリーン・カーン レスリー・アン・ウォーレン クリストファー・ロイド
1985年アメリカ



ラベル:ミステリー
posted by フェイユイ at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Bangkok Love Story (DVD) 台湾バージョン!!Go! Go! G-Boysも

Bangkok Love Story.jpg


Bangkok Love Story (DVD) (Taiwan Version)

が発売されてました。リージョン3です。英文中文付。

それとこれは前から出てたけど
『Go! Go! G-Boys 』
久々にここから買ってみようかなーと思ったり。

gogo.jpg
ラベル:同性愛
posted by フェイユイ at 16:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 東南アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月12日

『春眠り世田谷』山田英治

春眠り世田谷.jpg

もっと忍従な映画かと思ってたら意外とテンポよくて面白く観れた。
まー主役が大森南朋で出ずっぱりなんで彼が好きかどうかで観る気持ちは変わるかもしれないが自分は今惚れ込み中なのでずっと顔を観続けられるだけでもよいかと。でも結局はそれだけじゃ観続けられないんでやっぱり結構面白かったんじゃないかと思う。

同棲中の恋人がいる30男が突然仕事を辞め、映画作りに専念すると発言。優しい彼女は渋い顔ながらも認めてくれるが何ヶ月たっても彼の映画作りは始まろうとしない。
ただ毎日を怠惰に過ごし人生とは何かを考え続ける日々。彼女のぴりぴり感と彼のダラダラ感が二人の部屋に居心地悪いダンダラ模様を描き出す。

元カノからは外見を「老けたね」中味は「変わらないね」そして「コウちゃんは相手のことをまったくわかってないね」と断言される。
その言葉がそのまま映画になってるわけだな。
男女が逆の立場ならまあそう世間様から文句も出ないのだろうが、彼女の方は雑誌社の副編集長でバリバリ働いてて男が何もしてないっていうのは立つ瀬がないわけだなあ。
しかし私なんかがこういうの観てると文句を言いたいとか腹が立つなんていうのじゃなくただもう羨ましくてしょうがない。休みもなく働き続けてもうどのくらいたつんだろうか。一日でいいからぼーっと何もしないというのをやらせてもらいたいがそういう時間を持てたのは何十年も前のことかな。再びもてるのはまた何十年と先のことなのか。それとも人生どうなるのか判らないのか、死んじゃうのか。
「人間は何のために生きるのか」なんてもうずーっと考えない。考えても10秒くらい。それより仕事とご飯の用意を考えんといかんからね。
彼がぼーっとなさっている年齢の頃は最も何も考えず働いていたようだ。だからと言って今も楽になりもせずエンドレスで働いているわけで。
どちらがいいのかな。そりゃ中間でほどよく働きほどよく遊べれば一番いいんだけど、そううまく行かないのが世の中でさ。

ま、今はこういう映画を観てブログでボヤキが書けるくらいの時間だけはあるんだからそれでよしとしなけりゃね。
明日も仕事だー。日曜日の意味は休みじゃないのさ。どの曜日も休みじゃないけど。

さてボヤキはこのくらいにして昨日のクールなハゲタカ大森南朋とこれ以上ないくらいの違ったイメージの彼である。
あどけないくらい可愛かったりもする。坊ちゃん的なヘアスタイルにゆるい服装。
映画もかなーりゆるくて一部マイクが映ってて何が出現したかと驚いた。キム・ギドクの初期作品以来にびっくりした。
とにかく私の代わりにだらだらしてくれるコウちゃんのだらだらぶりを見ているだけで少しほっとできたかもしれない。これはこれでつらいものはあるなとか。この苦痛に比べれば今の我が生活も悪くはないのかもしれない。
子供に怒ってるとちょうどコウちゃんのように論点をすり替えてくる。勉強しなさい、なんて叫んでいるのに、突然「ピラミッドは宇宙人が作ったの?」だとかまったく違うことを言い出すのだ。子供の質問には答えてやらねばならない、なんていう言葉が浮かびつい答えてるとうっかり怒ってる本質を忘れてしまったり。
でも突然赤ちゃん作ろうって言い出して「順番が違うでしょ」って言われたら「じゃ結婚しよう」ってまず金を稼いで来い、という彼女の叫びが聞こえてない。聞こえるわけもないか。夢だけを追う男とリアルの世界に生きる女と。そして男はさらに勘違いの方向へと走っていく。
ほんとに彼女ってお母さんみたいなの。でもやっぱりお母さんじゃなくて彼女だから彼が突然ベッドからいなくなったらそりゃ辛いしね。
「甘えてばかりいないで、私だって甘えたいんだから」こういう気持ちになる女性って多いっていうか殆どそうなのかな。男って子供!どうしてこう子供なんだろうね。コウちゃんがこの後大人になれたとは・・・思えないよなー。

物凄い自分に対するボヤキ感想になってしまった。

監督/脚本:山田英治  出演:大森南朋 今井あずさ 紀伊修平 永井英里 川屋せっちん
2001年日本
ラベル:人生 大森南朋
posted by フェイユイ at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 大森南朋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月11日

『ハゲタカ』第1回「日本を買い叩け!」

NHK_hagetaka.jpg

最近になってナオさんを好きになってから観たい観たいと思ってたNHKドラマ『ハゲタカ』やっと借りることができた。
なるほどなかなか観れないだけのことはある面白さだった。しかもドラマだと物凄くアップが多いのでナオさんの顔を観たい目的の奴には嬉しいことだ。別にドラマ観て初めて気づいたわけじゃないがナオさんの顔て丸顔で一重まぶたでいかにもオリエンタルなんだけど鼻がとんがってるとこがちょっとかっこいいんだよね。そのせいか横顔のカットが多いような気がするんだけど。体つきは背が高くて逞しくてほんと好きな体格です。
で、昨日観た映画の小汚さとはうって変わりびしっとスーツで決め髪もきちんとして細い眼鏡がクールで怖いイメージのナオさんである。

企業買収を題材にある投資ファンド日本代表に就任した鷲津(大森南朋)のアメリカへと逃げるようにして渡った過去と冷徹な人間として再び日本へ向かう現在が描かれる。
日本企業を次々と買収する彼らは『ハゲタカ』と呼ばれるのだ。

冒頭映像がショックだったのでこの場面にどうつながっていくのか、気になるところである。
しかし小銭的な世界でのみ生きている自分には「億」などという単位を言われるとそれだけでゲームのようでさっぱり実感がわかない。今回は何と言っても親父の時代に繁栄した老舗旅館経営を行き詰らせてしまった宇崎竜童氏のよれよれ具合が胸に迫る。足掻けば足掻くほどドツボにはまってしまい己の状況が見えなくなってしまう。ホントに早く龍平くんにまかせればよかったのだ。しかし後悔先に立たず。

様々な役をこなす大森南朋さんだがどっちかというと柔らかなイメージがあるように思えるのだが、クールな男かっこいい。
『ヴァイブレータ』で好きになってしまった私だが(このタイプのファン物凄く多そう)あの時の彼はメチャかっこいいんだけど、本音を言うとあの役はもちょっと馬鹿なほうがいいのである。ナオさんは顔が頭よさそう過ぎて金髪にするなどの工夫はしてるもののちょっと馬鹿さに欠けるのだったが素敵なのでもういいや状態だったんだけど(いえホントに好きでしたけど)これの場合はまさにぴったり。気弱だった時もあり、クールに変身した今もあり、で頭いいのは当然だし且つスーツに隠された逞しい長身でにやにや笑いが止まらない私なのだった。

そして旅館経営の宇崎氏の息子役に松田龍平。実は中村獅童だったらしい。竜童に龍平。竜童に獅童。語呂合わせで決めたんじゃねーよな。っていうのはどうでもいいが獅童氏だったらどういう息子になってたんだ?想像つかん?
とにかく龍平くんでよかった。龍平くん、時々お父さんと同じしゃべり方になる。やはり血なのか。それともお父さんの映画なんかで勉強してるのか。

懐かしいというほど彼の作品を観ていたのでもないが柴田恭兵さんも久し振りに観ることができた。
嶋田久作さんがちらっと見えたのは何かある?

脚本:林宏司 出演:大森南朋 松田龍平 栗山千明 柴田恭兵 嶋田久作
2007年日本
posted by フェイユイ at 22:33| Comment(0) | TrackBack(1) | 大森南朋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月10日

『たとえ世界が終わっても CYCLE SOUL APARTMENT』野口照夫

たとえ世界が終わっても CYCLE SOUL APARTMENT.jpg

微妙なバランスの映画で同じ内容でも演出というか雰囲気が違ったら大好きにもなりそうなのだが、結構普通っぽいところが受けるのかもしれないけど自分としてはあまり好みの範疇でない作品だった。

ほんと言うと自殺しようとする人に対してこんなおせっかいをするキャラクターというのが基本的にうざったいと思ってしまう。別に自殺を推奨しようというのではないが、現実にはこうやって止めてくれる人はいないわけでだからこそこういう人がいたらいいのに、という願望なのかもしれないけど、何か反発してしまう気持ちが湧いてしまうのだ。

とはいえ、大森南朋が演じる不思議な男のイメージやアパートの住人の雰囲気がこの映画のこの物語でなく別の話だったらもっと好きになりそう、と思いながら観ていた。
ナオさんの演じる妙田という男はそれこそ妙だな、ということなんだろうけどその名前にぴったりの妙な空気を持つ男で彼のいる部屋だとか白衣だとかも他のストーリーを考えさせられる変な存在感があるのだった。
自殺しようとしてる人を止めるという話でもいいんだけど、偽の結婚でも田舎の両親との再会でもいいんだけどこの作品の持つテイストというか甘い雰囲気みたいなのがどうもむず痒く耐え切れない自分なのである。

それにしても奇妙なアパートの管理人という役のナオさんは凄く素敵である。
もうちょっと違ったやり方で観たかったなあ。

一番の収穫は妙田氏の部屋に飾ってあったナオさんがかっこよくポーズを決めている写真を見れたこと。あれは欲しい〜。売り出してくれ。

監督:野口照夫 出演:芦名星 安田顕 大森南朋 小市慢太郎 平泉成
2007年日本
posted by フェイユイ at 22:40| Comment(0) | TrackBack(1) | 大森南朋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月09日

『OUT』平山秀幸

out.jpg

この映画の鑑賞を出だし部分で止めてしまうとこだった。というのは主人公雅子がどうしてこんな馬鹿馬鹿しい自分にとって不利益どころか刑罰を被らねばならない羽目になることを引き受けてしまうのか、あまりにも唐突で理解し難くそういう適当な作品なのだろうかともう少しでストップボタンを押すところだった。
何故止めなかったかといえば別段雅子たちに真実が隠されているとか思ったわけでもなく単に大森南朋さんがどうなるか見たかっただけである。彼が処理される場面辺りでもまだ胡散臭げに観ていたのだが、まあこういう処理というものはどんなもんだろうかと観たくもあったし師匠の他に邦子が加担したぐらいから次第に興味を持ち出してしまった。

あれよあれよと引っ張られそのうちに雅子がどうしてこんなことを引き受けたのかは言われなくとも納得できるようになった。
まあ彼女の気持ちは最後きっちりと言葉で表現されていたのだが、。
これを観てるとなるほど『ファーゴ』で自分が何か不満を持ってしまったのも少し解けたような気もする。
犯罪を扱った物語は山とあるが殆どは男が起こすものであって女がその原因だとか引き金だとか犠牲者として使われることが多い。
『ファーゴ』に置いて女性は悪党の妻の方でも警察の方でも「善人」として登場していた。それはまあたまたまだったのかもしれないが、女性=善き人(であるべき)という考え方にムカついていたのかもしれない。
ここでの4人の女性はごく普通の女達でしかないのだがとんでもない女達である。かといってよく言う悪女だとか小悪魔だとかましてや極道みたいなもんではなく、突発的に起こしてしまった犯罪を行きがかり上片付けているうちに今まで失ってしまっていた生き甲斐をそこに見つけてしまったのである。
ここに私が最初に感じた「何故?」があるのだが雅子自身何故自分がそうするのか判ってなかったのかもしれない。我儘で甘ったれた弥生の理不尽な頼みごとを何となく引き受けてしまった。それは弥生が雅子の手に感じさせたお腹の子供の為だと思い込ませたのかもしれないし、彼女自身が認めるようにきちんと片付けないと駄目な性格が災いしたのかもしれない。
だがきちんとした雅子の生活がきちんとした中で倦み疲れきっていることが判りそうした閉ざされた生活、破裂したいけど破裂できない膨れ上がった膿のような状態になっていた時、心のどこかでこの事件がその膿を出してしまうきっかけになることを感じてしまったのかもしれない。
そしてそれは私を含め多くの主婦(だけではなくある年齢以上の女性は、か)なら感じたことのある感覚ではないだろうか。

きっかけとなった死体処理が雅子たちを次の行動へと移らせる。
もう彼女達ははっきりとその行為に喜びを感じている。男達がぞっとする、と愚痴る行為を「(自分たちの仕事である)弁当作りと一緒ね」とてきぱきと片付けてしまうのだ。
他の話なら邦子が言うようにカーテンを引き、目の下に隈を作って悩むはずの罪の意識などまったく感じることもなくばらばらにされた夫のことなど一度も涙されることもなく彼女達は自分らがどうするかだけを考える。
最後、雅子がどうしようもなくお荷物な邦子と弥生を乗せながら北へと向かう場面は痛快である。その先にやがて逮捕という黒い未来が待ち構えているのだとしても。いやだからこそ突っ走っていく彼女達の姿に見入ってしまったのかもしれないが。
『ファーゴ』で人のいい旦那を持った女性警察署長は彼女達にも「こんないい天気なのに信じられない」と言うことだろう。優しい夫と寄り添って「私たちはいい夫婦ね」と自慢することだろう。よかったね。
雅子が見るオーロラをあなたは見ないだろう。見る必要もないのだから。

忘れてはいけない大森南朋。しょっぱなから登場してくれたのはいいが、ギャンブル狂いのドメスティックバイオレンス夫。
酷いです。殺されても文句言えない、というとこを見せ付けます。このくらいやんないとほら妻が単に悪者になっちまうからね。
それでなくともこの妻。この4人の中で最悪の女だもん。どうして今まで暴力を甘んじて受けていたのか。ここで切れたのか。
とにかくその後はかなり長く死体役。死後硬直で固まってないといけないし、服を脱がされすっぽんぽんにされ、皮かぶりなどと嘲笑されますがとにかく酷い男だったのでそのくらい仕方ないです。
でもやっぱかっこいいですね。悪い男の時は特にかっこいいみたい。しかし本当〜に色んな役をやる人です。首切られそうな時、よくじっとしていられるなあ。

香川照之が演じた金融男の故郷が飯塚っていうのがなんだかリアル。地元民にとって福岡県でも博多っていうんじゃなくて飯塚。リアルだ。それ以上言いにくい^^;結構凄いとこです。
地元っていうので思い出したがこの映画が話題になった時「面白そう」と興味を持ったのだ。でもちょうどその頃、近くでなんだか似たような事件が起きて。
しかも聞いただけのあらすじより実際の事件が凄すぎた。事実の方が映画より怖いじゃん、って。それで観なかったんだよね。でも実際観るとそういう起きた事柄だけじゃないってことがわかる。実話でなく作品というのは何か訴えるものが違うんだな、と。
ところで実話の方では何故他の女が主役級の女に従ったかというと「同性愛的な隷属下」にいたからというのが答えだった。
本当に事実って映画より信じられないことで成り立っている。
でも作品というのは驚かすためじゃなく何かを物語るためにあるのだと改めて思った本作だった。

監督:平山秀幸 出演:原田美枝子 倍賞美津子 室井滋 西田尚美 香川照之 間寛平 大森南朋
2002年日本



ラベル:犯罪
posted by フェイユイ at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 大森南朋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『潜水服は蝶の夢を見る』ジュリアン・シュナーベル

潜水服は蝶の夢を見る1.jpg潜水服は蝶の夢を見る.jpg
LE SCAPHANDRE ET LE PAPILLON

これは文句なしに面白かった、というのは昨日の映画感想に引っ掛けての言葉だが。感動もの、という意味でなく不思議な体感をさせてくれる作品だということで。何か面白いSFを読んでいる時のような感じだった
面白いこと考えたなあ、と思いつつ観終わったら「実話」だった。これも昨日と逆のパターン。まあ「実話」というキャプションがつくのが嫌いな性質なので最後に言われたほうが確かに納得がいく。最初から「実話だから心して観ろよ」と言われるよりは。

例により前知識なしで観てたのだが、後で監督が『夜になるまえに』と同じと知ってやはり共通するものがあるのだなあと思ったのだった。
突然、瞬き以外の体の自由を失ってしまうという本作と刑務所の中での生活を余儀なくされる『夜』どちらも本を書くという強い欲求を持った男であり、セクシュアルな描写が色濃く映される。
どちらも体と性の自由を強く求めていく物語であり、不治の病魔に侵されていくのだ。

どちらも淡々とした進行の作品で愛というより性的な表現が先に出ているのでその辺で好みが別れそうである。やはりただ一人の女性への愛、というほうが受けがいいからね。
瞬きしか残されていない40男だが元妻だけでなく二人の美人療法士、本を作るため瞬きを読み取って著述してくれる女性、そして恋人と様々な女性への妄想が映し出される。
同じように動けないからだの年取った父親や可愛い3人の子供の話も挿入されるがそれほど極端に盛り上がりや感動を押し付けるわけでもない。
最近映画以外でも「人はちょっとした幸せを感じた時に死を迎える」という話と幾つか出合ってしまい、そういうものなのかもしれない、とも感じている。
つまり「死んでしまいたい」と我が身を嘆いた時でなく「これからうまく行きそうだ」と希望を持った時に死が訪れるのである。
それは悲劇的な演出であるとも言えるだろうが、これの場合は事実なのだからなとも考えてしまう。
だが悩み苦しんだまま死ぬのと幸せというものを感じて死ぬのではどちらがいいのだろうか。

牡蠣を食べるシーンが滅茶苦茶美味そうでかつエロティックだった。
 
監督:ジュリアン・シュナーベル  出演:マチュー・アマルリック/エマニュエル・セニエ/マリ=ジョゼ・クローズ/マックス・フォン・シドー/イザック・ド・バンコレ /エマ・ド・コーヌ
2007年フランス/アメリカ

ラベル:自由
posted by フェイユイ at 00:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月07日

『ファーゴ』ジョエル・コーエン

fargo.jpg
FARGO

コーエン兄弟。先日彼らが作った『ノーカントリー』でアカデミー賞4冠を獲得するなど話題になったが自分はまだ未観。それ以前の映画もいかにも観てそうなのにまだ何故か一つも観ていない。というのは間違いで『パリ・ジュテーム』の「チュイルリー(1区)」で観てた。ブシェミが出てた奴。あんまり好きじゃなかった^^;

で、この作品は評判どおりでなかなか面白かったけどね。
けどね、っていうのは確かに「どうなるのか」とずーっと緊張感持って観続けはしたけど、では物凄く好きな箇所があるか、というとそこまではまり込む要素は本作にはなかったような気がするのだ。

物語の構成がふた筋に分かれていてなんとも人間関係の希薄さが物悲しくまた滑稽な誘拐事件に関わるランディガード一家と犯人役に話と人間味溢れ愛情豊かなガンダーソン夫婦が「一見」対照的に描かれていく「一見」というのはこれが本当に対照的なのかどうか疑わしいからだ。

妻のマージ・ガンダーソンは8ヶ月という身重で殺人事件を追及していくといういくらアメリカでも本当かな、と驚いてしまうのだが(本当にこういう勤務をするのだろうか)それも含めてこの物語は騙され続ける。
冒頭の「この物語は実話だ」ということがまず騙しなのであり、無論ランディガードは妻を騙し子供と義父を騙し犯人達も騙している。
ではガンダーソン側はいい話ばかりかというとかつての同級生の男がマージに嘘の話をする。彼は精神に障害を持っているという説明がはいるがそうなればすべての登場人物が信じられなくなる。一体誰が真実で嘘なのか。それを表現しようという話なのかもしれない。
では、子供を腹に抱えて悪と立ち向かう母親とその彼女を温かく応援する夫の姿や最後にベッドで優しく寄り添って「私たち幸せな夫婦ね」という台詞にじーんとしていいのかどうか、何しろそれまで散々人間の精神のもろさ、信じていたはずの人の裏切りを見せられているので「この夫ももしや・・・」と疑ってしまうではないか。彼が真実の愛を持っているとどうやって証明する?また彼女も。お腹の子も彼の子供だといい切れるのか。すべてが信じられないというならそうなってくるはずだ。
それがコーエン監督の目的と考えていいのだろうか。私にはとてもこのラストで「幸せなふたりねー」と素直に涙を浮かべたりはできないのである。すべてが怪しい。誰も信じられないぞ。お腹の子供だって何考えてんだか!そんな感じである。
マージだって信じられないし、他の何もかも信じられない。
それを面白い、と言ってしまえばそれでいいが、ここまで信じられない話だとどんどん深読みしてしまってこの世界そのものがあり得ない、というドツボに落ち込んでしまいそうだ。
どこまでが真実なのか、どこまでが嘘なのか、すべて嘘なのか。
観る者は所詮作り物の映画という作品をそこに表現されていることは真実として観て行くしかない。冒頭の「実話です」という言葉が嘘ならすべては嘘ということを疑わねばならなくなる。嘘つき男の側と真実の夫婦の側を対比して描いた作品というのなら
真実の夫婦の愛が本当なのか疑わしい。同時に殺人者達も本当は愛し合っていたのではないかとまで疑わねばならなくなる。
そこまでの疑惑を観る者に持たせるのが目的の映画なのか。
そこまで行くと面白いという範疇を通り越して疑惑だけの映画になってしまいそうだ。

そういう理屈で構築された映画ということなのかな。

『松ヶ根乱射事件』がこれに似ているというのを聞いたので興味を持って観たのだが、私があれで面白いと思ったようなものはこの作品にはまったくなかった。

とはいえ、先に書いたように「なかなか面白かったけどね」というようには思えたわけで、コーエン兄弟作品、また機会があったら観てみよう。この言葉も真実とは限らない。

ところでいすゞファーゴという車があるけど、名前の由来はfar(遠くへ)go(行く)と言う意味の造語ということらしい。
本作の意味も同じかな。

監督:ジョエル・コーエン 出演:フランシス・マクドーマンド ウィリアム・H・メイシー スティーブ・ブシェミ ピーター・ストーメア ハーブ・プレスネル
1996年アメリカ
ラベル:犯罪 暴力 疑惑
posted by フェイユイ at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月06日

『QUARTET カルテット』久石譲

QUARTET カルテット.jpg
QUARTET

人気音楽家の久石譲氏の初監督映画ということだが、非常に判りやすく素直にまとめられた作品に仕上がっている。
逆に言えば、とことん「よくある」タイプの設定・演出・構成になっているので最初からエンディングが予想できてしまうのだがどれ一つ予想の裏切りがないのでいいと言えばいいのだがまあ、芸術的ではないと言う感じ。
といっても嫌味な感じがないのでさらりと全部見通すことが出来る。多分、久石譲の音楽と同じように口当たりのいい作品ということなのかな。

凄くかっこいい袴田吉彦をリーダーとして綺麗な桜井幸子さん、と凄く弾き方がさまになってる!と思ったら一人本物の音楽家の久木田薫さん。弾いている時の腕がとても綺麗で見惚れてしまう。
そして今回、人がよくて教えるのはうまいけど技術がいまいちのヴィオラ奏者役の大森南朋さん。職を失ったのに奥さんはもうすぐ子供が生まれるという苦しい立場の役。
といっても他の3人もそれぞれ職を失ったり、家が破産したりという逆境に直面しているところなのだ。
こういった4人が仕方なしに日本各地を転々として演奏活動と聞こえがいいが、場所はうるさい子供達が駆け回る体育館みたいなとこや花火会場で牛舎で練習したりホテルとは名ばかりの海の家だったりと散々なツアーをこなしていく。
この展開って凄く面白くてちょっといいなあ、と思うんだが、さすがに映画監督じゃないからなのか久石氏がそういう人なのか、淡々と経過が描かれていくだけで、まあそれはそれでさらっとしていいんだけど映画としての深みがまったくないのは不思議。
やっぱり音楽家の人だからだろうか。
私の好み的にはこの流浪の音楽の旅の部分をもっとぐーっと掘り下げて欲しかったんだけどなあ。あの軽トラで走ってるとこだけが音楽的だった。
昔の話で戦後、食うや食わずで日本各地を演奏してまわった演奏家たちの話を聞いたことがあってすごくいいなあと思ったものだ。勿論彼ら自身はご飯もろくに食べれなくて必死だったんだけどね。その辺がちょっと重なって面白いなと期待したのだがそれほどここが濃密にならなくて全体が同じトーンで進んでいくのだ。
音楽としてはそういう展開ってありえないのにやはり違う表現方法だと簡単になってしまうのかもしれない。

ラストもきっちりスタンダードを持ってきたね。
おひょいさんはじめ他のキャラクターも時折いれる笑いもいかにもという演出だったし。

大森南朋はきちんと自分の役を演じていたし、ここでもまた魅力的だったので申し分なし。
昨日の『アイデン&ティティ』よりは出番多かったな。役的には昨日はベース奏者今日はヴィオラ奏者と主役を引き立てる役どころ。
出産前後の奥さん思いの優しい男性で素敵だった。
どうしても袴田さんと桜井さんのアップが多いのだが自分はナオさんのとこだけ繰り返し観た。

ところでこれはどうでもいいんだけど「シントウキョウ楽団」というのを「新東京楽団」(だよね多分)ではなくずっと「神道教楽団」だと思い込んで観てた。凄い宗教的楽団だと思って、あんまり洋楽的じゃないなとか。ほんとにどうでもいいことだ。

久石譲ファンにとっては気にならないごく当たり前のストーリーの中に彼の音楽がちりばめられていることがより久石音楽を堪能できる、ということでいいのかもしれないのだが。


監督:久石譲 出演:袴田吉彦 桜井幸子 大森南朋 久木田薫 藤村俊二 三浦友和 草村礼子
2000年日本
posted by フェイユイ at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 大森南朋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月05日

『アイデン&ティティ』田口トモロヲ

アイデン&ティティ  6.jpgアイデン&ティティ  4.jpg

こんなに共感できる映画もない、と感じてしまった。まてよ、私はさほどロックにはまったわけでもないし、バンドをやってたわけでもおまけに男でもないのだが。その上ボブ・ディランのことは殆ど知らない。
それでもこの映画の主人公アイデン=中島と共鳴しつつ観てしまったのだった。

無論いわゆるロック世代に生存していたということはあるのだろうなあ。今の若者とは違うのかもしれない。
ロックという言葉が反逆を意味していた。ロックという音楽に自由を求め、そこに何か人生の答えがあるのではないかと感じていた世代。
そのくせイカ天だって見てたのさ。
原作者のみうらじゅんさんが「大島渚」で出てたのだって見た。申し訳ないことに内容は覚えてないけど(ほんとすみません)

だからアイデン=中島の熱さは昔っぽいし恋人ティティは70年代の女性みたいなしゃべり方だ。
そういう世界にいたわけでもないがそれでもそういう世界に憧れていた若い頃を思い出さずにはいられない。ロックが世界を変えることがあるのかもしれないとぼんやりと思っていた頃の。

最初から終わりまでもうなんだか切ない気持ちで見続けた。アイデンが苦しみながら悩みながらも自分を失わないで生きてくれたことが嬉しかった。そしてすっかりアイデンになってしまった私はティティがホントに綺麗に見えて彼女なしでは生きていけないような気持ちになってしまったよ。もし自分がほんとに男だったらその外見も含めて彼女に恋するだろうなあ。女としては憧れてしまう。危険な可能性も持ったマザーというのが凄い。
反面、実際には彼女みたいな女性が側にいてくれることなんてそうそうないだろう。迷い続けるアイデン中島は彼女と彼にしか見えないボブ・ディラン(アイデン命名)の助言でなんとか危うく自我(つまりアイデンティティ)を保っているわけで。ここまで支えがないとアイデンティティを持ち続けることは難しいんだ。てことは殆ど不可能ってわけですな。苦しいね。

アイデンティティを見失ってしまいそうになるアイデンにティティはいう「君が君でいる限り私は君が好きだよ」
凄く優しい言葉であると同時に凄く厳しい言葉じゃないか。

アイデンを演じている峯田 和伸はどことなくみうらじゅんを彷彿としなくもないし自身がミュージシャンということで演奏が違和感なく観れるというだけでなくこの映画の主役として素晴らしい存在感なのではないだろうか。こんないい役者をどうして見たことがないんだろうと思ってしまった。
ティティ役の麻生久美子さんは文句なしに女神様です。出来すぎとは判ってもやっぱり憧れます。男になったとしても女としても。
彼女が一番ロックですわ。
ジョニーの中村獅童。がはは。おかしい。いつも破壊的な彼のほうがまだ体面を気にする常識者なの、中島に比べると。
でももう滅茶苦茶になるのかと思ってたらあのバンドが好きなんだとか言うのが泣けた。ん、でも復活するのかな、ジョニーって。
そしてそして目的の大森南朋さんが、くーかっこいい!!無口なベーシストなの!背が高くて脚長くて腕が逞しいからもう素敵で素敵で。でも「俺馬鹿だから」ただバンドと中島についていくっていうのがまたおかしい。無口なのは馬鹿だったからなのね。くくく。でもすてきなのだ。
彼も外されそうになったのに何故かずっとくっついていたからほっとしたあ。
社長の岸辺シロー、居酒屋親父の三上寛、なぜかチョイ役ウェイターに浅野忠信(なぜなぜ)中島のお母さんのあき竹城、お父さんが塩見三省なのも愉快(こんな似た夫婦って。しかもアイデン似てないし)

アイデンのティティへの一途な愛は心打たれるのに、そこは悲しい男の性、ライブ後にファンの女の子とつい寝てしまうのだ。
ティティにはもうお見通しで泣きながら謝るアイデンの場面でもつい共感。ふつうこういう話って女性的にじゃ強烈に反感もってしまうのになんでこの作品ではアイデンに共感してんだろ。その後でも風俗行ってしまうしね、あーあ、アイデンって。
この映画って悩み苦しんでるんだけどホントは凄く甘い話なの。彼女のこともそうだし、仲間とも喧嘩別れはしないしね。駄目になっても駄目になってもそれなりに自分の道を見つけて愛する人たちを手放さない、甘い話なんだよね。でもそれでいいんだ。そうあって欲しいんだもん。
それはアイデンが言ってたように中産階級に生まれ不幸を知らないで育ったのが不幸というような人間だからかもしれないけど。

幾つかロック映画も観たけどさ、好きなのもあったけど、この映画はほんとに自分を振り返ることができた作品だった。
まとめるなーとか言われそうだけど(笑)

でもティティってアイデンの心の中だけに存在する女性なのかな、とも思ったの。だってあんまり他の登場人物との絡みがないでしょ。でも話題に上ってくるから実在はするのかなー。
ボブ・ディランとティティは二人ともアイデンのアイデンティティを存続させる為の心の現象なのかな、とも思ったのだった。

監督:田口トモロヲ (っていうのもびっくり) 脚本:宮藤官九郎 原作:みうらじゅん 出演:峯田和伸 麻生久美子 中村獅童 大森南朋 マギー(ジョビジョバ) コタニキンヤ 岸部四郎(岸部シロー)
2003年日本

アイデン&ティティ.jpgアイデン&ティティ  2.jpgアイデン&ティティ  3.jpgアイデン&ティティ  5.jpg
posted by フェイユイ at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 大森南朋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月04日

『蟲師』大友克洋

蟲師2.jpg蟲師.jpg虹郎.jpg

これは思い切り大森南朋目的で鑑賞。原作及びアニメのファンの方からの評価は悪いようだが、自分はどちらも未見のせいかとても楽しく観ることができた。特に自分にとって鬼門となっているオダギリジョー出演作(私はどうもオダギリ出演作と相性が悪いのだ)なのだがこれは面白かった。とはいえ、こうして面白い作品を観ると余計思うのだが主役がオダギリではない方がよかったのではないだろうか。この人って美形ではあるが何か雰囲気がない、と思ってしまうのはやはり私が彼を好きでないからだけか。
目的の大森南朋の虹郎は結構出番があってうれしかった。やっぱりたくましくてからだの線が綺麗な人である。時代ものだとこういう風に脚が見れていいなあ。長くてがっしりしてかっこいい脚なのだ。
そして物語がオダギリ演じるギンコと虹郎の二人旅であり深い交流が描かれるのは凄く好きな展開である。ぼーっとなったギンコを守りながら虹郎が旅を続けるくだりなんかね。
しかし惜しむらくは相手がオダギリのせいなのか、なんなのか思ったほど二人の間に微妙な感覚がないのだよねー。これはオダギリが演じている他の作品のどれでも(自分が観た奴は)思ってしまうんだけど。これは私の勝手な感覚なんでしょうがないんだけどね。
むしろオダギリがボケエとなってしまっている時のたまさんと淡幽と虹郎の間の空気の方がよかったりして。いやもう感覚的なことだが。
たまさんの李麗仙、淡幽の蒼井優の関係なんかは凄くよかった。蒼井優は綺麗だしこういう雰囲気あるなー。
オダギリより子供時代の少年が可愛くてぬいとの関係もよかった。オダギリって誰かとの関係っていうのが色っぽくないと思うのだ。

物語について言えば、蟲師という設定が面白くて説明をいちいち興味を持って観てしまった。映像的にもあまり気色悪いものではなかったので観やすかったし(これは褒め言葉になるのかどうかよく判らんが)
でもさギンコのやってたことより淡幽が箸で文字をぴゅーっ、ぴゅーっってのが面白かったなあ。たまさんの処置もどうなるのかと思い緊張した。
淡々とした展開や時代背景なんかもよかったし、画面は綺麗だったね。

今までさほど興味を持ってなかったのだが、映画があんまり面白かったので原作も読んでみたくなったし、アニメもちょっと観てみたい、と思ってしまったよ。

監督:大友克洋 出演:オダギリ ジョー 大森南朋 蒼井優 江角マキコ 李麗仙 りりィ
2006年日本

posted by フェイユイ at 23:03| Comment(2) | TrackBack(0) | 大森南朋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月03日

『呉清源 極みの棋譜』田壮壮

呉清源 極みの棋譜 4.jpg呉清源 極みの棋譜 3.jpg
The Go Master

こんなに物語と登場人物の説明をしようとしない映画もあまりないのではないだろうか。そのことがいっそのこと心地よい。他の饒舌で煩いなくせに大して何も語られていない作品などよりも。
ここでは語られることは最小限のことで観る者はその映像から多くを感じ取らねばならない。
とはいっても何も難しい事柄を述べているわけでもないし、表現がシュールなわけでもない。
棋士・呉清源の人生を切り取って見せていくかのような画面である。余計な台詞や演出というものを廃した静かな語り口である。私は残念ながら棋というものいまだに理解しないでいるのだが、この映画はまさに棋の如く進んでいるのかもしれない。

それにしてもチャン・チェンは美しい人である。
丸眼鏡をかけ碁盤をじっと見つめている風情はなにか悲しげにさえ見えてしまうではないか。笑うとはっとするほど可愛らしいのだが。
台湾人である彼が殆ど日本語の演技をしなければいけないのがここでは却って彼の静けさを表しているようであった。
大げさに出来事を言い立てない映画なのでほぼ文字の説明で棋士としての呉清源が負けなしの勝負をしていく比類なき才能を持っていることがわかる。
だがその一方で彼は紅卍会という宗教にも深く入り込んでいて一時期は囲碁を止めて信仰の道を歩んでいる。
私のように無宗教な者はその選択がいかにも勿体ない時期のように思えてしまうのだが彼自身は囲碁と同じように宗教も大切なのだろう。

田壮壮監督の静かな眼差しは日本人に対しても同じように注がれているようだ。
どうしても戦時中の中国人と日本人の関係を描いた映画を観ることになると事実とはいえ胸が痛むことになってしまうものだ。
ここでも中国人である呉清源一家に対して日本人の嫌がらせらしき場面はある。らしき、というのはこの部分も田監督はクローズアップすることなく起きた事柄を述べているだけなので中国人一家に対しどんな言葉が投げられたのかは想像するしかないのである。
また中国を侵略していく日本軍に対して喜ぶ日本人達を後に呉清源が離れていくシーンにも言葉はないのに迫ってくるものがある。
彼が川端康成と草原で横たわって話し合っている場面も酷く言葉少なく寂しさがある。囲碁の天才少年として日本へ招かれた呉清源の心にはいつもそうした寂寥感が静かに溜まっていたのではないだろうか。
それにしても彼の周囲の日本人の彼に対する接し方は暖かいもので観ていてほっとしたのだ。それは自然と呉清源さん自身がとても素晴らしい人格者で皆から愛されておられることを意味しているのだ。

日本人女性を妻とした彼が、寒い冬に生まれた赤ん坊のほっぺに触る前に手を擦り合わせて暖めるところはなんともほんわかとした気持ちになったものだ。

チャン・チェンの佇まいに見惚れるばかりの作品だったが、他の日本人出演者も素晴らしかった。
呉清源を日本へ招いた瀬越憲作の柄本明は申し分ない雰囲気である。松坂慶子、伊藤歩という女性陣。
川端康成を野村宏伸が演じていたのも面白かったが私的にびっくりしたのが呉清源の相手として登場する橋本宇太郎に大森南朋が出ていたのだった。いつものことだがチャン・チェン以外まったく出演者を知らずにいたので驚くやら嬉しいやらここでも彼に会えるなんて。棋の相手ということで渋い雰囲気を見ることができた。
そして呉清源の母親にシルビア・チャン。

今まで何度も棋は知っておかなきゃなと思いながら果せないでいたがやはり少しは学ぶべきだと再び思っている自分である。

ところで呉さんと「棋」中国語発音は「ウー」と「チー」で違うのだが日本語的には同じ「ご」っていうのは凄く判りやすいです。日本で活躍した方なのだし、仕事と名前って不思議とつながってたりするような気がします。

監督:田壮壮 出演:チャン・チェン 柄本明 シルヴィア・チャン 伊藤歩 仁科貴 松坂慶子 大森南朋
2006年中国

呉清源 極みの棋譜.png呉清源 極みの棋譜 2.jpg

posted by フェイユイ at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本映画にはまり込む日々

以前、『藍空』の時なんかは折々に近況などといってその時の気持なんかを書いてたのに、ここずっとそういうのなしで過ごしてしまった。ここで少し書いてみよう。

アジア映画に没頭していた『藍空』期から色んな国の映画を観ようと変わってきた『放浪記』なのだがここ最近は自分でも驚くほど日本もの一辺倒になってしまった。
好きになってしまったのが「松山ケンイチ」「新井浩文」と続いてるせいもあるが6月なんかはもう僅かの例外だけ日本映画ばかりである。
どうものめりこみタイプなので一度はまり込むともう他の映画が観たくなくなってしまうのだ。
今は外国映画というとどうにも観たくないというのだから我ながら驚いてしまう。
多分この先も当分の間この傾向が続きそうである(若干外国ものを観る予定だが)お気に入りも「大森南朋」に代わってまだ観始めたばかりだしかなりの作品数がある。
まあはまり込んでいる時ほど幸せな時はないので気持が変わるまで日本映画を観続けてしまうだろう。
当たり前といえば当たり前か。

ばんっと変わらせてくれるのは大概誰かを好きになった時。一体誰との出会いがあるか。楽しみでもある。

ラベル:近況
posted by フェイユイ at 16:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『最も危険な遊戯』村川透

最も危険な遊戯.jpg

『それから』を初めて観て松田優作いいなあ、と初めて思ったものだから、もう少し作品を観ることにした。
これなんかは私のイメージどおりの彼である。
細長いシルエット、眉間にしわを寄せた男っぽい風貌、低い声、かっこよく決めたかと思うと、話し言葉は妙に丁寧語だったりする独特のユーモア。作品自体は徹底した娯楽と言う感じでサム・ペキンパーが色濃く影響されているが松田優作のいうキャラクターのおかげでそういう「似せた」感じは払拭されてしまう。あんまりガチガチにシリアスなのよりこういうちょっととぼけた味のあるアクションがより個性を惹き立てるようだ。
この作品も影で彼の存在を表現している箇所がいくつもあるがこの他にないシルエットは当時としてもいや今でもそうそうお目にかかれないのではないか。
ひょろんとした細長い手足。もじゃ髪に帽子というちょっと外した感のあるかっこよさ。
などと褒め称えると昔から大ファンのようだが、もう何度も書いているがさほどファンというのでもなかった。もしかしたらかっこよすぎると思ったのかもしれないし、やはりこういう男性的な作品とキャラクターに反発を感じていたのかもしれない。
今観てるとそういった演出もまあ男性向け娯楽作品だから、ということで笑いながら観ることができる。大人になったもんだ。
とにかく大人になった目で観てると確かにこりゃあかっこいいや、と今更ながら唸ったわけである。理解できるのに時間がかかるのも程があるってもんだけど。
サム・ペキンパー風味とはいえ女を手荒く扱う素振りだとか長い手足を思い切り見せ付けるポージングだとか車を追い越さんばかりのスピードで走っていく姿も大勢の敵を相手に一匹狼で挑んでいく潔さも一つ一つ男だったら真似してみたいかっこよさである。

それにしても早く亡くなったとは思ってたけどたった40歳だったんだなあ。

監督:村川透 出演:松田優作 田坂圭子 荒木一郎 内田朝雄 草野大悟
1978年日本
ラベル:アクション
posted by フェイユイ at 00:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月01日

『ボクサー』寺山修司

ボクサー.jpg

寺山修司さんが監督ということでずっと観なきゃと思っていた(一体いつからだ)やっと観た。
足に障害のある若いボクサーを清水健太郎が、かつてボクサーだったが今はすっかり落ちぶれ果てた男を菅原文太が演じている。
文太さんはいつもかっこいいが清水健太郎のこの時はなんとも目が悲しげで魅力的である。
作品中殆どがボクシングの練習か試合をしているストレートなボクサー映画なのだがそこは寺山修司。街の様子も登場人物も奇妙な雰囲気に溢れている。
健太郎さんはその後のイメージが強いので意識すると差しさわりが出てくるかもしれないが、この作品のみに集中して観て欲しい(何かと大変だな)

足に障害があることでボクシング・ジムから見放されてしまった青年・天馬は仕事中、恋敵を事故死させてしまう。死なせた男の兄がかつてボクサーだった隼だった。彼は勝てた試合を途中で放棄したことがあるのだ。試合に負けてしまった天馬は隼にトレーナーを依頼する。

どうしても寺山作品だということを思いながら観てしまう。命懸けのボクシングの試合、貧しいが明るく騒がしい下町の人々、自暴自棄になった中年男が犬と共にポスター貼りをしているところも一つ一つが詩のようだ。それら一つ一つに寺山修司の思いいれが強く感じられるのだ。
足がうまく動かないボクサー天馬の夢を見るような光る目にも殴られてマットに倒れこむ姿にもこめかみから血を流し鏡にその血がついてしまってまるで鏡自体が血を流しているかのように見えるのも寺山の詩の中の男として描かれているのだ。
沖縄出身という彼が「父を憎み母を憎み沖縄を憎みすべてを憎む」という言葉は寺山の詩そのものに聞こえる。
それでいて彼はただボクシングだけにとりつかれた男なのでありそういう憎しみというもので動いているようにも思えない。隼はその天馬に弟を事故死とはいえ殺され娘を手篭めにされたというのに彼を勝たせることだけに生き甲斐を持ってしまう奇妙な中年男である。
そういった奇妙さも寺山は詩だからと思えば納得させられてしまうのだ。
ここでは次第に視力を失っていく元ボクサーの中年男と足が思うように動かない若いボクサーが貧しさの中で体を鍛え殴りあう練習をしている姿が詠われているのだ。
それにしても目が殆ど見えなくなった隼の前で血だらけになりながらも試合に勝った天馬が彼の元に倒れ掛かる最後の場面でつい涙が溢れてしまうのは困ったことである。

薄汚れた街の名もなき貧しい人々と壊れかけた体の二人の男のやはり美しい詩のような映画だった。
監督:寺山修司 出演:菅原文太 清水健太郎 小沢昭一 春川ますみ 地引かづさ 具志堅用高
1977年日本
posted by フェイユイ at 23:16| Comment(0) | TrackBack(1) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『それから』森田芳光

それから.jpg

夏目漱石いいなあ。原作は未読だけどこういう文芸作品というのはいいものですね。漱石のは妙に理屈をこねる話なのでとても面白いです。
と言っても『それから』以外も殆ど読んではいないと言う自分だが。
『吾輩は猫である』は愛読書なんで漱石の理屈っぽさとか台詞回しなんかは映画にも感じられて嬉しいものでした。
後は『こころ』がゲイっぽいということで読んで、この前『夢十夜』そして昨日書いたけど松ケン帯の『坊ちゃん』を買ってきたところ。教科書で読んだぎりなので。
だから『それから』は映画を観てのみの感想になるが、これは面白く観れましたねー。代助という30前の男が主人公だが、金持ちの生まれをいいことに遊びほうけて仕事もしなけりゃ親の勧める縁談も断るという気ままな生活を続けている。実は3年前に好きになった女性がいたのだがどういうことか、友人に彼女との結婚を勧めてしまったのだ。その人・三千代も代助に惹かれていたのだがまったく打明けてくれない代助に復讐するつもりで彼の友人・平岡と愛のない結婚をしてしまったのだ。
なんだかもうどうしようもない話なんだが身も心もぷらぷらして定まらない彼らの生き方は今の我々そのもののようで当時より今の読者の方が理解できるのでは、と思わせてしまう。
代助の姿は最初から最後まで掴みどころのない頼りなさである。むしろ最後追い出された時、これでやっとこの男も少しは生きていけるんじゃないかと思ったのだが違うんだろうか。

ご子息の松田龍平君もだが父上の松田優作さんもかっこいいと評判の男性だったが自分的にはさほど好みの範疇でなかったのでこの映画も気になりながら未観のままだった。観よう観ようと思いながら20数年経ってしまったんだから時間の過ぎ去るのは早いもので。
私としては三千代の面白みのないダンナである平岡役の小林薫さんが好きなので映画の観方としては困ったことになる。まあ確かにこの映画としては冴えないダンナなのではあるが松田優作より小林薫さんのほうが好きだからなあ、などと思っていたら映画としては成り立たない。私は他の映画でもつまらない亭主を持った妻が他の男と浮気をする、という映画の場合、なんだかその真面目な亭主の方を好きになる傾向があって困るのだが。かっこいい男が嫌いなのかな。
とはいえ、20数年経って優作氏を見たらとてもいい男に見えてしまう。この映画のせいかもしれないが、あのスタイルと男らしい風貌で代助を演じていると凄く魅力的ではないか。子息・龍平君同様観ているうちに好きになってしまったのだ。
それになんといってもいい味だったのが三千代役の藤谷美和子。とぼけた雰囲気が個性の彼女だが、ここではその印象を控えながらも不思議な味わいのある女性になっている。
ところで彼女が代助の家で花器の水を飲むシーンがあるが、確かすずらんが活けてあった。「毒じゃないんでしょ」とわざわざ言うのだが、すずらんは毒性がある。あんなに飲んじゃってほんとに大丈夫なのだろうか。三千代という人妻が毒を飲んでしまう覚悟を持っているという演出なのかもしれないが。何故か同時に「ぴかごろごろ」という雷音がしたのでお腹をこわしたのか、とくだらないことを考えてしまったじゃないか(あ、これもしゃれだ)
そのときにすずらんの香を「いい香りね」という。また二人が百合の香りを一緒に嗅ぐシーンがあり、代助が蚊帳に香水をふるシーンもある。なんだかとてもいい香りのする映画のように思えた。

ねちねちねちねち、と考え続けているだけの作品みたいな煮え切れない感じだが、時代背景も含め非常に楽しんで観てしまった。
他の俳優陣、中村嘉葎雄 美保純 草笛光子 笠智衆 イッセー尾形 風間杜夫などもいい感じだった。
こういう作品もっと色々作られるといいのになあ。

それにしてもやはり父と子は似るものですね。先日龍平君を観たばかりなのでいっそう思ってしまうが顔だけでなく声も佇まいも。不思議なものです。お父さんのほうは男っぽくて男性の憧れみたいな存在でしたねー。息子さん同様私的には遅まきながらファンになってしまったようです。

監督:森田芳光 出演:松田優作 藤谷美和子 小林薫 笠智衆 中村嘉葎雄 美保純 草笛光子 笠智衆 風間杜夫
1985年日本
posted by フェイユイ at 00:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。