映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2008年09月30日

『マルティン・ベック Vol.5 警官殺し』ピーター・ケグレヴィック ダニエル・アルフレッドソン

警官殺し a.jpgユーハン・ヴィーデルベリ ( JOHAN WIDERBERG.jpg
MARTIN BECK-THE STORY OF CRIME

『笑う警官』もそうだが『警官殺し』というのも凄く印象的ないいタイトルである。よく真似して使われてるね。

冒頭に大人しそうな少年(16歳)キャスパーとちょっと破天荒な行動をする少女キアが出会い、閉門した夜の遊園地に忍び込み遊んでいるところに同じく忍び込んで密会しているらしき男女が小屋の中に入っていくのを目撃する。二人は赤い日本四駆車に乗ってきていた。飛んでいる少女キアはまた茶目っ気を起こしその四駆車に乗り込んだのだった。

密会と思われたその現場では男が女の首を絞めて殺してしまったのだった。そして遊園地の側で駐車し別の男女がこれも密会していたために現場から赤い四駆に乗った少年少女が逃げ出すのを目撃していた。

38歳の離婚暦のある1人暮らしの女性が何者に殺されたのか。すぐに容疑をかけられたのは彼女の家の隣人でその男はかつて自分の女房を殺した前科があるのだった。

真面目そうな女性が殺された謎、犯人は殺人者だった隣人なのか、別れた元夫なのか。
そして一方それと知らず真犯人の車に乗って逃げ出した少年と少女は赤い日本車を探していた警官に車を留められる。少年は恐怖で1人逃げ出してしまう。発砲した警官に少女は持っていたピストルを向けてしまった。
少女の弾は警官達に当たってしまう。かっとなった警官が少女を撃ち殺した。

やっぱピストルがあるといけないなあ。しっかしベックものが、というべきかスウェーデンドラマがというべきかドラマってのがそういうものかもしれないがいらいらさせられる。
指紋もすぐ採ってないし、密会のアベックが目撃したと言ってたのに報告してなかったり、少女がこんなことで殺されたり、ただ怯えてるだけの少年をヘリコプターで追いかけたり、なんかスウェーデン警察ってよくわからん。本当にこういうものなのか、単にドラマ上のことであって欲しい。まじで。

それは置いとくとして、ベックさんは素敵だし、ラーソンは相変わらず大きくて男らしくて大好きだし、寒そうな悲しげな背景はいい感じである。しかし寒かったろうな、キャスパーは。
ところでこのキャスパーくんを演じたユーハン・ヴィーデルベリ ( JOHAN WIDERBERG )は『あこがれ美しく燃え』『太陽の誘い』『ゴシップ』などに出ている彼、ということである。
確かに美少年で人気ありそう。自分的には美少年すぎてあんまりなんだけど(笑)このドラマではかなり出ているのでファンの方は観て損はないっすよ。
お兄ちゃんが痩せた庄司みたいでちょっと気になったけど。

ユーハン・ヴィーデルベリは『オーシャンズ12』にも出てたのね。誰だろう?^^;

監督:ピーター・ケグレヴィック ダニエル・アルフレッドソン 出演:ヨースタ・エックマン キェル・ベルキビスト ロルフ・ラッスゴル トーマス・ノールシュトローム ニクラス・ユールストルム ユーハン・ヴィーデルベリ
1993年スウェーデン
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2008年09月29日

『浪人街 RONINGAI』黒木和雄

rouninngai.jpgroninngai.jpg

昨日観たマキノ雅弘監督の『浪人街』が凄く面白かったので普通後で作られたリメイクものにはがっかりしてしまうものだが、これが全作品よりも上回って面白かったというのはちょっと他にはないかもしれない。

原作小説は知らないがマキノ『浪人街』とおおよそ同じストーリーながら細かい改変が色々となされている。こういうのも前作がいいと「変えないがよかったのに」となるものだが、前作は前作でよしとして本作の方がさらにいい感じに浪人街なのだった。

一番の設定の違いは浪人の4人が前作のは何もしていないのと比べると源内はここでも何もしていないが母衣は死体切りという仕事、赤牛はヨタカ相手のお習字の先生、孫八郎は仕事はしてないが小鳥をたくさん飼って世話をしているというキャラクターづけがあって特に前作では人のいい感じだったホロゴンさんがここでは眼力鋭い人斬りになっているというのが驚きだったが石橋蓮司さんの魅力もあってなんだかすげえかっこいいのであった。というわけで前作も本作もキャラクターが違うのにホロゴンさんが一番好きな浪人である。
ストーリーとしては孫八郎が帰参のため短刀を懸命に探すというのがここでは百両の金が賄賂として必要、ということになっていてストーリーがそのためすっきりとして妙な苛立ちを感じずにすんだ。源内がそれを持っていてどうしたのという部分が昨日はそう思わなかったがややめんどくさいものになっていたのかもしれない。
悪役は前作の不思議に優しい悪役じゃなく悪人らしい悪人を中尾彬が演じていて文句なし。
そして終幕。前作、帰参の為お新を助けに行かなかった孫八郎が本作では鎧兜に騎馬でもって駆けつける。それまで情けなかった孫八郎が最後に男になってみせる。しかし前作では弱虫だが美男子だった孫八郎が美男子じゃない単なる弱虫になっていたのがおかしい(いや田中邦衛さん好きです^^;)おまけに九州弁だったので九州の自分としては途中までどうも歯がゆくて最後に決めてくれたのでほっとした^^;
そうそう登場人物それぞれにお国訛りをつけたのも本作の特徴。凝ってるなあ。話し方だけでも違いが判る。顔見ただけでも充分わかるけど。
源内は会津、ホロゴンさんは四国、赤牛が関西で孫八郎は九州というところである。
好みは一番のラストの場面だろうか。生き残ったホロゴンが命を落とした赤牛の位牌を前に語りかけるのは同じだが、その後捕まえに来た役人と斬り合いになる前作と違い本作は母衣ひとり旅にでる。
皆に温かく送り出されていくホロゴン。そして前作の「浪人街の白壁に、いろはにほへと と書きました」の言葉ではなく「この30年後侍の時代は終わった」てな言葉になっている。
情緒でいくか事実のみ伝えるか、っていう好みかな。私はここはどちらも好きで決めきれない。
前作でかっこよかった小芳さんがいなくなって代わりにお葉という会津出身の女という伊勢屋の囲い者みたいな人が出てくる。小芳と違ってこれはちょっと悲しい人である。本作ではお新が前作以上に気が強くて活躍するのでかっこいい小芳まで出したら目立たなくなる為、やや大人しい女性に変更したのだと思う。その辺のバランスもうまい。
おぶんはあらまあ町人になってしまったのかな。これも驚きだがいいのかもしれない。

顔の大きな3浪人といっていた前作と違いさすがに新しい方は感覚的にかっこいい。原田芳雄の源内はなんだか色っぽくて悪な感じが素敵である。でもやたら裸体を見せてる感じがするのだが。いいけど。ジャングルの王者ターザンみたいだったけど。
赤牛=勝新太郎、その名前の割にはちょっと控えめな出演だった気も。それでもかっこいい。やっぱ座頭市のイメージがあるからなー、もっと観たかった。
石橋蓮司の母衣権兵衛。とにかく好きだ。死体を斬る、という怖ろしい仕事をしており、金は持っているが愛を求めている悲しく辛い眼差しの男である。体には死の匂いが染み付いている。
殺陣がまるでブルース・リーのような表情だった。

監督:黒木和雄 出演:原田芳雄 石橋蓮司 樋口可南子 勝新太郎 田中邦衛 杉田かおる 伊佐山ひろ子 中尾彬 水島道太郎 佐藤慶 長門裕之
1990年日本
ラベル:時代劇
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2008年09月28日

『浪人街』マキノ雅弘

浪人街.jpg

最初画面が揺れて閉口したが(多分劣化したフィルムでDVD化したせいだろう)観ていくうちに面白くなり気にならなくなっていった。
とはいえなかなか台詞が聞き取りづらくおまけにぴんとこないので日本映画なのに日本語字幕を出して鑑賞。漢字がわかる方が理解しやすいので字幕はありがたい。

登場人物が知らない上に顔の大きなおじさんばかりなのでこれも最初困惑ものだったが次第にこれも気にならなくなる(笑)
主役の源内=近衛十四郎は特に顔がデカイのだが女にモテモテの色男。妻であるお新にスリをさせて金を稼がせては外で遊び歩き金がなくなるとやっと家に帰ってくるというとんでもない浪人者なのだ。妻お新はこのぐうたら亭主にぞっこん惚れていて帰ってくると大喜びで歓迎しなんともなよなよと色っぽいのである。美人で色っぽくて金を稼いでは亭主に小遣いとして与えてくれる。なんだか夢のような理想の女房であるが色男源内は「男をつなぎ止めるのは金だけだ」と言い、金を出せと刀の鞘でお新の体をいたぶるとんでもない奴なんだがお新は惚れこんでいるというわけ。
このお新を密かに思っている母衣権兵衛=藤田進と母衣(ホロと読むのだ、へー)に男惚れしている赤牛弥五右門=河津清三郎が源内とケンカしたりして三つ巴の様相を呈してくる。
この3人が顔デカおじさんで主に絡んでいるので現在の映画の傾向からするととんでもないみたいなもんだが見慣れてくれば面白いんだから不思議である。
唯一、土居孫八郎=北上弥太朗さんは細面の美男子なのだが、優男だけにどうにも頼りなくて妹に甘えっぱなしでイライラする。つまりお坊ちゃんの侍が浪人になって傘張りなんかをしてるのだが食うのにも困って宝刀を売ってしまう。そこへ帰参の話が舞い込むのだがそのためには宝刀が必要なのだ。やっと夢がつかめるかというのに肝腎の刀がない兄はやけになって酒びたり。そんな兄を妹は体を張って救おうとする。
源内はこれ以上ないいい女房を見捨てるようなことをするがその女房は泣き言も言わない。
なんだか出てくる男達、母衣さんを除くとみんなどうしようもない体たらくの奴ばかり。女だけが必死で働いていて男は情けない。ん、この感じ、この前観た『色、戒 ラスト、コーション』の時に感じた男の不甲斐なさに似ている。なんとかしようと頑張る女達を利用して男達のだらしないことよ。
ま、しかしこちらは最後は母衣さんは無論だが源内も赤牛も身を翻して戦ったからまあいいや。あの優男の兄貴だけは駄々っ子みたいに泣き喚いてやっと帰参したようで苛立つばかりだったけど。
愛しいお新さんは結局遊び人の亭主と仲良くなったのかどうかはわからないが母衣さんは斬り合いで死んでしまった赤牛のために赤牛が好きだった居酒屋で酒を飲んでいるところ「御用だ、御用だ」と岡っ引きに踏み込まれこれまた斬り合いになる。
一部始終を見守っていた小芳=高峰三枝子が最後も母衣を見つめていた。
「浪人街の白壁に、いろはにほへと と書きました」
と最後画面に書かれる言葉である。

浪人ばかりの世の中、という設定が今現在の世間のようでもある。つまりニートなわけである。定職もなくぶらぶらとする若者、といっても結構いい年をした若者なのである。
そうしたフリーターな剣士たちが「自分には才能があるんだがな」とひとりごちりながら先の見えない将来をひそかに夢見ている。

男たちはなんだかどれも情けないのだが、女たちが個性が合って面白い。小芳役の高峰三枝子がかっこいい。この髪型は男風なのだろうか。ちょっといなせで素敵なのだ。
お新は先に書いたが美人で色っぽくて亭主に恋する一途な女房。といっても少し思いを寄せてくれている母衣にも好意を持っている。
気弱な兄を持つ妹おぶんも兄のために懸命に動き回る。優しげだが武家の娘なので結構強かった。

大変面白い娯楽作品、というところだろうか。やはり今の時代劇映画とは随分違う箇所が色々とある。
居酒屋の室内も階段状になっていて壁に酒樽がたくさん置いてあるのから枡に注いで飲むようになっている。女性の髪形もバリエーションがあって楽しい。
悪役の小幡の兄が商人近江屋の入れ知恵で捕まえた女・お新を牛裂きの刑にしたら、というのを「かわいそうだ」というのがおかしい。優しい悪役である。確かに酷いよな。今の映画みたいに残酷なことばかりするのでないのが嬉しい。
源内と赤牛の斬り合いで刀同士がカチンとあたる度に火花が散るのは驚いた。あれは映像処理なのか。ほんとに火花が散っているのか。

情けないけど強い男達とそれを支える女らしい女達の時代劇だった。

監督:マキノ雅弘 出演:近衛十四郎 河津清三郎 藤田進 高峰三枝子 水原真知子 北上弥太郎 北上弥太郎 龍崎一郎
1957年日本

ラベル:時代劇
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ギレルモ・デル・トロ、今後の予定には「スローターハウス5」リメイクも?

超売れっ子ギレルモ・デル・トロ、今後の予定には「スローターハウス5」リメイクも?

どの作品もデル・トロ監督らしいのだろうが『スローターハウス5』とは!確かにイメージは湧くが。
昔ジョージ・ロイ・ヒル監督のそれを深夜TVだかビデオでだか観たと思う。
カート・ヴォネガット原作のこの映画、リメイクはな〜と思う私だがデル・トロ監督でこれなら絶対観たい!!

『スローターハウス5』
posted by フェイユイ at 00:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月27日

『盲獣VS一寸法師』石井輝男

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昨日観た増村保造『盲獣』が江戸川乱歩の原作から核となる盲目の男と1人の美しい女の交わりの部分だけを抽出したかのような濃厚さだったのに比べ、こちらは『盲獣』に同じく江戸川乱歩原作『一寸法師』を加えて作られており、『盲獣』の箇所も原作のようにたくさんの女が登場し且つ一寸法師が絡んでくるという混沌とした物語になっているがこれはこれで奇妙な面白さがあった。

美術・音楽に金がかかっていない作品に我慢ならない性質なら観ないほうがいいだろう。その他の役者陣は素人だし映像も背景も怖ろしくお粗末なのだから。
自分はそういうところは却って面白いと思ってしまうのだがそれでもかなり覚悟を決めた粗末さである。
例の盲獣の隠れ家は昨日のオブジェが迫力だっただけにみすぼらしくて悲しい。これでは芸術とは言いがたい。
『盲獣』ではその人が主体で彼の心の葛藤が伝わってきたがここでは明智と小林が主人公になっているので『盲獣』と『一寸法師』は単に気持ちの悪い存在になってしまった。その分本当に気味悪く怖ろしい。
明智小五郎に塚本晋也。他が他だけに抜群に上手く見える。その友人の小林紋三にリリー・フランキー。私は多分彼が演技しているのを初めて観たと思うがなかなか面白い味のある雰囲気であった。この二人が主役なのだからそれだけでも変てこな作品になりそうな予感はする。
なんとなくぼーっとしたリリーさんとびしっと決める塚本晋也さんのコンビはバランス取れてていい感じだった。でもすらりとした長身というイメージの明智さんと美少年小林くんとは違うがなあ。

グロテスクさはこちらの方がより激しいがエロチックさは裸は出てくるもののあまり感じられない。ユリエ夫人が美人で着物姿で登場しているのが一番エロチックだった気がする。
全体の印象としてはこの前観た『姑獲鳥の夏』の世界と似ている。

石井輝男という監督はこれまで知らないと思っていたが『網走番外地』の監督であった。まったく違ったジャンルのようだが確かにあれも奇妙に変てこな感覚があった。いきなり逃亡者の相棒が健さんを襲ったり。
本作は紛れもない変な作品だろうが意外とクセになりそうな不思議な味であった。
及川光博、丹波哲郎がちょっとだけ出てくる。

監督・脚本・撮影:石井輝男 出演:リリー・フランキー/塚本晋也/橋本麗香/藤田むつみ/丹波哲郎 /リトル・フランキー/平山久能/鳴門洋二/薩摩剣八郎/及川光博/しゅう/手塚眞/園子温/熊切和嘉/中野貴雄/アスベスト館
2003年日本
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鬼才キム・ギドク監督、オダギリジョーの大ファンだったと明かす

鬼才キム・ギドク監督、オダギリジョーの大ファンだったと明かす【第56回サン・セバスチャン国際映画祭】

キム・ギドク監督の怪我があまり酷くはなかったということでよかったです。映画との関連が不思議です。

ギドク監督、オダジョーのファンでしたか。ナオさんはどうなったの?(笑)
ラベル:キム・ギドク
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魔杰座 (CD+DVD) (スチールケース入り限定版) (香港プレオーダー版)

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魔杰座 (CD+DVD) (スチールケース入り限定版) (香港プレオーダー版)

予定通り発売されますように!
早く欲しい!!!!
このカードすてき!!!!!!!
posted by フェイユイ at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月26日

『盲獣』増村保造

盲獣.jpg

先日も江戸川乱歩原作のオムニバス映画『乱歩地獄』を観たわけだがそれより遥かに昔勝るとも劣らない迫力ある作品である。
江戸川乱歩の映画化というのはまず興味はそそるが原作を知る者ほどがっかりしてしまうことがある。この作品はそういう類ではないのは確かだ。
というのは原作『盲獣』のイメージだけを取り上げて複雑な内容を思い切りシンプルにまとめてしまったせいもあるのだろう。
舞台は展示場とアパートと隠れ家の3箇所のみで登場人物も美しい女性と彼女を誘拐する盲人の男とその母親の3人だけである。
ヌードモデルをしている女性アキの魅惑的で奔放なヌードが写真展示場で示される。当時の革新的なヌード写真のイメージがよくわかる。単なるヌードではなく革命的な女性という意味を持つものらしい。
まだ人の出入りもない頃に彼女のヌードを元に彫刻家が作った裸体像を撫で回している男がいた。それが盲目の男・道夫で彼はアキの裸体像の美しさに惹かれ彼女を誘拐する。
と、ここまではよくある(?)異常者の話なのだが盲目の道夫の共犯者が彼の母親なのだ。
彼女は母親の持つ異常な情熱で持って息子の犯罪に手を貸し、逃げ出そうとするアキを取り押さえ息子が特技である彫刻がうまくはかどる様手助けするのだ。
盲目の道夫のアトリエの異常な造形が凄まじい。道夫が目が見えない為に灯りのない部屋で懐中電灯で照らすことで浮かび上がらせより恐怖感や異常性を印象付けている。巨大な女性のオブジェの上でもつれ合うアキと道夫の姿はなんとも言えずグロテスクである。
そしてさらに物語はおかしな方向へ向かっていく。監禁された無力の女性であるアキが道夫を取り込み始め母親にたてつくよう仕向けていくのだ。女性を知らない道夫に心を開いて愛しているかのように見せかける。今まで寄り添って生きてきた盲目の道夫と母親がいがみ合う様子を見つめるアキの目は嘲笑っているかのようで立場が逆転してしまったかのようだ。
息子のために誘拐してきた女性が途端に煩わしくなった母親はそれまでいつも従っていた息子に背いて彼女を逃がそうとする。
アキに夢中になっていた道夫はついに母親を殺害してしまう。
そして二人はさらに異常な性愛へと溺れていってしまうのだ。
盲人を卑下していく描写や監禁された女性が男を愛してしまうという筋書き、さらに互いの体を切り刻んでいくという惨たらしい結末のどれをとっても今では映画になどできそうにもない。教訓めいたこともなくまるで人間は誰でも何かのきっかけで異常な性愛に目覚めてしまうのだ、といわんばかりであり、その先には死しかないということが彼らの愛の行き止まりを確認させるだけである。

道夫を演じた船越英二が鬼気迫るねちねちとした嫌らしさであり、どうにも気色悪いが無論それでいいのである。
アキ役の緑魔子のもしかしたら彼女の方が盲獣なのかもしれない。監禁され触感の喜びを知るようになってから彼女自身も目が見えなくなり触覚だけが研ぎ澄まされていく。そして体が受ける感覚だけが快感になり次第に痛みを求めていくようになるのだ。
閉ざされた部屋のオブジェの上での二人の絡みは映画というより舞台劇のようでもあり暗闇の中で互いの体を弄ぶことだけが快楽となった男女の性愛が描かれる。
「痛み」を扱った映画をこれまでも観てきたがここまで直接ではっきりと表現したものもあまりないだろう。
江戸川乱歩の原作でありながら古き時代のエロティシズムなどという逃げ方ではなくこれもはっきりとした変態性愛としかいえない形で表している。道夫の盲人である悲しさと滑稽さと恐ろしさも隠すことなく暴かれてしまっているのである。

監督:増村保造 出演:緑魔子 船越英二 千石規子
1969年日本
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2008年09月25日

『ケレル』ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

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Querelle

何度目かの鑑賞。初めてDVDで観る。
ジャン・ジュネ原作『ブレストの乱暴者』をまるで舞台劇のようなセットでファスビンダー独自の世界観で描いている。
いつも夕焼けが染みたような赤い光が射しているブレストの町に入港した船の上では水兵たちが忙しく働いている。逞しい水兵たちを眺めながらセブロン少尉のモノローグで物語が進んでいく。
セブロンは若い水兵ケレルを愛している。

「ブレスト」という言葉が「ブレッスール=決闘好き」から来た言葉であるらしく、またケレルは「喧嘩」という意味らしい。
つまりこの町もケレルも荒々しいイメージを起こさせるのだろう。

登場人物はジャン・ジュネの美学で行動しており、麻薬、殺人、男色、裏切り、などという一般に背徳とされるものが描かれる。
ここでは同じ殺人者ということで仲間意識が共有され、その上で裏切りもある。居酒屋兼売春宿と思しき店の主人ノノをはじめ警官も左官のジルも皆ゲイなのだがゲイであることに罪の意識がある。

ケレルは演じているのがブラッド・デイビス。『ミッドナイトエクスプレス』の主役だった。
ここでは店の主人ノノ、警官マリオ、セブロン少尉、左官屋のジルから好意を持たれる逞しい肉体の水兵になっている。
彼の可愛げがあってやや寂しげな表情が若い水兵にぴったりである。殺人、裏切りと背徳行為を犯し続けるケレルが最後セブロンに甘えるように寄り添うのが印象的である。
そんなケレルをずっと覗き見てその狂おしい思いをテープに吹き込んでいるのがセブロン少尉のフランコ・ネロ。マカロニ・ウェスタンのヒーローだった彼がこういう役を演じていることに驚いたものだが水兵に密かな恋をする将校の孤独はさすが男らしくかっこいい。
ゲイのノノの妻で「ラ・フェリア」で歌っているリジアヌにジャンヌ・モロー。ケレルの兄を愛人としていてケレルにも興味を持つ。だがケレルもその兄ロベールも本当に愛しているのは彼女ではない、という悲しい女性。彼女の歌う「誰もが愛する者を殺す」という歌がこの映画の主題であるようだ。

ファスビンダー監督のいつもの愛すべき遊びで劇中この時代にないものが登場してくる。セブロン少尉が思いを語っていたソニーの小さなテープレコーダー、そして画面のあちこちに置かれるオートバイ。特にスズキのカタナは何度となく画面の正面に配置されてロゴとデザインがはっきりと映し出されている。ドイツの工業デザイナーハンス・ムートがデザインしたこの美しいバイクはそのネイミングとともにケレルの作品に似合っている。

監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー 出演:ブラッド・デイビス ジャンヌ・モロー フランコ・ネロ ギュンター・カウフマン
1982年ドイツ/フランス
ラベル:同性愛
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『M』廣木隆一

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廣木隆一監督作品を幾つか観てきたが、どれもエロティック且つどこか幻想的なお話であった。
裕福な生活をしている夫婦がいる。淡々としたリアルな日常の中に危険な予感がある。謎めいた雰囲気の青年がその美しい人妻に出会い近づいていく。幸せなはずの人妻が危険な道へ入り込んでいく。出会うはずもない青年と人妻の人生が重なり青年は犯罪を犯す。登場人物が嘘の話ばかりを口にするので何が本当なのか嘘なのか判らなくなってくる。この物語は現なのかそれとも誰かの幻想なのか。
という物語で思い出してしまったのがキム・ギドクの『うつせみ(空き家、3-iron)』である。筋書きは何も似てはいないが、幸せな生活に倦んでしまった美しい人妻と危険な香りのする謎の美青年、退屈な夫、という構図が重なって思い出したのかもしれない。しかも『うつせみ』のジェヒと本作の高良健吾が不思議に似ているのである。
申し分なく幸せな家族のはずがそれぞれの心に何が隠されているのかはわからない。
これは幸せな生活に飽いた妻の危険な空想だったかもしれないし、美しい妻を持ちながらどこか安心しきってしまっために突然不安を感じた夫のエロティックな妄想だったかもしれないし、またそういう人妻に恋慕した青年の願望だったかもしれない。
またこれがすべて本当に起きたことであっても最後二人がそのまま何事もなくもとの生活に戻れたとも限らない。殺人事件はやっと報道されただけにすぎないのだ。
幸せにキャッチボールする父子とそれを見守る母親が嫌疑をかけられ逮捕されるのかもしれない。
そしてすべてが明るみに出た時夫と妻とその子供はどうなっていくのか。
ごく幸せそうなラストのすぐ側に転落の時が待ち受けているのかもしれない。

最近結婚で話題になった美元の美しくもエロティックな肢体に魅了される。
ナオさんはここでは何故か妻にはっきりと意思表示ができないあやふやな夫を演じているのだが、私としてはセクシャルな雰囲気も感じられてしまうのだった。
ところでこのDVDのパッケージ写真が凄く素敵で買ってしまったところがあるのだが、この写真だけ荒木経惟だったのだ。美元さんのセクシーさも尋常じゃないがナオさんが凄く素敵なのだ。

監督:廣木隆一 出演:美元 高良健吾 大森南朋 田口トモロヲ
2007年日本
posted by フェイユイ at 00:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 大森南朋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月23日

『姑獲鳥の夏』実相寺昭雄

姑獲鳥.jpg

人気作家・京極夏彦原作の映画化で自分は小説は未読ながらなんとなく小説を思いながら観てしまった。
というのは小説を読んでもいないので勝手な想像だが小説にこだわってしまった部分が多いのではないかなと感じたのだ。
実相寺昭雄監督作品はいくつか観ていて特にこういった
明治から昭和初期を舞台にした作品は独特の魅力があって大好きである。変に芸術的に構えずエンターテイメントな作風なのも却ってそれらしい雰囲気が感じられるのだ。
ただ本作は原作を大事にしすぎてしまったのだろうか。色んなものが詰め込まれすぎでしかもどこか語り足らないままのように思われる。
京極小説を知らないのだが、それでも榎木津という名前を聞いたことがあり、この作品にも登場してくる。
だが本作では関口と京極堂の主人が主体になっている為、少しだけ登場してくる榎木津という人物の存在が必要ないのでは、と思ってしまうのだ。イメージ的にも榎木津と京極が重なってしまうのでこの作品のみのことを考えれば榎木津の能力を京極が兼ねていてもよかったしすっきりしたように思う。多分そんなことをしたら榎木津ファンから怒りの声があがるんだろうけど。且つ田中麗奈演じる京極の妹ももっと活躍させるのかいないのかどっちかがよかったのでは。つまり無用に登場する人数が多すぎてシリーズ物とかならわかるけど単品としては意味なく複雑になりすぎているようなのだ。
物語と演出もわざと複雑にし奇妙な台詞を多用して作品をあえて判りにくいものに思わせているようだ。
実相寺作品はそう難解さを売り物にしているものでもないと思うので内容過多な(と想像する。あの小説の分厚さとかで)京極夏彦作品がさせてしまったのかもしれない。

とはいえ元々こういう怖ろしい話が好きな性質なので若干設定が判りにくいとはいえ、なかなか楽しめた。
「姑獲鳥」というのは特に女にとっては悲しい妖怪である。この作品ではあまり描かれていないが女性を貶めているとしか思えない発想で気の毒にも産褥で亡くなった女性は血の池地獄に落ちるのだなどとあまりにも理不尽な考えで頭にくる。ホラーの恐怖というのは怖いだけではなく常に悲劇を伴うもの、もしくは悲劇であるほど怖ろしいものなのだが因習に囚われたがために人格を破壊されてしまう人間の悲しさ、業の深さを思い知らされてしまうのだ。
ここではその恐怖と悲しみをすっかり楽しんでホラー作品にしているものなのでおせんべいでもかじりながら「ウブメって怖いなーぽりぽり」みたいな感じである。
やっぱり日本人は中国やインドから渡ってきた学識を日本流にアレンジしたものが怖くも楽しいわけなのである。
とはいえ自分は昔いもしない西洋のハーピーがマジでいるような気がして鳥を見てぎゃっとなっていた。つまり見えないものを見てしまっていたわけだ。

本作は出演者も豪華でなんだか主演級の役者が勢ぞろいみたいなところも満腹状態、どの人も中心人物みたいみ見えるのもいけないのかもしれない。しかも皆年齢に大差がないので学芸会みたいに見えてしまうのだ。堤真一 永瀬正敏 阿部寛 宮迫博之 原田知世 田中麗奈 って誰が主人公なのかわからない。だもんで榎木津有名だし、阿部寛だったんでコレか!と思ってたらあまり出てこなかった。あれれ。
田中麗奈も可愛くていいなと思ってたのにあまり出てこないし。永瀬正敏は眼鏡も似合ってて不安定な精神状態の青年がよかった。堤真一はそれほど大好きでも嫌いでもない人なのだけど和服姿がセクシーでちょっと見惚れてしまった。男の人の着物姿っていいですね。

自分としてはそれほど堪能する、ということもないけれどそれほどグロテスクでもエロな部分もない作品なので楽しく怖がるにはいいのかもしれない。

監督:実相寺昭雄 出演:堤真一 永瀬正敏 阿部寛 宮迫博之 原田知世 田中麗奈 清水美砂 篠原涼子 すまけい いしだあゆみ 京極夏彦
2005年日本
ラベル:ホラー
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2008年09月22日

『安城家の舞踏會』吉村公三郎

安城家の舞踏会.jpg

これぞ珠玉の名作、などと讃えてもいいのだが、映画というのはやはり時が経つととても不思議な感覚になってしまうものなのだろうか。
無論この映画が終戦からまだ日の浅い時期に作られているということも関係しているのだろうが。
没落貴族というテーマがそのままある種の優越感を持っていた日本人が敗戦したことで古き日々を懐かしむ感覚が重なって当時感じられていたのかもしれない。

チェーホフの『櫻の園』を下敷きにして日本の没落華族の悲劇を描いた作品。
一度も働いたことがない華族の一家が屋敷を手放さないわけにはいかないほどの苦境に追い込まれ最後の舞踏会を催す決心をする。
自尊心が高く頼りない父親を献身的に支えようとする次女あつこ(原節子)は家柄を捨てるこれからが本当の人生になるのだと前向きであるそれと対照的にどうしても華族を捨て去ることに抵抗のある父と長男長女。
屋敷の中のみを舞台にした僅か数日間の物語を美しい小説を読むように描き出している。
だが原節子の気高い美しさも他の華族たちの容貌や言動もなにかシュールなものを観ているようでこういう見方をしたら怒られそうなのだがどうしても不思議な世界として面白く観てしまったのだ。
例えばもっと近い時代の映画である『それから』だとそういった違和感はまったくない。まったくないがゆえにこういうあり得ない面白さはなくなってしまう。
長男正彦(森雅之)と肉体関係にある小間使いキクとのやり取りはどうにもやりきれない愁嘆場であるがあまりにも芝居がかっているために却って奇妙な面白さを感じてしまう。
元運転士が安城家の長女に恋心を持っていた、というのはこの時代には無理がある気もする。「汚い」と罵しられても恋心をつのらせる運転士は彼女のために大金持ちになっていてグレートギャッツビーのようである。ギャッツビーも汚い手で金儲けをしたのだが、本作の彼は「必死で働いた綺麗な金だ」と言い張る。いくら頑張っても綺麗に金儲けができるものだろうか。そのまま闇成金というほうが納得いきそうだが。
パリへ絵画のために留学したことのあるパパはなんともひ弱で次女あつこはそんな父をひたすら愛し庇っていく。可愛い娘のお手本のようだ。
新しい世界へと歩みだせない父親がピストル自殺しようとするのを見て物凄いタックルでピストルを弾き飛ばす。ひ弱だからあっという間に倒れてしまう父。そんな父にすかさず「ごめんあそばせ」というあつこ。自殺しようとする父にタックルして阻止し突き飛ばしたことをあやまるこの礼儀正しさ。さすが華族といえよう。
なんだか小馬鹿にした言い草になってしまったがこんな不思議な面白さは今作ろうとしてもなかなか作れるものではないだろう。
あくまで格調高く、際立った脚本・演出・撮影の上でこの不思議さ加減。
そうだなんとなくしりあがり寿さんを思わせるのだ。
きっと明晰な頭脳なのに変てこなのである。
最後の娘と父親のダンスの場面では心温まる感動で涙すら浮かびそうだったがやはり不思議なのだった。
家令の吉田(殿山泰司)がお二人のダンスを見ているうちに居眠りしてしまう、というくだりもなんだかおかしいのだよね。
原節子の麗しき笑顔全開の場面が最後の決めで、とんでもない異次元ワールドを覗き見た気分であった。

戦争に負けたことで日本を占領されていく感がある時期に由緒ある屋敷を奪われる華族の気持ちが共感できた当時なのかもしれない。
演出は随分ハイカラでモダンなのだろうが登場人物の言動はまだまだ古めかしく感じられる。
豪華な舞踏会のはずだが随分地味に見えるのも戦後直後だからだろうか。
原節子が気高い美しさは比類ない。

監督:吉村公三郎 出演:滝沢修 森雅之 原節子 神田隆 津島恵子
1947年日本

ラベル:家族 歴史
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2008年09月21日

『色、戒 ラスト、コーション』アン・リー

色、戒22.jpg
LUST, CAUTION

うん、非常に楽しみました。男と女の恋愛は戦争なのよ、という感じでしょうか。

戦争もの、というのはいつも悲劇であると同時にあまりの空しさに馬鹿馬鹿しくて笑いたくなってしまうものだけど、ここでも男たちはいかにも男らしく勇敢なことを言ってみせるくせに実際矢面に立たせるのは女を使うものなのだね。それは日本でもどこでも同じようなもんじゃないのかと思うんだけど。
優男面して(ワン・リーホンごめん)いかにも愛国心があり女性にも優しそうな素振りの大学生クァンなどチアチーを抱くことすらしない。自分はまるでいい人間のフリをして全部女のチアチーに危険を押し付け心配して見せたりするのが腹が立つ。「君を傷つけさせはしない」って女が自分の意思でなくセックスさせられてるなら充分それが「傷つけられていること」だろうが、この坊ちゃんはそんなことすら気づかないんだよ。そしてチアチーが心を決めてイーと戦っている最中にキスをしたりする。っもう馬鹿だこいつ。
抗日運動の幹部らしき男も妻子への復讐の為なら何でもするみたいなこと言ってチアチーがイーとのセックスの惨たらしさを話し出すと我慢できずに止めろとどなったりする。何でもするなら自分でやれっつーの(トゥオ・ゾンファ様ごめんなさい)
おいおいこれって結局全部チアチーの肉体だけに依存しすぎじゃないの。「もう少し油断させて、もう少し機会を待って」ってなんだかもっと早く暗殺できそうに思えるんだけどねー。最後なんてもっと早く踏み込んでたらよかったんじゃ。入ると同時にとかさ。仕事が遅いんだよね。
どうも情けない男達を仲間にしてるね、不幸なチアチー。

そんなチアチーは自分の意志の抗日ではなく憧れの男性だったクァンのために逆賊であるイーをたぶらかし、仲間にイー殺害の機会を作ることに没頭していく。
勝負に勝つことだけを考えてイーとチアチーの言葉と体の駆け引きは相手の考えと動きを読んでいく。
ちょうど麻雀で相手の手を読んでいくように。
常に相手を疑い誰にも心を許さないイーがいつしかチアチーを信じ愛するようになっていく。
勝負はチアチーの勝ちなのか。
イーは指輪(中国語で指戒)をチアチーに贈る。妻にも贈ったことのないような素晴らしいダイヤを。その指輪が警告を呼ぶことになる。
チアチーはイーが心を許した印であるその指輪(指戒)を見つめイーの緊張のほぐれた目を見つめてとうとう言ってはならない一言を言ってしまう「逃げて」
その言葉でイーはすべてを解したのだ。

チアチーはイーの組織に仲間と共に捕まり処刑される。勝負はイーのものになったのか。
だがイーはチアチーを愛してしまったのだ。イーはもう誰も愛することはできなくなるのだ。人を愛することができなくなった者はもう何の幸福も感じることはできないだろう。

戦争の中で男らしさを叫ぶだけで何もできないみっともない男達。何もしなかったくせに最後にチアチーを責めるかのようにみる哀れな男よ。
勇敢に戦ったのはチアチーだけだった。
アン・リーは愛のために戦う強い女と戦ったふりをして戦えない弱い男を描いたのではないだろうか。

それはそれとしてとにかくこの時代の中国の話が大好きなのである。抗日という背景があるので日本人としては居心地は悪いが混沌としたこの時代面白くてしょうがない。
上海が舞台になっていることもあって言葉からして中国普通語、上海語、広東語、英語そして中東語(どこかわかんない)が映画の中で入り乱れて話される。字幕だとその辺が一緒くたになるのでいまいち面白さがわからないが雰囲気だけでも楽しいものだ。
タン・ウェイの幼顔なのにすらりとした長身をチーパオで包みまだ初々しいくせに妖しさがある色香を感じさせる。
チアチーがここまで演じきれたのは愛するクァンに認めてもらいたかっただけで、チアチーの心がイーに移った時すべては崩れてしまう。以前はそういうのは女の弱さのようで嫌だったがそれが当たり前のことではないか。女を使って戦争したつもりになっている男たちよりよほど強い精神を持っているのだ。

さて、話題の一つであろうチアチーとイーさんのセックスシーンについても触れないわけにはいかないだろうな。
とにかく最初に話題になったのがカンフーまがいのアクロバチック且つ濃厚なベッドシーンがある、ということだったように思う。
私もどんなものかと思いすぎて武侠ものの空中戦みたいなのを想像してしまっていたがさすがにそういうことではなかったのだね。
確かに接触部分が露骨に感じられるとは思ったがこのセックスシーンに二人の戦いの駆け引きが盛り込まれているわけなのでそういう意味では確かにカンフーと言っていい格闘シーンだ。
愛でしっとり濡れたというより敵の内部に入っていこうという男と女の探りあい、みたいなもんなんで。ベッドシーンがそのまま二人の戦いになっているということでやはりこれはなくてはならぬ場面なのである。


監督:アン・リー 出演:トニー・レオン タン・ウェイ ワン・リーホン ジョアン・チェン トゥオ・ゾンファ
2007年 / アメリカ/中国/台湾/香港

posted by フェイユイ at 22:48| Comment(4) | TrackBack(1) | 台湾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月20日

『やわらかい生活』廣木隆一

やわらかい生活.jpg

久し振りにナオさん目当てで観たのだがこれは短かった。いや作品がじゃなくてナオさん登場時間。あっという間。しかもなんだか照明の傘に隠れてるしさー。ナオさん目的としては寂しかった。

とはいえ、本来の物語と寺島しのぶはなかなかいい感じでありました。
両親や友人を亡くしてしまい、精神を病んで社会からドロップアウトした30代の独身女性。自分はそういう境遇ではなかったので共感というと嘘になるが彼女のどうにもならない自分に対してのイライラ感というのはわかる気もする。境遇は違ってもそういう感情というのはどこからか生まれてしまうものだから。
ただこの物語はそうした不幸な女性を描いてるわけでもなくて物凄く羨ましいお話だったりする。
何人もの男性に好かれてしまうし、かっこいいトヨエツからはいたれりつくせりで介護されて「いいなあ」と女としてはみんな羨むことだろう。
酷い鬱状態になってしまった彼女に美味しいお粥を作ってくれたり、髪を洗ってくれたり。しかも背の高いこと、足の長いこと、かっこいいったらないのだ。
う最悪の状況にいる彼女だが作品として描かれている間の彼女は物凄く羨ましい生活を送っている。
同じように精神を病んでいる繊細なヤクザの若者との出会いやかつての同級生との再会も実際こういうことあるのかな、と思ってしまう。
彼女との出会いで彼ら男の方もなにかいい方向へ行きそうな予感をさせて物語のラストは唐突に悲しいものとなる。
最後のトヨエツの声は彼女の幻聴のなせる技か、という布石もあってより寂しくも温かくも感じる。

監督:廣木隆一 出演:寺島しのぶ 豊川悦司 松岡俊介 田口トモロヲ 妻夫木聡 柄本明 大森南朋
2006年日本
ラベル:大森南朋
posted by フェイユイ at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 大森南朋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ジェイ・チョウ 新アルバム『魔杰座』10月発売

魔杰座.jpg

ジェイ・チョウ 新アルバム『魔杰座』10月発売

『魔杰座』という言葉が摩羯座(山羊座)と同じ発音なんてかっこいいなあ。
posted by フェイユイ at 20:19| Comment(2) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月19日

『DEAR WENDY ディア・ウェンディ』トマス・ヴィンターベア

DEAR WENDY.jpg
DEAR WENDY

ラース・フォン・トリアー脚本のアメリカを舞台にした映画。とはいえなんだか不思議な感覚。炭鉱の町のせいか登場する若者達の雰囲気のせいかアメリカというよりイギリスみたいなのだが、あくまでもこれはアメリカの銃社会を思い切り皮肉った風刺劇なのだった。

「負け犬」と自分達を卑下する若者たち。親父に勧められる炭鉱で働くことに反抗するディックは大嫌いなセバスチャンにプレゼントする為おもちゃのピストルを買ったことから人生が変わる。
結局セバスチャンにはあげなかったそのピストルがおもちゃではなく本物だということがわかったのだ。
小さな店の同僚であるスティービーは銃に関して抜群の知識を持っていた。孤独だったディックはスティービーと共に銃について研究し練習を重ねていく。ディックがおもちゃと思って買った小さいが威力のあるその銃には「ウェンディ」という女性名をつけた。負け犬だったディックを変えたウェンディに彼は強い愛情を持つのだった。

同じような町のはぐれ者たちを集めて「ダンディーズ」となのり、廃坑を宮殿と言って夜毎親交を深めていく彼ら。
あくまでも「平和を愛する銃同好会」である彼らの前に銃で人を撃ち殺したことのあるセバスチャンが登場したことから彼らの平和が壊れていく。

「ダンディーズ」の集会の辺りは子供っぽくておかしいが反面秘密基地で遊ぶ子供みたいで奇妙な衣装と共に本音を言うと憧れてしまう。
私もこんな隠れ家があって平和に禁じられた秘密を仲間と分かち合うなんていうどきどきをやってみたいものだ。
だがディックの子供じみた「ごっこ遊び」は本物の殺し屋ガンマンであるセバスチャンからみれば所詮子供じみたゲームにすぎない。
ディックはセバスチャンの出現で本来のルールを忘れてしまう。
セバスチャンは「平和主義なんておかしい。単に怖いから銃を持っているだけだろ」と言う。
マイケル・ムーア『ボウリング・フォー・コロンバイン』でもアメリカ人がいつも怯えて銃を所持し撃たずにはいられないことが描かれていた。
若干例外はあるものの基本的には銃におびやかされることの少ない日本社会に住む自分としては銃などない方がいいに決まっている、と思ってしまうのだが。
本作のふざけた銃撃シーンは一体なんなのかと笑わずにはいられないが、傍から見れば銃社会というのはこういう世界なのだろう。
聞く耳も持たない警官と何の意味もなく死んでいく若者達。

相変わらずそこに到るまでの語り口がとても好きだし、今回は珍しく男の子が主人公だったが紅一点のスーザンも可愛くかった。
男であっても頑固で馬鹿でどうしようもないという人間が主人公であるのは同じ。だけどとても魅力的であるところも。
ディック役のジェイミー・ベルが小さな銃「ウェンディ」をまるで本当の女性のように愛している感じがなんとも繊細なオタク的でステキだった。
ヒューイ役のクリス・オーウェンも好きだったな。

でもなーんかアメリカじゃないみたいなの。擬似アメリカ?やっぱり外国人が違う国を描くとこういう不思議な感じになってしまうのだろうな。黒人の少年に対する態度とか皆のたたずまいだとか、アメリカ映画で観るアメリカ人たちじゃないのだ。アメリカ人ってもっとテキトーな感じが。
でもそれも面白かった。

監督:トマス・ヴィンターベア 脚本:ラース・フォン・トリアー  出演:ジェイミー・ベル ビル・プルマン マイケル・アンガラノ クリス・オーウェン アリソン・ピル マーク・ウェバー
2005年デンマーク/フランス/ドイツ/イギリス
posted by フェイユイ at 23:01| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『奇跡の海』ラース・フォン・トリアー

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BREAKING THE WAVES

ラース・フォン・トリアー監督の描く女主人公は(ヒロインしかまだ観てないし)どれもとことん愚直で頑固でどこかひっかかるような薄笑いを浮かべることがあるちょっと嫌な女ばかり。物語もどんどん迷い込んでしまい痛い目にあうという同じ話ばかりなんだけど語り口が好きなせいか続けてみてもどれも非常に面白く長いんだけど夢中で観てしまった。

本作の主人公はそのまま『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のセルマみたいだ。
セルマが息子を痛々しいほど愛したように彼女もまたヤンを苦しいほど愛してしまう。
ヤンもべスを心から愛しているのでそこだけは本当にうれしい愛の物語なんだよね。
ただ事故で寝たきりになってしまったヤンが愛するべスに望んだことが「愛人を作ってメイクラブの様子を聞かせて欲しい。それが俺を生かせてくれるんだ」ということだった為に、盲目的なべスはその言葉通りセックスの相手を捜し求めてしまうのだった。
宗教の厳しい戒律と共に生きる田舎町でセックスのみの関係を男に求めるのは堕落でしかない。
べス自身も愛するヤンではない男と肉体関係を持つことは苦痛でしかないのだ。しかし男と寝ることがヤンの命を助けると信じきっているべスは何とかして男と寝ようと彷徨い歩く。
そしてついに大きな船に乗っている正体不明の怖ろしい男達に抱かれようとする。

ここでも愚かで頑固なべスを救おうと善良な男女が手を差し伸べるがべスは言うことを聞きゃしない。
べスが望むのはヤンの言うとおり男と寝てヤンを歩けるようにすることだけなのだ。
それは他人からすれば何の根拠もない馬鹿馬鹿しい行為でありべス自身も命懸けで怪しい男たちの元へ行った後もヤンの病状がよくならなかったことを知り「全部間違っていた」と嘆く。
だが失意の中べスが死んだ後、ヤンは生き延び歩けるようになる。
なんだ結局べスは正しかったんだ。命懸けで別の男と寝たことでヤンは約束どおり生き延びた。
でもなんという約束だったんだろう。べスはその為に自分の命を犠牲にせねばならなかった。
教会を追放されたべスだが最後に鳴り響く鐘はべスの喜びを表しているかのようだ。

トリアー監督作品を観続けたせいで珍しく女主人公の映画を何本も観ることになった。どの女性も同じイメージではあるが。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と本作がとても好きなのは主人公に同性の親友がいることである(本作では義姉でもあるが)男主人公でも同じだが女主人公の場合は絶対親友がいて欲しい。
両方とも同じイメージの女性なのだが(姉と言う感じ)馬鹿でしょうがない主人公を心から愛し心配している。主人公も友達を愛し尊敬している感じがとても好きなのである。
べスが義姉でもある友人ドドに「私を愛しているのね」と言って彼女が頷く場面がとてもいい。べスとヤンの愛以上にドドの愛が切なく思えるのだ。
スコットランドの荒涼とした風景も物語の重厚さと相まってこれも心に残る作品だった。

監督:ラース・フォン・トリアー 出演:エミリー・ワトソン ステラン・スカルスゲールド カトリン・カートリッジ ジャン=マルク・バール ジョナサン・ハケット
1996年デンマーク
posted by フェイユイ at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月18日

『マンダレイ』ラース・フォン・トリアー

マンダレイ.jpg
MANDERLAY

前作はアメリカの僻村という閉ざされた場所で起きる人間の内面を描いたもので舞台が限られた場所のようでどこでもあり得る物語と見えて共感しつつ観たが、本作は人種差別という触れたくない部分なのでもっと怖ろしい作品だったのではないだろうか。

怖ろしいのはどこまでも人間の自由と公平さを信じるグレースが自己満足な思い込みだけで行動してしまい最後には自分が決して許されないと思っていた考えと行動をとってしまうことでもあるが、差別されている黒人たちを自由を求めていない愚鈍な人格として描いていることでもし自分がアメリカ黒人でこの映画を観たなら冷静に観れるんだろうかと思ってしまう。

どうしても第三者として単に作品の面白さを楽しんだのだがやはり自分は奴隷たちではなくグレースの側として観ている傲慢さがあるのだろうか、と考えてしまう。
グレースの愚かさを批判している作品なのだろうが同時にどうしても自由と独立を求めていないように見える黒人達に奮起を促しているように思えるのだ。
なぜもっと戦って自由を求めないのかと。

映画『クラッシュ』やTVでアメリカの黒人に対する差別的なニュースを見る度にアメリカと言う国は以前とまったく変わってないように思えるからだ。
現在もしかしたら黒人の初の大統領が生まれるのかもしれない、というところまで来たが(片親が白人ということだが)最近の雲行きはどうも怪しくやはりまだ無理なのかといった雰囲気ではある。自分としてはマケインがなったなら今までと何も変わらないじゃないかと思うのだが。

そういった現実の差別問題から来る怖ろしい緊張感も含めて前作同様の白線による舞台設定(少しだけ高低がついて豪華になった)グレースが神秘的なイメージの黒人青年に性的欲望を抱く場面と彼から異様とも思えるセックスを与えられる場面など興味をひかれる箇所が用意されている。美しい白人女性が黒人青年から暴力的とも思えるセックスを強いられるなどアメリカ白人(特に男性)にとっては衝撃だろう。

非常に怖ろしい作品だが語り口が面白くてしょうがないのがこの監督の特徴のようだ。

監督:ラース・フォン・トリアー 出演:ブライス・ダラス・ハワード ダニー・グローバー イザーク・ド・バンコレ ウィレム・デフォー ローレン・バコール クロエ・セヴィニー
2005年デンマーク
posted by フェイユイ at 00:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月16日

福岡国際映画祭『サイアム・スクエア』

サイアム・スクエア.jpg

アジアフォーカス福岡国際映画祭

行きたい気持ちはあれどやはり行けない(涙)

『サイアム・スクエア』2007年/タイ/158分
監督:チューキアット・サックウィーラクン
出演者:マリオー・マウロー
【チューキアット・サックウィーラクン 監督】
 トンなのかミウなのかよく聞かれます。これに答えると映画のロマンティックさを損ねる危険性がありますが、二人共です。僕自身ミュージシャンだったこと、病人の居る家庭だったこと等。両親が愛し合う姿にはいつか終わりがあるのか、という疑問も持っていました。男の子同士の恋愛が出てきますが、この映画で僕が試したかったのは、それぞれ辛い過去を過ごした男の友達同士が再会し愛が芽生える事が本当にありえるのか、片想いの相手の幸せの為に身を引く愛というものが本当にありえるのかといった、多様な愛の形でした。

ああまた忍耐の日々が。
posted by フェイユイ at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 東南アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする