映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2008年12月31日

『ゴールデンボーイ』ブライアン・シンガー

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Apt Pupil

原作がスティーヴン・キングなので興味は持っていたのだが、元ナチス将校という題材をアメリカ映画でやると陳腐なものになってしまいそうという思い込みで観ないままになっていた。
しかも最近監督のブライアン・シンガーの評判作『ユージュアル・サスペクツ』が思いのほか、つまらなかったのでますます観る気がなくなっていたのだが、大晦日の夜という記念すべき時(?)に何故か観る羽目になってしまった。
だがこれがまた予想外に面白かった。

この話ほど嫌悪感のある話もないだろう、というくらい嫌な話である。
裕福な家庭の健康で成績もよく運動神経も抜群で女の子にもモテるハンサムな少年がナチスに興味を持っていた。そして近所に住む老人が元ナチス将校で多くのユダヤ人を虐殺した過去を持つことを調べあげ、彼に近づき「正体をばらされたくなかったら僕の言うことを聞け」と脅すのだ。それはユダヤ人虐殺の一部始終を話して聞かせることだった。
実際にナチス将校だった彼の話は学校の授業では到底聞くことのできないスリリングなものだった。
老人の物語は少年の夢の中にまで入り込み、やがて彼の生活を脅かしていく。
ガールフレンドとの交際にも興味をなくし、学校の成績は落ち込み、親友の信頼も友情も彼にとっては意味のないものになってしまったのだ。

それまでの少年の態度ほどむかつくものはない。当事者であるわけでも肉親が関係するわけでもないのに「お前の残虐行為に比べたら僕がすることなど大したことではない」という奇妙な正義感を振りかざす。
少年の考えや行為というのがアメリカ人そのものの表現のように思われる。
そして立場のない元ナチス将校は少年の言いなりになる哀れな存在のように思われるが結局、少年はナチス将校の敵ではないのだ。
その描き方が今までよく見てきた非道なナチスだから、ということではなく幼稚な思考しか持たない少年が経験を積んだ老人相手に先手を読まれてしまうチェスか将棋の如くであり、次第に老人は少年を手玉に取ることに快感を覚えていく。
そして老人は彼の言葉通り「最初は憎かったが次第に少年と会うことに喜びを覚え、ついにはいつしか彼の自分への興味がなくなることに不安を持つようになり、少年がいつまでも自分から離れられないようにと計画をたてた」のだ。
それは少年について書いた手記を貸金庫に預けたという嘘から始まる。少年が浮浪者を殺害する羽目に落としいれ、最後には老人自身が死んでしまっても少年が自分を害する者に対して脅迫することに快感すら覚えるように変化させたのも元ナチス将校であるドゥサンダーの仕業なのではないだろうか。何不自由ない優等生である少年の心が歪んでいく様子は不気味だが、もともと彼自身が興味を持っていたことなのである。
ドゥサンダーもうまく生き延びたつもりが偶然隣に自分に恨みを持つユダヤ人がいたことで逃れきれなくなってしまう。
二つの人生を辛辣に描いている。少年はいつまでもドゥサンダーに関わったことから逃れられないのだ。
ドゥサンダーの願いどおりになるわけだ。

スティーヴン・キングのいう超人気作家はホラーの大物だが、どの物語にもどこかしらゲイ的な雰囲気を持っているのが魅力である。その辺が彼のファンの間ではどう評価されているのか、まったく知らないのだが私がキングの小説に惹かれる理由の一つである。
本作も同性愛的な心理が題材になっているわけではないのだが、どことなく主人公たちの関係にそうした感情が作用しているのではないかと思わせてしまう。
少年役のブラッド・レンフロの透き通った瞳が美しい。少年のちょっとした悪戯心がとんでもなく人生を狂わせていく。そんな罠にかかってしまうまだ幼い獣のようで痛々しい。
近所に元ナチス将校が住んでいたら、というとんでもないが皆が興味を持つ想像からよくこんな怖ろしい結末を導いてしまうものだ。

監督:ブライアン・シンガー 出演:ブラッド・レンフロ イアン・マッケラン
1997年アメリカ
posted by フェイユイ at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月30日

年末、お疲れ様です

年末で完全にグロッキーである(最近あまり使わない言葉?)
映画を観る余裕もないので久し振りにだらだらと日記のようなものを書いてみる。
体も疲れたがパソコンもかなりガタが来てるらしくある日、突然画面が真っ暗になってしまった。
知り合いの電器屋さんに聞くと修理するよりこっちが安くてすぐできるからと液晶ディスプレイなるものを勧められた。15000円。修理すれば5万以上ということだしなにより長い間パソコンが使えないのが苦なのでその場で購入。パソ自体の画面は真っ黒で横に置いたディスプレイを眺めている状態。さほど気にはならないが。

今年もよく映画を観ました。皆さん、きっと呆れておられることでしょうねー。
一応9月締めでやってるので年末だからといって今年のベストみたいなのはやらないんだけど、傾向としてはとにかく邦画が多いかなあ。そしてアメリカ映画離れがますます酷くなっていくような。むしろ嫌悪してさえいるみたいで、アメリカ映画として最高の評価を得ていると思われる『ダークナイト』のどこが面白いのかさっぱりわからない。
あんなにバタバタしてるばかりで今まで何度もやってたような話が楽しいのかなあと思うだけだ。おまけにロビンも出てこないし。ロビンとバットマンがいちゃいちゃしない『バットマン』なんて意味あるのか、とか。
なんだかわざとひねくれて皆がいいと言うのを悪い、悪いというのを良いと言ってるだけのような気もしてくるのだが、ほんとに思ったことを書いてるだけなのだから仕方ない。
でもきっとこっそり賛同してくださっている方もおられるのだろうと思っている。

来年もまたますます自分の好きな方向へと向かっていきたいものだ。
また熱烈に好きな人ができることも願っている。役者でも監督でも。
とりあえず一月は松ケンの『銭ゲバ』がどういう作品になるのかが一番気になるところ。どのくらい削除されていくのかヤワな表現になってしまうのか。まさか、すべてそのままって言うくらい強烈なドラマになるのだろうか。それは無理なんじゃあ、と思ってはいるのだが。
松ケンのキャラクターっていつも孤立している人物でつるんでないんだよね。仲良し友達とかがいないって感じなの。どうしてなのかなあ。
カムイも孤独だしね。
その辺がこれからどう変化していったりするのかな、っていうのも楽しみだったりするんだけどね。
posted by フェイユイ at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月29日

『Jam Films 2』

jam films2 a.jpg

年末仕事でぐったりしているので短編もので大森南朋出演の未見作品でも観てみようかと思ったのだが、これは今迄で観たナオさん作品でも特別に酷いものだった。

もう眠いので4編のうち半分でも観ようかと思ったのだが、最初からとても観ていられる作品ではなく早送りで観ても退屈。
ナオさん出演は3番目の『HOOPS MEN SOUL』
高利貸しの金持ちの息子という設定でなんかわけわからんが借金のかたに娘を1000万で買い取ったナオさんがその娘と結婚するのしないの、と言う話でナオさん自身もさほど夢中にもなっていない、というどうでもいいような話。
一体これをどう感想すればいいのか見当もつかないし、製作者もそんな期待もしていないような。
5年前のものなので南朋さんもちょっと若いし悪い男はほんとに似合っているがこんな作品もう出ないでよねー。
世の中にこんな何の意味もないような映像が4つもつながっているのがDVDになってレンタルまでされているなんて信じがたい。
記事を書くこともないのだが、書かないでいると忘れてまた借りてしまうと馬鹿馬鹿しいのでもう二度と観ない為にも書いておこう。
詳しくはもう書きたくもない。

とにかく酷いDVDだ。
どーせ観る時間もないからちょっとだけ、というつもりだったからまあいいが、楽しみにして鑑賞してこれだったら泣くよ。
まあ、少しだけでもナオさん観れたからいいか。
もう今日は寝ます。おやすみ。

『机上の空論』
監督:小島淳二
出演:ラーメンズ、市川実日子、斉木しげる、ルースアン・リース、大木伸夫・佐藤雅俊(ACIDMAN)
『CLEAN ROOM』
監督:高橋栄樹
出演:韓英恵、麻生久美子、角田紳太郎、手塚眞、津田寛治
『HOOPS MEN SOUL』
監督:井上秀憲
出演:須賀貴匡、すほうれいこ、大森南朋、水橋研二、杉本彩、千聖&O-JIRO (PENICILLIN) 他
『FASTENER』
監督:丹下紘希
出演:有岡大貴、嶋田久作、三浦由衣 他
2003年日本
ラベル:大森南朋
posted by フェイユイ at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 大森南朋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月28日

『疑惑の影』アルフレッド・ヒッチコック

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SHADOW OF A DOUBT

物凄く古い映画で画像も音も悪いのは確かだが、とにかく面白いのだった。

ヒロインが「平凡で退屈な毎日。ママも素敵な人なのに毎日同じことの繰り返し。つまらない」とぼやいているとそこからとんでもない日々が始まってしまう、というお話。映画や小説で波乱が起こるのは楽しいが実生活では平凡が一番、という教訓でしょうか。
アメリカ小都市の裕福な家庭にニューヨークに住むハンサムなチャーリー叔父さんが訪ねてきた。
長女チャーリーは若くてハンサムなチャーリー叔父さんが大好きで同じ名前の双子だと言って自慢している。
ところが憧れのチャーリー叔父さんは滞在する間に少しずつ奇妙な言動をするようになる。
初めは冗談で「叔父さんの秘密を知ってみせるわ」と言っていたチャーリーは時折見せる叔父の不可解な態度に疑問を感じ始める。
ニューヨークで起きた未亡人殺人事件と叔父は関係があるのだろうか。

残虐な殺人現場などはなしに二人のチャーリーの会話から怖ろしい現実が見え始める。
平凡で退屈なはずの日常があっという間に変わってしまった。
どこまでも弟を信じている母親を悲しませたくない思いでチャーリーの心は動揺する。
見るからに頼もしくて都会的な紳士然としたジョセフ・コットンが怖ろしい犯罪を隠しているという事実。自分以外の誰もが彼を信頼しきっている。
叔父チャーリーと姪チャーリーの駆け引きも面白いのだが家族それぞれのキャラクターが楽しい。
いかにも良妻賢母だがちょっと気づかな過ぎのお母さん、と義弟に比べるとちょっとかっこ悪げなお父さん。真面目な銀行員で、ミステリー好きの友達と殺人事件について語り合うのが唯一の趣味でストレス解消になっている。食事中にも毒キノコについて話あっているので娘チャーリーを苛立たせてしまう。
チャーリーの妹アン。物凄い本の虫でいつも生意気な発言をするのが可愛い。
そしてまだなにもわかってない男の子らしい男の子の弟くん。
ミステリー友達のパパをしょっちゅう訪ねてくるオタク風の友達。どうやらチャーリーが好きみたいだけど何も言えないでいる様子。

叔父チャーリーの捜査する為、一家に近づいてくる刑事が2枚目なせいで姪のチャーリーと恋仲になってしまうのには驚いたけど。結局この刑事さん、何の役にも立ってないし。

育ちがよくて健康的で真面目そうなチャーリーは世の中が平凡でつまらない、とふてくされている。そこへ犯罪者の叔父チャーリーが登場して「君は何も知らない。世の中は腐りきっているんだ」と言い、清純なチャーリーを驚かせ戸惑わせる。
叔父に連れられて入った酒場にはチャーリーの同級生らしき少女が働いていて「あなたがこんな所にくるなんて」と言う。
チャーリーは突然今まで知らなかった世界と感情をいっぺんに味わうことになっていく。

言葉でああだこうだと説明をしている作品ではないのだがチャーリーが明らかに変化し成長していくのがわかるようだ。
始めのころは突然の出来事に動揺しどう対応していいか判らず叔父から脅迫されるチャーリーが最後に叔父が窃盗した指輪を黙って指にはめることで逆に叔父を追い詰める。
このことで立場が逆転した叔父チャーリーは町を出て行かざるを得なくなる。
そして命懸けの事件の後、叔父チャーリーは皆の記憶には「いい人」として残ることになる。
最後まで母親を守ったチャーリーなのである。

こんなに映像が雑でも夢中で観させてしまう。この前の『レベッカ』は自分にとって原作の印象が強烈だったのでやや評価しづらかったが(それでも大変面白く観れたのは確か)これはもう本当に楽しめるサスペンスミステリーだった。

監督:アルフレッド・ヒッチコック 出演:ジョセフ・コットン テレサ・ライト ヘンリー・トラバース マクドナルド・ケリー パトリシア・コリンジ
1943年アメリカ
posted by フェイユイ at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『バスカヴィルの獣犬』デヴィッド・アットウッド

バスカヴィル.jpg
The Hound of the Baskervilles

シャーロック・ホームズの世界が好きな者には堪らない作品だ。
ホームズの作品の魅力というのは何と言ってもイギリスの都会と田舎の情景がありありと浮かんでくるところなのだが、『バスカヴィル家の獣犬』ではダートムアというまさに荒野という言葉がぴったりの風景が広がっている。
登場人物ステープルトンが素晴らしい土地だと褒めているのだがこうして映像として眺めているだけでも荒涼とした岩場かずぶずぶとした沼地がどこまでも広がり季節が冬(ちょうどクリスマス)ということもあって寒々とした凍りつくような風が唸ってしとど冷たい雨が降りそぼっている、という光景である。こんな陰鬱な誰もいない土地を遺産としてもらってもあまりうれしくない気もするがミステリーの舞台としては申し分ない。
伯父チャールズ卿が不慮の死を遂げ、甥のヘンリー卿が遺産を受け継ぐ為、ダートムアを訪れる。
故チャールズ卿の遺言執行者モーティマー医師はヘンリーを守って欲しいとホームズに依頼をするのだった。

ダートムアの荒野に響く獣の唸り声はかつてバスカヴィル家の領主だったヒューゴーという気性の荒い男が妻の不倫に怒り(この辺、原作と違うのだが)沼地に逃げた妻を殺害する。その時妻が大事に飼っていた大きな犬がヒューゴーにとびかかりその犬も殺される。そして今でもその犬の悪霊が沼地を彷徨い遠吠えをしているのだという。
なんとも怖ろしい伝説で沼沢地の気味悪さをさらに深める。
そしてまたその荒野で発掘をしている博物学者のステープルトンとその妹が登場する。この妹が黒髪の素晴らしい美女でヘンリーはたちまち彼女に惹かれてしまう。

原作とは少しずつ設定も語り口も違うのだがこのドラマはドラマとして非常に雰囲気のある作品になっている。
原作ではいつもワトソンがホームズに首ったけな感じなのであるが、ドラマではワトソンの活躍が目立っていて、彼に秘密を持ったいたホームズにワトソンがふてくされるシーンがあり、またホームズの危機をワトソンが救うという話になっている。その上、最後はホームズがワトソンの機嫌をとるという考えられないおかしな締めになっている。
ホームズ役のリチャード・ロクスバーグはイメージするホームズにしては顔が長くないように思えるのだがなかなか彼らしい雰囲気を出していたようだ。
お気に入りの少年カートライト君は出てこなかったが時々味わうという「薬」を自分に注射するシーンはあって今の時代ではびっくりする人もいるだろうに、と心配してしまう。

今更ここに書くのもなんだけど、『バスカヴィル家』の名前を見ていて昔、あっとなったものだ。
バスカヴィル家の3兄弟の名前はチャールズ、ヘンリー、ロジャーなのだが、この名前でおっと思った人は萩尾望都の『ポーの一族』を読んでいる人だ。
エドガーとアランとポーというのは無論エドガー・アラン・ポーから取られた名前だが、『ポーの一族』の中で何度となく登場する兄弟名がこの3つの名前になっている。
そして『バスカヴィル』で交霊術が行われるがその場面はまさに『ポーの一族』の『ホームズの帽子』で行われる場面を思い起こさせる。
この名前のつけ方、なんてうまいんだろう、と感心したものである。

監督:デヴィッド・アットウッド 出演:イアン・ハート リチャード・ロクスバーグ リチャード・E・グラント マット・デイ ジョン ネトルズ ネーヴ・マッキントッシュ
2002年イギリス

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2008年12月26日

ベン・ウィショー『情愛と友情』Brideshead Revisited

Brideshead Revisited2.jpg
Brideshead Revisited

フランさんのコメントでちょっと気になって調べたベン・ウィショー近況。
日本未公開ですが、こういうDVDが出るのですねー。

『情愛と友情』

僕はあの夏、美しい青年に愛された。

ですか?!
なんだか気になります!!!
監督は『キンキーブーツ』のジュリアン・ジャロルドですし。
ベンはまたまた変な人みたいですねー^^;
ディズニー作品というのがなんとも。
絶対観たいです。



探すともっとありますが観れすぎて困りますので興味のある方はBrideshead Revisited でどうぞ。
posted by フェイユイ at 22:13| Comment(2) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『悪魔のようなあいつ』第十四回 

今回もなかなか面白い一話だった。記憶喪失というのは映画でもよく使われる題材ではあるが、この一話を映画に作り変えることもできるような感じ。
つまり記憶を失った美青年が頭の弱い少女といるところを暴走族に絡まれてしまい、その中の1人の少女が美青年に興味を持って記憶を取り戻す手伝いをしていくうちに、青年の危険な過去がわかっていくというストーリーである。
『ボーン・アイデンティティ』の犯罪者版というところ。
肩に弾丸の痕があったり、暴走族少女の胡散臭い兄と関係があったことがわかったり、青年が持っていたマッチから訪ねたスナックでギターを手にして歌が蘇ってきたり、バイクにまたがったことで3億円強奪の場面が思い起こされたり、となかなか面白い映画になりはしまいか。
今回も野々村さんが良を守る為に恵い子と一緒に人芝居うって刑事を騙したり店の従業員を駆りだして良を探させたのに見つからず落ち込んだりと良への一途さを発揮している。

良は記憶を失ってノノの船に3億円を隠したことも忘れ、暴走少女マキの兄である王に3億円のありかを教えてしまう。
王はすぐノノの船に行き、邪魔しようとしたノノを殺してしまった。

良はぼんやりとしたままマキと仲間の暴走族とつるんで走っているところを暴走族狩りで捕まってしまう。
警官に追い立てられる良の脇を野々村が偶然通りかかる。大喜びで良の腕を掴む野々村だったが良はまったく何も思い出さないのだった。

ノノのお通夜だと言って店の子たちが歌う『ママリンゴの唄』
前にも歌われたけどいかにも昭和的な素朴に頭に残る歌である。

脚本:長谷川和彦 原作:阿久悠 上村一夫 音楽:大野克夫 井上堯之 出演:沢田研二 藤竜也 若山富三郎 荒木一郎 三木聖子 大楠道代 細川俊之 尾崎紀世彦
1975年日本
posted by フェイユイ at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪魔のようなあいつ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『悪魔のようなあいつ』第十三回 

この辺の物語はなかなか裏社会的な隠微さがあってよいなあ。

ふみよが盗んだ3億円をなんとか奪い返した良。白戸警部には傷を負わせたうえ、手錠でバイクにつなぎ動けなくした。そしていつも困った時にはすぐ助けてくれる野々村を裏切り一人だけ車に乗って逃走。
「ホテル王」という名前の安宿の主人に密航の手配を頼んでいた良だったが折悪しく台風で船は欠航。
仕方なく「ホテル王」に身を潜めた良だった。

「ホテル王」の主人・王礼仁を細川俊之が演じている。怪しげな中国人というのが似合っている。
背中に赤ん坊(?)を背負っていて冷静沈着、殴られても抵抗しない、という人物。
良の受けた弾は貫通していたのだが何度も雨に当たったせいか高熱を出して倒れてしまう。
そんな彼を助けたのが頭の弱いノノだった。

すべての設定が胡散臭くてほんとに今ではできないドラマだろうなとつくづく思ってしまう。

良に裏切られ逃げられた野々村は荒れて酒に酔い、良の部屋へ行き、良の匂いが残る毛布に包まってしまう。
そこへ静枝が現れの野村から良の経緯を聞く。
静枝は良の体を心配する。
良の病気は高熱によって発狂するか記憶を失うのだと言う。

雨に打たれ高熱を出した良をノノが懸命に介護する。頭の弱い少女なので裸で洗濯物を干したり、良を体温で暖めようとしたり、これも今観ると結構驚く。
野々村と八村は別々に良を匿った王ホテルへたどり着く。だがそこには良はいない。
ノノが買い物に行っている間、良は苦しむ。いい男は苦悶の表情が色っぽい。
ノノが戻った時、良は記憶を失っていた。

3億円は手元にあるが記憶を失くした良。一体どうなっていくのか。

八さんのふみよに対する愛情も涙モノだなあ。ふみよってほんとに酷いのにな。

脚本:長谷川和彦 原作:阿久悠 上村一夫 音楽:大野克夫 井上堯之 出演:沢田研二 藤竜也 若山富三郎 荒木一郎 三木聖子 大楠道代 細川俊之 尾崎紀世彦
1975年日本
posted by フェイユイ at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪魔のようなあいつ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月24日

『妖婆の家』セス・ホルト

The Nanny.jpg
The Nanny

イギリス上流階級の裕福な家庭で小さな女の子が死んでしまった。
こちらもまだ幼い少年である兄に殺害の容疑がかけられ彼は施設にいれられてしまう。

物語は彼が家に戻る所から始まる。
生意気な口をきく少年はばあやを酷く嫌っている。ばあやが妹を殺したのに自分に罪を擦り付けたと言うのだ。
いかにも上流階級らしい夫婦はばあやを信頼しきっている。この家族のために献身的につくすばあや。
だが、ばあやへの少年の態度は断固として変わらず徹底的に忌み嫌う。そして仲良くなった上階の少女にばあやの犯罪を打ち明ける。
果たして少年の言い分が正しいのか、それともすべては少年の嘘なのだろうか。

という懐疑で続く90分である。少年の言動がいちいち憎たらしくこの子の虚言なのかな、とも思えるので一体どちらに転ぶのか第3の人物が出てくるのか最後までどれとも取れる気もするのだが。
ばあやがしっぽを出さないのは彼女の言動も決して嘘ではないからで献身的に一家に尽くしているばあやだからなのだ。
事件のあった日、彼女は激しい衝撃を受ける事実を知ってしまったのだ。
懸命に他人の家族に尽くしている間、我が娘が堕胎手術に失敗し死んでしまったのだ。
貧民街の汚い建物の一室で死んだ娘。25年間娘に会うこともなかった、という台詞で彼女のこれまでの人生が垣間見える。
仕事中に抜け出して娘の死を見届けに行き、帰宅した時に雇い主の小さなお譲ちゃんが湯船に落ちているのを気づかずお湯を入れてしまった。
ばあやは一時に二人の愛する娘を失い、精神に異常をきたしてしまったのだろうか。
一家を世話することに生き甲斐を感じるあまりにそこから引き離されてしまうことに恐怖を感じてしまった。
ばあやは嘘を言ったのではなく。そうだと思いこんでしまったのかもしれない。

イギリスの階級制度が生み出した犯罪とも言えるとても面白い作品だった。
美人女優ベティ・デイビスが年を取ってからだとは言え、けなげだがどこかおかしくなっているばあやという存在を演じていて恐ろしさを感じさせる。献身的過ぎてその目にはおかしくなったものが感じられるのだ。
すっかり騙されているお上品な夫婦とか心臓が弱い叔母さんとかもばあやの怖さを出すのに適した登場人物だ。
少年ジョーイの相談相手になる上階の少女がとても可愛らしくてすべてが疑わしい物語をちょっとほっとさせる。
殆どが一軒の家の中だけで進行するのだが、こういうのがイギリス作品はホントに面白い。

ところで原題は『The Nanny』でこれはイギリスでよく登場する子守であり子供の教育をするばあやのことでまさしくそのままなのだが、邦題の『妖婆の家』って。
これじゃもう結末をばらしているのと同じだし、ナニィのことを妖婆って呼ぶなんて。
『優しいばあや』っていうタイトルだからこそ謎が深まるのに最初から『妖しい婆さん』じゃなあ。
困ったもんだ。

監督: セス・ホルト 出演:ベティ・デイビス ジル・ベネット ウェンディ・クレイグ ウィリアム・ディックス パメラ・フランクリン
1965年 / イギリス
posted by フェイユイ at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月23日

『ウェイトレス 〜おいしい人生のつくりかた』エイドリアン・シェリー

WAITRESS.jpg
WAITRESS

こういうタイプの映画を殆ど観ないので非常に新鮮な気持ちで観ていった。
こういう映画を観てると特に「こうなると思ってた」とか「思ったのとまったく違う結末だった」とかいう感想が多い気がするが私としては「こうなると思うのが普通だろうけど、違う方向へ行くと思ったらいかにもという場所に落ち着いた」というところだろうか。

なんだかややこしくて歯切れの悪い感想だけどそう思ったのである。
というのはいかにもアメリカに多そうなバイオレンス夫にはっきり別れを言い渡せない女性が彼女を理解してくれる(と思える)すてきな男性に出会って彼女自身は妊娠していて亭主はそれをあまり快く思っていない、となればアメリカ女性の理想としてはダメ亭主とはきっぱり別れて新しい道を歩む、というのが定番であるだろうがそれでは当たり前なので少し違った結末があるのかな、と思ったのである。
そこで浮かんだのは日本のマンガ(映画にもなったが私は原作のマンガしか知らないのでマンガの方で考えて欲しい)『自虐の詩』の夫婦である。
あの作品も誰が観ても最低と思えるバイオレンスダメ亭主と働く側から夫に金を奪われるのに別れ切れない女性の話が描かれている。
しかしこの二つの作品の決定的な違いは本作ではジェナが夫を憎みきっているのに、『自虐の詩』の幸江はそんな夫を愛しぬいている。
ほんとに設定が凄く似ていてジェナも幸江も食堂で働いている(さすがにアメリカのがちょっとおしゃれな感じのパイの店であり、幸江さんのほうは純日本的な大衆食堂の出前持ちであるというのが涙もの)ダンナは筋肉質の結構いい男で結婚前は優しかったのだが結婚後豹変したというのも一緒。ただし酷さは日本版ダメ亭主のほうが上で、アールは一応働いてていい家に住んでいるがイサオはまったく働かず賭け事三昧でぼろアパートになんとか住んでいるという具合。
なのに!幸江さんはイサオを愛している。そして妊娠した後の幸江さんはもう悟りきった域に入っていき、バイオレンス夫と相変わらず暮らしながらも赤ちゃんの生まれるのを幸せに感じている。
一方のジェナは赤ん坊が生まれたとたん、強い女性になってダメ夫に決別し自分の道を歩み出す。

そう。つまり私は『自虐の詩』の幸江のようにジェナもアールにいい所を見出して不倫をやめ、つつましいながらも家庭を作っていくのかな、と思ってしまったのだった。
日本人でした、私。
これはアメリカ。そういう物語では共感を生まないのだろうな。
どちらがいいということではない。
いや、自分自身のことだったら私もジェナの道を歩きたい。
バイオレンス夫に作ったご飯のテーブルをひっくり返されながら生きていくなんて幸江さんのような人生は送りたくない。
だからこそ、幸江さんの物語を読んだ時、涙が溢れた。
でもジェナの物語でも涙はこぼれたのだ。赤ちゃんを見た瞬間ジェナの迷いが一気にふっきれてさよならを夫に告げた。
幸江さんもジェナも同じように強い母親であるのだ。
バイオレンス夫と暮らす道を決めても、バイオレンス夫と別れて暮らす道を決めても。
どちらにしても自分で決めたこと、なのだ。
だからこの映画が答えだとは思わない。
あのバイオレンス夫を見ていたら「この人はそんなに悪いひとじゃなくて、うまく思いを伝えきれないだけなのかな」と思ってしまった。上手く操縦していけばそんなに酷くないかもしれない。
無論そうじゃなくてホントに悪い夫だっている。でもこの映画のダンナはなんだか気が弱そうでジェナに甘えているだけみたいに見えた。でもジェナ自身が嫌いという感情しかないのだからどうしようもない。
ダメ夫を許してしまうのが日本的できっぱり別れを言い渡すのがアメリカ的。
いや、「許そうと思いたい」のが日本人の理想で「きっちり許さんという」のがアメリカ人の理想として二つの物語があるのかもしれない。

なにはともあれ不倫相手と落ち着く、というような道でなくてよかった。あの彼氏がジェナを本当に幸せにできたんだろうか。
なんとなくあの人も「結婚したら豹変」のタイプにも見える。どっちにしてもマッチョ系が好きなんだよね、ジェナって。威張ったタイプが。少なくともドーンが選んだような男は好きにならないみたいで。

ジェナも幸江も時々母のことを思い出す、というのも同じでどうしてこう内容が似てるのか。まさかエイドリアン・シェリーさん『自虐の詩』を読んだのか。
いやまあこういう物語はどこの国でもあるものなのだろう。
『自虐の詩』の方は男性が書いた、というのが凄い、と思っているのだが。男性だから書けたのかなあ。

『自虐の詩』の幸江さんの悟りの境地はアメリカでは受けいれられるのか、どうか、聞いてみたい気もするのだ。

甘党じゃないのでたくさんのパイに心酔しなかったのが残念だ。でも見るのは好き。凄く綺麗で。
赤ちゃんを産む場面はやっぱり感動的だし、赤ちゃんの可愛さを見れば「この子を守る為ならどんなことでもする!!」って気持ちになってしまう。

色んな道がある。これもまた一つの道。幸せだと思っていればそれが幸せ。
と思った映画だった。

監督:脚本:エイドリアン・シェリー 出演:ケリー・ラッセル ネイサン・フィリオン ジェレミー・シスト エイドリアン・シェリー シェリル・ハインズ
2007年アメリカ
ラベル:人生 女性
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2008年12月22日

『好奇心』ルイ・マル

好奇心2.jpg好奇心.jpg
LE SOUFFLE AU COEUR

何も知らずに観てしまったのだが、最初から最後まで目が釘付けの驚きの連続であった。

先日観たガス・ヴァン・サント『パラノイド・パーク』でも少年の美しさを見せ付けられたが、この作品の14歳の少年の魅力もまた衝撃的なものだった。

ルイ・マル監督はこういう顔がやっぱり好きなんだろう。男らしい顔立ちなのだがまだほっそりした体つきなのだ。
冒頭で友人と募金活動をしているその姿がそれだけなのに溢れるような若々しさに満ちている。
まだ未発達で足の長いのが目立っている。ちょっと生意気そうな表情でくしゃくしゃの髪が可愛らしい。
主人公のローランは産婦人科医の三男坊で家は裕福で食事にはメイドが付きっ切りだし二人の兄もとてもハンサムで弟思い(やりすぎの時もあるが)父親はやや厳格でローランとソリが合わないがそれでも優しいとローラン自身も思っている。特別なのは母親でまだ酷く若くて綺麗でエロテッィクでさえある。母親はローランを特に可愛がっているし、ローランも誰よりもママが大好きというのを隠しもしない。

うーん、もう最初から少年の魅力はこういうものだよ、と見せ付けられるローランの愛らしさ。と言っても女の子のようなのではなくローランはほんとに男の子らしい可愛さなのだ。
友人と大人ぶった会話をするのもレコード店で万引きするのも友人にちょっと意地悪な言い方をしたり、子猫を可愛がるのもみんなこれでもかと素敵なのである。
おまけに美人のママにべったりでどこをとっても美少年というのはこういうのだよな、って思わせる。
ママもローランが可愛くてしょうがない。
二人の兄貴もローランを可愛がっていて女装して襲ったり、「初体験をさせてやろう」ってことで遊びに連れて行ってからかったりするのだ。

ローランはそういう時も嫌がったりしないで兄貴たちについていくのだが、学校では年下の男の子から手紙をもらったりして並んで歩いたりもする。
キャンプに行って男の子達ばかりでどうやら『魔王』の簡単なお芝居をしている。ローランが父親役で年下の少年を裸にしてローブで包んでいる。幼い少年に襲い掛かる魔王と怯えて父親にすがりつく少年、可愛いその男の子をローランが守るように抱きしめているのはなんともいえない少年愛の世界で美しい絵のようである。

しかしある日ローランは愛する母親に浮気相手の男がいるのを知る。
嫉妬を覚えるローラン。
だがローランはママを憎みきれはしない。
キャンプの途中でローランは病気になり、温泉地で療養することになる(これもまさに美少年らしいか弱さでありますね)
母親と二人きりでホテル暮らしをする間にローランはますます母親とのつながりが深まり、他の年上の少女たちとの関係も持つようになっていく。
ローランも可愛いがママが凄く可愛らしい女性なのだ。同じようなゆったりとしたカールの髪でそばかすがたくさんある明るい笑顔、ほっそりしているが肉感的なからだつき。確かにこんなエロティックなママがいたらたとえ息子とはいえ、恋してしまってもしょうがないかもしれない。綺麗なだけでなく優しくて明るくてローランが病気で寝てる時も側でギターを弾いて歌ってくれる。
仲良くしようと思った年上の少女がまだ頑なでローランの思うままにならなかったせいもある。
踊って酔っ払った夜にローランとママは肉体関係を持ってしまったようなのだ。
でもママは「後悔しないで。いつまでも美しい思い出としてしまっておいて」と言うのだ。
ローランは自分を受け入れてくれる方の少女の部屋へ行き、朝帰りをする。
そこには何も知らない父親と二人の兄が靴もはかずに戻ってきたローランを見て大笑いする。それを見たママも笑いローランも笑う。
ママとローランの秘密は二人だけのものなのだ。

少女マンガで見たようなローランとママの美しい恋愛。
ママが浮気相手の男と破局したらローランは「今にママにぴったりの男が見つかるよ」なんて言う。
自由でこんなんでいいのかな、ってこちらがおどおどするくらいローランのママって素敵なのだ。
常識から外れた危険なことばかりしているのだけど、何故かすごく幸せな気持ちになっていしまう、そんな映画だった。

これってよくある話だと最後ママとローランが抱きあって寝ているのを見つけられて「馬鹿だなー上手く誤魔化せばいいのに」などと歯噛みするのだが、子供だと思ってたローランが目を覚ましていてママの迷惑にならないよう自分が笑いものになって処置を取っているのが、彼が大人になったってことなのかな。かっこいいぞローラン。

監督:ルイ・マル 出演:ブルノワ・フェルレー レア・マッセリ ダニエル・ジェラン マルク・ビノクール ミシェル・ロンズデール
1971年フランス
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2008年12月21日

『ダークナイト』クリストファー・ノーラン

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THE DARK KNIGHT

悪の象徴である「ジョーカー」を演じたヒース・レジャーが公開前に亡くなったことも重なって非常に評判を呼んだ本作だが、私はまったく感動することも楽しむこともできなかった。

定番のヒーローものの繰り返される映画化なので登場人物の規定がまずあるのを壊せないのは仕方ないが「今までとは違う」という評判だったので期待もしたのだが。
「どんな善良な人間も悪に落ちてしまう」という題材自体が陳腐で「当たり前じゃないか」とうんざりしてしまう。そんな話をまた大真面目で語られても観る気はしない。
ヒーローもの、というのはある意味、馬鹿馬鹿しくて大人から滑稽だと言われるからこそ面白い、と言うところがある。
かっこいいヒーローが我が身を穢して悲劇ぶってみせるなんていうのはうんざりだ。
昔のいかにもアメコミの正義の味方対チンピラな悪者達、という図式のほうがずっとましだ。
とはいえ、何度も繰り返されたその図式を再びやるのが嫌なのはわかるし、私だってまたもや昔風の『バットマン』をやっても絶対観はしない。結局何故またリメイクをやるのか、というところに行ってしまうのだ。観客動員が見込める安全パイを振りたいだけに過ぎないわけだし。
大金を使って最新技術で驚かせ、意味もなく登場人物を苦悩させて感動作に思わせているだけではないだろうか。

大評判のヒース・レジャーのジョーカーを褒め称えたくても肝腎の作品自体に何の魅力も感じないならその登場人物にも意味はない。
表現の大きな悪党なので強い印象を持ってしまうが、物語自体がよくある悪事でやたらと大げさに爆発させたり脅したりするものなので私としては「こんな作品が最後(の一つ)なんて可哀想だな」と思うだけだ。
このジョーカーなんかよりは『ノーカントリー』のシガー(名前がちょっと似てるね)の方がはるかに魅力的だった。
おまけにたまたまこの映画を観る前に松山ケンイチが主演するんでジョージ秋山の『銭ゲバ』とついでに『アシュラ』を立て続けに読んでいて物凄いショックを受けていたとこだったのでジョーカーの悪党ぶり、というのが馬鹿馬鹿しく思えてしまう。比べたってしょうがない、とは思っても蒲郡風太郎とアシュラの物凄さ(姿も心も)に比べたらジョーカーには怖ろしさというものがない。
ジョーカーもこの2つのマンガを読んでみたらもっと怖ろしくなれるかもしれない。

そういえばジョージ秋山には『パットマンX』というマンガがあって大好きだった。彼こそ本当のダークナイトかもしれない。(これもタイトル似てるが^^;って多分もじりねこれは)

それに実を言うと物語なんか以前にもう映像自体が嫌いで観るのが苦痛だった。
まるで全編予告編のようなずたずたの短いカットを矢継ぎ早に繋げたような映像。
しかも150分以上の長さである。しかし言っていることにそれほどの深みがあったんだろうか。90分で充分だ。
無意味に長さを足して超大作にしたかっただけじゃないのか。じっくり見せる余裕もなく神経質にばたばたと画面を見せていく。
見せられるのは衝撃は覚えないが残酷なものか馬鹿馬鹿しく大げさに爆発したり引っくり返ったりするものの繰り返し。
ジョーカーの言うことは嘘ばかりで真実の悲しみというのもなくチンピラの戯言ばかりなので結局彼に感動したりはしない。

それに相変わらずアメリカ白人の正義の味方に黒人がついていて外国の敵を倒す、という図式である。昔はソ連・ドイツ・日本だったがここでは中国企業が標的でいかにも悪者にされてしまっている。香港人なのに中国普通語を話させられているし(そりゃ話せるけどさ)
しかも「韓国の闇業者」なんていう設定もされていて、もう少ししたらインド人が悪の権化になるのだろうな。
白人のみが苦悩する主人公であるという設定もいい加減うんざりしてしまうのだ。

「今までとは違う」と聞いていたが、とことん当たり前の陳腐な物語を今風の映像でがしゃがしゃと慌しく再現しただけのようにしか思えなかった。
娯楽映画にうるさいぞと言われそうだが、楽しくもなかったしね。
もうホントに自分にはハリウッド映画を観る資格はないもののようだ。

ギレルモ・デル・トロの『ヘルボーイ』はよかったなー。人情味があって。

監督:クリストファー・ノーラン 出演:クリスチャン・ベイル マイケル・ケイン ヒース・レジャー ゲイリー・オールドマン アーロン・エッカート
2008年アメリカ

簡単に言うと面白くなかったの。それだけ。
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2008年12月20日

『カウガール・ブルース』ガス・ヴァン・サント

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Even Cowgirls Get the Blues

ガス・ヴァン・サント監督の作品はどれも大好きで非常に自分の好みの世界で不思議で謎に満ちてて観るのが楽しみなのだが、この作品はその中でも特に素敵だった。順番つけてもしょうがないが昨日の『パラノイド・パーク』(勿論大好きだったが)よりもこちらの方がずっと好きになってしまった。多分一番好きなのは『マイ・プライベート・アイダホ』なんだけど(自分のことなのに多分っていうのもおかしいが)それと同じくらい、もしかしたらこっちが好きかもしれない。

というのはやっぱり主人公が女性でユマ・サーマンでかっこよかったからだろう。
ガス・ヴァン・サント監督はゲイと公言されていて作品もそういうニュアンスを感じさせるのが多いのだが、どこかベールで隠しているような、判る人にはわかるけど、はっきりと見せていない、というところがある。
『マイ・プライベート・アイダホ』は男娼の少年二人に話だったから明確ではあるがリバーの方の片思いでキアヌーは「商売だけでゲイじゃない」という男だったので物足りなかったのは確かだ。
本作は女同士の愛の物語なのでその辺サント監督も気が楽になるのか、ヒロインと恋人が深く愛し合う物語になっていて感動的である。リバーとキアヌーもこういう関係であって欲しかったんだけどね。

内容はこれも思い切りガス・ヴァン・サント世界。
移動する物語、である。旅ではなくムーヴィング、移動すること、という台詞もあった。
夢なのか現実なのかよく判らなくなるほどの不思議な出来事が起きることも流れる雲もまさしく彼の映画。
焚き火にあたる場面で主人公達二人が深く交わるのもお決まりのこと(ここではユマ・サーマンとパット・モリタ氏)

この映画の製作は『マイ・プライベート・アイダホ』のすぐ後だからもう随分前の作品である。若い頃の作品だからか、荒っぽい描写やテキトーな感じの描写もあるしなにより今まで見た中で一番明るく楽しい作品だった。

それにしても変な映画である。主人公はユマ・サーマンで申し分なく美しい女性なのだが両手の親指だけが特別に大きい(他の指よりはるかに長い)という「異常性」を持つ為に普通の生活ができずヒッチハイカーになってしまうというのである。
リバーがすぐ眠ってしまう「ナルコレプシー」でありながらヒッチハイクをしていく幻想的な美しさを持つ描写からするとこちらのヒロインのかっこ悪いことといったら。
といっても、彼女はその異常な長さの指を「神が与えた才能」として受け入れ「その指を優雅に動かせば止まらない車はなく、強姦魔も警官も彼女をよけていく」という力を持つのである。
ちなみに神はニジンスキーに鳥の骨格を与え、彼女にヒッチハイクの指を与えたそうな。知らなかった。だからニジンスキーは飛べるのだね。

シシーが長い親指を動かすとハイウェイを走る車は止まり、空を飛ぶ飛行機も流れ星も方向を変えてしまう。
だが彼女は今まで男性とセックスをしたことがなかった。
ニューヨークで女装のゲイであるカウンテスにハンサムな画家(キアヌー・リーブス)を紹介されるが「一日でもヒッチハイクをしないと親指がうずく」と言って飛び出してしまう。
そしてカウンテスが与えてくれた仕事「鶴の姿に扮して化粧品の宣伝をする」を引き受け、ラバー・ローズ牧場へと旅立つのだった。

設定も奇妙なら展開も突拍子もなくて一体どういうことでこんなことを思いつくのかさっぱりわからない。
何か元ネタがあるのか、とも思うのだが。
しかもそのラバー・ローズ牧場にはカウ・ボーイならぬカウ・ガールたちが働いていて牧場の管理者である女性と対立し牧場と天然記念物である「シロヅル」を自分達で守ろうと立ち上がったのだ。
男がいない牧場でカウ・ガールたちはレズビアンの関係になっている。
シシーはそこでジェリー・ビーンというカウ・ガールと深い恋に落ちるのだ。
ジェリー・ビーン、小柄でそんなに美人ではないのだけどシシーが好きになっていしまうだけあってすごくかっこいい。彼女はレイン・フェニックス。リバーの妹でホアキンの姉になるらしい。
つまり私が不満だったことを妹のレインが実現してくれたのである。
最後は悲しいものだったが、ジェリー・ビーンとシシーが愛を語らう場面は素敵だ。アメリカ女性で腋毛を見せているのも珍しいことだったのではないか。(とても柔かそうできれいだったし)
アメリカで「カウガール」というものが男性の飾り程度にしか思われてないことに怒り女性たちの権利を勝ち取ろうとするカウガールたち。
たった一人で立ち向かったジェリー・ビーンを勘違いで撃ち殺すのがやっぱりよくあるアメリカ男の行動ということなのか。
ということでシシーはカウガールになったのだねえ。男同士のカウボーイのゲイの物語『ブロークバックマウンテン』があったがそれよりずっと以前にカウガールのレズビアンの映画があったとは。
流れる星を見上げるのも美しく、クリシュナの物語も美しい。
「移動する物語」としてもレズビアンの物語としても特別に大好きな作品になってしまった。

なんだか変な衣装のインディアンの画家をキアヌ・リーブスが演じていて可愛かったし、カウガールの1人にヘザー・グラハムがいた。
パット・モリタさんは「日系アメリカ人」なのに「チンク(中国人というあだ名?)」と名乗る牧場近くの自然の中に住む不思議な男役。
ジェリー・ビーンやシシーと深いつながりを持つかっこいい役である。
しかし何と言っても女装の老人カウンテスを演じたジョン・ハートが忘れられない。

監督:脚本:ガス・ヴァン・サント 出演:ユマ・サーマン ジョン・ハート レイン・フェニックス パット・モリタ キアヌ・リーブス ショーン・ヤング
1994年アメリカ

posted by フェイユイ at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『パラノイドパーク』ガス・ヴァン・サント

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Paranoid Park

相変わらずなんだけどどうしても好きな世界なのでじっと観てしまうのだ。
交錯する時間も揺れる画面も粗い映像と広がる空と動く雲、光と風。美しい少年たちを集めて追い続けているカメラ。夢の世界のようでもあり、現実と記憶がごちゃまぜになってどっちがどっちなのか判らなくなってくる。
昨日はドラッグの映画を観たけど、この作品自体がドラッグのような不思議な感覚を味あわせてくれる。

退屈なくらいごく当たり前の生活を送っていた16歳の少年がある日を境に変わってしまう。
初めがそれが何なのか、隠されていて見えない。
少年はそのことを思い出したくない記憶として閉ざしているが、やがてその記憶を呼び戻してしまう。

それは16歳の少年が1人で抱え込むにはあまりにも重い出来事だった。

人を殺した。

偶然、だと思いたい。自分の意志ではない。
1人で言い訳をしても拭い去ることのできない記憶。
誰かに話したくても話すことはできない。
罰を怖れて逃れても自分を偽ることはできないのだ。

スケートボードをする少年たちの脆い美しさを映しとっていく。
貧しくてどこへいくあてもなくスケボーで走り回りジャンプしていくのが生きることすべてのような彼ら。
自分達でスケートボードパークを作り、そこが家だという彼ら。
主人公アレックスはそんな連中に憧れ、年かさの1人の男に誘われるがままついていき、貨車に飛び乗ったことが怖ろしい出来事を招いてしまった。
事件の後、雷が轟き光る。罪人であるアレックスに怒るかのように。
汚れた体を洗う為のシャワーの音が雨の音のように響いている。
筒状の中をスケボーに乗って走り抜ける少年たち。明るい光が見えてくる。
ガールフレンドは彼の心を察することもなくアレックスはもう彼女と一緒にいても何も感じていない。
アレックスに話しかけてきた別の少女の言葉で、心の中のもやもやを
紙に書いて燃やしてしまったことで彼は救われたのだろうか。

なにはともあれ、こんなに少年の美しさ、脆さ、危うさを魅力的に描いた作品もそうないだろう。
言葉も少なく感情の起伏も乏しいようにさえ感じられる16歳という年齢の少年たち。大人でもなく子供でもない中途半端でアンバランスな時代。現実と幻想の区別もはっきりとしないような、そんな時期なのだ。

アップになった少年の透明な瞳の美しさに見惚れない者が或いは嫉妬しない者がいるだろうか。

監督:脚本:ガス・ヴァン・サント 撮影:クリストファー・ドイル 出演: ゲイブ・ネヴァンス ジェイク・ミラー ローレン・マッキニー スコット・グリーン テイラー・モンセン
2007年アメリカ/フランス
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2008年12月18日

『トレインスポッティング』ダニー・ボイル

Trainspotting.jpg
TRAINSPOTTING

この映画もずっと観よう観ようと思いながらなんとなく観損ねてやっと鑑賞。

スコットランド。冴えない若者のクスリ漬けの日々を描いた作品。
昔からクスリを題材にした物語というのは興味があるのだが、さすがにこの年まで観て来ると結局どうにもならないんだという描き方しかできないものだと気づいてくる(物凄く遅いが^^;)
麻薬はいけませんよー、という描き方にすれば辛気臭くて説教じみて嫌になるし、かといって素晴らしい世界だという描き方も嘘でしかない。
それにクスリを服用した本人だけがその快感を得るわけで画面を観てるものはその恍惚とした顔を眺めるだけなのでどうにも取り残されてしまう。
ヒース・レジャーが出ていた『キャンディ』はクスリ中毒になるとどんな悲惨な末路がくるのかと表現していて教育的な意味合いが強い映画だったが、こちらの映画ではジャンキーの生活の悲惨さを捉えながらも突き放した表現で面白がっているようにも思える。
この刺激的な生活と安泰な退屈な日々のどちらがいい?と聞いてさえいるようだ。

映画としてはこの描き方の方が好きだが、辛気臭い話をすれば本当にクスリというものを知らなくて幸せだと思う。
「何百回のセックスよりいい気持ちになれる」ほどの快楽を一度知れば捨てられるわけがない。
今日もゲーノー人の方が「反省してやり直します」てなこと言っていたが、体験者はニヤニヤ笑いをしていそうだ。
日本でも以前からやってる人はやってただろうが、最近とみにニュースになる「クスリ」
人間関係を持つことが苦痛になっていく現在、1人だけで快楽に浸れてそれがとんでもなく甘美なのだったらますます中毒者は増えていくだろうし。

まあそれはおいといて、評判どおり面白い映画だった。あっと驚いてこんな凄い映画があったのか、ともんどりうちまではしないが。
汚さも悲惨さもだらしなさも文句なしの最低ぶりだ。
『キャンディ』と違ってこちらの主人公くんは両親にも愛され部屋も可愛い男の子の部屋って感じでその普通さがまた悲しい。
主演のイアン・マクレガーは坊主頭も愛らしくこれも文句なしに魅力的だった。

ところで私がドラッグ関係の作品で最も好きなのはねこぢるさんの『ぢるぢる旅行記』である。
これはドラッグ礼賛と言える内容なので映画化は難しいかもしれない。ねこぢるさんを誰が演じるかというのもあるし(←そういう問題か)
やはり一応「麻薬は危険です。こんな酷い目に会いますよ」という表現でないと映画にならない気がする。
このマンガをそのまま映画にできたりするだろうか。

監督:ダニー・ボイル 出演:ユアン・マクレガー ロバート・カーライル ジョニー・リー・ミラー ケヴィン・マクキッド ユエン・ブレンナー ケリー・マクドナルド
1996年イギリス
ラベル:麻薬 青春
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2008年12月17日

『悪魔のようなあいつ』第十二回 

凄く内容が濃くてかっこいい一話だった。どうなるかとはらはらしたし、この回は見応えある。

潔白を示す為、自殺しようとした静枝はふみよが怪しいことを良に教える。
良はふみよをおびき出し、甘い言葉をかけたり脅したり殴りつけたりした。3億円を取り戻す為なら良は何でもする気になっている。
言い逃れようとしたふみよだが階段を踏み外し気を失ってうわ言で3億円の隠し場所を言ってしまう。
だが八村モータースには白戸警部が何も知らないまま居座っていた。

良は野々村に相談を持ちかける。白戸をおびき出し、その間に金を奪い返す計略だ。
野々村は二つ返事で良の要望を聞いた。車と拳銃。
良の誘い出しを白戸は受けた。だが八村のおばあちゃんが良が家の近くに来ていたことをしゃべってしまった。

相変わらずの野々村の良への耽溺ぶりが涙モノ。野々村は見返りは何も要求しないのだなあ。
その従順さをあてにした良の悪魔っぷりがすてきだ。
二人が計画を立て、白戸がどうやら気づいたのに良が八村モータースへ来てしまう。ここら辺の緊迫感は手に汗握る。
待ち合わせ場所にはいつもの見張り役刑事がやって来てすぐに野々村は状況を察知して刑事を撃ち、良の元へ走る。
良が3億円を見つけたところで白戸が声をかけた。
銃撃戦が始まる。良の撃った弾が白戸の腹に当たり、白戸は良の肩を撃った。
白戸がもう少しで良の手に手錠をかけようとした時、野々村が駆けつけ白戸を殴りつけ、手錠で彼の手をバイクにつなげてしまう。
3億円を袋に詰め込み用意した車で逃げようとした時、良は野々村の銃を取り上げ彼に向ける。茫然とする野々村。
良は野々村と八村を残し3億円を積んだ車で走り去った。

3億円強奪の場面が挿入される。この部分は凄くかっこいい。
何故良にとって3億円強奪が青春なのか、それはあまりわからないのだが、それはどうでもいい。
良のためなら殺人でもなんでも犯してしまうような野々村さんの一途さに打たれてしまう。
そして野々村さんはどこに走っていくのか判らない良を憎みながら愛しているのだろうな。
危険な二人である。

脚本:長谷川和彦 原作:阿久悠 上村一夫 音楽:大野克夫 井上堯之 出演:沢田研二 藤竜也 若山富三郎 荒木一郎 三木聖子 大楠道代 細川俊之 尾崎紀世彦
1975年日本
posted by フェイユイ at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪魔のようなあいつ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『悪魔のようなあいつ』第十一回 

鏡の裏に隠していた3億円が何者かによって奪い去られてしまった。
青春を奪われた可門良は彼に関係する者たちを疑い問いただすのだった。

今回も良と野々村さんの場面が危ない。
「今日で28歳になったよ」と昼間から野々村の店へ訪ねる良。野々村は自分と良が一緒に住むことを夢見ているポール・ハーパー・ジュニア島が地図からなくなってしまったと必死で探したあげく店で眠っていた。カウンターに座る野々村にいつもより甘えかかる良。「そこはどんなとこだい」「オレンジがたくさんなっていてとても美味いんだ。枝からもぎってこう・・・」と食べる真似をしたところを良が彼の首を締め上げた「俺の青春を返せ」
殴りあう内に二人は服が破れて裸になってしまう。店の女の子たちが良の誕生日を祝いながら入っている。殴りあう二人を止める。やがて笑い出す二人。
そこへ白戸警部が入ってきて「鏡の奥の金はどこにやったのか」と聞くのだった。

野々村、白戸、静枝、八村、皆を疑ったが3億円は出てこない。実は良が最初から疑いをかけなかったふみよが犯人だったのだ。
ふみよは3億円を箱に入れ、自宅の台所に隠したのだった。

女達に対する良の扱いの酷いこと。しかし女たちもなんだかうっとうしいんだよねえ。
ポールシーハーパージュニアはほんとにあるのか。
posted by フェイユイ at 21:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 悪魔のようなあいつ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『レベッカ』アルフレッド・ヒッチコック

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REBECCA

昔、この原作デュ・モーリアの小説『レベッカ』を一体何度読み返しただろう。今も時々読み返しているし。
何のとりえもなく見た目も冴えない娘があっという間に大富豪のハンサムな男性に結婚を申し込まれてしまう物語である。
南仏のホテルで娘は金持ち夫人のコンパニオンをしていていつもいびられている。そこへ立派な容姿の男性が現れ、金持ち夫人も一目置く存在であるらしい。彼はマキシム・デ・ウィンターという名前で、皆が憧れるようなマンダレーの屋敷に住んでおり一年前まで誰からも慕われる美しい女性レベッカを妻としていた。
そのレベッカが事故で亡くなってしまい、彼は一人ぼっちだった。

夢中になって読んだ小説がヒッチコックによって映画化されていたのは知っていたし、観る機会もあったのだが、冒頭で観る気が失せてしまった。というのは主人公役(一人称で名前がない)のぱっとしないはずの娘役がジョーン・フォンティンという素晴らしく美しい女優でまっすぐなはずの髪の毛は(『不思議の国のアリス』をやれと言われてすねてしまうような真直ぐな髪)ウェーブがかかっていてそれだけでも小説のイメージがそのまま再現されてはいないだろうと思われたからだ。
とうとう観ずじまいで今まで来てしまったが、そういうところは無視するとしてどういう映像になっているのか、やはり観てみたくなったのだった。

で、どうだったかというと、やはり原作に耽溺していた人間としてはまったくイメージが異なっただけであった。いくらヒッチコックといえ、小説の深いイメージをそのまま或いはそれを超えるような表現は願ってもかなわないものなのだろう。
とはいえ、幾つもの賞を取ったと言うこの作品はとても美しく面白い作品に仕上がっているとは思う。ジョーン・フォンティンの透明な美しさはイメージを別にすれば見惚れてしまうものだし、マキシム役のローレンス・オリヴィエのハンサムさはさすがに素晴らしい。同時代で観ていたら彼の美貌を観るだけでも満足できるものだっただろうなあ、と思ってしまう。
では何がいけないのか、というと映画ではレベッカが見えてこないのだ。

死んでしまったレベッカが見えないのは当たり前、なのだが、これが小説だとヒロインよりなによりレベッカの姿が浮かび上がってくる。
出合った人は皆彼女を愛してしまう、彼女を崇拝してしまう、という美しいレベッカ。すらりと背が高く威厳があるのに同時に愛らしく少女のように見えるというレベッカ。真っ黒な長い髪がほっそりとした体を包んでいるというレベッカ。知性と勇気が備わり、誰でも魅了するような会話ができ荒馬を乗りこなし、無造作に海岸を歩く姿も美しいレベッカ。小説を読んでいると自分もレベッカという女性に憧れてしまうのだった。そして彼女を愛し、仕える家政婦のデンバース(映画ではダンバースになっていたが私はどうしてもデンバースと覚えてしまったので)彼女が新しくデ・ウィンター夫人となったおどおどとして美しくもない小娘を憎む気持ちもわかる。デンバースがヒロインに「あなたはデ・ウィンター夫人にはふさわしくない。さあ、ここから落ちなさい。すぐにすみますよ」と屋敷の窓で囁くシーンはぞくぞくとする。映画でもその場面はあったのだが、自分の頭の中で描いていたシーンとは全然違い、目の前がくらくらとするような恐ろしさは感じられなかった。私のイマジネーションの如何でなく、小説を読めば映画を観るよりもくっきりとその映像が頭に浮かんでくるのである。
小説ではレベッカという女性が他の誰よりも明確な姿で現れるのだった。
ところが映画は現実に起きていることだけを映像化していてレベッカの思い出場面などというものがない。これは却ってとても上手い考えだとは思う。イメージの中のレベッカを現実の女性が演じても失望してしまうだけかもしれない。
死んでしまったレベッカというもうそこにはいないものが生きている人々を怖れさせ動かしている。
それは映画のようにイメージとして登場しないほうがより感じられるのかもしれないが、この映画ではその表現をあまり強く出していないのが勿体無く思えたのだが。
デンバースを始め殆どすべての人がレベッカに陶酔していたのだが彼女を怖れていたのが夫のマキシムと頭の弱いベンだったというのが面白いところである。

小説が映像的すぎると映画になりにくいのかもしれない。小説の最後、ヒロインとマキシムがマンダレーに向かって車を走らせる場面、夜なのにマンダレーの方角が朝が来たかのように明るい。それはマンダレーが燃えていたのだ、というこれも強烈なイメージが映画では当たり前の火事の映像になっていた。残念だ。

ヒッチコックの映画としてはかなりスタンダードな作りになっているのだが、それが却って評価されるということもあるのかもしれない。落ち着いた豪奢な印象である。
ということは逆にヒッチコック独特の面白さは少ない作品に思えてしまうのではないだろうか。

監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作: デヴィッド・O・セルズニック  原作: ダフネ・デュ・モーリア  出演:ローレンス・オリヴィエ、ジョーン・フォンテイン ジョージ・サンダース ジュディス・アンダーソン グラディス・クーパー
1940年アメリカ
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2008年12月16日

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』ボブ・ラフェルソン

郵便配達は二度ベルを鳴らす.jpg
The Postman Always Rings Twice

公開当時、かなりの話題になった作品ではないだろうか。ジャック・ニコルソンとジェシカ・ラングのエロテッィクなシーンゆえに。

今観てもセックスの場面はきわどいものを感じるのだが、作品自体が非常に面白いものかというと微妙な感じになってくる。全然つまらなくはないが、とにかく構成が冗漫で幾つかの場面がどうも嘘っぽく見えてしまってしっくりこないのである。
ジェームズ・M・ケインの同名小説の4度目の映画化、ということらしいのだが、ちょっとした財産を持ってはいるが冴えない初老の男が不釣合いに若くて美人の女房がいるところに流れ者の若い男がやって来て女房と恋に落ちる。二人は衝動的に亭主を殺すのだが、という物語は細部の違いはあれど他にもたくさんあるわけでそれだけ興味を惹く題材なのだろう。
自分が最近観たのでも『死刑台のエレベーター』は流れ者ではないがそのまま大金持ちの亭主を殺してしまう不倫の男女の話だし、『猟人日記』では亭主は金持ちじゃなくその為殺されはしないが流れ者の男を雇った夫婦の顛末という設定は同じである。
本作も実は亭主の財産目当てではなく純粋に(というのも変だが)愛のために亭主殺害を計画するのだ。
『郵便配達は二度ベルを鳴らす』というタイトルの意味は「郵便配達は来客と違って必ず二度ベルを鳴らすものだ=つまりこの男は来客ではない」ということを含んでいるらしいのだが二人が殺害を企てた時、「何か起きたら二度ベルを鳴らす」という打ち合わせをしていることとか出来事が二度繰り返して起こっていく、という意味も含んでいるようだ。しかしそのためもあってか物語がぐるぐる同じ所を回っているような鬱陶しさがあって、その鬱陶しさが作品の味わいになっていればいいのだがそこまで感じられずただ散漫な展開にしか思えないのである。
その辺りは『猟人日記』のほうが上手く表現されていてやはりこれはハリウッド映画とイギリス映画の差なのかとも思ってしまう。
ハリウッド的な嘘っぽさというのは他にもあって空腹のはずのニコルソンが途中で食べるのをやめてしまうとか(ホントにいつもアメリカ映画で気に触るのだが何故空腹なのに全部食べないのか。嘘としか思えない)猛獣をベッドの上に座らせているとか(馬鹿馬鹿しい演出だ)とどめは最後の場面で転げ落ちたジェシカを見るなり泣き出すのはどういうことなのか。まず触って死んだかどうか調べなきゃ生きてるかもしれないし、救急車を呼ぶべきだし、ひと目見て死んだと思わせたければ頭がぱっかり割れて脳みそが飛び出してるくらいしないと素人目には判らないだろう。「死んでないわよ」と生き返るのかと思った。号泣する男の姿を見せたいだけの演出に過ぎないのではないか。
そして話題のエロシーンも行為としてはなかなか迫力あるのだが、キッチンのシーンはいいとして夜二人きりなのにジェシカがメイクラブシーンでごっそりネグリジェを着こんでいる。この時代裸は駄目だったのかなあ?裸が無理でもも少しどうにかできなかったのか。全裸でなくともいいだろうに何故あんなに着こんでいるのか、キッチンでは凄い野に、ベッドだと色っぽくないのだね。

と細部をごちゃごちゃ言ってしまったが作品全体がどこかしっくりこないものを感じてしまうのだった。
ギリシャ人の夫がまるで人間扱いでなく、アングロサクソンな男女がのさばっているのも不快の原因かもしれない。リアルといえばリアルなんだろうが。アングロサクソン夫婦の間にギリシャ系美男子が割り込んでくる、というのならいいんだろうけど。

昔観た時、意味もよく判らなくて今見直せば感じ方も変わるかと思ったのだが、この作品については余計悪く思えてしまった。

ついでに『郵便配達は二度ベルを鳴らす(1946年版)』というのも観てみようとしたのだが、こちらはもうものの数分で観るのを止めてしまった。
まるでハリウッド映画ってこういうのだよというサンプルみたいな作品でヒロインの登場の仕方、その姿いでたち、演出も展開も見るに忍びない代物だった。昔の映画だからといってすべてが価値あるものではないと思い知らされた。虚構だけで作られたような映画なのだった。

まだルキノ・ヴィスコンティの作品は未見である。是非観たいと思ってはいるのだが、まだかなわない。

監督:ボブ・ラフェルソン 出演:ジャック・ニコルソン ジェシカ・ラング ジョン・コリコス マイケル・ラーナー アンジェリカ・ヒューストン
1981年アメリカ
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2008年12月15日

WOWOWドラマ『プリズナー』第5話 最終回

プリズナー5.jpg

さていよいよ最終回。やっと終わるとほっとしている自分。そりゃナオさんは観たいけどさあ。展開がどうだろうとどうでもいいやって感じなのさ。

怪しい人がいい人とわかったり、許せない悪い奴はブタ箱に入れて、まあすべて落ち着くべき場所へ落ち着いた、という結末だった。まあそれも「なんなの、この変な終わり方〜」というのが好きな自分には不満だしね^^;
玉ちゃんが悪いわけじゃないけど、この主人公自体、もっとか弱そうな男子がよかったのにねえ。玉ちゃんは背も高くて強そうなんだもん。
ナオさんはいつも物足りないわ〜っていう出演時間。今回特に少なかった気がする。髭もすてきだし、首の太さがすごく好きだわーと眺めていたが、もっとずっと観ていたいよ。
王尊民氏が自殺したのは残念でした。「前進」の発音がすてきでした
が。

とにかく最後まであっと驚くようなことが起きるわけでもなし、駆け引き、取引が巧妙で驚く、というようなこともなくなんとなく悪人と善人が出てきてそこそこやりあったという話でしょうか。
どこかいいところをあげようとしても何も浮かばない。
大森南朋だけが見所だったなあ。私にとっては。

ところで警察署長ボスがさっき観たNHKスペシャルドラマ『最後の戦犯』の裁判シーンで主人公に話しかける男の役で登場していた。丁寧な話し方をしていてなんだかおかしかった。

演出:水谷俊之 脚本:大石哲也 出演:玉山鉄二 大森南朋 鶴田真由 中村俊介 松重豊 石黒賢 小日向文世 佐田真由美 
2008年日本
posted by フェイユイ at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 大森南朋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする