映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年02月28日

『銭ゲバ』第7話 松山ケンイチ

銭ゲバl.jpg銭ゲバm.jpg

やっぱ蒲郡パパが最強だな。
緑さんが一所懸命やっつけても全然聞いちゃいねえ。

えーと、奇数回の呪いはあくまで効いているらしく、今回もなんだかまどろこしい。やたらお涙頂戴的な話で作られているのもイライラするし。だからこそ蒲郡親父の登場だけがなんとなくからっとして救い。
なんだかどうでもいいんだよねこの人。ほんとにお金が欲しいわけでもなんでもなくて心がない人なんだよ。風太郎よりパパの心理のほうに興味がある。ていうか心がないなら心理もないのか。

今回はさ、なんか面白れえ、っていうのがなくてもう話すのがメンドクサイ。
しがない刑事に「やっぱり大切なのは金だ」と言わせるようなSMプレイを見せられても濡れやしないやね。
金が大切だとかいうのは当たり前のことで、でもそれイコール金が全てだ、にならないのも当たり前でそういう当たり前のことを1時間じーっと観ているのはなかなか辛い。って言ってもそれがこのドラマのテーマだから、じゃあ観るなよ、ってことだしなあ。いや、話作りがなんかこう面白くなりそうでならないんだよね。偶数回の時は期待するんだけど。
『悪魔のようなあいつ』を面白く観れたのは金が云々じゃなくてかっこいいジュリーと藤竜也氏の危ない関係を見たかっただけだしな。

どーせ松ケンファンは話の内容はどうでもよくて、シチュエーションとして彼が叫んだり悩んだり押し倒されたりするのを楽しんでいるだけで、こんなに物語がいかんとかごねていること自体間違った鑑賞方法なのかもしれん。
といつも言い聞かせつつ。
憤慨してしまう自分が空しい。
また次回を期待するか。

しかしお金持ちという設定なのに貧乏っぽいよな。会社と家を往復するだけの慎ましい生活だ。家も食堂と自室しかないし。
来週から豪遊だな。
松ケンが自堕落してるのを観たいね。
ラベル:松山ケンイチ
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『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』侯孝賢

Le Voyage du Ballon Rouge 2.jpgLe Voyage du Ballon Rouge.jpg
Le Voyage du Ballon Rouge

昨日観てその素晴らしさにため息をついたアルベール・ラモリス『赤い風船』へオマージュを捧げた台湾のホウ・シャオシェン監督作品。
一体どんな映画になるのかと少々おっかなびっくりではあったがさすがにホウ・シャオシェンの作った映画は無論単なるリメイクのようなものではなく現在のパリの風景と人々の姿をまさにホウ・シャオシェンらしい映像にしたものだった。

とはいえ『珈琲時光』の時もそうだったが、淡々とした独特の雰囲気をそれこそ美味しい珈琲を味わうように堪能するのだが、彼の作品はなかなかどうこうと説明するのが難しい。メッセージ性がはっきりしたラモリス『赤い風船』とは違う掴みどころのない混沌とした世界であるように感じる。

ラモリス『赤い風船』の少年は孤独で先生からも子供達からも疎外されて風船だけが彼の友達になってくれる。
ここでの主人公の少年には離婚している母親、優しいピアノの先生などがいて少年を愛してくれている。そしてここでも同じように赤い風船が少年の頭の上に現れるのだが、赤い風船は友達になってはくれない。ただいつも少年の側でじっと少年を見守っているのである。

離婚した夫はバンクーバーにいて頼りにならず、家の一階を借りている友人は家賃を払わず仕事はハードで母子家庭のママは少々ヒステリックになってしまう。そんな姿にまだ幼い少年シモンはどこか寂しさを感じているようだ。
母親は人形劇の声優をやっていてとても忙しくまだ幼い少年の面倒を見させるために中国から留学してきた若い女性ソンを雇うのだ。
ベビーシッターとなったソン・ファンはラモリス監督『赤い風船』に憧れてフランスに映画を学びに来ている女性だ。フランス語は話せるが饒舌ではない。物静かででも大らかな感じのする責任感のある女性という印象だ。ママもシモンも彼女のことを気に入っている様子である。

監督の映画もまた饒舌ではない。とても気持ちのいい映画なのだが、それはどうしてなんだろうか。
ソンがもしいなかったらどうだろう。パリの街で忙しいママと寂しさを抱えている少年という物語はよくあるような気がする。
ここではそんな二人の間にソンという女性が入ってくる。ママもソンには気を使って優しく話しかけるし、シモンはソンになついている。
ソンは押し付けがましくはないのだがいつも二人を見守っているような存在である。
ソンは『赤い風船』に憧れてパリに来たのだが、パリに住むシモンとママにとってはソンこそが赤い風船なのではないだろうか。

ソンはフランスの映画に憧れてやって来たのだが、シモンのママは中国の人形劇をやっている、という仕掛けになっている。
ソンはパソコンを使って映画を撮っていき、ママは中国の老人に人形劇を学んでいる。互いの文化を交換した仕組みになっているのが面白い。

最後辺りに、シモンが練習するピアノの調律を盲目の男性が行うのだが乱れていた音が調律師によって正確な美しい音になっていく、というのが今はごたごたして荒れてしまっているシモン母子の生活が美しい音楽になる予感をさせているようだ。
(このピアノの調律、という仕事、映画やTVでしか見たことはないが、酷く惹かれてしまう。とても美しい作業だ。この仕事の映画なんて素敵じゃないか、と思うのだが)

子供達が絵について勉強している。空から見下ろしているような絵の中に赤い風船とそれを追いかける少年が描かれている。向こうに少年を見ている両親らしい姿もある。悲しい絵なのか楽しい絵なのか、の質問に両方と子供が答える「日向と影があるから」
シモンが勉強しているのを見た赤い風船はなんだか安心したように空高く飛んでいく。
ラモリス『赤い風船』では空高く風船と飛んでいく少年がどこか寂しく思えたのだが、この作品では少年は仲間たちの間にしっかり収まって飛んでいく風船を見送っている。
悲しいがゆえに心に残るラモリス『赤い風船』の少年を地上に残したいと思ったホウ・シャオシェン監督の思いが込められているようだ。

『赤い風船』へのオマージュでこんな優しい作品を作ってしまったホウ・シャオシェン監督の力量に感心していしまう。中国人女性ソンがさりげない形でいい役なのもうまい。
そしてなんといってもシモン役の少年が可愛い。とても綺麗な顔立ちでもあるのだが、会話が大人ぶっていて愛らしくてたまらない。
ママが「私には頼りになる男も側にいない」と言うとすぐに「僕だって男だよ」というのがなんとも可愛いのだ。

監督:侯孝賢ホウ・シャオシェン 出演:ジュリエット・ビノシュ  イポリット・ジラルド  シモン・イテアニュ ソン・ファン  ルイーズ・マルゴラン
2007年フランス
ラベル:愛情
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2009年02月26日

『赤い風船/白い馬』アルベール・ラモリス

赤い風船.jpg赤い風船白い馬2.jpg
Le Ballon Rouge

白い馬.jpg赤い風船白い馬.jpg
Crin Blanc

2作品ともほんとに感心してしまう美しく素晴らしい映画だった。

描かれている状況は違うけど語っているのはどちらも自由を願うことと暴力や圧政への反抗、ということだ。
力ない少年が風船や白い馬を手に入れたいと願うのはやはり弱い立場の大衆が夢や希望や平和を求めていることだろうし、悪ガキどもや無遠慮な牧童たちが荒々しく少年や風船や馬を追いかける光景は戦争や悪政によって人々を迫害していく様に思える。
そういう世の中の怖ろしく悲しい事実を身近な例えになぞらえ美しい映像で見せていくという手法はなぜかそのままを映し出す以上に心に訴えるものであるが、この2作品はそういう映画の優れた手本といって間違いないだろう。

ブルーグレーの色彩の街の中を真っ赤な風船を持って闊歩する小さな少年。風船がまるで意思を持っているみたいに自由に動いて少年を追いかけていく。
そんな少年と風船に目をつけた大勢の悪ガキどもが二人を追回し、意味もなく美しい風船を捕まえ、石を投げつけ、踏みつけて割ってしまう。
守ろうとする少年はあまりに小さくか弱い存在で彼らの力に抗うことはできない。少年の目の前で赤い風船はしぼみ、割られてしまうのだ。
こういうわけの判らない暴力は世界中のあちこちで様々な形で弱者に襲いかかっている。彼らは大事な赤い風船を守る術もなく目の前でそれを破壊されてしまう。それは戦争であり、圧政であり、いじめでもある。
弱いものは命を自由を尊厳を失ってしまうのだ。
この先の物語は作者の願いであるのだろう。
大事な赤い風船を割られた時、街中のありとあらゆる風船が少年のもとへと集まってくる。なんという美しく楽しい情景だろう。
たくさんの風船が集まって少年を抱え空へと舞い上がる。

『白い馬』の方はもっと判り易いかもしれない。
自由な野性馬である白い馬はその美しさと尊厳の為に馬飼いたちに追い回され捕獲されそうになる。
だが野性の白い馬は決して彼らの暴力に屈しようとはしない。
白い馬は彼と友達になろうとする少年にだけ心を許す。少年もまた白い馬を愛する。
少年との約束を破り再び白い馬を追いかける馬飼い達から逃れようと少年と馬はどこまでも走り続け、とうとう海に飛び込む。そして人間と馬が仲良く暮らせる国へと行ったのである。

とても美しく夢と希望と自由を求めた作品なのだが、どちらも何故かとても切なくなってしまう物語である。
『赤い風船』はとても明るいイメージはあるが小さな少年はなんだか酷く孤独だ。彼と仲良しなのは風船だけなのだ。たくさんの風船に乗って舞い上がるラストはなんとなく少年がそのまま遠い国または天国に行ってしまうようなニュアンスも感じられる。
同じく『白い馬』も少年と馬が行った国とはこの世にありえない国のようにも思える。二つともはっきりと少年の最後を描いたわけではないがこの物語が戦争や圧政への反抗を描いているのなら少年が或いは命を失ったことを暗示しているのかもしれない。
自由や平和を願いながら簡単にそれらが手に入らないことが二つの作品に溢れる痛切な悲しさなのか。
とはいえ作者が少年の死を描いていないのは観ている者がきっと彼らは生きていて幸せに暮らしているのだ、と信じたいし、希望を持てる余地を与えてくれているのだと思う。

どちらも少年が可愛らしくて見惚れてしまうのだが、特に『白い馬』は(上のようなかっこつけたことを書いてて言うのもなんだが)美少年のイメージそのものである。
主役の少年がとても綺麗なのだが白い馬を見つめる眼差しがはっとするほど素敵なのだ。ほっそりとした手足でなぜかズボンが破れているのが艶かしい。
鞍をつけない白い馬にまたがって疾走するシーンはどうしてこの少年がこんなに走れるのか。本当にこの馬と少年の心が深く結びついているように思えてどきどきしてしまう。
浅い水際の中で白い馬と少年が寄り添って立つ場面、裸馬にまたがって少年が駆けていく場面、まるで神話を観ているかのように美しい。
小船に乗って少年が漕いできて老人の横で居眠りをしたり小さな男の子に亀をあげたりしているところも何気ないものなのだがうっとりと見惚れてしまうのだ。
たてがみをなびかせて立つ白い馬の首筋に寄りかかる少年の美しさ。
馬に乗って走る美少年を追い詰める牧童たち、という構図は上に書いたような自由と平和の願いというよりどこかエロティックであり過ぎ、少年が波間に消えていってしまう、というラストも悲しい。
それで同じテーマでありながら、もう少し純粋無垢なイメージの作品を作ったのかもしれない。
とはいいながら私はどうしても『白い馬』のエロティシズムのほうに惹かれてしまうのであるが。

監督:アルベール・ラモリス  
赤い風船 出演:パスカル・ラモリス、サビーヌ・ラモリス、ジョルジュ・セリエ、ヴラディミール・ポポフ 1956年フランス
白い馬 出演:アラン・エムリー、ローラン・ロッシュ、フランソワ・プリエ、パスカル・ラモリス 1953年フランス

ラベル:自由
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2009年02月25日

『華の愛 遊園驚夢』楊凡ヨン・ファン

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遊園驚夢 Peony Pavilion

宮沢りえがこの映画に出演したこととビアンな作品であるということは聞いていたが、こんなにいい作品だったとは。もっと早く観ればよかったっ。

退廃的上流社会のビアンな映画ということで、つい先日観た溝口健二『お遊さま』と並べてしまうが、金持ち具合はさすがにあちらのほうは豪華絢爛というしかない。
阿片の煙漂う豪奢な退廃美、という堪えられない設定である。宮沢りえは日本人ということはまったく関係ない役柄で台詞は吹き替えによるものなのでほぼその美貌を見せるための存在なのだが、元歌姫であり没落していく名家の第五夫人となった美女を演じている。
忘れようもないが超人気アイドルだった彼女が同じく超人気だった貴乃花と結婚するのかという大騒ぎになった後結婚が破棄になり、なんだかよく判らないが突然バッシングの嵐のようになってしまった。親がどうだとか将来太ってしまうに違いない、だとか今思うとなんだかよく判らないバッシングだった。
傷心のせいかふっくらしていた彼女が骨ばかりのように痩せてしまい、そのまま日本の芸能界からいなくなってしまった。
暫くしてこの映画に出てモスクワ国際映画祭で最優秀主演女優賞を受賞したという話で驚いてしまったものだ。
さらにその後日本映画界で大活躍することになるが、この映画を観ればさもありなん、という雰囲気に溢れている。
はじけるような元気に満ちていた彼女がここではもうしっとりとした悲しみを湛える女性に変化している。
人気絶頂だった歌姫が飾りにしか過ぎない第五夫人になり阿片漬けの夫からは見向きもされず(一人娘をもうけるが)若い第二執事に心寄せられ、若い芸人との密会が原因だったのかよく判らないが離縁され家を追い出されてしまう。
なんだか彼女自身の過去と結びつくような内容だがそれが為か宮沢りえの眼差しにすべてに疲れきってしまったような悲しみとあきらめのようなものが感じられる。台詞が吹き替えのため、彼女の表情や体からも漂ってくる寂しさがある。
無論これは彼女のわけありを知っているから考えてしまうこともあるだろうが、モスクワで主演女優賞を取ったのは伊達ではないだろう。

こうした旧中国社会から新しい社会へと移り変わるこの時代の雰囲気が好きなものには堪らない映画でもある。『お遊さま』と並べて観るのも楽しいことだろう。
作品としてはどちらも捨てがたい。ビアン的な見地からもどちらにもなかなか見せるものがあるので(同時にどちらにも悲しい部分があるので)甲乙つけがたい。
りえさん自身背は高いほうだがジョイ・ウォンはさらに高いので驚く。ジョイ・ウォンといえばそりゃ勿論『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』であるがあの時の彼女はほんとに愛らしいお嬢さんだったのだがここではすらりとした男前になっている。
彼女の側にいると宮沢りえは凄く華奢で淑やかで支えていないと折れそうな、という手弱女で可愛いったらない。
そういえば最近彼女の結婚の噂は中国でも騒がれていたようだが、やはりこの作品の影響なのだろうか。

なんだか噂話のほうが幅を利かせる感想文になってしまったが、この映画は筋書きだとか謎解きだとかいうようなカテゴリでないからかもしれない。
この映画はやっぱり観て感じるものである。この廃れゆく美しさの中に身をゆだねるべきものだろう。
りえを愛するジョイがこともあろうに浮気心を起こしてしまう美丈夫に呉彦祖(ヨン・ファン監督『美少年の恋』の)が扮し、美しく引き締まった肉体を惜しげもなく披露している。整った顔立ちに盛り上がる筋肉美に見惚れてしまうこと間違いなし。
そして彼の体に一時溺れたジョイがりえの元に戻ってほっとしたのだが、最後に彼女にもたれたりえはすでにこの世の人ではないのか。
美に酔いしれる作品である。

監督:楊凡ヨン・ファン 出演:宮沢りえ ジョイ・ウォン 呉彦祖
2000年中国
ラベル:同性愛
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2009年02月24日

『ハーヴェイ・ミルク』ロバート・エプスタイン リチャード・シュミーセン

HARVEY MILK.jpg
THE TIMES OF HARVEY MILK

日本においては、アメリカ第81回アカデミー賞で『おくりびと』が外国語映画賞、『つみきのいえ』でアニメーション短編賞をとったおかげで他の賞はすっかり影が薄くなってしまったようだ。私も無論DVDになった折には観ようと思ってはいるが。
気になっていたガス・ヴァン・サントの『ミルク』はショーン・ペンが主演男優賞をとり、また脚本賞を取ったのだが、今頃になってこの映画の主人公であるハーヴェイ・ミルク氏がどんな人だったのかと思い始め(全然何も知らなかった)探したらドキュメンタリー映画が見つかり、早速観てみることにした。

決して長くはない作品で非常にオーソドックスに作られている簡潔で判り易いドキュメンタリーである。
まったく知らなかったハーヴェイ・ミルクが大変魅力的であると同時に素晴らしい政治家だったことが伝わってくる。そして情けないことに涙が溢れて困ってしまった。
こんなに大変な怖ろしい出来事があったのだということに衝撃を受けたし、こんなに素晴らしい人がいたんだと単純に感動してしまったのだ。

観ていてごく素直にこんな政治家がわが町にいてくれたらどんなに楽しくていい町になるだろう、なんて思ってしまうような快活で前向きな人なのである。
それは隠れた存在であるゲイ・ビアンたちの代表であるというだけでなく他のマイノリティたちにも勇気と希望を与えてくれる行動を取ってくれたからだということになるほどだからこれほどの支持を得られたのだと納得できた。
しかもいつも笑顔で(ひどい癇癪もちでもあったらしいのだが)ジョークやユーモアを忘れない人だったことがより皆から愛される要素だったんだろう。彼がカムアウトしたゲイの代表としてアメリカ社会を開こうとしていく前半はわくわくするような気持ちで観ていくことができる。
だが、周囲の人々の誰からも慕われているように見えるミルクと対立する形で登場するのがダン・ホワイトという白人の青年でミルクと同じ執行委員という役職にありながら公約も果せないまま、辞職願を出してしまう人物である。彼が自分の再任を認めなかった市長と共にミルクを射殺してしまったことは大きな打撃であり悲劇で愕然とする思いだったが物語りはここで終わらず、さらに彼が中流家庭の白人でありへテロであることから(としか思えない)二人の殺人者でありながら軽い刑罰になり、そのことがミルク支持者の暴動を起こしてしまうのである。
尊敬する人の死が不当に扱われた激しい怒りからとはいえ暴力が行われたことはミルク自身は悲しむことだったのではないだろうか。
裁判に関わった陪審員のすべてがダン・ホワイト側の人間つまりマイノリティは一人もいなかった、というのはこうしたゲイ・ムーブメントが盛んになっていたとはいえ結局は迫害される存在にしかすぎなかったことを表している。
アメリカは今まで絶対的に迫害される存在だった黒人の大統領が生まれたわけだが、こうした人々の考えと行動を見ていると、今と言う時代はこの時とは違うのだろうか、とやはり考えさせられてしまうし、またそのことが日本と言う国ではどうなのだろうか、とも考えさせられてしまうのだ。

人々がハーヴェイの死を悼んで夜の町をキャンドルで溢れさせ行進する場面の悲しさ。美しさ。彼のように素晴らしい人がどうして殺されなければならなかったのか。それはただ一人の男の嫉妬と復讐心だけだったのか。
「カムアウト=公言しよう」とみんなを励ますハーヴェイの明るい笑顔が心に残る作品だった。

ガス・ヴァン・サントの『ミルク』を観れるにはもう少し待たねばならないが、このドキュメンタリーを観て待ちきれない気持ちになってしまったのである。

監督:ロバート・エプスタイン リチャード・シュミーセン
1984年アメリカ
ラベル:同性愛 政治 歴史
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2009年02月23日

『鬼火』ルイ・マル

鬼火2.jpg鬼火.gif
Le Feu follet

この年齢になってルイ・マル作品を意識して観ているわけだが、どの作品を観てもとんでもない驚きを感じてしまう。
それぞれで違う驚かせ方をしてくれるのだが、この作品にもまたぶったまげてしまうのであった。

モーリス・ロネ演じる30代の青年は自分自身にも世間にも苛立ちを感じて憔悴しきっている。かつては美男で女からも好かれたのに今の自分はもう若くなく、女性にも欲望を感じない。誰に触っても感覚というのがない、と言うのだ。そしてそういう不安を感じていない周りの人間に酷い苛立ちを感じている。平凡な生活を確信し、落ち着いてしまった自分と同じ年齢の友人たちに怒っている。
友人たちはそんな彼をなだめるが彼は理解することができない。
結婚生活にも金儲けにも失敗しアルコール中毒になって精神病院で療養していた彼を人々は影で嘲笑っている。それを感じてまた彼の心はひりひりとささくれ立つのだ。
自分が若い時にこれを観たらどう思ったろう。自分勝手で高慢でしかもひ弱で卑怯な行動に反発を覚えたのではないだろうか。
だがこの年で観ると彼の苛立ちも判る気がする。
だらだらとした物語にも退屈したろうし、美男とはいえ中年に差し掛かった男の眉根を寄せた鬱な顔を見ているのにも嫌気がさしただろうが、今ではまだ若く美しい顔としか見えない。
そんな彼が様々な知人たちに出会って何かを求め続け、結局何も得ることができず最後己の心臓を撃ちぬいて死んでしまう、というあっけない最期に衝撃を受けた。
心のどこかできっと彼を救ってくれる人が登場するのだ、と信じてしたのだ。
だが彼を救ってくれる人は何人も登場したのだが、彼自身がそれを拒絶したのである。
この映画を単に空しい映画と思う人もいるだろうが、多分ルイ・マル監督自身はこの映画を作ることによって生きなければ、と思ったのではないだろうか。
彼はまだ若く美しくて何の力も失くした人間ではない。彼を愛してくれる女性も友人もいたのにそれと気づかなかったのだ。彼が死ぬことで友人たちの心が傷つくことを願ったが、それはいつしか消えてしまうのである。
物語は淡々と進むがモーリス・ロネの鬱屈した姿がなんとも素敵で見惚れてしまう。
何人もの友人たちに出会うのだが、やはりジャンヌ・モローが登場した時ははっと惹き寄せられる。何度見てもチャーミングな顔なのである。

最初にクレジットが流れ、最期ロネが死ぬところで画面がぱっと終わってしまう。凄い。

監督:ルイ・マル 出演:モーリス・ロネ ジャンヌ・モロー
1963年フランス
ラベル:ルイ・マル
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2009年02月22日

『田園に死す』寺山修司

田園に死す.gif田園に死すb.jpg田園に死すc.jpg

この映画(と『草迷宮』)を遠い昔に観て、日本には怖ろしいほど強烈な表現をする作家がいるのだ、と感心してしまったのだった。それまでぬめぬめとして田舎臭く恥ずかしいものだと思っていた日本土着のものがだからこそ意味がありぞくぞくと戦慄さえ覚えるような力を持っているのだということを寺山修司の世界で知ったのではなかっただろうか。
それは例えば言葉の訛りであり、切ろうとしても切れない家族のつながりであり、東京などの都会とは違う明らかにお粗末な生活の風景、古びた家、陰湿な人々の噂、奇妙に恐ろしさを感じてしまう貼紙にも悲しげにつながれて逃れることのできない家畜にも田舎ならではの因習や閉じられた社会で生きることしかできない女達の姿などに強い反発を覚えながらも得体の知れない好奇心でそれらを凝視してしまうのだ。
この作品以外の彼の作品も最近観直したりしたのだがやはりこの作品(と『草迷宮』)が寺山修司の世界、というイメージを最もくっきりと表しているのではな
いだろうか。

物語、というようなものではなく作品自体が寺山修司の独白のような作品でありその端々に彼の短歌が挿入されるのだがむしろこの幾つかの短歌がこの作品をそのまま表しているくらいの密度がある。鮮烈な歌である。この短歌を読んだ時、この短い言葉の中に一つの映画と同じくらいの或いはそれ以上の物語があることに驚いた。言葉というものがこんな力を持つのだと打ちのめされたのだ。
音楽が映画の相乗効果で感動を盛り上げることがあるが、短い幾つかの言葉が映画との相乗効果で一つの世界を作り上げることもあるのだ。

主人公が白塗りの顔の少年という不思議な感覚。少年は母親と二人暮らしの密接から逃れたいと願い、母親はそんな息子を放すまいとしている。できることなら母を殺そうとすら思いながら彼は大人になってもそれを果すことはできないのだ。

主人公の虚構である記憶と真実の苦味が今見てもはっとするようなイマジネーションで構成されていく。
ここまで異常な世界を明確に描くことができる作家はそういないのではないだろうか。
恐山で死者と会話する少年、妖しげなサーカスの人々、噂話をする長い数珠を繰っている黒装束の片目の女たちなどが怖ろしい。
きっと初めてこの映画を観た人は見てはいけないものが入っている箱の蓋を開けてしまったような戦慄を覚えるだろう。もう二度と近寄るまいと逃げてしまう者もいるだろうし、怖いもの見たさで再び覗き込む者もいるに違いない。そういう者はこの世界の虜になってもう逃れることはできないだろう。

監督:寺山修司 出演:菅貫太郎 高野浩幸 八千草薫 原田芳雄 斎藤正治 春川ますみ
1974年日本
ラベル:寺山修司
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2009年02月21日

『銭ゲバ』第6話 松山ケンイチ

銭ゲバf.jpg銭ゲバg.jpg銭ゲバh.jpg

偶数回のせいもあってか(ほんとなのか)非常に今回初めてかもしれないくらい面白かった。
まあ物凄くこれ以上ないくらい、というほどには面白くはないが^^;なんだかもたつくのは否めないとしても奇数回に比べると違う作家のものくらい違うのだよなあ。
特にお姉さんの緑の復活シーンはゾクゾクするものがあったね。

念願の金持ちになれたのに金を何に使っていいか判らない。悲しい話だなあ。つまり金持ちで教養もあり色々な方面につながりがある人間は様々な有意義なことに金を使えるしまた投資したりすることでまたさらに儲けたり名声を得ることができるけど、そういう教育を受けていない風太郎のような貧しい人間の考える贅沢というのはごく狭い範囲内でしかないし、結局馬鹿馬鹿しいことに浪費していしまうわけで。風太郎くんの願望が金持ちになることだけだからそこで終わりなんだよね。お母さんのような病気の貧乏人を救う、なんていうのが夢だと続きがあるんだけど。そしてまた「お母さんに似ている」というだけで親身になって金だけを与えて自己満足で終わってしまう。空しさがよく表現された一話だった。
前回「人間関係が描かれていないからつまらない」と書いたのだがこの一話では風太郎と緑の物語に焦点があたっていて昔上等のお菓子を盗んだと言って風太郎を責めた緑の行動はおかしい、と思ったのだがおかしかったことがここに来て緑もまた人間的に未熟だったのだ、という話から二人がどういう風に成長し変化していくかという展開になっていけば面白いのだと思う。
「あなたが嘆き悲しんで死んでいくのを見たい」という緑の憎悪は無論人間的に下劣な感情ではある。
何不自由なく幸せであるはずの緑がこんな惨めな憎悪を持ち、上へ登ろうとしてどう足掻いてもへばりつくことしかできない風太郎を罵り嘲笑っている、という地獄絵図である。
正しい行動ではあるが妻を見捨てるしかなかった刑事、子供から死ねと言われその代償としての金を這いつくばりながら逃げる父親、我が子が誤まった道を歩くのをあの世で見ていることしかできない死んだ母親、金の為に殺された社長、犯罪を見てみぬフリをしろと言われたメイド、金をもらった為に殺されたホームレスの女、そして愛のない夫にすがりつく茜と幸せを奪われどす黒い感情だけが生まれてしまった緑、どんなに銭ゲバになろうとしてもなりきれず、幸せを感じる心を捨ててしまった風太郎。
皆が地獄の中に生きている。
そんな中にぽつんとあの大衆食堂一家の脳天気さがあるのだが。
一挙にそういうことを感じさせてくれる一話であった。
風太郎とそっくりな男は体面したことになっているがあれから一体どうなったのだろうか。

今回の風太郎の母親の思い出シーンはぐっとくるもんがありました。お母さんがいない、というのはやはり一番の悲しみなのかもしれない。

ラベル:松山ケンイチ
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2009年02月20日

『後悔なんてしない』イソン・ヒイル

No Regret2.jpgNo Regret.jpg
No Regret

韓国版DVDでこの映画を観て幾年月、まさか日本版でも観れるとは思いもよらなかったなあ。これはやはり韓流のおかげでありましょうか。

内容としては言葉も判らず観た時とそう受け取り方が違っていたわけではないが、やはり細かな部分が理解できるのは嬉しいことだ。
主人公二人とも凄く好みで素敵なのもまた嬉しい。いつもはスミン的な男子に心惹かれるのだが、これではジェミンの方を好きになってしまったのだよねー。
とにかく韓流男子は男っぽいハンサムで魅力的なのでゲイの物語もどきどきしてしまうのである。

孤児院出身で貧しいながらも懸命に働き勉強もしようとするスミンと生まれながらにいい家柄で裕福なジェミン。
工場で働きながら代行運転の仕事も兼ねているスミンはある夜バーにいたジェミンから依頼を受ける。
一目見てジェミンはスミンを好きになってしまい酒に誘うがスミンは答えようともしない。
ジェミンがスミンの働く工場の理事の息子と知ってからはますます彼を避けるようになる。一方のジェミンはそんなスミンを追い続けるのだった。
さすが韓国のラブストーリーは男同士も熱烈でしかも切なさを訴えてくるのだ。スミンは最初からジェミンを好きだったに違いないのだが、金持ちで身分違いの彼を好きになればその結果はもう見えているので防御する為逆に攻撃したわけですな。
反撃されればされるほどジェミンは燃えてくるのである。
そしてもともと心優しいスミンはジェミンの一途さについに折れてしまい、彼の愛を受け入れてしまう。
あーもうこの折り返し地点に来た時、ここで止めようかと思ったほどで。旅行する彼らの幸せそうな姿。
だが例によって彼らの愛には障害が立ちふさがるのだった。

ところで前も書いたとは思うが、本作を観てると色んなゲイ映画が重なってくるのである。
二人がベッドで横たわっているのとかスミンがスーツを着るシーンとか夜の場面は音楽も含めて『藍宇』だし、屋上に立っている様子だとかジェミンが手を怪我して包帯を巻くのは『ブエノスアイレス』二人が海に行く場面は『ニエズ』みたいである。

さて様々な苦難を乗り越え二人が愛を確かなものにする、という物語でどこかで観たなあと思ってしまうことも含め目新しいということもない作品なのかもしれないがそれでも自分としてはこの映画好きなのである。主人公二人の魅力のせいでもあるがなんだか映画そのものがひたむきで切なくなってしまうではないか。
ラブシーンとしてはベッドの上のものより、公園で誘いかけるジェミンを振ったスミンが歩き出した後、戻ってきてキスをするところが一番に素敵だと思うがどうだろう。この時にジェミンが言った「アンニョンハセヨ、スミンシ」という言葉が最後にスミンが言う「アンニョンハセヨ、ジェミンシ」にかかってくるのだが。このアンニョンハセヨって言葉訳するのが難しそうだ。「どうぞよろしく」ってなってるが。なんともいえない。
公園の場面は『東宮西宮』ぽい気も。

ゲイムービーは難しいのか、と思われた韓国映画も最近は結構作られているようだ。
もう嬉しいかぎり、とにやついてしまう自分なのである。

監督:イソン・ヒイル 出演:イ・ハン イ・ヨンフン
2006年韓国
ラベル:同性愛
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2009年02月19日

『お遊さま』溝口健二

お遊さま.jpg

今まで観た溝口健二の作品で一番好きかもしれない。そしてさすがに美しい映画だった。
『お静』というタイトルにしたくらい音羽信子が演じたお静さんが愛おしくなってしまう作品なのだが、無論彼女が愛した女性が『お遊さま』なのでこのタイトルでいいのである。
これはもうこれ以上なく美しいビアンの物語だろう。お静が愛していたのは最初から最後までお姉さまであるお遊さまなのだ。

あまりに美しくて時代がいつかよく判らないほどだが、大正期だろうか、裕福な人々の贅沢で上品な世界の物語で柔らかな京都言葉もあいまってこの上ない優美な映像に暫し耽溺する。
谷崎潤一郎が原作と後で知ってさもありなんと思ったわけだが、フランス映画のような不思議な味わいを持った作品なのである。
お遊さまはすでに一児を持つ身なのであるが夫はすでに他界し、富裕な家で一人っ子を見守っていくだけで贅沢な暮らしを許されている。
彼女には妹と呼ぶ仲のよい静というこれもいい家のお嬢様がいてお遊さまは静の仲人としてお見合いの席へと向かう。
ところが見合い相手の慎之介が見初めてしまったのはお遊さまのほうだったのだ。
その理由は慎之介が幼い時に死に別れた母親がきっとこのような女性だったに違いない、という思い込みからなのだが、慎之介は立場上どうしようもなく苦しむ。
とうとう慎之介と静は結婚することになってしまうが、初夜の場で静は「形だけの夫婦となってお姉さまを幸せにしてあげて欲しい」と頼むのだった。
なんという思いやりか!と思ってしまいそうだが、これはどう考えたって静はレズビアンなのであってずっとお遊さまをお姉さまと呼んで愛していた、と考えたほうがわかりやすい。
お遊さまも静の結婚話が持ち上がるたびに邪魔をした、ということからもビアンぽいところはあったのだろうが話からして静は本当のビアンでお遊さまは自覚していないビアンかもしれない。
まあお遊さまはすでに別の男と結婚して子供もいるのだから絶対的ビアンではないのだろう。
お姉さまも慎之介が気に入っているようで、ここで最初からお遊さまと慎之介が結婚できるようにしてもいいのだがそれでは静の入る隙間がなくなってしまうので静としては自分が慎之介と結婚し、お遊さまに片思いの慎之助を懐柔しながら3人でいつも会うようにすればお姉さまといつもいられる、と考えたのだろう。無論男性との性関係は持ちたくないので最初からきっぱりと兄妹の関係でいたい、と打ち明けたわけである。
まあ谷崎が原作なのでそれほど驚くこともなかったのだが、観ていた時は知らなかったのでとんでもない展開にどうなることかとどきどきしてしまった。
それにしてもはっきりとお姉さまに告白するわけにもいかない静が切ないではないか。
慎之助も悪い男ではないのでけなげな静に同情しながらもお遊さまへの思いを断ち切れない、苦しい心情なのである。

世間、という煩い圧力に苦しみ、3人の危うい関係は崩れてしまう。
裕福な夫の家との絆である一人息子を亡くしてしまったお遊さまは里帰りした後、別の富裕家に嫁ぐことになる。
慎之助・静夫婦は経済力を失ったのだろうか。小さな家に移り住み、そこで子に恵まれる。だが産後の肥立ちが悪かった静はお遊さまの小袖を身にまとって死んでしまう。
悲しみにくれる慎之介は生まれた子供をお遊さまに預ける。二人の思いを知ったお遊さまは泣き崩れる。

お遊さまを互いとも愛し続けた慎之助と静の子供が彼女の懐で抱かれることになる。なんと不思議で切ない愛の物語なのか。
お遊さまもまた慎之助と静のどちらも愛し、どちらとも契るわけにはいかない時代の悲しい恋なのである。

静の音羽信子は可愛らしく、はっきりと同性愛なのだとは言えない愛情に苦しむ女性を演じていた。
お遊さまの田中絹代の美しさ。芸に秀でた上品な奥方なのだが、取り澄ましているのではなく温かく優しげな雰囲気で二人から狂おしいほど愛されるにふさわしい魅力であった。どこか『天上桟敷の人々』のギャランスを思い出させる。

映像の美はどの場面を観ても一幅の絵のようなというべきで、日本の富裕層の上品な美意識を感じたいならば是非一見の価値あり。堪能できる。

監督:溝口健二 出演:田中絹代 乙羽信子 堀雄二 柳永二郎 進藤英太郎
1951年 / 日本
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『さらば箱舟』寺山修司

さらば箱舟.jpg

寺山修司の世界と言えば青森弁と切り離せない、と思っていたら突然自分には聞きなれた九州弁で物語が始まったのに驚いた。
言葉は九州本土のものだが舞台はいかにも沖縄である。凍てつく冬のイメージ東北の詩人が最後に作った映画が南の島のものであるということに意味はあるのだろうか。
原作はガルシア・マルケス『百年の孤独』だという。ラテンアメリカの物語を原作とするなら青森よりは沖縄の方がイメージしやすいかもしれないがそのことだけではなく沖縄という場所は死後の世界へつながっているというイメージが湧いてくるのだろうか。他の映画にも「死」をテーマにして沖縄を舞台にしたものが幾つもある。沖縄の概念「ニライカナイ」死後7代して死者の魂は親族の守護神になるという信仰がこの映画に活かされているようだ。

『百年の孤独』がどんな物語なのか知らないが、粗筋だけを読むとある一族の百年の歴史が描かれているのだという。
本作では沖縄のある村と思しき小さな村で時任という一族が権力を持っていることが語られる。時任家の本家は村中の時計を取り上げ捨ててしまい、その名前「時任」が示すとおり本家だけに時計があって村中の時を任されているのだ。
本家の大作は権力を欲しいままにしておりそのことは闘鶏で常に勝っている事からもわかる。だがある日分家の捨吉が闘鶏で大作に勝ってしまう。
捨吉は本家のスエという娘と禁じられた結婚をしている。二人はいとこ同士になる為、もし子供が生まれたら犬のような子が生まれるだろうと危惧されスエは父親に貞操帯をつけられてしまっているのだ。夫婦でありながら性交することを許されない二人は村中の笑いものだった。特に捨吉は不能なのだという嘲笑を受けていて闘鶏に負けた大作は腹いせに捨吉を馬鹿にする。怒った捨吉は本家の大作を刺し殺してしまうのだ。
時を任された家でありながら時任家には子孫ができない。
大作は子供をなさないまま死んでしまい、捨吉・スエは子供を作ることが許されない。
捨吉はスエと共に村を出る事を決意するが何日も彷徨った末、もとの家に戻ってしまう。(家の中の火が消えない、というのが二人の生活が続くことを暗示している)
また殺された大作も霊になって捨吉の前に現れる。二人ともこの場所から逃れることができないのだ。
霊になった大作はしょっちゅう捨吉の前に現れて会話する。それまで交流のなかった二人が殺害によって触れ合うことになる。
年をとって物忘れの激しくなった捨吉はあらゆるものに名前を書いた札をつけていく。一方スエはまったく年をとらずいつまでも若く美しい。
捨吉は家に時計を飾るが村に時計が二つあると混乱するという村人たちに殺害されてしまう。捨吉が死んだ後、スエの貞操帯が外れる。
村のある場所に大きな穴が出現する。その穴は時間や空間を越えてどこかへつながっているらしい。
時任家に夫が本家を継ぐはずだったという母子が訪ねてくる。子供が穴に落ちてしまうが上がってきたときには大人に成長している。
時任家に大量の時計が持ち込まれどれが本当の時間か判らなくなってしまう。そして時間が止まってしまうのだが訪ねて来た母子の子供が大人になって大作と関係のあった娘、そしてスエと性交することで再び時計が動き出す。
時任家の歴史が再び動き出したのだ。

時間が止まったままの村の隣町はどんどん繁栄していた為、村人はそちらへと移り住んでしまい村は空っぽになってしまう。
そして百年経った頃、村人の子孫達が集まって記念写真を撮るのだっった。

溢れるようなイマジネーションに見惚れてしまう。主役級が山崎努、小川真由美、原田芳雄といういわば普通の役者陣だがさすが寺山修司の世界になってしまうのである。
とはいえいずれも名優ぞろい、非常に見やすくしかも色気のある演技であった。
出演者としては他に石橋蓮司、高橋洋子、そして高橋ひとみと三上博史の美しさは二人とも目を見張る美しさである。

映像も独特の色彩と光と影が素晴らしい。そしていつもの寺山修司の異様な世界は健在である。
この作品は寺山修司の遺作であり、撮影当時すでに体を壊していたという。死を意識した作品だったのだろう。
『さらば箱舟』の箱舟とはノアの箱舟のことだろうか。
世界の終末から逃れるために家族が作った箱舟。
百年後に箱舟から家族は地に降り立ったのか。
その中には捨吉とスエが念願の夫婦となって子供を産んでいる。
寺山修司自身もまた百年後に再生するのかもしれない。

監督:寺山修司 出演:小川真由美 山崎努 原田芳雄 高橋洋子 高橋ひとみ 石橋蓮司 天本英世 三上博史 新高けい子
1982年 / 日本
ラベル:生と死 寺山修司
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2009年02月17日

『みかへりの塔』清水宏

みかへりの塔.jpg

この映画が作られた1941年というと太平洋戦争が始まった年でそんな時代の映画というとナンだか偏ったものを思わせるし「素行の悪い子供達が収容された学校の物語」というイントロダクションを読んで興味は非常に持ったもののもし嘘っぽく教訓じみたような作品なら途中で止めるかと思いながら見出したものの最初から引き込まれて結局最後まで観てしまったのだった。

非行少年少女を厳しい戒律の元で更生する学校、というともともと奔放な性質の少年少女が自由を奪われ、逃れようと反抗する映画作品を思い浮かべるが、ここに描かれている非行少年少女は(幾人かの例外はあっても)物凄く礼儀正しく集団能力があって一体これは真実なのか「こうであって欲しい」という願望なのか、観ている内によくわからなくなったりもする。
なんだかある種の投薬をされて精神をコントロールされているSF映画のようにすら思える、と思うこと自体が精神が歪んでいるのだろうか。
虚言癖、盗癖などの問題を抱えた二百人ほどの少年少女たちが収容されている学校なのだが、その殆どはまだ児童というべき幼さである。彼らは広い校内に分散して建つ「家庭」と名づけられた家々に集団で寝泊りし自分達で家事を分担している。幼い彼らを見守るのは「お母さん」と呼ばれている保母たちである。脱走、怠けなどを繰り返しながらも彼らは集団生活の中で少しずつ規律を守ることを習得していくのである。
冒頭に裕福な家の娘だが父親に反抗して財布から金を盗み夜遊びをしていたことで預けられることになった少女・タミが入所してくる。彼女が物語の大筋を追っていくような形になっている。
この少女もまたいかにもお嬢様的に丁寧な言葉で反抗していくので、金持ちでもいかにも不良な言葉遣いの今の不良娘とはかけ離れている。言葉は丁寧だが反抗心は最も強い少女で下働きのようなことばかりさせられ粗末な食事をしなければならないことに苛立っていて他の少女達からも孤立している。そんなタミも懸命に子供達を更生させようとする若い「お母さん」にいつしか愛情を持ち従うようになっていく。
日常の様々な仕事や畑仕事、水汲みなどを走り回ってこなしていく小さな子供達を見ていると現在の感覚では痛々しくも思えるし、こんな勤勉な不良ってなんだ、もうすでに現在のゲームばっかやってる子供達よりはるかに真面目じゃないかと思える。先生や保母さんに対する礼儀も心が洗われるようだ。
笠智衆さんが演じる先生を始めすべての先生・保母さんが教育に熱心で子供たちを心から愛しているようだ。不埒なスケベおやじなどいやしない。子供たちも喧嘩したり嘘をついたりオネショをしたりと問題があるとは言っても先生・保母さんを慕っていて可愛らしい。
こういう話には胸が痛むような問題が起きるのが普通だが、せいぜい脱走した子供たちを捕まえた、のと反抗的なタミを保母さんが叩いたことで自信を失う、と言うくらいである。
そして井戸の水不足を解消する為、泉から水を引く計画を立て先生と子供たちが一丸となって鍬をふるい、水路を通すエピソードは勢いよく流れる水の中を子供達が駆け回るという感動的な結果となる。
どうしても信じられない問題児たちと先生たちの感動作なのだが、問題児が題材だからこそ、こうであって欲しいという理想をこの作品の中に見てしまうのだろうか。
誰かのお母さんが学校を訪ねて来たのを子供達が見つけた時、自分の母親でなくても「○○のお母さんが来たぞー」と叫んでそれを聞いた子がさらに叫んで声を伝達していくことで嬉しいニュースを知らせる場面など不思議な感動がある。
あんまり美しくてどう感じていいかちょっと判らなくなってしまった。素直に感動していいものかと迷うというのも自分の心が歪んでいるからなのだろうなあ。
いい先生達に見守られながら少しずつ成長し自分を戒めながら卒業していく子供達が強く生きていくことを願いたい。
しかし歴史的にはこの後、子供達は戦争の中で生きることになるのだ。悲しい。

監督:清水宏 出演:笠智衆 奈良真養 森川まさみ 横山準 古谷輝男 三宅邦子
1941年 / 日本
ラベル:子供 教育
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『デトロイト・メタル・シティ』李闘士男

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随分長い間待ち望んだ『DMC』やっと観ることができた。
すでにマンガは何巻か読んだので大体のストーリーも判っているわけだが、とにかくキャスティングが楽しみな作品なのでマンガの世界が実像化されていくのを思う存分楽しんだのである。
こうして観ているとお「あー」と思ったのは、この登場人物で共感できるのは主人公の崇一ではなく彼をデスメタル界に引っ張り込んだ女社長のほうなのだということである。
なにしろ私の世代というのはジャック・イル・ダークを演じていたジーン・シモンズの「KISS」なのである。
ビートルズやローリング・ストーンズの世代に遅れている我が世代のカリスマは、特に男子は「KISS」だっただろう。彼らは長髪だっただけのヒッピーとも違い化粧をすることで異世界の人間になりうることを日本の田舎の少年たちにも教えてくれたのだ。当時、彼らの真似をして化粧を詩、それを見つけた母親がびっくりしてしまう、と言う現象が日本各地で起きていたに違いない。化粧をすることで悪魔になり世の中が変わってしまう、という夢をもつことに崇一は激しい反発を覚えているのだが、はっきり言って何故彼が悪魔の世界に陶酔しないのか、よく判らない。つまり彼は自分達より若い世代なのであって化粧することで逃避もしくは異世界に行く必要がないのだろう(と言ってもまたさらに今の若者はビジュアル系で化粧してますが)
自分が共感できるのは崇一より年上の女社長なのであって彼女が悪魔の象徴であるジャック・イル・ダークに憧れているのはよく判る。彼女が崇一の才能を見つけ「何故その才能を生かしてデスメタル界に君臨しようと思わないのか」と嘆くのにもうなづけるのだ。
この二人の感じ方は、原作者の方が「若い世代」であり、監督である李闘士男さんが自分と同じ世代ということで、その辺が微妙にうまく作品の中にブレンドされているようだ。
作品の中でもジャックとクラウザーが戦った末にジャックが若いクラウザーにギターを渡して世代交代をする、という感動的な場面として描かれる。
それにしてもジーン・シモンズの迫力と言うのは画面を通しても半端じゃないことが伝わってくる。まさに魔界の帝王にふさわしい。

松山ケンイチは今TVドラマの『銭ゲバ』がいまいち製作側がうまくないこともあって魅力が半減している気がするのだが、本作では持ち前の味が非常に効果的に出されている。
彼は長身なのだけどどこかスタイルがいい、と言う感じよりもこういったその長身をおかしさに活かせる体格のようだ(秘め言葉なのか?)
崇一の時のくねくね感も可愛くて好きだが、クラウザーになった時の顔を見ているとほんとにかっこいい顔立ちだなあ、なんて改めて思ったりする。
走る姿もかっこいいし、とにかく足が速いのではないだろうか。あの高いヒールの靴で駆け抜けていく場面はまるで『ロッキー』のようで感動ものだった。

崇一の奮闘振りがおかしくも悲しく、女社長の煙草のポイ捨てでじゅーっというのが爽快ですらある。
お母さんの愛情に涙も感じるし、ラストのジャックとの対決演奏の場面は見応えあるかっこよさだ。

ビションフリーゼのメルシーの愛らしさは勿論だが、牛にべえべえというのがなんとも可愛いのであった。

監督:李闘士男 出演:松山ケンイチ 細田よしひこ 秋山竜次 松雪泰子 加藤ローサ 大倉孝二
2008年日本
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2009年02月15日

『靖国 YASUKUNI』李纓

靖国.jpg

ようやく観ることができた。このドキュメンタリー映画の感想を書くのは内容によってはかなり大変なことなのかな、とも思ってしまう。
なにしろ、他の方の感想批評文を読むとこの作品に立腹している人が多くて思った以上の罵倒で溢れていたので小心者としては冒頭に逃げを打ちたくなってしまったのだ。

などと言うことを書いたのは自分はとても面白いと思って観てしまったわけで、それすら日本人としては許されない感想なのか、と思ってしまう。
とにかく私は靖国神社という遠い場所へ行ったことがないし、多分一生行く事はないだろう。行きたくないとかいうのではなく、今まで考えたことすらなかったからだが、この映画を観てたらどんな雰囲気なのか一度行ってみたい、とさえ感じたのであるが。
そういえば以前中国俳優の姜文が靖国神社に行ったことで中国人から大顰蹙を買ったという報道をみたが、ちょっと行ってみたくはなると思う。無論中国人である姜文さんとは意味が違うだろうが怖いものみたさみたいな感じである。
多分この辺でも私の軽薄さに激怒されている方がいそうである。
他の方の感想では「日本人なら・・・」というフレーズで括られている文が多いのだが自分は徹底的に日本人だがこの作品に激怒だとか不快だとかはまったくなくて難しい題材なのによく頑張ってここまで作られたものだと感心してしまう。
妙に生真面目で厳かな空気が満ちていて不思議な場所である。その中で軍服姿で行進する人もいれば、昔話をする年配のご婦人方が座るベンチに「サッポロビール」と書かれているのが変におかしかったり、先祖を連れ帰りたいと激昂する台湾の女性、国歌斉唱する人々の前で反対を叫ぶ日本人青年、アメリカ国旗を掲げるアメリカ人、そしてたくさんの静かに歩く日本人達。
どこか気分が高揚していて何かあると喧嘩が起こり大騒ぎとなる。そしてそれを抑え止める人々。
どの人にも様々な歴史があり思いがあるのだから、これが真実だ、これが正解だ、という単純なものがあるはずもなく。
刀鍛冶の老人が中国人である監督に問いかけるが答えられるわけもなく老人もうまく答えられない。二人の会話が国の違いと年齢の違いとで(老人の話し方も危ういので)うまく噛みあわないことが答えのようにも思える。
この日本刀を問題のシンボルのようにして批判していることに不快を覚える人もいるようだが、作品を形作る技巧としてうまく効いていると思えた。日本人の精神を表すものとして使われることも度々あるわけでやはり使い道を間違えば、というか武器なので鞘から抜けば危険なのである。注目されてしまう鍛冶職人のご老人には気の毒だが刀作りの工程も興味深く、やや淡々とした作品に緊張感を持たせてくれる場面であった。

映画の内容についての感想をまだ書いてないようだ。
「戦争は人を狂わせる」と思う。
この作品を観ていてもやはり戦争のせいで人間はおかしくなってしまうのだ、と判る。こんなに年月を経てもその影響は消えはしないし、その年月の間にまた生まれる苦しみもある。
普段は温厚でも戦争という苦しみが人を変えてしまう。
その強烈さを逆に利用する人もまたいる。
そしてまた、自分が悪だとは思いたくない。この映像作品一つでもなかなか受け入れることが難しくなってしまう。現実にそうだとしても何か難癖をつけ、言い訳を探してしまうのだ。
賛同する人にも反感を持つだろう。
だがそれも仕方ない、とも思う。歴史の中で刻まれた深く鋭い傷跡は長い長い年月をかけなければ癒されることはないのだろうから。
そんな中でもこういう作品が製作され迫害を受けそうになりながらも観ることができたのは意義あることではないだろうか。

ところでこの映画を観て初めて「ラッパのマークの正露丸」の意味とあの音楽が食事の合図だということを知った。(食事=腹痛っていうのが凄い)あー、本当に何も知らない自分である。

監督:李纓
2007年 中国/日本
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2009年02月14日

『銭ゲバ』第5話 松山ケンイチ

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予想通りというか何故か奇数話は緊張感に欠けるのだよな。

一応物語は進行していく。原作とははっきり異なる方向なのはいいのだが、凄く面白いとは思えないのがなあ。もう全然変えてしまってもっと楽しませてくれてもいいのにと思ったりする。
風太郎の演技はもっと過剰にやったほうがいいような気がするのだが。

とにかく脚本がうまくない。
子供っぽくするのか、もっと地味に大人向けにするのか。どちらでもなく楽しめない。
私としては宮川演じる刑事と風太郎の関係を濃厚にするとか誰かと風太郎を密に描けばいいと思うのだが、風太郎との関係が誰とでも同じくらいなのでつまらなく感じてしまうのだ。

つまりドラマって粗筋の面白さも大切だが、そこに描かれる人間の愛憎が面白いわけだよね。
原作の『銭ゲバ』は確かに風太郎だけが孤独なんだけどジョージ秋山の描き方でその孤独感が際立っていて面白い。
ドラマでは変に大衆食堂の家族との関わりを描いてたりするんで風太郎の孤独性が薄らいでしまって悲劇性が失われている。
そのくせドラマならではの表現というのもうまく出されていないのだ。
しつこいけどドラマでは風太郎と誰かの関わりというのを強く出したほうがいいのになあ。
今のところは蒲郡親父が一番の関係かな。そして今回茜が、風太郎の正体なんかわかっていたけどそんなの関係なく愛している、と姉に告げるシーンがちょっとよかった。
この感情が今後どう風太郎の感情に関わっていくかが見所、と言いたいがそうなるのか期待薄でもある。

とにかく風太郎にはもっと過激に動揺して欲しい。
今日の観てたら風太郎がマクベス夫人のような気がしてきた。男だけどマクベス夫人。
この手の血が落ちない、と言って洗って欲しいなあ。
大げさな芝居がかった演技、ってのをもう少し松ケンに求めたいのだ。

などとまあ勝手な願いを書いてみました^^;
ラベル:松山ケンイチ
posted by フェイユイ at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月13日

『天国の日々』テレンス・マリック

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DAYS OF HEAVEN

これもまたアメリカ映画としてはかなり奇妙な味わいの作品である。とにかく美しい。「マジックアワー」と呼ばれる夕暮の黄金色の短い時間帯を多用して撮影されている為にいつも本当に天国にいるかのような感覚を持ってしまう。都市部で仕事にあぶれた人々が農場での日雇い労働に従事する場面から始まる物語で低賃金で雇い主の横暴にも逆らうことは許されず、雪の降る日は屋外で藁の中に潜り込んで休むしかないのだがあまりに映像が美しいのでつい「こんなに綺麗な場所だったら働いてみたいなあ」なんて気になってしまう。見渡す限りの麦畑、大空の下で焚き火をしながら眠るのもロマンチックに見えてしまうのだ。

さて物語はある少女の語りで成り立っている。少女が見た当時のアメリカ、流れ者の兄とその恋人、そして大農場の主である余命1年の男。
少女はそれらを見つめて成長していく。
物語と映像が絡まって一つの叙事詩となっているかのようだ。
少女兄ビルは恋人アビーを妹と偽っていたためにチャックはアビーに求婚する。大金持ちの男チャックは病で1年の命。
ビルは1年我慢すればいい、と算段して恋人であるアビーをそそのかし結婚させる。
チャックはアビーと夫婦になり兄と妹も共に暮らすことになった。
貧乏にあえいでいた彼らにとって夢のような生活が始まる。遊び暮らし何一つ不自由がない。
だがその暮らしの中で少女はもう自分達がもうこの世にいないかのように感じている。
『天国の日々』というのは安楽な日々、という意味ではなく『死んでしまった日々』という意味だったのだろうか。
彼らの一見美しい毎日は欺瞞の日々だった。だが偽りの幸せの中でチャックは予想された1年を迎えても死ななかった。
次第に寂しさを覚えたビルは夜中にアビーを誘い出す。
だがついにチャックはビルとアビーが兄妹ではなく恋人なのだと気づいてしまう。
それまでの穏やかで優しいチャックの顔が怖ろしい表情に変わる。
同時に美しい黄金の麦畑にイナゴの大群が襲い青空は真っ暗に変わってしまう。
そしてチャックの怒りがビルに直接向い彼の持っていたカンテラから麦畑に火が着いてしまった。
大勢が消そうとしても火は燃え広がっていく。チャックの怒りが炎となって麦畑を燃やし尽くす。
そしてチャックはビルを撃ち殺そうとするがビルが持っていた工具(ドライバーとか?)がチャックの胸に突き刺さって彼は死ぬ。
病で死なず自ら作り出した事故によって死亡したチャック。
そして健康なビルも偶然とはいえ殺害の為に警察に追われ撃ち殺されてしまうのだ。
残されたアビーは少女を寄宿学校に入れて、どこかへと旅立ってしまった。
そして語り手である少女は。
寄宿学校から脱出し、年上の友人である女性と共に彼女もまた旅立っていく。
今度の旅は彼女自身が作り出す旅なのだ。

この物語は少女のものなので『天国の日々』というのは彼女にとって彼女がいうように死んだような日々なのだろう。
安楽ではあるが虚言であり何もすることのない偽りの日々。
やがて成長した少女はその日々を不思議な美しさで思い出すのだろう。

映画をずっと観てると続けて観る映画に奇妙な関連があることがある。
昨日の『炎上』のように人間関係が壊れた時、この作品でも炎が大切なものを焼き尽くしてしまった。
そして死。
やはり炎というのは人間の苦しみ悲しみを表現するイメージなのだ。
計算された美しい映像、というのも二つの映画に共通したもので、その力にも圧倒される。
『天国の日々』での映像美はどこか遠い昔を思い出しているような懐かしさを感じさせる美しさで多くの人を魅了するのだろう。それはとても綺麗だが静かで奇妙に怖ろしくもある。

そして農場主のサム・シェパードとリチャード・ギアの若さと美貌にも見惚れてしまう。
一人の女性を愛してしまった二人の愛と憎しみが炎となり空を黒くした。
悲しい詩篇である。

監督:テレンス・マリック 出演:リチャード・ギア ブルック・アダムス サム・シェパード リンダ・マンズ ロバート・ウィルク
1978年 / アメリカ )
posted by フェイユイ at 23:12| Comment(4) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月12日

『炎上』市川崑

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こういう言い方はおかしいのかもしれないが、なんと50年以上昔の映画なのにこうも複雑に異常な精神を繊細に描いた作品があるとは。
などと言っても現在の映画作品がそれほど細やかな描写をしているばかりとは言えないがどこか昔の映画は大らかで単純といまだに思っていた自分が恥じ入ってしまう。
それにしてもこの歪んだ精神の主人公を市川雷蔵という気品ある二枚目が演じていてまるで他の雷蔵を思い起こさせもしない、というのはなんということだろうか。しかもこの時28歳だと思うが10代からやっと二十歳頃の危うい青年にしか見えない。まさに何かが憑依したとでも言うのか、そういった青年そのものにしか思えなかったのである。

息を呑むほどに美しいモノクロームの優れたカメラワークに見惚れてしまうが、反面、登場する人間達の生々しい造形はどうだろう。
どの人物も一面だけではなく精神と感情が複雑に揺れ動いている。どの人物も善と悪を併せ持っているのだ。
主人公・伍市は酷い吃音に強い劣等感を持っていてその為に無口になり常に人の心を推し量っている。だが美しいものに憧れていて、人を尊敬したいと願ってもいる。
物語は伍市が国宝である驟閣寺に放火して取調べを受けている場面から始まる。
何故この大人しそうな青年がそんな犯罪を犯したのか。だが物語から明確な動機を知ることはできない。
彼が慕い尊敬していた僧である父親がその美しさを褒めちぎり伍市も同じように驟閣寺の美しさを永遠のものとして信じていた。
友人となった男・戸刈が生き物は皆変わっていく、という言葉に怯えた伍市が驟閣寺の美しさを永遠にする為には燃やしてしまうしかない、と考えたのだろうか。
だが何故。父親のように尊敬していた老師が次第に自分に冷たくなり芸者を囲うような男だと判った為か。
その老師もまた己の心の善と悪に苦しんでいる。
伍市にはその苦しみは見えず優等生から落ちこぼれ老師から見捨てられた存在になってしまった自分を愛する驟閣寺の中で燃やしてしまうつもりだったのか。愛する父が死後に炎で焼かれたように。
伍市には二人の友人が現れる。前半、人嫌いの伍市に心優しく接してくれる友。彼は容姿も精神もとても優れている人物だ。彼は唯一この作品の中で善だけの存在のようで途中で死んでしまう。
後半、入れ替わるように登場するのが戸刈で彼は身体が不自由で大きく足を引きずって歩かなければならないことを伍市の吃音のように激しい劣等感として口にする。
友人の善悪が入れ替わったのと同じように伍市の精神も変わっていく。
戸刈は伍市が上手く表現できないでいる心の中のもやもやを吐き出すかのように口にするのだ。そのせいか伍市は戸刈から離れられない。彼が他人を罵倒し、伍市を操れば操るほど戸刈との結びつきが強くなっていく。が、戸刈はそんな伍市に吃音を嘲笑う悪口を止めることはしない。
別の老僧が老師を訪ねてきたのを伍市は「自分を見抜いてください」と嘆願する。老僧は笑って伍市の問いに答えない。
彼を見るやや冷めた伍市の視線に彼の失望がある。
誰も自分を知ってくれる人はいない。
伍市の苦悩は現在の人間の寂しさと同じものがあるのではないか。一見見栄えのよい優等生で高い自尊心を持ちつつ、何か強い劣等感を持ち心を閉ざしている。
彼が母親を責め続けているように他の人の欠点を許すことができない。
人の繋がりが今よりもあったと思える昔の物語の中にこんな孤独感、失望感を描いた作品があるとは。伍市が次第に転落していき、誰とのつながりもなくなってしまったと感じてしまう怖ろしい孤独感。
無論これの原作を三島由紀夫が書いたので自分は未読なのだがその小説の中に人間の虚無感が描き出されているのだろうか。
この作品は現在にこそもっと観られていいものではないだろうか。

そういえば昨今ブログでの『炎上』なるものが流行ったりしている。あれもまた孤独な人々がその虚無感ゆえに起こしてしまう過ちのように思えてしまう、というのはまあ無理強いすぎるか。

映画を観ながら思い出したのは山岸凉子『負の連鎖』で知った『津山三十人殺し』の犯人。そして昨今起き続ける意味のない大量殺人。
どちらの事件の犯人も容姿や己の無力さに強い劣等感を持ち誰からも相手にされない孤独感から怖ろしい殺傷事件を犯してしまった。
映画では人命ではなく国宝を破壊する。
想像だが三島作品では美しい国宝に火をつけることに滅びの美学があったのかもしれないが映画の国宝である寺はさほど耽美は感じられない。
そのためより己の虚無感から『尊い国宝』=『尊い人命』を奪ってしまうという衝動に共通点を見てしまう。
主人公が放火以前にも他人の貴重な剣を傷つけたり、女性を突き飛ばしてしまうなど彼がかっとなると酷い加虐性があることが示されている。狂気がどのような形で爆発するかは判らないのだ。
もしかしたらラストだけは昔風の行動なのか。死を選ぶことで自らを罰したかのように見える最期。現代の伍市なら「自分は間違っていない。世の中がおかしいのだ」と主張し続ける場面で終わるのかもしれない。

監督:市川崑 出演: 市川雷蔵 仲代達矢 中村玉緒 新珠三千代 浦路洋子

1958年 / 日本
ラベル:市川雷蔵
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『書を捨てよ町へ出よう』寺山修司

書を捨てよ.jpg

若い時、寺山修司の、それまでにない過激な表現にたじろぎ慄いた。詩歌にしても映像にしても確固たる彼の世界というものがあった。訛りを消そうともしない青森弁の言葉にも彼の強い意志が感じられた。その世界の鮮やかな異色性に打ちのめされ、惹かれ、ある時は怖れさえ感じたのだ。

怖いものに惹かれるようにして覗き込んだ寺山修司の世界だったが、若い時観たのはほんの僅かの部分でしかなかっただろう。
作品以外で彼を近しく感じたのは竹宮惠子『風と木の詩』でジルベールについて語っているのを読んでうれしく思ったり、あしたのジョー』の登場人物・力石徹の“葬儀”で葬儀委員長を務めたということを後で知ったりして妙に感心したものだ。
そして私が寺山修司と詩の世界で触れ合ったのは彼の詩集ではなく新書館から出ていた寺山修司編集『99粒のなみだ―あなたの詩集』という一般の女性から募った詩の本で普通に考えると大人の男性が関心を持ってくれるとは思えないような少女の甘い夢の世界を一人の有名な詩人が真面目に受け止めていることに驚いたのだった。
寺山さんが亡くなったというのを聞いた時は驚いたが、今その享年の年齢(47歳)を見るとその若さに改めて驚いてしまう。
彼の作品は強烈だが一言ではとても表現できない。
激しい劣等感と強い自我と美しいものへと憧れと共に醜いものへの憧憬も感じられる。一つ一つの言葉が鮮烈で叩きつけられるような痛みがありながら、優しさもまたあるのだ。
彼の独特の世界はやはり彼が東北青森の生まれでありそのことが彼の世界そのものとして描かれていて、九州人である自分には羨望でもありその激しさが謎ですらあった。
松山ケンイチを好きになった自分としては寺山の自己主張と松ケンのイメージがどこか重なって感じられるのだがこの映画の主人公を見ているとさらにその気持ちが強くなった。
とはいえ、「映画は嫌いで、もうこの世界には戻らない」と語っている本作の主人公とは違い松山ケンイチはこの嘘の世界と現実の世界をこれからも往復していくのだろうなと思うが。

前置きが長すぎたが寺山修司をそれほど知ってはいないが深い憧れと尊敬を持っていたことを書きたかった。
さて本作の鑑賞はある程度彼の作品を知っているかどうかで随分違った受け止め方になるに違いない。
それにしても冒頭から「映画館の暗闇で、そうやって腰掛けて待ってたって何も始まらないよ」と青森訛りで語りかけてきてあっという間に寺山の世界へ入ってしまう。
寺山修司の代弁者であるような若者が物語っていく作品である。風変わりな家族を持ち、大学生でもないのにある大学のサッカー部に行ってはそこの掃除をし、キャプテンである男を慕って彼からも可愛がられている、という存在である。
女性にも晩生であり内気で大人しい主人公が最後攻撃的な言葉を投げつけるまでを描いている。
映画の中の出来事は現実と夢想を行き来しているようでもあり支離滅裂な感じであるが寺山が好きな世界が次々と映像化されていく、という感じでやはりイメージの鮮烈さに圧倒されてしまう。
ちょっとした背景にも部屋の美術にも寺山修司の詩が感じられるのだ。
無論サッカー部であることも「玉が大きいほど男らしい」という美意識からきているもので何と言っても野球が全盛だった当時としてはそれすらも反逆的な意見だったのだ。
内気である主人公が時折叫ぶ台詞が詩のように鋭く響く。
彼が初めて女性と関係を持った時、妹が男性に強姦された時、苦悶する泣き声が画面を覆う。
どもりの青年の独白が印象的だ。この青年を含め朝鮮人という言葉が何度も出てくる。人力飛行機で祖国へ飛ぼうとして落下する、という強烈なイメージがある。
突然不思議な売春宿(?)で入浴をしている美貌の娼婦を美輪明宏が演じている。その魔力ともいうべき魅力の凄さ。
久し振りに寺山修司の映像(と言ってもこの前『ボクサー』を観たが)に耽溺した。

監督:寺山修司 出演:佐々木英明 平泉成 美輪明宏 斎藤正治 浅川マキ 小林由起子 平泉征 森めぐみ
1971年日本
ラベル:寺山修司
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2009年02月10日

『カンフー・ダンク!』チュウ・イェンピン  

カンフーダンク.jpgカンフーダンクbb.jpg

この映画の感想はすでに台湾版DVDを観た時に書いてしまった。その時は無論言葉が正確に理解できているわけもなかったのだが、それでも自分にとってはジェイファンだという身贔屓を持ってしてもまったく面白いと思えなかった。むしろ苛立ちさえ感じてしまったのだった。
今回は日本版鑑賞なのでもしかしたら自分の勘違いで言葉さえ理解できたらとても面白いのかも、という期待もありその場合は前言撤回で謝罪しようと思っていたのだが、願いも空しくさほど感想が変わることはなかった。無論内容が把握できた分だけ不満に確信が持てただけだ。

一体何が不満なのか。他の評価を見てたら結構面白かったと好意的に言われている方も多く、ジェイファンとしてはそう感じてもらうことには感謝したいくらいである。が、自分としてはこの作品を楽しめないのだ。
映画を観る時、期待するのは『意外性』だ。
特にこれみたいなハチャメチャコメディにとっては『意外性』が最も重要ではないか。
シリアスな映画でも「こんな考え方感じ方があるんだ」という意外性が自分にとっては一番の興味があるところなのだ。
そういうのを満足させてくれるのが、私にとっては「面白い映画」なのであって、チャウ・シンチー、三池崇史、ルイ・マル、キム・ギドク、チャップリン、黒澤明、デヴィッド・リンチ、シリアスにしろコメディにしろあっと驚かせてくれる映画を作ってくれるではないか。
この映画だと自然と思い浮かべてしまうのはチャウ・シンチーの『小林サッカー』だが、あの映画を観た時はあっと目を見張って最初から最後まで笑いっぱなしの驚きっぱなしだった。
本作があれの2番煎じなのは誰が観ても判ることだし、しかもあの映画のどこをとっても勝っているものがない。
おかしいかと言えば声を出して笑うシーンなんか一つもない。
アクションもおかしさも劣っている上に何かこれという奇抜さも特徴もないではないか。
まあ強いてあげればジェイの音楽に乗ってのバスケシーンは確かにちょっと見せてくれるものはあるがMVではないのだし、映画ならばそれ以上の何かの衝撃・感動を求めてしまってもいいだろう。
正直褒めてくれた皆さんホントに面白かったのかな、と思ってしまうのだ。
同じジェイの『イニシャルD』の峠バトルを実写にした凄さだとか、ジェイ監督作品『言えない秘密』の謎、『王妃の紋章』の絢爛豪華さのようなその映画の他にない魅力というのが自分には『カンフー・ダンク!』からは感じられないのだ。あるのは予定調和な当たり前の筋書きとアクション。定番の設定と終わり方。脅かし方も泣かせ方も全部がよくあるパターンでありすぎて一体これを楽しむにはどうしたらいいのだろう。えっと驚くものが何一つないのだ。
演じている俳優陣はエリック・ツァンがいいのは当然としても、チェン・ボーリンが凄くよい。彼がまったく手を抜かずに決めてくれているのでそこだけが救いと思える。
とにかく製作側が酷すぎるというかテキトーなんだな、とため息をつくしかないのである。

少なくともこれはコメディとは思えない。これがめちゃくちゃだとか、荒唐無稽だとかぶっ飛んでいるだとかは感じない。常識の域を越えてない。

ラスト、どうしてこれでいいのかわからない。やっつけで適当に片付けただけのようだ。

一縷の望みも消され、コメディというのに空しい気持ちだけが残った。

監督:チュウ・イェンピン  出演: ジェイ・チョウ, チェン・ボーリン, バロン・チェン, シャーリーン・チョイ, エリック・ツァン
2008年 / 台湾/香港/中国

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2009年02月09日

『西の魔女が死んだ』長崎俊一

西の魔女が死んだ.jpg西の魔女が死んだ2.jpg

昨日の大森南朋出演目的で観た『ミッドナイト イーグル』が憤懣やるかたない作品だったのでなんとかこの作品でもう少しマトモにナオさんを観たいと切望した。
とはいえ私のブログ記事を常々読んで下さっている方ならもうご存知だろうがとにかく「教育的・指導的」な作品が大の苦手な私である。この作品なんかもうまるでそれの見本の如き内容だがさほど虫唾が走ることもなく観終えたのであった。
学校での馴れ合いの仲間意識に反発して一人ぼっちになってしまった少女まいは母親に登校拒否を宣言する。「扱いにくい子」に考えあぐねた母親は山の自然の中で一人住まいをしている母(まいにとって祖母)にまいを預けることにする。
まいの祖母はイギリス女性で日本人である祖父と結婚したのであった。まいは静かな山中の自然に触れあい、優しい祖母と素朴な生活を始める。そしてまいは祖母が魔女であることを知らされる。
といった具合のまことにのんびりとした映画で自然の美しさ大切さ、人間がどう生きるべきかを教えてくれる有難い映画で普段ならこういう説教じみた話は我慢ならないのだが案外すんなり観れたのはお祖母ちゃん役のサチ・パーカーさんの魅力ゆえだろうか。なんだか素直にこういう生活いいなあ、なんて憧れてしまったのだった。
大都会に住んでいるわけじゃないがそれどころか田舎町なのだがそれでもこういう溢れる自然、というものにはとんとご無沙汰の日常である。そういえば小さい頃はおばあちゃんちが山の中で楽しかったし、自宅の回りも田んぼやら地面がいっぱいあってみみずやら虫やら草花で遊んでいたものだなあ、と思い出にふけったりもする。
教育的、と書いたがこの作品のいい所は物語の中で答えを出していないことだ。
この物語は途中までは結構都合よくいってたのにもう少しで終わりってとこで不気味な存在の近所の男(きむにい)が不気味に絡んできたりしてすっきりしないまま、まいとお祖母ちゃんが険悪な雰囲気になって別れてしまいお祖母ちゃんが死んでしまうという居心地の悪い終わり方になっているのが面白いのである。人生はうまくいったな、ということは少なくて失敗したり後悔したりの連続であり、まいはお祖母ちゃんの優しさを感じることができたがそれでもあの時こうしていればよかった、と何度も思ってしまうだろう。でもだからこそまいの心の中にお祖母ちゃんと不気味な男との物語は消えることなく記憶されていくのではないだろうか。
そしてまいがお祖母ちゃんになった時、まいのような孫ができてお祖母ちゃんが他の誰よりも(あの男よりも)自分を愛していたことを感じられるのだと思う。

若い頃だったら「こんなお祖母ちゃん欲しいなあ」って思うのだろうが自分はすでに「こんな可愛い孫とこんな生活できたら幸せだろうなあ」なんて思ってしまうのじゃ。
緑溢れる画面と美味しそうなパンやジャムやお茶、霧の森も素敵だった。

ところで最近連れ合いと「最近の映画やドラマってあんまり外国人が出てこないよね」と話し合っていた。画面の中にいる、ぐらいの登場はするけど主要人物として扱われない。
昔は案外国際的な話がよくあったし、今よりも余計に外国人が登場したのではないだろうか。
日本人ってまたどんどん鎖国的になっているのか、外国人を飾りじゃなく主要に登場させるのは困難なことが多いのか、あのCMのお兄さんくらいじゃないのかと思いながらもう少し鎖国を解いてもいいのではないかと考えたりもするのだが。実際の生活にはもっと身近に存在しているはずなのに映画ドラマでは交わってないような。
と思うのは間違いかな。すぐ消えるバラエティみたいなのには出演させるのにねえ。

おっと肝腎の大森南朋。うんまあこれも短かったが。昨日の作品よりは必要な役柄でよかった。
前髪をおろしていいパパを演じていました。あれ、りょうさんとの絡みがまったくなかったかな、夫婦なのに^^;
やっぱり主演期待します。もう少しで観れますからねー。

監督:長崎俊一 出演:サチ・パーカー 高橋真悠 りょう 大森南朋 高橋克実 木村祐一
2008年日本

posted by フェイユイ at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 大森南朋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする