映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年03月31日

『ギミー・ヘブン』松浦徹

ギミー・ヘブン.jpg

これもまた怖ろしく中途半端な出来栄えでいっそのこと物凄くつまらないんだったら観ないですむんだけど惹かれるところもあるだけに腹が立つ作品だった。

着想自体は面白いしストーリーも悪くないんだけど脚本が酷すぎるのか。とにかくまず台詞が耐え難い。鳥肌ものの陳腐な台詞だけで構成されていくのである。共感覚だったらこの台詞もパフュームか極上のアイスクリームのように感じられるのかもね。

同じ話を別の脚本家と監督でやれば凄く面白くなりそうな題材なのにどうしてここまでつまらなくできるのかが不思議。台詞、演出がしょうもないTVドラマのようで何故もっとこの不思議な世界を突っ込んで表現してくれないのか。つまりはまあ表現者が「共感覚」なるもののイメージがつかみきれていないということなのだろう。

目の前にある物体、事柄、出来事が他人と共有できない自分だけの感覚を持つ、という経験は誰でも少しは味わうことはあるはずだし、いつも他人と違う感想を持つっていう人もいるだろう。本作の「共感者」の説明のように物体が他人と違うように見える「水が四角」だとかスプーンがタンポポだとか、だと本当に生活に支障がないのかよく判らない。
ミッキーマウスがちっとも可愛くない、なんていうのはよくあることでさほど驚くことはない(私もあの世界に共感できない一人だ)数字に色を感じる人は結構いると聞く。計算すると様々な色が交錯するとか、これは面白い。絶対音感なんていうのも凡人にはわからない特殊な感覚だし私自身は子供の頃、面白い本を読むと独特の甘い匂いがして恍惚となったりした。大人になったらこの感覚がなくなってしまった。なんてことだ。誰でも少しずつ他人と違う感覚を持っているんじゃないかと思うし、そういう意味でもこの映画は凄く興味がある題材なのだ。なのにこの顛末というのはなんだろう。

色んな点が不満だ。貴史の存在があやふや過ぎる。何故彼なのか。麻里が新介と関係を持つために彼を邪魔だと感じる、のなら彼ら二人の関係がもっと深いものである描写が必要だ。普通なら新介の子供を妊娠している彼女の方を攻撃するはずだ。この女もなんだかめそめそ泣いてて鬱陶しい。
妙に貴史の台詞が新介との関係を怪しく感じさせるがそれならそれで二人が強く結びついていた方がいい。
麻里が兄に性的暴行を加えられていた、というのもよくあるものだが、それが上手く物語に作用していない。むしろ麻里も同意している関係だったほうがいいのではないか。

狂言回しの女性刑事の存在が一番無意味。あのオジサン刑事だけでよかったんじゃないか。

奇妙なやくざ、こんちゃん(鳥肌実)は面白いが肝腎の主役・江口洋介は嫌いじゃないがこの役には合わないんじゃないか。大体この才能を持つ人間ってイメージ的にはこんなごっつい人じゃ嫌だ。むしろ安藤政信と役を交換すればよかったと思う。
宮崎あおいは申し分ないけどね。
そして松田龍平が出てくる時だけ、映画になる。彼は声が凄くいい。台詞も彼が話していると惹き込まれるのだ。あのちょっと変な感じのする顔もこういう役にはぴったり合うし。出番が少ないのも美味しいのだ。

観て損する映画じゃないけどのめりこんでしまうものがない。勿体無い作品である。

監督:松浦徹
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2009年03月29日

『ブラックキス』手塚眞

ブラックキス.jpg

安藤政信をもう少し観たくなったのと手塚眞監督映画というのを(多分)まだ観たことがないので手にとってみた。
なるほど(どうしても言ってしまうが)父・手塚治虫氏と関連するような医学的な要素だとかぺダンチックな要素も絡んだなかなか面白いミステリーで非常に惹き付けられる部分も多々あるのだけど、逆に「どうしてこんな」と思うような幼稚な部分も露出していて好きとも嫌いとも言い難い中途半端な作品だった。

こういう手の込んだからくりと落ちがあるミステリーはむしろコメディに仕上げたほうが楽しめるのではないかと思う。
出演者に有名な俳優を出しすぎているのも妙に騒がしい感じがしてしまう。怪しいプロファイリング博士を演じた草刈正雄だけはとても上手い使い方だと思ったが。奥田瑛二はいいけどオダギリはブラピの真似をしてるみたいに見える、もっとブサイクな奴で充分な気がするのだがたにかく美形をそろえたっていうのが売りなのか?安藤政信目当てで見たくせに言うのはなんだけど別に安藤くんでなくてもいいような、っていうか安藤くんが何故こういう役をやるのか、よく判らない。
大体この役自体がどこか物足りないというか奥歯にものがはさまったようなというか最初隠し撮りみたいな仕事をしていて実はいい写真を撮るのが夢なんだとか言って女の子を騙したり、まあ彼のことも「犯人なのか?」と疑いを持たせようとしたのかもしれないが医者志望だったとか外国旅行をしていたとか怪しげすぎる人物である。いきなり屋上からダイビングするような技も持っているし(普通の人間にあんなことできないよ)彼こそが怪しい、と思われてもいいのだが、本作中ではよく判らない謎のままで終わってしまった。

無駄なほど凝り過ぎた画面は人の好みだろうけど、若いモデル女性が住む部屋としてはあまりにアンチークすぎるのではなかろうか。
美女ふたりがビアン的に仲良しなのを観てるのは凄く好きだが結局そこどまりで男女のエッチシーンは不必要なほど露出するのにビアンな方向を匂わせるのならきちんとやればいいのにと思うのだが日本の映画って何故ここまでなのかねえ、とがっくりしてしまう。ま、ビアンがテーマじゃないんだろうけど、そろそろそういうのが当たり前に描かれてもいいのではないのだろうか。匂わせるんだったらもう一歩踏み込んでやってもらいたいものだ。

猟奇殺人そのものの表現はあまり面白いとも思わないが会議や捜査風景なんかはちょっと興味を持たせられた。
つまりそんなこんなでちょっといい箇所とつまらない箇所がごちゃ混ぜになっているのが本作ではなかろうか。
安藤くんが主人公を気に入って写真を撮っていくとこなんて何かあるのか?と思わせぶりで何もないし何もないなら随分無駄な部分である。

手塚眞氏作品を初めて観てなんだか判る気にもなった。非常に頭を使っているようで大筋が弱いし、表現したいものやり方が多すぎてまとまりがつかない感じ。TVドラマ風な楽しさで作ればいいのだろうけど、映画作品としては奥行きのなさが感じられて寂しいのである。

安藤政信はホントに素敵な顔立ちでスタイルもいいし演技者としても魅力あると思うのに作品に恵まれない人なのではないだろうか。
彼自身もどこかで言ってたようだけどデビュー作『キッズ・リターン』を越えるのは難しいことなんだろう。『46億年の恋』はとてもよかったんだけどね。
今はチェン・カイコー『梅蘭芳』を待つだけだなあ。

監督:手塚眞 出演:橋本麗香 川村カオリ 松岡俊介 安藤政信 小島聖 岩堀せり あんじ オダギリ ジョー 草刈正雄 奥田瑛二
2004年日本
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2009年03月28日

『ジプシー・キャラバン』ジャスミン・デラル

TALES OF A GYPSY CARAVAN 2.jpgTALES OF A GYPSY CARAVAN.jpg
WHEN THE ROAD BENDS:TALES OF A GYPSY CARAVAN

このドキュメンタリーを観た多くの人はまずジプシー=「ロマ」の音楽と踊りに圧倒され魅了されてしまうだろうけど、この作品が語りたいことは音楽の美しさ以上にジプシーと呼ばれる「ロマ」の人々の偏見を打ち消したいことなのだと判って今更ながら驚いてしまった私である。

というのはこの作品の中で繰り返し彼らが長い歴史の中で迫害され続けてきたことを訴えているのだがその理由を私は単に有色人種の流浪の民であり、差別と貧困と言葉の違いによるものだと簡単に思っていたからだ。私にとってはジプシーのイメージは流浪のミュージシャンというものだけであった。
彼らの苦悩は欧米での彼らのイメージが「悪人」であり泥棒か麻薬の売人であると決め付けられていることなのだということを考えたこともなかった。ユダヤ人と同じようにナチスによって大虐殺されたのだということも聞いたことはあったのだろうがきちんと頭の中には収まってなかったのである。

内容を観るまではなんとなく『ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』のジプシー版みたいなものを思っていたのだが、彼らの音楽と踊りはそういった迫害の歴史と共にあり、その悲しみの中から生まれたものであることは確かなのだろう。
インドを起源としてヨーロッパ各地アメリカにも広がっていった彼ら「ロマ」たちはその長い歴史の中で言葉も外見も地域によって変化してはいるもののその本質は変わらないのだという。
そういったヨーロッパ各地インド、アメリカに住む様々なロマたちを集めてアメリカコンサートツアーを企画遂行したドキュメンタリーというのが本作だ。
同じロマでも顔も言葉も違うが彼らは同じく音楽に対する情熱を持つことで共鳴していく。
ヒターノのフラメンコ、ルーマニアのニコラエのバイオリン、マケドニアのエスマの歌、インド・マハラジャのハリシュの驚くべき膝で回転して踊る為に小さな人になったかのような宙に浮いているかのような不思議な踊り、など目を見張り心に響く素晴らしさである。
ただ先にも書いたようにこの作品が「ロマの音楽と踊り」を堪能する為だけのものではなく「ロマはこんなに素晴らしい人たちで、こうして観ると本当にいい人たちでしょう」という部分に映像が割かれているのが勿体無くもありまた確かにこの作品で彼らへの偏見による差別がなくなるのならそうであって欲しいと思う。

ヒターノの歌と踊りを直で観たなら他のものはとても観れない、という話を読んだことがある。そう言われると何も知らない者としては実際に観る機会があるわけもなし、想像をかきたててみるしかない。
残念ながらこの作品は目的が彼らの理解というものであったためにその音楽と踊りはあっと思うと終わってしまう。
今更ながらもう少し「ロマ」の音楽と踊りを観て聞いてみたい、と思ったのである。

監督:ジャスミン・デラル 出演:タラフ ドゥ ハイドゥークス ジョニー・デップ エスマ ファンファーラ・チョクルリーア マハラジャ
2006年 / アメリカ

私たちの世代では何と言っても「ジプシー・キングス」が有名だよね。彼らの歌はかっこよかった。

本作中でジョニー・デップが登場。発言している。僅かな時間なので居眠り余所見厳禁。彼目的で観る人も多いのだろうな^^;
タグ:音楽 歴史
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『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち) 』若松孝二

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち).jpg

映画賞を取ったこともあって評価の高かったこの作品は題材に興味があることも手伝って大いに期待した作品だった。
やっと観る事ができたわけだが非常に思いのこもった優れた作品だとは思うもののやや拍子抜けを感じてしまった。

というのは公開当時観れなかった私は代わりに存在も知らなかった高橋伴明監督作品『光の雨』を観たのだが、その時は案外面白く驚いたものだった。その印象が強かったので新しい作品である本作はどんな凄いものかと過大に期待しすぎたのかもしれない。
これを観て逆に『光の雨』の面白さを再確認してしまったようだ。

後に作られた作品の為か本作の描写が『光の雨』と非常に似ているのですでに観てしまった映画をもう一度観ているような気になってしまう。同じ題材を作るのだから仕方ないとは言え演出そのものが似ているような気がする(記憶を探ってそう思ってるだけかもしれないが)
特に森役の山本太郎(『光の雨』)と本作の地曵豪が妙に似ている。のはまだいいとして『光の雨』の永田役の裕木奈江と本作の遠山役の坂井真紀が似ているので最初混乱してしまった。まあそれはどうでもいいが。
二つの作品の大きな違いはまず、『光の雨』が『光の雨」というタイトルであさま山荘事件を映画化すると劇中劇の設定になっていることで、本作のようにそのまま当時を再現しているかのようなドキュメンタリー風作品ではなく当時を知らない若い役者たちが俳優として事件を演じている、といういわば事件の疑似体験をする形になっている。これは非常に面白いことで本作が当時を再現したかのようなしかしやはりフィクションであるに対し、『光の雨』は始めから「演じているだけ」という設定になっているわけである。ところが仕事として演じているだけの革命戦士のはずがいつの間にか現実であるかのような錯覚を覚えてしまう、という面白さがあった。本作では最初に事実だがフィクションもある、と書かれているがそれがどの部分なのかは観ている者にはわからないのだ。例えば本作では酷い暴行場面が頻繁に出てくるものの監督があからさまな描写を避けているのか表現をかなり避けたり隠したりしているし、『光の雨』で遠山に男性が卑猥な言葉を言うことや妊婦に暴行や暴言を与える場面もなくなっている。ぞっとする場面であるだけにそれを削除してしまうことはやはりフィクションになってしまうのではないだろうか。ちなみに「妊婦から赤ん坊を取り出せ」などという残酷な台詞を女性である永田が発言したということが『光の雨』では男性の森が発言し当の永田は首を横に振って否定している。本作ではまったくなくなっている。
3時間という怖ろしい長さを使い、淡々と彼らの総括を描いているようで監督の好き嫌いは作用しているようだ。
次の違いは『光の雨』では登場人物が仮名だったのに本作では本名になっていることだ。これはどういうことなのだろうか。やはり本名、というのは覚悟のいることなのか。『光の雨』の時点では何かしらの遠慮が働いたということなのか。劇中劇、という設定自体が遠慮なのかもしれないのだが。しかしこの遠慮による設定が却って効果的になっているというのも面白いが。
そして第3の違いは『光の雨』では肝腎のあさま山荘の場面は僅かしかなかったのに『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(は道程なのに)あさま山荘の場面までが描かれていることだ。
『光の雨』であさま山荘の部分がなかったのかちょっと驚きだった。いわばメインがないみたいなものだからだ。だが本作を観るとあさま山荘の部分はやや興醒めなのだ。今まで脇役だった坂口(ARATA)が突然ここから主役になりしかもどこか悲劇のヒーロー的な存在になっている。森・永田があくまでも残虐な指導者であったのに比べ彼はどこか「いい人間」であったかのような描き方である。何故なのかはよくわからない。総括でも率先して仲間に暴行を加えていた(少なくともこの映画では)のにいい人間とは言い難いだろうが。

最も「?」な表現だったのはまだ未成年である加藤弟が「勇気がなかったからだ」と叫ぶラストでいきなり答えを言われてしまってありがとう、というのかここまできっちり明言されてもなあと若干引いてしまった。

なんだかだと書いたがそれでも3時間の長丁場を退屈もせず観てしまったのはやはりそれだけ迫力のある映画だったのだ、と思う。
しかし心の中で『ゴールデンボーイ』の優等生のように「そこでどう感じたの?興奮したの?」という好奇心で観ていたのは確かである。
信じがたいほどの緊張感と自分を正当化する欺瞞の数々。一体何のために彼らは死なせ死んでいったのか。自分の行為を正当化し、他人を貶めるのはこんなにも簡単なことなのか。
集団心理というものをどうやったら動かすことができるのか。
やはり興味の尽きない怖ろしくも面白い物語なのだ。

監督:若松孝二 出演:ARATA 坂井真紀 佐野史郎 伴杏里
2007年 / 日本
タグ:歴史
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2009年03月26日

『DEAD OR ALIVE 犯罪者』三池崇史

deadoralive.jpg

何年も前の話だがまずファイナルを観て次に第2弾を観て早く1作目を観なきゃと思いながら月日が経ってしまった。
やっと『DEAD OR ALIVE』ファーストを観たわけだが、心なしかスタンダードすぎて2や3の方が滅茶苦茶で面白かったような気がする。まあその普通さはラストの為のあえてのスタンダードなのだろうとは思うが。
遠い記憶との比較でありこれはこれで滅茶苦茶ではある。が、昨日の『IZO』なんか観た後ではどこか物足りない気もしてくるが、だとすれば三池監督はさらに過激度を増していることになるのだから凄いことである。

気に入らないのは城島家族の関係でこういうのはよくあるものなのかもしれないが男のプライドというか哀愁だと思いながらもどうしてもむかついてしまう。
かたや、中国人グループの兄弟愛は結構泣かせるわけでその辺の対比もきっちりつけているということだろうか。

とにかく昨日の斬って斬って斬りまくる、今夜は撃って撃って撃ちまくる、ということで物凄いドンパチではあるのだが結局こういうのって映画館の音響でわーっと観てるのは楽しいだろうけど、一人小さな画面で観てると何の興奮もなくふーんと観てるだけなので寂しいものがある。
こういう環境で観ていてもうげげげだとかぎゃーっとか来る時もあるのだからそうした興奮を引き起こすものは弾の数ではないのだろう。

気になっていた第1弾だから観れただけでもよしとしよう。ラストが凄い、だとか全く知らずに観たのだがさすがにこれは話題になるとんでもなさだ。究極の破壊は作品自体を破壊することだった。

三池作品というのは馴染みになるほど面白く思えてくるものなのである。本作もお馴染みの面々が登場し安心して観られるという感じだ。
そういえば第2弾にはエディソン・チャンも出てたんだった。彼がまたいつか再登場する時も来るんだろうか。

監督:三池崇史 出演:哀川翔 竹内力 小沢仁志 寺島進 田口トモロヲ 石橋蓮司 鶴見辰吾
1999年 / 日本
タグ:三池崇史
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2009年03月25日

『IZO』三池崇史

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この映画の原案である岡田以蔵は実在の人物で、幕末の志士の一人であるから彼を知る機会は様々だろう。
私は司馬遼太郎氏の『人斬り以蔵』を読んだのだが、短編でありながら非常に心に残る作品だった。忘れたくても忘れることができない、と言ったほうが正しいかもしれない。
小説で驚いたのは多分これは作者がこの主人公を愛していない、ということだった。
多くの場合、例え主人公が殺人鬼でもどこかに作者の共感あるいはかっこいいなあだとか実は羨ましいだとか主人公への好意が少しは感じられるものだ。それは容姿でも剣の腕だけでもいいだろう。がこの小説での以蔵は明らかに司馬氏に憎まれているとしか思えない。好意も同情も微塵も感じられないのだった。
こんな哀れな人物がいるのだろうか。小説の中のすべての人に悪鬼、畜生、虫けらのように忌み嫌われるだけでなく彼を描き出す親とも言うべき作者にまで疎まれるとは。小説の中で彼を書き出す文体自体が彼への憎悪、嫌悪、侮蔑に満ちている。彼は誰にも誰一人にも愛されていないのである。
それが信じがたくて何度も読んだ。もう一度読めばどこかに救いがあるのかもしれない気もしたし、怖いもの見たさ、気持ちの悪い虫をそっと覗いてみたくなる心理で読み返したが私自身もこの人物にまったく好きという感情は持てなかった。
彼は容姿としても剣術としても人格としてもその生命自体も悪辣に醜いのだった。と司馬遼太郎の小説からは感じられた。実在の人物なのでその人自身がどうだったのかは知らない。司馬氏の「以蔵」はそうだった。

さて三池崇史監督は以蔵をどう描いたのか、知りたくて観てみた。さすがに人斬りの異名を取る人物にふさわしい人斬りの連続であり、殆どすべての登場人物から嫌われている。
映画として奥行きを持たせるために「IZO」という殺人鬼はいつの時代にも様々な形で存在していくのだ、という表現もされている。国家、戦争なども巧みに織り交ぜ底辺の人間である以蔵の苦しみと存在の哀れさを描いていく。天皇の御前に居並ぶ面々も観てて面白い。
そして幕末に人を殺し続けた為に怨霊となって彷徨い続ける哀れな魂の以蔵。体が強すぎて毒を飲まされても死ななかったという強靭さも何度刺され撃たれても死なない、ということで表現されている。
罵られ、殺され続けても彼は死なず魂は永久に救われることはない。彼はあるゆる殺人者の代表としての怨霊なのだ。

醜悪というべき以蔵と対照的存在の青年(天皇)を松田龍平が演じていてその端正な顔立ちと真っ白な衣装に整然とした美しさを感じさせる。何という神々しさか。
その青年に最後手を伸ばす以蔵は彼の一吹きで倒れ落ちてしまうのだ。残酷な最期だ。こんな男の手が届くわけがない、という惨めさ。
そして以蔵は再び生れ落ちる。また人斬りとしての人生を歩むためか。
誰からも愛されずそのために苦しみ人を殺めまた救われることのない人生を。
怖ろしい永遠を彼は繰り返すのだろうか。

とはいえさすがに長い映画だったなあ。もう少し短いともっとよかったんだけど。まあこの長さが監督の思いだということだろうか。
カソリックだったら懺悔すれば許されるのかな。

監督:三池崇史 出演:中山一也 桃井かおり 松田龍平 ビートたけし 美木良介 高野八誠
2004年日本
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『情愛と友情』ブライズヘッド再び ジュリアン・ジャロルド

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BRIDESHEAD REVISITED

最近、続けてもう一度観たいと思ったのは珍しいことだ。それもただベンを観たい為なのだが。
有名な作家の小説が原作であるこの作品の物語自体はよく出来ているとは思うがそれほど自分が大好きな味わいがあるとも言い難い。
平民である主人公が特に美を愛する感受性に富んでいたことが大きく作用して知り合った貴族階級の友人の大邸宅とその家族の持つ荘厳な美しさに惹かれていく様子は共感できる醍醐味が溢れているし、絶対的なカソリック信奉者である母親はグレートマザーとしての存在そのままに子供たちを守りながら飲み込んでしまうその威力ある女性と対峙し愛した二人(セバスチャンとジュリア)を助けられるという自信を持ったチャールズはその心の奥に願わくば美しいブライズヘッドをも手に入れたいという気持ちがあったには違いない。だが結局彼はセバスチャンもジュリアもその手から失うことになってしまう。しかし時は移り再びチャールズは羨望の思いで見つめたブライズヘッドを訪れることになる。という苦く悲しく美しい物語である。
どの人物もありきたりの表層的な表現ではなくその人格は多面的であって善人だとか悪人だとか単純に示されるものではない。怖ろしい母親ですら彼女がどうしてそのような存在なのかはまた彼女自身の歴史を見なければいけないし、聖人である妻から逃れたマーチメイン卿もカソリックに反抗しているようで最期にはそこに戻り、信仰心から離れてしまえない心理を持っているのだ。
しかしそういう宗教的な物語も美を求め二人に愛を感じながらも富や家柄にも欲望を持つ主人公の生き様も理解はするが心から共鳴するようなものは感じない。
そういうものよりもこの映画の魅力はやはり(少なくとも自分にとっては)ベン・ウィショー演じるセバスチャンの造形だった。

昨日も書いたがベンはさほど美形と言われる容貌ではないが、その眼差しや微妙に動く表情が心を捉えてしまう。
長身のマシューの側に立つと小さくて痩せすぎているようにも見えてしまうがここではそれが却って彼の精神の脆さを表していて愛おしく思える。
この作品はチャールズの目で見たセバスチャンとその家族という物語になっていてその手法は文句なく素晴らしいものだと思うがそれでも意地汚くもっとセバスチャンの生き方を見たかったと思ってしまうのだ。彼と母親との葛藤、彼のほうから見たチャールズ、そしてチャールズ以外の男性との関係なども。
セバスチャンがチャールズと別れてからも死んでしまったわけではなく、生活しているという説明があることも彼がどんな風に暮らしているのか覗いてみたい欲求を感じてしまうのだ。
それにしてもベンの描いたセバスチャンは可愛くてしょうがない。ちょっと女性的な仕草をするが、そういう繊細な動作、チャールズを見つめる目などを見ていて飽きない。ワインを飲み煙草を吸う様子、チェスを払いのけ、大雑把に運転をするやり方、ヴェニスで妹にチャールズを奪われたと知った彼の佇みも失恋したチャールズを慰めようと伸ばした手を払いのけられた切なさも見惚れてしまう。
そして母からもチャールズからも逃れて行ったマラケシュの病院で髪を切った姿のセバスチャンの痛々しさ。
カソリックから逃れたようでまるで彼は宗教の人そのものの無心の存在になってしまったかのようだ。
チャールズはここでも自分が行けばセバスチャンを取り戻せるという身勝手さを見せているが彼の魂はもうこの世にはなく、チャールズが呼び戻せることはできないのだ。
チャールズはセバスチャンを見限りジュリアとの愛を求めていくことになるが映画として彼らの映し方の対比は残酷なほどだ。セバスチャンとの愛の眩い或いは悲しい表現と違いジュリアとの愛のあからさまに現実的で突き放した最後の物言いなどは製作者の意図を感じてしまう。
私自身はセバスチャンを愛しているのでこのやり方にさほど文句はない。ジュリアは憐れだし、チャールズは滑稽でもある。思い出の象徴である蝋燭の灯を消すことができなかったようにチャールズはその思い出の中で生きていくのだろう。私はそういうノスタルジーにはあまり共感できないのだ。

とにかくもうベンである。もっと他の映画を観たい、と言っても以前そうやって観てしまったので観れるものは全部観てしまってる。
もう次の映画の予定はあるらしいのだが。
 
監督:ジュリアン・ジャロルド 出演:マシュー・グード ベン・ウィショー ヘイリー・アトウェル 
2008年イギリス
posted by フェイユイ at 00:15| Comment(6) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月24日

『情愛と友情』ジュリアン・ジャロルド

BRIDESHEAD REVISITED3.jpg
BRIDESHEAD REVISITED

「僕はあの夏、美しい青年に愛された」の美しい青年はベン・ウィショーのほうだったのね。

お世辞にもベンは「美しい青年」ではないと思う。明らかに変な顔だし痩せっぽちすぎてややキモい。私が肉太体型が好きなので余計そう思うのかもしれないけど小柄で痩せ型でかなりファンキーな感じである(と書いてしまってファンクの意味を見たら「怯える」「逃げようとする」「鬱」「臆病」だって。この映画のセバスチャンにぴったりじゃないか)と思うのだが何故か物凄く惹かれるのである。嫌だ嫌だと思いながら目が離せない顔なのだ。
眉は太くて八の字になってるし頬はげっそりとして皮膚が爬虫類みたいだし、首も肩も華奢というより肉がなくて頼りない。目がぎょろりとして鼻ばかりでかいしそういった造作だけではなくなんだか全体から滲み出るものが気色悪いのだ。
この映画ではさらにゲイであり、オネエ的な仕草が加わり、「オゾッ」とする感じがいや増しているのだからもう堪んないのである。
そして私としてはそういうベンが好きだったしこの映画でまたさらにぞっこんになってしまった。
今までの彼の観れる映画は観てきたが大出世作の『パヒューム』は無論のこと、どれをとっても変人な役だ。
本作でもその変人さはしっかり発揮されていて熊のぬいぐるみを抱いて登場する。とはいえそのぬいぐるみは途中でどこやら行ってしまうのでライナスの毛布のような存在ではなかったらしい。且つ惜しむらくは彼は主役マシュー・グード演じるチャールズ・ライダーの回想の人物でその関係は一時期におけるものなので後半次第に消えていってしまうのだった。
とはいえ主人公チャールズ・ライダーの回想という物語の中でベン演じるセバスチャンが最も美しい存在として存在するわけである。
イギリスの貴族であり敬虔なカソリック家族であるフライト家の次男セバスチャンは家族の中で最も威力を持つ母親の支配から逃れようと苦しんでいた。
セバスチャンは自由なチャールズを気に入り二人の友情は次第に深いものになっていく。ある日セバスチャンがチャールズを家に招いたことでチャールズは彼の母、妹、兄と知り合う。そのことが無神論者に近いチャールズとカソリック家族との長い軋轢の始まりとなった。
チャールズは裕福でもなく熱心ではない普通の英国国教会の人間なのでフライト家、特にセバスチャンの母親からは軽侮される身である。
チャールズはセバスチャンに強い友情を持ち、妹ジュリアにも恋心を隠さなかった。二人はチャールズを介してカソリックと母親に対抗するのだが。
なかなか面白く見せてくれる作品だったが、散々言い尽くされた感もあるという感覚は否めない。
ジュリアン・ジャロルド監督は『キンキー・ブーツ』の時もそうだったのだがゲイの要素は見せるのだが結局は女性の方へ行く、という肩すかしなところがあってだからと言って女性との関係がそうそういい感じでもなくどこか物足りないなあという印象を与えるのだ。
原作がそういうものだからなのかもしれないが(未読なので何とも言えない)ところどころ腑に落ちない台詞なんかがあって例えばヴェニスに住む父親の愛人がチャールズに向かって「あなたにとっては一時的な付き合いでもあの子には違うのよ」だとか学友からも「お前が生贄かと思っていたらあいつらが生贄になっていたんだ」だとか、まあ彼らがそう思っただけ、という言い訳はできるが台詞というのはやはり物語を説明するわけだろうし、とはいえセバスチャンがチャールズ一途かといえばそれまでだって仲良くしてた者もいるしチャールズがいなくなっても別の男と関係があるのを見てもチャールズがその言葉で多少動揺してるのだがセバスチャン自身は様々な恋の中の一つだっただけのようだし、しかも学生時代のひと夏にキスを一度しただけにしか過ぎなくてチャールズだけが気に病んでて貴族様は別の恋愛を育んでおられたようだ。ジュリアにしても果たしてチャールズだけがお相手だとは今後を含めば限らない。それにチャールズ自身の愛情もモロッコにいるセバスチャンを僅かな会話だけであきらめて帰国したりジュリアがなびかないのを見てあっさり突き放したり、とさほど彼らに深い愛情を持っているようには思えない。「あなただけを一途に愛します」といった韓国ラブストーリーに慣れてしまった感覚としては実に冷淡に思えてしまう。韓国映画だったら宗教に負けじと尽くし抜くんだけどねえ(『シークレット・サンシャイン』)
実に淡々と過ぎ去った恋愛を思い出すチャールズの物語でさほど燃え上がるわけでもなく本人は愛し抜いたと思っているようだが傍目にはあっさりした愛情と友情のように見える。

ところでセバスチャンといえばカソリックでゲイと噂される聖セバスチャンから取られたのであろう。裸体で矢を射られ苦しむ姿で有名な聖セバスチャンのイメージはセバスチャンにぴったりである(よく裸体で登場するし、苦悩してるし)
また主人公が青春期にまず同性を愛し、次に異性を愛する(その肉親である場合も)という話はやたら多い。
『トニオ・クレーゲル』『草の花』『モーリス(主人公の元恋人がだけど)』など。わかるけど異性の部分はごまかしのような気がしてしまうのだよね。
やはり本作にしてもノスタルジックな覆いをかけ、また途中から異性を愛することでどこか逃げを打っているような気がしてしまうのである。

などとまあ随分責め立ててしまったがそれでもこれはやっぱり見逃せない映画ではあった。
何と言ってもベン・ウィショーとマシュー・グードを観ているだけで充分だ。
ベンはもう滅茶苦茶可愛かった。さりげなくキスするのもいいし、大好きなパパの横に座ってパパから肩を抱かれるとすっと頭をもたせ掛けるとこなんて可愛いったらない。
じっと見つめる眼差しも愛おしくて切ないんである。
二人の美しいひと夏の思い出を観れるならそれだけでもういいのかもしれない。

監督:ジュリアン・ジャロルド 出演:マシュー・グード ベン・ウィショー ヘイリー・アトウェル 
2008年イギリス
posted by フェイユイ at 01:03| Comment(2) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月22日

『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』Vol.2マーティン・スコセッシ

NO DIRECTION HOME6.jpgnodirectionhome.jpgNO DIRECTION HOME4.jpgNO DIRECTION HOME5.bmp
NO DIRECTION HOME Part2

Part2を観終えたが感想は昨日とあまり変わらない。というのは凄いことかもしれない。ボブ・ディランという人物が無名の時から超有名になってからでもその姿勢というものは変わっていないということだから。
しかし驚くのは彼の音楽スタイルは非常に変わったと皆に受け止められいたということだ。はっきり言えば堕落した、と罵られているのだ。これも不思議だった。彼の活躍した当時を生で知らないものにはアコースティックだろうがエレキだろうがさほど違うようにも思えない。というのは無論私が聞く耳を持たないからだが彼を信奉したファン達がフォークでは絶賛したすぐ後にロックになるとブーイングでこき下ろすというのは信じがたいものでもあった。それは強く信奉しているからこその落胆だったのだろうがそれほど彼の精神が堕落し、裏切ったとは思えないのだがそれくらいフォークとロックは全く違うという時代だったのだろうか。『アイム・ノット・ゼア』でも彼へのブーイングとバッシングを観てはいたがコンサート中に「ユダ!」と罵られるなんてあんまり酷過ぎる。嫌なら行かなければいいのに、と昔のことながら呆れてしまう。
そして彼への報道陣の質問の馬鹿馬鹿しさ。これは今も変わらないのだろうか。そういうミュージシャンに対する質問などというのを聞いたり読んだりもしないので判らないのだがよくまあこんな拷問のような質疑応答を耐え抜かれるものだと思ってしまう。まあ古今東西こういうものなのかもしれないが。
「何故あなたはこんなに人気者になったのですか?」という質問をくどく繰り返している記者がいたが本人にそれを答えさせるなんてどういうつもりなんだろう。
そしてその人気者の彼のファンからの酷い攻撃にも観ているこちらがめげてしまいそうだ。こんなにも矢面に立たねばならないのなら人気歌手などというものでないことは幸せなことだ。
まあそんな今頃怒ったり苛立ったりしてもしょうもないことを感じながら今まで殆ど何も知らなかったボブ・ディランを観ることができてよかった。煙草を吸いながら記者たちのイラつく質問に答えている彼はまだ少年のようで繊細な顔立ちが素敵である。人気が出ないわけがない、と思ってしまう。
気が滅入る激しいブーイングを受けると知っても自分がやりたいと思う音楽をやり続けるボブ・ディランの凄さ、というのは当時では却って判りにくかったのか。勿論その凄さをまた尊敬していたファンもいたのだろうけど。
散々なヨーロッパツアーを経て疲れ切ったボブが「早く家に帰りたい」というラスト。彼がつぶやいた帰る家とはどこを指していたのか。
少年の頃、狭い町から遠い所へ飛び出したいとボブ・ディランは願う。自分の居る家はここではない。自分が住む家はきっとどこかにあるのだと。
そしてボブ・ディランは音楽でも居心地のいい家というものに落ち着こうとはせず絶えず進み続け変化し続けている。
家に帰りたい、とつぶやいても彼自身どこかに落ち着いてしまうことはないとわかっていたに違いない。

このドキュメンタリーを作ったのがマーティン・スコセッシだというのも私には驚きだった。何もかも知らないことばかりなのだいつまでたっても。

監督:マーティン・スコセッシ 出演:ボブ・ディラン ジョーン・バエズ アレン・ギンズバーグ
2005年アメリカ
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『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』Vol.1マーティン・スコセッシ

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NO DIRECTION HOME:BOB DYLAN  Part1

ボブ・ディランという名前はずっと知っていたがどういうわけかそれ以上深く関わることもなく今に至ってしまった。先日『アイム・ノット・ゼア 』を観て初めて興味が湧いたという自分である。
彼の姿を今まで一度も見た事がない、ということはないと思うのだが意識がない。興味がなかったので目に映らなかったのかもしれない。吉田拓郎が強い影響を受けている人物、というよりはみうらじゅん氏が敬愛している歌手、というイメージが強く『アイデン&ティティ』な人としてだけ頭の中に収めていた。
初めてボブの姿を観た、と意識したのも半年ほど前に観た映画『ビリー・ザ・キッド 21才の生涯 』である。無論この映画は1973年のものだ。ボブ・ディランが出演と書かれていたのでおや、と気にして観ていたのだがそれらしき人物が出てきたのを観て酷く驚いた。つまり私はアメリカ人のカリスマ的歌手がこんな華奢で小柄な男だとは思ってもいなかったのだ。それで却って印象に残ってしまったが、歌を歌う役ではないので結局そのままになってしまったのだった。
そして『アイム・ノット・ゼア』ボブ・ディランをまったく知らない者には摩訶不思議な作品である。それだけにより気になる映画となり、ボブ・ディラン自身にも初めて興味が出てきてこのドキュメンタリーを観ることになった次第である。

今夜観たのはPart1のみだが非常に面白い作品だった。キンズバーグ、ケルアック、ジョーン・バエズ、ジェームズ・ボールドウィンなどの名前や映像が登場する。アメリカの50年代60年代の音楽シーンが細やかに説明されているのも面白い。
そしてボブ・ディラン本人の年を取った顔とまだ20歳頃の顔。20歳のボブはあの映画よりもっと若く華奢で女の子のように少年のように繊細でやはりアメリカを動かすような力があるようには思えない。酷く愛らしい男の子、といった感じだ。しかし思いつめたような眼差しはやはり魅力的であるし、小柄でほっそりしているためにより敏感な魂を持っているようにも思える。『アイム・ノット・ゼア』で女性のケイト・ブランシェットが一番ボブらしい雰囲気を出していたのも頷ける。
冬景色の中を可愛い女の子と腕を組んで寒そうに歩いている写真は心を惹きつけられる。
だが驚いたのはそれ以上に彼の音楽との関わりだった。
これも思い込みでボブ・ディランというカリスマはきっと独自だけの天才なのだろうと思っていたが、物凄い勉強家で好きな歌手を模倣し、また自分の歌は何かと模索し続けていく。しかもそのやり方がレコード店で無料で聞き込んで覚えこんでしまうだとか、知り合いの家から黙って持ち帰った(つまり盗んだ)レコードが何百枚もあるだとか、かなりの倹約家なのである。そして単に歌う能力だけの人間ではなく非常に演技力もあり誰が自分にとって役立つかすぐ見極めるし駆け引きもうまい、なんていうのがなんだかよく言う純粋で繊細なだけの天才ではない図太さみたいなものがある人物だと知って逆に感心してしまった。
これもまたイメージだがユダヤ人らしい頭のいいスタイリッシュな歌手なのである。できるだけ多くの歌を吸収し、できるだけの知識をつぎ込んで歌を作る、妥協はしない、なんていうのも天才、というよりは努力家で真面目な人なんだなあとここに来て初めて知ったのだった。
そのくせ自分の書いた難解な歌詞に「後で他の奴らがこの詩にあれこれ解釈をしまくるんだ。書いた本人がよくわかってないのに」と笑ってみせるなんていう茶目っ気みたいなのもあってさすが皆が虜になるだけあるなと今更自分もファンになってしまったようだ。
彼の歌は表面上の歌詞の意味とまた違う意味をその奥底に隠し持っている、と受け取られているのだというのもこのドキュメンタリーを観て知った。
人の心を捉え、魂に響く歌を歌い、音楽業界や社会の中で蔓延っている彼を利用しようとする人々とも駆け引きできる知恵を持っていて一ところに留まらず絶えず変化していこうとするしたたかな人間でもある。
これで彼を理解しきったつもりになるわけはないが今まで持っていたボブ・ディランというイメージとは違う。飾らずに素だけで生きているような天才歌手なのではなく自分が追いかける理想のために嘘もつくし演技もする変化自在な姿を見た。

ここでも僅かな間に急速に技術があがったボブ・ディランが「悪魔に魂を売った」と説明をしたという話が出てきて面白かった。

有名な『風に吹かれて』の「How many roads must a man walk down
before you call him a man 」という部分が黒人の気持ちを歌った歌だという黒人女性の言葉にも驚いた。「どれだけ歩いたら“人間”になれるのか」という意味として捉えているのだ。これもまた彼の歌がいくつもの意味を持つ、ということなのだろう。

明日はPart2を観る予定である。楽しみだ。

監督:マーティン・スコセッシ 出演:ボブ・ディラン ジョーン・バエズ アレン・ギンズバーグ ウディ・ガスリー
2005年 / アメリカ
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2009年03月20日

『46億年の恋』三池崇史

46億年の恋b.jpg46億年の恋a.jpg

前に一度観ててそれからもなんだか気になってもう一度観たくなった。
短い作品でとても不思議な物語なのだが物凄く好きだ。前に観た時よりよけいに好きになってしまった。
この世に存在しないような奇妙な刑務所の話である。若者ばかりがいるから刑務所ではなく少年院というべきなのかもしれない。
と思っていたらもともと三池監督はこの映画を『あしたのジョー』実写版をやるつもりだったらしくてなるほどと思った。
滅茶苦茶ケンカが強い香月は力石徹だったんだ。
『あしたのジョー』は通して素晴らしいマンガだけど特にあの少年院の中の物語部分は秀逸である。
荒くれていただけのジョーが拳闘を通して力石と強い因縁を持っていく。それなのにオタクな読者は心の奥で二人の危険な愛の匂いを嗅ぎ取ってしまうのだ。
『あしたのジョー』を実写化するために他のマンガを下敷きにするなんてなんだか複雑な三池監督である。肝腎の原作マンガ『少年Aえれじい』は読むこともできないが『あしたのジョー』が元だったと知って納得したのだった。

有吉と香月は映像としてはそれほど接近するわけでもなく台詞で愛を語るわけでもないのだが、眼差しが互いを求めているような狂おしさがあって切なくてしょうがないのだ。
色んなゲイ的要素を持つ作品を思い浮かべてしまうのだが、「お前はどこへ行きたい?」というのは『009』でジェットがジョウに問いかける言葉みたいだし、有吉が香月に僕も行ったらいけないかなと言う場面は『銀河鉄道の夜』のジョバンニみたい。映画自体はファスビンダー『ケレル』を思わせる。
とはいえ二人を演じた松田龍平と安藤政信は他の誰とも比べようのないほど素晴らしく魅力的だ。
安藤政信はそれほどマッチョだというわけでもないがここではとんでもなく強い男になっている。彼には怖ろしいような刺青があるが眠っている時はそれが消えている。刺青は彼を守る鎧みたいなもので眠っている時はそれが消えてしまうのだろうか。
松田龍平は他で観る時の彼より優しげな風情を出しているがそれでも何をしでかすか判らない狂気のようなものも感じられる。

簡略化した舞台背景、ボロボロの囚人服、よく判らない洗濯場なんかが怖ろしく物語に合っている。
脇役達のメンツのよさといったら彼らの顔を眺めているだけで嬉しいくらいだ。石橋凌の青白い顔も楽しい。
ミステリー仕立てになっているのも自分的に非常なツボで堪えられない。問いかけが文字で出てきて人物が答えるなんていうのはたまんない。

こういう作品はこの短さであるのが正解だと思うがあまりに好きな世界なのでつい不満に思ってしまう。もうちょっとゆっくり観たかったし、できるなら香月と有吉の接触がもう少し深くあったらなあ、とか意地汚い。
でもこの「もう少し食べたかった」というとこが美味しいわけで。

自分が求めている不思議な感覚、切ない思いがこの映画には溢れるように表現されている。有吉の繊細な美しさも香月の心が引き裂かれそうな愛もたまんなく愛おしい。

監督:三池崇史 出演:松田龍平 安藤政信 窪塚俊介 渋川清彦 金森穣 遠藤憲一 石橋凌 石橋蓮司
2006年 / 日本
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『白痴』黒澤明

白痴.jpg

黒澤明監督作品はよくTVでも観ることができるので何度も観てしまう作品もあるがこの作品はあまり観ることができないのではないだろうか。
ダイナミックな活劇ものや『赤ひげ』『生きる』のようなジャンルともまた違う黒澤映画としては珍しいラブ・ストーリーであるし、何と言っても作品時間が166分という物凄い長さである。私も遠い昔に一度観たきりだと思うが他の映画以上に強い印象があった。

この映画はドストエフスキー『白痴』が原作となっていてこれもまた少女時代夢中になって読んだ小説である。
といっても自分はいつも熟読できない人間で好きな場面を偏って繰り返し読む、というどうしようない読書なのだが。
とにかくロシアの上流社会を日本の映画監督が映画化するというのはどういうものになるのか興味と不安の中で初観したものだが、そこはさすがに黒澤でそんな不安など蹴飛ばしてしまう面白さだった。
冬の北海道を舞台にあの愛らしいムイシュキンが亀田となって森雅之が絶世の美女であり男を虜にする魔性の女ナスターシャ・フィリポヴナが那須妙子という名前で原節子がムイシュキンと対立する野蛮な男ロゴージンが赤間となり三船敏郎が演じている。
ロシア小説と思って読んでいる時はさほど違和感を感じないのだが日本人が同じ言動をすると途端に突拍子もないもののように思えてくるのだがそういうとんでもなさも非常に面白く観れてしまう作品だった。
とはいえ原作をまったく知らない人がこの映画を観たらどんな風に思うのか、かなり不思議な世界なのではないだろうか。

ムイシュキンこと亀田の森雅之はタイトルの『白痴』を素晴らしく印象的に見せてくれた。「僕、わからないんです」という台詞が記憶に残ってつい口から出てしまいそうだ。
そんな純真無垢な亀田を一目見た時から「可愛い」と思って好きになってしまう野蛮男を三船がこれも魅力たっぷりに演じてくれる。彼ら二人はナスターシャ=那須妙子を取り合う関係でありながら互いに非常に好き合っている、というのもくすぐられる関係なのだが、ロゴージンがついにナスターシャを殺してしまった後、こっそりとムイシュキンを部屋に呼んで一晩二人で通夜をしながらナスターシャを偲ぶという場面は小説を読んでいた時から何度も頭の中でその場面が映像となって表れなんという美しい場面なのか、美しい女性が僅かな血を胸からこぼしただけで死んでしまい、二人の対照的な美しい青年が彼女の遺体を見守って話し合っている、その場面を思い描いたものだった。
こうして黒澤が作り上げたその場面は黒澤自身もこの場面に思い入れが深いことが強く伝わってくる。那須妙子の死体を一度も見せずにその美しさを表現しているのである。
二人の青年の震えるような魂の描き方も忘れることのできない闇の中の場面である。

私はこの時の原節子のイメージが強くて一般に原節子というと小津の彼女を指すことが多いのだが私には那須妙子なのだった。
日本の物語としてはあり得ない女王的存在の美女を演じられるのは彼女の美貌でなくてはいけないのだ。

『白痴』と言われる無垢な亀田を人々は笑いながらも弾かれ愛してしまう。だが無垢であることはやはり難しいことなのだろうか。
純粋な愛とはなんだろうか。
赤間と亀田の不思議な友情にも強く心惹かれる。

監督:黒澤明 出演:原節子 森雅之 三船敏郎 久我美子 志村喬
1951年日本
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2009年03月19日

『プリティ・ベビー』ルイ・マル

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PRETTY BABY

ルイ・マル監督作品で現在私がレンタルできる最後の作品になってしまった。
ルイ・マル監督の名前を知らなくとも私と同じ世代ならブルック・シールズ主演のこの映画は知っているのではないだろうか。
母親とともに娼館に住む少女ヴァイオレットが完璧と言える素晴らしい美貌を持ちながら無邪気に振舞う様子を美しい作品に仕上げたものだ。
小悪魔的なヴァイオレットが売春に対して何の戸惑いも衒いも反発もなくあっけらかんとしすぎているのが観やすくもあるのだが反面却ってエロティシズムに欠ける気がする。
何も物怖じしないヴァイオレットが奔放に暮らしながらやがて初めての客をとり、写真家の男と恋に落ちて結婚し、金持ちの男と結婚した母親のもとへ引き取られるまでが特に混乱するようなこともなくすんなりと進んでいく。
娼館の女達も買いに来る男達も写真家の男も善良な人物ばかりなので「こんな遊んでばかりで楽しそうな仕事ならやってみたいものだ」とつい思ってしまう。三池崇史監督の『ぼっけえきょうてえ』とは偉い違いだ。
あまりにも絵画のようでありすぎてロリコンの男性よりは可愛い少女が好きな女性向けの映画のような気がする。
もしくは「昔はこんな風に少女を金で買ったり、結婚したりすることができたのだ」というノスタルジックな昔話のようなものか。
同じ少女売春婦としてイメージされたジョディ・フォスターの少女時代のほうがよりリアルにセクシャルであったし、コメディの『ダウンタウン物語』でさえジョディの娼婦姿の方がより隠微でそそられるのではないだろうか。

まあそんなごちゃごちゃ言う映画ではなくニューオーリンズの娼館の気だるい雰囲気を楽しんで観ればいいのかもしれない。
ブルック・シールズの愛らしさは確かに見惚れてしまうばかりでほっそりした少女の裸体を惜しげもなく披露した場面はもう今では大っぴらには観れないものかもしれないし。

監督:ルイ・マル 出演:ブルック・シールズ キース・キャラダイン スーザン・サランドン フランセス・フェイ アントニオ・ファーガス
1978年 / アメリカ
タグ:少女
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2009年03月17日

『チュ・ジンモ 悲しい誘惑』

悲しい誘惑.jpg

チュ・ジンモは間違いなく申し分ない美形ではあるし、『MUSA』を観た時から印象強く残ってはいたが、あんまり好みのタイプではないのでさほど気にかけてはいなかったのだった。(キム・ギドクの『リアル・フィクション』も観たが)
それがDVDレンタルの新入荷を観てたらこれがあってイントロダクションが「男同士の切ない愛を描いた禁断のラブロマンス」だと。
うわいつの間にこんな映画が、と思ってたらこれは2回連続のTVドラマなのだった。しかも後で気づいたんだが1999年作品。まだ初々しいといっていいチュ・ジンモだった。『ハッピー・エンド』に出演した年なのである。

え〜、韓国ってちょっと前までゲイって全く御法度だと思ってたのに。しかもTVドラマ。一体どんな胡散臭いものか。陳腐な作品なのか。馬鹿馬鹿しい奴か、とかなり疑心暗鬼で観始めたのだが、これがなんと意外にも渋い大人のドラマなのだった。

とはいえ、これは「禁断のラブロマンス」というようなものではなく、ゲイの青年と会社から邪魔者扱いをされている中年男が互いの苦しみを語り合うといういたって地味なドラマでセクシャルな描写を求めている方はお勧めではないし、さほど驚くような発見があるというわけではない。
ただ軽佻浮薄で煌びやかな設定だけで見せ付けるようなことがなく地道な物語なのがこういう物語としては結構驚きなのである。
若い頃は野心に満ちて会社の為にと働き続けた結果、年を取って会社から追い出されるはめになった男が妻に弱みをみせたくないというプライドと戦い続ける。その妻は夫婦なのに話し合いもない生活に悲しみを感じている。
そんな二人の前に登場するのがチュ・ジンモ演じる若者で、中年男は伸び盛りの青年に反発とかつては自分もそうだったという懐かしさを覚える。
男が青年に感じた気持ちは一体なんなのだろう、という物語である。

繰り返しになってしまうが、さほど新鮮味があるという話でもないのだが、それでもじっくり観てしまうのは設定、物語、台詞が地道で現実味のあるものだからだろう。
こういうドラマが10年も前に存在していて主役をチュ・ジンモが演じていたとは、驚きである。
妙なアクシデント(どちらかが突然死んでしまうとか)なんかがなく自然な感じで終わるのも渋いのである。
奥さんが単なる飾りではなく悩みや優しさを持っている女性で最後に彼女が二人を見つめているので終わっているのもなんだか文学的ではないか。

脚本:ノ・ヒギョン 出演:チュ・ジンモ キム・ガプス
1999年韓国

同じくチュ・ジンモ主演の『双花店』もますます気になるところである。こちらはもう本当に危ないシーンが観られそうだし。
タグ:同性愛
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『オアシス』イ・チャンドン

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また前日に観た映画とつながってしまう偶然に会った。
昨日観た今村昌平『うなぎ』とイ・チャンドン『オアシス』
『うなぎ』のように主人公が犯罪を犯すシーンはないが(といってもそれが後で意味があることがわかる)どちらも刑務所で数年の服役を終えて出て来たところから物語が始まる。
どちらも素直に好きとは思えない男である。そして同じように「可哀想な境遇の女性」と出会い関わることになる。
ここから日本と韓国の違いになるが『うなぎ』では女が押しかけてくる、というのがいかにも日本の男女関係である。韓国では無論男性が女性の家へ押し込んでいく。『うなぎ』では女性がとことんつくしていて『オアシス』では男性がつくし抜いている。
どちらの男女もなんとも冴えない境遇と人格であり他人から煙たがられる存在なのは同じなのだ。
それでどちらが好きかと言うのなら全く躊躇することなく『オアシス』のほうだ。
同じような設定と物語とは言ったが『うなぎ』に感じた嫌悪感が『オアシス』にはない。なにやら教訓めいた語り口の『うなぎ』と違い『オアシス』には情感だけがあるように思えるのだ。

『オアシス』の主人公ジョンドゥは重い脳性麻痺の女性コンジュを好きなる。彼女はその為に体を動かすことも話すことも思うようにならない。表情はいつも強く硬直し、その手も空をかいているように見える。
ジョンドゥもまた人に自分の考えを明確に話すことができない人間である。彼は前科を持つのだがその一つは兄の罪を被ったものだし、もしかしたら別の罪も上手く釈明ができなかった為の濡れ衣のようなものだったのではないかと思えてくる。
自分たちもまたジョンドゥやコンジュのように自分の思いを話せない人間なのではないだろうか。
ジョンドゥは何をっやっても不器用で佇まいもさまにならず人から蔑まれるような人間だ。コンジュはまた彼以上に人から迫害されてしまう存在である。
誰が観ても羨ましくもない二人だがジョンドゥがコンジュを外に連れ出してはしゃいでいる様子はなんて楽しそうなんだろう。
誰からも疎外されている二人が互いを「姫」「将軍」と呼び合っていることがおかしくてちょっと悲しくて笑えてしまう。
普通の恋人同士ならロマンチックなはずのラブシーンが二人だと障害者を強姦する犯罪者ということになってしまう。そして二人にはそれが「恋愛」だという釈明をする言葉を出すことができないのだ。
ジョンドゥは何も言えず、コンジュは興奮するばかりで体を打ち付けて悲しみを表すが他人にはそれが何の意味をもつのか理解できない。

コンジュは夜の闇の中で「オアシス」の絵にさす木の影が怖くてしょうがない。ジョンドゥはそんな彼女におどけて魔法の御まじないを唱えてみせる。それを嬉しそうに笑うコンジュが可愛い。
コンジュとのセックスが強姦だと間違われまたもや留置場に入れられそうになったジョンドゥは隙を見て逃げ出す。それはコンジュが怖がる窓からはいる影を作る木の枝を切り落とす為だった。それは彼がコンジュに「愛している」という言葉なのだ。
コンジュには彼の思いがわかった。声を出せないコンジュはラジオのボリュームを最大にしてジョンドゥに伝える「私も愛している」と。

重度の脳性麻痺で話すことも動くこともままならない彼女が彼女の想像の中では普通の女性となってジョンドゥに話しかける。
映画の魔法である。
二人に間違った嫌疑がかけられた時、もしかしたらコンジュが突然彼女の夢の中のように話し出すのではないかと願ってしまった。
しかしコンジュはそのままだった。
ジョンドゥはそのまままた刑務所にはいることになりコンジュに手紙を書く。
「姫、お元気ですか」と。「出られたら食事をしましょう」
コンジュは明るい日差しの中で部屋を懸命に掃除している。

ふたりがどんなに愛し合っていたのかを誰も知らない。二人が愛し合っているのを見ても誰もそれが本当の愛だとは気づかない。
そんな愛というのがあるのだ。

監督:イ・チャンドン 出演:ソル・ギョング ムン・ソリ アン・ネサン チュ・グィジョン リュ・スンワン
2002年韓国



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2009年03月16日

『うなぎ』今村昌平

うなぎ.jpg

これは最も嫌悪感のあるものだけで映画を作ってみよう、という意図で作られたものなのだろうか。
とにかく出て来る人物、起きる出来事、映画の中のすべてがむかむかと虫唾が走るようなものばかりなのだ。
というとこの作品がくだらないものだと言っているみたいだが、そうではない。
世の中で高評価を得ている映画というのは癒しであり、心地よくかっこよく共感と賛同を得るものであるはずだ。登場人物も憧れの対象で自分もこうなりたい、恋人にしたいという役柄である。
ところがこの作品には好きになれる人が全くいない。嫉妬だけで妻を殺し、そのことを悪かったとかかわいそうだったとか思いやりもしない主人公。すぐ見つかる場所で自殺未遂し嫌がる男の店に乗り込んで居ついてしまい、挙句にたちの悪い元恋人が押しかけてきて仮釈放中の主人公を刑務所へ逆戻りさせてしまう女。しかも堕胎ができなくなってから妊娠してたと言い出して男に親代わりにならせてしまう。最初から産むつもりならそれでもいいが、「絶対堕ろします」などと言うところが寒々しい。もっと早く処置をすればいいのに、といらいらしてしまう。その女の元恋人も女の母親も何とも嫌な存在だし、主人公を付け狙う元務所仲間の男も苛立つし、親切気な住職もその妻も近所の面々もよく言う淡々としてなくて皆ねちねちと粘っこくそうかだから『うなぎ』なのかと思うほどねとねとした関係で成り立っているのだ。
今村昌平監督作品は他のもそんなに気持ちいいものでもないがこの作品はそれらの集大成と言っていいほどに嫌なものだけで成り立っているようだ。
妻の浮気現場、「映画のようにロマンチック」ではない生々しい殺人、男の出所後に妻そっくりの女に出会うという気持ちの悪いこと、その女の態度、肉体関係がないのに噂が立つこと、同じ刑務所にいた男の言動、「うなぎ」にまつわる話をしながらさもいい話にしていく過程も、UFOを信じている若者という陳腐な設定も全部が大嫌いなのだがどうしてここまでこんな嫌なものだけでできているのか。何故さらりといい話にせずぬるぬると気持ちの悪い話にしてしまうのか。しようと思えばできるはずなのにここまで嫌悪感で満ちているのはあえてのことなのかと思ってしまうのだ。
そしてなぜそういう嫌悪感を感じるような人々を描いて見せるのか。それは多分こんなとんでもない人でも生きていくのだから自分はまだ少し頑張れるかな、という逆の安心感みたいなものかもしれない。そういう意味ではこの映画も癒しの作品になるのだ。
ただここまで強烈な安堵感を求めない人には嫌な部分だけが感じられてしまいそうだ。

これはだから単にいい映画いい話、というものではないんだろう。主人公はいやな奴で女もいやな奴なんだけどそれでも彼らは生きていく。正しくなかろうがなんだろうがそれでも生きていくんだと。UFOだって信じればやってくるんだというそんな開き直り、捨てばち、ふてぶてしさで彼らは生き延びていくのだ。

監督:今村昌平 出演:役所広司 清水美砂 柄本明 常田富士男 倍賞美津子 田口トモロヲ 哀川翔
1997年日本
タグ:今村昌平
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2009年03月14日

『銭ゲバ』第9話・最終回 松山ケンイチ

やっと終わった。毎週一時間弱を九回なかなかの苦行であったがついに終えることができた。

最終回はこれをやりたい、という気迫を感じるものはあったがなにしろこれまでが惹きつけられる魅力に欠ける物語だったのでいくら最後頑張っても説得力というものがない。
それに今回の話でもやはりどこか素直に頷けないものがある。製作者の考えはどういうものなのか。
幼い頃から貧困に苦しみ愛する母を失った風太郎が銭の為ならなんでもする、という一念で何度も殺人を繰り返して大金持ちになるがただ一人心惹かれた緑の目前で爆死する決意をする、というラストである。
腹に爆弾を巻きつけた風太郎は導火線の火が近づくのを見ながらもう一つの人生を思い描くことになるのだが(これが風太郎が考えたものなのかどうかは別段関係ない)この中の風太郎の家庭が裕福で従って彼にはあの深い頬の傷がない。
三國家はやや控えめなお金持ち程度になっていて緑はそのままだが茜は足も悪くないし、顔には痣がない。
風太郎と茜は同じ大学に入って恋愛し風太郎は就職して茜と結婚し子供も出来ていい家庭を築く、という筋書きである。
これは一体どういう考えでもう一つの人生として表したのか。
つまり結局風太郎が裕福な家庭で両親に見守られていれば自殺などする結末にはならなかった、と言いたいのか。
茜が足が悪くなくて痣もなければ大学で恋愛し結婚したんだと言っているように見える。
この仮定の物語は最悪だ。これまでで最も酷い演出ではないか。
それともこんな物語だったら幸せだと言えるんですか?と疑問を問いかけているのか。誰でもそう思うだろう。しかし現実にはそうでないし、貧乏に生まれ、容姿や健康や身体に恵まれず劣等感を持つこともある。
そういった同じ状況でこういう違う人生もあった、つまり風太郎が貧乏のままでも茜が同じ容姿でも違った人生を歩んでいることもある、という話ならわかるがこれでは言いたいことがあやふやになってしまう。

そう、これは原作に合わせているつもりなのだろうが、原作の持つ意味とかけ離れている。
原作では同じ容姿の風太郎が緑と(茜ではなく)結婚し幸福な家庭を築く夢を見るのだ。こちらなら判る。
微妙に内容を変更した為にまったく意味が違ってしまったのだ。茜との愛情にこだわってしまったからだろう。
原作ではあくまでも風太郎と緑の関係が主体になっているので無理に茜にする必要はなかったのだがドラマでは茜の出番が多かったのでこうなってしまったのだろう。
原作に無理に合わせなくてもいいのに帳尻を合わせようとして失敗してしまった。

そして衝撃の自殺シーン。
もしこれまでの物語で風太郎に共感を持っていたら確かに衝撃だったのだが、もうどうでもよくなっていたので何の恐怖も感じないという冷血漢と化してしまった。
おまけについこの前ルイ・マルの『鬼火』を観てしまっていた。あの時は本当にショックだったのに。
おまけに今日ドラマを観る前に田中優子著『カムイ伝講義』を読んでいた。
もう真剣に働こうよ。ぐちばっかり言ってんじゃねえよ。という気持ちになってしまう。「豊かさとは贅沢をすることではなく日々働き収入を得ることだ」という言葉を風太郎にも知って欲しかった。
あー、こういう真面目なことを言いたいわけじゃないのだけどね。
『鬼火』には参ったんだけど。たとえぐちでも。

もう一つ残念なのは始まった時、原作当時の時代設定ではなく現在にしたことでより今の不況期に共感を持てる内容になっているのではないかと期待したのだが、結局それほど現状に即した内容に変更されたわけではなかったことだ。
例えばラストなども「今の銭ゲバならこうだ」という違いを出してもよかったかもしれない。というか何らかの違いがないのなら時代設定を今に変えた意味がない。死なせることだけが衝撃とも限らない。
原作どおりでもなく原作を壊すほどもなく中途半端でしかも悪く変化してしまったとしか思えない。
物語だけでなく設定でも緑が男だったらとか(それなら風太郎自身女だったらてのもあるが。したら松ケンじゃなくなるが)でも物語が変わって面白かったかもしれない。
どうせ緑とのセックスシーンというかレイプシーンがなくなったのだから男性であってもよかったのでは。(男性でレイプシーンだったらそれこそ衝撃だが)
原作にある映像化は困難なのでは、と思った部分は全部割愛されてたし(女子高生殺害、乳児殺害、薬害問題、風太郎が中年になって太っていく状況なんかも松ケンがどうなるのかと思ったが)
結局甘い甘〜い『銭ゲバ』にしかなりえなかった。仕方ないとは思うが。

とにかく終わってくれた。酷いドラマの中で松ケンは頑張ってくれたと思う。(今日久し振りにまたジェイに似てると思ってしまった。あの大学生のとこ)爆死する場面はそこだけ取れば迫力ある場面だった。でも思わせぶりに行ったり来たりする過剰な演出は逆効果。昔みたいにただ最後にアップの顔とか台詞を言わせるだけでもいいのに。
そして蒲郡パパの椎名桔平、最後までかっこよかった。彼だけが極めていたな。

松ケンは『デロリンマン』のほうが絶対似合うと思うんだがなあ。
posted by フェイユイ at 22:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月13日

ジェイ&チーリン主演映画『刺陵』

ジェイ&チーリン主演映画『刺陵』、アンディは出演断念

アンディが出演できないのは残念ですが、代わって出演が陳道明!私的にはこちらがうれしいかと(笑)
勿論、陳道明といえば素晴らしい役者さんですが、それにしてもジェイ&チーリンと比較した出演料の差が激しすぎる。
そんなものなのですねえ。
 
それにしても彼の出演で格調高くなるような。どんな作品になるのでしょう。
posted by フェイユイ at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月12日

『狂い咲きサンダーロード』石井聰亙

狂い咲き.jpg

ずっともう一度観てみたい、と思っていたのだが確かBOXでしかDVDになってなくてこの度単独のDVDになったのではないだろうか。やっと再会できた。

というような愛らしい作品ではなく、ぎらぎらとした暴走族映画である。石井聰亙監督が大学の卒業制作作品だから画面は思い切り荒れ果ててブチ切れているし音はとんでもなく劣悪だ。主役はこれが映画デビューの山田辰夫だし、知っているのは小林稔侍ただ一人(ってよく出演してくれたよね。なにせ右翼で同性愛者という設定。ベッドシーンあり(添い寝してるだけだが))だけなのだ。
だがそれだけに異常に過激な暴走族の抗争がより生々しく感じられる。おまけに撮影現場が福岡市なのでこの撮影の少し後にその町に住むことになった自分としてはより身近に感じられた。と言ってもこの映画に出てくるような場所にはあまり行ってはいないが。天神地下街だけはお馴染みだが。バイクのナンバーも福岡だしね。

物語ははっきり言ってなんだかよくわかんない。ていうか物語なんかどうでもいいのだ。
山田辰夫演じる暴走族・魔墓呂死(まぼろし)の特攻隊長ジンの滅茶苦茶な生き方が映されているだけなのだ。
ジンが何を考え何を求めていたのか、なんていうことはまったく判らない。ジンはただバイクで走り暴れる、ということだけが生き方なのである。
自分と同じ考えなら仲間だし、そうでなければ仲間じゃない。愛とか友情とかそういうものもない。
ただ走り暴れまわる、そういうジンと他の暴走族連合の対立、そして右翼であり魔墓呂死を作った男・剛がジンを引き込もうと近づいてくる。
ジンはそういったすべてを嫌いはねつける。
ある日バイクのブレーキに必要な右手足の先を切り落とされたジンは見境なく彼らに銃を向ける。
そして剛に蜂の巣にされたジンはブレーキをかけられない体でバイクにまたがり走り出すのだ。

今だったら『クローズZERO』をちょいと思い出すかもしれない。三池崇史監督もそうとう滅茶苦茶な人だが、さすがにこの『狂い咲きサンダーロード』には負けるかもしれない。というかそれは無論三池監督作品のほうが高度な技術があるからなのだが。
それに小栗旬をはじめイケメンだらけの『クローズ』と違い『狂い咲き』にはそういう甘さがない。結構二枚メな顔は見えるのだがそういうかっこよさ、というのを出している感じよりも顔に変てこなものを貼り付けた様な不思議な外見の奴が多い。
けんかシーンもとにかく滅茶苦茶である。低予算でとにかく情熱だけで作った、っていうような熱いものだけが伝わってくる。街中のバイクの暴走シーンなんかも無茶苦茶危ないとしか思えない。福岡の街中でゲリラ的に撮影したのだろうか。
そんでやっぱり山田辰夫が凄くかっこいい。別にどこもかっこよくないんだけどかっこいい。あのだみ声がずっと耳に残ってしまうのだ。
酷い悪態ばかりをつく声だ。
もう二度とブレーキをかけることなく走り続けるバイクで彼はどこへ行ったのだろう。

監督:石井聰亙 出演:山田辰夫 中島陽典 南条弘二 小林稔侍
1980年日本
タグ:オートバイ
posted by フェイユイ at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月11日

『迷子の警察音楽隊』エラン・コリリン

The Band's Visit.jpg
The Band's Visit

英語という第3の言語で会話はできるが互いの言葉は通じないエジプト人とイスラエル人の物語だが、政治情勢から生まれる軋轢・対立などの表現は殆ど見せない作品になっていた。

イスラエルのとある町に呼ばれてやって来たエジプトの警察音楽隊の彼らが緊張しているのは無論そういう背景があるからなんだろう。それでも若いカーレドなんかは早速女の子にちょっかいを出したりして隊長であるトゥフィークに睨まれたりしている。

トゥフィークは堅苦しい表情の規律を重んじる初老男性である。若いカーレドに道を調べさせたが案内係の女性に歌を歌ったりして結局目的地を間違って調べてしまったのだ。
彼らは言葉もよく通じないこの国で間違った町にたどり着いて途方にくれる。コンサートは翌日なのにもうバスも来ないというのだ。
厳格な隊長は渋る隊員を持て余し仕方なくたまたま訪ねたレストランの女性に助けを求める。

トゥフィークはその厳格さゆえに愛する妻子を失ってしまったという悲しい過去を持っていた。そのことを悔やんではいただろうがその性格はまだ消えたわけではなかったのだ。
道先を間違えたカーレドを厳しく叱りつけ、トゥフィークと仲良くしようとするレストランの女主人ディナの心に気づきながらも最後まで拒否してしまう。
ディナが若いカーレドと愛し合っているのを見たトゥフィークはやっと彼が何を失い続けていたのかを気づいたのかもしれない。
その後、カーレドを見てもトゥフィークが怒ったりしなかったのは彼の柔軟な心に何かをこっそり学んだのかもしれない。

イスラエル、という国は一体どんな国なのだろうか。その人々は。
エジプト警察音楽隊が迷子になってしまった小さな町は閑散とした静かな場所ででもそこでも人々は生活し、楽しみを知り、愛を求めている。
それはどの国のどの小さな町でも見られる普通の生活である。
言葉の通じない外国人が来れば戸惑いながらも一夜の宿を与え、グチをこぼしながら会話をし、食事を分ける。
親切すぎもせず追い出すわけでもなく当たり前の感情と行動に思える。
エジプト人という外国人が突然訪れた一夜を描くことで彼らの生活が身近に見えてくる。

私はエジプト人、イスラエル人の特徴というのが判らないのだが厳格で男っぽい隊長が心を開かないこを描いてトゥフィークをエジプト男性の代表にしてみせてもっと心を開いて会話をしたい、という意味合いも込めて表現しているのかな、とも思ったのだが。

ともあれ、迷子になってしまうという失敗が思いがけなくトゥフィークの心を開き、彼に人生をもう一度やり直してみよう、と思わせたのだ。
そのきっかけはどちらも問題児であるカーレドの行動だった。トゥフィークはもう一度ディナのような女性に出会えるだろうか。

監督:エラン・コリリン 出演:サッソン・ガーベイ ロニ・エルカベッツ サーレフ・バクリ カリファ・ナトゥール
2007年 / イスラエル/フランス
posted by フェイユイ at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 西アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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