映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年03月22日

『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』Vol.2マーティン・スコセッシ

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NO DIRECTION HOME Part2

Part2を観終えたが感想は昨日とあまり変わらない。というのは凄いことかもしれない。ボブ・ディランという人物が無名の時から超有名になってからでもその姿勢というものは変わっていないということだから。
しかし驚くのは彼の音楽スタイルは非常に変わったと皆に受け止められいたということだ。はっきり言えば堕落した、と罵られているのだ。これも不思議だった。彼の活躍した当時を生で知らないものにはアコースティックだろうがエレキだろうがさほど違うようにも思えない。というのは無論私が聞く耳を持たないからだが彼を信奉したファン達がフォークでは絶賛したすぐ後にロックになるとブーイングでこき下ろすというのは信じがたいものでもあった。それは強く信奉しているからこその落胆だったのだろうがそれほど彼の精神が堕落し、裏切ったとは思えないのだがそれくらいフォークとロックは全く違うという時代だったのだろうか。『アイム・ノット・ゼア』でも彼へのブーイングとバッシングを観てはいたがコンサート中に「ユダ!」と罵られるなんてあんまり酷過ぎる。嫌なら行かなければいいのに、と昔のことながら呆れてしまう。
そして彼への報道陣の質問の馬鹿馬鹿しさ。これは今も変わらないのだろうか。そういうミュージシャンに対する質問などというのを聞いたり読んだりもしないので判らないのだがよくまあこんな拷問のような質疑応答を耐え抜かれるものだと思ってしまう。まあ古今東西こういうものなのかもしれないが。
「何故あなたはこんなに人気者になったのですか?」という質問をくどく繰り返している記者がいたが本人にそれを答えさせるなんてどういうつもりなんだろう。
そしてその人気者の彼のファンからの酷い攻撃にも観ているこちらがめげてしまいそうだ。こんなにも矢面に立たねばならないのなら人気歌手などというものでないことは幸せなことだ。
まあそんな今頃怒ったり苛立ったりしてもしょうもないことを感じながら今まで殆ど何も知らなかったボブ・ディランを観ることができてよかった。煙草を吸いながら記者たちのイラつく質問に答えている彼はまだ少年のようで繊細な顔立ちが素敵である。人気が出ないわけがない、と思ってしまう。
気が滅入る激しいブーイングを受けると知っても自分がやりたいと思う音楽をやり続けるボブ・ディランの凄さ、というのは当時では却って判りにくかったのか。勿論その凄さをまた尊敬していたファンもいたのだろうけど。
散々なヨーロッパツアーを経て疲れ切ったボブが「早く家に帰りたい」というラスト。彼がつぶやいた帰る家とはどこを指していたのか。
少年の頃、狭い町から遠い所へ飛び出したいとボブ・ディランは願う。自分の居る家はここではない。自分が住む家はきっとどこかにあるのだと。
そしてボブ・ディランは音楽でも居心地のいい家というものに落ち着こうとはせず絶えず進み続け変化し続けている。
家に帰りたい、とつぶやいても彼自身どこかに落ち着いてしまうことはないとわかっていたに違いない。

このドキュメンタリーを作ったのがマーティン・スコセッシだというのも私には驚きだった。何もかも知らないことばかりなのだいつまでたっても。

監督:マーティン・スコセッシ 出演:ボブ・ディラン ジョーン・バエズ アレン・ギンズバーグ
2005年アメリカ


posted by フェイユイ at 22:45| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』Vol.1マーティン・スコセッシ

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NO DIRECTION HOME:BOB DYLAN  Part1

ボブ・ディランという名前はずっと知っていたがどういうわけかそれ以上深く関わることもなく今に至ってしまった。先日『アイム・ノット・ゼア 』を観て初めて興味が湧いたという自分である。
彼の姿を今まで一度も見た事がない、ということはないと思うのだが意識がない。興味がなかったので目に映らなかったのかもしれない。吉田拓郎が強い影響を受けている人物、というよりはみうらじゅん氏が敬愛している歌手、というイメージが強く『アイデン&ティティ』な人としてだけ頭の中に収めていた。
初めてボブの姿を観た、と意識したのも半年ほど前に観た映画『ビリー・ザ・キッド 21才の生涯 』である。無論この映画は1973年のものだ。ボブ・ディランが出演と書かれていたのでおや、と気にして観ていたのだがそれらしき人物が出てきたのを観て酷く驚いた。つまり私はアメリカ人のカリスマ的歌手がこんな華奢で小柄な男だとは思ってもいなかったのだ。それで却って印象に残ってしまったが、歌を歌う役ではないので結局そのままになってしまったのだった。
そして『アイム・ノット・ゼア』ボブ・ディランをまったく知らない者には摩訶不思議な作品である。それだけにより気になる映画となり、ボブ・ディラン自身にも初めて興味が出てきてこのドキュメンタリーを観ることになった次第である。

今夜観たのはPart1のみだが非常に面白い作品だった。キンズバーグ、ケルアック、ジョーン・バエズ、ジェームズ・ボールドウィンなどの名前や映像が登場する。アメリカの50年代60年代の音楽シーンが細やかに説明されているのも面白い。
そしてボブ・ディラン本人の年を取った顔とまだ20歳頃の顔。20歳のボブはあの映画よりもっと若く華奢で女の子のように少年のように繊細でやはりアメリカを動かすような力があるようには思えない。酷く愛らしい男の子、といった感じだ。しかし思いつめたような眼差しはやはり魅力的であるし、小柄でほっそりしているためにより敏感な魂を持っているようにも思える。『アイム・ノット・ゼア』で女性のケイト・ブランシェットが一番ボブらしい雰囲気を出していたのも頷ける。
冬景色の中を可愛い女の子と腕を組んで寒そうに歩いている写真は心を惹きつけられる。
だが驚いたのはそれ以上に彼の音楽との関わりだった。
これも思い込みでボブ・ディランというカリスマはきっと独自だけの天才なのだろうと思っていたが、物凄い勉強家で好きな歌手を模倣し、また自分の歌は何かと模索し続けていく。しかもそのやり方がレコード店で無料で聞き込んで覚えこんでしまうだとか、知り合いの家から黙って持ち帰った(つまり盗んだ)レコードが何百枚もあるだとか、かなりの倹約家なのである。そして単に歌う能力だけの人間ではなく非常に演技力もあり誰が自分にとって役立つかすぐ見極めるし駆け引きもうまい、なんていうのがなんだかよく言う純粋で繊細なだけの天才ではない図太さみたいなものがある人物だと知って逆に感心してしまった。
これもまたイメージだがユダヤ人らしい頭のいいスタイリッシュな歌手なのである。できるだけ多くの歌を吸収し、できるだけの知識をつぎ込んで歌を作る、妥協はしない、なんていうのも天才、というよりは努力家で真面目な人なんだなあとここに来て初めて知ったのだった。
そのくせ自分の書いた難解な歌詞に「後で他の奴らがこの詩にあれこれ解釈をしまくるんだ。書いた本人がよくわかってないのに」と笑ってみせるなんていう茶目っ気みたいなのもあってさすが皆が虜になるだけあるなと今更自分もファンになってしまったようだ。
彼の歌は表面上の歌詞の意味とまた違う意味をその奥底に隠し持っている、と受け取られているのだというのもこのドキュメンタリーを観て知った。
人の心を捉え、魂に響く歌を歌い、音楽業界や社会の中で蔓延っている彼を利用しようとする人々とも駆け引きできる知恵を持っていて一ところに留まらず絶えず変化していこうとするしたたかな人間でもある。
これで彼を理解しきったつもりになるわけはないが今まで持っていたボブ・ディランというイメージとは違う。飾らずに素だけで生きているような天才歌手なのではなく自分が追いかける理想のために嘘もつくし演技もする変化自在な姿を見た。

ここでも僅かな間に急速に技術があがったボブ・ディランが「悪魔に魂を売った」と説明をしたという話が出てきて面白かった。

有名な『風に吹かれて』の「How many roads must a man walk down
before you call him a man 」という部分が黒人の気持ちを歌った歌だという黒人女性の言葉にも驚いた。「どれだけ歩いたら“人間”になれるのか」という意味として捉えているのだ。これもまた彼の歌がいくつもの意味を持つ、ということなのだろう。

明日はPart2を観る予定である。楽しみだ。

監督:マーティン・スコセッシ 出演:ボブ・ディラン ジョーン・バエズ アレン・ギンズバーグ ウディ・ガスリー
2005年 / アメリカ
posted by フェイユイ at 00:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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