映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年03月25日

『IZO』三池崇史

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この映画の原案である岡田以蔵は実在の人物で、幕末の志士の一人であるから彼を知る機会は様々だろう。
私は司馬遼太郎氏の『人斬り以蔵』を読んだのだが、短編でありながら非常に心に残る作品だった。忘れたくても忘れることができない、と言ったほうが正しいかもしれない。
小説で驚いたのは多分これは作者がこの主人公を愛していない、ということだった。
多くの場合、例え主人公が殺人鬼でもどこかに作者の共感あるいはかっこいいなあだとか実は羨ましいだとか主人公への好意が少しは感じられるものだ。それは容姿でも剣の腕だけでもいいだろう。がこの小説での以蔵は明らかに司馬氏に憎まれているとしか思えない。好意も同情も微塵も感じられないのだった。
こんな哀れな人物がいるのだろうか。小説の中のすべての人に悪鬼、畜生、虫けらのように忌み嫌われるだけでなく彼を描き出す親とも言うべき作者にまで疎まれるとは。小説の中で彼を書き出す文体自体が彼への憎悪、嫌悪、侮蔑に満ちている。彼は誰にも誰一人にも愛されていないのである。
それが信じがたくて何度も読んだ。もう一度読めばどこかに救いがあるのかもしれない気もしたし、怖いもの見たさ、気持ちの悪い虫をそっと覗いてみたくなる心理で読み返したが私自身もこの人物にまったく好きという感情は持てなかった。
彼は容姿としても剣術としても人格としてもその生命自体も悪辣に醜いのだった。と司馬遼太郎の小説からは感じられた。実在の人物なのでその人自身がどうだったのかは知らない。司馬氏の「以蔵」はそうだった。

さて三池崇史監督は以蔵をどう描いたのか、知りたくて観てみた。さすがに人斬りの異名を取る人物にふさわしい人斬りの連続であり、殆どすべての登場人物から嫌われている。
映画として奥行きを持たせるために「IZO」という殺人鬼はいつの時代にも様々な形で存在していくのだ、という表現もされている。国家、戦争なども巧みに織り交ぜ底辺の人間である以蔵の苦しみと存在の哀れさを描いていく。天皇の御前に居並ぶ面々も観てて面白い。
そして幕末に人を殺し続けた為に怨霊となって彷徨い続ける哀れな魂の以蔵。体が強すぎて毒を飲まされても死ななかったという強靭さも何度刺され撃たれても死なない、ということで表現されている。
罵られ、殺され続けても彼は死なず魂は永久に救われることはない。彼はあるゆる殺人者の代表としての怨霊なのだ。

醜悪というべき以蔵と対照的存在の青年(天皇)を松田龍平が演じていてその端正な顔立ちと真っ白な衣装に整然とした美しさを感じさせる。何という神々しさか。
その青年に最後手を伸ばす以蔵は彼の一吹きで倒れ落ちてしまうのだ。残酷な最期だ。こんな男の手が届くわけがない、という惨めさ。
そして以蔵は再び生れ落ちる。また人斬りとしての人生を歩むためか。
誰からも愛されずそのために苦しみ人を殺めまた救われることのない人生を。
怖ろしい永遠を彼は繰り返すのだろうか。

とはいえさすがに長い映画だったなあ。もう少し短いともっとよかったんだけど。まあこの長さが監督の思いだということだろうか。
カソリックだったら懺悔すれば許されるのかな。

監督:三池崇史 出演:中山一也 桃井かおり 松田龍平 ビートたけし 美木良介 高野八誠
2004年日本


posted by フェイユイ at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『情愛と友情』ブライズヘッド再び ジュリアン・ジャロルド

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BRIDESHEAD REVISITED

最近、続けてもう一度観たいと思ったのは珍しいことだ。それもただベンを観たい為なのだが。
有名な作家の小説が原作であるこの作品の物語自体はよく出来ているとは思うがそれほど自分が大好きな味わいがあるとも言い難い。
平民である主人公が特に美を愛する感受性に富んでいたことが大きく作用して知り合った貴族階級の友人の大邸宅とその家族の持つ荘厳な美しさに惹かれていく様子は共感できる醍醐味が溢れているし、絶対的なカソリック信奉者である母親はグレートマザーとしての存在そのままに子供たちを守りながら飲み込んでしまうその威力ある女性と対峙し愛した二人(セバスチャンとジュリア)を助けられるという自信を持ったチャールズはその心の奥に願わくば美しいブライズヘッドをも手に入れたいという気持ちがあったには違いない。だが結局彼はセバスチャンもジュリアもその手から失うことになってしまう。しかし時は移り再びチャールズは羨望の思いで見つめたブライズヘッドを訪れることになる。という苦く悲しく美しい物語である。
どの人物もありきたりの表層的な表現ではなくその人格は多面的であって善人だとか悪人だとか単純に示されるものではない。怖ろしい母親ですら彼女がどうしてそのような存在なのかはまた彼女自身の歴史を見なければいけないし、聖人である妻から逃れたマーチメイン卿もカソリックに反抗しているようで最期にはそこに戻り、信仰心から離れてしまえない心理を持っているのだ。
しかしそういう宗教的な物語も美を求め二人に愛を感じながらも富や家柄にも欲望を持つ主人公の生き様も理解はするが心から共鳴するようなものは感じない。
そういうものよりもこの映画の魅力はやはり(少なくとも自分にとっては)ベン・ウィショー演じるセバスチャンの造形だった。

昨日も書いたがベンはさほど美形と言われる容貌ではないが、その眼差しや微妙に動く表情が心を捉えてしまう。
長身のマシューの側に立つと小さくて痩せすぎているようにも見えてしまうがここではそれが却って彼の精神の脆さを表していて愛おしく思える。
この作品はチャールズの目で見たセバスチャンとその家族という物語になっていてその手法は文句なく素晴らしいものだと思うがそれでも意地汚くもっとセバスチャンの生き方を見たかったと思ってしまうのだ。彼と母親との葛藤、彼のほうから見たチャールズ、そしてチャールズ以外の男性との関係なども。
セバスチャンがチャールズと別れてからも死んでしまったわけではなく、生活しているという説明があることも彼がどんな風に暮らしているのか覗いてみたい欲求を感じてしまうのだ。
それにしてもベンの描いたセバスチャンは可愛くてしょうがない。ちょっと女性的な仕草をするが、そういう繊細な動作、チャールズを見つめる目などを見ていて飽きない。ワインを飲み煙草を吸う様子、チェスを払いのけ、大雑把に運転をするやり方、ヴェニスで妹にチャールズを奪われたと知った彼の佇みも失恋したチャールズを慰めようと伸ばした手を払いのけられた切なさも見惚れてしまう。
そして母からもチャールズからも逃れて行ったマラケシュの病院で髪を切った姿のセバスチャンの痛々しさ。
カソリックから逃れたようでまるで彼は宗教の人そのものの無心の存在になってしまったかのようだ。
チャールズはここでも自分が行けばセバスチャンを取り戻せるという身勝手さを見せているが彼の魂はもうこの世にはなく、チャールズが呼び戻せることはできないのだ。
チャールズはセバスチャンを見限りジュリアとの愛を求めていくことになるが映画として彼らの映し方の対比は残酷なほどだ。セバスチャンとの愛の眩い或いは悲しい表現と違いジュリアとの愛のあからさまに現実的で突き放した最後の物言いなどは製作者の意図を感じてしまう。
私自身はセバスチャンを愛しているのでこのやり方にさほど文句はない。ジュリアは憐れだし、チャールズは滑稽でもある。思い出の象徴である蝋燭の灯を消すことができなかったようにチャールズはその思い出の中で生きていくのだろう。私はそういうノスタルジーにはあまり共感できないのだ。

とにかくもうベンである。もっと他の映画を観たい、と言っても以前そうやって観てしまったので観れるものは全部観てしまってる。
もう次の映画の予定はあるらしいのだが。
 
監督:ジュリアン・ジャロルド 出演:マシュー・グード ベン・ウィショー ヘイリー・アトウェル 
2008年イギリス
posted by フェイユイ at 00:15| Comment(6) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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