映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年03月28日

『ジプシー・キャラバン』ジャスミン・デラル

TALES OF A GYPSY CARAVAN 2.jpgTALES OF A GYPSY CARAVAN.jpg
WHEN THE ROAD BENDS:TALES OF A GYPSY CARAVAN

このドキュメンタリーを観た多くの人はまずジプシー=「ロマ」の音楽と踊りに圧倒され魅了されてしまうだろうけど、この作品が語りたいことは音楽の美しさ以上にジプシーと呼ばれる「ロマ」の人々の偏見を打ち消したいことなのだと判って今更ながら驚いてしまった私である。

というのはこの作品の中で繰り返し彼らが長い歴史の中で迫害され続けてきたことを訴えているのだがその理由を私は単に有色人種の流浪の民であり、差別と貧困と言葉の違いによるものだと簡単に思っていたからだ。私にとってはジプシーのイメージは流浪のミュージシャンというものだけであった。
彼らの苦悩は欧米での彼らのイメージが「悪人」であり泥棒か麻薬の売人であると決め付けられていることなのだということを考えたこともなかった。ユダヤ人と同じようにナチスによって大虐殺されたのだということも聞いたことはあったのだろうがきちんと頭の中には収まってなかったのである。

内容を観るまではなんとなく『ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』のジプシー版みたいなものを思っていたのだが、彼らの音楽と踊りはそういった迫害の歴史と共にあり、その悲しみの中から生まれたものであることは確かなのだろう。
インドを起源としてヨーロッパ各地アメリカにも広がっていった彼ら「ロマ」たちはその長い歴史の中で言葉も外見も地域によって変化してはいるもののその本質は変わらないのだという。
そういったヨーロッパ各地インド、アメリカに住む様々なロマたちを集めてアメリカコンサートツアーを企画遂行したドキュメンタリーというのが本作だ。
同じロマでも顔も言葉も違うが彼らは同じく音楽に対する情熱を持つことで共鳴していく。
ヒターノのフラメンコ、ルーマニアのニコラエのバイオリン、マケドニアのエスマの歌、インド・マハラジャのハリシュの驚くべき膝で回転して踊る為に小さな人になったかのような宙に浮いているかのような不思議な踊り、など目を見張り心に響く素晴らしさである。
ただ先にも書いたようにこの作品が「ロマの音楽と踊り」を堪能する為だけのものではなく「ロマはこんなに素晴らしい人たちで、こうして観ると本当にいい人たちでしょう」という部分に映像が割かれているのが勿体無くもありまた確かにこの作品で彼らへの偏見による差別がなくなるのならそうであって欲しいと思う。

ヒターノの歌と踊りを直で観たなら他のものはとても観れない、という話を読んだことがある。そう言われると何も知らない者としては実際に観る機会があるわけもなし、想像をかきたててみるしかない。
残念ながらこの作品は目的が彼らの理解というものであったためにその音楽と踊りはあっと思うと終わってしまう。
今更ながらもう少し「ロマ」の音楽と踊りを観て聞いてみたい、と思ったのである。

監督:ジャスミン・デラル 出演:タラフ ドゥ ハイドゥークス ジョニー・デップ エスマ ファンファーラ・チョクルリーア マハラジャ
2006年 / アメリカ

私たちの世代では何と言っても「ジプシー・キングス」が有名だよね。彼らの歌はかっこよかった。

本作中でジョニー・デップが登場。発言している。僅かな時間なので居眠り余所見厳禁。彼目的で観る人も多いのだろうな^^;


ラベル:音楽 歴史
posted by フェイユイ at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち) 』若松孝二

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち).jpg

映画賞を取ったこともあって評価の高かったこの作品は題材に興味があることも手伝って大いに期待した作品だった。
やっと観る事ができたわけだが非常に思いのこもった優れた作品だとは思うもののやや拍子抜けを感じてしまった。

というのは公開当時観れなかった私は代わりに存在も知らなかった高橋伴明監督作品『光の雨』を観たのだが、その時は案外面白く驚いたものだった。その印象が強かったので新しい作品である本作はどんな凄いものかと過大に期待しすぎたのかもしれない。
これを観て逆に『光の雨』の面白さを再確認してしまったようだ。

後に作られた作品の為か本作の描写が『光の雨』と非常に似ているのですでに観てしまった映画をもう一度観ているような気になってしまう。同じ題材を作るのだから仕方ないとは言え演出そのものが似ているような気がする(記憶を探ってそう思ってるだけかもしれないが)
特に森役の山本太郎(『光の雨』)と本作の地曵豪が妙に似ている。のはまだいいとして『光の雨』の永田役の裕木奈江と本作の遠山役の坂井真紀が似ているので最初混乱してしまった。まあそれはどうでもいいが。
二つの作品の大きな違いはまず、『光の雨』が『光の雨」というタイトルであさま山荘事件を映画化すると劇中劇の設定になっていることで、本作のようにそのまま当時を再現しているかのようなドキュメンタリー風作品ではなく当時を知らない若い役者たちが俳優として事件を演じている、といういわば事件の疑似体験をする形になっている。これは非常に面白いことで本作が当時を再現したかのようなしかしやはりフィクションであるに対し、『光の雨』は始めから「演じているだけ」という設定になっているわけである。ところが仕事として演じているだけの革命戦士のはずがいつの間にか現実であるかのような錯覚を覚えてしまう、という面白さがあった。本作では最初に事実だがフィクションもある、と書かれているがそれがどの部分なのかは観ている者にはわからないのだ。例えば本作では酷い暴行場面が頻繁に出てくるものの監督があからさまな描写を避けているのか表現をかなり避けたり隠したりしているし、『光の雨』で遠山に男性が卑猥な言葉を言うことや妊婦に暴行や暴言を与える場面もなくなっている。ぞっとする場面であるだけにそれを削除してしまうことはやはりフィクションになってしまうのではないだろうか。ちなみに「妊婦から赤ん坊を取り出せ」などという残酷な台詞を女性である永田が発言したということが『光の雨』では男性の森が発言し当の永田は首を横に振って否定している。本作ではまったくなくなっている。
3時間という怖ろしい長さを使い、淡々と彼らの総括を描いているようで監督の好き嫌いは作用しているようだ。
次の違いは『光の雨』では登場人物が仮名だったのに本作では本名になっていることだ。これはどういうことなのだろうか。やはり本名、というのは覚悟のいることなのか。『光の雨』の時点では何かしらの遠慮が働いたということなのか。劇中劇、という設定自体が遠慮なのかもしれないのだが。しかしこの遠慮による設定が却って効果的になっているというのも面白いが。
そして第3の違いは『光の雨』では肝腎のあさま山荘の場面は僅かしかなかったのに『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(は道程なのに)あさま山荘の場面までが描かれていることだ。
『光の雨』であさま山荘の部分がなかったのかちょっと驚きだった。いわばメインがないみたいなものだからだ。だが本作を観るとあさま山荘の部分はやや興醒めなのだ。今まで脇役だった坂口(ARATA)が突然ここから主役になりしかもどこか悲劇のヒーロー的な存在になっている。森・永田があくまでも残虐な指導者であったのに比べ彼はどこか「いい人間」であったかのような描き方である。何故なのかはよくわからない。総括でも率先して仲間に暴行を加えていた(少なくともこの映画では)のにいい人間とは言い難いだろうが。

最も「?」な表現だったのはまだ未成年である加藤弟が「勇気がなかったからだ」と叫ぶラストでいきなり答えを言われてしまってありがとう、というのかここまできっちり明言されてもなあと若干引いてしまった。

なんだかだと書いたがそれでも3時間の長丁場を退屈もせず観てしまったのはやはりそれだけ迫力のある映画だったのだ、と思う。
しかし心の中で『ゴールデンボーイ』の優等生のように「そこでどう感じたの?興奮したの?」という好奇心で観ていたのは確かである。
信じがたいほどの緊張感と自分を正当化する欺瞞の数々。一体何のために彼らは死なせ死んでいったのか。自分の行為を正当化し、他人を貶めるのはこんなにも簡単なことなのか。
集団心理というものをどうやったら動かすことができるのか。
やはり興味の尽きない怖ろしくも面白い物語なのだ。

監督:若松孝二 出演:ARATA 坂井真紀 佐野史郎 伴杏里
2007年 / 日本
ラベル:歴史
posted by フェイユイ at 01:37| Comment(0) | TrackBack(2) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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