映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年04月30日

『ヴェロニカ・ゲリン』ジョエル・シュマッカー

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Veronica Guerin

これはもう何の文句もつけようのない優れた実話映画作品ではないだろうか。
アイルランドは麻薬がらみの映画が多いなと思ってはいたもののこういう状況だったとかこういう新聞記者がいたとかいう話はまったく知らなかった。
相変わらずケイト・ブランシェットはめちゃカッコいいがヴェロニカ本人の写真を見てもさほどイメージが違わないのが驚き。そしてケイトが演じたと同じように勇敢に突き進んでいく女性だったんだろう。
女性が活躍する作品だと女性映画というようなカテゴリに入れられてしまいがちだが彼女に関しては全くそういう次元の話ではないと思ってしまう。無論、彼女にも仕事と家庭の板ばさみの悩み「家族を大事に考えなければいけないのでは」というものはあるのだが、それはこの物語の主人公が夫であっても考えるだろう事柄である。女性の目からすればヴェロニカのダンナさんの包容力にまず感心してしまうし、仕事ばかりする妻に拗ねる夫に甘えてみせるヴェロニカにだからこそ夫の愛情と協力があるのだろうなと納得するのであった。
無論小さな坊やはまだお母さんに甘えたい年頃で可哀想だし、本当は母親を失うなどということと引き換えにできるわけはないのだがそれでもきっと母に誇りと尊敬と愛を持っていることは間違いないことだろう。

妖精の国アイルランド・ダブリンで麻薬に溺れ死んでいく子供たち、道路に散乱する注射器で遊ぶ幼児たち、子供たちを食い物にして金持ちになっていく悪い大人たち、そして他の大人はそれらを見て見ぬふりをしていると新聞記者ヴェロニカ・ゲリンは駈けずりまわるのである。
勇敢そのものに見える彼女も自分や子供を襲うと脅されれば震えあがってしまう。だが夫にすがりながら「絶対に私が怯えたと言わないで」と訴える彼女の強い意志と夫の「絶対に怯えたりしていない」と答える優しさと強さに打たれてしまう。

悲しいのは結局は彼女の死によってしか人々が動き出さなかったことだ。それまでも彼女は撃たれ殴られ脅されたが命を捧げなければ人々を動かすに到らなかった。なんという犠牲であることか。
彼女が死ぬ前に何故人々が動き法律が改正しなかったのか。命を投げ出さねば世の中というのは変わっていかないものなんだろうか。それでも自分の死によって国が変わったことを彼女が知ったら頷いてくれるだろうか。

最後に彼女以外にも多くの記者が仕事によって命を失っているのだという言葉がある。
人々に我々に物事を伝えるという仕事は命を犠牲にしてなされていくことなのだ。起きている事件を知ることはそれほど大切なことなのだ。
役者にも製作者にもこの作品を作り伝えようという情熱がこもっている訴えのような映画であった。

路上で窓越しにTVのサッカーを見てる酔っ払いみたいな青年役でコリン・ファレルが登場。ヴェロニカと他愛ない話をするだけの刺青男なんだけど。

監督:ジョエル・シュマッカー 出演:ケイト・ブランシェット ジェラルド・マクソーレイ シアラン・ハインズ ブレンダ・フリッカー ドン・ウィーチェリー バリー・バーンズ サイモン・オドリスコール
コリン・ファレル
2003年アメリカ
ラベル:犯罪 麻薬
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2009年04月29日

『狼少女』深川栄洋

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深川栄洋監督作品鑑賞3作目。これもまた特に目新しい題材で衝撃を受けるというようなものではないのだが登場人物一人ひとりに細やかな演出がされていて昔懐かしい雰囲気ながら新鮮な感覚なのである。この監督だったらどんな平凡な物語でも面白くなってしまうような気がする。

話題になった作品だったのだが昭和が舞台というのが流行っぽく『狼少女』というのがまたチープだなと二の足を踏んでしまったのだがそんなことはこれもまたまったく関係ないのだった。
変に昭和っぽく見せようとかいうのではなしに子供達の関わりが心に染みてくる。
酷い貧乏のためにいつも汚れている女の子小室ヒデコ、クラスの皆は彼女を穢れたものとして忌み嫌っている。主人公アキラは普通の家庭の子のせいもあってただクラスの雰囲気に流されて生きている。
彼らのクラスに美少女手塚留美子が転入してくる。頭もよく運動神経も優れている勝気な留美子はクラスのガキ大将にも負けていない。仲間はずれのヒデコと友達になろうと頑張るのだった。

ぼんやりしてるけど見世物小屋の「狼少女」の存在を信じ見たくてたまらないアキラ。そんなアキラは転入生留美子に振り回され、なんとなく避けていたヒデコの味方にさせられる。
子供達は(大人だってそうだけど)きちんと自分の気持ちを整理して話すことができない。何が正しいのか、何が必要なのか、そして正しくても必要でも自分の意志だけではどうにもならないこともあるのだ。
何でもできる誰にも負けない留美子も「もう10歳、まだ10歳」であるがゆえにやはり誰かを頼りにしなければならない。
幼い彼女が見世物小屋で「狼少女」になることは彼女の心にどういう重荷であるのか、屈辱だとか悲しさだとかそういう葛藤はこの物語では語られない。留美子の精神は他の子供達とはかけ離れている。彼女の並外れた強さはすでに何かを乗り越えてしまった強さなのだろうか。
決して泣かない様な彼女が友達になったと思ったアキラとヒデコから拒絶され旅立ちを決意する。そこでもまだ涙を見せなかった彼女が追いかけてくる友達を見て「ありがとう」と泣いた時、彼女がまだ子供なのだとお母さんが欲しかったという言葉にも泣けてしまうのだ。

この作品は子供達の物語だが本当のことを言えない「狼少女」であることも周りの流れでつい自分を偽ってしまうこともうまく気持ちを伝えられないことも大人も同じことなのではないだろうか。
アキラが「狼少女はいない」と叫ぶ時、いつもだんまりのヒデコが「留美子ちゃんの所へ行こう」と言った時、ガキ大将が留美子のランドセルを走って持って来た時、心を伝えるためには走って叫ばなければいけないんだと涙が止まらなくなってしまうのだ。
彼らはまだ幼くて別れてしまわなければいけないけど、いつかきっと再会できる。再会することがなかったとしても心の中から友達が消えてしまうことはないだろう。
ヒデコも留美子もアキラもきっと素敵な大人になれるんじゃないかなとなんだかそんなことを考えてしまういい映画だった。

ただ、この映画でいくつかひっかかる部分は確かにあると思う。特にヒデコのお母さん。本当はヒデコの家を描写しない方がよかったのでは、とは思ってしまう。もしくはヒデコの母親が悪そうに描かれていれば疑問もなかったのだがいい人として登場してきたのでヒデコの状況がよくつかめなくなってしまった。新聞配達は仕方ないのかもしれないがあの髪はやリすぎのような気もする。
留美子の実生活の説明がないのもやや怖い。何故彼女があんなにまで身奇麗にしているのか、見世物小屋のオヤジ(田口トモロヲ)との関係も危ぶまれる。
観ていておやっと思わなくもなかったがとにかくラストで全部泣いてしまって流された。

アキラの友達くんは、ほんとに昭和な顔でよかった。

私世代は本当はこういう見世物小屋を見れたのだけど残念なことに私は体験できなかった。実際観れなくてもそういう小屋があったということだけでも知っていたら面白かったのだが。同じ年齢の相方はしっかり見たらしい。悔しい。
変なものを売りつけるオヤジはいた。こういうトランプじゃなかったが、変な石膏板みたいなのから綺麗に動物模様みたいなのを切り取れたらお金をくれるとか、言われて。私もしっかり騙されて買った(泣)

監督:深川栄洋 出演:鈴木達也  大野真緒 増田怜奈 大塚寧々 利重剛
2005年日本
ラベル:昭和 友情
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2009年04月28日

『体育館ベイビー』深川栄洋

体育館ベイビー.jpg

別に昼間「ゲイ映画ベスト」をやったから観たんじゃなくたまたま今日の予定がこれだったのだが^^;
世を賑わせているBLもの、ゲイ映画が大好きなら観てもよさそうなものだが多分今まで自分は観たことがないのだ、と思う(確信は持てない^^;)何故これを観たかといえば無論監督が深川栄洋だったからで。『真木栗ノ穴』でよくある物語をあそこまで面白く見せてくれた監督なら若干軽んじられるBLものをどんな風に見せてくれるのかと期待したのである。
さて他のレビューをチラ見してもそれほど高い評価でもなかったようだし、出演の少年たちも初見の身ではあったが、これは予想した以上に素晴らしい出来だったねえ。

『真木栗ノ穴』もあまり予算があったように見えなかったが本作はもっと厳しい状況だったのではないかと思われる。登場人物もほぼ主演の3人の少年と一人のコーチパパ、病気の少女、学校の女性教師くらい。
映像もかなり渋いもののように思えたが出来うる限りに美しく撮られていたように感じられる。
ゲイ・少年愛とプールというのは定番であるし、出てくる3少年が3人とも可愛いし、一番の美少年であるジュン君を彼と同じ水泳部の村井とジュンの幼馴染の加藤が取り合いをするというなんだか他愛ない話なのだがさすが深川監督の微妙な匙加減が効いていて結構キュンとしながら観とおしたのだった。

3人とも美形だと思うのでそれほど大変ではなかったろうけど、それでもかなりの演出を駆使してより3人が魅力的に見えるように工夫されている。
あまりぺたっとしたアップがなくて光と影を多用に使い分けている。村井君はとんがった横顔の感じがちょいファニーで可愛いし、ジュンが勉強しているとこが蛍光灯で照らされているのがとてもいい感じである。プールの中の二人の撮り方は本当に綺麗でジュンが最初失神してしまいぼんやりと浮かんでしまうところ、それを村井が助けに飛び込む場面、夜のプールに二人がいる場面、薄暗い照明で浮かび上がる少年たちの裸、水に浮かぶ裸の腹が水を弾くところなんかも若々しい美しさが眩しいのだ。
水の外と中で音の響きが違うのも幻想的な雰囲気がある。
ほんの触れ合うほどのキスシーンの他は好きだとか言う台詞だけで特に際どい場面なんかはないのだけど、まだ幼いと言ってもいいような少年たちの恋物語なので自分としてはこれで充分である。
なんだかやたらと気持ちが高ぶっている村井君の思いつめた台詞も加藤君の思いを封じ込めた切ない語りかけも二人の友人に思われている美少年ジュンのまだ目覚めていない様子もどれもいたいけで透明な少年期を描いた美しい作品だと思う。
終わり方もいかにも無茶をやる若者らしく微笑ましくて可愛かった。

ジュンのパパの存在が気になってこういう話だからまさか息子に恋心を抱いているだとか村井に気があるとか心配したがそういうんではなかったようで安堵した^^;マッサージのシーンが一番濃厚に肉体接触があるもんだから。

昨日の夜、ベン・ウィショーの『Baby』のDVDを観てたもんだからプール続きでセクシャルな裸体ばかり見てしまった。
だってこれ『体育館ベイビー』だから水泳とは思わなんだ。
『体育館ベイビー』ってジュンのパパが体育館で教え子をやっちゃってできたのがジュンだからだって。すげえこと考えるなあ。

監督:深川栄洋 出演:中村優一 高橋優太 久保翔 桐谷美玲 桜庭ななみ
2008年日本
ラベル:少年 同性愛
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ゲイ映画ベスト50発表!第1位は

米アウト誌が選ぶパワーゲイ50人。映画界からランクインしたのは


ゲイ映画ベスト50発表!第1位は「ブロークバック・マウンテン」

1. ブロークバック・マウンテン (2005)
2. Beautiful Thing(1996)
3. Shelter (2007)
4. Latter Days (2003)
5. モーリス (1987)
6. Trick (1999)
7. 同級生(1998)
8. Big Eden (2000)
9. ブロークン・ハーツ・クラブ(2000)
10. プリシラ(1994)

11. ロングタイム・コンパニオン(1990)
12. トーチソング・トリロジー(1988)
13. マイ・ビューティフル・ランドレット(1985)
14. Parting Glances (1986)
15. Just a Question of Love (2000)
16. Mysterious Skin (2004)
17. Sommersturm (Summer Storm) (2004)
18. ロッキー・ホラー・ショー(1975)
19. バードケージ(1996)
20. Sordid Lives (2000)

21. ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ(2001)
22. ショートバス(2006)
23. All Over The Guy (2001)
24. Another Gay Movie (2006)
25. 真夜中のパーティー (1970)
26. フィラデルフィア(1993)
27. 3人のエンジェル(1995)
28. Boy Culture (2006)
29. ウェディング・バンケット(1993)
30.C.R.A.Z.Y. (2005)

31. マイ・プライベート・アイダホ(1991)
32. ジェフリー! (1995)
33. The Trip (2002)
34. Edge of Seventeen (1998)
35. 司祭(1994)
36. イン&アウト(1997)
37. Eating Out (2004)
38. ベルベット・ゴールドマイン(1998)
39. エンジェルス・イン・アメリカ(2003)
40. Love! Valour! Compassion! (1997)

41. 人生は上々だ!(1994)
42. Burnt Money (2000)
43. トランスアメリカ(2005)
44. ビクター/ビクトリア(1982)
45. ベント‾堕ちた饗宴‾(1997)
46. Yossi and Jagger (2002)
47. バッド・エデュケーション(2004)
48. ゴッド・アンド・モンスター(1998)
49. メイキング・ラヴ (1982)
50. レント(2005)

ですか。
私は観ていないのが結構多いのだ^^;そしてアメリカ誌なのでアジア系はアン・リー作品以外は皆無というのは寂しい。
私はやっぱり王家衛『ブエノスアイレス』とチェン・カイコー『覇王別姫』を入れたい。
韓国映画『王の男』も。
東洋映画は結構いいのが多いのだけども『藍宇』『盛夏光年(花蓮の夏)』『バンジージャンプする』はどうかな^^;

米誌の中ではやはり1位の『ブロークバックマウンテン』は文句なし、ですね。古風な『モーリス』が5位というのは結構驚き。いい映画はいいということです。
『マイ・ビューティフル・ランドレット』もね。『マイ・プライベート・アイダホ』も好きだし。

はっきりとゲイムービーではないのだけどそういう雰囲気を持つ作品の中にもいいのがたくさんありますしねー。
私自身なにか言い忘れてる気がする^^;

ラベル:同性愛 映画
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2009年04月27日

『ヘンリー ある連続殺人鬼の記録』ジョン・マクノートン

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HENRY:PORTRAIT OF A SERIAL KILLER

90分に満たない短い時間の中で実在のシリアルキラーであるヘンリーをまるでドキュメンタリーでも観るかのような生々しさで撮っている。
何の誤魔化しも言い訳もなく単に殺人鬼を記録した、という突き放した映像である。

ヘンリーと共に務所仲間だったオーティスとその妹ベッキー、3人とも演技とは思えない恐ろしさがある。
特にヘンリー役のマイケル・ルーカーはいかにも強靭そうな肉体でまるで精神というものがないような冷たさにぞっとする。彼にとって殺人は一かけらも躊躇うものではなく、殺された人に対して全く何の同情も後悔もありはしないのだ。
彼の人格は母親の異常な生き方と虐待によって形成されたもののようで女性とセックスに対しては嫌悪感しか抱いていない。だが僅かにベッキーのような彼に対して心を開いてくる女性には恥じらいとも思えるような優しさを見せることもある。それでもヘンリーにとってベッキーとのセックスは可能なものではなかった。彼にとってセックスは愛ではなく憎悪の表現でしかなかったのだろう。
そしてヘンリーはそのベッキーすら殺してしまう。一体何故なのか。彼には愛するということが理解できるものではなかったのかもしれない。

余計な説明も何もない非常にシンプルにヘンリーという連続殺人鬼の一時期を切り取って映しただけ、と言わんばかりの作品だった。
彼が言う「多分愛した」はずのベッキーは小さな鞄に入れられて道端に捨てられてしまう。
喉が渇いたというほどの欲求で次々と殺人を重ねていくヘンリー。彼が言うには3000人、或いは300人ほどの殺人を犯したという。

殺害方法も非常に簡単なもので見せ付けるような残忍な描写があるわけでもない。大げさな演出をしているわけでもない。それなのにただ怖ろしい。
『ノーカントリー』でシガーが純粋な殺人者として登場していたが、本作を観ると(この短さも手伝って)『純粋な殺人者』という意味ではこのヘンリーのほうが怖ろしいのではないだろうか。

監督:ジョン・マクノートン 出演:マイケル・ルーカー トム・トールズ トレーシー・アーノルド
1986年アメリカ
ラベル:犯罪
posted by フェイユイ at 22:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月26日

『モーリス』ジェームズ・アイヴォリー

E.M. Forster.bmp
MAURICE

1900年初頭のイギリス。上流階級の二人の青年の愛と友情と人生を描いた作品で最も優れたものの一つだろう。
多分映画を観たのが先だとは思うが、その後E・M・フォースター原作はもう何度も読み返したものだ。
先日観た『情愛と友情』の原作イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』の複雑さに比べると非常にシンプルすぎるほどの内容である。私はむしろ作者自身の後書きに感じ入ってしまったのだが、同性愛であるのか否か論じられるほどの『ブライヅヘッド』と違い『モーリス』は明確に同性愛を描いたものである。極めてシンプルな筆致も隠し立てのない意志が感じられる。だがこの小説が書き上げられたのが1914年、後書きが1960年、活字になったのがなんと私自身生まれて何年も経つ1971年ということで60年近い年月が経ってしまったわけだ(日本語訳は1988年になる)
さて感銘を受けたフォースターの後書きの中でも「ハッピーエンドにするのは必至だった。そうするのでなければわざわざ書きはしない。作品が許す限り永遠に彼らの愛を存続させようと私は決めていた」という部分には激しく揺さぶられるようであった。小説というものがこのような強い願いを持ちながら書かれるものなのかと初めて感じたのだった。そして作者のこの思いが小説の活字化を60年遅らせてしまったわけだ。
物語の結末が心中や絞首刑だったら受け入れてもらえたのだがフォースターはそれを望まなかったのである。
登場人物の造形も作者の思いを具象化する為に配置されたものである。健康優良な主人公は育ちも精神も真直ぐな人格者であり、彼を同性愛の方向に導いた友人は最初非常に魅力的であり彼を欺いてからは俗物に見えてくる。上流階級の人間である主人公の永遠の伴侶となる青年は労働者階級に属する為、話し方は粗野だが明晰な頭脳と美貌を持つ青年として描かれている。台詞も筋書きも構成も細部に渡って作者の願いがこもっている物語なのである。先にもかいたようにシンプルにわかりすぎ、また美しすぎる感もあるのだがすべては作者の思いがそうさせたのだろう。

前置きが長くなったが、映画『モーリス』は当時あの『アナザーカントリー』に引き続いて美形ゲイ映画として話題になったのだが、正直私は主要人物が3人とも外見的に好みでなかったので(『アナカン』はコリン・ファースがメチャ好きだったし『マイビューティフルランドレット』は二人ともマルな感じで)というしょうがない理由でそれほど夢中にはならなかった。むしろ小説の表現に惹かれるものがあった。
そう思ってはいたのだが、こうして観返してみるととてもデリケートないい映画だと思いなおしてしまった。
ジェームズ・ウィルビーは主人公ホールの実直さをヒュー・グラントはクライブの揺れる心をルパート・グレイブスは愛されるにふさわしい青年アレク・スカダーをそれぞれ非常に魅力的に演じている。
監督アイヴォリーはアメリカカリフォルニアの出ながらこの後もイギリスの格調高い『ハワーズエンド』や『日の名残り』も監督しているわけでなかなか興味深い。
本作で公表することなど身の破滅に等しい同性愛の感情を抱く3人(もしくは4人)の青年の葛藤の物語は今観てもなお見応えのある内容であった。惜しむらくはどうしても頭に入り込んでしまっている原作小説の細部と比べてしまうことで特に孤独に苦しむホールが闇にむかって「来いよ」と呼びスカダーが訪れて彼と初めての関係を持った後の朝の描写が物足りないこと(この映画より『藍宇』での雰囲気に近いものを感じた)同じくロンドンでの二人の逢瀬もまたしかりである。
ただラストシーンは原作のクライブが単純な俗物として揶揄されているようなのに比べ映画では彼が大学時代ホールを愛したことを思い出す場面で結ばれており彼もまた美しい思い出を持つ人物なのだと描いているのが監督の優しさのように思われた。
大好きではあるがやはり悲しげな最後になる『アナザーカントリー』と比較すれば『モーリス』は作者が望んだように明るい未来を感じさせるラストなのである。ホールとアレクは勇敢に他者と戦い続けるだろうし(これは『情愛と友情』での台詞だね)クライブにも未来があるのだ。

監督:ジェームズ・アイヴォリー 出演:ヒュー・グラント ジェームズ・ウィルビー ルパート・グレイブス ベン・キングズレー ヘレナ・ボナム・カーター マーク・タンディ ビリー・ホワイトロー
1987年イギリス
ラベル:同性愛
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2009年04月25日

『BOY A』ジョン・クローリー

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BOY A

この映画は作り方で大事なものを隠している。
重要な部分を最初から見せてしまうのではなく少しずつ小出しにしていくので観る者はどうしても主人公に偏った共感を持ってしまうわけである。
彼はどうやら少年期に重大な犯罪を犯したようだ、と思ったらまた現在に戻って彼が懸命に更生しようとする態度を見せられる。そしてまた彼の少年時代を見せられると確かにぼんやりとして勉強は不真面目のようだが友達思いで優しい子のようだ。その友達はどうも不良らしい。そしてまた現在で少女の危機を救うヒーロー的行動を見せられ、また昔犯した犯罪で悪魔と言われ罵られたことが判り、現在の友人と恋人との関係を見せられ最後辺りでやっと主人公が友達と馬鹿な遊びをしているのを少女に咎められ口汚く言われたことに友人のほうが先に怒り主人公が後に従ってどうやら殺害したことが判るが「残酷な」と言われるその現場は映されないし、言葉でもどうやって殺されたかの説明はない。
ナンだか巧妙に主人公を弁護していくような映画である。

映画は映画なのでフィクションである以上映像で見えていることが真実なのかもしれない。
しかしもし殺された少女の立場に立って映画を作ったなら全く違う内容になっていたかもしれないのだ。
少女が生意気な言い方で人を傷つけたかもしれないが命を奪ってもいいほどの内容には思えない。またこの場面は「本当にあったこと」なのか「主人公の記憶の中のこと」なのか判らない。主人公が勝手に少女が「そう言った」と思っているだけかもしれない。本当はまったく違う言葉だったのかもしれない。映画が現在進行でなく過去を思い出すスタイルつまり主人公が思い出しているのか、神様(つまり作り手)が観客に真実を見せているのかは判らないことなのだ。

映画の中の時間軸をこういう風に扱うのはある作品では幻想的で効果的だが、こういう事実を知りたい作品にはまるで嘘を構築しているような思いに捉われる。しかも最後に主人公が愛したミシェルの登場と台詞は明らかに主人公の幻想である。これによってそれまでの過去の場面も主人公の幻想かもしれない、と言っているようだ。

この作品は犯罪を犯した青年が立派に更生しようとしたのにどこからか秘密がばらされて青年を追い詰めてしまうことへの問題提議をしたかったのだろうか。
そういう犯罪者が(この映画をそのまま素直に受け止めるとして)皆この主人公のように悪気はないのに巻き込まれて犯罪を犯していまった者ばかりなら可哀想かもしれないが、無論彼らの中にはフィリップの方もいる。現場が映されてない以上少女を殺害している最中の主人公たちがどんな心境だったのかは考えも及ばない。主人公は何一つ語っていないのだ。彼はガールフレンドとのセックスが上手くいかなかったことも語られている。もしかしたら殺害と言う行動なくして性的興奮を持てなくなってしまったのかもしれない。寡黙で説明はないのだから何も判らないのだ。

映画の作り方で主人公を庇護し、観る者を惑わせる。

彼のアドヴァイザーである男性の描写も疑問だ。息子を責めているが絶対秘密の重要な問題をパソコン画面に出したままだとか、パスワードは側に書いてあったとか、わざと息子にさせたようなもんじゃないか。それで彼を責めるってのも。そういう親父だからこういう風になったということなのかもしれないが。他の子供を大事にして自分の息子はおざなりというのはよくある話だがこの描写ではまるで「こういう犯罪者にかまけている暇があったら自分の子供を大切にしよう」と言っているようだ。

そして最後、主人公は投身自殺しようとみせて登場人物及び観客すべてに脅しをかけている。しかもここでも巧妙に死んではいない!!
参ったね。この主人公じゃなく作り手はどう思っているのか。女の子はずたずたにさせたんだろ?主人公はどうしてずたずたに切り裂かないのかい?

監督:ジョン・クローリー 出演:アンドリュー・ガーフィールド ピーター・ミュラン ケイティ・ライオンズ ショーン・エヴァンス
2007年イギリス
ラベル:犯罪 少年
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2009年04月24日

『真木栗ノ穴』深川栄洋

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深川栄洋監督、気になっていたがこれが初めての鑑賞である。
なるほど。売れない小説家が妄想の世界とも霊的な世界ともつかない不思議な状況に陥ってしまう、という物語で『牡丹燈籠』のようでもあり江戸川乱歩のようでもあり、もう半ばで筋書きは判ってしまうのだが、そんなことはどうでもよくて奇妙にもしんみりとさせるいい映画だった。

西島秀俊さんは北野武『Doll』でも大変よかったし、この作品でも甘い二枚目なのがとても効いている。クールなようでおかしさを出せる味わいのある人だ。
映画というのは当たり前だけどストーリーだけじゃなくて観ている時に画面から感じる雰囲気こそが大切である(ほんとに当たり前だけど)
汚い古ぼけた安普請のアパートは雨が降ると湿気てじとじとしそうだし、いつも薄暗い。登場人物は皆情けない感じである。台詞がとってつけたようなわざとらしさがあるのもおかしい。
映画自体がどこが現実でどこが妄想なのか、考えながら観るのも面白いが、孤独な人間にとって妄想ほど楽しいものはない。
妄想と現実がごちゃ混ぜになる、という映画は多いがこれは映像によって妄想を現実として観てみたいという妄想から生まれたものだろう。
現実でかなうこともない美しくセクシーな男女を自分の意のままにできるのだから。
妄想が行き過ぎてしまうのは惨めだがそれが西島秀俊ならば綺麗に見えるというものである。
この主人公が不細工だったら相当反感買いそうだ。

覗き、妄想と普通ならおぞましさを感じさせる行為を映像化しながら、主人公の姿は滑稽なものから次第に心の内側を覗き込むような深遠な意味を持つようになってくる。
現れるはずのない中年女の来訪と色香の漂う人妻との交わりを孤独な主人公が思い描く様はどこか文学的な寂しささえ感じさせる。
この染み入るような情感は観てみないことには説明できそうにない。

タイトルの『真木栗ノ穴』って最初主人公の名前だとは気づかず、真っ暗の穴、ってことかと思ったのだが、やはりそういう意味が含まれているのだろうか。

監督:深川栄洋 出演:西島秀俊 粟田麗 木下あゆ美 キムラ緑子 北村有起哉
2007年日本
ラベル:ホラー サイコ
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2009年04月22日

『ブレス』キム・ギドク

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BREATH

変な人だなあキム・ギドクって。いつまでたってもちっとも上手くならないし、ずっと低予算で仕上げているんだろうな。
そしてまた奇妙な物語である。浮気している夫に嫌気がさした妻が死刑囚の男に突然面会に行き始める。彼女の行動は死刑囚の男に恋をしたからではなく、夫へのデモンストレーションなわけで夫は妻の訴えに気づき、やり直そうとする。死刑囚の男は人妻の面接に夢中になってしまう。同じ房にいる彼を慕う囚人はそんな彼の邪魔をするのだが。

今日のニュースで韓国では10年間死刑執行はなされてないが死刑判決が出たと言っていた。
となればチャン・ジン死刑囚という設定自体があり得ないことだったのか。
とにかく死刑囚の面接にいきなり行って会えるということ、部屋を飾り付けて歌を歌うこと、直接個室で二人きりになれること、キスをし抱き合うことなどあり得ない展開である。
それらを許したのが顔を見せない保安課長でキム・ギドク監督その人である。ならばこの物語は「あり得ない話だが、夫に幻滅した妻が死刑囚と恋に落ちたらどうなるのだろう」という監督の妄想だといわんばかりである。人妻と死刑囚は最初は窓越しに、そしてキスする寸前で止められキスをし最後には体を交わす。だがその時、彼女はもう夫とよりを戻している。
彼女は小さい時、5分間だけ死んだ経験があるという。水に溺れ5分間息が止まっていた。
女は死刑囚チャン・ジンの息を止めてしまう。もがき苦しんだチャン・ジンはそれまでの恋する表情とは違い憎しみの目で彼女を見る。
チャン・ジンを慕う若い男の囚人がいる。人妻に狂うチャン・ジンに嫉妬しているかのように思えるが所詮叶わぬ恋だとチャン・ジンを引き止めたかったのだろう。そうすることしかできない彼の思いが悲しい。

この作品、先日観た『ぐるりのこと。』と設定が似ている。10年目の夫婦の間の倦怠感。こちらは妻のほうが犯罪者と関わっていく。ぐるりの話は抜きにして夫婦のみの話に焦点を集めている。だがぶつかり合いの凄まじさは日本映画『ぐるりのこと。』の比ではないな。互いに血を流しあうまでの戦いである。

チャン・チェンがとてもかっこいい。人妻が「あなたって目がきれい」と言うがほんとに透き通るような眼差しである。彼を慕う囚人くんが切なかったな。きっとすでに肉体関係があったんだろうねえ。

監督:キム・ギドク 出演: チャン・チェン チア ハ・ジョンウ カン・イニョン キム・ギドク
2007年韓国
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『闇の子供たち』阪本順治

闇のこどもたち.jpg

映画化するのが非常に難しい内容ながら役者と作り手の真摯な思いがこもった内容だった。
我が子を助ける為の臓器売買を希望する親と児童買春を映像として捉えなければならない。原作ではもっと生々しい描写だったがそれを映像化するのはかなりの苦渋だったのではないだろうか。子供を放り出す場面で明らかに力が抜けているのが見て取れるが当然のためらいだろう。
タイにおける児童の臓器売買と児童買春が絡み合っている事実が浮き彫りにされる。
理想に燃え先走りしてしまうNGOに属する若い女性は経験のなさから軽はずみな行動をとってしまうがその気持ちは真実であることを貫いていく。
臓器売買の秘密を暴こうとする新聞記者の隠された性癖が少年嗜好であるという事実。
児童買春と臓器売買に関わるタイの青年がかつては彼自身もそういう環境であったこと。
登場する人物の裏表を描き、タイの貧しい子供達の逃げ場のない運命を描いていく。
衝撃の内容に憤っても様々な事柄によって成り立つ状況を簡単に変えてしまうことは難しい。だがそれでも現実を知っていたい。
原作ではもっと児童買春の様子が描かれていて私が一番ショックだったのは一般的には男性の買春に怒りを覚えることが多いものだが、この作品の中では女性も少年を買い、ホルモン剤注射で無理矢理勃起させ性交を強要することだった。無論性器に注射することには激しい痛みがあり、数回の注射を繰り返したことで少年は死に到る。映画ではその場面がありはしたがよく伝わらない描写だったので女性も惨たらしい買春をしているとは受け取りにくかったのではないだろうか。

臓器にしろ性にしろ否応なく子供達の体を売買する仕組みがあることを見せ付けられる。
人格者であるように思えた主人公が実は児童買春をしていたという事実がこの物語をさらに苦いものにしている。

子供たちを運ぶ若い男が車の中で「タイガーマスク」のエンディングテーマをくちずさんでいた。
「ああ、だけどそんな僕でもあの子らは慕ってくれる」って。そりゃないだろうが、孤児のテーマソングなのである。
「強ければそれでいいんだ、ひねくれて星をにらんだ僕なのさ」
「温かいひとのなさけも知らずに育った」んだな、この人も。と思わせる場面だった。

監督:阪本順治 出演:江口洋介 宮崎あおい 妻夫木聡 佐藤浩市 鈴木砂羽 豊原功補 プラパトン・スワンバーン プライマー・ラッチャタ
2008年日本
ラベル:犯罪
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2009年04月21日

『ぐるりのこと。』橋口亮輔

ぐるりのこと。.jpg

ぐるりのこと。気になるタイトルである。
ぐるりのこと、というのは誰にでもあるわけで、皆それぞれのぐるりのことを持っているのだから。
神経質な妻ショウコとのほほんとした夫カナオ。正反対のふたりだが同じなのは上手く言いたいことを相手に伝えきれないこと。でも言いたいことを上手く伝えきれる人っていないのかもしれない。
かつては同じ絵の勉強をしていた二人のようだが今はそれぞれに違った仕事に就いている。仕事場で、家族内で二人のぐるりの人々はいい人もいるんだけどとんでもなく嫌な人もいるわけで。それも誰にでもあること。そして二人だってぐるりの人にとっては嫌な存在かもしれないわけで。
そしてまた二人の一番近い存在であるお互いもやっぱり心が通じ合っているわけでもなく。段々嫌な所が見えてくる。
一番近いだけに我慢するのも一番大変なこと。夫婦ってなんだろう。愛し合うって。一番大切なことってなんだろう。

本当言うとこういう映画って凄く苦手で観たくないのである。もともと橋口監督作品『ハッシュ!』なんかもゲイの映画なのに「日常的でリアルな」と謳われていたのでどうしても観る気がせずやっと最近になって観た自分なのだ。
じゃなんでこれを観たかと言えば無論その『ハッシュ!』がとてもよかったのでずっと拒否していたことを反省し今回は速攻で観るつもりだったのだが思った以上に人気があってなかなか借りれず今になってしまった。

やはり想像したとおりにリアルで日常的でぐさっとくるような内容でしかもとてもいい作品だった。

しかも主人公二人が絵を描くのである。それも天才とかじゃなく片方は絵画の道を諦めて靴の修理をやっていたのに先輩に勧められて法廷のスケッチをする男であり、片方はずっと絵を描かずにいたのに死んでしまいたいともがき苦しんだ後、寺の天井絵を描いてみないかと言われ練習し直している女である。
かつて絵を描いたりすることが好きで(勉強したというほどもない)相方も絵を描いてたりする自分にとっては怖いほどリアルな話だった。
二人の会話はまるで自分らのやり取りのようにさえ聞こえる。
というか、大概の夫婦がこういう会話をやっているんじゃないかと思うのだがどうだろう。
懸命にやろうと思えば思うほど互いにすれ違い憎みでも離れることはできない。
私はショウコでもあり、カナオでもある。神経質に苛立つこともあるしカナオのようにのほほんとしている部分もあるので(だから生きてるのかも)両方の感覚があるし、相方もそういう感じかもしれない。なんだか二人で交代でどちらかを演じているような気もする。

映画の中の二人が互いに不満を持ちながらも当たり障りのない毎日を送っていてその間に不満は膿となって膨れ上がり、たまりにたまって爆発しそうになっている。
とうとうある日妻の方の膿がもうこれ以上溜めておけないほどになってしまう。文句を言い叩き合ってしまう。大げさな叫びあいや殴り合いじゃないのがまた普通っぽくてよいが。それでもやっと胸の中のどろどろを吐き出して涙も鼻水も全部出ちゃってほっとする。

この映画を観てリリー・フランキーを好きになっちゃう女性も多いんじゃないだろうか。私自身もともと好きだったけど惚れ直してしまったし。
かっこよく守ってくれるわけでもないし、決め台詞を言うわけでもないけど、なんだか素敵だった。
しゃべりも凄く自然なんで地の福岡訛りで話してる。自分にとっては日常で聞く訛りで余計に男っぽさを感じてしまった。
木村多江さんはとても綺麗で文句なし。
法廷に登場する記憶に残る犯罪者を演じる面々も見応えあり。特に私が最初は彼が目的で観たかった新井浩文。児童殺傷事件の犯人。怖ろしい台詞。
この映画でどうして主人公の仕事を法廷画家にしたのか、正直言うとまだよく飲み込めていない。
精神が破綻したショウコがカナオの存在で癒されたように彼らもまたカナオのような存在があれば破壊されずにすんだということなのか。

ところでTVで見かける法廷画ってカナオの絵みたいに念入りじゃなくて凄く下手な時もあるんだけど?
ショウコが絵を描くのを観て自分も描きたくなってしまった。あんな風にして天井画を描くなんていいなあ。

それにしてもこれって橋口亮輔監督の鬱体験を元に作られたってことは多江が橋口監督なのだよね。カナオの存在はあったのかな。

監督:橋口亮輔 出演:木村多江 リリー・フランキー 倍賞美津子 柄本明 寺島進 安藤玉恵 寺田農 八嶋智人 斉藤洋介 温水洋一 峯村リエ 山中崇 加瀬亮 光石研 田辺誠一 横山めぐみ 片岡礼子 新井浩文 木村多江
2008年日本
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2009年04月19日

『ペインテッド・レディ 〜肖像画の淑女〜』後編 ジュリアン・ジャロルド

pペインテッドレディ.jpgペインテッドレディ.jpg
PAINTED LADY

なかなか楽しめたものの、前編の高い緊張感からかなり滑り落ちた後編、という感じかなあ。

ジュリアン・ジャロルド監督は『キンキー・ブーツ』にしても『情愛と友情』にしてもどこか煮えきれなくて、物足りなさと説明不足を感じてしまうのだが、本作からしてそういう傾向を感じさせている。
前半はね、これはまあ脚本のせいかもしれないけどとにかく美術ミステリーの雰囲気が濃厚で水準も高いのだが、後編になったらそういう美術の香りがなくなってしまったのが残念だ。後編はアクションを見せようということなのかもしれないが、せっかく前半に作り上げた学術的な楽しみを後半で失ってしまうのでは欲求不満になってしまう。
吊り下げられたセバスチャンが矢を射られてここでも「聖セバスチャン」の逸話となるのだがセバスチャンという名前だとこう射られていてはたまったものではないなあ。
ミステリーの元凶が同性愛関係にあった若き頃のチャールズとタッシだったということで物語がヘレン・ミレンと同性愛父子の二つに分かれていてそれがうまくかみ合っているのか、別にこれだとセバスチャンを主人公にして彼はゲイであることを父親に黙っていたが実は・・・というだけの話にしたほうがすっきりいくような気がする。
だってこれだとセバスチャンってぼーっとマギーが解決してくれるのを待ってるだけでどうもカッコ悪い。しかたないよね、ヘレン・ミレンを主役にして、という企画だったんだろうから。そこに同性愛絡みのミステリーを思い切り注ぎ込んでしまってるんだから。
セバスチャンが主人公だったらあそこで殺されたりせず、最後、父の恋人だった男性と対決することになるわけでこりゃなかなか怖い見せ場ではないか。セバスチャンもタッシに恋したかもしれないしね。ちょっと怖い展開だ。絶対そっちがよかったんじゃない?ヘレン・ミレンを脇役にするわけにはいかないだろうけど。
このドラマですごくよかったのはマギーの妹夫妻。ちょっと抜け加減のオリバーと生真面目なスージーは二人ともいい感じだった。しつこいけどこの二人が探偵でもよかったような(ヘレン・ミレンの立場ないな)

とても興味を持たせるけど、何か釈然としない、というのがジャロルド監督の特色なのかもしれない。
それにしてもフランコ・ネロは男らしくてかっこいい。やっぱりそういう系の設定だったのだと納得。『ケレル』の時もぶつぶつ言ってるだけだし、これでも話をするだけだけど、素敵ですわ。

監督:ジュリアン・ジャロルド 出演:ヘレン・ミレン イアン・グレン フランコ・ネロ マイケル・マロニー イアン・カスバートソン
1997年イギリス

追記:というわけでジュリアン・ジャロルド監督作品を3本鑑賞したことになった。3本とも表現は違えど同性愛を描いたものである。
いまだに同性愛をおおっぴらに題材にすることは難しい中でここまで大胆に正面きって表現してくれるのは嬉しいことなのだが、内容としてはやはり(というべきなのか)いまいち腰が引けてるというのか消極的に思えてしまうのだよね。
3本とも監督が脚本を書いていないので監督だけの責任とは言えないかもしれないがそれでも3本が3本ともどこか逃げている気がしてしまうのだ。それだけ同性愛というテーマが表現しにくいことなのか。単に監督の主義なのか。
『キンキーブーツ』でも不満だったのは主人公の男性とドラァグクイーンである男性とが親密な関係にならなかったことで主人公役のエドガートンが「ローラとキスしてもよかったんだけど」と言ってたのにそういう場面を作らなかったのは妙に肩すかしだった。そう言えばフェデリ子さんからも「マシューがベンともっと深い関係になってもよかったんだけど、と言っていた」と教えてもらったのだが俳優たちが大いにその気なのに監督が怖気づくというのも残念なものである。
それと3本とも男達の間に女性が入り込んでくることでゲイ関係が壊れてしまう、という展開になっているのはもやもやしてくる。
特に『情愛と友情』はセバスチャンとチャールズの間にジュリアが入ってきて二人が別れてしまうように思えるが、原作では(まだよく読みこなしてないので違うかもしれないが)チャールズとジュリアが深い関係になるのはもう少し後であり、セバスチャンがチャールズから離れるのはチャールズがジュリアというよりブライヅヘッドの家族特に母親マーチメーン夫人と深い関係になったからのように思える。セバスチャンが酷いアル中になってしまうのも宗教的な苦悩(多分自分がカソリックで禁じられた同性愛者であることに対しての苦悩)なのであってジュリアの存在のせいではないと思うのだが、映画ではジュリアが元凶のように見えてしまう。描き方が原作と映画で違うのは仕方ないとしても「女が原因で別れた」という描き方は陳腐な気がしてしまうのだ。
『ペインテッドレディ』でも父チャールズが恋人の男性から女性に心を移したことがすべてのミステリーの元凶であるわけで、息子セバスチャンにしても男性と性的関係を持つというだけの設定なので伴侶としての男性の恋人は存在しないのが寂しい。
とても興味を惹く題材を映像化するのに、どこか不満が残る作品になってしまうのはせっかくの題材から逃げてしまっているせいではないのだろうか。
男同士が別れた原因が女のせい、というのはこれ以上はいただけない。
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2009年04月18日

『ペインテッド・レディ 〜肖像画の淑女〜』前編 ジュリアン・ジャロルド

PaintedLadyDVD_.jpg
PAINTED LADY 

例によって作品の解説をよく読まずヘレン・ミレンが主役なのと名画強盗事件というので面白そうだと(そういうの好き)何気なく観ていたら冒頭のクレジットで監督がジュリアン・ジャロルドと出たのでびっくり。ジャロルド監督1997年TVドラマ作品だったのじゃ。

しかも絶対関係ないと思うが突端に殺されてしまう老人がチャールズ卿で彼の息子がセバスチャン(!)なのである。ちょい怪しい雰囲気の金髪の美男子で確かにセバスチャンの名にふさわしい^^;その上アル中ならぬヤク中だというじゃないか^^;おまけに怪しいなと思っていたらセバスチャンほんとにゲイでして前半の終わり頃に夜のカフェで黒髪の可愛い青年を引っ掛けてヤバいことになる、という展開あり(どこに注目してんだか)絵画ミステリードラマなのに(そういえばあっちのチャールズは画家だったしな^^;)セバスチャンという名前が呼ばれる度にどきりとしてしまう馬鹿な自分であった。

とにかくそういう自分だけの萌え話は置いといて、非常に面白いドラマなのだ。
ヘレン・ミレンはこのドラマの役どころよりはるかに年上とお見受けするがそれでもやはり魅力的で素晴らしい。元、人気歌手でドラッグにも溺れた経験がある男好きのする奔放な女性という設定である。今はもうすっかり人気はなくなったがアイルランドの田舎で音楽作りをしながら気ままに暮らしているというマギー。しっかり若い男もいるようだ。
ある晩、友人の父親で自分も父のように慕っていたチャールズ卿が撃たれて死んでしまう。彼の家からは絵画が一枚盗まれており、ずっとしまいこんでいたはずの絵が飾られていて保険がかけられていたという。
チャールズ卿の息子セバスチャンはドラッグ中毒で6万ポンドという借金を負っていた。
強盗事件はセバスチャンの企みなのか、息子の借金を返す為の父親の命を懸けた計画だったのか。
チャールズとセバスチャン両方に恩義を感じているマギーはのんびりした生活を捨て一肌脱ぐ為に立ち上がった。

ここで彼女が頼りにするのがロンドンで美術商として働いている妹。いくらなんでも都合よく妹が画商っていうのはなんだけど話が早いからどうでもいいや。そして普段はぼやいてばかりという妹のダンナがマギーの「美術商になりすまして盗まれた名画を取り戻す」という計画に普段の自分を忘れて乗っかりすっかり熱くなってしまう。妹スージーは奔放な姉の出現でダンナが豹変したことにややむっとしてるわけなんだが。
つーわけで売れない歌手からロシアのクランジスカ伯爵夫人に変身したマギーは美術の知識もないままにニューヨークの絵画オークションへと乗り込むのだ。

妹スージーの家で入浴するマギーがいるとは知らずスージーの亭主オリバーが入り込む場面が有名なダヴィッドの『マラーの死』のパロディになっているのがおかしい。しかも角度が違うのにさー。
スージーが得意とする絵画と盗まれた絵画が同じものだというのも随分強引だがそれがカラヴァッジオだというのもははーんジャロルド監督の好みでの選択ですな。持ち込んだ素描の絵もゲイだしなあ。
しかしカラヴァッジオ派の女性画家アルテミジア・ジェンティレスキが描いたという『ホロフェルネスの首を切るユーディト』がこのドラマで盗まれる絵画となっているのは何か意味があるのだろうか。ドラマ中でスージーが「この絵は男性には怖ろしい絵なのでしょうか」と話すシーンがあるのだが、ドラマで盗まれる対象となる絵がこれというのは凄まじいような気がする。普通はほら綺麗な女性の絵だとかさ。女が男の首をかき切っている絵というのがアイテムっていうのも。
あくまでもヘレン・ミレンが主人公で彼女が魅力的に撮られたドラマなのだがあちこちにジャロルド好みが散りばめられていてなんだか男性のヌードがよく出てくる。
それにしたって衝撃なのはそのセバスチャンがゲイであって美青年とのベッドシーンが少しながら出てくることで1997年のTVドラマでこれはよかったんだねえ、とそんなことばかり驚いてるのだった。ヘレンのベッドシーンはさすがにカットされてたし^^;一番の見所はセバスチャンvs黒髪君のナンパシーン&キス&局部でしょ。むしろナンパシーンの方がエロテッィクだったが。

時間的に前半だけを観たのだが明日の後半が待ち遠しい。
このドラマあまり借りられてないようだが美術ファン、ヘレンファン、ジャロルドファン&ゲイ場面を観たい方はなかなか楽しめるのではないだろうか。

美術商に扮したマギーが戦うのがニューヨークのトップの美術商でイタリア系のタッシなのだがこれを演じるのがフランコ・ネロ。フランコ・ネロって『ケレル』にも出てたしやっぱりそういう系なのかな?

監督:ジュリアン・ジャロルド 出演:ヘレン・ミレン イアン・グレン フランコ・ネロ マイケル・マロニー イアン・カスバートソン
1997年イギリス

カラヴァッジオ ユーディト.jpg
カラヴァッジオのユーディト

ユーディト.jpg
ジェンティレスキのユーディト

マラーの死.jpg
ダヴィッド マラーの死
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2009年04月17日

『情愛と友情』『ブライヅヘッドふたたび』そしてベン・ウィショー

BRIDESHEAD REVISITED5.jpgBRIDESHEAD REVISITED6.jpg
BRIDESHEAD REVISITED

またこの映画について、というかベン・ウィショーのセバスチャンについて書いているのだが、何度書いても書き足りないしこれで満足できるわけでもなさそうだ。
少し前から本作『情愛と友情』の原作小説『ブライヅヘッドふたたび』吉田健一訳をちょびちょびと読んでいるのだが自分のいつもの癖で流し読み飛ばし読みである。なので今から書くことが的外れだったり読み落としだったりすることは大いにあるので勘弁していただきたい。
などとしょうもない言い訳を先にして書いていくが、この小説を読んで驚いたのは大まかな筋だとかとても印象的な場面、台詞は使われているものの全体から受ける雰囲気だとか感情、情熱のようなものはまったく違う、ということだった。
原作及び原作に忠実だといわれているかつて作られたドラマのファンの方には本作が「あまりに違いすぎる」ということで不評のようなのだが当たり前だと思う。
はっきり言って原作と映画はまったく違う作品である。
まず最も違うと思ってしまうのはどうしたって映画で鮮やかに表現されている同性愛を表す場面である。
イーヴリン・ウォーの名前は聞いていたが何故こんな映画(つまり同性愛の)の原作を今まで読もうと思わなかったんだろうと疑問に思っていたのだが、なるほど原作小説は「同性愛的」なまでの深い友情を描いたものではあるが映画ではそれがニュアンスではなく明確なものになっている。この映画での二人の表現はカソリックで且つゲイであるセバスチャンとそんな彼に惹かれていくチャールズの物語である。
チャールズは芸術家であり多感な青春期に出会ったセバスチャンの家柄、性格、行動などに強い魅力を感じる。だが彼の場合はそれが同性愛ということではなかったために次第に彼の妹ジュリアに恋をしてしまう。ゲイであるセバスチャンはチャールズこそが自分の伴侶ではないかと期待したのにその願いは崩れ平行してカソリックと母親の重圧に耐え切れなくなっていく、という物語になってしまっている。
原作ではこういう描き方はされていない。
映画で表現されているのはチャールズという相棒を得たセバスチャンの喜びだ。そうしたセバスチャンの心の動きを表情だけで雄弁に語ってくれるのがベン・ウィショーなのだ。
原作と映画はまったく違う、がそれは台詞によるものではなくベン・ウィショーとマシュー・グードが作り出す二人の仕草や眼差しや二人の間の雰囲気から来るものなのだ。
非礼を謝るためにチャールズを招いた昼食の席で彼の魂に触れたセバスチャンは恋をしてしまう。それからの二人の感情の表現は小説では味わえないほど極めてセクシャルなものである。
ベンが演じるセバスチャンはやや女性的なところがあり、チャールズを独り占めしたいという欲求を抱いている。おかしいのは原作では「家族に合わせると君を取られてしまう」という台詞があるのに映画では逆になくなっている。
ブライヅヘッドで二人が過ごした夏のひと時はどちらも素晴らしいものだ。小説でも青春期の青年たちの友情を眩しく感じられる。
「いつまでも夏だといい、いつまでも二人で」そして「Contra Mundum=世間は敵だ」という二人だけの美しい言葉は両方で使われているものであり、この言葉のために映画は作られたのではないかと思えるのだ。
すでに酒びたりであったセバスチャンがこの時まではチャールズの愛情を頼りになんとか正気でいられたのだ。チャールズに寄り添うセバスチャンはその肩を指先で味わっているしチェスで負けた時は甘えるように駒を落としてしまう。夕暮にワイングラスをずらりと並べて味を確かめる二人の映像が美しい。その後の静かなキスを境に二人の友情とセバスチャンの人生は大きく崩れ始める。
夕食の席でブライディが言う「酒は男の絆を深める」という言葉に目配せをする二人。ワインが彼らにどんな愛を表現させたか。
ベンの表情は実に豊かで母親に対してチャールズに対してと心の中がはっきりとわかるようだ。
ベネツィアでベンが父親に寄り添う場面は酷く愛らしい。セバスチャンはチャールズに父親代わりを求めているのかもしれない。
そして前にも謎だったカーラがチャールズに言う「あなたにとっては一時的なことでもセバスチャンにはそうではない」というのは原作にはない台詞だ。この言葉は何を意味するのか物語としてはわからない。ただ原作と違って映画が同性愛を描くためのものだった、とすればこの言葉はそこを指しているのだろう。小説としてはゲイという話ではないのだからこういう台詞は必要ない。映画ではチャールズがジュリアに心を移すことをここでカーラの口を借りて咎めている。
原作どおりマシュー・グードが演じるチャールズが主人公で彼の目からみたセバスチャンそしてブライヅヘッドという物語になっているが監督が表現したいのはあくまでもベンのセバスチャンなのだ。
モロッコにチャールズがセバスチャンを訪ねる箇所を最後に映像は輝きを失ってしまうように思えるのは私がベンに惹かれているだけのせいではないはずだ。
髪を切ってもうこの世の人ではなくなってしまったセバスチャンの悲しげな眼差しが彼らの青春の終わりになってしまったのだ。
(ここでセバスチャンが坊主になっているのは原作でセバスチャンがこの後、「髪が薄くなって」という描写があるのだが薄くなった髪のベンを見せるのが嫌で坊主にしたんじゃないかと思う。優しい気配りだなあ。

前回でも書いていたが、ここまで原作と違うならセバスチャンが主人公の物語にしてくれたらよかったのに、としょうがないことを願ってしまう。セバスチャンはチャールズだけでなくクルトだけでもなくその後も色々な関係を持ったと思うのだが。
想像する楽しみ、ということなのだろうか。

原作「ブライヅヘッドふたたび』:イーヴリン・ウォー 映画監督:ジュリアン・ジャロルド 出演:マシュー・グード, ベン・ウィショー, ヘイリー・アトウェル, エマ・トンプソン, マイケル・ガンボン
2008年イギリス

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2009年04月16日

『耳に残るは君の歌声』サリー・ポッター

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The Man Who Cried

なんとなく始まりどうなるのか判らないように進行し終わらないところで終わるというどこか散漫な印象の物語構成なのだが、この作品においてはこれがいいのだと思う。人生にきちっと起承転結があるわけじゃなし、一人の少女がどんな風に成長してどんな所を目指していくのか何が目的でどこがクライマックスなのか誰にも判らないのだから。

先日から入り込んでいるロマ=ジプシーが出てくるのだがこれが本当にかっこいい。(ここではロマではなくジプシーと言っているからそちらがいいのだろうが)迫害されながらも自由に生きて音楽を愛する民族として描かれているのだ。その音楽と踊りは情熱的で悲しみを含んでいる。深刻とまではなくても静かな重い雰囲気がある。私が今までジプシー=ロマに対して抱いていたイメージそのままである。それが先日『ジプシーキャラバン』と『ガッジョ・ディーロ』で彼らへの迫害と差別はもっと悲惨なものでありまた彼らの生き様と性格はもっと明るくぶっ飛んだものだと知ったわけなのだが。
つまりはこの作品でのジプシーはかっこいいものだったので「あ、みんな(というか一部の芸術家なんかだろうが)やっぱりこんな風に憧れているのだな」と納得もしたのだった。
主人公のフィゲレはロシアに住むユダヤ人村からイギリスへと逃れてくる。父親はそれ以前に働き口を探してアメリカへと渡っており、その後、貧しいユダヤ人村は迫害を受け焼き払われたのだ。
イギリスの裕福な家庭に引き取られ育てられたフィゲレはスージーと名づけられ英語を学ぶ。だが学校では話ができないことと黒髪であることから「ジプシー」と呼ばれ蔑まれる。
そんな折、旅のジプシーが通りかかりフィゲレ=スージーは彼らを見送るのだった。
90分ちょいの短い映画でありくだくだしい説明が省かれているからよく考えて観なければいけないだろう。
ユダヤ人であるスージーは無論ナチスから睨まれることになるわけだが、同じくジプシーたちもナチスの酷い弾圧を受けるのである。
歴史を知ってこの映画を観ることは怖ろしいことである。早く逃げろと言われているのに何故か留まろうとするスージーを見てるとはらはらしていつナチスが飛び込んでくるやらと肝がつぶれてしまいそうだ。そういう私はダンテと同じドイツ側じゃんということもあるがさ。
ロシア人であるローラもまたナチスを見て穏やかではいられないはずだ。
人種と言葉と宗教とが複雑に描かれた作品でもある。スージーもローラも母国語は隠して英語そしてフランス語を話さねばならない。そしてジプシーの言語も物語に加わる。
スージーは幼い頃歌の上手い父から聞いた歌を心に抱いている。そしてその歌声も父から授かったものでその才能が彼女を生かしていく。
物語が歌によってつながり変化しまたつながっていく。たった一人で生きていかなけらばならないスージーは歌によってどこかへと導かれていく。そしてそれはやがて父のいる所へとつながっていくのだ。
ロシア人であるローラ、歌の上手いダンテ、同郷の出だった大家のおばさん、スージーがそう呼ばれたことで気になるジプシーの人々そしてジプシーのチェーザー。愛したり憎んだりはしてもどこかで彼女とつながりがある人々なのだ。そして彼らにも様々な思い、人生があることをこの物語は細やかに描いている。そして彼らの運命もどうなるのか誰も判らないのだ。

本作でもローラ役のケイト・ブランシェットが魅惑的である。男を利用しようとして自分を見失いかけだがその男の冷酷さにさっと身を引いた彼女だが自由の国へと向かう途中でやはり命を失ったということだろうか。スージーを見捨てようとしながらそうしなかったできなかった彼女にほっとする。
そして何と言ってもこの映画の魅力はジプシー・チェイザーを演じたジョニー・デップだろうね。
ここでのジョニーは他のどれよりかっこいいんではないだろうか(ってこの前も書いたような)ジプシーの悲哀を着込んだ黒いほつれ髪のジョニーの眼差しにはまあ皆さんやられてしまうことだろう。
白馬に乗って走り去る彼、スージーの膝を広げていく彼のなんとセクシーで素敵なことか。
その愛を受ける主人公スージー=クリスティーナ・リッチ。ちょっとファニーな顔立ちが異国的で小さな小鳥であるフィゲレにぴったりだった。いつも睨んでいる彼女がやっと父親に会えて泣き出す時、彼女の願いの一つがかなったことを嬉しく思った。でもその成長する間に彼女はまた色々な思いや願いを持つことになる。
彼女がまたこれからも旅をしていくのだ。彼女の歌がその旅をまたつなげていくのではないだろうか。

冒頭スージーが荒波にもまれる場面はそのまま彼女の人生を表している。彼女は幼い時からずっといつ死んでも不思議ではないような波の中を生き抜いてきたのだ。
父親と別れた後、村が焼け出された時、小さな彼女が一人でよちよちと人並みに飲み込まれてイギリスへと渡った時、学校にも養父母の家にも馴染めずに孤立していた時(養父母は悪い人たちではないのに気の毒だった)パリでも身を持ち崩したかもしれないし、ユダヤ人だとナチスに知れた時は最も死に近づいていたかもしれない。そしてアメリカへ渡航中の爆撃。
だが死んだのは(多分)彼女以上に図太く生き抜いてきたローラのほうだった。フィゲレ=スージーはいつも誰かの助けを受けながら生き抜いてきた。不思議な縁がつながっていく人生なのである。

監督:サリー・ポッター 出演:クリスティーナ・リッチ ジョニー・デップ ケイト・ブランシェット ジョン・タトゥーロ ハリー・ディーン・スタントン パブロ・ベロン オレーグ・ヤンコフスキー
2000年 / イギリス/フランス



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2009年04月15日

『ヘヴン』トム・ティクヴァ

HEAVEN.jpgHEAVEN 2.jpg
HEAVEN

『パフューム』を観てティクヴァ監督作品を観ていこうと思い、有名な『ラン・ローラ・ラン』を観て『ウィンター・スリーパー』を観た時点で止まってしまったんだけど(つまりこれがあまり面白くなかった)これを先に観るべきだった。

ケイト・ブランシェットが大好きなせいもあるけどなんとも心惹かれる物語だった。
ティクヴァ監督の描く恋愛は一般常識とは違った形であるようで、ここでも間違いだったとはいえ子供を含む4人の罪なき男女の命を奪ってしまった女と取調べで通う。訳をする若い男の不思議な恋物語である。
始めは男の一方的な一目惚れなのだが、女の方が10歳くらいは年上だろう。彼女が初めての聖体拝領の年齢の年に彼が生まれたというのだから。彼らはそのくらい年齢差があるのだが誕生日は同じだという。そして名前はフィリパとフィリポ。イギリス人とイタリア人なのだが不思議な縁で結ばれているとしか思えない。
フィリポは罪人であるフィリパと出会った時から好きになってしまう。夢に見てシーツを汚してしまうほど(無論、夢精したのだね)
うっかりした間違いでのこととはいえ4人の人殺しである彼女を救い出すとフィリポは決意する。
小柄で一見優しげな風貌の彼だが行動にはまったくのためらいもない。フィリパはそんな助けに最初戸惑いながらも共に逃亡する。
共に坊主頭にして粗末な身なりで逃げていく二人の旅はまるで殉教の旅路のようでもある。
やがて追っ手である憲兵隊が彼らを追い詰める。最後かと思った瞬間、二人は憲兵のヘリコプターに乗って空高く「天国=Heven」へと舞い上がったのだった。

人々を助けようとした行動が罪なき人を殺めることになるフィリパ。そんな彼女に恋しフィリパの正義を信じて救おうとするフィリポ。
外から観る者にはとんでもない行動としか思えない。フィリポの揺るぎなき愛と決意は一体なんなのだろうか。
フィリポの弟くんの愛らしさと賢さ勇敢さ。お父さんもいい人だし。深い絆があって。そんな風な家族なのだな。

ケイト・ブランシェットって見惚れてしまう。かっこいいんだよなあ。ぽっ。
監督:トム・ティクヴァ 出演:ケイト・ブランシェット ジョバンニ・リビジ レモ・ジローネ ステファニア・ロッカ アレッサンドロ・スペルドゥーティ
2002年ドイツ/アメリカ/イギリス/フランス
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2009年04月14日

『My Brother Tom』 Dom Rotheroe ベン・ウィショー

My Brother Tom.jpgmybrothertom3.jpgMy Brother Tom 3.jpg
My Brother Tom

amazon.u.k.で購入(フェデリ子さん、多謝!!)
ドイツ語字幕だから英語音声のみでの鑑賞。無論眺めているだけに過ぎない。
とはいえ普通の男女高校生の出来事を描いたものだからある程度、話を掴むことはできる。
この時のベンはかなり若いにも関わらずあまり今とイメージ的には変わっていない。というより若い上にこの不気味さはかなり来ていると言えよう。且つ物凄く痩せている。どうしてこんなに痩せているんだろうかと思うくらい痩せている。

主人公の少女ジェシカがとても綺麗で魅力的であった。ジェシカはその愛らしさの為に隣人で自分の学校の教師でもある男に性的な行為をされてしまう。どうしようもない苛立ちを抱え苦しむジェシカ。
ジェシカは森の中で同じ年くらいの少年たちに酷い虐めを受けている少年トムと出会う。トムは突然木から飛び降りたり池に飛び込んだりミミズを食べたり変な言葉を言ったり奇怪な言動をする少年である。
始めは驚いたジェシカだがやがてトムと仲良くなり二人は互いを兄弟だと認めあうのだった。
ジェシカのほうが主人公なので突然出現したトムは不思議な存在として描かれる。トムを演じているベン・ウィショーはもうすっかり奇妙な少年になりきっている。
いきなり倒れこんだり、ジェシカをつけ回したり不気味なのではあるが、眠っているジェシカの服の乱れを直してあげたり、彼女の顔に落ちそうになった鳩の糞を手で受け止めたりと優しい少年でもあるのだ。
そんなミステリアスでおかしな様子のトムが実は父親から性的虐待を受けているのをジェシカは見てしまう。
体についていた傷、いつも森の中の池で裸になって水を浴びているトムにはそんな秘密があったのだ。
同じように大人から性的虐待を受けていたジェシカとトムが裸になって狭い隠れ家に潜んでいる様子はとても不思議でロマンチックな光景である。ジェシカの裸はさすがにそう露骨には見えないがベンはすっかり全裸になっているようで僅かだが前後から性器も見えてしまうのである。
可愛らしい少女と裸でいてもいきなり押し倒すようなことなくて自分の頭に棘のある蔓を巻きつけて血を出したりそっと相手の体に触れたり匂いを嗅いだりするのが『パフューム』の前段階みたいで不思議だ。
父親に性的行為を強制されようとして苦しげになるベンの表情なんかも後の作品で見られるベンの魅力ある苦悶の表現で観る者の危ない欲情をそそらせる。

これもまた日本語字幕版DVDを是非出して欲しいものだ。
と、願う作品のなんと多いことか。
どうでもいいのは山のように作られ売られているというのに。

監督: Dom Rotheroe
posted by フェイユイ at 23:05| Comment(6) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月13日

『裸のランチ』デビッド・クローネンバーグ

裸のランチ.jpg
NAKED LUNCH

なんとなくこの映画を観てしまったのだが、実を言うと観るまでいまいち気が乗らなくてこれにしなければよかった、などと頭の中でぼやいていたのだった。
ところが観始めてしばらく面白さに入り込んでしまった。
バロウズ、及び麻薬を扱った小説の類に若い時は非常に興味があって読み漁ったりしたものだが、自分自身では体験してもないし、する機会も(幸運なことに)なかったし、よくあることだろうが年齢を重ねる内にすっかりそういう世界を覗き込むことから離れてしまった。
だもんだから、この映画ももうすでに過去の興味にしか過ぎないようでまた現実逃避の男の物語かとヒース・レジャーの『キャンディ』で味わった『麻薬撲滅運動』的な内容を予感してしまったのだった。
とんでもなかった。まだ私はクローネンバーグがどういう創作者なのかよく判ってないようである。
1940〜50年代の雰囲気がある種、不思議な異次元感覚を出すものなのだとも感じられた。主人公ウィリアム・リー=バロウズ役のピーター・ウェラーの尖った顔と青い目と痩躯も文句なしに素晴らしい。
害虫駆除の仕事をする主人公が配給される駆除剤の減りが早いので疑問に思っていると彼の妻が麻薬代わりにそれを注射していた、というのにまず驚き、「フッ素」だの「除虫菊」だのが麻薬代わりになるのだという説明が信じ難くも面白い。
ジャンキーの妻と違い主人公ビルはまっとうなように見えていたのに彼が警察署でゴキブリのお化けを見せられた時、すでに彼の脳が侵されていることを知るのである。
このゴキブリのお化けは次に彼の愛用のタイプライターにも姿を変えるがその背中に(人間の)尻の穴があり、それがぺちゃくちゃとおしゃべりをするといういかにもゲイらしい妄想でありグロテスクながらユーモラスでもある。
後はもうビル=バロウズの薬による彼の内的世界=インターゾーンの面白さをたっぷり味わうことになる。
透き通った青い目のウェラーが神経症的に生真面目であるほど世界の歪みの奇抜さが際立って見えてくる。
唐突に登場する奇妙な生物の醜悪さ。普通の生活をしながらそういう異次元の物体が存在し彼の思考を混乱させる話をする。
私がすぐ連想したのは吾妻ひでおの世界でタイプライターが奇怪な虫であるとか気持ちの悪い異世界人の口の中でタイプを打つとかその頭から得体の知れない液体が滴り落ちているだとか吾妻っぽい。ただし吾妻ひでおには可愛い女の子がエロスとして登場するがバロウズ世界ではゲイの表現になるわけで可愛い女の子よりはゲイの表現、話をする尻の穴、美青年を背後から犯す怪獣、ビルと関わる女性が妻のイメージだけ、もう一人の老女はベンウェイの女装だった、ということで強固なヘテロ人間にはロリータよりも気色の悪いことは確かだろう。そういう意味でこの映画に拒否反応を示す場合もあるだろうし。
妻の頭を撃ち抜くことで「作家として認める」という結末も反感を買いそうだが、すべてがブラックジョークなのだと楽しめばいいのである。
(そう思えるか、思えないかが好みを分けるわけで、この作品は私にはジョークとして愉快だが、別の作家だと嫌だったりするのだからね)
そしてまたここでもインターゾーンがモロッコ風だったりするのだが1900年半ばまでのアフリカ北部が欧米人にとっての逃避場であることが(『情愛と友情(ブライヅヘッドふたたび)』でもそうだったように)わかるのだ。

クローネンバーグの描くバロウズ世界が映像で許される範囲内で上手く表現されている。
ビルがドラッグを使用している映像はなく、映像そのものがすでに薬漬けになっている。ビルがあからさまに同性愛行為を行う場面はなくてもビルの言動でそれを拒絶したり否定することはない。
架空の麻薬による幻覚が彼の生活と精神を蝕んでいく。そこには恐怖と嫌悪感と共におかしさも含まれている。人間の脳が作り出す奇妙な異世界を覗き見る興味を自分はまだ失ってはいないようだ。

監督:デビッド・クローネンバーグ 出演:ピーター・ウェラー ジュディ・デイビス イアン・ホルム ジュリアン・サンズ ロイ・シャイダー
1991年 / イギリス/カナダ
ラベル:異世界 麻薬
posted by フェイユイ at 23:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月12日

『いのちの食べかた』ニコラウス・ゲイハルター

いのちの食べかた.jpg
Unser täglich Brot、 Our Daily Bread

日常私たちが食べている肉や野菜の生産現場を映しとったものであった。
インタビューや説明などは一切入らず、字幕なしの現場の音声のみのドキュメンタリー映画だ。

何と言っても圧巻なのは牛や豚、ニワトリの屠殺、解体作業だ。それらの作業の手際のよさには見入ってしまう。
こうした無駄のなさ、清潔感のある一部始終はドイツ近辺の場所だからなのだろうか、昔からドイツの刃物で解体作業をするのは切れ味が凄くて見事だと聞いてはいたが。
とはいえ、監督自身の別撮りのインタビューで「こういう現場を撮影するのは許可がおりない、と言われていた」のだそうで肉食の多い土地柄ゆえそういった仕事に対する差別意識は全くないのだそうだが、さすがに「動物の命を断つ」という行為にはなにがしかの困惑、同情、拒否感、見たくない、見せたくない、という意識が働くのは人間として当然だろう。
ここで監督が何故このドキュメンタリーを撮ったのか、何か問題(BSEだとか毒物混入だとか)があったためか、と聞かれ「そういうスキャンダルのせいではなくただ日常の食べ物に対して知りたい、と思ったのだ」という答えはなるほど、と思えた。
日本人でも魚をさばくことができなくなり、最初から切り身が売られている、という現状である。ましてや牛豚鶏などを解体できるかと言われたら腰が引けてしまうだろう。
果たしてこの工場で働けるだろうか。ここまでオートメーション化されてたらできるかも、初日はかなり震えそうだが。でも臭いが大変だろうし。あの声が我慢できるか。段々慣れてはいくだろうけど。血液、体液がどばああっと出るしね。やっぱり実際にならなければ判らない。

どうしても動物のほうが記憶に残っているが、ひよこたちなんてぽいぽい放り出されて詰め込まれて、子豚もなにやら痛そうなことをされてて、牛の帝王切開はさすがにびびった。種付け、横取りされて気の毒な。乳牛ほんとにおっぱい大きい。
牛は大きいから迫力あって屠殺も一発電気ショックかな。あっという間にのびて吊り上げられ革はがれて縦に切断。
豚や鶏は裸にされて逆さづりされてると人間のようにも見えておっかない。しかしどの作業もすばやい。きれい。あっという間である。後始末も高水圧で消毒。見事。

人によってはどうしても見れない、ということもあるだろうけど、これはやっぱり見る価値はあるんじゃないかな。
さっきまで鳴いてた牛豚鶏が一瞬で食肉になってしまう。そしてそれを私が食べている。
そういうことなのだな。

監督:ニコラウス・ゲイハルター
ラベル: 動物 人間
posted by フェイユイ at 21:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月11日

『レッドクリフ Part I』ジョン・ウー

レッドクリフ 胡軍.jpgredcliff.jpg
赤壁

いやあ文句なしに楽しめる映画だった。手に汗握る、画面を食いつくようにして観続けた2時間余り、あっという間に過ぎてしまった。

とにかくだらだらした部分がなくて知ってて当たり前的な展開が心地よいし主要登場人物が見知らぬ髭面おっさんじゃなくて知ってる顔ばかりなのも嬉しい限り。何と言っても主人公が劉備ではなく孫権の参謀・周瑜と劉備の参謀・孔明なのがいいねえ。っていうかあの江森備『三国志』を読んだ方ならこの二人が主役というのを聞いた時はよからぬ想像をしてしまったに違いないと思うのだがどうだろう。私なんか二人が眼差しを交わすたびに「あらま、ほんとにそういう気持ちがあるのかしらん」と熱い思いがこみ上げてきてどきどきしたのだった(そういう気持ちで食いついていたのね)
しかも金城武はいつもハンサムであるのだが、この作品ではその美しさにさらに磨きがかかているようでしかも他と違う一人だけ真っ白な衣装を身にまとって綺麗だったらありゃしないのだ。
常に冷静で微笑を絶やさない美顔は、彼よりは硬派な美丈夫である周瑜と素晴らしい一対ではないか。指揮棒を置いて戦いの中に身を躍らせ、敵を倒したのは自分が頭だけではなく勇気と武力も併せ持つと孔明に見せたかったのではと思ってしまった。
この作品を観ても二人の軍師に深い友情というのか敬愛の念で結びついていたので自分としてはこれ以上ないほど嬉しくむずむずする感覚を抑えられないのだった(こういうことばかり言ってていいのか)

冒頭からして胡軍演じる趙雲の大活躍ですっかりはまり込んでしまった。私にとって胡軍はそりゃ『藍宇』はいいに決まってるけど何と言っても『天龍八部』の喬峯なのでこういう武将はまさにぴたりである。
劉備・関羽・張飛の三義兄弟は本作ではちょいと脇に追いやられているがさすがに闘将のイメージは崩さない。特に声がでかくて人間離れした強さの張飛が素敵である。
悪将の曹操には張豊毅。『覇王別姫』で蝶衣(レスリー)の思い人になるあの方だが、劉備&孫権側には美形をたくさん揃えておいて魏軍のほうは不細工(失礼)ばかりで構成するというわかりやすさである。
孫権なんてチャン・チェンなんだもん。父と兄の武功に自虐的になる若い王で可愛らしい。その妹に趙薇。気の強いはねっかえりというのが合っている。
この映画の大きな話題の一つがトニー・レオン=周瑜の妻・小喬を演じたリン・チーリンでさすがに素晴らしい美貌だ。但しかなりの長身(175センチくらい?)なので小柄なトニー・レオンと並んでいるのにトニーの方が背が高くなるというのはなあ。やっぱり男性のほうが低いと駄目なのか?(そして今ジェイが苦しんでいる^^;)金城武と並ぶ時も時々同じ背になっている。足元がどうなっているのかばかり気にする私がいけないのか。小喬とのベッドシーンも彼女の足のほうが長く見えてしまわぬよう随分気をつけてトニーを下にしてチーリンを少しずらして足を曲げさせているし^^;
いや、そんな下らぬ詮索などどうでもいい(じゃ言うなよ)なんといってもこの映画は周瑜のものなのだ。ということは劉備側でもないことになるのだよね。
トニーといえば『楽園の瑕』の弱視の剣士がめちゃかっこよかったわけでここでも頭脳だけでない男っぷりを見せ付けてくれる。
多くは周瑜と妻小喬のアツアツぶりを楽しんでいただければよいが、私たち(って何)はやはり周瑜と孔明よねー(きゃっ)

というわけで興奮のうちにPartTはあっという間に終わり心はすでにPartUへ。あー、また待たなきゃ。

監督:ジョン・ウー 出演:トニー・レオン 金城武 チャン・フォンイー チャン・チェン ヴィッキー・チャオ フー・ジュン 中村獅童 リン・チーリン
中国/香港/台湾/日本2008年
posted by フェイユイ at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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