映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年05月30日

『キャット・ピープル』ポール・シュレーダー

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Cat People

当時、ナスターシャ・キンスキーは最も評判の高い美人女優の一人だった。確かに観なおしてみても気品ある美しさにふっくりとした唇のせいか笑うと愛らしい感じで人気があったのは頷ける。しかも胸の薄いスレンダーな体ながらすらりとした体は見とれてしまう。この作品では何度となくヌードも披露しているのだが服を着ている時、ブラジャーをつけてないのか、小さな胸のふくらみがやたらとセクシーだったりもする。オリバーと魚を獲る時短パンをはいているお尻が一番色っぽかったりするのだ。

そのナスターシャがヒロインで彼女の兄役がマルコム・マクダウェルである。
先祖が行った行為の呪いでキャットピープル=豹人間となってしまった兄妹は互い以外の異性とセックスをすれば黒豹となってしまい、人間に戻るためには殺人を犯さなければならない。彼らにとっては兄妹で夫婦となることだけが呪いを防ぐ方法なのだ。夫婦になることを望む兄ポールとそれを拒む妹アイリーナ。
何度も他の女性と交わっては豹になり殺人を繰り返す兄ポール。動物園で知り合った園長のオリバーを愛し始めたアイリーナだが彼とのセックスにはおびえてしまうのだった。

この作品はリメイクで元の話は男性恐怖症の女性が結婚したにも関わらずどうしても夫とのセックスに耐え切れず、自分は猫人間だという物語を信じ込んでしまっている、という筋らしい。どちらにしてもセックスと動物変化による殺人というのが題材なわけで非常に刺激的なはずだが本作はどうも間延びしてかったるくてしょうがない。
ナスターシャの処女らしい清らかな美しさが次第にエロチックに変わっていく様子だとか、マルコムはそのままでも豹に見えてしまうほど獣性を感じさせてくれるのに展開は遅いし、せっかくニューオーリンズという独特な雰囲気を出せるはずの街なのにそれほど特別なものを感じさせてくれないのはどういうことだろう。
プールでの闇の中の豹の唸り声は恐怖を感じさせたし、元の姿に戻してと願うアイリーナをベッドに縛り付ける場面は少しだけエロチックではあったが題材である、近親相姦、殺人、獣姦、食人などという禁忌のエロチシズムは薄められてそこに嫌悪や恐怖を感じるまでには至らないのである。
それは作られた時代のせいもあるのかもしれないがやはり作り手の力量のせいだとしか思えない、残念な惜しい作品だった。

多分観た人はマルコムの異形さを感じさせる顔立ちや演技以上の独特の雰囲気とナスターシャの美貌に見惚れているばかりだろうが。
私はナスターシャといったら『ホテル・ニューハンプシャー』でジョディ・フォスターと共演していて二人が「まるで恋人みたいに仲がいいの」と書かれていてまだその時はジョディがビアンであるなどとはまったく知らなかったが美女二人が同性愛関係だと言わんばかりの報道がとてもうれしかったことを覚えている。本作はそれよりもずっと前の作品になるがナスターシャは髪を短くしていて胸が小さく体は若く引き締まっていてあのきりりとした美貌なのでビアン的なエロチシズムも感じるのだがどうなのだろうか。
本作もそこらももう一つ加味してビアン的な要素もあればよかったのに、と思うがますますそれは無理な話なのだろうな。

この作品を観たのはふぇでり子さんとの会話からだったのだが、確かにベン・ウィショーにやってもらいたい題材である。勿論内容はまったく変えて欲しいが。
この作品でもアメリカの映画監督であるシュレーダー氏が猫人間役にイギリス人であるマルコム・マクダウェルを使ったのは「こういう役はイギリス人が向いてる」という単純な発想だったみたいだがベンもまたぴったりだろう。でもマルコム役ではないような気もする。できるとは思うけど彼のイメージ的にはむしろナスターシャがやったアイリーナのほうだ。と言っても女になれというわけではないよ。男のままで「セックスに恐怖を抱いている未経験男」ということでいいのではないだろうか。
彼を迎えるのはお姉さんでもいいし、この際お兄さんのままでキャットピープル一族初の男同士でやってもらえればもっとうれしい。その場合、園長は男なのか、女なのか。男にしたら野郎ばっかになってしまうな。よいけど。
作ってもらえるかな。監督は誰が?お兄さんは?

監督:ポール・シュレーダー 出演:ナスターシャ・キンスキー ジョン・ハード マルコム・マクダウェル アネット・オトゥール
1981年 / アメリカ
ラベル:エロチシズム
posted by フェイユイ at 23:25| Comment(6) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月29日

『ガンジー』リチャード・アッテンボロー

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GANDHI

最近TVで放送されていたのだが自分は(いつものようにDVD鑑賞していたので観ていなかった。相方が「面白かったよ」と言うので残念になり観てみることにした。

さて何十年ぶりだろう。当時映画館で観たのではないだろうか。その時も感動したが今観なおした方がより衝撃を受けたのではないだろうか。

観た者は誰でもこんな人が本当にいるのだろうか、と思ってしまうのではないだろうか。
無論私はガンジーのことを他で調べたわけではないので、この映画で描かれたガンジーとして感じるしかない。
南アフリカにぽつんとやって来た若きガンジーは弁護士としてはやや頼りない存在だったのかもしれない。だがそこに住む差別されるインド人のために立ち上がった彼にはすでに強い信念がある。
「暴力をふるわれても決して暴力で返さない。しかし絶対に抵抗をすることは止めない」絶対に誇りを失うことなく戦い続けるがその方法は非暴力である、という揺るがない信念をこの時からすでに持っている。
そういう考え方をどこから学んだのだろうと思う。上位カーストの生まれでイギリスで弁護士としての資格を取っていて広い視野と高い知性を持っているからと思っていたら幼い頃寺院でいつも歌っていた歌が彼の考え方の基礎になっているのだという描き方がとても素晴らしかった。
ガンジーの思想であり自由を勝ち取るための戦法は単なる心優しさというだけでなく非常に効果的であるということも驚きである。だけどこのやり方はなんといっても人々を信じる心と忍耐が必要であるし、まま道を外れてしまいその度にガンジー自身が生命をかけて断食することで人々の心に訴える、というのだから生半可な信念では成立しない両刃の戦法なのであり、彼以外にこういう試みをやろうとはしないだろう。
肉を切らせて骨を断つ、とは言うが自分の肉を切らせることができる人などいないだろう。
しかもその苦しみを何度も味わうことを選んだガンジーという人は一体どういう人間だったんだろうか。

悪い人間を描いた作品はどう評価してもいいが、いい人間を描いた作品を批評するのは難しいものだ。
でも彼の考え方が実に合理的で論理だっていて数学的であることは確かだろう。なのに人間はどうしても合理的だけではすまないから厄介なものだ。
彼の言うようにすべての宗教が共存していく、という形はあり得ないのだろうか。
ヒンズーの男が「ムスリムに息子を殺されたから、ムスリムの子供を殺した」とガンジーに言う。ガンジーは「では親を亡くしたムスリムの子供を引き取りムスリムとして育てなさい」と答える。
すべての宗教は同じことを言っているはずなのにと彼は言う。なのに何故争いは絶えないのか。

彼を慕う欧米人が次々と現れる。カリスマ、という言葉はあまりに軽々しく使われ過ぎたようにも思えるが、彼にこそこの名前はふさわしい。
宗教も人種も越えて彼の考え方に動かされた人は数知れないはずだ。
ミーハー的に言えば、彼のスタイルもまた心をつかんでしまう。痩せて小柄な体でひょいと一枚の白い布切れをまとっただけで杖をついて物凄い速足で歩きまわる。後は丸いメガネだけ。
いかにも何物にもとらわれないいでたちでインドの聖人によくいる大げさな髭でもないのが親しみやすい。
また彼がいつも糸を紡いでいるのも印象的な姿である。無論糸紡ぎはどこの国でも女性の仕事だから随分稀有な存在だろう。
糸を紡ぐのは歴史を紡ぐことに重なるのだろう。すぐに糸をちぎってしまった女性カメラマンにガンジーが言う「私のように忍耐強くゆっくりと紡ぐのだ」
そういう姿はもう時代遅れなのだろうか。

監督:リチャード・アッテンボロー 出演:ベン・キングズレー キャンディス・バーゲン ジョン・ギールグッド マーティン・シーン ダニエル・デイ=ルイス エドワード・フォックス ジョン・ギールガッド トレヴァー・ハワード
1982年 / インド/イギリス

たくさんの見知った俳優が出ていた。悪い役のギールグッド氏などもいたがなんだか憧れの目で出ていた人が多かった気がする。
ダニエル・デイ・ルイスが若いガンジーにいちゃもんをつける嫌な役で出ていた。

こういう自分が悪役である映画をイギリスと言う国はよく作るところが凄い、と思ってしまう。他の国ではあまりないのではないかな。
ラベル:歴史
posted by フェイユイ at 22:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月28日

カンヌでのベン&アビー・コーニッシュ2ショット

はーやさんから送っていただいたEvening Standardの表紙のカンヌのベン&アビー・コーニッシュの2ショット写真。
一人で楽しむのはあまりにもったいないのでここにアップさせていただきます。
Ben_EveningStandard.jpg

そしてもう一つ
Ben_GardianArticle_June08.jpg

どちらも素敵だなあ。
カンヌでのベン確かにナチュラルな(笑)普段着〜。近所でのデートみたいな。
もう一つはきりりとかっこいいです。

はーやさん。ありがとうございます!!
posted by フェイユイ at 22:52| Comment(2) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月27日

『チャーリング・クロス街84番地』デヴィッド・ジョーンズ

84_charing_cross_road.jpg
84 CHARING CROSS ROAD

これは本好き特に古本が好きな人間にはたまらなく羨ましいお話ではなかろうか。しかも実話だということだ。

英国文学にのめりこんでいるアメリカ女性が住んでいるニューヨークでは欲しいものが全く手に入らず「アメリカ人は英国文学を読まないの?」などと喚いて憤然と書店を後にする。彼女が欲しいのはコレクターが集めるような高価な初版本などではなく廉価版の古本なのだ。彼女が好きなのはそういう好みの古本を安く手に入れて煙草やコーヒーを飲みながら読みふけることなのである。
彼女の願いを聞き入れたのがロンドン、チャーリングクロス街にある古書店の主人フランク・ドエルであった。彼は遠いアメリカニューヨークに住む女性ヘレーナの注文を細やかにかなえていく。
装丁は味気ないアメリカ風ではなく(と彼女は言う)何とも繊細なイギリスの装丁で金縁、革製などという本好きにはこたえられない味わいがある。また彼女は「書き込みのある本がいい」と言う。先人が残した思いがそこにある本を読みたいのだと。且つ汚れておらず安価であることを望むのである。
時折彼女の求めるものでなかった時はヘレーナはかなりの毒舌で返事を書くのだが古書店のフランクは丁寧に謝罪し再び彼女の求めるものを探すのだった。

後でこの物語が(実話だが)一種のラブストーリーとして紹介されていたと知って驚いた。「ラブ」とは言ってもこの場合はヘレーナにとっては本とそれを提供してくれる優しい店主であってフランクにとっては張り合いのある自分好みの水準を持つ客ということで男性同士ならまあ、そうは言われなかっただろうがたまたま男女だったので「ラブ」ということに結び付けられてしまうのだろうか。
とはいえ、だからと言って二人の関係が「ラブ」でないということではない。フランクの奥さんが「自分にはない文才を持ち主人と共通する話題と趣味を持つあなたに嫉妬もしました」というセリフがちょっとしんみりしてしまう。無論二人は一度も会うことがなかったのだから一般に思う男女の関係として肉体を合わせたのではないのだが、それ以上に強い精神的な繋がりが却って奥さんには自分ではできないだけに悲しく苦しかったのだろう。フランクは実にいい夫・父親のようで妻にもとても優しいが妻に対して贈られる賛辞は「(料理が)美味しいね」という言葉の繰り返しである。奥さんとしては彼がヘレーナに思うような同じ趣味としての賛辞に嫉妬したとしても仕方ないだろう。
そしてまた戦中戦後の時期、肉をろくに食べられないロンドンの彼らにヘレーナはデンマークから肉などの缶詰を小包で送り、また女性たちにはストッキングをプレゼントして驚かせる。またロンドンの彼らはヘレーナに手作りの刺繍をしたテーブルクロスを送る、というやりとり、注文以外の手紙を送りあう。

ヘレーナがイギリスへ旅行するチャンスを失って彼女と会うことができないまま、フランクは亡くなってしまう。
やっとのことでイギリスへ渡ったヘレーナ。自分が20年もの間手紙のやりとりで本を送りプレゼントをしあった今は亡きフランクの古書店を彼女は訪れる。

自分が欲しい本を考え注文する喜び、ちょっとした行き違いがあって(まあ今はメールだが)気を使いながら応答をし、そしてやっと本が届く時の喜び。なんだかもうわくわくしてしまう話である。こんな風に自分が求める本を探し出してくれる古書店があるなら夢中になってしまうだろう。それは本に対する恋なのか。本を探し出してくれるおやじさんへの恋なのか?
それを恋というのか、どうか、とにかく届いた時のこみ上げる感激は恋に近いかもしれないが。
主人のほうも難しい注文をかなえ、相手が喜びの声を上げることに満足するわけである。
「本」という好きでない人にとっては何の面白味もない紙と印刷の塊に魂を感じる「本好き」という人種たち。一度も会うことなく遠い海を越えて互いの魂だけをやりとりしていた、という物語にフランクの奥さんと同じように羨望を感じてしまう。

フランク役のアンソニー・ホプキンス。彼を初めて観たのは『マジック』だったと思うけど忘れられない衝撃だった。
ここではとても実直で地味で控え目な、でもきっと心に情熱を持っている男性を演じていてやはり素晴らしい。
ジュディ・デンチはそれよりさらにいつものコワモテぶりを控え目にしてでもやっぱり心に熱い思いを持っている。出番はとても少ないのにフランクが亡くなってヘレーナに思いを伝える場面ではじんわりさせてしまうのだ。
ヘレーナ役のアン・バンクロフトが懐かしい。女一人で生活していく脚本家であり、無類の本好きの女性ヘレーナはニューヨーク在住だがちっとも飾らず、あまり金持ちでもなくてでも自由に生きている羨ましいような女性だった。

最初はこの映画、ロンドンの街がタイトルだからイギリスの映画だと思ってて確かにニューヨークのシーンよりイギリスの映像のほうが多いのだけどやはりこれはアメリカ人の映画なのだ。
というか外国人が(私も含め)イギリスという国と人に求めるものが描かれていると思う。ホプキンスが演じるフランクと周りの店員たちの人格と佇まいに憧れがこめられている。なので思い切りヘレーナに共鳴して観てしまうのだ。

関係ないが、本作中にヘレ−ナが「甘ったるいキーツは駄目」という場面がある。ベン・ウィショーがキーツを演じるのでちょっと気になった、というだけです(笑)

監督:デヴィッド・ジョーンズ 出演:アン・バンクロフト アンソニー・ホプキンス ジュディ・デンチ ジャン・デ・ベア モーリス・デナム ジーン・デ・ベア
1986年アメリカ
ラベル:友情
posted by フェイユイ at 23:23| Comment(3) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月26日

『ジェイコブス・ラダー』エイドリアン・ライン

Jacobs_ladder.jpg
JACOB'S LADDER

長年使っていたマイパソが半壊し、ついに今日新しいパソコンが届いて快適なDVD鑑賞となるはずだったのだが、DVDを入れるところから混乱し(単に先に入れたディスクを取り出してなかったのを30分近く気付かず)やっと観だしたもののなかなか操作がうまくやれず鑑賞に集中できないという状況だった。今もキーボード操作が慣れず困ったものである。

さて哀れな今夜の作品だが、めちゃくちゃな状況で観たので申し訳なかったがそこそこ楽しめる内容ではあった。昔観ていたらもっと感心したかもしれないが、今の自分の感覚ではそこまで衝撃ということはないかもしれないし、そういった衝撃というのを別にしてとてもこの世界が好きになるとまではいかなかった。確かにグロテスクな表現なのだが例えばリンチだとかクローネンバーグのように作品のテイスト自体が好き、というような感じではない(しかしキーボードの音がうるさいな)
ジェイコブ役のティム・ロビンスは『ショーシャンクの空に』でもそうだけど全然二枚目じゃないんだけどなんだか独特の色っぽさを持っていて妙に惹かれてしまう。メガネ君なのもまたよいかな。
子供の中でも一番可愛いゲイブを愛していて何かと彼がジェイコブの前に現れるのはゲイブが死の国への案内人となるからという場面はとてもいい。
幻覚と現実(と言ってもそれもまた幻覚)が交錯する映像、狂気を示す頭がぶるぶる震えるというやつはフランシス・ベイコンから来たものだろうしリンチが先かどうなのかよくわからないがやはり不気味ではある。

しかしこうい薬物というのは副作用があろうがなかろうが否定しようがどうしようがこれから先はますます使用されていくのだろうな。肉体的な意味でも精神的な意味でも。

落ち着いた状況で観てたらもっと評価できたか、しなかったか、よく判らないが、非常に面白いと思いながらもいまひとつな感じがしたのは何故だろう。女性たちがあんまり魅力的でなかったからかな。

監督:エイドリアン・ライン 出演:ティム・ロビンス ダニー・アイエロ エリザベス・ペーニャ マコーレー・カルキン エリザベス・ペーニャ マット・クレイヴン
1990年 / アメリカ
posted by フェイユイ at 22:48| Comment(2) | TrackBack(0) | ティム・ロビンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ベン・ウィショー『Bright Star』

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Jane Campion makes Bright Star a thing of beauty

第62回カンヌ国際映画祭では受賞なしで残念でしたが、ベン・ウィショー主演作品『ブライトスター』観たいものです!!

Cannes 2009: Jane Campion’s Bright Star
posted by フェイユイ at 00:53| Comment(14) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月25日

田宮二郎『白い巨塔』<1978年版>第3・4話

第2話最後で「これでうまくいくのかー」と喜んだのも束の間(当たり前と言えば当たり前だ。すぐ終わってしまうぞ)思った以上にずるずる泥沼にはまり込んでいく。「よっしゃ、わしがなんとかしたる」と言ってくれた義父とその友人のおっちゃんもなかなか人の心を動かすのは容易ではないのだなあ。手に汗握ってしまうではないか。

東教授がほんとに嫌な教授らしさが滲み出ているのだよねー。第4話で判ったのはこの物語が単に財前という自信家の男の野望というのではなくて、東教授たちは代々教授といういい家柄身分なのだが五郎は田舎の学校教師を両親に持ち、しかも父親を早くに亡くして母の手一つで育てられた身の上だということ。
五郎の母親は彼の幸せの為に一人息子である彼を財前産婦人科の養子婿にして自分は一切彼に会おうとせず田舎に引っ込んでしまったのだ。一見冷酷なような五郎は母親の為になんとしても教授になってやると誓ったのである。
愛人ケイ子は五郎が母親に送金していることを知って「今までは興味本位だったけど、今からは必ずあなたを教授にさせるわ」と決意する。いわば五郎の妻も結局は五郎とは違う身分。だから五郎はケイ子に心を開いているのかと今頃気づいた自分であった^^;

さてそれにしても教授になるというのは厄介なことなのだなあ。実力があっても大事なのは根回しで相手の顔色を伺ったり、作戦を立てたり大変である。
どこの大学出か派閥権力争いなのだ。
五郎も医局長を味方につけたりと反撃をしてるが今のところ東教授の行動のほうが先を行っている。
ところが第4話の最後でとうとう財前五郎が直接東教授に刃を突きつけるような発言をする。東教授が他の大学から次期教授を入れようとしているという噂があると直に問うたのだ。
無論さすがにこの段階では東教授もそうだとは言い難い。「右手である君に相談もなくそういうことはしない」と言ってしまう。
それに対し五郎は「もしそういうことがあったら泣き寝入りはしない」と東教授を睨みつけるのだった。

うわまた怖い「続く」だ。東教授が青くなってしまったような気がするが、きっとまた次の話では東教授が盛り返しているのか。

ところで財前の対比で「人情のある」医者として登場する里美助教授が出てくるが今回の話ですい臓癌の疑いがある患者を何度も検査してあげくに何もはっきりとは告げないまま検査手術をするのだが、これって人情味のあることなのか。ドラマ中でも患者の女性は「何も言わないまま検査検査でこの上腹を開いて検査なんてあんまりだ」と苛立っているが私だって何の理由も言われずに手術って怒ると思う。こういう医者のやり方って結構あるような気がするが昔のドラマだからということもあるのか。どちらか判らないならそれはそうだときちんと説明して欲しいと思う。検査手術で癌摘出しましたって言われても逆に素直に喜べないような。何故説明しないのか。今だったらするのでは、とも思うのだがどうだろう。実際自分が具合が悪くなって病院へ行ってもナンだかよく説明してくれない時がある。こういう医者って困るのだ。

名刺代わりに120万円の絵画(今の値段でも高いぞ)って凄いなあ。当然の金額なのか。

手術シーンがこんなに生々しく撮影されてるとは思わなかった。この映像はナンなんだろう。

出演:田宮二郎 生田悦子 太地喜和子 島田陽子 中村伸郎 山本學 中村伸郎
1978〜1979年 / 日本
posted by フェイユイ at 22:24| Comment(4) | TrackBack(0) | 白い巨塔<1978年版> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第62回カンヌ国際映画祭【優秀脚本賞】 メイ・ファン 『スプリング・フィーバー』(ロウ・イエ監督)

第62回カンヌ国際映画祭

ハネケ監督『ザ・ホワイト・リボン』とても観てみたいですね。

【優秀脚本賞】
メイ・ファン
『スプリング・フィーバー』(ロウ・イエ監督)

【審査員賞】
『フィッシュ・タンク』(英国)
アンドレア・アーノルド監督

『サースト』(韓国・英国)
パク・チャヌク監督

気になってたロウ・イエ監督の『スプリングフィーバー』脚本賞です。おめでとうございます。
パク・チャヌク監督は審査員賞。これもすばらしい。

どちらも早く観たいものです!!

あと、ケン・ローチの『ルッキング・フォー・エリック』が全キリスト協会賞でしたね。凄い賞だ。


ベン・ウィショー主演『ブライト・スター』は残念でした。

アン・リー『テイキング・ウッドストック』、タランティーノ『イングロリアス・バスターズ』もどんな作品になったのでしょうか。気になります。

コンペティション部門
ていうか、観たい作品ばっかです。
ラベル:映画賞
posted by フェイユイ at 14:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月24日

田宮二郎『白い巨塔』<1978年版>第1・2話

白い巨塔.jpg

『白い巨塔』というタイトルは無論知ってるが、最近作られた方もこの田宮二郎版も全く観たことがない(私はTVドラマを以前からあまり観ていないのだ)
観たことがなくても大体のイメージだとか出だしに教授行列の御回診があることは何かで知ってるという有名なドラマである。やはりここは田宮二郎版で観てみたいと思いレンタルしてみた。


例の有名回診シーンから始まり早速田宮二郎演じる時期教授を狙う財前五郎の野望を見せ付けられる。
単刀直入に判りやすいが、やはりTVドラマはナンだか画面が軽いからなあ、少し観て嫌なら止めればいいや、と少々侮りながら観ていたがさすが人々の心を掴んだドラマというのはそんな単純なものではなくどんどん面白くなってとても止められる状態ではなくなった。

今のTVドラマを観たくないのは若い人ばかりが出て年配はほんの脇役ちょい役にしか過ぎないからだが、このドラマはそこら辺からして全然違う。43歳助教授の財前が一番若手ってくらいだから後はドーンと重いおじ様がたばかりである。青池保子『エロイカ』で「このページ重い」っていうのがあったが画面が重い。殆ど年寄りばかりだし海千山千というか凄そうなオヤジばかり。こんなに平均年齢高いドラマもあまりないのではなかろうか。とはいえこんな物語には若造は用なしだ。
女性陣も財前の妻あたりの年齢層なのでそうそう若くはない。

オジサンも多いが女性が多く登場するのも原作者が女性だからだろう。ちょっと驚きだったのは最初に活躍するのが財前の愛人ケイ子(太地喜和子)という女性だということで奥さんのほうはおざなりで愛人のほうが大活躍というのも結構びっくりな設定だし、主人公が最初から奥さんそっちのけで愛人を頼りにしてる、というドラマってあんまりないよなあ、当時もこれって普通だったのか、いや昔のほうが甘かったのかな、と変なところで考えてしまった。
そして浪速大学ということで本当は全部関西弁なのだろうがとりあえず大まかには標準語でオヤジさんだとか関西弁が似合うキャラクタ−は思い切り関西弁、財前も家庭でとかでは関西弁になる、というのも面白かった。特に財前の義父やその友人のおっちゃんなんかは確かに大阪弁でしゃべってもらったほうが生き生きとしてくる。標準語で話すとのではキャラクターがまったく変わってしまう気がする。

財前五郎という助教授は財前産婦人科という開業医の入り婿である。五郎の義父は彼を高く評価していて絶対に彼が浪速大学の次期教授になると信じており、彼が食道癌手術のスペシャリストだということを誇りに思っている。彼が大学教授になることは財前家の格を上げることになると彼への援助を惜しまない。
この財前義父がすんごく面白くて魅力溢れる。自分も愛人がたくさんいるし、婿殿にも浮気を勧める。娘は贅沢させてさえいればかまへん男は浮気してこその甲斐性や、なんて言われたらなるほどそんなもんかなと納得してしまいそうだ。東教授に見放されしょげ返る婿五郎に力強い味方を紹介し、金ならなんぼでも用意しまっせ、なんてかっこいいなあ。男って感じ〜。紹介されたおっちゃんも「まかしとき」なんて感じで威勢がいい。2話の途中まででもうすっかり落ち込んでしまったのにこれでもう大丈夫みたいな感じでうれしくなってしまったぞ。五郎もすっかり元気を取り戻したね。

それにしても今まで開業医が馬鹿にされてる、なんて考えてもみなかった。そうか、大学教授なんていうのから見れば開業医は下になるのかあ、金儲けはどちらができるのか、とかその辺はまた人それぞれなんだろうね。
野望高き財前五郎の反対側にいる存在として里美・内科助教授。出世など考えない医学の道一筋の人である。彼の兄も貧乏開業医として登場し、世の中にはこういうお医者さんもいるのだよ、と見せてくる。
大学で醜い人間関係の中で出世していくのが大変か、金儲けできず貧乏医者として軽く見下されるのが大変か。奥さんのほうを見ても教授夫人はいがいがして嫌な感じだし、貧乏医者の奥さんも苦労しそうだし、世の中難しい。

いやもうとてもちょっとだけ観て止める、なんて無理である。こってりしたおっちゃん達を観る為にもこれはもう止められない。

出演:田宮二郎 生田悦子 太地喜和子 島田陽子 中村伸郎 山本學 中村伸郎
1978〜1979年 / 日本
posted by フェイユイ at 22:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 白い巨塔<1978年版> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月23日

『ムーラン・ルージュ』バズ・ラーマン

Moulin Rouge.bmp
Moulin Rouge

なんだろう。こういうお伽話も作り上げた街の風景も(顔のある月とか)とても好きだしお馬鹿騒ぎのコメディも楽しいのに何故か心の底からは愛せない作品だったのだ。

一つはミュージカルと言ってもダンスより歌のほうに重きが置かれている気がするのだが、それがいかにもなよく知ってる歌を寄せ集めているのがなんとなく借り物ばかりみたいで侘しいのだ。かといってビートルズだけのミュージカル『アクロス・ザ・ユニバース』は愛してるのだが、少しずつっていうのがいけないのか。マドンナとビートルズとエルトン・ジョンっていう選曲がいまいち自分には?だった。
一番気に入ったのは、ムーラン・ルージュ支配人ジドラーと公爵という二人のオジサンが歌って踊るマドンナの『ライク・ア・バージン』
オジサンたちが見詰め合って歌いその周りをイケメンたちが踊ってるっていう風景はちょっとツボだったな。
それ以外はなんだかいいようでいまいちなようではっきり嫌とも言えないがさりとてのめり込み見惚れてしまうというほどでもなく。
正直、クリスチャン役のユアン・マクレガーが一番駄目なの。歌が下手とかそういうんではなくて、これって結局お伽話でアニメーション(よくあるフツウの日本のアニメはは止めてね。特に宮崎とかは。幻滅するから。ヨーロッパ風ならいいが)とか、できるなら人形アニメで背景も凝ってやって欲しいような感じ。クリスチャンは少年であって欲しいし、公爵は怖ろしい悪魔みたいな容貌でサティーンは花の様に愛らしい人であって欲しい。
ま、そういうアニメの世界を人間でやりたかったのかもしれないし、だからこそ価値があるのかもしれないがどうしてもぞっこんになれないの。
とにかくクリスチャンが嫌いなのだ。大体マクレガーの年齢でクリスチャンみたいに自分勝手で愛ばかりを歌ったりサティーンを苦しめに行くとかがどうしてもむかついてしまうのだ。何もわからんような13.4くらいの少年ならいざ知らず馬鹿じゃねえのと言いたくなる。ユアンじゃなかったら、なんだかこう違う人だったらこれでもよかったのかもしれないが。あの人だとこういうがむしゃらさが感じられない。
 
コメディからシリアスになる過程もあまり上手くないし、とにかくユアンのコメディは下手なんじゃない?
ミュージカルコメディの最高は『ロッキーホラーショー』だろうけどあの面白さの半分もないと思うのだよね。
物語的には『王の男』を思い出してしまったんだけど。そうだ、これ、こんな普通の話だったら男同士の話にしたらもっと全然おかしかったのにねえ。

悪くないけど、ぞっこんになれない作品だった。

監督:バズ・ラーマン 出演:ニコール・キッドマン ユアン・マクレガー リチャード・ロクスバーグ ジョン・レグイザモ ジム・ブロードベント
2001年 /オーストラリア/ アメリカ
posted by フェイユイ at 22:47| Comment(9) | TrackBack(0) | オセアニア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月22日

『シカゴ』ロブ・マーシャル

CHICAGO  THE MUSICAL.bmp
CHICAGO  THE MUSICAL

かっこいいミュージカルだ。「殺人者」が主人公という(それも二人とも!)というとんでもなくブラックな題材である。
人々がいつも新しい刺激を求めている『シカゴ』という都会の最高に衝撃的な話題が「人殺しの女」なのだ、という怖ろしい現実を笑い飛ばし、皮肉って華々しいショーとして見せてしまう。
確かに衝撃的であり、こんなに楽しんでいいのかと思いながらもでは現実でも新聞やTVで報道される殺人事件特にそれが女性であった時の騒ぎを思い出せば、恐る恐るもなるほどと頷けてしまう。

キャサリン・ゼタ・ジョーンズの類なき美貌と迫力、こんなにダンスや歌がうまくてかっこいいなんてと改めて見惚れてしまう。
片や最近好きになったレニー・ゼルウィガーだが、彼女の上手さは知ったが、ミュージカルでもその才能が劣ることはないのだとこちらも再度驚き。マドンナかマリリン・モンローかと思わせるダンスナンバーも楽しく腹話術の人形になりすます技術もさすがと思わせる。
リチャード・ギアの歌とダンスはご愛嬌というところだろうが二人のヒロインを目立たせるための色男役として申し分ないのではないだろうか。

ミュージカルの虚構性と楽しさが溢れんばかりの作品なのである。ただしこれは子供向けじゃない、大人として楽しむものなのだ。
ロキシーとヴェルマがずっといがみ合っているのに最後相棒となってしまう。男同士だと結構こういうかっこいい場面(と言ってもダンスじゃなくて喧嘩とかだが)があるものだが、それの女版。かっこいい。

監督:ロブ・マーシャル 出演:レニー・ゼルウィガー キャサリン・ゼタ・ジョーンズ リチャード・ギア クイーン・ラティファ ジョン・C・ライリー ルーシー・リュー
2002年 / アメリカ
posted by フェイユイ at 22:29| Comment(10) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月21日

『ウェールズの山』クリストファー・マンガー

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THE ENGLISHMAN WHO WENT UP A HILL BUT CAME DOWN A MOUNTAIN

90分ちょっとの短めの作品だが話自体は面白昔話ていう感じのコラムくらいの分量だと思うのにそれをこの長さに引き伸ばしてしまい尚且つ結構楽しく観せてしまうのが凄い。

こういう風に山を高くしてしまう、というのは案外世界中あちこちにお伽話とかではあるのではなかろうか。
うっすらとした記憶なんだけど教科書である男の夢に山の女神様みたいなのが出てきて「隣の山より高くなりたいから石を積み上げて欲しい」とか言われてしまいその願いをかなえる、とかいう物語があったような気がする。
ここでは隣の山というのではなくイギリス人の基準で305メートル以下は丘とされてしまうと言われたことに始まる。
ウェールズの村人が誇りにしている山がイギリス人の測量で299メートルと判り「丘」として地図に載ることに対しウェールズ人としての誇りを傷つけられたくないという傍から見たらおかしいようなこだわりと頑固さで村中の人々がふもとから土を運んで盛り上げてしまった、という実話なのが恐れ入る。
戦争中のことで青年男子がいない中、年寄りと子供と女たちで土を運んでいったわけである。作品中皆が口々に言うようにイギリス人に馬鹿にされたくないという意地がそうさせたのだ。82歳の牧師はホントにこれで5.6回往復して死んでしまったのだろうか。彼の場合は神の声も感じていたわけで殉死といえる。牧師は皆が盛り上げた土の中で眠るのである。

さてこのとんでもない企みの言いだしっぺが「好色モーガン」と皆から呼ばれ牧師からは特に睨まれている男で彼は村のあちこちで女性と関係して子供を産ませている酒場兼宿屋の主人でコルム・ミーニーが演じている。お馴染みの顔だ。
測量士の一人がヒュー・グラントでイギリスから来た紳士という役柄でもう一人の依怙地で少々怒りっぽい性格のカラードとは違い、この村に好意的なのである。
ミス・エリザベスと結婚することになったのは実話の一部なのだろうか。いくらなんでも違うと思うが本当だったらこれも凄い。

最後にその当時土を運んだというご老人方が山の上に整列。
昔の人は何でも力を合わせて偉いなあと思っていたら、映画撮影時に計測したらまた山が低くなってしまってて、盛り土の上で眠る牧師の怒りの声が響く。そこで今の村人たちがせっせと土を運ぶ所で終わるということで拍手喝采となるのだろう。
歴史、ウェールズ人のイギリスに対する気持ち、戦争、石炭労働者の過酷さなども織り交ぜられて独特のちょいと湿気のあるユーモアも楽しめる作品だった。

監督:クリストファー・マンガー 出演:コルム・ミーニー ヒュー・グラント タラ・フィッツジェラルド イアン・マクニース イアン・ハート
1995年 / イギリス
ラベル:歴史
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『ククーシュカ ラップランドの妖精』アレクサンドル・ロゴシュキン

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KUKUSHKA/THE CUCKOO

「不思議な」と形容したくなる映画は色々あったが、これはまたとても不思議な作品だった。
名前は聞いたことはあれどラップランドという馴染みのない土地が舞台である。すぐに思いつくのはムーミンが住んでいる場所というくらいだが、確かに彼らが住んでいそうなとても綺麗な風景である。観ているだけでも空気や水が冷たそうに感じられる。

冒頭部分は結構忍耐を強いられる。説明がないまま若いフィンランド兵士が岩場に鎖を杭につながれ置き去りにされる。彼は何とかして鎖を外そうと様々な試みをする。(この彼、マット・デイモンに物凄く似てる)
もう一つのエピソードが始まる中年のロシア兵士が秘密警察に捕まり車で連行される途中味方の誤爆で負傷してしまう。
この部分がかなり長く重苦しいので随分暗い映画なのかと思ってしまうのだが、そこに女性が登場する。
彼女はラップランド人で4年前戦争に行った夫の帰りを待っている。
タイトルどおり妖精がいて当たり前のような美しい自然の中にぽつんと彼女の家があるのだが丸太作りで何とも可愛らしい素朴な家である。高床の小屋もあって童話の世界みたいなのだ。
さて彼女アンニは負傷したロシア兵士を家に連れて帰り介抱する。そこへ杭から鎖を外すことができたがまだその鎖をぶら下げたままのフィンランド兵士がやってくる。

フィンランド兵士ヴェイッコとラップランド人アンニとロシア兵士はまったく言葉が通じない。しかもヴェイッコは裏切り者としてドイツ兵の軍服を着せられていたのでロシア兵は彼をナチスだと誤解して罵るのだった。
美しい大自然の中でたった3人しか生き残っていないような状況にすら思える。しかし時折認識できる単語はあるがまったく言葉が通じないということは本当に滑稽でもあり怖ろしい状態にも陥ってしまう。
アンニと若いヴェイッコは戦争を嫌い仲良くしようと思っているが中年ロシア兵士はアンニには好意を持ってもヴェイッコには敵対心しか抱けず、名前を聞かれても「パショール・ティ(くそくらえ)」としか答えない。ロシア語を聞き取れない二人は彼の名を「ショルティ(クソクラ)」と思い込みずっとそう呼び続ける。
すれ違うばかりでどうも頼りない二人の男に対しアンニは一人でさっさと家事をこなしていく。その力強さには見惚れてしまう。先日観た『コールドマウンテン』のルビーのような感じである。
実際人間に必要なのはどんな状況でも生きる為の食事を準備できる逞しさなのである。
そして傑作なのは4年間夫不在だったアンニが「いきなり二人も男が現れるなんて」と大喜びしていることで、特に若い兵士ヴェイッコのいい男ぶりに見惚れ彼が仕事を手伝おうとすると「触らないで。濡れてきちゃうじゃないの」と怒ったりする。無論言葉は通じてない。
アンニは決して美人じゃないがさすがに女に無縁だった二人の男はアンニに惹かれてしまう。
アンニが求めたのはヴェイッコだったのでロシア兵は嫉妬でおかしくなってしまう。
ある日、飛行機が墜落するのが見え、ヴェイッコとショルティはその場へ走る。それはフィンランドの飛行機でヴェイッコはそこにフィンランドが終戦しロシアと協定を結んだことを知り喜ぶ。だがショルティはいまだに彼をドイツ兵だと罵って飛行機にあった銃で彼を撃ってしまうのだ。

アンニは不思議なことを始める。撃たれて死にそうになっているヴェイッコの魂を死の国から呼び戻すのである。
彼は岩場に立っていて綺麗な少年(少女?)から呼ばれて下へと向かうのである。
この場面はとても不思議で日本人は日本の死後の世界のように感じてしまうのではないだろうか。
また私はル・グィンの『ゲド戦記』の第1話の中でゲドが死の国へ向かう者を戻しに行く場面を思い出した。とはいえル・グィンは『ゲド戦記』にアジア的なものを含めているのだから同じことではないだろうか。薄い太鼓を叩くのも仏教のそれに似たものがある。

ヴェイッコとショルティ(本当はイヴァン)は結局はアンニの元を離れ故郷へと帰る。
アンニはショルティとも関係を持ったのだが不思議にも双子の男の子が生まれそれぞれヴェイッコとショルティと名づけられたのだ。
ヴェイッコはいいがショルティ=クソクラと名づけられた方は気の毒だ。どうせ判んないとはいえ。(しかしクソクラって訳絶妙)

冒頭の重苦しい雰囲気を吹き飛ばしてしまうアンニの登場。日本人から観たら全然判らないことだが言葉の通じない3人が通じないまま生活をしていくおかしさ。通じなくても仲良くしようとするアンニとヴェイッコに比べロシア人ショルティの頑固な敵対心は馬鹿馬鹿しく思える。これは監督がロシア人だからこその設定なのだろうが他を侮蔑し攻撃する人間の浅ましさを描いている。一方素朴なアンニは彼らを時折叱りはするが二人の男が助け合っていたと思いこんでいる。ショルティがヴェイッコを撃ったのを後悔して慌てて彼女の家に連れ戻ったのも彼の優しさだと信じているのだ。
彼女の夫はとうとう戻らなかったのだろうか。
二人の男の子を産み二人の名前をつけて育てたアンニ。
素直に自然に生きることの素晴らしさを感じさせてくれる。

言葉の違う3人は考え方も違う。遠い国で馴染みの薄い場所だけに色んなことが面白く思える。
キノコが大好きなロシア人とキノコを食べるとおかしくなってしまうと信じてるラップランド人。サウナに一緒に入ることで少し仲良くなるフィンランド人とロシア人に対し垢を落とすと病気になると言うラップランド人。
作品中でヴェイッコがスウェーデンの大学に行ったがフィンランド人は馬鹿にされるという台詞がある。スウェーデンの小説マルティン・ベックシリーズの中でラップランド人の悪口を言う場面があり「僕の妻はラップランド人だ」とむっとする人物が出てくる。そういうことくらいしか知らない。
この映画を観たら皆この場所に行ってみたくなるのではないだろうか。誰もいないような静かで美しい自然の国。憧れる。

アンニの本名はククーシュカ=カッコウなのだ。他の鳥の雛を蹴落として自分の雛を育てさせるというカッコウの名を持つアンニ=ククーシュカが他人の子供を育てるという意味が込められているのだ。

監督:アレクサンドル・ロゴシュキン 出演:アンニ=クリスティーナ・ユーソ ヴィッレ・ハーパサロ ヴィクトル・ブィチコフ
2002年 / ロシア
ラベル:戦争 人種 言葉
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2009年05月20日

男同士の激しい濡れ場あり!!【第62回カンヌ国際映画祭】

男同士の激しい濡れ場あり!!【第62回カンヌ国際映画祭】

今になってやっと気づいたロウ・イエ監督『スプリング・フィーバー』
観たいなあ!!
ロウ・イエ監督といえば私は周迅主演『ふたりの人魚』ですがこれはもう特別に好きな映画です。
あんな雰囲気があるのでしょうか。うーん、早く観たい!!!
ラベル:同性愛
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2009年05月19日

『バレエ・カンパニー』ロバート・アルトマン

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THE COMPANY

『バレエ・カンパニー』という素っ気無いタイトルだったからいつものバレエ・ドキュメンタリーだとばかり思っていたらマルコム・マクダウェルが監督として登するストーリー映画だった。とはいえ殆どドキュメンタリーと思えてしまうようなタッチで撮られた作品だ。
ストーリーというほどには筋書きもなく現実に起きていることを撮っていってるかのように見えてくるのが面白い味だ。
とりあえず、ネーヴ・キャンベル演じるライというダンサーが主人公なのだが、彼女だけに焦点を当てているのではない群像劇になっている。

前回のバレエ・ドキュメンタリーの時に書いたが、私は本番以上に練習風景が好きだし、かといって舞台も見たいし、という感じなのでこの作品はそういった要求をかなり満たしてくれるものだった。
ドキュメンタリーではないからそういう欲張りの為の色々な演出であるのだろうか。
悪ガキのイメージのマルコム・マクダウェルがすっかりお爺ちゃんなのだが、あの個性的な鼻と目は健在で厳しくダンサー達を叱り飛ばしているのがなんとなくおかしい。
いつも目立つ黄色のマフラーを巻いて「これは60年代を表しているんだ。技術じゃなく精神を見せてくれ」なんていうのは誰かを真似しているのかな。(ミスターAだからアルトマンかもしれないし、バランシンのミスターBをもじった)
何度も違う要求をしてさすがにダンサーが怒り出してしまうとか、演出家に釘をさすとか、ダンサー達が余興で彼の真似をして大笑いするだとかバレエ団の中ではこんなことが繰り返されているのだろう。

練習風景も興味深かったし、コンテンポラリーのカンパニーなので演目にも惹き付けられる。
嵐の中の野外劇場のバレエはさすがに演出でなければ撮れないものだろう。濡れた舞台で踊るのは怖いので止めたほうがいいけど、確かにこんな嵐の中のバレエを見たら忘れられない。
そして最後の『青い蛇』日本人なら見た事ある(っていうか中国風)蛇踊り。私は長崎で幼稚園児たちが一所懸命蛇踊りするのを見て感動した(あんな小さいのに健気な!上手いけどちょっと胸が痛んだ)けど蛇踊りは楽しい。
巨人の口に食べられてしまうダンサー達。変なイソギンチャクみたいなのとか動きが凄く面白い。ライが踊る頭に風船が浮いているのは特に可愛かった。
彼女が転んでしまう、というラストはちょっとびっくりだったけど確かにダンサーはいつも怪我と隣り合わせ。アキレス腱を切ったり、首を痛めてたりいつ駄目になってしまうか、判らない危険性と戦いながら踊っているのだよね。
ダンサー達もいつもは夜遊びしたり、恋をしたり。そしてカンパニーでは怒られたり、役を降ろされたり。
バレエを愛する気持ちと苦悩の間で踊り続ける。

創作とドキュメンタリーを混ぜたような作品で私はとても好きだった。

監督:ロバート・アルトマン 出演:ネーブ・キャンベル マルコム・マクダウェル ジェームズ・フランコ バーバラ・ロバートソン スージー・キューザック
2003年 / アメリカ
ラベル:バレエ
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2009年05月18日

『ミス・ポター』クリス・ヌーナン

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Miss Potter

昨日に引き続きレニー・ゼルウィガー。どちらも彼女が出演してることは知らずにレンタルしたというとんでもない私だがもうすっかり大ファンなのだ。

私はワリと普通の年齢で結婚したので上手く言えないが、これは働く独身女性が観たら憧れの作品なのではないだろうか。というより既婚者である自分が余計に憧れているのだな。
いい家柄でありながら32歳独身、お見合いは次々と断り母親を苛立たせる娘は父親譲りの絵の才能と共にお話を生み出す力と自然を愛する心を持っている。
何不自由なく暮らせるお嬢様のビアトリクス・ポターが自分が書き溜めた絵を出版社へ売り込みに行くところから始まって(よく判らないのだがこの時代、女性がたった一人で(お付きの老婦人はいるが)出版者へ持ち込むとは度胸もいるのでは。今だってそうだろうけど)その場で弟のおねだりを聞いてやる為というのが動機とはいえとんとん拍子に出版が決まって訪ねてきたその弟編集者がすごくかっこいい上にいい人でミス・ポターの絵を心から気に入って彼女の為に熱心に働いてくれる。
なんだかこちらまでいい気持ちになって嬉しくなってしまうのは元々自分自身ずっと昔からのピーターファンだからだろうか。
私はこのブログで色々書いてるときはどうも極悪な感じだが告白するとこういう可愛いものに物凄く弱い。ピーターがお母さんに怒られている絵なんか見るといじらしくてたまらない。この映画でもところどころアニメーションになってピーターが動き出すのなんてニヤニヤして観てしまう。TVで放送されるピーターのアニメもポッターの絵を損なわず描かれていて素晴らしいし、彼女の原画はやっぱり可愛らしい。彼女の絵の中の動物達が動き出す、というのは頷ける演出だと思う。
とにかくビアトリクスとノーマンが互いの初めての仕事に熱中し次第に惹かれていく過程は本当に羨ましい。恋愛がこんなに互いのことを思い互いをよく知ることでより深まっていく、というのは素敵なことだと思う。
そしてノーマンのプロポーズ。こんなにはっきりと早く申し込むのだと思ってもなかったので驚き、両親の反対でやっぱりと思い、「3ヶ月離れて暮らしそれでもまだ思い合っていたら結婚してもいい」というビアトリスの両親の言葉にまさかノーマンが裏切ったりするのだろうか、とびくついてしまったのだった。
まさか、彼が突然に死んでしまうなんて。
まったく思いもしない展開だったのでビアトリクスと同じように(と言ってはいけないか)衝撃だった。映画でこんなにあっと思ってしまうなんて。親の出した条件なんか聞かずにさっさと結婚すればよかったとビアトリクスは何度も思ったのではないだろうか。あの時、離れなければ彼は死ななかったかも。死んだとしてもその日々を共に暮らせたのに。
彼の死後、ビアトリクスが家を出る時、父親に何も言わないがそういう気持ちがあったのではないだろうか。親の言うとおりだけ行動していたら後悔するだけだ。

イギリス田舎の丘陵地帯は何度見ても美しい。本が売れて印税でたくさんの農地と可愛い家を買ってそこに住んで絵を描く。
そして田舎に住む彼女に何かと世話をするヒーリス氏。彼もまたいい人で8年後に結婚。
もう夢のような話なんだけどビアトリクスの真直ぐさを見てると彼女だったらそうなるのも不思議ではないような気がする。

ピーター・ラビットの世界そのままの美しい作品だった。

ここでもレニー・ゼルウィガーの演じる女性像に惹かれてしまう。飾らないまっさらな感じがとても羨ましい。それでもやはり自分が愛するお話と描いた動物への愛着とそれらを生み出す誇りを感じさせる。ちょっと癖のある話し方が芸術家らしく思えた。
彼女を深く愛したノーマンを演じたユアン・マクレガー。彼の作品をそれほど観たわけではないがこんなに愛すべき優しい紳士という彼は珍しいのではないだろうか。髭のせいでより柔らかなイメージになっているのかな。

ヒーリスの少年期を演じたジャスティン・マクドナルドが可愛かった。

監督:クリス・ヌーナン 出演:レニー・ゼルウィガー ユアン・マクレガー エミリー・ワトソン ビル・パターソン バーバラ・フリン
2006年イギリス/アメリカ
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2009年05月17日

『コールド マウンテン』アンソニー・ミンゲラ

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Cold Mountain

アンソニー・ミンゲラ監督作品でこれもまた未見だったのでかなりの期待をしつつ鑑賞。だが冒頭の戦闘場面がやや大げさで押し付けがましく思えたので「これは駄目だったかな」と出だしで止めることまで考えたのだが、若干忍耐で観つつ次第にやはりいいかなと思うようになりレニー・ゼルウィガーの登場ですっかり魅了されてしまった。

というのは実をいうと私はまだゼルウィガーの出演作を観たことがなくて写真などでぱっと見さほど見たい女性に思えてなかったのである。
ところが初見の本作で彼女が登場してものの数秒ですっかり大好きな人になってしまった、何たる単純。確かに高い評価を受けるだけの女優であることを今頃知ったわけだ。

出だしのエイダとインマンの出会いと別れ、先に書いた戦闘場面からインマンがエイダへの愛の為に銃殺になる脱走を決意するまでは説明的過ぎてかといってここで二人がどんな愛し合い方と別れをしたか、二人の環境がどうだったかを描かなければ後の感動は薄れるのかもしれない。それにしてももう少し端折ってとか、インマンが脱走してからの展開で説明していくのでは駄目だったのかなとかも思ったり。
お嬢様育ちで父親が死んでからは働くことも何もできないエイダは落ちぶれ飢えていくばかり。インマンへを思い続け手紙を書くことだけが彼女の生活になっている。
インマンはひたすら彼女の待つ故郷「コールドマウンテン」を目指すが、いつ捕まり銃殺刑になるか判らない恐怖と歩き続ける疲労と飢えに苦しめられる。そして戦争で大勢の命を奪い、逃走中も多くの殺人を重ねていくことになる。
重苦しい物語に突然レニー・ゼルウィガー演じるルビーがエイダを助ける為に訪ねてくるところから作品の空気がガラリと変わってしまう。
純愛の為に死んだようになっていたエイダに彼女が生きていく希望と力を与えていくのだ。
この映画はエイダとインマンの恋物語にするのではなく何もできず死にそうになったエイダを復活させるルビーとの友情物語を目的に作ったほうがよかったのではないだろうか。そしたら冒頭のやや陳腐な戦闘場面と恋愛場面も少なくできるし。

この映画はあくまでエイダとインマンのラブ・ストーリーなのだろうがすっかりルビーにすべてを奪われてしまっている。その意味では失敗作とも言えるし、彼女のような人間を描いたというだけでも素晴らしい作品だとも言える。

畑仕事もパイ作りもお嬢様エイダはやったことがない。彼女ができるのはラテン語やフランス語、ピアノと刺繍と本を読むことである。
そんな彼女の目の前で彼女が「悪魔」と呼ぶ性悪な鶏の首をあっさり縊り切ってしまう。畑を耕し、家畜の世話をし、家の修理をするルビーはエイダにも容赦なく手伝いをさせ、自分はメイドではなく対等な立場だと主張して同じテーブルで食事をする。
二人の夢はいい牧場を作ることになる。
そんなとこへインマンが帰ってくる。普通の他の映画なら感動の体面だが私はもうすっかりレニー=ルビーの信奉者になってるのでがっかりである。捕まって銃殺になったらいいのに、てなもんである。
さすがにインマンとの再会でめろめろになってしまうエイダにルビーは「馬鹿みたいな台詞聞いてられないわ」と部屋を出て行き、別の部屋で眠るがその時涙をこぼしてしまう。後ではジョージアという男性と結婚するルビーだがこの時のルビーはエイダを男に奪われた悔しさと彼女への愛に泣けてしまったんだろう。
ラブストーリーとしては山場のラブシーンだがルビーに共感してしまってる我が身としてはインマンが邪魔でしょうがない。

だが運命というのは(というか途中から予言で判ってたことだが)皮肉にもインマンの命を奪ってしまう。
撃たれて死んだのかと思ったルビーは助かって念願どおり二人の牧場を作っていくことになる。
一夜の愛でエイダにはインマンの子供が宿っていた。ルビーもジョージアとの間に子を成して父親と可哀想なサリーも共に幸せな牧場での昼食を取る場面で物語りは終わる。
なんだか不思議なハッピーエンドなのかもしれない。
インマンと結婚したからと言って必ずしもエイダが幸せになったとは限らないし。美しい思い出を持ったままでルビーと娘と牧場を経営していく満ち足りた生活。
インマンと触れ合った時間って一日にも満たないのかも。
不思議なラブストーリーである。
結局インマンはエイダに子供を産ませる為にあの怖ろしく遠い苦難の道を歩き続けたのだ。その価値はあるに違いない。

監督:アンソニー・ミンゲラ 出演:ジュード・ロウ ニコール・キッドマン レニー・ゼルウィガー アイリーン・アトキンズ ブレンダン・グリーソン フィリップ・シーモア・ホフマン ジョバンニ・リビジ ドナルド・サザーランド ナタリー・ポートマン ルーカス・ブラック キリアン・マーフィ ジャック・ホワイト
2003年アメリカ


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2009年05月16日

『スローターハウス5』ジョージ・ロイ・ヒル

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Slaughterhouse-five

カート・ヴォネッガトJr(とこの映画のクレジットではまだそう記されている)著の原作小説は私にとっては青春の1ページとも言える思い入れの強い作品である。またジョージ・ロイ・ヒル監督による映画も原作の味わいを上手く演出した作品だという記憶があった。
ここ数年もう一度観なおしてみたいと思いながらDVD化されてなかったために諦めざるを得なかったが念願が通じたのかやっとこうして再観することがかなった。

少女期の私がこの作品と他のヴォネガットの文章を読んで初めて認識したのはアメリカ人の中にはドイツ系もいてその人々も(無論)アメリカ兵としてドイツ軍と戦った、ということだった。
この映画ではそういう表現はないが背が高く金髪碧眼のマイケル・サックスはなんとなくそういう意味を持っているようにも見える(実際彼が何系なのかは知らないが)
作者であるカート・ヴォネガットがアメリカ人ながらその系列がドイツでありいわばルーツといえるドイツにアメリカ兵士として赴かねばならなかったことはどういう心情であったのか私には量りかねない。故郷と言えるドイツの中でも最も美しいと言われたドレスデンに捕虜としてたどり着き、アメリカ軍を含む連合軍から無差別爆撃を受けることになる。町は崩壊し、13万以上の市民が殺害された。
ドイツ系アメリカ人であるヴォネガット自身がその体験をし、SFという形で書かれたのがこの映画の原作である。

怖ろしい悲劇を一見悪ふざけのような演出で描いたのは何故だろう。それはヴォネガットが他でも書いているように「本当に悲しい時、笑いが欲しくなる」彼の精神の表れなのだろう。
地獄のような恐怖を頭の上に体験したヴォネッガトはビリー・ピルグリムという青年に時空を旅させ子供時代、戦争中、戦後の生活の中でもいつも大きな惨劇に会いながらそれを乗り越えていく。
表現はどれも皮肉っぽく冷めていてなのにとても悲しく思える。
戦争の怖ろしさ、悲しきを描く方法にこんな形があるということを私はヴォネガット及びロイ・ヒルの作品で初めて知ったのではないだろうか。

ところで『スローターハウス5』と言うのは原題どおりなので文句はないがやはり多くの日本人にすぐぴんと来るタイトルでないのはちょっと残念だ。訳せば『屠殺場5号』ということなのだが。つまり捕虜となったビリーたちがナチスに連れていかれた収容先が『屠殺場』を改装(というほどもないだろうが)した建物だったわけでその「5号」ということだ。怖ろしくも滑稽な意味があるわけだが意味が通じないと「どんな家?」と言うほどにしか思われなさそうだ。まあそれでも興味を持って観てみて中でぞっとするというのもいいかもしれないが。ビリーがドイツ語で『シュラハトホーフ・フュンフ』と覚えてしまうのもおかしくも怖い。

ジョージ・ロイ・ヒル監督はいい作品をずらりと作っていて『明日に向かって撃て』でアカデミー監督賞ノミネート、『スティング』で同賞を受賞。そして本作でカンヌ映画祭審査員賞を受賞していて他にも『ガープの世界』『スラップショット』もよかったのに、なんとなく他の有名監督に比べ知名度が低い気がするのは何故なんだろう。
よく判らないがあまり自然に上手過ぎて独特な個性、変な癖みたいなものがあまり感じられないからなんではなかろうか。時に悪趣味とか下手っぴだとか癪に障るほうがこいつは誰だと記憶に残るのかもしれない。

監督:ジョージ・ロイ・ヒル 出演:マイケル・サックス ロン・リーブマン  ユージン・ロッシュ シャロン・ガンズ  ヴァレリー・ペリン
1972年アメリカ

ラベル:戦争
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『イングリッシュ・ペイシェント』アンソニー・ミンゲラ

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The English Patient

大変有名な映画であるが初めての鑑賞だった。昨日観た『プライドと偏見』と同じく「ラブストーリー」ではあるが年収ばかり気にしている所帯じみた値踏みの如きラブストーリーではなく果てしなき大自然の中のロマンチックラブである。
昨日は怒りまくってたが今夜は腫れるほど泣いたので目が痛い。戦争の中の恋と言うのは泣けるものだと判っていてもどうしても涙が溢れてしまうのだよなあ。

それにしてもやはり、19世紀から20世紀にかけてのアメリカ・ヨーロッパのアフリカへの憧憬というのは非常に強いものだのだろう。
アルチュール・ランボー、アラビアのロレンスなどを思い出すと彼らの姿・行動にヨーロッパ人がいかにロマンチックな夢を抱いているかが伝わってくる。彼らにとってアフリカという未知の広大な自然の大地は「自由」という言葉を連想させるものだったのだろう。それは行動の自由だけでなく精神の自由でもある。あらゆる規律が出来上がってしまった閉塞的なヨーロッパからアフリカへ行くことは危険なことではあるが同時に自分を解放できることでもあったはずだ。
様々な作品にそういう思いが込められている。
先日観たウォー原作の『情愛と友情(原題:ブライヅヘッドふたたび)』でもがんじがらめになったセバスチャンはアフリカへと逃げる。
マルコヴィッチの『シェリタリングスカイ』やバロウズなどもアフリカへの逃避行とと精神の解放が重ねられて描かれる。
本作でも人妻であるキャサリンが夫を愛しながらも異邦人であるアルマシーと情熱的な恋に落ちてしまうのはやはりアフリカという土地が精神に影響を及ぼしたのではないだろうか。規律を飛び出してしまう熱情が働いてしまったのだ。
これは別に小難しい話だというわけではないだろう。命懸けの明日はどうなるかわからない戦時下に灼熱の太陽と果てしない砂漠の中で美しい人妻と男が出会えば激しい恋に落ちてしまうのである。
キャサリンの夫(コリン・ファース)が妻への愛情を失わず思い続けていることがよりこのラブストーリーを美しくロマンチックに見せている。
そして本作のヒロインであるハナ(ジュリエット・ビノシュ)も恋人を戦争で失い心を病んでいる。飛行機事故で体中に火傷を負ったアルマシーを懸命に看病することでなんとか平静を保っているように見える。
アルマシーに復讐しようとして訪れた男カラヴァッジオに「あの男に恋してるのか」と聞かれ「私たちは亡霊に恋しているの」と答える。
そのハナもインド人でイギリス将校であるキップ(ナヴィーン・アンドリュース)との愛で癒されていく。
ヒロインが恋する相手がインド人キップであることも心が解放されている表現なのか。

不倫の恋であるアルマシーとキャサリン。平静時であるならとんでもないことだが場所と時期が彼らの恋を純粋なものに見せてしまう。
夫を思いやりながらもアルマシーを「愛しい人」と呼ぶキャサリン。アルマシーを待ちながら息絶えた彼女を白い薄絹で包んで抱き上げる二人の姿はウェディングベールをなびかせる様子にも見えてしまう。
死んでしまったキャサリンを乗せて砂漠の上を飛行機で飛ぶアルマシーはもう死んでしまったも同然だったのだろう。
だが同じように恋人を失ったハナによって看病され、ハナはアルマシーの看病することによって少しずつ癒されていった。
激しい砂嵐の中でキャサリンとアルマシーは強く結びつく。壮大なロマンチックラブストーリーが涙を誘う。

ハナが何度も「私を愛した人は死んでしまうの」と言っていたのでキップが爆弾処理をする場面はいたたまれなかった。
ここで彼を死なせなかったことで私はこの映画が好きになった。

監督:アンソニー・ミンゲラ 出演:レイフ・ファインズ クリスティン・スコット・トーマス ジュリエット・ビノシュ ウィレム・デフォー コリン・ファース ナビーン・アンドリュース
1996年 / アメリカ
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2009年05月14日

『プライドと偏見』ジョー・ライト

PRIDE & PREJUDICE.jpg
PRIDE & PREJUDICE

なんという情けなく空しい映画だろう。何もかもが嫌になってしまいそうだ。
多分こういう話が一番嫌いである。有名な作品なのでもっと深みのある硬質な物語だと誤解していた。
自分が女だから言ってしまうけどほんとに女が好きそうな話だ。広大な領地と屋敷と莫大な財産を持つハンサムな若い男が突然現れ、すぐにくっついては財産目当て(体目当て?)と観客に侮られそうだし、映画が終わってしまうから男がミステリアスで内気ということにしてすぐに心を開かないからヒロインは誤解して彼を嫌ってしまう。だが実は彼はいい人で彼女のために人肌脱いで見せヒロインも彼の真摯な心がわかって精神的な和解の後、結ばれる。
時代が時代なのでという言い訳もあるかもしれないが、そうは言っても今でも恋愛ものはいっぱいあってついた離れたという話が繰り返される。身分が低いとは言ってもそこそこの家には住んでいるのだし、キーラ・ナイトレイが演じて特上の美貌を持つヒロインが真直ぐな性格で運命を(というか婚活を)切り開いていく。
一体なぜコリンズ氏をあんなに軽蔑するんだろうか。この映画を観ている分には悪い所はないと思う。その上財産もあるのだから申し分ない。人に馬鹿にされて不器用だから夫にするのが恥ずかしいだけじゃないのか。リジーがコリンズ氏ををあんなに酷く言うことはない。結局彼が背が低くて顔がそれほど良くなくて(だからといって醜いというほどはない)あまり話が上手くないからなのだろう(と言ってもダーシー氏だって話は上手くない)リジーが「誤解してました」と言ってコリンズ氏と結ばれる展開なら(つまりコリンズ氏が後でいい人だと判って)私も少しは頷けるけど、ダーシーじゃ結局金目当てとしか思えないしね。妹と近親相姦なのの偽装結婚だとか、何か裏があるといいのに。むかむか。

しかし私がこんなことで怒って書き散らしても「ラブストーリーは綺麗なヒロインがハンサムで金持ちと男性と結ばれることでしょ。ナニ怒ってんの」と嘲笑われるのが落ちである。つまり私にはラブストーリーを観る資格がないのだ。

本当に悲しい時代である。女は結婚のことしか考えてはいけない。リジー以外のベネット家の女性たちは皆愚かしい存在として描かれている。
リジーだけがヒロインとして賢い存在として登場するが結局結婚のことしか考えてはいない。いや、本当につっぱねている妹がいるようだったが、それはそれでやっぱり嘲笑されている。
嫌な設定だ。両親は長女と次女リジーは美人で結婚の見込みもあるが他の娘は不細工で性格も悪いと見放している。何故そんなに嫌うのか。嫌っているから性格も悪くなったのか。今だったら三女の不細工で生意気なことばかり言う娘を主人公にするかもしれない。
世間体を考えてとんでもない悪党と結婚できるよう手配をしてくれるダーシー氏の思いやりはいいことだったんだろうか。
友人とリジーの姉の結婚は?リジーと結婚する為に取り返しのつかない酷い手配をしてしまったのではないのか。
それを感謝してる親子。なんでもいいから結婚することこそが幸せな時代だったのだと納得しなきゃいけないんだろうか。

それともこの物語、結局女は容姿で男は金というのが世の中の真実なんだと皮肉って見せているんだろうか。
だったらこの最後「かっこ悪いー」と笑うのが正しい見方なのかもしれない。もしそうならそうで嫌な話だ。
どちらにしても私はこういう作品は好きになれない。心底つまらない。

ダーシー氏の叔母に「婚約しないと約束しなさい」と言われ「そんな約束はしません」じゃなく「婚約はしません」というのは変だが。

唯一嬉しかったのはドナルド・サザーランド。年取ってもちっとも変わらずかっこいいんだもん。きゃ。

監督:ジョー・ライト 出演:キーラ・ナイトレイ マシュー・マクファディン ドナルド・サザーランド ブレンダ・ブレッシン ロザムンド・パイク ジュディ・デンチ サイモン・ウッズ ルパート・フレンド
2005年 / イギリス
posted by フェイユイ at 23:05| Comment(4) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする