映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年06月30日

『ラビリンス/魔王の迷宮』ジム・ヘンソン

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Labyrinth

ジム・ヘンソン監督であのデヴィッド・ボウイがゴブリンの王を演じているという物凄く豪華な作品なのだが、こちらは記憶なく初見なのだろう。
いつもながらマペット達が気持ち悪く不気味で物語も面白く丹念に作られている素晴らしいファンタジー映画であった。

主人公を演じるジェニファー・コネリーが美しくてとても愛らしい。少女期にこういう優れたファンタジー作品の主役ができるというのは恵まれているのじゃなかろうか。
一人でゴブリン世界に浸っているような今ならオタク少女なのだが、変に媚びた設定にせずとても少女らしい魅力にあふれている。
ゴブリンの王がデヴィッド・ボウイのような美貌であるというのは少女の夢を表しているのだろう。金色の長髪にいかにも彼らしい艶やかな衣装を着た魔王は彼の特別なファンならずとも見惚れてしまうかっこよさだ。
映画の冒頭に(ここではサラ自身が)語られる言葉が物語を意味しているというのは昨日観た『神に選ばれし無敵の男』同様ファンタジーの鍵となる。
またサラが自分で言った言葉が弟を魔王のところへ追いやってしまったというのも面白い設定で彼女は我がままだった自分の失敗を自分で償うことになる、という戒めも含んでいるのが子供向けらしく意味深い。

ところで大好きなデル・トロ監督の『パンズ・ラビリンス』も少女が主人公だったわけでやはり迷路には少女が似合うのだろうか。そして醜悪なゴブリンやクリーチャーと美少女という組み合わせはマニアックなエロスも感じられるわけである。
サラが不可解な迷路を探っていく様子は『不思議の国のアリス』のようでもあり色んな謎ときや奇妙な敵と戦いながら可愛いサラが懸命に頑張る姿を楽しめるのである。
ゴブリンから渡された果物を食べて「弟を探している」という記憶を失ったサラがその記憶を取り戻す場面は一番緊迫感のある名場面ではないだろうか。
彼女がそれまでこだわっていたぬいぐるみなどを「がらくた」だと言い、弟を取り戻すことが自分の願いだったと思いだす。

やっと辿り着いた魔王の城の内部も面白く、エッシャーのだまし絵が再現されそこを魔王とサラと弟トビーが歩き回る。
魔王の言葉でこれまでの魔王の仕業は実はサラ自身の誤った願いだったということがわかる。
だがサラが成長し本当に大切なものは何なのかを知ることで偽りの魔王は無力となる。
さてここまでだとそれは正しいことではあるがまるでなんだか少女の夢を全部失ってしまったかのようで寂しいではないか。
最後の最後でサラがゴブリン達をいつまでも必要としている、と言うことでゴブリン達との別れはないのだと示される。これはもうゴブリン達を愛する作者側の願望でもあるわけで決して夢の国を忘れ去ってはいけないよ、と言っているようだ。夢の国を思うことはとても素晴らしいことなのだから。

監督:ジム・ヘンソン 出演:デヴィッド・ボウイ ジェニファー・コネリー シェリー・トンプソン
1986年アメリカ
ラベル:ファンタジー
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『神に選ばれし無敵の男』ヴェルナー・ヘルツォーク

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Herzog

この映画はタイトル的にとても気になっていたのに何故先延ばしにしてしまったのか、本当に悔やまれる。
と言ってもこんないい作品がまだ未観であったというのも嬉しいことではある。他にもまだまだ早く観とけばよかったというのがある、と期待できるからだ。

とにかく面白い、いい作品だった。映画というのはこういう風にリアリティのある落ち着いた物語でありながら謎と不思議を含んでいるものであって欲しい。そういう欲求を満たしてくれる上質な映画なのである。実話でありながら童話のように感じられる味わいがとても素晴らしいのだ。
実在の人物を題材にしているわけなのだがナチスドイツが台頭してくる前夜という時代背景も興味深いし、何といっても主人公ジシェとハヌッセンの対照的な位置づけに惹きつけられる。

ベルリンで「オカルトの館」を経営するハヌッセンと言う男は実はユダヤ人でありながらドイツ人であると装いしかもナチスの「オカルト相」に任ぜられることを望んでヒットラーらの占いをし勝利を収めると予言するのだ。細身の男でありながらナチス軍人たちを牛耳っているかのような堂々とした立ち居振る舞いをしいつも華麗であることに誇りをもっているが、同じチェコ出身のピアニスト女性にはサディステッィクなまでの暴力をふるう謎の男であり狡猾な男である。
一方のジシェはポーランドの田舎町で父親と鍛冶屋をしているユダヤ人である。彼はユダヤ人であることをナチスの前ですら隠そうとはしない。人前で話すことが苦手な純朴な青年であり誰にも負けない怪力と見事な肉体を持つ。
ユダヤ、と言えばイメージするのはハヌッセン的な人物かもしれない。利口で金儲けに長けていてきちんとした服装の男である。ジシェのような怪力男がユダヤ人だというのはピンとこなかったのだがなるほど「サムソンとデリラ」のサムソンを思い起こさす男だったのだ。

冒頭でジシェが自慢にしている利口な弟が兄に聞かせる話がある。海辺の岩礁にびっしりとうごめく蟹の中をジシェが弟ベンジャミンを抱えて歩いていく。そしてベンジャミンは兄の手を離れて空へと舞い上がる。
ジシェが現代のサムソンであるということ、彼が己の脚にくぎを打ちつけて死んでしまうこと。様々な暗示が込められているのだ。

狡猾な悪の男ハヌッセンは俳優ティム・ロスが素晴らしい演技を見せているが善良な大男ジシェを演じるのは素人であるヨウコ・アホラである。その筋肉にも見惚れるが印象的な純朴さは彼でなければ表現できないものだったのだろう。小さな弟ベンジャミンとの兄弟愛にも打たれるのだが、いつも神を信じて行動するジシェの純粋さに心惹かれるのである。

ヘルツォーク作品は短編を除けば今回が初めてだった。この作品は申し分なく大好きな作品になった。


俳優としては素人のヨウコ・アホラの魅力は掛け替えのないものだ。
DVDの表紙絵が彼だったらもっと早く観たかもしれないのだが(笑)
と言っても今回みるきっかけになったのはウド・キアーが出演していたからなのだが。粋にこだわるドイツ貴族を演じていたが独特のハンサムぶりは健在だった。

監督:ヴェルナー・ヘルツォーク 出演ティム・ロス ヨウコ・アホラ ウド・キアー
2002年ドイツ/イギリス
ラベル:歴史
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2009年06月28日

ベン・ウィショー『Criminal Justice』再び 3・4・5

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criminal justice

さてこの前の続きで第3話から観始める。相変わらずベンの表情を眺めるのみ。

前にも書いたがとにかくTVは顔のアップがうれしい。目の色がはっきりゆっくり見れるのは映画よりTVドラマのほうだろう。
ただでさえ怯えっぱなしのベンくん。裁判中にママが出て行ってしまったのに動揺してしまう。なんとか刑務所内から家にいるママに電話したいあまりにいつもベンをいじめるおっかないスキンヘッド男から煙草と交換で携帯電話を借りるのだ。
ママと心が通わず泣きながらくの字の格好で寝てしまうベンは心細い小さな子供みたいでかわいらしいのだ。
そして目が覚めると枕元に置いたはずの携帯電話がなくなっている。ベンはスキンヘッドを見つけてたちまち肝を冷やして逃げ出してしまう。走り出した囚人を見て慌てて鉄柵が閉じられたためにベンは鉄柵に顔面衝突して鼻血を出してしまう。
この演出って一見間抜けなんだけどベンがやると何故か妙に色っぽくなってしまうんだよね。柵にぶつかって崩れるように倒れ込むのが痛々しく。
鼻血で顔を真っ赤に染めて鼻にコットンを詰めてもらって痛がっているってシーンなんだが。
その上叫んでいる裸の男が無理やりシャワーを浴びせられるのを見てまたまた怯え怯え。
男たちにおさえつけられ注射されてしまう場面もいいですねえ(こんなこと言っていいのか)

第4話はベンのシャワーシーンがあり。
その後はいくら正直に話そうと試みても自分を弁護できるどころかどんどん窮地に追い込まれていく可哀そうなベンを見続ける。
次第に憔悴して青ざめか細くなっていく様子に己のサディステッィクな感情が高まっていくのである^^;
目にいっぱい涙がたまってうつろに左右を見回し、小刻みに体をふるわせることでなんとか恐怖を紛らわせているのだ。
検察の鋭い追及に涙と鼻水がとめどなく溢れてぐちゃぐちゃになってしまい尚やまない問いかけに顔を伏して掌で疑いを押しとどめようとする姿が切ないではないか。数ある裁判ものでもここまで泣きっぱなしなのはあまりないかもしれない。
責め苦の法廷から逃れ弁護士のフランシスにキスを求めるがそれも拒否されてしまい再び檻の中に戻されるベンの顔にはあきらめのようなものが漂い始めている。
ただ一人の保護者と思えたフーチに対し疑惑を抱かされますますベンは孤立しすべてが信じられなくなっていく。

第5話。ついにベンに有罪の判決が下り、刑務所内で働きだす。これまでのどうなるか判らず怯えきったベンではなくなり自暴自棄と言うような表情。うつむく横顔が綺麗なのだが。
もう誰が何を話しかけても感動を失ってしまったかのように無表情のベン・コールターのその顔がとても魅力的に思えてしまうのはどういうものか。
ベッドの上に膝を抱えて座るベンの遠くを見るまなざしの透き通った瞳と細い脚に見惚れてしまう。
そしてフーチの命がけの行為でベンは放免されることになるのだが、今まで体験したことのない恐ろしい経験が彼の心を暗くしている。
以前は無邪気にフットボールを楽しんだ彼が柵の中で競技に興じる若者たちを眺め寂しげに見ているのがそれまでのベンと違ってとてもかっこいいのだ。

本当に残念なのはとても面白そうな法廷内のやりとりが理解できない自分なのだが、変化していくベンをじっくり見れるだけでもこのドラマはとても観る価値のある作品だと思う。
posted by フェイユイ at 22:03| Comment(3) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月27日

『カッコーの巣の上で』ミロス・フォアマン

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ONE FLEW OVER THE CUCKOO'S NEST

遠い昔まだ自分が若かりし頃、初めてレンタルビデオ店(やっとそういう店が福岡に出てきた頃だろう。あくまでビデオ店である)でレンタルする、などということを試みようと選んだのがこれだった。
あまり深くは考えずとはいえ気になっていた作品を選んだのだと思うがあまりの衝撃に(まだ多感な頃でもあったし)頭をぶん殴られたようだった。
こんな映画を自宅に持ち帰って観れるものかと次々と借りたがさすがにこれほどの衝撃を受けるものはそうそうなかった。まさに覚醒したという感じ。まあすぐまた寝てしまったようなもんだけど。

とにかくこのむずむずするような感動はなんなのか。とんでもないお調子者の男が精神病院で好き勝手に暴れまわり婦長さんを困らせる、という話だけなのか。
物語というのが目の前で映し出されるものだけではなくその奥に秘められた物語があるのだということをこれで初めて知ったのではないだろうか。

この作品を今回観たのは先日から「ビート・ジェネレーション」を探っていてケン・キージー作のこの物語もビートニクのアイコンともいえるニール・キャサディがモデルだったとキージーが語っていたことからだった。無論ジャック・ニコルソンが演じたマクマーフィである。
確かに破天荒な行動が自分はどう生きるべきかと迷っていた若者たちに大きな影響を与えたニールと本作の主人公マクマーフィが大きな権力下で押しつぶされそうになっている患者たちを勇気づける様は体制側から見ればとんでもない間違った行動なのだとしても彼らに勇気と希望を与えてくれたのである。
そして映画には監督ミロス・フォアマンの意識もまた加わってくる。特にこの作品の中に描かれるわけではないが両親をアウシュビッツで亡くし、自分もチェコ事件の為にアメリカに渡った、という経歴を持つ人ということを考えれば「そんなに町の連中と変るもんか」とマクマーフィに言われる彼らが狂人として扱われ婦長の冷酷な仕打ちに怒るマクマーフィが廃人にされてしまうこの物語が彼にとって歪んだ権力と暴力が弱い立場の普通に人間たちにどんな過酷な運命をもたらすのかを描きだしていることが見えてくる。
その為に登場する人物は戯画化されすぎているきらいもあるのだが(特に婦長の性格は極端に思えるのだが、なにしろ彼女という存在が政治・社会・親・学校などあらゆる圧力・圧政などを体現しているのだから大変なのである)そのことが訴えたいことを明確に表現している。
また作品中語られないが察しなければならない個所もある。一見まともにも見えるビリーを狂わせてしまっているのはどうやら母親の異常な潔癖性にある、ということが見え隠れする。しかも母親と婦長は友人という繋がりを持っているらしい。女性と性的体験をしたことで言語障害もなくなり一瞬正常に戻ったかのようの見えたビリーが婦長の「母親に言いますよ」の一言で引き戻されてついには自殺してしまう。これも圧力の一つである。
そしてなんといってもこの作品の核となるのがマクマーフィと深い関わりを持つことになるチーフと呼ばれるネイティブアメリカンの男である。
彼の生い立ち・両親については彼の数少ない言葉から考えるしかない。正常としか思えない彼が何故この病院に入れられたのか。何故彼は聾唖だと偽ってそこに居るのか。
彼の父親は大きかったが多分恐ろしいほどの差別と過酷な待遇で酒に溺れ死んでっしまったのだろう。それを見ていたチーフは自分が父親以上の存在になる勇気も希望もない。そこに現れたのがマクマーフィであり、彼がチーフに友人として接してくれたこと、彼がどんな困難にも立ち向かったことを見るうちに「大きな人間」になれるという勇気を抱く。マクマーフィも動かせなかった重い石の置物(水道台なのだが)を一人で抱え上げ彼らを閉じ込める窓柵を打ち壊して外へと飛び出す場面は長い時間を経て再び私に心を揺さぶられるような衝撃を与えてくれた。
自由を求めたマクマーフィが思考することもできなくなった姿を見て「そのままでは置いていかない。一緒に行こう」と彼を殺しその魂を連れ去ったのだ。
遠く広がる空と自然の中に走っていくチーフの心にある熱い思いを感じる素晴らしいラストシーンなのだ。

マクマーフィを演じたジャック・ニコルソンがとにかく好きだった。あの顔と目がそれだけでどきどきさせる魅力だった。
アクが強すぎる個性だ。今だったらもう少しおとなしめの顔のほうが受けるのかもしれないがぎんぎんにセクシーで危険な匂いのする男である。今観ると後を知っているだけに若さにも驚く。まだ細くて、でも髪の具合はすっかりニコルソンらしいそり込みとはねっ毛である。あの悪どい目はこたえられない。

監督:ミロス・フォアマン 出演: ジャック・ニコルソン ルイーズ・フレッチャー ウィル・サンプソン ブラッド・ドゥーリフ クリストファー・ロイド ダニー・デヴィート
1975年アメリカ
ラベル:自由
posted by フェイユイ at 23:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月26日

『フレッシュ・フォー・フランケンシュタイン 悪魔のはらわた』ポール・モリセイ

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Flesh For Frankenstein

崇高なるマイケル・ジャクソンが亡くなった夜に関係なく娯楽映画を観る自分に引け目を覚えてしまったが、どうしてもこれを観ないと予定が狂うのである。しかもこれまったく偶然借りたものだが観始めて暫くこれじゃマイケルのことみたいじゃないかと恐縮してしまった。

元々のシェリー原作の『フランケンシュタイン、すなわち現代のプロメシュース』(Frankenstein: or The Modern Prometheus)ではフランケンシュタインの願望は人造人間を造ることだけだったが(その為に造られたその生命体は「モンスター」などと呼ばれ親であるフランケンシュタインからも嫌われ本人もその醜さに絶望することになる)本作のフランケンシュタイン男爵(あくまでも優雅でありたいわけ)の目指すものは今溢れかえる「不完全な醜い人間」を「完全な美しい人間」に作り替えることなのである。
完全な美しい女は作ってしまったフランケンシュタイン男爵は完全な美しい男を造り、二人を番わせて子供を産ませようと計画している。
その為には女と見ればすぐ欲情するような精力を持ち且つ完璧な美貌完璧な「鼻」を持つ男を見つけたいと願う。
美しい体は用意できたが精力的で美しい鼻を持つ男を見つけようと男爵は助手オットーを連れて売春宿へと向かった。そこでなら女好きが見つかるだろうと考えたのだ。
男爵たちが売春宿を見張っていると裸の女が二人飛び出してきてその後から若い男が彼女たちに声をかけた。
男爵は男一人が二人の女を相手にしていたと思い込みさらにその男が完璧な美貌と鼻を持っていたのですぐさま彼を襲いその首を切り落とすことにしたのだった。
実はこれが間違いでその男は確かに美しいが女にまったく興味がなく修道院に入ろうとしていたのを友人に誘われしかたなく売春宿に来ただけの男だったのだ。
友人の男が男爵の妻(と言っても実は男爵の姉^^;ひたすら倒錯してるわけだ)に目を付けられセックス相手の使用人にされたり、その様子を子供たちが覗いていたりと際どい話が次々と繰り出される。
ウド・キアー演じるフランケンシュタイン男爵は己の技術に自惚れ助手オットーをいつも叱りつけている。男爵を尊敬するオットーだがあまりにも男爵の仕打ちが酷過ぎ次第に恨みを覚え人造女に手を出して壊してしまうのだ。
男爵とその姉の子供である息子と娘もまた異常性を秘めていて冒頭では人形を解剖したあげくギロチンにかけてしまう。
そして最後は宙づりにされた男に手術用ナイフを持って近づくのである。

美を求めるあまり歪んだ行動を取ってしまいそのことに何のためらいもなくただひたすら完全なる肉体を造ろうとするフランケンシュタイン。
『処女の生血』と同じくこれも滑稽さと悲しさがあいまった荘厳なほどの品位を感じさせそれがまたおかしくも悲壮なのである。
いつもならそう思うだけだが、今朝未明亡くなったマイケル・ジャクソンがまるでこの男爵とそのクリーチャー両方の姿を示しているようで造られた完全な美しい男が「私はもう死にたいのだ」という台詞にぎくりとしてしまったのだ。

あまりマイケルと重ねるのは申し訳ないのでもうよそう。
作られた順番は逆になるのだが『処女の生血』と本作のウド・キアーの倒錯した魅力に参ってしまった。特にドイツ訛りなのだろうあの力強い発音の英語は印象的である。
『処女の生血』ではウド・キアー演じるドラキュラを召使の身分ながら支配していたアルノ・ジュエギングが本作でも助手という役ながらとても面白い。彼もまた異常な性嗜好の持ち主で内臓に興奮するのである。
ウォーホル&モリセイ映画にずっと出演している二枚目役者ジョー・ダレッサンドロもまたまた美しい肉体を披露している。私には判らないがこの古風なヨーロッパ・ゴシック映画の中で彼だけがニューヨーク訛りでいかにもアメリカ顔なのでとてもおかしいらしい。
またフランケンシュタイン男爵が言うようにセルビア人というのは由緒正しい古代ギリシャの美貌を正統に受け継いでいる民族で背が高く金髪青い目と言うことらしい。それで黒髪のクロアチア人とは争うのだという説明があってそういうものかと思ってしまった。

グロテスクであり裸と性描写と血に彩られた『処女の生血』『悪魔のはらわた』の2作品だが、それでもこの二つは大変楽しめる傑作に間違いない。あくまで古典的な尊大さを保ちながらそれ故に滑稽で倒錯した悲しさに満ちている。それら狂った貴族を演じきっているのがウド・キアーであり、なんとなく朴訥として登場するアメリカ人ジョー・ダレッサンドロがまともな平民として描かれているのも意味ありげである。
「純血(純潔)」とか「完全な美」などというものにこだわり過ぎるのはおかしなことだと思うのだが。さてそういう人間に憧れてしまう気持ちがあることも否定はできないのでもある。

監督:ポール・モリセイ 出演:ジョー・ダレッサンドロ モニク・レ・ボーレン ウド・キアー モニク・ヴァン・ボーレン アルノ・ジュエギング
1973年フランス/イタリア
ラベル:ホラー
posted by フェイユイ at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月25日

『ダーククリスタル』ジム・ヘンソン フランク・オズ

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THE DARK CRYSTAL

先日ジム・ヘンソンのTV作品を観て「セサミストリートは当然知っているがそれ以外は・・・」みたいなことを書いて気になってこれを観たのだが、なんだいしっかと観た作品だった。
まったく度忘れにもほどがあるが観始めたら次々とどの場面も知ってる知ってるてな感じで。でも観るまで思い出さなかったんだよね。
まあ、観てみてよかった。そうそう、これは秀逸な作品なのだ(何を今更)なんというか異世界ファンタジーの手本みたいなものだねえ。

よくこの世界から異世界になんかの拍子で入り込んで冒険をする、みたいな作品があるけれど私はその類はあんまり好きじゃなくて(いいのもあるかもしれないが)その世界だけでまとまっているのを覗き観るような作品のほうがいいのである。
特にこの作品のように主人公が人間じゃない、というのはちょっと上級者コースみたいな感じでとてもうれしくなってしまう。
この物語の主人公はゲルフリンという種族の最後の生き残りの二人。顔立ちは人間ぽいが若干異なっていてそれが確かに異世界な雰囲気を感じさせてくれる。(似てる人もいるかもしんないが)
負のパワーを持つダーククリスタルを手中にし、世の中を支配する悪の種族であるスケクシス族(猛禽類のような外見)は二人が属するゲルフリンから全滅されるという予言があるために彼らを抹殺しようとした。少年ジェンと少女キーラはその生き残りであり。それぞれ別々にミスティック族とポッド族に拾われて成長した。
ジェンはミスティック族の長老が死の床で「ダーククリスタルのかけらを見つけて世界を救うのはお前だけだ」と言い残す。
3つの太陽が再び重なるとダーククリスタルの負のパワーによって悪のスケクシス族は永遠の支配を約束されてしまうのだ。それまでにジェンはクリスタルのかけらを見つけ出し、ダーククリスタルにそのかけらを合わせねばならない。

物語はいかにもスタンダードな少年向け冒険譚だが全体の持つ雰囲気は子供向けだけとは思えないどこか本当に恐ろしいものが秘められている。
スケクシス族が他の種族からエッセンスと呼ぶ彼らの体液を抽出しそれを飲んで若返り、エッセンスを抜かれた者は思考することができなくなって労働を強いられる、という部分はぞっとするものがある。
城に乗り込んだゲルフリンの二人のうち女性であるキーラがとらえられてエッセンスを抜かれてしまいそうになり、さらに性はないらしいのだが男性的な風貌のスケクシスたちに取り囲まれ刃を受ける場面はサディステッィクなエロチシズムを感じさせる。
長老はジェンに世界を救うのはお前だ、と言ったが殆どの活躍はキーラのように思えるのだが。
人間の顔ではないが二人はどちらも綺麗で魅力的な容姿をしている。キーラの金色の髪の乱れ方などとても愛らしく見える。

人間不登場のクリーチャーのみの世界が素晴らしい。『スターウォーズ』の世界とかぶるものがある。両方を手掛けたスタッフがいるので当然かもしれないが。クリーチャーだけでなく恐ろしく深い穴みたいなのも。

善のミスティック族と悪のスケクシス族が元は一つだったのが分かれてしまい、再び一つになるのだが、そうすると彼らはどういう性格になってしまうんだろう。合体する場面もややおかしな気もしたが。
生き残りの二つの種族の人数が同じでスケクシスが怪我した時、また死んだ時のミスティックにも同じ影響が及ぶというのは面白かった。
この作品はできるだけ子供向けに軽くなるよう作られているがこういう世界をもっと追究していけばどんどん危ない世界に入っていってしまうような雰囲気を持っている。

監督:ジム・ヘンソン フランク・オズ
1982年アメリカ
posted by フェイユイ at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月24日

『ビートニク Beatnik』チャック・ワークマン

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右端のがアレン・ギンズバーグとボブ・ディラン
Beatnik

今夜もまた近い将来ベン・ウィショーが演じるルシアン・カー『Kill your darlings』の為にビートニクスを探していて、彼に出会えることはなかったのだがドキュメンタリー映画『ビートニク』を観ているうち、ルシアンのことは忘れて夢中になってしまう。どうやらミイラ取りがミイラというのではないがすっかりビートニクス信奉者になってしまったようだ。

1999年公開の映画で若くてハンサムなジョニー・デップも出ているというのにレンタルすることができず購入する羽目になったが、私のようにビートニクに興味を持ったのなら後悔はしないと思う。とても優れたビートニク参考資料なのではないだろうか。
(ところで先日も私が「ロマ」を知りたくて探してたらジョニー出演の映画を観ることになった。考えたら同じ世代。興味のあるものも似ていて当然だ)
チャーミングなジョニー目的で観た人は少々物足りないかもしれないがそれでも彼の朗読が聴ける。
私はとにかくビートニクの写真や映像、インタビューなどが目的だったがこちらはふんだんに盛り込まれていた。先日観たバロウズの作品映像、バロウズ、ケルアック、ギンズバーグが出会った若い当時から年を経た姿も、彼らの声、言葉、考え方がぎっしりとはめ込まれている。
そして彼らを取り囲む他のビートニク作家たちも(惜しむらくは期待していたルシアン・カーは見当たらなかった)
バロウズの痩身と哲学者のような(またはギャングのような)容貌は抜群にさまになっている。『クイア』や『裸のランチ』を書き恐ろしいほどのジャンキーでピストルや刃物などの武器を愛し、講演ではいつも強烈な罵りを挟み込む可愛い青年や少年が大好きなゲイの老人である偉大なW・バロウズは滅茶苦茶にかっこいい。
若きケルアックはまるでモデルか俳優かというようなハンサムな顔立ちで確かにこれで天才ならギンズバーグならずとも惚れこんでしまうだろう。そして彼の双子のような相棒であり『路上』のディーンのモデルであるニール・キャサディ。二人とも肉体的にも男らしい美貌なのが不思議なほどで彼らが若者たちのアイコンになるのは当然のことで、ケルアックには才能とニールの人を引き付ける魅力があるということもこの映像を観ているだけで伝わってくる。
そしてこの数日ビートニクを探索しているうちに一番好きになってしまったのがアレン・ギンズバーグである。映像の中で「醜いゲイの眼鏡野郎」と称されてしまう彼だがそのコメントは「そいつがアメリカで最も勇敢な男になった」と続く。
好きになった理由はなんといっても彼の詩集『吠える』を読んで。原題で『Howl』というなんだか日本語と似た響きだ(というか日本語訳した人がうまい)精神病院に閉じ込められたカールという友人の為に作った詩だというがまさに吠えるような激しい言葉が連なる。これを初めて肉声で朗読するのを聞いた聴衆がどんな驚きだったか。ちょっとぞくぞくするではないか。
ケルアックには無論いい男と見ればすぐ好きになってしまうような惚れっぽい人みたいで確かに他の仲間に比べるとハンサムではないのだが、その才能と映像から受け取れる温和な感じ、仲間が彼を罵倒していても優しく手をとるようなところ(どうせそういうのもゲイ的だと言われるのだろうけど)平和を愛し(大概ビートニクのような人は平和主義だろうけど)仏教にのめり込み麻薬もほどほどにやってるようなとこも年取って髪が薄くなりますますおかしい風貌になった様子も皆好きになってしまった(バロウズは年取るほどかっこよくなるが)
時間が経つと過激と思えたビート作家たちも特にギンズバーグは大勢の人に溶け込んでいってしまうのだがそういうその時に応じた柔軟な生き方ができるのも素敵である(かといって彼はずっと思想的活動を続けているのがいいのだ)そしてずっとゲイであってじい様になっても人前でじい様相手にディープキスをしていたのだと(この話は本作ではないよ)
とにかくそういうんで私はすっかりギンズバーグ派になっちまった。かといってケルアックもバロウズも素敵なんでみんなかっこいいんだよね、この方たち。
無論映画作品にするわけでカッコよく捉えているのだろうが、それにしても痺れてしまうビートな彼らである。
社会に対する憤懣を詩にして訴えるなんていうのがまた流行ったりしないのだろうか。

映像の中で写真集が出てくるのでネットで出てくる写真もそれからなのかもしれない、見たことのある写真がいくつもある。
ヒッピーの世代ではないから髪型や服装はそれほど一般と違うわけではない彼ら。
だがその言動は当時の人々から見ればとんでもないアウトサイダーだったわけで。『ビート』という日本語としては掴みにくい言葉だが黒人が話していた言葉から生まれたという。「打たれる」というようなマイナスなイメージを持ってしまうようだけどギンズバーグはそれbeatitude(至福)から出ている言葉だと言うのだ。

作品中、ジョニー・デップ以外にデニス・ホッパーが登場。いかにもクスリと旅が似合う男である。

監督/脚本:チャック・ワークマン 1999年アメリカ
posted by フェイユイ at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Lucien Carr ルシアン・カー

2010年公開となる『Kill Your Darlings』John Krokidas監督作品で
ベン・ウィショーBen Whishawが演じるルシアン・カーLucien Carrご本人の画像を集めてみました。ネット上に出ていたものなので正確であるかどうかは保証できませんが。

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ケルアックとルシアン

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Lucien Carr and Allen at Lucien's wedding to Francesca "Cessa" von Hertz, January 4, 1952.

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カマラー事件の記事のルシアン

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Lucien Carr, Jack Kerouac, Alan Ginsberg, William Burroughs in 1944
(ところがとある本ではルシアンじゃなくハル・チェイスとなっていた。もーどうせ判らんし)

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William S. Burroughs, Lucien Carr, and Allen Ginsberg

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これもルシアン?
posted by フェイユイ at 14:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月23日

ベン・ウィショー『Criminal Justice』再び 1・2

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criminal justice

久しぶりに『Criminal Justice』を観た。初観から2カ月少し経ったわけでこの間に他の映像も観たし、彼について随分考えてきたのだが、久しぶりにドラマで再会してときめいてしまった。
以下、前に記事も書いたので重複した感想を書いてしまうと思う。

TVドラマは映画より表情のアップが断然多いので其処ら辺が嬉しいものである。
私は悲しいことに英語が字幕付きであっても理解し難いのでほぼ映像を眺めているにすぎないのだが、このドラマはベンが映っている時間が非常に多いし彼に様々な体験をさせてくれるので観ていてこんなに楽しいことはない。しかも全裸になる場面が幾度となく出てくるのもストーリー的に必要でありながら視聴者をどぎまぎさせてくれる。
このドラマの前半部分の見どころは役名でも同じくベンが突如起きた事件に翻弄され怯え震えて泣き苦しむ姿である。
いきなり彼の車に乗り込んできた若い女性とほんの短い時間を共にした間に彼女が何物かに殺され、ベンは慌てふためく。
逃げようとして事故ってしまいそのまま警察に捕まってしまうのだ。
殺人犯人としての容疑をかけられたベンは初めての体験にずっと怯え続ける。酷く憐れで心細いさまを表す姿はベンの真骨頂と言っていい、愛おしくもどこかこちらのサディスティックな気持ちを動かしてしまう。
留置所で着衣を下着まではぎ取られめそめそ泣き出したり、もらった煙草を奪い取られたり、刑務所内で強そうな囚人に息を吹きつけられてびくびくしたり、極めつけはベンをつけ狙う男たち数人から突然背後から襲われさるぐつわをかまされ服をはぎ取られ全裸の体中に白い接着剤のようなものを塗りつけられた後草っ葉をまぶされてしまい他の囚人たち衆目の前に惨めな姿をさらされてしまう場面だ。(これはコールタールをかけ鶏の羽をくっつけてしまうという惨たらしいリンチを思い出させる。チキン=おかまという意味もあるのか)
屈強な男たち数人に手足をつかまれ、白い液体を塗りつけられる場面は(男の白い液体と言えば精液という相場になっております)ポルノとしかいいようのない表現で一体こんなイヤラシイ情景をよくTVでやれたものだと思うのだがあくまでもこれは「イジメ」なのであって「レイプ」ではないのだという言い訳を作っているのだろう。しかしどう見てもレイプではないか。
大きな男たちに羽交い締めにされいきなりズボンを引っ張られて尻を出されてしまい、脅し文句を言われ怯えきっている様子はまるで処女のような痛々しさで口に突っ込まれた靴下の垂れ下り方もなんかイヤラシイ。寄ってたかって白い液体を塗りつけられる体の細さが痛々しく愛らしく少女のように見えて残酷な思いがする。
衆目の面前に放り出されたベンがまた哀れでHoochが助けに来るまで全裸で立ちすくむ姿がまだ少年の体つきのように見える。

ベンの表情がアップで観れるのもうれしい。透き通る薄い緑色の瞳がはっきりわかる。それに横顔がとても好きなのだ。ちょっと反り返った鼻と少しくぼんだように見える時の目がとても魅力的なのだ。

しかしまあよく私は刑務所もの、というのをたくさん観てきた。
何故こんなにたくさん観たのか。それにまあよくこんなにたくさん作られるものだ。私だけでなく何か刑務所もの、というのは物語を作りたくなるものなのだろうか。
私が刑務所の物語で最初に意識したのはアラン・パーカー監督『ミッドナイトエクスプレス』だ。どことなく『Criminal Justice』と重なるところもある気がする(私が本作をもっと理解できたらもっと感じるような気もするのだが)『ミッドナイト・・』のブラッド・デイビスもとても好きだった。これには同じ囚人仲間とのキスシーンもあったがサディスティックな所長の(これははっきり)レイプシーン(と言ってもその場面はないが)がエロだった。
ブラジルの『カランジル』もよいがこれはちょっと感じが違う。

今夜は第2話までしか観れなかったが2話の終わりのクスリの袋を飲み込む場面がいつも笑ってしまう。あんな小さいのに飲み込めないなら運び屋は無理だなあ。と言ってもこれもまたうぶな様子を表しているわけで可愛いのである。
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2009年06月22日

今夜もビートニク探求

今夜もまたビート作家バロウズのドキュメンタリー『ウィリアム・S・バロウズ/ザ・ファイナル・アカデミー・ドキュメンツ』『ウィリアム・S・バロウズ/路上の司祭』なんかをつらつら観ていたのだが、特に言うようなこともないので困ってしまう。可愛い男の子が幾人も登場。
しかしあれなんだよね。田舎に住んでいるからなのかもしれないが本屋に行ってもビートニク関連本などは全くないんだよなあ。さすがに『裸のランチ』はあったけど。
やはりゲイ作家であることが駄目なのか。と言っても「ボーイズラブ」な本は田舎町でもどっさり並んでいるんだけど。

とりあえず
『ウィリアム・S・バロウズ/ザ・ファイナル・アカデミー・ドキュメンツ』 2002年 / イギリス
『ウィリアム・S・バロウズ/路上の司祭』クラウス・メック 1991年 / ドイツ
短いけど『路上の司祭』のほうがバロウズのインタビューがあって面白かったかな。

Kerouac, Ginsberg & friends in New York

「Silent footage of Jack Kerouac, Allen Ginsberg, Lucien Carr, and others in New York, Summer 1959. The location is in and around the Harmony Bar & Restaurant at E 9th St. and 3rd Ave. Others seen are Mary Frank (wife of film-maker Robert Frank) and children Pablo and Andrea, as well as Lucien's wife Francesca Carr and their three sons, Simon, Caleb and Ethan. Does anyone recognise any of the others? 」

Lucien Carrと書いてあるので映っているとは思うのですがどれなのか?(-_-;)1分50秒くらいの美青年?それとも子供を肩車した人?他の誰かか?

そしてデヴィッド・カマラーってこの人なんですか?
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David Kammerer
『Beat』の彼と全然違う〜。ハンサム????!!!!

ルシアンは
Lucien Carr
こんな風だけども。
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左からケルアック、ルシアン、ギンズバーグ
ふぇでり子さん、いつも画像Thank Youです!!m(__)m
posted by フェイユイ at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月21日

『ブラッド・フォー・ドラキュラ/処女の生血』ポール・モリセイ

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BLOOD FOR DORACULA

遠い昔に同監督スタッフキャスト(らしい)の『悪魔のはらわた』を観て面白かった記憶がある。本作は初観。

なんとも悲しい物語ではないか。『ブライズヘッドふたたび』ではないが落ちぶれていく貴族の哀愁に満ちている。
方やドラキュラ伯爵の末裔はもう周辺に処女が存在せず食糧難で息も絶え絶え。妹も顔色悪く地下室で寝込んでいる。ドラキュラ伯爵自身も何の希望も持てないでいる。だがそんな彼を励ましカトリックの国であるイタリアへ行けばきっと処女の生き血にありつけますと準備を整えるのが忠実な僕アントンだった。
自動車の上に棺桶と車椅子をくくりつけ(つまりそういうものはある時代ね)空腹のために顔面蒼白のドラキュラ伯爵が古風な衣装を身にまとって旅行中なんて、もうコメディとしか思えないが作品は至って真面目にクラシックな態度を崩すこともなく思い入れたっぷりに進行していくのだから吸血鬼ファンにはたまらない作品ではないだろうか(吸血鬼マニアは絶対いるよね。いつもそういう作品作られるから)
だがなかなかこれという処女に出会えず伯爵はさらに瀕死の状態でとある村にたどり着く。そこには没落貴族で貧乏生活を強いられてはいるものの美しい4姉妹がいる家族があった。

伯爵の僕アントンは張り切って一家に近づき、伯爵が花嫁探しをしていると伝える。貧乏貴族の主人と奥方は大喜び。
ところでこのドラキュラ伯爵は処女の生き血しか受け付けないのだが、ちょうど適齢期の娘二人は日ごろから下男の若い男とセックスやり放題。長女は婚約解消された身なので控え目に退いている。4女はまだ14歳で早すぎる。
伯爵は我慢できずすぐに2女と3女に咬みつき血を啜るのだがたちまち非処女の血にもだえ苦しみおえおえと吐き出すのだった。
空腹で痙攣するほど苦しみ、喜んで飛びついた娘は非処女でこれまた物凄い悶絶で血を吐きだす。その壮絶さは恐ろしいほどで目を飛び出さんばかりに開け口から血が溢れだし胸は赤く染まる。こんなに憐れなドラキュラは他にないだろう。
最初っから赤ん坊か幼女にでも手を出せばいいじゃん、と言いそうになるがそういうモラルというものは守らねばならない掟でもあるのか。
若い娘と言われる年頃にはもう処女はいない世の中だよ、という風刺も無論込められているのだろうねえ。
さて14歳の末娘はまだ処女だったのだが、ドラキュラの正体を見破った若い下男が「命を救うため」と言って末娘の処女を奪う。
絶対絶命のドラキュラだったがなんと婚約破綻の長女がまだ処女でその血をドラキュラに与える。
下男は斧でドラキュラの手足を叩き落とし(何故こんなことを?)最後に胸に杭を打ち込んで殺す。それを見た長女は嘆き自ら杭に身を投げ死んでしまうのであった。

一体何がなんだか、という物語なのであるが、これが何故だか滑稽でもあり悲劇的でもあり案外薄っぺらではない伝統的なドラキュラ伯爵の重厚さもあって面白いのだ。
それはなんといってもドラキュラを演じたウド・キアーの不思議な魅力によるものなのだろう。

このアンディ・ウォーホル、ポール・モリセイによる作品はゲイ的な雰囲気があるようなのだが、本作は姉妹によるビアン的な演出はあるが男性同士のほうは皆無であった。ドラキュラとアントンの間にそういう部分があるのかと思ったがそういうのではないようだ。
代わりに下男役のジョー・ダレッサンドロの裸体がそのままゲイ方面へのサービスなのかもしれないが(私はあんまりというか全然・・・^^;)

さて実はそのジョー・ダレッサンドロ主演ポール・モリセイ監督ウォーホル製作の『フレッシュ』も観たのだがこちらはもう全然観れなかった。ゲイとビアンとセックスシーンがたくさん出てくる映画だが、こういうのは観る気になれない(主演が好みならいいんだろうがジョーくんは駄目だわ)彼は下男役みたいなのはいいが、こういうぐうたらして売春している男娼なんていうのはつまらないじゃないか。

監督:ポール・モリセイ 出演:ジョー・ダレッサンドロ ウド・キアー ビットリオ・デ・シーカ ロマン・ポランスキー
1974年フランス/イタリア/アメリカ
ラベル:ホラー 吸血鬼
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2009年06月20日

『Kerouac −ケルアックに何が起こったのか?−』と『ポール・ボウルズの告白 シェルタリング・スカイを書いた男』

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WHAT HAPPENED TO KERUAC?

ビートジェネレーションであり『路上』の作者であるジャック・ケルアックについて当時の仲間たちから語ってもらう、というドキュメンタリー。
私の目的は『Kill Your Darlings』でビートニクのミューズ的存在だったというルシアン・カーについて少しでも語られることがないだろうか、というものだったのだが、残念ながら彼についての言及はなかった。ただ途中で朗読されるケルアックの詩の一節に「ルシアンのテーマ」というのがあって、前後に関連するものもないのだがルシアン・カーのことを言ったのだろうか。

さて本作はケルアックについて語ったものであるが、写真を観ても判るが何と言っても若くてハンサムな天才ということで物凄い人気者であり、ファンの女性は皆彼と寝たがりその希望はかなり叶えられるものだったらしいが一方ではそんな彼に対し激しい批判があったということだが彼の生き様や小説の内容からは当然そうなってしまう運命だったのだろう。だがそういったことが(急激な人気と恐ろしいバッシング)が彼をアルコール依存症にしてしまい、精神を歪めてしまったようだ。
無論この映像の中にはコロンビア大学で彼に惚れこんでしまったアレン・ギンズバーグ(『バロウズの妻』で観た彼に酷似していたのは面白かった。ここでも彼が一番まともで知性と人間性があるように思える)や彼らの大先輩であるW・バロウズ御大が登場してケルアックを思い出す。
ケルアックと衝撃的な出会いをして友人となり『路上』の主人公ディーン・モリアーティのモデルともいうべきニール・キャサディの映像もある。彼ら二人は何故かとても似ているのだが、ケルアックはニールの破天荒さに憧れ、ニールはケルアックの育ちのよさや学歴に憧れていたらしい。

ビート作家のギンズバーグやバロウズはゲイでありその周りには同性愛者が多かったのだがケルアックは彼らの仲間であるがゲイではなかった。
また自由な生き方をしたと思えるケルアックだがカソリックの家庭で生まれ育ったために考え方は結構厳格であったらしい。
晩年(と言っても47歳没での晩年)の映像の彼はかなりエキセントリックで危険な感じに思えて痛々しい気もする。
私は昔『路上』をとりあえず読んだものだが、広大な大陸を何度も横断するという行為に日本では体験できない恐ろしい何かを感じはしたが物語自体に心酔するということはなく終わってしまった。
バロウズもまたしかりでゲイであり、麻薬に溺れ放浪する、という生き方にある憧れのようなものは抱いても作品そのものに惚れこむことはなかったのだった。
それでも彼らに奇妙な思慕、自分もそんな仲間であってみたいという気持ちだけはあったのだから変ものだと思う。

仏教が彼らの間では非常に流行っていたらしい。

監督:リチャード・ラーナー ルイス・マクアダムス
1985年 / アメリカ

もう一つは『ポール・ボウルズの告白』
あの『シェルタリングスカイ』の作者で音楽家でもありタンジールに住み続けた人なのだが、この方のことは最近まで名前もよく覚えてなかったのだった。
ビート作家というわけではないがゲイであったこともあり麻薬や買春(男性の)を謳歌できた(?)タンジールに居を構えていたことで(という話であって今どうなのかは知らないが)バロウズやギンズバーグ、カポーティやテネシー・ウィリアムズも訪れていたらしい。なんともゲイの世界。
こちらではまあギンズバーグのコメントを少し聞いたくらい。アメリカでは手に入らない麻薬を楽しめたが買春のほうは上手くいかなかった(と言っていた)

というわけでルシアン・カーの名前を聞くことはできなかったが、確かに酷く心惹かれる世界である。
ビートには女性があまり絡んでないのだがそれは女性だとすぐ精神病院に入れられてしまったからだという。困ったもんだ。

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LET IT COME DOWN:THE LIFE OF PAUL BOWLES
1998年 / カナダ

ところでこのドキュメンタリーとは全く関係ないのだが、ビート作家たちの集団とルシアン・カーという美青年のことを考えていたら、突然なんとなく司馬遼太郎『前髪の惣三郎』を思い出してしまった。大島渚監督が『御法度』と言う映画にした短編小説である。
別に惣三郎が新撰組を引き合わせたわけではないからさほど状況が似ているわけではないし、男ばかりの集団に性的魅力のある美青年が入り込んでしまうなら色んな場所でそういうエピソードはあるのかもしれない。ただ一つの時代を作った若者たちの集団に入り込んだ美男に触発され刃傷沙汰が起きてしまった、という物語の相似に興味を持っただけである。
映画『御法度』では今素晴らしい役者になった松田龍平がその役で彼に恋する剣士を浅野忠信が演じていたのだからこんな美味しい配役もないのだが。
この話は司馬氏のフィクションなのだろうが当時の新撰組ではかなり男色が盛んだったと言うし、近藤や土方などその気がない(本当か?)者まで色香に惑わす惣三郎の美貌と実在したルシアン・カーを重ねて考えるのもおかしいことなのだろうけど。
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ベン・ウィショーの画像いただきました。見惚れます。

ふぇでり子さんからベン・ウィショー画像いただきました!!!

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DVD.jpg
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ふぇでり子さんの文章をそのまま移しますが

上から、パフュームでバルディーニが飼っている設定の猫をさっそく可愛がるベン。
大、中、小、極小のグルヌイユ
芸術家の雰囲気 雑誌のグラビア。
フレッドペリーの広告モデルベン。
カンヌ帰り?ウエストラインを凝視していまいました。よく見ると耳に花を挿している

とのことです!ふぇでり子さん、ありがとうございます。
ネコかわいがりのベン、うれしそう。私もうれしい。
芸術家的ベン。うう。すてき過ぎて何も言えない。美しい。
カンヌ帰り?のベン。細い〜。細すぎます。ご飯食べてますか?何食べてるんでしょう?
posted by フェイユイ at 01:19| Comment(3) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月19日

『柔らかい殻』フィリップ・リドリー

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The Reflecting Skin

フィリップ・リドリー作品。ほんとにこちらを先に観ることができたなら心底後悔してしまう。
というのはレンタルできるのが同監督作品では『聖なる狂気』というので以前これを観て記事としてただもう「つまらない」としか書いてないからなのだが。こちらを先に観ていたら絶賛とまではいかなくても世界観が掴めていたのにと思ってしまう。

とはいえ、昨日も書いたことだがつまらないと思うとすぐ忘れてしまう私だが、この2作品では監督の初作品であるらしいこちらの方が断然判り易く面白いのではないかと思う。
どうやら風変わりな監督として評価されていいると後で知ったが『聖なる狂気』では唐突に奇妙な場面が出てきたりするが『柔らかな殻』にはあまりそういう変な演出がなく(変な声を出して歩いてくる双子の尼僧くらいか。といっても二人の尼僧というのは「縁起が悪い」という意味があるわけで)

イギリス人監督が作り上げたアメリカ田舎の物語、という世界なのだろう。現実ではないような奇妙な感覚がある。
麦畑(?)の中にぽつんと建つ家の風景はワイエスの描いた『クリスティーナの世界』みたいだ。
主人公の少年もアメリカ映画によく出てくる悪ガキよりも少し線の細い子が選ばれているように思える。カポーティの小説に登場する少年みたいかもしれない。
物語は非常に断片的なのだが伝えたいことがクリアで面白く観れる。この辺は次の作品である『聖なる狂気』より優れているのではないだろうか。
ただどちらの作品でも感じたのだが、効果音だとか演出だとかが時々突然わざとらしくなってそれまでとても品格を感じさせているのを壊してしまうような個所がいくつかあってそれがこの監督の味だとも言えるのだろうが自分の好みとしてはやや幻滅を感じさせてしまう。
少年たちが吸血鬼と思う女性宅に侵入し目が合って「あーっ」と叫ぶとことセスがショックを受けた後大きな効果音が入る場面なんか、そして特にラストの夕日に向かって叫ぶのはなんだか急に大げさになって冷めてしまう。この辺のおかしな感じは『聖なる狂気』でも感じられるものだったので確かに監督の持ち味なのかもしれない。

蛙のおなかを膨らませ爆発させてしまうような残酷な遊び、顔色の悪いイギリス女性を吸血鬼だと信じたり、大きな車で徘徊しては子供や女を殺して楽しむような男たちに出会ったり、少年期が謎と恐怖に満ちているあの独特の狭くて奇妙で物悲しい感覚が描かれている。
途中で帰郷してくる兄は太平洋で核実験を行っていた兵士でどうやら本人も放射能に侵され病気になっているのだ。
兄が見せる不気味な写真、セスが小屋の中の卵のような容器から見つけた胎児、彼はそれを友人が天使になった姿だと思い持ち帰ってベッドで添い寝する。
セスがまだ何も知らない子供であり、その為に大人だったら恐怖する行為を恐怖と感じないことが恐ろしいことなのだ。

セスが車の男たちのことを黙っていたせいで父と友人と兄の恋人を死なせてしまった。原因の一端はセスが握っていたのに子供らしい思い込みが大事なものを失わせてしまう。
少年期の無垢がどんなに恐ろしいことか。
しかし大概の人間はセスのように理解したことで衝撃を覚えることもなく大人になってぼんやりと思いだすのかもしれない。

監督:フィリップ・リドリー 出演:ジェレミー・クーパー リンジー・ダンカン ヴィゴ・モーテンセン
1990年イギリス

ふぇでり子さんから教えていただき、にこにこ動画で鑑賞しました。ありがとうございます。
どこかでベン・ウィショーを思い浮かべながら観ていたような気もします。9歳の少年セスの役、ベンがそのまま演じてもいいような気がしてしまうのです。ヴィゴはそのままお兄さん役でやって欲しいんですけどねえ。
ラベル:少年 恐怖 犯罪
posted by フェイユイ at 23:14| Comment(5) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『ダークナイト』再び クリストファー・ノーラン

THE DARK KNIGHT.bmp
THE DARK KNIGHT

先日ストーン監督の『ニクソン』を観てて『ダークナイト』を思い出した、と書いたのだが何故どこ繋がりで思い出すのか自分でも判らなく、何しろ初見から『ダークナイト』が好きになれなかったのだが、好きにならないとたちまちすべてを忘れてしまうという物凄い頭脳を持っているので(だから幸せなのか)好きでもないのにもう一度観なければならない羽目になってしまった(って誰も強制しとらんが)
さて前に一度鑑賞して評価の高さに期待大だったのに(しかもヒース・レジャーは私も大好きだし)思ったものとあまりに違って書いた記事はどうしようもなく感情が走っていて読み返すのが辛い。いつもなんだが嫌いになった映画の感想文は昂ってばかりでどうしてそう思うのかというような冷静沈着な分析とは程遠い。他の人で悪いと思う映画にも皮肉を込めながらびしびしと指摘していくような大人の批評を見かけると自分との違いに赤面するばかりなのだが、この映画に関しても結局同じような悪口になってしまった自分にはがっくりしてしまう。今回は2回目ということもあって少しは落ち着いて鑑賞し、文章も書ければいいと願ってはみる。

無論2度目の鑑賞で評価が変わって面白い、と思うのではないかという気持ちもあったのだが、冒頭銀行強盗の場面からすでに「たまんなくつまらない」と思い中断しようかとさえ思ってしまうのだった。
つまり私はこの映画に自分の求める面白さ、興味、といったものをどうしても見いだせないのである。
映画を観る時、私はどうしてもその中に「他と変わったもの、不思議なもの、そんなことがあるのかという驚き」を求めてしまう。
この『ダークナイト』は私にとっては当たり前のことばかりが起こる平凡な物語なのだ。平凡であり定番であるからこそ一般的に受ける、ということなのだろうか。
そしてそれは特にジョーカーにおいて非常に感じられる。
ジョーカーは恐ろしい悪の権化、として登場する。だが彼の悪行はいかにもありがちなことばかりである。まず銀行強盗、ナイフを使ってマフィアや警官を脅していく。病院を爆破したり善良な男性の悪の部分を引き出して喜んだりする。
それらはアメリカ映画で表現として許される範囲内のことである。観る者は安心してジョーカーの悪行を観ていられる。決して小さな子供を変質的に傷つけたり、差別されている人、体の不自由な人を特定に痛めつけるような非道なことにしないモラルを持っている。現実にはジョーカーなんぞよりもっと陰惨な悪魔のようなことをしている人間がいるのだがメジャーなハリウッド映画としては許容範囲内の悪行しかできないわけなのだろう。そういう陰湿な悪は観ている者も気持ちが悪くなってしまうからジョーカーが行うのは公共的なテロという大雑把なものになってしまうので直接的に自分が襲われてしまうのではないか、後ろにジョーカーがいるのではないか、というような恐怖は感じられない。
仕方ない。
いかにも悪い奴という演出で銀行強盗をやっている場面を見続ける。マフィアを脅し、警官、市長、検事などという体制側を脅かすジョーカーを見せられる。それは直接私たちには関係しない場所での悪でさほど恐怖を感じさせるものではない。後は金のかかった派手な演出を楽しみながら展開を観ていくだけである。公共を狙っているジョーカーはそれほど直接的な恐怖を感じさせる存在ではないのだ。
むしろそれはハービー・デントが子供にナイフを突き付ける場面で感じさせられる。(とはいえこれもよくあるパターンだ)か弱い母親と子供たちに刃を向けて脅すデントの行為がこの作品の中で最も直接ぞっとする場面になっているのはどうしてなんだろうか。

こうしてデントの最後の行動は別にすればジョーカーの「自分には直接及ばない」犯行を安心して観ていく。彼はバットマンを殺さないし、バトマンもジョーカーを殺さない。予定調和の中で彼らは戦っている。

そうしたことが自分にはつまらなく感じられる。

原作があり、制約があり、そんな中で非常に上手く作品としてまとめ上げた、という技術は凄いのだろうが自分としてはそういう巧妙さに魅力は感じない。結局ハリウッド映画というのはそういうものなのだな、と納得するだけである。
道徳的に許される範囲内で非常にエンターテイメントでありながらなんとなく難しいことを語っているように感じさせ且つ高い技術力で作った映画作品として高得点になるということなのだろう。

さて先に書いた何故『ニクソン』を観てこれを思い出したか、だが、まあそれはこじつけのようなものかもしれない。
観てやっと気付いたのだがつまり「幼い時は厳格なキリスト教信者の家庭で育ち真面目な人間であったはずのニクソンがいつの間にか人から悪党のように言われてしまう」ことといい人間だったハービー・デントが悪い人間になってしまう、ということ。ニクソンの外見が悪くてジョーカーのように忌み嫌われていること。また本人は自分はとても国民のために尽くして戦争をやめさせ国交を促した「善行」をしているのに国民からは誹りを受けてしまう、というバットマンが感じたような疎外感を感じていること、つまり彼一人で『ダークナイト』の3人の主要人物の要素を持っているのである(かなりこじつけだが)
ということは人間は誰しもバットマンでありジョーカーでありデントである要素を持っているかもしれない、ということだ。
『ニクソン』を観ながら覚えてもいないのになんとなくそう思ってしまったのだろう。

これでこの作品がやっぱり好きじゃない、ということを再確認できた。
はらはらすることもわくわくすることもなくよくある出来事を金と技術は駆使した映像が物凄いスピードで展開していく作品。私にはそういう映画である。

再観してよかったのは今度は落ち着いてヒース・レジャーが観れたことだ。といっても私はジョーカーがむかついてむかついてさすがヒースは凄いなあと思いながらも「きゃーヒース素敵〜」などとは一度も思わずほんっとにジョーカーが嫌だった。まったく彼は何かにとり憑かれているとしか思えない。こんなに本人を忘れて嫌悪感を感じさせることができるとはやはりすごい人なんだと思える。一度も一瞬もヒースの柔らかな笑顔なんか思い出させもしない、嫌な奴だった。
それにしても彼が全面に出ている映画はこれが最後なんて悲しい。特に私には意味のない作品だったから。
こんな映画に出なかったら、と思ってもしょうがないことなんだろうか。

監督:クリストファー・ノーラン 出演:クリスチャン・ベール マイケル・ケイン ヒース・レジャー ゲイリー・オールドマン アーロン・エッカート マギー・ギレンホール モーガン・フリーマン エリック・ロバーツ
2008年アメリカ
ラベル:暴力 犯罪
posted by フェイユイ at 01:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月17日

『バロウズの妻』ゲイリー・ウォルコウ

バロウズの妻.jpg
Beat

苦情を言っても色んな言い訳を返されそうな作品なのだが、とにかく物足りない作品だった。

トラブルも多かったようだがそんな内情まで汲んで納得するわけにもいかないだろう。
まず冒頭のデイブ・カマラーがルシアン・カーをどんなに素晴らしいか説明する場面でがっくりきてしまった。魅力というのは当人の姿を映すこと、言動や顔かたち、体つきや物腰で観る者が感じることであって「彼は素敵なんだ」と説明されるとはなんなのだろう。
登場人物の説明が極端に少ない映画で彼らのことを知らなければ物語の筋も彼らの存在も理解しにくい映画なのだがあえてそうすることで不思議な面白さを出したいわけではないのか。
ルシアン・カーが彼らのアイドル的存在だということだけは言葉で説明してしまう必要はない。
次にバロウズに何故キーファー・サザーランドなのか。あの丸い顔でバロウズなんて。あの性的な隠微さも精神の際どさも彼から感じることはできない。特に自分はつい先日『裸のランチ』で陶酔し、ピーター・ウェラーのバロウズに見惚れたばかりである。こんなぷりぷりしたバロウズなんて御免である。しかも男の愛人との旅行中、倦怠している、という演出のつもりなのかもしれないが二人に危険な愛の香りも感じることはできないしキーファー=バロウズが若い男に情念を抱いているというのがまったく見えてこないのだ。まるで何十年も前の嫌悪すべきとされていた同性愛を恐る恐る描いていた頃の映像のようで、こんな中途半端な映像ならむしろ撮らずにここも言葉だけでの説明にした方がよほどましだったのではないだろうか。
ルシアン・カーを演じたノーマン・リーダス。特に可もなく不可もなく、という印象である。彼自身は確かによくいう美形の男性と言えるのだろうが先に書いたように彼がどうしてそんなにビートニクと呼ばれた才能ある男たちを惹きつけたのか、ここで描かれるルシアンはちょっとだけ容姿のいい普通の若い男、としか見えない。多分この製作者は彼をそんなに特別な人間として描こうとはいていないのだろう。彼が殺人を犯したのも友人の妻を誘ったのも幾人もの才媛たちを夢中にさせたのも彼がちょっと可愛かっただけのようにしか見えない。彼が天使か悪魔で人を翻弄したようには思えないのだ。(US版のほうがルシアンの気持ちが判りやすいという。そんなこと言われたってしょうがない。だとしてもさほど観たくはない)ここでのルシアンはごく普通の青年がビートニクによって美化されてしまったのだ、と表現されているようだ。だとすれば冒頭映像ではなく言葉だけで彼を誉め讃えた意味が判る。
映画自体麻薬に溺れ自由奔放な生き方をしたビートニク、というイメージではない。ごく普通に愛や生活に悩んだ人々、という映し方である。彼らは上手くいかない愛に疲弊している、というだけだ。
あの『裸のランチ』のような狂気・異常さに満ちた世界ではないのだ。
バロウズが妻を撃ち殺した後の心情がまったく異なっているのが面白い。この作品でビートニクは普通の人々として表現されているのだ。
そういう描き方がいいと思う方には受け入れやすい作品なのかもしれないが、クローネンバーグが好きな自分には悲しい作品だった。

ここでよかったのはアレン・ギンズバーグでルシアンに対しての感情も切なく一番深く描かれていたのではないだろうか。
彼が中心の作品だったら、などと言っても仕方ないか。

また、日本語タイトルに不満がある。『バロウズの妻』となっているので彼女を中心とした作品なのかと思っていたが(まあ映画冒頭で『BEAT』と出るのでああそうか、とは思ったがわざわざ日本語タイトルにしているのだからそういう内容かと思ってしまうではないか)彼女は置き人形みたいなもので彼女の心理というものは殆ど掴めないのである。日本語タイトルが頭に入ってしまっていたので疑問が生じてしまったのだが本当のタイトルは『BEAT』なのだから責任はない。
というのは「妻」が主人公ならもっと彼女に焦点を当てた物語であって欲しいが視点はあちこち彷徨っていて妻であるジョーンは赤い唇と赤いパンツが印象的なだけで彼女の内面が伝わってはこない。何故彼女が殺されたのか、とはまったく考えないが(この内容じゃ殺されて当然のような)何故彼女がバロウズに固執したのか判らないのだ。あの色気を持って貞淑だというのも理解しがたい。(これもクローネンバーグのほうがはるかに判りやすい)これも普通の女性だったと言いたかったからなのか。私としてはもっと彼女に入り込んでビートの作家たちを見つめて欲しかった。
映画の中身より最後に流れる文章が最も興味深かった。

と、散々な批評になってしまったが、これもすべてベン・ウィショーのルシアン・カーを観るためだったのでそれなりに楽しんで観ることができたのだった。
本当にベンがルシアンを演じると知ってから観てよかった。でなけりゃもっと悲惨な鑑賞になっていただろう。
ベンが出演する『Kill Your Darlings』(あれ、これ複数形なのね)がこんな説明だけの映画には絶対ならないと信じたい。というか信じ切っているけど。

監督:ゲイリー・ウォルコウ 出演:コートニー・ラヴ ノーマン・リーダス ロン・リビングストン キーファー・サザーランド
2000年 / アメリカ

バロウズが見たいなら大好きなガス・ヴァン・サント『ドラッグストア・カウボーイ』
William S Burroughs scene in Drugstore Cowboy
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2009年06月16日

『動物農場』ジョン・ハラス&ジョイ・バチュラー

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ANIMAL FARM

ジョージ・オーウェルも読まなくてはならないなあと思いながら読まないま今日に至ってしまったのだがこうしてアニメで学ぶことができるのは何とも有難いことだ。
アニメ自体1954年公開のもので確かに現在の日本のアニメと比較すればあまりに単純な絵と技術と演出だろうがそれだけにより生々しく明快に訴えてくるのではないだろうか。
最初はあまりに動物たち(人間も)が稚拙のように思えたがすぐに慣れてしまってそんなことより内容の恐ろしさが気持悪く、この絵だからまだ観れるがもっとどうにかした絵だとおぞましくて観ていられないのではないかとさえ感じられてくるのだった。

人間に支配されていた家畜たちが劣悪な環境に対し反逆する。この運動は成功し人間を追い出すことができた彼らは豚たちを先導者、特にスノーボールがそのリーダーとして他の動物たちを引っ張っていく。
動物だけの農場が案外うまく運営できるようになった時、スノーボールは彼らのためによりよい環境を作ろうと立案する。だがそうしたスノーボールの地位を奪おうとする豚ナポレオンは隠れて犬たちを手なずけ自分だけの武器にし、スノーボールを殺害するのだ・

なんて判り易い革命の過程、そして権力の移り変わり。虐げられていた者が立ち上がりいつしかその中からさらなる反逆者が生まれる。
圧政を憎んでいたものがさらなる圧政を他にかけようとする。
いい豚だったメージャー爺さん、スノーボールの死後はナポレオンを頂点とする豚たちが他の動物たちを下等と見なして過酷な労働を強いていく。
動物農園のシンボルとなる風車の建設という重労働を苦にすることもなく働き続ける馬のボクサーと仲良しのロバ・ベンジャミン(!)(単純にもロバがベンジャミンだったのでどうしても彼がベン・ウィショーのような気がして^^;親友ボクサーと仲良く働く姿が可愛いのだ)の二頭が自分たちが頑張ることでいい農場ができると信じている姿と家の中でのうのうと寝そべっては食ってばかりの豚たちの対比が歯がゆい。
しかも人間たちの侵入と暴力で風車が破壊されボクサーは傷を負った体で風車の再建に耐えて働く。ついに力つきたボクサーを豚たちが売り飛ばしその死と引き換えに手に入れた酒を飲むのを観た時はいくらアニメの豚の話とはいえむかむかしてしまうではないか。
ボクサーがにかわ工場へ運ばれて行くのを見た親友ベンジャミンは泣き叫びながら彼を追いかける。
その後もベンジャミンは豚たちの圧政の下で働き続けるのだが豚たちの「下等な動物をもっと低い条件のもとで働かせる豚たちに励ましの勲章を与えられる」光景を見た時、痩せてあばら骨の浮いたベンジャミンは動物たちとともに再び立ち上がる。

スノーボールが掲げた動物たちが幸せに暮らすための法律をナポレオンたちが次々と自分らの都合のいいように変えていく。
この物語は当時のソ連を批判しナポレオンはスターリンを意味しているらしいが様々な国の指導者に似た姿を見ることができるのだろう。
多分私が思ったことは殆どの人が感じることなのだろうが、それでもまた同じような権力と圧政が繰り返されてしまうのか。ボクサーがかわいそうでならないし、卵を取られて反抗したことで殺されるめんどりたちが哀れだ。

監督:ジョン・ハラス&ジョイ・バチュラー
1954年 / イギリス
posted by フェイユイ at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月15日

『ニクソン』オリバー・ストーン

nixon.jpg
NIXON

えと、もう『ブッシュ』は日本で公開されたんだよね。なのに私は今頃『ニクソン』を初めて観ているというわけなのだが。

『ブッシュ』も楽しい映画ではないだろうが、『ニクソン』なんだかなあ、判って観ているのに言うのもおかしいがこんなに嫌〜な気持ちになる映画を3時間以上も見つめ続けるのは辛いことである。
恥ずかしながら私は若い人でもないのにニクソンのことを全く知らなくてこの映画でやっとこういう人だったのか、と思った程度の人間なのだが(O・ストーン監督から騙されていたらどうしようもない)とにかくこの映画で描かれるニクソンというアメリカ大統領の惨めさだけが伝わってくるのだった。
ホプキンスの演じるニクソンの醜悪さ。対比として登場するジョン・F・ケネディがカッコよすぎてかわいそうなくらいだが、同情心は微塵も感じない。
物凄く陰湿な表情をしているかと思えばいきなり歯を見せてニカッと笑うのだが、これがあまりに不細工でよくここまでむかつく笑顔ができるものだと(ホプキンスに)感心してしまう。
演説をする時はいつも鼻の下に汗をかいててみっともないし、追い詰められて機嫌が悪くなると周囲の人と物に当たり散らすという徹底した不様である。
ウォーターゲート事件の隠蔽および不法な資金融資、部下への心ない仕打ちなどを見せつけられた後で「私は戦争を終わらせ、中ソの外交を成功させた。私のどこが悪い。私を何故嫌うんだ」と言ってめそめそ泣きだす場面はもう憐れとは思えず腹がたってくるのだからオリバー・ストーン監督の絞り上げ方の徹底ぶりといったら相当なものである。

彼は本気で自分を正しいと思っていたのか。あの時妻の言葉通り政治界から身を引いていればこんな残酷な日々を送ることもなかったろうが、政治家を目指すものはやはり頂点に立つ機会があるならそれを蹴ってしまうことはできないものなのか。
宗教的な意味合いで自分が犠牲となって進みたくない道でも進まねばならないのだと思いこもうとしたのか。
では何故不正を犯してしまうのか、何故誰も信じることができず、憎しみだけが彼を取り巻いているのか。
頂点に立ちながらこんなに惨めな存在が他にもあるのだろうか。それとも多かれ少なかれそういうものなのか。

観ながら何故か私としては好きになれなかったバットマンシリーズ『ダークナイト』を思い出した。何故なんだろう。

監督:オリバー・ストーン 出演:アンソニー・ホプキンス ジョーン・アレン パワーズ・ブース エド・ハリス
1995年 / アメリカ
ラベル:政治 歴史
posted by フェイユイ at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ベン・ウィショーの新作予定映画とりまとめ

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ここでベン・ウィショーの新作予定(?)作品をまとめてみましょうか。

Bright Star (2009) ジェーン・カンピオン監督 これはもうカンヌ出品作でありますが、日本での公開は未定。なんとかDVDだけでも出て欲しいものです。
ベンは19世紀のロマン派の詩人ジョン・キーツ役。

Love Hate (2009) Blake Ritson/Dylan Ritson監督 ベンはトム役となっています。

The Restraint of Beasts (2008) 完成未定となっているようです。
エディー役。

The Tempest (2009)Julie Taymor監督 シェイクスピア『テンペスト』ベンはアリエル役。空気の精です。

Kill Your Darlings (2010)John Krokidas監督。ビートニク(アレン・ギンズバーグ、ケルアック、バロウズ)たちのミューズ的存在だったというルシアン・カー役。Ben扮するルシアン・カーが引き起こした殺人事件を軸にストーリーが展開する模様、だそうです。
私はそれほどビートニクにのめり込んだわけではないですが、それでも昔少々興味というのか好奇心というべきかで覗きこんでみたものです。同性愛も絡んできますので無視はできませんしね(笑)詩と薬と同性愛と自由な生き方、という世界ですねー。『バロウズの妻』やっぱり早く観よう。

情報はふぇでり子さん&はーやさんからいただいた(いつもありがとうございます!)とネット上に出ているものです。
間違いもあるかもしれませんし、未定もあるようですが、どれも楽しみなものです!!!

こちらにいろいろと紹介されています
Whishaw Revisited
posted by フェイユイ at 01:04| Comment(18) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月13日

田宮二郎『白い巨塔』<1978年版>第8〜10話

実は昨日8話だけを観ていたので五郎の教授選挙どうなったかと気をもみながらつづくとなったわけだった。
それにしても10話と観てくるとさすがにTVドラママンネリズムがたまらない。本来なら1週間に1話だけ観るものなのだからこのマンネリ化したキャラクター演出が楽しみなのだろうが同じことばかりを繰り返すおやじ連には参ってしまう。
ま、それでも「いいお話」ではなく「悪い奴ら」ないしは「嫌な奴ら」の話だからまだ我慢できるのかもしれないが。
本当に観ているだけで医学界というか大学内の腐敗の匂いが芬々である。一体こんなことばかりやっててこの間の外科手術などはきちんと行われているのだろうかと不安になってくる。
財前五郎にしても最初から悪役だと判って観ていてもやはり気持のいい主人公とはどうしても思えないし、微塵も共感できないのだが周りのオヤジたちの奮闘ぶりが面白くて見ているわけである。
おまけに五郎のライバルとなる金沢大学の菊川教授がいい人なのでこれって菊川さんになってもらったがいいんじゃないのかなあと思ってしまうというのもおかしな感じである。東教授が五郎を嫌うのも当然のようにも思えるし、東教授側で嫌なのは奥さんだけだがその奥さんが一人で悪役になって頑張っている。後は今津さんがやたら鼻の下に汗をかいているのが気になるくらいである。
そして一番気の毒なのが菊川教授だ。真面目な人柄を買われて財前対抗馬に推薦されたのにこの仕打ち。まあ、もうこんなごたごたはこりごりだと嫌なことが終わってほっとされたであろう。
そう、つまり財前五郎がとうとう浪速大学第一外科教授に選ばれたのである。
さすがに選挙投票結果が出る場面はちょっとどきどきしたが、選ばれてもちっとも喜ばしくないという変な主人公である。
こういう考え方をしてしまうのは時代の違いなんだろうか。昔放送当時ならもう少し喜べたんだろうか。里見助教授の在り方がやっぱり憧れてしまうのだがなあ。別にご飯が食べられるならそれでいいんじゃないか、と思ってしまうのは今だからなんだろうか。

五郎の義パパのように金で心が動かない人がいるかいな、と信じてる人もいれば大河内教授や里見のような絶対不動の人物もいるのが面白い。小松方正演じる野坂教授のようなのも。

さてさて五郎が手に入れた教授の席。ここで終わりじゃないってことは(というかこれからが長いし)またまたこれからもドロドロとした世界が渦巻いていくのだなあ。

余談だが、このドラマを観ていると今のTVドラマよりかなりセリフにつっかえたり、言い淀んだりする場面がある。
つまり今のヤツはよくNG特集なんてのがあるけど少しでも間違えると撮り直しで完全に滑らかに会話するまでやり直すのだが、この当時のドラマ(か、この『白い巨塔』だけなのかはわからないが)はかなり生っぽく、というかやり直しなしで撮影している、ということなのだろうか。
セリフも難しいのが多いから大変そうにも思えるのだが、結構セリフでつまづくのだよねー。却って凄いな、と思ってしまうのだった。

出演:田宮二郎 生田悦子 太地喜和子 島田陽子 中村伸郎 山本學 中村伸郎
1978〜1979年 / 日本
posted by フェイユイ at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 白い巨塔<1978年版> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする