
THE DARK KNIGHT
先日ストーン監督の『ニクソン』を観てて『ダークナイト』を思い出した、と書いたのだが何故どこ繋がりで思い出すのか自分でも判らなく、何しろ初見から『ダークナイト』が好きになれなかったのだが、好きにならないとたちまちすべてを忘れてしまうという物凄い頭脳を持っているので(だから幸せなのか)好きでもないのにもう一度観なければならない羽目になってしまった(って誰も強制しとらんが)
さて前に一度鑑賞して評価の高さに期待大だったのに(しかもヒース・レジャーは私も大好きだし)思ったものとあまりに違って書いた記事はどうしようもなく感情が走っていて読み返すのが辛い。いつもなんだが嫌いになった映画の感想文は昂ってばかりでどうしてそう思うのかというような冷静沈着な分析とは程遠い。他の人で悪いと思う映画にも皮肉を込めながらびしびしと指摘していくような大人の批評を見かけると自分との違いに赤面するばかりなのだが、この映画に関しても結局同じような悪口になってしまった自分にはがっくりしてしまう。今回は2回目ということもあって少しは落ち着いて鑑賞し、文章も書ければいいと願ってはみる。
無論2度目の鑑賞で評価が変わって面白い、と思うのではないかという気持ちもあったのだが、冒頭銀行強盗の場面からすでに「たまんなくつまらない」と思い中断しようかとさえ思ってしまうのだった。
つまり私はこの映画に自分の求める面白さ、興味、といったものをどうしても見いだせないのである。
映画を観る時、私はどうしてもその中に「他と変わったもの、不思議なもの、そんなことがあるのかという驚き」を求めてしまう。
この『ダークナイト』は私にとっては当たり前のことばかりが起こる平凡な物語なのだ。平凡であり定番であるからこそ一般的に受ける、ということなのだろうか。
そしてそれは特にジョーカーにおいて非常に感じられる。
ジョーカーは恐ろしい悪の権化、として登場する。だが彼の悪行はいかにもありがちなことばかりである。まず銀行強盗、ナイフを使ってマフィアや警官を脅していく。病院を爆破したり善良な男性の悪の部分を引き出して喜んだりする。
それらはアメリカ映画で表現として許される範囲内のことである。観る者は安心してジョーカーの悪行を観ていられる。決して小さな子供を変質的に傷つけたり、差別されている人、体の不自由な人を特定に痛めつけるような非道なことにしないモラルを持っている。現実にはジョーカーなんぞよりもっと陰惨な悪魔のようなことをしている人間がいるのだがメジャーなハリウッド映画としては許容範囲内の悪行しかできないわけなのだろう。そういう陰湿な悪は観ている者も気持ちが悪くなってしまうからジョーカーが行うのは公共的なテロという大雑把なものになってしまうので直接的に自分が襲われてしまうのではないか、後ろにジョーカーがいるのではないか、というような恐怖は感じられない。
仕方ない。
いかにも悪い奴という演出で銀行強盗をやっている場面を見続ける。マフィアを脅し、警官、市長、検事などという体制側を脅かすジョーカーを見せられる。それは直接私たちには関係しない場所での悪でさほど恐怖を感じさせるものではない。後は金のかかった派手な演出を楽しみながら展開を観ていくだけである。公共を狙っているジョーカーはそれほど直接的な恐怖を感じさせる存在ではないのだ。
むしろそれはハービー・デントが子供にナイフを突き付ける場面で感じさせられる。(とはいえこれもよくあるパターンだ)か弱い母親と子供たちに刃を向けて脅すデントの行為がこの作品の中で最も直接ぞっとする場面になっているのはどうしてなんだろうか。
こうしてデントの最後の行動は別にすればジョーカーの「自分には直接及ばない」犯行を安心して観ていく。彼はバットマンを殺さないし、バトマンもジョーカーを殺さない。予定調和の中で彼らは戦っている。
そうしたことが自分にはつまらなく感じられる。
原作があり、制約があり、そんな中で非常に上手く作品としてまとめ上げた、という技術は凄いのだろうが自分としてはそういう巧妙さに魅力は感じない。結局ハリウッド映画というのはそういうものなのだな、と納得するだけである。
道徳的に許される範囲内で非常にエンターテイメントでありながらなんとなく難しいことを語っているように感じさせ且つ高い技術力で作った映画作品として高得点になるということなのだろう。
さて先に書いた何故『ニクソン』を観てこれを思い出したか、だが、まあそれはこじつけのようなものかもしれない。
観てやっと気付いたのだがつまり「幼い時は厳格なキリスト教信者の家庭で育ち真面目な人間であったはずのニクソンがいつの間にか人から悪党のように言われてしまう」ことといい人間だったハービー・デントが悪い人間になってしまう、ということ。ニクソンの外見が悪くてジョーカーのように忌み嫌われていること。また本人は自分はとても国民のために尽くして戦争をやめさせ国交を促した「善行」をしているのに国民からは誹りを受けてしまう、というバットマンが感じたような疎外感を感じていること、つまり彼一人で『ダークナイト』の3人の主要人物の要素を持っているのである(かなりこじつけだが)
ということは人間は誰しもバットマンでありジョーカーでありデントである要素を持っているかもしれない、ということだ。
『ニクソン』を観ながら覚えてもいないのになんとなくそう思ってしまったのだろう。
これでこの作品がやっぱり好きじゃない、ということを再確認できた。
はらはらすることもわくわくすることもなくよくある出来事を金と技術は駆使した映像が物凄いスピードで展開していく作品。私にはそういう映画である。
再観してよかったのは今度は落ち着いてヒース・レジャーが観れたことだ。といっても私はジョーカーがむかついてむかついてさすがヒースは凄いなあと思いながらも「きゃーヒース素敵〜」などとは一度も思わずほんっとにジョーカーが嫌だった。まったく彼は何かにとり憑かれているとしか思えない。こんなに本人を忘れて嫌悪感を感じさせることができるとはやはりすごい人なんだと思える。一度も一瞬もヒースの柔らかな笑顔なんか思い出させもしない、嫌な奴だった。
それにしても彼が全面に出ている映画はこれが最後なんて悲しい。特に私には意味のない作品だったから。
こんな映画に出なかったら、と思ってもしょうがないことなんだろうか。
監督:クリストファー・ノーラン 出演:クリスチャン・ベール マイケル・ケイン ヒース・レジャー ゲイリー・オールドマン アーロン・エッカート マギー・ギレンホール モーガン・フリーマン エリック・ロバーツ
2008年アメリカ