映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年06月12日

『ジム・ヘンソンのストーリーテラー』 vol.1 第4話・5話

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Jim Henson's The Storyteller

さて今夜は第4話と第5話。これはロシア民話であった。
ドイツのグリム童話に比べると馴染みがないせいかもっと変わっているような気がする。そういえば『せむしの子馬』とか『イワンの馬鹿』(どちらもタイトルに問題があるなあ)が有名でどちらも幸運がどんどん押し寄せてくるような話だがこの2話も同じような筋書きではある。

第4話「幸運の持ち主」THE LUCK CHILDは、占い師の「7人兄弟の末っ子が素晴らしい幸運の持ち主でこの国の王になる」と言うのを信じた王が貧しい農民の7人兄弟の末っ子を殺したつもりになるが実はその子が生きていて(つまり幸運の持ち主)結局王様になり王の娘を妻にする。
ここまではよくあるがその時王がグリフォンの羽を取って来いと末っ子に難問を吹きかける。末っ子は簡単に引き受けるとあっさりとグリフォンの羽を手に入れて帰ってくる。しかもたくさんの宝物まで持って。
この末っ子はあくまでも「幸運の持ち主」なので何も努力をしておらずどちらも出会った強盗に助けられる、という変な話である。
最初強盗は王様から手紙を預かって城へ向かう末っ子から金を奪うつもりなのだが彼が持っているのは王様からの手紙だけでそこには「この手紙を持ってきた若者を殺せ」と書いてある。あまりの酷さに同情した強盗が偽の手紙を書く。そこには「若者を娘の婿にしなさい」と書いてあったのだ。
2度目も同じ強盗がなぜかグリフォンの居場所にいて彼に為に羽を抜いてあげるのである。そんなことをしたらグリフォンに殺されてしまうかもしれないのに何故強盗がそこまで末っ子に尽くすのか、よくわからない。
しかもその後、グリフォンの住む島まで乗せてくれる船頭が「いつまでも舟をこぎ続けなければならないのだ」と悩んでいるのでグリフォンから強盗が答えを聞き出したのを教える。つまり「乗せた客に櫓を持たせてしまうのだ」
末っ子が持ち帰った財宝に目がくらんだ王様はグリフォンの島を目指し、まんまと舟を押し付けられてしまう、という物語である。
結局末っ子は何もしない。
貧しい農民はこのくらいの幸運がなければ王様になることなどあり得ない、ということなのかもしれない。
幸運児:スティーブン・マッキントッシュ
王:フィリップ・ジャクソン
妃:ポーリーン・モラン

第5話「兵士と死神」THE SOLDIER AND DEATH も同じように幸運続きの兵士の話で自分も腹をすかせていたのに施しをしたのが発端ではあるがその後はトントン拍子に幸運を得ていく。
「口笛」と「絶対勝つカード」と「なんでも吸いこんでしまう袋」を手に入れるのだ。
悪魔にも勝って悪魔を袋に吸い込み家来にしてしまう。その上「死神が見えるグラス」というのももらってあちこちで稼ぎ出し死にそうな王様の代わりに自分が犠牲になると言って死神を騙し例の袋に閉じ込めてしまう。
ところがここからちょっと風向きが変わってきて、世の中の人間が死ななくなり老人が溢れて皆死を願い始めるのだ。
仕方なく兵士は死神を外に出し、自分も死を願うが死神は逃げ出してしまい兵士は死ねず骨と皮ばかりの老人になってしまう。
地獄に行っても悪魔に嫌われ、天国に行っても入れてもらえず兵士は地上に戻って彷徨い続けている、という出だしがいい人で途中もいい人には違いないのにかなり残酷な最後になっている。
ところがジョン・ハート演じるストーリーテラーは「そんなことでくじける兵士じゃないよ」と犬に話しかける。犬君は同情しながらもやっともらえたビスケットをおいしそうに頬張る。
死神のキャラクターが寂しげで印象的であった。
兵士:ボブ・ペック
皇帝:ジョン・フランクリン・ロビンズ
死神:アリステア・フラートン

これでvol.1は終わり。これはどれも結構複雑でちょっと怖いのではっきりと子供向けではないのだろう。とても面白かったが結局こういうものって一人でもいいからアイドル的な役者、有名役者が出ているかどうかなのかもしれない。
語り手のジョン・ハートしか知らないからなあ。
全部アニメならそういう問題はなくなるわけだけど。
その時はどのくらい魅力的なキャラが描けているか(人形なら作られているか)である。

統括プロデューサー:ジム・ヘンソン  監督:ジョン・アミール(第4話)、ジム・ヘンソン(第5)
1985年アメリカ/イギリス


ラベル:童話 マペット
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2009年06月11日

『ジム・ヘンソンのストーリーテラー』 vol.1 第1話〜3話

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JIM HENSON'S THE STORYTELLER

『セサミストリート』をちらりと観たことは無論あるが(TVが家にある人で全く見たことが無い、という人はいないと思うが)ジム・ヘンソンという名前を記憶してもいなかったのだが、なんだか突然選んでしまった。

どうやらTV番組のようで、夜分、暖炉の前でジョン・ハートがやや奇怪な面立ちになり自分がかつてストーリー・テラーとして各地で話をしたことを犬に語って聞かせる、という構成になっている。ジョン・ハートは本人だが聞き手の犬を始め(犬が聞き手なんてそれだけでもう可愛い。しかも人語を話す!)物語に登場する様々なクリーチャーがジム・ヘンソンのマペットである、という趣向である。昨日のトリュフォーよろしく最先端CGなぞは用いない温かみのあるそしてやや不気味さと愛らしさが混じったようなマペットたちである。
今夜は3話分を観たのだが、何故今まで観なかったかなーと思ってしまう面白さだった。
特に第1話「ハリネズミのハンス」HANS MY HEDGEHOG はハンスの造形といい(これはマペットではなく人間が演じている)物語の深遠さといい、子供期にTVでこれを観たら忘れられない恐ろしさに満ちているのではないだろうか。
物語は子供のいない農家の夫婦がいて妻のほうは子供欲しさについ「ハリネズミのような醜い子供でもいいから産みたい」と言ってしまう。願い事は叶えられ、彼女はハリネズミそっくりの針の生えた男の子を産むのだ。父親は周囲の人々の嘲りに耐えられないが、母親は心からハリネズミのハンスを愛しんで育てた。だが人々の苛めと父親の蔑視にハンスはオンドリに鞍を載せて家を出ていく。
ハリネズミなんて可愛いものだが、確かにハンスの容貌は可愛いものではない。もしかしたらこういう人もいるかもしれない、と思わせるような直視できないようなものがある。
子供ができない夫婦という境遇から生まれたハンスは母からは溺愛され父からは嫌われる。これも何か現実にあることのようである。
家出するハンスに父はほっとするが母親は嘆き死んでしまう、というのが悲しい。
さて父親から鞍と家畜をもらったハンスは10年ほど山の中で一人暮している。そこへ王様が通りかかりハンスに宿と食事を提供してもらう。お礼として王様は城に戻って最初に会ったものをハンスに渡すと約束する。果たしてそれは愛娘の姫だった。
醜いクリーチャーが王の約束で娘の姫を嫁にする、という話はよくあるものだが、結婚したその夜姫は先に眠ってしまう。はっとして目をあけるとそこに毛皮を脱ぎ捨てる美しい男の姿があり、男はそのまま外へ出ていく。そこには柔らかな針で覆われた皮が残されている。
次の晩、姫は眠ったふりをして様子を確かめる。そして残された針皮の上に横たわって寝てしまう。
無論、ここでもう姫は皮を脱いだ時の若く美しい夫に恋をしえしまっている。
夫は人間の姿のまま戻ってきて姫に告げる。
「後一晩、だれにもこのことを話さなければ、私は呪いが解け、人間になれるのだ」
うきうきしてしまった姫はうっかり母親に話してしまいそうになる。母親は娘の変化に気づき、「占い師にきいたのだけど、もしかしてあの男が皮を脱いだのならそれを火にくべなさい」
最後の晩、皮を脱いだ夫が外へ出ていくと姫は母親の言葉を思いだし、その皮を暖炉で燃やしてしまうのだ。
途端に外から夫の苦しむ声が聞こえ、姫が見ると夫は元のハリネズミの姿になっている。
そして妻の裏切りに気づき、オンドリに乗って出て行ってしまうのだ。
童話ではこの「してはいけない」という約束を必ず破ることになる。
読んでる(聞いてる)者ははらはらするが若い姫(や若い女であることが多い)は何気なく約束を破ってしまう。たちまち希望は失われる。
ここでは今まで大事にされてきた姫が鉄の靴を履いて夫のハリネズミを探す旅にでる。お姫様が旅に出るなんて不思議だが、これは普通の若い娘の比喩であるだろうから経験不足で失敗をした娘は苦難の旅をしなければいけないのである。
そして鉄の靴を3足も履きつぶして夫に再会する。娘の謝罪と抱擁で人間になった夫を伴い城へ戻り、二人は今度は本当に祝福された夫婦となる。
呪いによって醜い姿、動物の姿に代えられた者が愛を得て人間に戻れる、という物語はどうしてこんなに惹きつけられるものなのか。
それもそのために厳しい苦難を乗り越えなけらばならない、ということにまた惹きつけられる。
ハリネズミというのも男性の青年期の荒々しさを表現しているもののよにも思えるし、原作はグリム童話なのだが本当に面白いと思う。
子供向けの本で単純化してしまって毒が抜けてしまっているものがあるがやはりでいるだけ恐ろしい部分は残していた方が心に残るものである。
ハンス:エイルザ・バーク
農夫:エリック・リチャード
農夫の妻:マギー・ウィルキンソン
王女:アビゲイル・クリューテンデン

第2話「恐怖を知らなかった少年」FEARNOT
フイアノット:リース・ディンズデール
鍛冶屋:ウィリー・ロス
リディア:ガブリエル・アンウォー
第3話「最後の一話」A STORY SHORT
料理人:ブライアン・プリングル
物乞い:ジョン・カヴァナフ
ストーリーテラーの妻:ブレンダ・ブレタイン
どちらもちょっとおかしさのあるでもまた含みのある面白さもあってとても楽しい。
語り手であるジョン・ハートの声もいいし、何といっても犬くんが可愛いのだ。

統括プロデューサー:ジム・ヘンソン  監督:スティーブ・バロン(第1,2話)、チャールズ・ストリッジ(第3話)
1985年アメリカ/イギリス
ラベル:童話 マペット
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2009年06月10日

『華氏451』フランソワ・トリュフォー

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FAHRENHEIT 451

これは観ねば観ねばと思いながら延び延びになってやっと今になって鑑賞。
というのはすでに内容が判っていたからでもあるし、演じる俳優たちがそれほど観たくなる欲求を抱かなかったからだが。
しかしやはり原作レイ・ブラッドベリ。監督フランソワ・トリュフォーとロマンチスト双璧と言いたい創作家たちの手になる作品ゆえ観始めるとこれはもう見入ってしまうのである。

何といってもまず素晴らしいのはその当時にあるものをそのまま使っただけ、のSF的背景・衣装・小道具。
やたらと予算だけは高いCGだのなんだのの豪華さだけが際立つ作品にはさほど興味はわかないが、なんとか工夫して未来的なイメージを出してみせるこの手作り感が愛おしい。
とはいえ赤い車で疾走する黒い服の男たちの外観は充分不気味に思えてくる。
モンターグの変化がとても興味深い。初めは政府側の消防士の中でもめざましい活躍を見せて昇進も確約されている男である。
(ところで日本語で消防士というのは凄く訳として困るね。ファイヤーマン、だとそのままの意味でいいのに)
彼らの仕事は「人々に余計なことを考えさせてしまう『本』というものをすべて焼却してしまうこと」
家は皆防火されているのでファイヤーマン(消防士)の仕事は消火ではなく『本』を燃やすことなのである。

彼は一人の若い女性クラリスに出会う。彼女は本の大切さを知っていてモンターグに目を付け仲間にしたいと近づいたのである。
モンターグには妻がいて一日中TV番組を見ては薬を飲んで何も考えてもいないし、覚えてもいない。そんな妻とクラリスをジュリー・クリスティが両方演じているというのも面白い。
何も考えずに生きていたモンターグは本を読みたいと思ってしまう。
そしてたちまちのめりこんでしまい、「追い付かねば」と読みあさるのである。
こんな世界には生まれたくないが、彼のその時の喜びを考えるとぞくぞくする。
ディケンズを読む楽しみ。
今までそれを知らなかった。なんということだ。
字を読み、物語が頭の中に入り込んでくる喜び。彼らの姿が浮かび彼らの心が自分の中に伝わってくる。喜びも悲しみも怒りも。文字が物語となるのだ!
ここでTVはすっかり悪役となって登場する。TVの中の人々は自分の「いとこ」であり、自分もTV番組に参加できることが何よりも楽しみとなる。
そしてついにモンターグが本を焼き尽くす消防隊長に我慢できず殺害してしまうのだが、政府はモンターグを追いかけることをあきらめ、だが大衆を満足させるためにモンターグを追い詰め撃ち殺す偽の映像を放送するのである。
まさか、ここまでは、と思うのだが、今のTV番組で実際やらせだの誇大表現だの偽りの映像だのと騒がれるのを見てると満更ありえなくもないのかもしれない。

TVに脳を侵されていく人々と対照的に「本」を愛していく人々が描かれる。
TVにも面白くて為になる番組もあるよ、とふて腐れる御仁もおられようがここでの「本」を愛する人々の描き方がとても素晴らしいので我慢していただきたい。
本を燃やす隊長を殺したモンターグはクラリスから聞いた森の奥の「本の人」(ブックピープル)のいる場所へと向かう。
その人々は一人ひとりが自分の好きな本を暗唱できるように覚え込んでいるのである。
たとえ政府が本を焼き尽くしても彼らの頭の中には「本」が入っている。死にそうな老人は孫に自分の「本」を伝承する。
モンターグは持ってきたエドガー・アラン・ポーを懸命に読み始めるのだった。
一人ひとりが図書館である、というなんともロマンチックな発想ではないか。大好きな本を覚え、次に伝える。いつかまた本にできる日が来るだろう。そしてまた禁じられたらそれを覚えて伝えるのだ、という彼ら。
もうラストも知っていたのになんだかじんわりしてしまう。美しいラストシーンなのである。

監督:フランソワ・トリュフォー 出演:オスカー・ウェルナー ジュリー・クリスティ シリル・キューザック アントン・ディフィリング アン・ベル
1966年 / イギリス/フランス
ラベル:思想
posted by フェイユイ at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月09日

『ビューティフル・マインド』ロン・ハワード

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A Beautiful Mind

例によって何も知らないまま(もういい加減言わんでいいって)観ていたら、物凄く不思議な世界に入り込んでいく物語だったのでのめり込んで観てしまった。しかも実在の人物だと途中(というかつまりあの最後)でやっと気づき驚いてしまった。

この映画を観ている分にはジョン・ナッシュは気位ばかり高くて大した業績を残してないように思われてしまうのではないのだろうか。無論最後に説明が僅かにあるがノーベル賞を取るだけの大きなそして数々の理論を発表し成功した人物なのだが、何故か映画ではあまりそのことが表現されておらず突然ノーベル賞を受けるので何に対してなのかとさえ思ってしまった。もしかしたら知っていて当然、ということだったのだろうか。(日本でなら湯川秀樹の映画というなら知ってて当然だろうし)

さて私のような者がいるからこういう頓珍漢になってしまうのだろう。
そういう当然のことを知らずに観ても非常に面白い作品だった。
業績に焦点をあてなかったのは話の面白さを引き立たせるためには正しい方法だったと思う。
主人公ナッシュは実に共感しづらいアンチヒーロー的な造形で言うことばかりでかいがさっぱり結果を出せずにいるばかりか人間嫌いで人を見下しているとしか思えない嫌な奴である。
映画の中ではやっと一つの面白い理論を発表することができ何とか教授に認められた、という感じである。彼は常に自分より他人が上手くやっていることに反感を持っていてその為に政府のトップシークレットの任務に就けたことに満足したのだろう。そしてそういう状況の中で結婚、妻の妊娠となり、ここで彼のスパイ活動が彼の幻想によるものだった、と判る。しかも大学時代彼の同室者だった親友チャールズとその姪までも彼が作った幻覚だった。
実際の教授や友人、彼の恋人などの中に彼の幻覚の映像が巧みに入り込んで表現されているので全くそうと思わずに観ていた。私なんぞを騙すのはいかにも簡単なことである。そういえば結婚式に何故チャールズは車から見ているだけなんだろ、とだけ思ったくらいのもんである。

ナッシュの幻覚の混ざった前半部分の面白さから後半は彼が病気であることを知った上での幻覚の表現を見せられ、こちらも混乱してくるみたいだ。
狂った夫に時には怖れを感じ、苛立ちながらも彼を見捨てずにいた妻(現実はちと違うようだが)学生だった彼女がいきなり結婚までして病気の彼を支え続ける物語に「こんな話って変なの」と思いながら観ていたのに、実話とは創作以上に不思議なものだ。
映画的にはさしたる仕事もできないまま、狂ってしまい、妻に世話をされながら何とか生活し無意味のような勉強を続け、また悪化し、さらに妻に支えられ、かつて勉強したプリンストン大学で教鞭を取る友人(といってもナッシュのライバルだった人物)を頼って図書館で過ごすことを許される。
統合失調症により幻覚は消えることもなくただ学生からかわれながら年月が経ちそれでも大学に通い続ける。ある日話しかけてきた学生との会話にナッシュはこれまでにない人との交流を見出し、教える楽しみをみつけやがて教壇に立つことになる。そして彼の業績に対しノーベル賞が贈られることになり、ナッシュは長年彼を支えてきてくれた妻に感謝を述べるのだった。

実際のナッシュ氏の説明を見るととにかく映画のようにしょぼい人物ではなく物凄い才能と成功を果たした人であり、アリシア以外にも子供を成した女性がいるし、ナッシュ氏に男性の愛人がいたためにアリシアとは一度離婚してでも彼を見捨てはせずに再婚、と映画とは全く違う話で(これも事実の方が衝撃的だ)驚くばかりである。
まあここはあくまで映画の感想であるからそちらに絞って言うことにして、なかなか面白い時間を過ごすことができた。ラッセル・クロウは初めてまともに作品を観たのだが非常によかったと思う。

しかし実話のほうを読んでしまうと(またそれが正しいかは判らないが)そっちがあんまり驚きだったので少々作品への驚きが薄れてしまったかもしれない。いかんなあ。
ラッセル・クロウに男の恋人がいるところを観たかった。彼の『人生は上々だ!』を観たいのだがまだ果たせずにいる。
 
追記:なんだか余計なことばかり書いて肝心の『ビューティフル・マインド』な部分には全く触れなかったようだ。
つまり実話を映画化した作品なのかもしれないがここで描きたかったのは純粋に数学を愛し続けた一人の数学者の人生なのだろう。それを実在の男性の姿を借りて表現した、ということなのだろう。
ただそれが他の部分があまりに面白くハリウッドらしい技術力を使って派手な演出をされているので主題が薄くなってしまっているようにも思える。
妻の犠牲的な愛情を強く出してしまったのも受けを狙ったせいなのだろうがもっと数学者の面白さと苦悩と喜び(ここでは生まれてしまった病気も)に焦点を当てて作った方がもっと自分としては好きになれた気がする。受けは悪くなるのかもしれないが。
それにしてもやはり実話の映画化というのは難しいものなのだが、ここまで違うものになってしまうなんてそれこそハリウッド映画を皮肉った映画によくある話である。

監督:ロン・ハワード 出演:ラッセル・クロウ ジェニファー・コネリー エド・ハリス クリストファー・プラマー ポール・ベタニー
2001年アメリカ
ラベル:精神 人生
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2009年06月08日

『ナチュラル・ボーン・キラーズ』オリバー・ストーン

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NATURAL BORN KILLERS

これも本当に偶然なんだけど、昨日に引き続き観たこの映画、リンクしていると思えるほど似た設定のようでいて本作『ナチュラル・ボーン・キラーズ』は『気狂いピエロ』に対して自分が持った反感・嫌悪感をすべて吹き飛ばしてくれる作品であった。

時代が違うからと言ってしまえばそれまでだが、『気狂いピエロ』でむかついたいじいじした言い訳で誤魔化しながらさも絶望し苦悩している様を見せつけ自暴自棄になって自殺するという蹴飛ばしてやりたいフヤケ男と違いこちらのミッキーの生まれつきの殺し屋さ、と言いきって少しも哀れぶったりしない姿は爽快と思えるし、何よりかっこいいのは『ピエロ』での小悪魔ぶった何もしないくせに男によっかかってるだけの女と違いマロリーのかっこよさ、女っぷりのよさには参ってしまうではないか。
マロリー&ミッキーの愛に満ちた逃走劇には痺れてしまう。至る所にTV風映像やら詩句などもちりばめられていることもあり本当に『気狂いピエロ』を下敷きにしているのかもしれない。
だがしかしそれこそ時代のせいで映画手法の発達のためか入り乱れ交錯する映像の面白さ小気味よさは断然こちらが際立っているし(自分は時代のせいだけとは思ってないが。昔の映画でも今より凄いものも多くあるから)変に難解に見せるような勿体ぶり方はなしでいかにも判りやすい娯楽ものに仕上げた点もこちらの方が上等というものではないか。

若干、二人が逮捕され投獄された後のTV報道キャスターの浮かれた部分がやや冗長になってしまったように思えるのだが、そこらへんに本作の皮肉がこめられているのだろうか。
何といっても本作はタランティーノの脚本をオリバー・ストーンが監督したわけで変更されたのがクウェンティンは気に入らなかったらしいが確かに何やら社会派映画になってしまったところなのであろうか。
クウェンティンならもっとぶっ飛ばしてしまいたかったのかもしれない。

『ピエロ』になかった主人公たちの愛もここでは溢れるほどに描かれている。
マロリーとミッキーの愛と行動は無論肯定できる代物ではないのだが、他の誰とも代えようのない愛によって結ばれているのである(いや、反論したいのは判るがね)
絶対絶命にも希望を見出し、何とか生き抜いて見せた二人には公にはできないが喝采を送りたいものだ(私もしがない小市民なので善良であるふりをしないといけない)
おまけに二人は別れるだの破滅だのすることもなく子供たちに恵まれなおもマロリーが妊娠中で家族で車旅行(?)中という最後で締められる。ここではもう家族内の暴力はない幸せな一家になったということなのだろうか。そう願いたい。

ところでこのミッキーは先日観た『ヘンリー ある連続殺人鬼の記録』のヘンリーがモデルのような気がする。同じようにヘンリーにも愛する女性がいたのだがその彼女はヘンリーによって殺害されてしまう。
本作では生まれついての殺人者であるミッキーが愛するマロリーだけには愛を貫くことになっている。
愛だけは信じたいのだ。エンディングの歌でも「悔い改めよ、という意味はなんだ」とか言いながらも「愛だけが生きる力」だと思うわけだ。
ホントはそこが難しいのだろうけどね。

監督:オリバー・ストーン 出演:ウディ・ハレルソン ジュリエット・ルイス ロバート・ダウニー・Jr トミー・リー・ジョーンズ トム・サイズモア
1994年 / アメリカ
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2009年06月07日

『気狂いピエロ』ジャン=リュック・ゴダール

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PIERROT LE FOU

ゴダールを今までなんとなく観てなくてやはり少しは意識して観てみるものかと思ったのだが、これがどうもうまく乗れなかった。
無論難解と言われているゴダール作品なので理解できたのかどうか、ということもあるのだろうが理解したいと思うような気持にどうしてもなれなかったのだった。

ちょうど気にかかっている事柄があって、大したことではないのだが、気が乗らないと映画鑑賞に集中できないものだ。
何故こう気が乗らないのかというと、フランスという国の文化に反感と抵抗を感じるものが凝縮しているようで元々フランス好きな人にはいいのだろうがこの軽さみたいなものがどうしても気を殺いでしまうようだ。
ベルモンドという俳優は確かにかっこいいんだけどそれがさらに観る気を失わせてしまうし彼を狂わせてしまう女性にも魅力を感じない。というかこういう女性の描き方、扱い方をする作品には心底反感を感じる。
サム・ペキンパーのような犯罪者の物語は好きだがこういうオシャレ系にまとめられてしまうとどうしても楽しめない。
どうせフランス語はわからないのだが、二人で詩を読むようにセリフをいうのも歯が浮いてくる。なんだか一つ気に入らないとずるずる駄目になってただもう悪口になってしまいそうだ。
その上、愛情も何もない、という作品で一体何が評価につながるのだろうと思ってしまう。
何につけてもふざけた様子、愛情はないが嫉妬はあって、人種差別や肉体的欠陥の差別などが感じられ、風景は全く美しくないし(なぜ美しくないんだろう)基本的にギャングが出てくる話が嫌いなうえに、登場人物を一人も好きになれない、ドキドキするようなことは何もなく、フランス語とフランス人自体を嫌いになってしまいそうな映画である。(ルイ・マルがいるからそんなことはないが)
難解とか嫌悪感を感じてもどこか一つくらい印象に残るいい部分がありそうなものだがすべてが嫌いだ。
そういうすべてが嫌いになるほど嫌な映画を作れるということが凄いのかもしれない。

ラストの爆破シーンはむかつくほど嫌いだが松ケンの『銭ゲバ』ラストシーンを思い出した。どおりでどっちも嫌いなはずだ。(ごめん。松山ケンイチは悪くないんだ。ただこういう破滅型っていう人間がきらいなだけ)

もし私が男でしかも年寄りでこのヒロインのような若い女性に憧れて映画を作るんでもこういう作品を作るような男にはなりたくないもんだ。自分をベルモンドに投影させて若い女に翻弄され破滅させられたって。勝手にしんでろ。

監督:ジャン=リュック・ゴダール  出演:アンナ・カリーナ ジャン・ポール・ベルモンド サミュエル・フラー グラツィエラ・ガルヴァーニ ダーク・サンダース ジミー・カルービ
1965年 / フランス
ラベル:犯罪
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2009年06月06日

『紀雄の部屋』深川栄洋

紀雄の部屋.jpg

『真木栗ノ穴』『体育館ベイビー』『狼少女』とどれも面白かった深川栄洋監督作品、ということでこれも観てみた。
わずか57分の映画で内容もごく普通のオタク青年の(オタクは普通じゃねえという方には普通ではないが)日常的ラブストーリー(オタクに日常的ラブストーリーがあるのか、という方には日常じゃないが)ではあるのだがさすが一見ごく当たり前の出来事を面白く描くという腕前は比類なき深川監督作品であった。

主人公のオタク青年が宮崎あおいの心も掴んだ高岡蒼甫氏でこんなかっこいいオタクがいるかな、って思わなくはないがそこはまあサービスということで。
薬学部に所属する秀才でありプロレス好きフィギュアコレクターのオタク青年でもある紀雄氏はプロレス会場でバトンガールをやっていた可愛い女の子綾子に一目ぼれ。以来付き合うことになるが潔癖症の紀雄には彼女のぐうたらさが我慢できずいつも怒鳴ってばかり。綾子はいつも煩く咎める彼にうんざりもする。
だが喧嘩ばかりのようでいて二人は離れず過ごしていた。
そういうある日、紀雄はオタク先輩の妹から横恋慕されてしまう。その妹は紀雄の彼女の秘密を見つけてしまうのだ。

と言っても彼女の秘密は先ほど観た『あなたになら言える秘密のこと』みたいな凄いことでもないわな。
単に「21歳だと言ってたけどホントは27歳だった」というようなことで。
確かに22歳の大学生である青年にとってはちと衝撃なことかもしれないが。
紀雄も5歳も年上か、とショックを受けてしまうのだが、そのまま綾子が姿を消してしまうと段々不安になり、彼女がバイトしていたプロレス会場で「綾子はどこに行った」と叫んでレスラーにぼこぼこにされてしまう。
傷心のまま勉強を続ける紀雄の部屋にある日綾子がひょっこりと戻ってくる。
相変わらずねじの外れた彼女にガミガミと怒りつけ紀雄はスパゲッティを作りながら鼻水と涙を鍋の中にぼとぼとと落とすのだった。

他愛のないようなお話で(笑)
もっと年取れば27歳なんて若い若い、ということだがねえ。5歳くらいの歳の差なんてなんつーこともないっしょ。
いっつもガミガミ言って嫌っているかのように思えた男が実は彼女がいないとてんで元気がなくなってしまう、っていうのもよくある話なんだけどね。
綾子のどうしようもなさ加減と紀雄のオタクな感じと日常のぐだぐださもあいまってその辺が却っていい雰囲気を醸し出しているいい作品であった。

オタクってホントに気持ち悪がられるねー。これ観ててもやっぱり気持ち悪しおかしいんだけど、そういう自分もオタクの一員ではあるからなあ。
しかし「同じコナンでも『名探偵コナン』じゃなくて『未来少年コナン』じゃ古いですよね」っていうのはある。年齢を誤魔化す時は好きなアニメに気をつけよう。私なんざ『コナン・ザ・グレート』だもんね(アニメじゃないけど。単に筋肉マニアというだけか)

監督:深川栄洋  出演:高岡蒼甫 つぐみ 安藤希 菅原永二 富豪2夢路
2004年日本
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2009年06月05日

『永遠のこどもたち』J・A・バヨナ

EL ORFANATO.bmp
EL ORFANATO/THE ORPHANAGE

監督の名前はJ・A・バヨナだが製作総指揮のギレルモ・デル・トロの名前に惹かれて観た人も多いだろう。私もその一人である。
デル・トロ作品というと幻想的でありながら人情味溢れる物語であるというイメージが強い(あの『ヘルボーイ』も!)
さすがに総指揮の息がかかっているのだろうこの作品もまさにそういう類の作品になっている。

どうしても軽んじられがちな幽霊という題材で度々脅かしのシーンがあるのにも関わらず全体に厳かな品性があるのは作り手の持ち味なのだろう。
それにしても我が子(血のつながりはないとしても)を救うために髪を振り乱して見えない敵と命がけで戦う覚悟を決めるのは母親であるのは古今東西変わらぬことだが、彼女がよし、と腹を決める場面は確かに強い意志を感じさせてしまう。父親はどうも逃げ腰なのだがそういうところ、男性陣としては反論はないのだろうか(ないのだろうな)
母親が子供を助けるために必死で戦う、という物語は数えきれないほどある定番ものにも関わらず感動を呼んでしまうのは皆がそれを求めているからなのだろうな。映画『リング』も『ターミネーター』も『ダークウォーター』もそういう話だったが、アンデルセン童話の中で死の国へ連れ去られようとする我が子を追いかけ母親が目玉や若さを失っていく、という物語は最も恐ろしく心に残っている。特に薔薇の木に「私を抱きしめてくれたら道を教えてやろうだとか言われ全身に刺が貫くのを堪えて血を流すという場面はおぞましくもある種のエロチシズムさえ感じさせて記憶から消えることがないのだ。

見えないものを探す、という物語なだけにどうしてもいろいろと考えてはみる。これは本当に彼女の思い込みではないのか、本当は彼女が子供を殺したのだとは思われないのか。
突如登場する女性霊媒師も怪しいと思えなくもないがなにしろジェラルディン・チャップリンが偽物を演じるとは思えない、ということで納得せざるを得ない(そんなんでいいのか?(-_-;)
「母親であるあなたが信じれば必ず見つかる」
その一言で彼女は腹をくくってしまう。
もう彼女は何も恐れていないのだ。
ゲームで探し物を見つけたら願い事がかなうという。
彼女は言う「シモンに会いたい」
願いはかない彼女はシモンと再会する。
それは彼女自身が彼らの世界へ行くことだった。
物語の最初に「ママ=ウェンディはネバーランドに行けないの」とシモンが問いかけ「こんなに年取ってはいけないわ」と彼女が答える。
かつて自分もいた孤児院の中の残虐な方法で殺されてしまった自分以外の子供たちは大きくなることはない。彼女は年をとったウェンディとなって永遠の子供たちのいる場所へと行くのである。

監督:J・A・バヨナ 出演:ベレン・ルエダ フェルナンド・カヨ マベル・リベラ ジェラルディン・チャップリン
2008年スペイン/メキシコ
ラベル:愛情
posted by フェイユイ at 23:08| Comment(0) | TrackBack(1) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

水の妖精のようなベン

ふぇでり子さんからまたもや垂涎の画像をいただきました!!!感謝!

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この最後のはドラマ『Criminal Justice』の画像です。覗き見みたいな。
水面に浮かぶベン・・ただもううっとりです・・・・綺麗。
モノクロの体を横向きにしたのは意味深でもありセクシーでもありキュート。胸薄いなあ(笑)腰のラインがなんとも美しいですね。

凄くきれいで魅力的なベンをありがとうございます。ふぇでり子さん。ずっと見ていたいですねー。
posted by フェイユイ at 16:45| Comment(8) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

男3人で Perfume ワンルーム・ディスコ を踊ってみた

あんまり可愛いのでつい。のっちの白服くんばかり見てしまう〜。



他にもあります。もう虜になりそう。
男3人で Perfume
もっと観てみたい。

perfumenという3人なのですねー。
ラベル:YouTube
posted by フェイユイ at 01:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月04日

『あなたになら言える秘密のこと』イザベル・コイシェ

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LA VIDA SECRETA DE LAS PALABRAS/THE SECRET LIFE OF WORDS

出だしから音と沈黙が交錯する不思議な感覚があり、騒音の工場内で皆が耳を塞ぐためのヘッドホンをしているのに唯一人何もつけてない若い女性がいる、と思ったら彼女は補聴器を付けていて、外へ出たらスイッチを入れるというこれも面白い表現だと思い映画の世界へ導かれた。
暗く笑うことのない女性、金髪のきれいな顔立ちなのに頑なで心を全く開かない人間のようだ。仕事は真面目すぎるほどだがそのせいで却って皆から嫌われている。その為に会社から1カ月休暇を取って旅行しろと命じられる。
そんなことがあるのか、と思いながらも全く楽しむこともなく旅立ち、唐突に看護師を探している男性と出会う。いきなり何事にも無関心だった彼女が「私は看護師です」と名乗る。
彼女が連れて行かれたのは海上の石油掘削所であり、そこに事故で大火傷を負った一人の男性が横たわっていた。

前半の謎めいた暗く重い雰囲気、補聴器を付けた彼女が聞きたい時だけスイッチを入れるという表現が心を閉ざしている暗喩にも思える。
遠海に浮かぶ石油掘削所というイメージも孤独な人間たちの吹き溜まりであるという設定も火傷を負い一時的に視力を失い身動きできずヒリヒリと体が痛む男に彼女が出会うという展開も興味深い。
そして寡黙な彼女が孤立した小さな場所の中で同じようにあまり社交的ではない男たちと過ごすうちに少しずつ表情が和らいでいく過程はどきどきするほど見惚れてしまった。こんなに魅力的な物語はないようにさえ感じた。
問題は後半からの告白からである。
前半の重苦しさ、若く美しい彼女をここまで寡黙にさせ心を閉ざさせた原因を何なのか。それは戦争によって彼女と友人が味方の兵士によって拉致され連日レイプされ続け、拷問に会い、友人の拷問を見せられ救えず、親による子供の残虐な殺害場面を見せられ、そして自分一人が生き残ったという事実である。
勿論そういう事実はあるのだろう。そういう重荷を背負って生きている人もいるのだ。
だがこれはフィクションである映画だ。作られた映画の中でまるで何かのミステリーのような展開の後で種明かしの告白に使うのは、こういう表現で使うのは空しい気がする。
例えばこれが彼女が男の手当てをする間に微笑むことができるようになり、お互い家に帰る。
その後、男はなんらかのきっかけで女性が過去にそういう事実があったのだと知る、というだけでもよかったのではないだろうか。
海の上で数日、手当てを受け、与える間にお互いが何も言わないまま心が癒されたということにしても。
途中までのティム・ロビンスがとてもよかったのに告白を聞いて泣く、という演技は演技だと判っているだけに心が冷めてしまうのだ。それは彼がいけないのではなく、こういう押しつけがましい演出にしてしまったことに冷めてしまうのである。
どうしても彼女に告白させたかったとしてもこの形で泣かせるのは白々しい。もう少し後で、とか時間を経過させてしてほしかった。さらにジョゼフが訪ねていくコペンハーゲンのカウンセラーの女性がジョセフを叱りつけ侮るかのように話すシーンは説明的過ぎてますます興ざめになっていく。もっと簡潔にまとめて欲しかった。
また二人を無理に結婚させる必要はないし、ハンナに語りかける声が最初と最後だけになっていて最後にその声の主が彼女が失ったレイプの時にできてしまった子供の死んだ声だというのも何かやってはいけない恐ろしいことのようにも思える。

途中までの素晴らしい描き方は申し分ないが、後半泣かせようと感じられてしまう部分はもっとひっそりと表現してほしかった。
作品中でも語られるように戦争の傷を負った人は本当に体験を話したくないと聞く。ジョセフの話で彼女がすべてを話してしまうことにしなくてもいいのではないだろうか。

監督:イザベル・コイシェ 出演:サラ・ポーリー ティム・ロビンス ハビエル・カマラ ジュリー・クリスティ レオノール ワトリング エディ・マーサン スティーブン・マッキントッシュ
2005年 / スペイン

日本語タイトルがすでに作品を侮っている気がする。

ティム・ロビンスはここでもやっぱりキュートだけどね。

posted by フェイユイ at 23:11| Comment(2) | TrackBack(0) | ティム・ロビンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

リン・チーリン, ジェイの「言葉責め」に遭う?

<リン・チーリン>ジェイの「言葉責め」に遭う?

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久しぶりのジェイ情報。というほどのことはないが(-_-;)
チーリンさまがお美しくてジェイがかっこよかったからアップしてみました。服装も好きです。
仲よさそうですねー。やっぱお姉さまがお好き?かも。
『刺陵』楽しみだなあ。
posted by フェイユイ at 18:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ベン・ウィショーの似てない双子ジェイムズ

ゼイはあ。お待たせしましたっ!!はーやさん!そしてベンファンの皆様!
ベンの似てない双子兄弟ジェイムズとママの画像ですっ!!
(今更ですが、拡大してごらんくださいませね)
83551060.jpg
似てないっていってもでぶっちょ(失礼)とかじゃありませんでした。すっごく正統派二枚目。ハンサムッ。確かに似てない・・・・汗。
背も高いし、かっこいい。
ベンのすぐ横がママだそうです。ベンはママそっくりですなー。

そしておまけにいただいた
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かわいいです〜。

ふぇでり子さん、ありがとうございます!!
posted by フェイユイ at 00:35| Comment(5) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月03日

『イン・ザ・カット』ジェーン・カンピオン

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IN THE CUT

この映画は『ミスターグッドバーを探して』から導かれた作品なのだろうか。

『ミスターグッドバーを探して』は映画も観たが小説を何度となく読み返したものだ。
都会で独り暮らしをする若い女性教師というのが共通の設定である。『グッドバー』の時は多分女性教師というお固くて真面目であろうしあるべきだと信じられている人間がセックスの相手を求めクスリを楽しむという物語が衝撃的だったのだと思う。少女であった自分はそれほどそのこと自体に衝撃を受けはしなかったが映画ではダイアン・キートンが演じた若い女性教師が小説を書くという精神的な部分とセックスだけが目的で男を求める、というそれまで露骨には描かれなかっただろう表現が面白かった。映画より小説での記憶だが真面目で優しいボーイフレンドにはうんざりしセックスだけがうまい危ない男に惹かれていく様子と小説をどんな風に書けばいいのか、というテキスト的なものがあって興味深かったものだ。
本作でもヒロインである女教師フラニーは英語の教師であり作品中何度も文章・詩について考えるシーンがある。電車内に書かれている詩を読む場面は印象的だ。特に日本語で「今ここに かへりみすれば わがなさけ 闇をおそれぬ めしひに似たり」(与謝野晶子『みだれ髪』)と書かれている言葉が彼女自身の状況を示しているようだ(ただし日本人ならどうしても右から読んでしまうがこの電車広告は左から読まねばならない。右から読むと「めしいに似たり 闇をおそれぬ わがなさけ かえりみすれば 今ここに」になってしまう。右側から読むアジア人は却って間違ってしまうのだ)

こういった物語の相似にはきっと意味があるはずだ。
過去の物語である『ミスターグッドバーを探して』は面白い作品ではあったがそうして学問と性欲の狭間で思い悩み続けるヒロイン・テレサは(ネタばれで申し訳ないが)悲しいラストを迎えることになる。
独身女性にとってこのラストは不満の残るものではないだろうか。どうしてただセックスを求めていただけの罪のない女性教師にこういう結末が待っているのか。それとも彼女の行動・生活は罪だというのか。この結末は当然の罰なのか。
『インザカット』ではヒロインは同じように思い悩み、しかもすべての男が自分を殺しに来た殺人者なのではないかとさえ思いこんでしまうが彼女は彼女自身で戦ってかつて性を求めて彷徨った女性教師を死に追い込んだ「男」をここで殺害する。
遠い時間を経て「女教師」は復讐を果たしたのだ。
そして自分に気持のいいセックスを与えてくれる男のもとに戻り寄り添うのだ。
彼女は「暴力をふるう男」という恐怖と見事に戦って勝ち、「気持のいい男」を手に入れた。女性はこうあるべきだという作品なのである。
『ミスターグッドバーを探して』からこういう一つの答案が出たということなのだろう。

私はおおいに溜飲を下げた、というものだが、ここまで戦わなければならないのか、と反感も持たれそうでもある。
女の戦いというのは血塗られたものなのだなあ。
確かにどの男だって正体がなんなのか、なんて判りはしない。とはいえ男性側からもどの女の正体もわかりはしないから怖いはずなんだけどね。

「変な男」の役でケビン・ベーコンが登場。確かに変な男には見えるけど、私自身はとても好きなのでどうしても毛嫌いできないなあ。犬のフンを触らせることで何とか嫌な感じを出してみた、って気がする。脱ぐとかっこいいし、とても「セックスしたくない男」には思えないぞ。

フラニー役のメグ・ライアン。ここでも熱演なんだけど、また「彼女らしくない」ってだけ言われてるような。気の毒である。私は彼女のラブコメは全く観てなくて他には『戦火の勇気』を観たのだけどあれもファンのブーイングが酷くて。何故彼女だったのか、っていうのはあるのだろうけど清潔感のある女優のほうがインパクトがあるだろうし、ダイアン・キートンにも似てる気がする。そこが大切だったと思うのだが。
そう思っているのは私だけかもしれないけど。

監督:ジェーン・カンピオン 出演:メグ・ライアン マーク・ラファロ ケビン・ベーコン ジェニファー・ジェイソン・リー マーク・ラファロ ニック・ダミチ
2003年 / アメリカ
ラベル:女性
posted by フェイユイ at 23:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月02日

田宮二郎『白い巨塔』<1978年版>第5・6・7話

上がったかと思えば落ち込み、また浮上し、の繰り返しで胃が痛くなってきてしまうがそこが面白いとこなんだなあ。

同じ病院内にいながら財前という地位を狙う野望の男と里見という医者の鑑の如き男が対照的に描かれていくのだが、大概のドラマでは里見のほうが主人公になる(と思うのだが)悪役ともいえる権力の欲望にとり憑かれた男が主役になることで社会の仕組みがどんな風になっているのかが見えてくるのだから面白い。
財前だけでなくどの登場人物も含みがあって興味深いのが観ていて飽きない要素なのだろう。
結構登場時間が長いのは財前の敵と言える東教授で彼はよくある権威の権化のような存在ではない。むしろあまりにもスタンドプレイが目立ちすぎる財前が病院にとってよくないのではという考えもあってただ単に身内だとかじゃなく研究熱心な人物を推薦しようと思っているのだし、財前に対して卑劣な行動をとっているわけでもないのだが、やはり観る者は主人公に肩入れするものだから自然嫌な奴に見えてくる。元々金持ちで家柄もいいお坊ちゃんだから下品な財前の言動に嫌悪感を持っただけでもしかしたらこの物語が始まる前に財前はもうすでに助教授で腕前もあるのだからもう少し謙虚であったら気に入ってもらえたかもしれない、と思うのだがどうだろう。ただしそれではこの物語が成立しなくなってしまうが、本作以前の部分が大切だったはずなんだがなあ。
一番腹の立つキャラクターはその東教授夫人だ。夫を見ればどんな役職についたか、財前がどんなに嫌なやつか、娘に対しても見栄や世間体の話ばかり、菊川教授への話も失礼としか思えない内容だがどういうわけか夫の東教授はやんわりとなだめるだけで夫人を頭ごなしに怒ったりもしないし、一人娘を可愛がって変な策略結婚なんかを考えたりしないのもいい夫いいお父さんのようである。
敵役にしてはいい人だなあと思ってしまうのだ。

面白いのは財前義パパでこの物語はある意味財前義パパの出世物語でもあるわけで自分は開業医にしかなれなかった(と彼が言っている)為に才能ある娘婿を何とか自分の願望である大学教授にして財前家の格を上げようと一念発起しているわけである。
その為には娘すら犠牲にしてもいい、というほどである。彼が可愛いのは彼の願いをかなえる五郎その人だけなのだ。
それにしても東教授を説得させてもう寸前まで五郎を教授にできそうだったのに東教授が酒の席に戻っていく場面は縮みあがってしまった。いやあ心臓に悪い。財前義パパ、岩田さんという人たちは頼りになるんだかならないんだかよく判んないが愛すべきキャラクターだ。問題を起こすためにいるようなもんだ。

やたら善人の里見兄弟にぞっこんの東教授の娘。煩くてはったおしやくなる東夫人。財前にいつも厳しいケイ子、と女性陣もなかなか面白い。
東教授後継者を全国から公募することになりその結果も一ヶ月後ということでなかなか先は長そうだ。
財前さんの手術シーンもぱたりとなくなってしまったが、こんな画策ばかりに手間をとってるんじゃ確かにオペしてる時間もない。
やっぱ菊川さんにしたほうがいいのかも?

このドラマってやはり昭和と平成では観る者の受け止め方も違うのだろうなあ。今、財前のようにあくせくしたくない、と思う方が多いのではないだろうか。

posted by フェイユイ at 22:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 白い巨塔<1978年版> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月01日

『12人の怒れる男』ニキータ・ミハルコフ

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12

本作は1957年製作のアメリカ映画『12人の怒れる男』のリメイク(このシドニー・ルメット版映画もTVドラマのリメイクなのだね)で数年前に日本でも三谷幸喜脚本・中原俊監督で映画になった『12人の優しい日本人』というのがあったし、どちらも面白く観た記憶がある(内容は例によっておぼろげにしか覚えてない(-_-;)
で今回ロシア版ニキータ・ミハルコフによる『12人の怒れる男』を観たわけだが、正直観る前は「ロシア映画って退屈で死ぬかも」と怯えていたのである。借りたものの観るのが億劫だったのだが観始めたらこれが面白いのなんの。いかにもロシアの作品らしく小説を読むとやたらオーバーなことをやったり話したりするものだが(ってドストエフスキーくらいしか知らんのだが)映画でもやっぱり大げさで退屈などまったくすることなく長さも感じなかった。
もうひとついけなかったのは多分今これを観る日本人って多くがやがて自分にもやってくるかもしれない始まったばかりの「裁判員制度」に備えて観ようか、なんていうのを思ってしまいそうだが自分もそうだったということ。別に何を思おうと自由だが、この作品を観始めてすぐこれは裁判員(陪審員)としての知識だとか心構えだとかいう映画ではないことに気付いたのであった。

そうだった。12人の人々が「一人の犯罪者を裁く」という場面に立った時、そこで人々が思うのは謎解きのことではない。
確かにこの作品のなかでも被告である少年に対しての謎解きの部分はある。だがここで描かれる大切なことは今までなかった「一人の人間の生命もしくは人生」を自分が変えてしまうかもしれないという局面に出会った時に自分自身を裁くのだということなのである。
「自分を裁く」という言い方が厳しすぎるなら「自分を振り返って見る」でもいい。
それは単なる茶飲み話でもできなくはないがやはりそれでは見る目も甘くなる。「人の生と死」という局面を突きつけられるからこそぞっとするような気持で見つめなおすことができるのだろう。
それでも彼らが最初からそういう気持ちになったわけではなかった。
彼らにとってはチェチェンなんていう自分たちには全く縁もないような言葉も通じない場所からやって来た少年の運命より追われている仕事・生活・遊びのほうが大切である。さっさと有罪にして早く帰ろう、というのが本音だった。だがその中の一人たった一人が「彼は無罪だ」と言いだす。彼になにか判ったわけではないが彼は過去に道を誤った経験がありその時彼を救ったのはたった一人の女性の優しさだった、と話すのだ。
早く帰りたい他の者たちはいきなりの感動話にやや戸惑い、うんざりしたり憤ったりする。
だが彼の一言から少しずつ無関心だった彼らが「単なる野蛮人であり言葉も通じない少年に」対し何故だったのかどうしてこんなことが起きたのか彼はどう思ったのか、と考え始めるのだ。
それは同時に自分自身を見つめることだった。
彼らは自分もまた罪を犯したことがある、身内にそういうものがいた、ということに気づいていくのだった。

この話をそのまま裁判で活かす、というのはまた違う話になるだろう。
この物語は被告も入れて13人になるがその数の人間がいればまたそれだけの物語があり、それぞれが罪も罰も悩みも苦しみも悲しみも背負って生きている、ということを告白していく、と表現なのであり、どんな国でもいかようにも作っていけるわけで今まで閉ざしてきた心の奥を見せてしまう、という話だから面白くならないわけがない。
しかもロシアの問題もまたさまざまに暴いてしまうのである。
12人の男たちも個性的でユダヤ人、少年と同じ地域の出身者、旅芸人、頑固なタクシー運転士、などを演じて皆迫力ある。
彼らは次第に心の闇をさらけ出していくのだが、一人最後まで心を見せなかったのがニキータ・ミハルコフ監督自身が演じる元将校で芸術家という男である。彼は最後まで少年を有罪と言うのだがそれは彼を無罪放免にすれば彼の身に危険が及ぶからという配慮からであった。だが少年の面倒をずっと見続けるわけにはいかない、という他の人たちの意見に折れやっと無罪を告げる。だがその後彼は少年を引き取って世話をする、というのである。元将校である彼の秘密とは何だったのか。告白することができない重い過去。その代償として少年を世話することにしたのだろうか。
幾度となく紛争後の街と見える場所を子犬が何かを咥えて走ってくる映像が入る。
物語の流れからそれは少年が持っていたというナイフを咥えているのか、と思ったのだが、実は小指に指輪が光っている人間の手首だったのだ。
これはどういう意味なのだろう。
最初は光るもの=ナイフ=少年が殺人を犯した、と思っていたものが指輪の光る手首だった、ということで「よく見ないと真実はわからない」という謎かけなのかと思ったのだが、それにしては答えが不気味すぎる。
陪審員長になった元将校の過去にも重なる場面なのだろうか。

監督:ニキータ・ミハルコフ 出演:セルゲイ・マコヴェツキー ニキータ・ミハルコフ セルゲイ・ガルマッシュ ヴァレンティン・ガフト セルゲイ・マコヴェツキイ アレクセイ・ペトレンコ ヴィクトル・ヴェルジビツキイ
2007年 / ロシア

作品中に日本と関係ある言葉が3か所。津波とカラオケと「日本に出張なんだ」とかいうセリフ。ま。それだけだが。
ラベル:裁判 犯罪 人生
posted by フェイユイ at 21:35| Comment(0) | TrackBack(1) | ロシア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アルチュールなベンとベッドの上の彼

ふぇでり子さんからベン・ウィショーの素敵な画像をいただきました!!!

これも隠しておくのは勿体ないので

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これは『I’m Not There』でアルチュール・ランボーになったボブ・ディラン=ベンが記者たちに捕えられている場面で映画ではカットになってしまった貴重な画像です。

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こちらは映画『パフューム』でカットされてしまった一場面の撮影現場ですね。リックマン・パパがグルユイユを息子のように感じて家に連れ帰ったというところですと。これも映像として観たかった!!
なんだかベンが小さな少年みたいで可愛いゾ。

こんなお宝な写真を送っていただいて、ふぇでり子さん、ありがとうございます!!!!感謝します!!!

posted by フェイユイ at 15:49| Comment(9) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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