映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年07月31日

『センターステージ』ニコラス・ハイトナー

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CENTER STAGE

物語自体はこういうダンサーを夢見る学生たちの群像劇によくあるタイプのもので芸術的とかではなくむしろ他愛もないといっていものかもしれないのだが、何故だかとてもすっかり楽しんで観てしまった。
それは登場人物が皆完璧ではなく、しかもとても愛すべき性格を持っていたからなんだろうか。
冒頭、ダンサーたちがトウシューズを傷めつけたりするのが私みたいなミーハーファンは憧れだったりする。傷だらけの足指を保護したり、シューズを自分の足に合うように工夫したり底をひっかいたりあげくは焼いたりはがしたり。そうやって履くとまるで妖精のようにつま先で立つあの美しいシルエットライン。うっとりとしてしまうではないか。

主人公・ジョディは可愛いけど脚の形が悪く(自分としてはどこが?って感じだが^^;)バレエの基本動作である脚を開くことができないという致命傷を持っている。おやおやどこかで聞いたような設定だがやはりこういう欠陥(あくまでバレリーナとして!)を持った主人公というのは観る者の共感を呼ぶのだ。憧れのバレエ学校「ABA」のオーディションに合格したものの常に体型と動きを注意されっぱなしで落ち込んでしまう^^;影練をすれば足は血まみれ豆だらけになってしまうのだ。
そんなジョディを励ましてくれるのがプエルトリコ少女のエヴァ。気が強すぎていつも教師には睨まれ誰とでも衝突しっぱなし。そんなエヴァの口の悪さは自分を固くガードする為の強がりだったのだが。
もうエヴァが可愛くてねえ。ジョディよりやっぱりエヴァでしょ。ダンサーとしては理想的な細さと手足(って書くけど腕脚だよね)の長さ。もっとエヴァを見たかったなあ。
つまりこれって山岸凉子『テレプシコーラ』で言えば六花ちゃんと空美ちゃんみたいだもんね。漫画では反目してるが、っていうか空美が勝手に。

夢に観たバレエ学校の厳しさ、上手くなれないジレンマ、世界一のダンサーの恋人になれたと思ったら彼にとっては遊びだったショック。ジョディはつまづいては踏ん張り突き落とされては這い上がり泣いたり傷ついたりしながら自分の中のダンサーの才能を見つけ出し成長していく。
スタンダードではあるだろうが、ダンスシーンがたっぷり間間に盛り込まれとても判り易く楽しめるバレエ映画なのではないだろうか。
多分きちんとバレエができる人、そして本物のダンサーたちも多く参加しているのが飽きさせず、堪能させてくれる。
最後にきちっとワークショップで成果を見せてくれるのも嬉しいし、なによりバレエの練習風景が好きな自分には物語とダンスシーン、練習シーンがこんなに上手く混ぜ込まれているのは何より御馳走なのである。
ハンサムな世界一ダンサー・クーパーも完璧じゃないのも却ってよかった。クーパーを演じているのは実際にプリンシルダンサーのイーサン・スティーフェル。そして彼とジョディをとりあう優等生チャーリーはサシャ・ラデツキー。さすがにこの二人の役は本物じゃないと無理だろう。二人がバレエで競いあう場面で、カメラがぐーっと後ろに引くのが突然他のカメラ位置と違っておかしい。物凄く飛ぶので最初っから引いとかないとね。
 
最初いがみ合っていたモーリーンとエヴァが仲良くなるのもお決まりで嬉しいが、私なんかモーリーンは勿体ない。やっぱ少しだけ休んで気が収まったらもう一度やり直したがいいよーなんておせっかいに思ってしまうのだが。

極端なドロドロシーンだとか、腹の立つような出来事もなく大怪我で再起不能なんてこともなかったのでとても気持ちよく観終えることができた。「ドラッグ」だとかも出てこないし。
大人の雰囲気を求める人には向かないかもしれないが爽やかな若者たちのひたむきさに(とそれを愛しているのだろう監督の思い入れにも)暫し見入ってしまった。愛すべき作品である。

監督:ニコラス・ハイトナー 出演:アマンダ・シェル、ゾーイ・ザルダナ、スーザン・メイ・プラット、イーサン・スティーフェル、サシャ・ラデツキー、イリア・クリック、シャキーム・エヴァンズ、ピーター・ギャラガー
2000年アメリカ
ラベル:バレエ 青春
posted by フェイユイ at 23:09| Comment(8) | TrackBack(1) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月30日

『エデンより彼方に』トッド・ヘインズ

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Far from Heaven

アメリカ50年代の物語をいかにも50年代の映画であるかのように作り上げ、しかしその内容は当時とても描けなかった問題であり、こういう作品ができていたら、いやとても公開はできなかっただろう、という作品である。ということかな。

本作の題材はもう言い尽くされた感もあるだろうから、そういう意味では目新しくはないのだろうが、ではその問題がすべて解決しているのかと言えば決してそうではないはずだ。
ここでは同性愛、人種差別そして女性の地位という問題も扱われている。
遠い海の向こうから見ていてもとても黒人問題が少しでもよくなったかのようには思えない、などというと今の大統領は?となるのだろうが彼を見ていてもとても安定しているとは思えないし、むしろ絶えず人種問題で揺さぶられている、白人大統領なら考えられないいつ転げ落ちるか判らない針の先に立っているように見えてしまう。

キャシー・ウィテカー一家は1950年代アメリカ社会でまさに理想の家庭なのだろう。美男美女の夫婦、夫は一流企業の重役、妻は専業主婦で夫や子供の世話、黒人のメイドを使って家事を切り盛りし、パーティを開き展示会へ行き、周囲の人々との交流もそつなくこなしている。
映画はそういう50年代ならではの主婦の日常を丹念に映し撮りながらその奥に隠された秘密を暴露していく。
完璧な男性に思えた夫が実は同性愛者であることを妻に隠し続けて暮らしその欲望が抑えきれなくなってしまったこと。
「初めて人を愛したんだ」という夫の言葉は酷過ぎる。
自らゲイであることを告白しているヘインズ監督は妻である女性に自分のセクシャリティを誤魔化して結婚する男に対し、厳しく批判しているように思える。現実のしがらみが追いこんでしまうとはいえ、一人の人間の人生も人格も否定してしまうこの夫のような同性愛者は物語としては面白かろうが実際の話としてはとんでもなく惨たらしいことじゃないか。本作の出来栄えは申し分ない繊細さで描かれていて素晴らしいが、この夫の存在は仕方ないとはいえ腹が立つ。それは『ブロークバックマウンテン』でも描かれていたクローゼットの中のゲイという存在であの作品ではその夫は報いを受ける(愛する人の死を言ってるのではないよ。貧乏生活をさせられていること)が、本作の夫は妻を犠牲にして自分だけ「愛する人(むろん男性)」と暮らすなんてむかつくし、ヘインズ監督がこの夫を嫌っているのは彼が黒人差別者だと言うことからも伝わってくる。自分だけが辛い立場のように見せつけ、黒人や女性というか弱い存在の者には微塵も同情しないのだ。ゲイであることの苦悩ばかりを言いたて、愛していないとはいえ、偽装して結婚し、愛してもいないのに子供まで作ったあげく男性優位を見せつけ暴力をふるうなんていう最低の見下げ果てた男だ、とヘインズ監督徹底的に夫を攻撃している。絶対こいつは俺の仲間じゃない、と断言しているようである。
一方の妻キャシーは続けざまに起こる異常な事態に翻弄されていく。夫の告白、そんな折ふと出会った黒人男性の優しさに彼女は今まで味わったことのない本当の愛情を感じたのだろう。馬鹿夫と違いレイモンドはとことんいい男性に描かれているのも判りやすい。
背が高くたくましくしかも感受性が豊かで知性的、夫のように見せかけじゃなく本当に子供を心から愛し慈しんでいる。真面目で温厚で声が低音で素敵だ(これはいいなあ)寂しいキャシーの心に温かく微笑みかける彼の愛情にキャシーが惹かれてしまうのも無理はない。しかもキャシーはかなり長い間男性にご無沙汰だったに違いない。レイモンドからは男性的な体臭が感じられるようでくらくらしてしまったに違いない!と思うのだよねえ。
50年代アメリカ映画というのがどんなものかよく判らないが白人女性が素敵な黒人男性に心惹かれる、ということだって実際はあってもそれは許されないことで映画でも描ける題材ではなかったのだろう。
ここでも夫は男性とキスし抱擁してもキャシーとレイモンドのキスシーンも抱擁シーンもない。レイモンドが彼女の手にそっと唇をあてるだけなのだ。

さて今のアメリカは随分変わったのだろうか。ゲイムーブメントはかなり盛んになってきてはいるがそれでもなかなか社会的に公認されるのは難しいようだ。黒人問題となると傍から見てるぶんではさほど変わってきてるようには思えない。キャシーとレイモンドが結ばれる、という社会はまだ成立してはいないのではないだろうか。
少なくともこんな馬鹿ゲイ夫だけは消滅して欲しいものだが、実際はまだまだいるのだと思う。

物語はキャシーが二人の子供を車に乗せて去っていく場面で終わる。
彼女はどうなるんだろう。
はっきりとは描かれていないが彼女を支える黒人メイド・シビルが「金曜日はテーブルを磨く日です」と言ってごしごしこすっているのをキャシーが心強く思っていることが彼女の未来は続いていくのだと私は思いたい。善良でどんな時でも自分の信念どおりまっすぐ行動するキャシーを応援したいのだ。

映画を紅葉が美しく彩っているが、白人から黒人、黒人から白人へと色が移っていくことはとても美しいのだと言う願いが込められているように思える。

これで観ることができるトッド・ヘインズ監督作品3つをみたがどれも物語というよりは一つの時代、一人の人物に注目した作品であった。
どれもかなり偏ったところのある映画なので好き嫌いが激しく分かれそうだが私はどれも大好きである。
どの作品も実に繊細に行き届いた作品だと思う。私としては監督がゲイであることを公表されているのでそういう作品を作ってもらえたら嬉しいのだが。期待したい。

監督:トッド・ヘインズ 出演:ジュリアン・ムーア デニス・クエイド デニス・ヘイスバート パトリシア クラークソン ヴィオラ・デイヴィス
2002年 / アメリカ
ラベル:同性愛 人種差別
posted by フェイユイ at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マット・デイモン、フィリップ・K・ディック原作のSF映画主演?!

マット・デイモンの主演映画がない!と泣いてたらいつの間にかこんなニュースがあがってたのね。

フィリップ・K・ディック原作のSF映画の主演はマット・デイモンとエミリー・ブラントに決定

希望したような作品でないかもしれないけど、もしかしたら凄くいいかもしれないし、と一応期待する。
あんまりスピーディな作品じゃない方がいいんだけどな。
posted by フェイユイ at 14:05| Comment(2) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『ディア・ハンター』マイケル・チミノ

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THE DEER HUNTER

昔観た時から忘れられない映画の一つである。もうかなり時間が経っての再会だったが、昔観た時以上に心に響く映画だった。
こういう戦争を描いた映画にはどうしても避けられない評価があるが、それは「本当に忠実にリアルに戦った国を対等に描いているか」というもので、映画というものが絶対にその事項を守らねばならないのかよく判らないがもしそういう規則があるのなら、この作品は合格点は望めないだろう。昨日観たチェ・ゲバラの映画もそうだが結局人間は片側に立ってしか物事を語ることはできないのではないか。現実の問題としてはできるだけ向こう側のことを考えるべきだが、物語として両方を対等に描くことが完璧にできるとは言い難いし、もし描いたとしてもそれが本音なのかどうかはまた別のことかもしれない。
この作品は明確にアメリカ人であるマイケルたち若者側からのみ描いた作品であり、嘘くさく敵側に肩入れして描いていない分すっきりと観れるのではないだろうか。

それが判るのはこの物語のタイトルがあくまでも『ディアハンター』だということだろう。
この映画は3時間以上に及ぶ長さだがマイケルたち3人の仲間がベトナム戦争で実際に「戦争」をしている場面はほんのわずかである。後は彼らがべトコンの捕虜になり強制的にロシアンルーレットをやらされる、というエピソードがあまりに強烈な為にベトナム戦争もの、だというイメージが強く残ることになってしまうのだ。
物語の前3分の1はペンシルバニアの田舎町に住むロシア系住民のマイケルたちの生活風景特に仲間の一人スティーヴンの結婚式の映像である。
彼らは白人とはいえ、裕福な生活だとは言い難い。男たちは過酷な工場労働に従事し、ヒロインであるリンダはスーパーマーケット勤務で住居も生活も豊かには見えない。そんな生活の中で男たちの楽しみは山に入っての鹿狩りである。彼らは鹿を撃ち殺すことで自分たちの価値感と充実感を何とか満たしていたのかもしれない。
じきにベトナム戦争へ赴くことになるマイケルたち仲間は殆ど家族のよな関係に思える。マイケルがしっかり者の長男で後は色んな性格の弟たち。マイケル(ロバート・デ・ニーロ)が一番信頼し気に入りなのがニック(クリストファー・ウォーケン)だ。マイケルは他の頼りない仲間と違う強い絆をニックに感じており、ニックもマイケルを心から信頼しきっている。
スティーブンの結婚式は盛大だがそれは日本のもののような金がかりのものではなく近所の住人が手作りで仕上げ、皆で騒ぎまくる、という類のものだ。馬鹿騒ぎをすることはあっても彼らは実直に貧しい暮らしを生きているのである。

そんな彼らが次の場面でこの世とは思えないほど恐ろしいベトナムの戦地にいる。彼らアメリカ兵はベトナムの人々を焼き殺していく。
そしてマイケルたちは捕虜になりべトコン達の賭けごとの為に「ロシアンルーレット」(ピストルに弾を一つ込めてシリンダーを回し自らのこめかみにあてて撃つ)をやらされる。
この行為が本当にあったかどうかをまた問題にする人もいるだろう。私はそれはどちらでもいいのではないかと思う。
このゲームはロシア系アメリカ人であるマイケルたちにとっての「ベトナム戦争」そのものの比喩だと思うからだ。(マイケルたちの祖国になるソ連(ロシア)が北ベトナム側だという皮肉、ロシアンルーレットで命を脅かされるという皮肉)
自国での戦争ではないのに他の国の戦争に介入するアメリカ兵の一員であり、またロシア系でもあるというマイケルたちにとってベトナム戦争はくるりとシリンダーを回して銃口を自分の頭にあてることと同じなのだ。運がよければ生きて帰れるし、運がなければ負傷または死ぬことになる。また生きていても心の傷は癒されることはないのだ。
マイケルたち3人のスティーブンは体と心を損傷しニックは精神を蝕まれ死亡し、マイケルは肉体的損傷は少なくてももう心の傷が癒えることはないだろう。
マイケルが持ち帰ったのは勲章のついた軍服のみで彼は今までどおり小さな家で貧しく真面目に生きていくだけなのだ。
ささやかだが彼らにも夢があり希望があった。愛する女性がいて幸せな家庭を築く、それだけのこと。
その小さな夢さえも戦争の体験がすべて破壊してしまったのだ。

マイケルはもう鹿を撃つこともできない。銃口を向けられる恐怖、痛みを知ってしまった。
鹿はただの獲物ではなく、自由と生を求めている生き物だと認識してしまったのだ。
彼はニックを救えなかったことを悔い続けるのだろう。
ニックが助けを求めている時、彼はそれに気づかなかった。ロシアンルーレットの店でニックを見つけた時、何故捕まえきれなかったのか。
彼の心にほんの少しでもリンダを争う気持ちがありはしなかったか。
最後にニックを見つけた時、彼を殴って気を失わせてでもどうにかしてさらえなかったのか。マイケルは悔やみ続けるのだ。

ニックと同じようにマイケルもリンダを愛していたが二人の気持ちは揺れ動きどうなったとしても悲しみを忘れてしまうことはできない。

「この杯から一滴もこぼさず飲めば幸せになる」花嫁の胸にワインはこぼれた。
その予言どおり幸せは訪れなかった。

アメリカの中のごく小さな存在でしかないマイケルたち仲間。そんな彼らからごく小さな幸せを奪ったのは他国での戦争。そしてそれから生まれた狂気。
それらが彼らにとって大切な人を奪っていた。

ニックに乾杯、の言葉の後、映像のニックの笑顔がたまらなく悲しい。

この映画でのロバート・デ・ニーロのなんというかっこよさ。超人的な強さを持ちながらそれでも二人の仲間を無事に救うことはできなかった。そして一見タフな彼もまた心に傷を負ったまま生きていくことになる。
この作品で最も印象に残るのがニックのクリストファー・ウォーケンだろう。マイケルを兄のように慕っていたのにその彼のことすら忘れてしまい、ひたすら狂気じみたロシアンルーレットの賭けの対照となって生きていく。最後記憶喪失となって銃口を自分に向けるニックは透き通るような美しさなのだ。何故彼を救えなかったのか、何故、何故。
戦争さえなければ、としか考えられない。
ウォーケンもいいのだが、もう一人繊細な感受性を持つ青年スティーブンのジョン・サベージも好きなのだ。『ヘアー』でのイメージとあまり変わらない純真で少し神経質な表情。
もう一人、嫌な役だが強烈なのがスタン役のジョン・カザール。一々気に触る言動。常にピストルを持っているのが彼の心の弱さを露呈している。こんなにむかつく役をやれると言うのが凄い。
マイケルとニックから好意を持たれるヒロイン・リンダにメリル・ストリープ。この時の彼女の美しさは見惚れるばかり。

寂しく重々しい雰囲気が作品を覆っている。ロシアンルーレットの場面は知っていても恐ろしい。
戦争は人間を狂気に導いてしまうのだ。

監督:マイケル・チミノ 出演:ロバート・デ・ニーロ クリストファー・ウォーケン ジョン・サベージ メリル・ストリープ ジョージ・ズンザ シャーリー・ストーラー ルターニャ・アルダ ジョン・カザール
1978年 / アメリカ
ラベル:戦争 狂気 友情
posted by フェイユイ at 01:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月28日

『チェ 39歳別れの手紙』スティーブン・ソダーバーグ

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Che: Part Two
このゲバラの肖像って「僕は理想を掲げているけど周りは見てないのだよ」という説明のように思える。何故うつむいてるのか。そこが問題。

前篇同様、まるでチェ・ゲバラの傍でゲリラ隊に参加しているかのような忍耐を強いられる、重く辛い鑑賞である。
映画でよくいう息抜きだとか色ものだとかそういった現実にあり得ない配慮なんぞはなくただ飢え渇き、疲れ切り、歩き続けることだけ。
そうだ、まるで何のために戦うのさえよく判らなくなりただ命令に従って自分がいかに辛いか愚痴を言ったりする。
このまま上の人間たちに支配されているだけでは貧困も無学も病気も改善されることはない、今戦い自分たちで変えていかなければならない、というゲバラの理想がそこに生きる人々に浸透していない、という空しさ。

前篇はすべてに勢いがあり、ゲバラの活躍も華やかなものだったが、後篇のボリビアでの戦いはまるで底なし沼にはまっていくかのように身動きも取れなくなっていく。
私は南米の歴史やゲバラの活躍を詳しく知るわけではないのでこの映画を観た限りでだが、その大きな理由はやはりカストロという指導者の有無なのだろう。
キューバでのゲバラは一人の参謀であればよかった。キューバ人の指導者は同じキューバ人であるカストロが担っていたわけで彼のカリスマ性と指導力があるからこそ、彼と緊密な関係でいたゲバラの働きが大きな効果を生み出していく。やはり外国人であるゲバラの信頼性というのは偉大なカストロが見込んだ男である、という人々の認識によって成立していたはずだ。
ところがボリビアでの戦いではカストロの存在が全くない。それは最初に登場した「ゲリラに反対する」モンヘら共産党であったのかもしれないが、キューバでの成功を再現しようとしたゲバラは彼らと離反してゲリラ戦を展開していくことになる。
そのことが果たして正解だったのか。
同国人の指導者カストロの存在がないゲバラは結局後見人のいない外国人で彼は孤立無援だったように思えてならない。ゲバラは一人でカストロとゲバラ二人分を演じようとしたがカストロにはなりえるわけもなく、「外国人の指導者であってもいいじゃないか」と話しあうシーンにやはり人々の本音が見え隠れしているようだ。
何故外国人が入り込んでくるのだ、いざとなれば逃げてしまうのじゃないか、というような気持ちがあるのかもしれない。実際一番本気なのがゲバラだったのだが、その気持ちがどこか空回りしている。
後篇の物語でゲバラが誰かと心から親しくしている場面がまったくなく、唯一それを感じたのは彼がボリビア軍ぬ捕まった時、彼の見張り番であった若い兵士との会話だけだった。このシーンが事実なのかはわからないが。

前篇ではさほど感じなかったのだが、後篇は果たして本当にリアル、なんだろうか。これはゲバラだけの視線なのではないか。
そういえばゲバラが死ぬ時、彼の目線で死が語られた。
この映画はゲバラが見て感じたボリビアでの革命の映像なのかもしれない。実際彼と戦った人々、また農民たちはどう考えていたのか。
勤勉実直で忍耐強いゲバラに対し、ゲリラ兵士たちはしょっちゅう空腹を訴えている。そして農民たちを引き込むにはどうしたらいいのかという話し合いもしていない。
ゲバラには自分の理想だけを追い求め、彼らの姿が見えていなかったのかもしれない。
この作品では英雄となったゲバラが理想を追うあまりに皆を置き去りにし、自分だけが舞い上がり耐えきれず墜落してしまうような、そんな悲劇が映し出されているのだ。

監督:スティーブン・ソダーバーグ 出演:ベニチオ・デル・トロ、カルロス・バルデム、デミアン・ビチル、ヨアキム・デ・アルメイダ、エルビラ・ミンゲス、フランカ・ポテンテ、カタリーナ・サンディノ・モレノ、ロドリゴ・サントロ、ルー・ダイアモンド・フィリップス、マット・デイモン

2008年スペイン・フランス・アメリカ

ソダーバーグ監督作品なので『ボーン・アイデンティティー』フランカ・ポテンテとマット・デイモンが出演。
マットは最近すっかりお見限りでこういうゲスト出演みたいなのしか観れずちょっと寂しい。
私的にはボーンシリーズや『グッド・シェパード』みたいのより、昔やった『すべての美しい馬』『ジェリー』とか、ちょっとマニアック(?)な感じのをやって欲しいんだけど。
勿論一番好きな『ふたりにクギづけ』だったらまたうれしいし、『リプリー』ならば、ちょっとおじさんになったリプリーをやってくれたら感激なのだがなあ。
ラベル:革命
posted by フェイユイ at 23:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『狂い咲きサンダーロード』の山田辰夫さん逝去

俳優の山田辰夫氏死去

昨日急に『狂い咲きサンダーロード』の記事へのアクセスがあったので何故?と思ってた。そうだったのか。
私には『狂い咲きサンダーロード』だけでの彼だったが、それひとつで他にないほど忘れられない強烈な存在だった。

ご冥福をお祈りします。
ラベル:訃報
posted by フェイユイ at 08:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『世にも怪奇な物語』

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HISTOIRES EXTRAORDINARIES / Tre passi nel delirio

凄!
エドガー・アラン・ポー原作の3つのオムニバス映画だが3作とも滅茶苦茶に面白くしかも最後のフェリーニはとんでもない暴走的面白さで他を圧倒している。
他の二監督ロジェ・バディム、ルイ・マルも名監督という誇りがあるだろうに、いくらなんでもこのフェリーニと比較されるのは気の毒というものである。
そう思ってしまうほどフェリーニが凄すぎる。順番がこれでよかった。逆だったらあまりにも悲しい。
とはいえ本当に他作品も面白いのだよ。

T「黒馬の哭く館」
エロチックホラーと言うべきなのだろうか。とにかくジェーン・フォンダ演じる富裕な伯爵令嬢の装いがエロチック過ぎて衝撃なのだ。とはいえやはり時代が変わったせいなのか、それともやはり秀逸なデザインであるせいか、見惚れてしまうのだ。
J・フォンダもまだセクシーである時の彼女で(後ではすっかりイメージが変わってしまったものね)豊かなブロンドヘアー、気の強い美貌、切れのあるプロポーションもこの上ない女性的な魅力に溢れている。時代設定はいつなのか判らないが完全に60〜70年代ファッションがかっこよくジェーンの化粧やら奇抜にエロなコスチュームにくぎ付けなのだ。このファッションショーを観るだけでも十分な価値がある。
物語は莫大な財産を受け継いだ伯爵令嬢フレデリックがその高慢さと身勝手な性格・性癖のまま自由奔放に自堕落な贅沢を享楽していたが、すぐそばに住む厳格な性格の従兄弟・ウィルヘルムに突然胸騒ぎを感じてしまう。それが彼女にとって何なのかよく判らないうちに、傲慢な彼女は彼女に反抗するただ一人の存在の従兄弟ウィルヘルムが何より大切にしている馬がいる厩に放火させる。
ウィルヘルムは愛する馬を救おうとして命を落としてしまうのだ。
フレデリックは彼が残した気の荒い黒馬に毎日乗り続ける。
そしてある日馬とともに燃え盛る火の中へと身を投じてしまうのだ。

彼女が気づかぬまま恋する従兄弟を実の弟ピーター・フォンダが演じているというのも倒錯しているというべきか。
まあ別に何事もなかったのだからその辺りの遊びの欲求はなかったのだろうがヴァディム監督の妻であったジェーンの色香そのものがこの映画の見どころなのだろう。
ジェーンの髪型がすてき。どうしても『ルパン3世』の最初の頃を思い出してしまうわ(私のルパンは一番最初のアニメの幾つかだけ)

とにかくこんな風でこの作品一つなら滅茶苦茶秀逸の作品なのだ。

監督:ロジェ・ヴァディム 出演:ジェーン・フォンダ ピーター・フォンダ

U「影を殺した男」
3作品で最もストーリーが判りやすく面白い。というのはこの場合特に賛辞じゃないかもしれないが。
非常にサディステッィクでありながらいつも人を惹きつけている男、という役柄がアラン・ドロンにはぴったりなのだろう。
悪辣な男が最後の一線を越えようとする時、何故かいつも現れるもう一人の自分。
彼を殺すのは自分を殺すのと同じこと。美しいが異常なサディズムを持つ彼自身が生んだブレーキのようなものだったのかもしれないがまた彼自身の手によってそれを破壊してしまう。一見自己破滅のようでいて最後に自分を守ったのかもしれない。

私的にはアラン・ドロンより彼と対決しようとしたブリジッド・バルドーのあの目がたまらなく好き。
「負けたら俺のいいなりになれ」と言って鞭打ちが目的だったとは。確かにこの男、二人きりだと全然駄目で人前でサディズムを発揮するのが喜びだったのかも。
勝ち続ける彼女も素敵だったがゲームに負けて鞭打たれるブリジッドもエロチックでかなり危険な趣味に傾いている作品である。いきなり若い娘を解剖しようとして腹を刺しているのにお咎めなし?
今からミサだと言ってるのに神父さんに無理やり懺悔して長話というのもはらはらさせるが(それはしないのか?普通)教徒でもないのにいきなりこんな告白されちゃ神父も困惑だ。
私がドロンファンだったらも少し見惚れたろうがどうもドロンはなあ・・^^;
バルドーが出てきたことで評価アップ。
ルイ・マルなので子供時代の映像が秀逸。ドロン役の子もいい。
この時はもう一人のウィルソンは顔を出しているのだよね。
短編ならではの面白さでもある。

監督:ルイ・マル 出演:アラン・ドロン ブリジッド・バルドー

V「悪魔の首飾り」
これは一体どう賛辞したらいいのか、説明していけるのか、途方もなくぶっ飛んだ作品である。一場面一場面にぎょっとしてしまう。
それにもましてテレンス・スタンプの壮絶な美貌とこのダメージの表現はなんといっていいのか。
イギリスの人気俳優がイタリアに招待されキリストが絡んだ西部劇の主役に抜擢され、映画人の授賞式に呼ばれる、という物語なのだが、一体どこまでがテレンス自身を意味しているんだろう。
そしてこのアルコール中毒者になりきった憐れに切ない姿は一体演技なのか、と思ってしまうほどやつれきっている。そしてそれなのに妖しいまでの子の美貌。青ざめた顔の痛々しい美しさ。男も女も夢中になるという設定そのものに魅力的なセクシーさ危うさは他の誰にも変えられない。
そしてそしてまたそんなテレンスをさらに引き立てるフェリーニの不思議な世界はローマそのものなのか彼の作り上げた世界なのか。
ローマのTV局に招からテレンスが「これは真面目なのか」とつぶやくのがおかしい。フェリーニ描くローマの人々は騒々しくて艶めかしく混沌としている。
それらが現実なのかテレンスの酔いしれた頭が生み出した幻影なのか判らなくなっていく面白さ。
際どいまでのへんてこな男たち豊満な色気の女たち。
アル中のテレンスはますます青ざめ酔いどれていく。
テレンスの頭の中は幻想を生み出していくのだがその中でも最も恐ろしのがボールで遊ぶ白い服の少女。テレンスはどうやらこの少女にエロチックな感情を持っているようだが少女は綺麗な髪の隙間からテレンスを笑って見ているのだ。

どうやらこの3部作はエドガー・アラン・ポー原作という以外にもう一人の自分が自分を見つめている、というものでもあるのだろうか。
少女はそれまで抱いていた白いボールの代わりに死んだテレンスの首を抱きあげるというのが不気味である。少女が面白い遊び道具を手に入れたのだ。
今やっとその魅力に気付いて夢中になっているテレンス・スタンプ。『コレクター』もちらりと観たのだが私としてはこの時のテレンスはそれほどカッコよくないのだ。無論役柄としてかっこよくしてないのでもあるだろうが。
2年後の本作の彼には凄まじいほどの美貌を感じるしさらに数年後の『ランボー』の彼はもっと綺麗だった。年齢を重ねるほど魅力的になるタイプの人なのかもしれない。結局彼を好きになったのは60歳になった彼だったんだもんね。

フェラーリの暴走シーン、たまんないものがある。
それにしてもイタリア・ローマってこんなにクレイジーな場所なのかなあ。

監督:フェデリコ・フェリーニ 出演:テレンス・スタンプ

1967年フランス/イタリア
posted by フェイユイ at 01:02| Comment(4) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月26日

『テンペスト』デレク・ジャーマン

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THE TEMPEST

というわけで、完全にベン・ウィショー出演『テンペスト』の予習として鑑賞。
デレク・ジャーマンだから最初から難しい&退屈いや荘厳であることは覚悟しての鑑賞だったがとりあえず戯曲をさらりとでも読んでいたので他の作品よりは飲み込めたかも。やはり元ネタを知っていればかの難物も少しは咀嚼できるのだ。
思い切りブルーの色彩か殆ど暗闇のような状態でとある孤島というがあまり自然の描写はなく狭い部屋で、効果音もなく静々と物語られていく。
気持ちはもうストーリーの如何などではなくベンが演じることになるアリエルに集中。といってもこの作品でのアリエルはかなり登場も多く、ほとんどがミラノ大公から魔法使いになったプロスペローと彼の会話のようにさえ思えるのでもしこのくらいベンの登場があるのならますます楽しみである。
しかも、本作でのアリエルは変な造形にはなっておらず、何故か作業服(?)を着用(違うのかな。どうみてもつなぎの作業服みたいだが)
元の主人だった魔女シコラクスからも裸にされて鎖でつながれ苛められる、というこれがベンならば、と涎モノの演出なのであるなくなってる。このベンのもといアリエルの裸もぼかしなし。最初から入れるなー)
本作のアリエルもスレンダーな男性なのでますますベンをイメージしやすいのだ。

テイモア監督の『タイタス』の雰囲気から言って『テンペスト』もデレク・ジャーマン風になってしまう可能性もあるけど、まさかまた同じような演出になってしまうとは思えないのでそこら辺は違ったものになるのかもしれないが、アリエルのヌードだけはどうぞ真似して欲しかったりする。
まあプロスペローが女性プロスペラになるのだから絶対何か変わってくるのだろうが。魔女シコラクスは男性になったりするのかしらん。

後、私にゃどーせわからないが、本作は台詞は現代風じゃなくそのままのシェイクスピア風らしいのだが、そういう語り口の問題もあるのだろうな。
また『テンペスト』の強烈なキャラクターはキャリバンという怪物にあるようでその辺もどう解釈、演出されるのか楽しみである。
つまり怪物、となっているがその実白人の有色人差別意識の表現ということであるらしいので。

そのまんまの雰囲気で行くのか、現代風に作り替えるのか。ベンのアリエルが不思議なクリーチャーとして表現されるのか、普通の格好なのか。どうにでも様々に考えられるがそんな予想を覆してしまうような発想なのか。
うーん、楽しい。
どちらにしても本作くらいアリエルの登場が多いことを願う。そしてできるだけエロティックであることを祈りたい。

監督:デレク・ジャーマン 出演:ヒースコート・ウィリアムス カール・ジョンソン トーヤ・ウィルコックス ピーター・バル デビッド・メイヤー ネイル・カニンガム
1979年 / イギリス
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『ランボー 地獄の季節』ネロ・リージ

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Una Stagione All' Inferno

『イギリスから来た男』を観てから突然テレンス・スタンプが気になって仕方ない。昔から美男子と知っていたのに全く観ようとは思ってなくこんなおじい様(失礼!)になってから好きになってしまうというのはどういうものなのか。その後観た『プリシラ』で決定的になってしまった。

さらにその後観た『シシリアン』では確かに美男の面影があり、本作は物凄く若返って32歳公開作品(くらいだろう)
このテレンスは本当に絶世の美男子で今更ながら滅茶苦茶好きになってしまった。昔ハンサムと言われた人を今観ると仕方ないがどこか古めかしくておかしく思える時もあるが彼の美貌というのは今観ても何の遜色も感じない。スタイルも素晴らしいし、ランボーのパリ時代というのは1870年代で当時からちょうど100年前になるのだがこの服装というのは何だろう。シルクハットは別としても細身のズボンにマフラーなんて格好だし髪型なんかもとても素敵(特にアフリカの時の)なのだ。
こんなにカッコイイ男性だったんだなあと今頃になって夢中になってしまった。ランボーがパリに着いたばかりで浮浪者たちに「初体験かな」と言われながら男色をいたされてしまう場面はテレンスのアップのみ(しかも痛そうとかじゃなく茫然としてるだけ)なのだが青い目が物凄く綺麗でそういえばアルチュール・ランボーの写真は目が印象的だった。

さて本作はアルチュール・ランボーの伝記と言っていいのだろう。彼の短い人生はちょうど半分のヨーロッパでの詩人である期間とヨーロッパを捨てアフリカ/エチオピアで武器商人として生きた半分に分かれるが作品構成はそれらを繰り返し織り交ぜて進行していく。
もしかしたらランボーのアフリカ時代にはさほど興味のない人がいて後半は観ない、なんてことになったら勿体ないからこのやり方でいいのかもしれない。
ただ時代的なことと予算的なことで難しいのかもしれないが、私としてはもう少しエチオピア時代を念入りに描いてヨーロッパでの出来事、特にヴェルレーヌとの関係を印象的なカットで挿入していく、なんていう方が嬉しかった気がする。
エチオピアでの背景が他の映画で観られるようなロマンチックなものでないのも少し寂しい。
ラストシーンだけは文字通り詩のような幻想的なものになっていて、さすがに高慢な白人のエチオピア人に対する見下した態度というのは今観れば腰が引けるが、どこまでも続く砂漠を白い覆いをかけた駕籠に横たわり腐りかけた片足の痛みに耐えながら脚の細長いシルエットの黒人たちに担がせて走らせる場面は不思議な絵画のように見惚れてしまうものだ。

このブログの映画感想で何度も「ヨーロッパに倦んでアフリカへ逃げる白人」という文章を書いたがランボーもまた同じ、というか先駆けの存在だったのか。
それにしてもヨーロッパからエチオピアに逃れた彼が病の為にヨーロッパへと戻らざるを得なくなり結局逃げ出したかった故郷で死ぬことになるというのも皮肉なことだ。

私が思うような挿入のカットではなくランボーとヴェルレーヌの物語も同時進行していくので二人の話もかなり描かれているが、表現としては台詞と軽いキスくらいのものだった。とはいえ、二人の関係の描き方としては申し分ないもので深い関係があったことが感じられるし、ヴェルレーヌがランボーの才能と美しさの両方を愛していたことが伝わるものだったので自分としては満足いく描き方だった(こういう同性愛関係の話でなんだか妙にがっかりさせられる表現の時もあるからねえ)

とにかく最初から最後までテレンスの美貌に見惚れっぱなしだった。脱ぐと意外に筋肉質のようで服を着てる時は凄く細身というまさに理想的なお姿である。年齢的にぴったりのせいか、パリ時代よりエチオピアでの彼がより素敵であった。
美貌といっても男性的な感じで髭が凄く似合うのもとても好きなのだ。

アルチュール・ランボーの映画と言えばディカプリオ主演のは当時どういう媒体であったか観たのだが、何故かもう忘れてしまった。今のところあまり観たくないのは何故だろう。

今凄く気になってるベン・ウィショーの主演映画はジョン・キーツという詩人を描いたものだがかなり対照的な人生のようだ。どちらも若くして亡くなったのではあるが。
 
ところで本作のエチオピアでの女性という存在は事実なのかな。なんとなく違う気がするが。

監督:ネロ・リージ 出演:テレンス・スタンプ ジャン・クロード・ブリアリ フロリンダ・ボルカン
1971年フランス/イタリア
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2009年07月24日

『その土曜日、7時58分』 シドニー・ルメット

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BEFORE THE DEVIL KNOWS YOU'RE DEAD

昨日に引き続き祟られたのか周囲がばたばたの中で観る羽目になったのだが、これは久しぶりに計算された脚本でとても面白かった。
物語自体は面白い、なんていう代物じゃなくどーんと重いのだがあまりに構成に凝り過ぎているのでサスペンスの方が効いていてとても楽しい作品、に思えてしまうのだが、多分それを狙っていると思われるので家族内の亀裂・苦悩が計算づくの物語に苦味をくわえてさらに深めてくれているようだ。

時間軸が前後するのはもうよくある手段だがそれが少しずつ台詞や状況を隠したり見せたりしていくのがとても上手くそうだったのかと感心しきり、最近ないほどはらはらどきどきしてしまった。
というのも役者陣の上手さが引き出しているのだろう。
兄・アンディのフィリップ・シーモア・ホフマンは言わずもがなだが弟ハンクのイーサン・ホークの情けなさっぷりがこちらまで伝染してきてたまらなく怖い。
金に困った兄弟が企んだのはドでかい強盗ではなく、自分たちの両親が経営する宝石店の強盗。店には保険金が降りるし、誰も死なず怪我もしない、はずだったのだが。
兄アンディは裕福そうだがドラッグにはまり会社の金を使い込んでいる。弟ハンクは離婚していて養育費を払うのもままならない。
そんな大した理由でもない。兄の計画に弟は最初脅えるが些細な見栄から犯罪を決意してしまう。
何事もなく終わるはずの計画が次々と殺人を引き起こしていく。

何故アンディがこんな馬鹿な計画を考えたのか。長男である彼は宝石店を経営する父親に愛されずずっと冷たくされていた。アンディが「あんたが弟を好きなのはあいつの方が外見が可愛いからだ」というのが悲しい。ホフマンが言うとなんだかおかしくも思えるが家族内の愛情のすれ違いというのはこういうしょうもないことなんだろう。
結構いい地位につくまで頑張った兄よりふがいない弟の方が可愛いのだ。それは容姿がハンサムだから。可哀そうに。
妻もまたそんなハンクと浮気をしていた。アンディはもう怒る気力もない。

アンディがドラッグを楽しむのがあるマンションの一室。華奢なゲイボーイ風の男から注射をして憂さ晴らしをするのだが。
犯罪の尻拭いのために金が必要となり襲ったのがその男の部屋。
アンディが押し入った部屋のベッドで寝ていたのがまるでアンディそっくりの太った男だったのがとても奇妙な感覚でまるで自分で自分を撃つかのような光景だった。

「死んだこと悪魔にが気づかれないうちに天国につきますように」
ぞくぞくする言葉である。


確かにイーサン・ホーク可愛かった。びくびくおたおた、あの後どうなったんだろう。

監督:シドニー・ルメット 出演:フィリップ・シーモア・ホフマン イーサン・ホーク マリサ・トメイ アルバート・フィニー
2007年アメリカ
ラベル:犯罪 家族
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ベン・ウィショー『Bright Star』 Trailer

ふぇでり子さんに『Bright Star』Trailer 情報いただきましたよ。ありがとう!!!



posted by フェイユイ at 01:04| Comment(14) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『タイタス』ジュリー・テイモア

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Titus

ジュリー・テイモア監督。『フリーダ』と『アクロス・ザ・ユニバース』を観て一気にファンになったくせにもう一つレンタルできる本作を放りぱなしにしてたら、ベン・ウィショー出演『テンペスト』も同監督だと気づいて慌てて鑑賞。
なのに折悪しく気になることがちとあって申し訳ないのだがながら観になってしまった。

なのであまり今回詳しく書けないのだがどうせ難しそうな内容だったのでどちらにしてもあまり書けなかったかもしれない。
しっかしこれ、悪いんですけどなんだかデレク・ジャーマン観てるみたいなのである。
歴史物にも拘らず現代のものがじゃんじゃん出てくるんだとか、若者の雰囲気だとか、ジャーマン作品幾つかしか観ていないのでもっと観てればもっと面白い場面に気付いただろうが『カラヴァッジオ』と『エドワードU』の雰囲気がそのまま反映されているようだ。
ただ、ジャーマン作品はもっと徹底して重く暗く静かなのに比べればさすがアメリカ女性だけあって軽く明るく騒がしく出来上がっていてその分観やすい作品になっている。まあ、これを軽くて見やすいと人には言いにくいがデレク・ジャーマンに比すれば。

現代の少年がいきなりあちらの世界へ連れ込まれてしまうのも不思議な感じだが少女のように可愛らしい少年が危ない世界を観て行くことになる。とてもこんな小さな少年に見せられる世界じゃないのだが。

物語自体も復讐だの許すの許さないので人間の残酷性が描かれるが表現もかなり残酷な映像で溢れている。ただ自分的にはそれほど嫌悪感のある残酷じゃなかったので結構観れた。
秀逸なのはやはりラヴィニアが舌と手首を切られてレイプされてしまう、というところだろうな。レイプ場面も切断場面もないが切られた手首に小枝が一杯刺されて奇妙な指のようになっているのが不思議な絵画でも観てるような気持ちになる。
この作品で印象的なのは主人公タイタスのアンソニーよりゴートの女王のジェシカ・ラングとこのラヴィニアの対比。対照的な女性ふたりだがどちらも物凄く印象的である。
この二人の女性に比べると男性たちはいまいち影が薄いようだ。

さて今回の目的はこの作品を観てベンの『テンペスト』を想像することにあるわけなんだが、同じくシェイクスピア作品でもあるし、こういう現代と昔話が混じり合ったものになる可能性もあるし、一度やったことだから次はオーソドックスになものに。もしくはまったく現代的な物語でってこともあるわけで結局どうなるのか想像つかない^^;
テイモア監督はやはり女性が中心となる作品になると思われるし、『テンペスト』は男性であるプロスペローが女性プロスペラになるのだからますます女性的な作品になるのだろうか。
ベン演じるアリエルはプロスペラに助けられそのお返しとして彼女の命令を聞いていく、という設定なのだが、命令で美しい海の精になったり、プロスペラ(あえてもう女性型で書いてるが)に「可愛い奴」って言われたりするのでどんな容姿になるのか楽しみでしかたない。

何だかホントに『タイタス』自体には触れきれなかったが、ますますゲイ的な要素を持つ女性監督だという確信は持ってしまった。

監督:ジュリー・テイモア 出演:アンソニー・ホプキンス ジェシカ・ラング ローラ・フレイザー アラン・カミング ジェームズ・フレイン ジョナサン・リース・マイヤーズ マシュー・リス ハリー・レニックス アンガス・マクファーデン コーム・フィオール コルム・フィオール
1999年 / アメリカ
posted by フェイユイ at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月22日

『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』マーティン・スコセッシ

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Shine a Light

十代の頃、自分の興味を一番占めていたのは本、小説次にマンガ、であってそれが自分の中ではかなり大きなものだった。次はそれほど入れ込んではいなかったが映画だろうか。その次辺りに音楽と絵画など後は色んなものがごちゃまぜに。
そういう自分、TVなんかはあまり見ずに本ばかり読んでたような自分に不満はないが時々もっと音楽にはまってればよかった、なんてしょうもないことを思ったりもする。音楽なんていつハマってもいいけどね。
でもこんなローリングストーンズのステージのDVDなんかを観てしまうともう一度十代をやり直したくなるのだ。
ま、ローリングストーンズにはまったかどうかは判んないけどね。
(いろいろ浅く好きになったミュージシャンはいるが本気で好きになったのは20代になってからブルーハーツだけ。今ならそこから発展して他のパンクバンドにも興味を持っただろうけどあの頃はそこまでだった。音楽にはいったのはむしろ20代になってからなのかな。10代の時はほんと適当だった。あ、普通女子なら一番はおしゃれかもしんないけど、私はおしゃれなんぞまったくしなかった。これは30代になってからの方が凝ったものだ^^;)

私の中のポップミュージックやロックというのはその時代に生きていればそして若者であれば当然知っている程度の断片的なものでしかないのが悔しいのだ。もう少し自分がどれか一つでいいからのめりこんでいるものがあったらなあ、なんて思ってしまうのである。
さてそんな音楽に疎い私でももさすがにローリングストーンズくらいは知っている。無論表面的なとこだけで。
ミックとキースかっこいいなあ、くらいな感じで。
もちょっとちゃんと観たくなったのと監督がマーティン・スコセッシというのもどういうものになるのか気になった。つまり製作者の罠にまんまとはまっているわけであるな。

このストーンズのDVDが彼らの音楽世界でどういう辺りを表しているのかなどはさっぱり判んないし、スコセッシならではみたいなものも私には全くわからんかったがそれでも彼らがどんなにかっこいいのか、本当にかっこいいのか、若くても年をとっても変わらずにそれ以上にかっこいいのか、だけはびしびし伝わってきてしまったのだ。
もう観た人はみんな口をそろえて言うにきまってるんだけど、一体何故彼らはこんなにかっこいいのか?
あのエネルギーとセクシーさは一体どこから溢れてくるんだろう。
4人ともみんな細くって若々しいなんて言葉は不釣り合いなほどただのやんちゃ坊主にしか思えないではないか。
ミックが信じられないくらい細い腰を振り腕は絶え間なく動き続け、声は青年のように甘い。
もし自分が彼と同じ動きを1分でもしたらぶっ倒れて呼吸困難に陥りそうだが鍛錬のたまものなのか、秘密の薬でもあるものなのか。

私は前に書いたとおり、だから彼らの歌は最もミーハーなところしか知らないのでこのDVDを楽しめるかどうかもちと不安だったのだが、歌、というよりやはりパフォーマンスの素晴らしさにくぎ付けになってしまう。いつまでたっても、というか完全に怪しいロックの妖怪の如きキースの顔とスタイル、遠目にはまるで少年のようなミックの動き、あの腰の細さって一体何?信じられないんだけど。いや今までも見てたけどさ。なんかを眺めてたらあっという間に終わってしまったのだった。
特にかっこよかったのはバディ・ガイを呼んで歌った『シャンペン&リーファー』Champagne & Reefer (Muddy Waters) である。いやもしかしたらバディ・ガイのほうに参ってしまったのかもしれないが。ミックの倍以上ある声量困るでしょ。いやいやもう彼も含めてかっこよかった。こんな歌ばかりだったらたまんないね。キースが咥え煙草を唾も灰も一緒に吹き飛ばす場面には崩れそうだったし。ギターがリーファーって鳴ってるし。ミックの歌い方もめちゃかっこいい。ハモニカも。こういうのが好きだ。バディの声が素敵で。キースが彼と競いあうようにギター弾くのもいい。音楽のこういうセッションってきちゃうよね。
ここをもっと観てたかったなあ。

昔の若いストーンズが合間に入るのもうれしい。変わらない、とか言っても若い時のミックの可愛らしさってないよね。キースもかっこいい。段々凄い容貌になってくる。煙草を吸わないと死んじゃうのかな?
ロニーとどっちが上手いか聞かれて「二人とも下手だけど、二人合わせると最強だ」っていうのが泣ける。キース、ほんとにあまり上手くない気がするが^^;そんなのどうでもいい。煙草が似合う。煙の中のギタリスト。あちこちに吸殻捨てまくってる。
それにベン・ウィショーが『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男 』でキースやってから余計気になっちまうのだよ。もしかしてだから観たかも(笑)

監督:マーティン・スコセッシ 出演:ローリング・ストーンズ(ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、チャーリー・ワッツ、ロン・ウッド) バディ・ガイ クリスティーナ・アギレラ ジャック・ホワイト
2008年アメリカ 2006年に行ったビーコン・シアターでの慈善コンサート

スコセッシ監督でニューヨークで撮った奴なんで最初に観客としてクリントン夫妻なんかが登場してミックたちにあいさつしてる。確かビルはサックスなんかが得意だったような。
posted by フェイユイ at 23:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月21日

『007/慰めの報酬』マーク・フォースター

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Quantum of Solace

007のダニエル・クレイグはかっこいい。それだけで満足。
なんて言うってことは作品自体は本当に破格に面白い、というわけではないってことかもしれないが。
ショーン・コネリーから(というかだけという)007を観てきたような人間にはある程度のイメージがあるのでそこが破壊されるほど崩れてなければふんふんと楽しめるわけである。
とはいえマット・デイモンの『ボーン・アルティメイタム』でもそうだったんだけどアクションのスピードが速すぎるのと振付がまるでNHK『ピタゴラスイッチ』のボールが転がるピタゴラ装置みたいな感じでなんだか笑えてきてしまうのだ。
一番驚いたのはやっぱりボンドトフィールズが飛行機から飛び降りてパラシュートがぎりぎりに開くあのシーン。本物としか思えないような迫力であった。

またこれは好のみの問題だが前回のエヴァ・グリーンが物凄く印象的な美貌で彼女の前にちょっと前菜的美女が登場したので今回のフィールズをずっと前菜だと思ってていつ本命が現れるのかと待ち続けてしまった^^;案内係の彼女が登場したので「この女性???」となってしまったではないか。
いやあ、別に今回の女性も綺麗だったけどエヴァ・グリーン迫力あったんでオルガ・キュリレンコはちょっと弱かったかな。ボンドがまだヴェスパを引きずってるんでラブシーンもなかったし(別の女性とはあったけど)
お約束ダニエルのヌードもあったけどこれも少し出し惜しみ?
つまりなんでも前回を越えるような印象がなく多分それは盛りだくさんのアクションで勝負だったのだろうが、上に書いたように自分の趣味としてはあまりに急ぎ過ぎ軽業すぎでもちょっと大人の渋いアクションの方がよろしかった。

今回の悪役グリーンを演じたマチュー・アマルリック。「誰だっったっけ」とはっとなった。『潜水服は蝶の夢を見る』の彼だった。
小柄で特に悪人面と言うんではないかもしれないが何か心に潜んでいるようなとてもいい顔である。ここでも悪人ぶりがとても魅力的であったが、もっと静かな映画でとっぷりと悪魔的な演技を観たい気がする。

ダニエルの007はもー言うことはないくらいかっこいい。スーツのコマーシャルフィルムみたいだもんね。
映画がばたばたしてるからも少しゆっくり肉体美を観たかったのが不満ではあるけどそれでもまあ主人公だからずっと観ることはできたんでいいかな。
若い007という演出なのか、やたら乱暴である。口先では忘れたと言いつつヴェスパを思い続けているとこが当然のこととは思いながらもちょっとじんとしてしまうではないか。
横顔もしわの刻まれた顔も相変わらずのボディも見惚れてしまう男性なのだ。
ところで以前ダニエルは「そろそろゲイの007が出てきてもいいんじゃないか」と言ってたがどうなんだろ?さすがに国際的スターだから無理かなあ。もし作ったら勿論国によっては公開禁止のタブー映画になってしまうことは間違いないだろうし、ね。

監督:マーク・フォースター 出演:ダニエル・クレイグ オルガ・キュリレンコ マチュー・アマルリック ジュディ・デンチ
2008年 / イギリス/アメリカ
posted by フェイユイ at 22:43| Comment(2) | TrackBack(0) | ダニエル・クレイグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ベンが出演する『テンペスト』のジュリー・テイモア監督って

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『The Tempest』のArielってこーんな感じ?

今頃話題にするなんておかしいのだが、ベン・ウィショーが出演する『テンペスト』はジュリーテイモア監督なんだけど、彼女が『フリーダ』『アクロス・ザ・ユニバース』の監督だということを気付いてなかった^^;

いつものことなんだけど、どうしてこーちゃんと名前を把握してないかなー。
そうか。ジュリー・テイモア監督なんだ!(だからみんな判ってるって^^;)
と何故騒いでるかと言えば私、映画『アクロス・ザ・ユニバース』が滅茶苦茶好きなんですね(笑)
以前書いた感想ではうまく表現できなくてあまり書いてないんだけど、ビートルズの音楽をこんなにセクシーに表現できるものかと物凄く感動して珍しくCD買ったし(あまり買わないのだ)何度も聞いては映像を思い出すくらい好きだったの。
『フリーダ』もとても素晴らしい作品で一気に好きになってしまった女性監督。
ところでこれは勝手な思い込みだけど彼女自身同性愛者ということはないのかなあ。
というのは勿論『フリーダ』もビアン的な女性でしょ。彼女はメキシコ人なのでメキシコ人監督映画かと思ってたらアメリカ人だった。彼女に興味を示してこういう風に素晴らしく撮るのは共鳴するところが大きいのではと思ったのだった。
そして『アクロス・ザ・ユニバース』で最も好きなのがプルーデンスというアジア系女性が歌うレズビアンの歌(と言ってもビートルズの『I WANT TO HOLD YOUR HAND』を彼女が女性に向けて歌う、ってことなんだけど)これが物凄く印象的で私はこの映画でこの歌が一番好きになってしまったのだ。
 
だもんでこんなにビアンを素敵に撮るのはテイモア監督自身もかな?と思ったわけで。何の確証もないし、別にどちらでもいいんだけどね。

ただ、テイモア監督がビアンだったらやっぱベンが一緒に仕事する監督はゲイな人が多いんだなあ、と。
ただそれだけ(笑)
素敵だーと思ったのだった。

ジュリー・テイモア監督、シェイクスピアの名作「テンペスト」を映画化


つまり男性のプロスペローを女性(ヘレン・ミレン)が演じ、女優が演じることが多いアリエルを男性のベン・ウィショーが演じるわけです。
うーむやはり倒錯してるってことだにゃ。

posted by フェイユイ at 19:08| Comment(5) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月20日

『チェ 28歳の革命』 スティーブン・ソダーバーグ

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Che: Part One

チェ・ゲバラ。やたらと革命家のアイコンとして男たちのTシャツやら応援団の旗印になってしまう。そのルックスがあまりにカッコよくてよく知らなくても何だか自分まで男前になってしまうように感じさせてくれる男なのである(自分が男だったらね)

そういうんでいっちょどんな奴か見たろかと言うんでこれだけをいきなり観て感動できた人は結構脳細胞が発達してるんじゃなかろうか。やはりこれはある程度予習を必要とする映画なのだと思う。

という自分も偉そうに言える知識を持っているわけでもないのでまあ微々たる在庫のみで話を進めていくのだが。
つまりこの映画は教科書ではないので一々当時のキューバ情勢がどのようなものだったかを説明してくれるのを期待してはいけない。映画というのは一つの物語を描くものであり、ここで描かれるのは無論チェ・ゲバラその人の物語なのである。
書いてるだけで冷や汗だが、そんな話であった。

と言ってもよーく聞いていればきちっとキューバがどういう状況に置かれているのか、ゲバラがどういう人物なのかは説明されているのだけどね。その辺を映画でばーっと言われてすぐ飲み込める人は凄いのではないだろうか。
まずアルゼンチン人であるゲバラが何故キューバ革命の立役者になってるのか、何故最は兵士の怪我の手当てやらに追われているのか、その辺を知りたかったらまずは『モーターサイクルダイアリーズ』を観てみたら凄くよく判る。(などと言わなくともこれの予習でこの映画を観た人はかなりいそうだ)
というか私自身は『モーターサイクルダイアリーズ』を観たからこそ本作を観てるのである。

さて余談が長くなる。
このブログの前の奴『藍空』は映画『藍宇』からタイトルをいただいたんだがこの『藍空放浪記』はタイトルは違うが(漢字が好きなのだ)『モーターサイクルダイアリーズ』がイメージなのである。あの映画を観た時からその物語と南米の大地をバイクで(途中でぽしゃるが)旅する二人の若者(まだ革命家になる前のゲバラと年上の友人)のイメージにぞっこん惚れてしまった私は『放浪』に憧れてしまった。その旅の中でゲバラは自然の脅威を知り、南米の大地のあちこちで圧政と貧困に苦しむ民衆を知る。元々アルゼンチンの裕福な家の育ちであり医学生だった彼は同じような境遇の年上の親友とともに南米をおんぼろバイクで旅する。そして南米の現実を知り、民衆が一部の資産家の圧政に苦しみ貧困から逃れられないことを知る。そしてまた彼らを苦しめるのはアメリカの巨大な資本主義が関わっているのだ。
キューバにおけるバチスタ政権はアメリカ政府と強く結び付きそのことによって民衆は貧困にあえぐことになる。
『モーターサイクルダイアリーズ』で自分の進むべき道を見つけたゲバラがカストロの要請を受けるのは当然の成り行きだったのだろう。
そしてこの先が本作の物語になっている。

映像のほとんどは華々しい銃撃戦などではなくゲバラの人となりを描いたもの、革命というものがかっこいい戦いの場面などは僅かで泥の上で眠る自然との闘い、または居眠りの許されない見張り番、または隊内でのいざこざ、裏切り、一般人への強奪やレイプなど道に外れた行いをする者への処罰など本来の目的とは離れた問題を一つ一つ解決していかねばならないのだ。そしてまた貧困のせいで勉強をしてない者たちへの読み書き算数までゲバラは細かく気を配っていくのだ。
またモノクロームでゲバラのもう一つの面(アメリカとの対話、という枠組みなのだろうか)が描かれる。泥と血にまみれた革命家のゲバラではなく一人の政治家として国際的に発言するゲバラである。
国際会議場で「アメリカは南米に対しまったく非道なことはしていない」と発言するアメリカ人に肩をすくめるゲバラがいる。
そしてインタビューで「革命とは何か」と問われ「愛だ」と答える。
これはかなりあやふやな言葉なのでぽかんとされてしまいそうだ。それこそ彼が何のために誰の為に戦っているのか、何故銃を持つだけでなく読み書き算数が必要だと兵士一人にも心を砕いているのか、どうして喘息の体で過酷な自然の中を歩き続け戦い続けているのか、この映画で説明されていない部分を(あの映画でもいいから)知らなければいけないのだ。

作品の最後で革命に成功した勝利した、と言わんばかりに浮かれて勘違いした男が真っ赤なスポーツカーを政府軍から盗んで走り去ろうとするのをゲバラが見咎め「返して来い」と叱りつける。随分へんてこな場面で第一部が終わっっているのだが、実際ゲバラはなかなか思い通りにはいかなかったようである。彼を知りたくて若干本をかじったりはしたのだが現実に政治や人間を動かすのは難しいものなのだ。彼があまりに勤勉だと煙たがるというのも当地の人間性の問題もあるわけで。
それはやはり人々の気質というものもあり、ゲバラのように(彼は南米人としては珍しいのか?)実直で勤勉な性格の者ばかりではなかったのだろう。
こういう人々をまとめていくのだから頭が痛いがそここそがゲバラの凄さだったのかもしれない。
びしっと厳しいが大らかな優しさも併せ持つ。「革命は人を愛すること」という言葉を彼こそは体現していたのだろう。

チェ・ゲバラを『モーターサイクルダイアリーズ』ではガエル・ガルシア・ベルナルが素晴らしい美貌で魅了してくれた。
本作ではベニチオ・デル・トロ。なるほど小柄なガエルが演じるにはここだけは足りなかった、本当のゲバラはすらりしているでその点は納得である。顔の方はなんといっても本人が他にないほどの二枚目なのでビニチオさんも苦労なされたろう。なかなかイメージ的には近い気がするがとにかく当人がカッコよすぎなので仕方あるまい。私としてはとてもうまく演じられていたと思う。

チェ・ゲバラ、キューバ革命という題材は是非アメリカ人に観てもらいたいものなのだが^^;これは珍しくスペイン語そのままでやってるわけなんだけどアメリカ人だと英語でないと観ないような。アメリカでは吹き替えにするのかな。余計なお世話か。

監督:スティーブン・ソダーバーグ 出演:ベニチオ・デル・トロ、デミアン・ビチル、サンティアゴ・カブレラ、エルビラ・ミンゲス、カタリーナ・サンディノ・モレノ、ロドリゴ・サントロ、ジュリア・オーモンド
2008年スペイン・フランス・アメリカ
ラベル:革命 歴史
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2009年07月19日

『情愛と友情』ベンとセバスチャンという奇跡

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ベン・ウィショーのことを毎日のように書きながら、それでも他の映画をせっせと観続けている私だが、(レンタルなのでとにかく順番があるのだ。自分で課した順番だけど)さすがにこの辺で彼の映画を補給したくなってしまった。
ダニエル・クレイグが好きで買ったDVDもあるので結構色々観れるんだけど私にとって一番心が震えてしまうのはやはり『情愛と友情』のベン=セバスチャン・フライトなのだ。
というかもうセバスチャン・フライトが好きだ。ベンだと思いださないくらい。(この見方は間違ってはいないと思う。ベンも頷いてくれるはず)
『パフューム』を観てなんて凄い役者なんだろうと思い、ベンのことはこのブログを見てもらえれば判るけどずっと追いかけて観てみた。素晴らしい才能を確認した。でもそれですっかり満足してしまうものだったのだが、セバスチャンに出会ってからはベンに対する思いがまったく違うものになってしまった。

まずベンについて語るのが恥ずかしいので(今さら何なんだ)マシューについて言えば、こうして観ているとチャールズがマシュー・グードで本当によかったと思う。その美貌も勿論だけどクールに見つめる目、セバスチャンとジュリアに惹かれ揺れ動き自分が何者か判らない余生を送る知性的な男性を素晴らしく演じている。
セバスチャンのベンとのバランスもとても素敵だし、我儘なセバスチャンをあやすようなそれでいて彼の魔力に溺れてしまうことを恐れて逃げ出してしまう不安定で繊細で頼りなげな部分を持ち合わせている。
貴族と庶民という対比ならむしろ素のマシューとベンは逆なのかもしれないように見えるのだが、作品に入ってしまえば何の違和感も感じない。
私自身はベン演じるセバスチャンに陶酔してしまったのだが、その効果はマシューの端正でしかもどこか茶目っ気も見える落ち着いた雰囲気がセバスチャンの魅力を引き出してくれているのだ。
しかも抜群に背が高いのでセバスチャンがとても華奢で可愛らしく見えるのが嬉しい。

ベンはとても声と発音に魅力があるのだが日本で普通にDVDとして観れる主役作品『パフューム』と『情愛と友情』(これは準主役なのだけど)のどちらも台詞が極端に少ないというのも不思議である。
しかしそのせいでベンには台詞がなくても人を引き付ける演技ができるのだと言うことを知らされる。
殆どが目の演技だったグルヌイユは格別だが、セバスチャンも目で語る場面が多い。
セバスチャンの嘔吐シーン。その後のまなざし。
謝罪の昼食シーンではセバスチャンは知り合ったチャールズに強い興味を示して彼がどう感じているかどう言動するのか見極めようと見つめている。友人たちのふざけた質問に真面目に美しい答えをするチャールズを見るセバスチャンはもう彼を好きになってしまった。
夏休み帰宅しているチャールズに大怪我を嘘をついて彼を呼び寄せたセバスチャンの甘えた目。ジュリアとチャールズと3人で話をする時は妹をちょっと煩わしく見てチャールズにはほほ笑む。
そしてママに誘われる夕食シーンは格別に好きなところ。チャールズに話しかけるママにやや恐怖も持ちながら警戒している。チャールズが答えると彼に視線を移す。
ブライディーが「弟は充分なもてなしを?ワインは出したかな」という場面でまた兄を警戒しているがチャールズが「はい気を使ってくれました」というのでほっとした視線を送る。
続いてブライディーが「酒は男の絆を作る」というので意味ありげな眼を。ブライディーの趣味を聞いて笑う目をする。
ママがチャールズに「趣味は」と聞くのをセバスチャンが「酒」と答えママにたしなめられてしょんぼり伏し目に。
ママがセバスチャンの仲間を問うと不安げにチャールズに絵を描いてと言うとチャールズがとても嬉しそうに承諾するのを見てがっかりし動揺する。それはセバスチャンが「パパにイタリアへ遊びにおいで」と誘われていてチャールズもつれて行きたいからなのだ。ママの「お勤めは忘れずに」という言葉で最も白けきった目をする。
ママがチャールズまで礼拝堂に誘うので「彼は無神論者だよ」という時は最大限に反抗的な目に。
この食堂のシーンは彼だけでなく他の人物も皆目で語っているのだが、セバスチャンのまなざしは特別になんて雄弁なんだろう。この演出は無論監督の指示であるわけだが、ベンの視線の送り方、伏せ方、目の光る具合など監督の要求をすべて満たしているんではないだろうか。台詞は僅かずつしかないのにたくさんの思いが込められている一場面である。

そしてヴェネツィア。チャールズとジュリアのキスを目撃して茫然とするセバスチャン。言い訳しようとするチャールズの口を押さえてすべてをあきらめた悲しい目をする。チャールズの心がもう自分から離れたことを彼は感じている。それはもうどうしようもないことだと。

それからのセバスチャンはずっと悲しいまなざしになってしまう。チャールズが彼との関係を呼び戻そうとしてもセバスチャンは失望しきっている。チャールズが彼と同じ世界に住む人間ではないと確信してしまったのだ。いくらチャールズがそう思い込もうとしても違うのだと。
そしてチャールズは現世の人間として妻を持つのだからセバスチャンの感受性は間違ってはいなかったのだ。
 
恋を失うまでチャールズをまっすぐに見つめていたセバスチャンの視線がジュリアとのキスの後からもう彼を見ることが殆どなくなってしまう。時折ふと心が通じ合う瞬間があっても彼はそれが叶わない願いだと確信してしまったのだ。

モロッコで療養しているセバスチャンはチャールズを見ることすらなく(あっても僅かな)チャールズはセバスチャンを失ったことを認識する。
チャールズが去る時もセバスチャンはもう視線を移すことすらしないのだ。彼らの世界が完全に分かれてしまった。

彼らが体験した美しいひと夏を思うとこの最後はあまりにも悲しい。確かにここでヴェネツィアのカーラが言う「あなたには一時期のことでもセバスチャンにはすべてなの」という言葉が表わされているのだ。
(といっても私は本当のセバスチャンには他にも出会いや愛がないとは思えない、と考えるのだが。「本当の」セバスチャン、という言い方もおかしいがこの物語でのセバスチャンということだ。チャールズがいない時もクルトや他の「いい人」との出会いがないなんて信じられない。これはチャールズの物語だから彼がそう思い込みたがっているということもあるし。少なくともチャールズにとってのセバスチャンはここでいなくなってしまう)
だがそれはチャールズ自身のことでもあるではないか。チャールズもまたここですべてを失ってしまったのだ。この後の彼は失ったセバスチャンの思い出を胸に隠した「自分が誰だかわからない、名前がチャールズ・ライダーというだけの男」になってしまったのだから。

ベン・ウィショーが演じるセバスチャンはなんて魅力的なんだろう。まだ幸せだった時、チャールズを初めて招待した時の背をまっすぐにして座っている彼の美しさに見惚れてしまう。少し女っぽく見えてしまう仕草も普通よりちょっと早口で高めのトーンで話すのも。チャールズに恋し、彼を失うのを恐れ、でも生まれつきの貴族的な我儘さと甘えた感情が愛おしく思える。
チャールズを乗せて車を走らせる彼、二人だけの夏の日の思い出、夕暮れにワインを並べて飲み交わす場面は涼しくなった空気すら感じてくるようだ。まるで神話の中のひとつの物語のように酒を飲み詩の言葉を競い合う。
セバスチャンが絵を描くチャールズの肩に手を置いて彼を優しく見降ろしている横顔は暗く影になっているが心には光が満ちている。
これらの美しい時間は作品の中でも僅かでありあっという間に終わってしまう。青春の儚さを思わせる。

ベンのセバスチャンを語り尽くすことは自分ではできそうにもない。ベンん自身にとってもセバスチャンのような青春の一つの偶像を表現できるのはそう長い期間ではないのも確かに違いないが、私にとってはセバスチャン・フライトという(イヴリン・ウォーが書き、ジャロルド監督がさらに作った)存在をベン・ウィショーが演じたことが一つの奇跡にも思えてしまう。彼ら(セバスチャンとベン)に会えたことも私には奇跡だと思え、彼を美しいと感じたこともうれしい。
他の人からは大げさな表現だと思われるだろうけど、私はそう感じている。

まなざしじゃないけど、大学でセバスチャンが最初のチャールズ招待の時、遅れてきた友人がセバスチャンにキスした後、チャールズの話を聞いてる時再び彼がセバスチャンに近寄ろうとするとすばやい動きで彼を手のひらで押しとどめる仕草をするんだけど、あの場面で私は落ちてしまったのだった。その後の表情も含めて。

監督:ジュリアン・ジャロルド 出演:マシュー・グード ベン・ウィショー ヘイリー・アトウェル エマ・トンプソン マイケル・ガンボン
2008年イギリス
posted by フェイユイ at 23:11| Comment(10) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ベン・ウィショー『ブライトスター』ポスター

ふぇでり子さんから『ブライトスター』のポスター画像いただきました!!いつもありがとう!!!!!!!

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ため息・・・・・

聖母と甘えんぼなベン。
posted by フェイユイ at 19:21| Comment(8) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『シシリアン』マイケル・チミノ

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THE SICILIAN

この映画、ただストーリーだけを追うのだったり『ゴッドファーザー』の物語の起伏と比較したらば、もしかしたら面白くない、と感じてしまうのかもしれない。だがこの作品の見どころは別のところにあってそこを観るのであれば非常に楽しめる秀作なのではないだろうか。

マイケル・チミノと言えば『ディアハンター』であり悲劇の美学ともいえるような恐ろしいほどの退廃に満ちた映像に陶酔したものである。
本作もやはりそういった悲劇性に酔いしれる男たちの美学に溢れているわけでその気分に浸れるか単なる成功物語を求めるのか、という嗜好性に左右されてしまう。
大まかなストーリーとしてはシチリア生まれのジュリアーノが貧しさにあえぐ農民たちのために義賊となって殺人強盗を犯していくのだが、農民たちは彼が与えようとして命まで犠牲にした土地を望んではいなかった。
ジュリアーノは人々からは尊敬どころか軽蔑の罵声を浴びせられ、愛する女性とは離れることになり、強い友情で結ばれていたはずの親友から撃ち殺される最後を迎えるのだ。
ディレクターズカットのせいでもあるだろうが、物語としてはやや散漫に思われるし、ジュリアーノの行動は最初からあまりに間違った方向を向いているし、とてもうまくいくとは思えない無謀なものである。
それでもあちこちにチミノの美学が煌めいていて思わず見入ってしまうのである。

まずはイタリアンマフィア独特の礼儀作法でもあるキスの儀式にも感じるのだが男たちだけの絆に心惹かれる。
ジュリアーノが説明する「シチリアには3つの輪があり、一つは公爵のような金持ちの輪、もう一つはその金持ちを守って金をもらうマフィア、そして聖職者。だが自分は4つ目の輪になる」と。
義賊となって犯罪を犯してもジュリアーノは敬虔なクリスチャンである。またシチリアを牛耳るドン・マジーノはそんなジュリアーノを息子にしたいと思うほど彼の力に惚れこんでいる。敵対する立場でありながらジュリアーノとドン・マジーノは互いを評価し、ジュリアーノが死んでしまった時(殺してしまったわけだが)のドン・マジーノの落胆は激しい。殺さねばならないがその存在を愛するという男たちにぞくぞくとするのである。
ドン・マジーノはできることなら彼をアメリカに逃がし、自分の配下に置いて可愛がりたかったのだろう。
貴重な男を失った老体たちの嘆く姿が悲しい。

そしてまた退廃的な貴族であり広大な土地を所有する公爵を演じるのがこの映画鑑賞の目的だったテレンス・スタンプである。
昨日観た『プリシラ』よりずっと以前の作品なので彼もまだ随分若い美貌を保っている。
彼を見たいのだったらこのディレクターズカットでないと観れなかったということらしい。
喘息なので小さい時から走ったことがない、という貴族様。妻がジュリアーノと肉体関係を持っても全く意に介さない器の大きさというのか。常にゆったりと余裕を保ち、ジュリアーノたち義賊に誘拐される際も日焼けよけなのか傘を持参する。優雅さと気品を常に崩さない。
テレンス目的の鑑賞としては(公開当時は殆どカットされていたらしいので)満足いく素晴らしい美貌の貴族ぶりであった。

ジュリアーノは彼らと戦い彼らに支配されるシチリアの貧民を救おうと高い理想を持ち、叶わず殺されてしまう。
ラストシーンで死んでしまったジュリアーノのまたがった馬が高く前脚を上げるのはナポレオンをイメージしているのだろうか。それとも作品中彼が語ったアレキサンダー大王に重ねたイメージなのだろうか。
同じ年で広大な土地を占領したアレキサンダーに対し、ジュリアーノは小さなシチリアのさらに僅かな土地すらも手中にできなかったのだが。

マフィアのおじさんたちが一つテーブルについてスパゲッティを啜るシーンはなんとも可愛らしい。

イタリアの物語なのだがジュリアーノのクリストファー・ランバートはフランス系アメリカ人、公爵とマフィアのドン・マジーノはイギリス人が演じているというのも不思議。主要人物が皆外国人だ。

監督:マイケル・チミノ 出演:クリストファー・ランバート テレンス・スタンプ ジョス・アックランド ジョン・タトゥーロ リチャード・バウアー
1987年アメリカ
ラベル:マフィア
posted by フェイユイ at 01:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月17日

『プリシラ』ステファン・エリオット

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The Adventures of Pricilla: Queen of the Desert

何故こうもドラァグ・クイーンに惹かれるのか。小さい頃、TVで初めて女装の男性を見た時からなんて不思議に綺麗な人なんだろう、とまじまじと見てしまって以来、その存在に言いようのない憧れを持ってしまうのだ。

これは単に好みの問題だが、あまりに女性そのもの、という人より長身でたくましい体の人が女装している時さらに好きになってしまうのもよく判らないのだが。さらに年をとってたり、美形とは言い難い人が女装をする方がより見入ってしまうのである。
さて先日久しぶりにテレンス・スタンプを『イギリスから来た男』で観てその魅力に参ってしまい彼の出演作をと探してこれを最初に観る私も私だがとりあえず自分のテレンスのイメージはこちらの世界であったりするのでこれで正解なのだが。

物語はドラァグ・クイーンの3人が彼女たちが住むシドニーから遠く離れた田舎町のホテルでのショービジネスの依頼で旅立つことから始まるロード・ムービーである。
かつて『レ・ガールズ』という有名なドラァグ・クイーン・ダンスグループにいたというバーナデッドを演じるのがテレンス・スタンプ。と言っても彼らのダンスは別段それほど物凄いってわけでもないんだけど、それでもしっかり魅せてくれるのが不思議でもある。
特にテレンスなんてそうそう動けてないはずなのだがもう顔の表情だけで納得させられている気がする。
とはいえこれは映画ならではだと思うが次々と変化する彼女たちの化粧と衣装は見もので楽しい。
広大なオーストラリアの砂漠を物凄い衣装のドラァグクイーンを屋根の上に乗せたバスが猛スピードで駆け抜けていくのは圧巻。あのどでかい布地がなびくのは人間で支えきれるのか?
ちょっと意味ありげな歌も楽しく、『アバ』が問題になるのもいかにもドラァグクイーンらしい。
ミッチがどうしても告白できないでいた女性の妻と二人の間の息子が彼を快く迎え入れ、特に気になる息子のベンジー(!)が信じられないほどパパを理解し愛してくれるのはドラァグクイーンで且つ父親である彼らの願望なのかもしれないがとても嬉しい結果であった。
そしてバーナデッドは運命の人に出会えたのだろうか。これもまた夢のようなラブストーリーだったりする。

監督:ステファン・エリオット 出演:テレンス・スタンプ ヒューゴ・ウィービング ガイ・ピアース ビル・ハンター サラ・チャドウィック
1994年オーストラリア
posted by フェイユイ at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | オセアニア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする