映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年08月31日

2009年度フェイユイ映画祭 授賞式

ブログ開始5年目この『藍空放浪記』を始めて3年目の最後の日です。
恒例のこの時期フェイユイだけの映画賞授賞式を今年も懲りずにやることにします。
というか、先ほどこの1年の映画&アニメ&ドラマ&ドキュメンタリーの索引をじっと睨みつけていたんですがだいたい趣味で選んで観てるんですからそんなに嫌いな作品は観てないわけですよ。
そして馬鹿みたいに数が多いし、ノミネートだけ挙げようとしたって2作に一つは面白かったってなもんでしょう。どうしたらいいんだい。
途中途中で今年の一番はこれだな、と思ったことが何回あったやら。
まあ涙を飲んでまずはノミネート挙げていってみるかな。

『アイム・ノット・ゼア』『赤い風船/白い馬』『アクロス・ザ・ユニバース』『イースタン・プロミス』『雨月物語』『狼少女』『カウガール・ブルース』『カッコーの巣の上で』『神に選ばれし無敵の男』『奇跡の海』『狂い咲きサンダーロード』『ぐるりのこと。』『ケレル』『コーラスライン』『ゴールデンボーイ』『ザ・フォール/落下の王国』『さよなら子供たち』『さらば箱舟』『山椒大夫』『サン・ルイ・レイの橋』『ジェヴォーダンの獣』『シークレット・サンシャイン』『死刑台のエレベーター』『地獄に堕ちた勇者ども』『情愛と友情』『書を捨てよ町へ出よう』『スパイ・ゾルゲ』『スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする』『スローターハウス5』『戦争と人間 第一部〜第三部』『ぜんぶ、フィデルのせい』『ダウト〜あるカトリック学校で〜』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『痴人の愛』『ディア・ハンター』『田園に死す』『独立愚連隊』『ドッグヴィル』『ドモ又の死』『何がジェーンに起こったか?』『白痴』『裸のランチ』『華の愛 遊園驚夢』『パフューム 〜ある人殺しの物語〜』『パラノイドパーク』『ヒストリーボーイズ』『昼顔』『ファニーゲーム』『FAKE ID フェイク アイディー』『ブエノスアイレス 春光乍洩』『譜めくりの女』『ブラッド・フォー・ドラキュラ/処女の生血』『フリーダ』『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』『フレッシュ・フォー・フランケンシュタイン 悪魔のはらわた』『ヘアー』『ベルベット・ゴールドマイン』『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』『ヘンリー ある連続殺人鬼の記録』『真木栗ノ穴』『マルホランド・ドライブ』『卍(まんじ)』『マンダレイ』『柔らかい殻』『世にも怪奇な物語』『46億年の恋』『リプリー』『リプリーズ・ゲーム』『ルシアンの青春』『ルー・サロメ/善悪の彼岸』『レザボアドッグス』

さあどうです。これがまだノミネートでs。いい加減うんざりでしょう。私ももう疲れました。これからさらに一つだけ選ぶなんて。
記憶力の悪い私のことですからどうしても最初に観たものは分が悪くて後のほどいいのですよねー。
しかしまあやってみましょう。

いつものことですがほぼすべてDVD鑑賞のみで新旧作品取り混ぜての授与です。
そして一度授賞したものは含みません(ここの性質上同じ作品ばかり選出することになってしまうので)

最優秀作品賞:『ルシアンの青春』ルイ・マル
それこそこれは去年の11月に観たので記憶も古くなってしまうのだが、それでもこの映画を観た時の衝撃は忘れられない。
何といっても今年はベン・ウィショーにはまったので彼の作品にしようか、ラース・フォン・トリアー作品か、溝口健二がいいかと思い悩むのだが、作品一つだけ取り出してみればこの作品ほど恐ろしく美しいものはないような気がする。主人公役のピエール・ブレーズはこの作品後まもなく亡くなったということもあって奇跡のような映画に思える。

最優秀監督賞:溝口健二 
作品としては『雨月物語』 『山椒大夫』
今年もいろいろたくさん古今東西の映画を観たが最近思うのは日本映画は素晴らしいということ。日本人なので贔屓のように思われるだろうが自分が外国人だったら絶対日本映画マニアであるのは確か。お侍か忍者の真似をして遊んでるに違いない。とにかく面白いんだよねえ。古いのは凄まじいほどの素晴らしさがあるけど現代日本映画も良いのが多くて嬉しい限り。世界のミゾグチ以外にも今年観た作品には寺山修司、今村昌平、増村保造、塚本晋也、三池崇史、深川栄洋、と自慢していい作家がたくさんいるが代表として溝口を。『白痴』の黒澤明は別格として。

最優秀主演男優賞:ベン・ウィショー
これはもう今年の私としては当然でしょう。該当作品は主演だからやはり『パフューム』ですね。グルヌイユをベンに選んだトム・テイクヴァ監督はほんとに凄い。『情愛と友情』は一応助演になるのでこの作品でのベンに決定。
つまりまだ主演映画のメジャーな作品がないのですね。これからのますますの活躍を祈りたい。

最優秀主演女優賞:ケイト・ブランシェット
作品は『アイム・ノット・ゼア 』
多数の出演者で成り立ってるがこれはもうケイトが主演でしょう。
かっこよくて美しくて素敵でした。

最優秀助演男優賞:ウド・キアー
ウド・キアーが主演なのか助演なのかよく判んないが『フレッシュ・フォー・フランケンシュタイン 悪魔のはらわた』は一応ダレッサンドロが主演みたいなんで、これで。『ブラッド・フォー・ドラキュラ/処女の生血』、『神に選ばれし無敵の男』でも。

最優秀助演女優賞:T.V.カーピオ 
誰?って感じだろうが『アクロス・ザ・ユニヴァース』で『I Want To Hold Your Hand』を歌った東洋系の彼女である。
この映画が物凄く好きになって当時はこれが今年一番!と思ってた。珍しくサントラを買って今でも聞いてる。

特別賞:『アクロス・ザ・ユニヴァース』ジュリー・テイモア
    『情愛と友情』』ジュリアン・ジャロルド
    『世にも怪奇な物語』(特にフェデリコ・フェリーニ)
これは文字通り特別賞。『アクロス・ザ・ユニヴァーズ』は上に書いたようにとにかく夢中になったミュージカルだから。
『情愛と友情』はそれまで上手い役者さんだな、という意識だったベン・ウィショーを私にって掛け替えのない存在だと気づかせてくれたから。何度も繰り返し観てますが、麻薬のような作品なのです。
『世にも怪奇な物語』今年になって初めて好きになったのがテレンス・スタンプ(ベンは一応前から好きだったし)この映画も初めて観たのだが、今頃になってテレンス・スタンプに惚れ込んだ。

期待したのにそれほどでなかった作品:『気狂いピエロ』『ダークナイト』『デリカテッセン』『ぺネロピ』『リトルダンサー』『RENT/レント』

ドラマはそれほど観てないので一番というのもなんだがやはり:『Criminal Justice』そして『悪魔のようなあいつ』

ドキュメンタリーは一連のバレエものが良いのが多かった。『ベジャール、バレエ、リュミエール』マルセル・シューバッハ他にもいろいろ。
衝撃は『いのちの食べ方』でしょうね。

昔はアニメおたくだったのに今は観ることがめっきり減ってしまった。今年見たのは(TVのちら観は別として)3本か。しかしどれも面白かった。
『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』押井守
『ペルセポリス』マルジャン・サトラピ/ヴァンサン・パロノー
『動物農場』ジョン・ハラス&ジョイ・バチュラー
どれも面白かったがどれか一つと言われれば『動物農場』こんな怖いアニメ、というより実写映画を入れてもそうないと思う。人間でやったら、と思うとぞっとしてしまう。

映画自体はそう悪くないがこういう映画作っていいのか?:『ビューティフル・マインド』ロン・ハワード
観てる間は何も知らなかったので結構楽しく観てたんだけど、後でこれが実話だと知り、しかも現実はまったく違う経過だったのでこんなに違うならそれは「実話です」と言っていいのか?と疑問だった。単にフィクションとして作ってはいけなかったのか。そうするとパクリって言われるのか。しかしここまで違うのなら・・・と疑問符ばかり。やはり「実話」って言ったほうが観客動員違うのだろうねえ。

今年の特徴は女性監督映画をよく観て好きな監督が増えたこと。今までは女性監督に反発でもしてるのか、と自分に疑問を持っていたがそんなことはなかったようでほっとした。特にジュリー・テイモア。リリアーナ・カヴァーニの良さも認識。ジェーン・カンピオン。ジュリー・ガヴラス。

訪問者数も去年からまた増えて特に何故かベン・ウィショーにはまってから凄く増えたのだが、彼は凄くマニアックなのに何故?というかマニアックだからか。最も多かった時で600アクセスほどだったかなあ。物凄く波があるのですけどね。

さてさてこれで『藍空放浪記』も4年目突入です。月日の経つのの早いこと。
それにしても毎年、「もうこれで新しい誰かに出会うことはないんじゃ」と不安があったりするのですがしっかりいつも誰かを好きになっていく(笑)
そして本当に来てくださる方に感謝するばかりです。何か知識だとか新情報だとかを提供できるわけでもなく(よく教えてはいただくが^^;)新作映画はまったく観ず古い映画のDVDのみのレビューであるのに。
今夜は授賞を考えるので精いっぱいでしたが、また明日から映画を観ていくことになるでしょう。
これからもよろしくお願いいたします。
posted by フェイユイ at 22:10| Comment(9) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月30日

『悲夢』キム・ギドク

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誰も寝てはならぬ、という歌劇『トゥーランドット』のアリアではないが、ここで寝てはならぬのはジンを演じるオダギリジョーであった。

キム・ギドクを楽しみにしている観客には彼の前期のような凄味がもしかしたら新作にまたあるかもしれない、と期待する気持ちはないだろうか。
私が勝手に思うことなのだがギドク監督は『うつせみ』を境にして何かが変わって言ったように思える。『うつせみ』は彼にしては非常に「おしゃれ」な作品ではないだろうか。それ以前の映画は観るのが耐え難いような重く暗い怨念のようなものを感じた。それが『うつせみ』以降同じような題材を描いてはいてもどこか軽いものに変わっている。私は『うつせみ』がまだ日本公開されてなかった韓国版DVDで(『空き家』と題されていた。台詞がほとんどなかったので言語の問題はなかった)キム・ギドクマニアみたいなものになってしまったのだが、それを過ぎた彼の作品は相変わらずの性と暴力と痛みを扱いながらどこか違う。以前の鬱血したものがどろどろと溢れてくるようなおぞましさがない。それは観やすいのだろうが以前の作品に没頭したものにはどこか寂しさを感じさせる。
それでもまだ一般的には変な映画だという評価ではあるようだ。
私としてはここ何作かでギドク監督の軽量化に少しあきらめもついてきたので本作にも過重な期待はしていなかった。
そのため彼の作品にまだ残されている不可思議さを楽しむことができた。映像でも『うつせみ』の時のような韓国の古びた建物や調度品の美しさに見惚れてしまった。

物語は見ず知らずの男女ジンとランが突然夢を通じて行動や意識を左右するという奇妙な関係になってしまう。
ジン(オダギリジョー)が見る夢の中で深く愛していた元の彼女がある男と逢い引きをしている。それをジンが怒り暴力をふるうとそれが現実ではランの起こした行動となるのである。ランは夢遊病者になってジンと逆に憎み切っている男のところへ行き彼との逢い引きを繰り返していた。次第に過激になっていくジンの夢。
ランがその夢の通りに行動しないようにと、ジンに「眠らないで」と懇願する。必死で眠気を覚まそうとするジンだが睡魔には勝てない。
そしてついに夢の中でジンは殺人を犯してしまう。それはランの行動となって現れランは憎んでいた元彼を殺してしまったのだった。

もう二度と寝ないと誓ったジンが自ら頭をピンで刺したり足を金づちで叩いたりノミを突き立てたり、とギドク監督らしい過激な自己破壊。しかも二枚目オダギリが目をつぶるまいと思い切り指で見開かせたりテープを貼ったりしていることこそが自己破壊かもしれない。
ギドク作品は笑いも必ず含まれているのだが、今回は特別ぶっ飛んでいたかもしれない。
頭から血を流し足にも穴が開いた姿はまさしく自己を犠牲にしたキリストのよう、と言ってもいいがどうにも滑稽なキリストである。
痛みと眠気で疲れ切ったジンをやさしく抱くランの姿は聖母のようであったか。

オダギリが出演している作品はいつも私は相性が悪くて好きなのは崔洋一監督の『血と骨』大友克洋監督の『蟲師』くらいなのだが(ほかのはほんとにめちゃくちゃ嫌いなのが多い)この作品はやっと好きなものに入れられる。
このオダギリはなかなかいいのではないだろうか。

この映画でギドク監督とオダギリが不思議(不気味)なほど仲良くなっているのが面白かった。これも以前は(あのチャン・ドンゴンは別にして)二枚目を使わないイメージだったがそれこそ『うつせみ』以降台湾のチャン・チェンなど美形を使うことが多くなってきた。2作続けて外国人俳優というのは自国韓国ではいまだに肩身が狭い為だろうか。

多作で回転の速いキム・ギドク監督だが、今のところ次回作の噂を知らないのだが、またもや二枚目を使ってくれるだろうか、作品はますます軽くなっていくのだろうか、それとも。
どうなることやら。

本作、オダギリジョーが主演なので果たしていつ観ることができるのだろうか、と不安がってたらなんとレンタル開始から数日経っているという最悪の条件なのにすぐ観ることができた。オダギリファンはキム・ギドク監督では興味が起きないのか?
おかげさまですぐ観れたのだから私としては文句はないが・・・・・。

書き忘れたが、いつも台詞の少なさが売りのギドク作品だが、今回はオダギリ一人が日本語を話しているのに韓国の中で普通に会話が成立する、というこれも面白い技だった。こういうのをやられるとこの作品自体が夢なので会話が通じても不思議はないのだ、というようなことを書きたくなるのだよね。
どこまでが夢で現実か、すべてが夢なのか、というのがギドクなのだ。

監督:キム・ギドク 出演:オダギリジョ- イ・ナヨン パク・チア キム・テヒョン チャン・ミヒ
2008年韓国
ラベル:キム・ギドク
posted by フェイユイ at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月29日

『パフューム ある人殺しの物語』トム・テイクヴァ

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Perfume: The Story of a Murderer

特にベン・ウィショーを意識せず観た最初の観賞からベン目的で何度も観てしまった観賞でも何度観ても面白いし何度観ても「こんな穴だらけの破綻した物語でよく映画を作ろうと思ったものだ」と感じてしまう。
そういう綻び部分を無理矢理縫い閉じて美しくもおぞましい映像のタペストリーに仕上げてしまったのである。

問題点は挙げればきりがないほどなのだが、では何故(ベンが主演だからということだけではなく)この作品に惹かれてしまうのだろう。
それはこの物語が多分空想癖のある人間なら一度は似たような妄想を描いてしまうからではないだろうか。
自分は誰にも存在を認められることのない人間だが(グルユイユは彼自身に体臭がないことで自分の無価値を感じる。匂いが存在価値になる彼にとって無体臭なのは存在そのものがないことと同じなのだ)全世界を変えられるほどの才能を持っている。今まで自分を見下げていた人々が皆自分にひれ伏すようになる。
だが想像はそこで途切れてしまう。周囲の人々をひれ伏させた後の野望は自分の想像では覚束ない。全世界を支配するというほどの欲望までは思いつかない小さな人間なのだ。

「匂い」というのは欲望をうながす。美味しい匂いは食欲を異性の匂いは(異性愛者であれば)性欲を感じさせる。この物語でグルが欲するのは食欲のほうではなく多分性欲に基づいた愛情なので彼は異性の体臭を収集することに夢中になる。
この辺りの設定と展開が滅茶苦茶で混乱する。彼が集めるのは成人した(少なくとも子供ではない)若い美女の体臭のみなのだが、人間には様々な嗜好が存在するので幼女でなければ発情しない男も逆に熟女にのみ興奮する男もまた同性愛者もいる(現在ならアニメキャラにしか感じない男もいるからますます難しい)且つクライマックス場面では女性も興奮するのだが何故異性愛者の女性が女性のエッセンスで興奮するのかが理解できない。女性にも性欲を発させたいなら男のエッセンスもとるべきだったのではないか。つまり老若男女それぞれの組み合わせのエッセンスは必要だろう。もっと他の性欲者はもうあきらめるとして。
またローラの父親や男性もグルにひれ伏すのだがこれは何の感情なのか。エッセンスは性欲を促すのか、尊敬の念を深めるのか。その両方の感情は必ずしもイコールでないはずだ。
そして最後では香りをかいだ人々は今度は触れ伏すのではなく彼を食べてしまう。これらを考えていると人が妄想に耽る時、その場その場で自分に都合よく現象を変えてしまう感覚なのである。
何故グルがローラのエッセンスを煮出して他の分と混ぜ合わせ得ている最中にやって来た追っ手はその場で彼にひれ伏さなかったんだろう。煮ていただけに香りはあたりに充満しっていたはずだ。一人のエッセンスでも人を温和にさせるのはドリュオーの怒りを鎮めたのでわかっている。ただし風向きのせい、という言い訳はここではありそうだが。
ここでわざと捕まって大衆を操りたかったのだ、という説明もあるだろうが、ここで逃げても民衆が集まる機会(祭りだとか)はあるだろう。まあ、映画だから一発逆転をやりたかったと言われればそりゃそうだろうけど。

妄想劇だと言っておいていちいち文句をつけるのもおかしなことだ。
でももう少し意固地で書けば、何故ローラパパはローラを結婚させようとしたのか。これは最初の女を売春婦にしなければよかったはずだ。後の女性は処女ばかりだったと言ってもいいが売春婦では通じない。グルが狙うのが皆処女なのでローラを結婚させ処女でなくせばいい、と考えたのならわかる。いくらなんでも良家の子女を襲われない為に性体験だけさせるわけにはいかないだろうから。
エッセンスの数より殺した人数が多い気がするのは気のせい?
最後に一滴エッセンスが残ってたがあれで充分周囲の人間をおかしくできないのかな。

これ以上に疑問はあるがそれでもどうでも良いほど見入ってしまうのである。グルと一緒に妄想の世界へと入っていく。

この物語と重ねて考えてしまうのは『フランケンシュタイン』のようなゴシックホラーである。荒唐無稽な機械で合成人間を作ったあの物語と同じように本作は荒唐無稽な方法で人間からエッセンスを集める。
そういえばフランケンシュタインのモンスターも愛されることが願望の怪物であった。
グルは一見美女を追いかけまわして欲望を感じているように描かれているが、その実彼が会話をし深い関係になるのはパフューマーのバルディーニとローラの父親リシだけである。(ある意味皮なめし屋もだが)
バルディーニは彼の才能に惚れ込んで、リシは彼の作ったパフュームによって洗脳され「息子よ」と呼ぶ。
フランケンシュタインのモンスターも一番求めたのは父親の愛だったのを思い出せば不思議な疑似体験だ。モンスターがついに父親の愛を得られないままだったのにグルはリシに愛情をこめて息子と呼ばれるのだ。
だがその言葉がリシの本心ではないことを感じたグルはよりいっそうの孤独を感じてパリに戻ったのではないか。
ここで思い出すのはグルの疑似親となった孤児院の女、皮なめしの親方、バルディーニ全員がグルと別れた後死んでしまうということだ。
この現象もまた妄想物語(物語はみんな妄想だけど)ゆえのことか。グルを真実愛さなかった彼らは彼がいなくなれば存在を消されてしまうのだ。ではリシは。グルの表情からすれば彼だけは存えたと思うのだがどうだろう。
(それにしても私は今までも映画の感想で『フランケンシュタインの怪物』に似ているという文章を何回となく書いている。どうも芸のない話だが西洋の物語は「彼は本当は父親に愛されたいモンスターなんだ」という設定が多いんではないか。日本の作品ではあまりない気がする)

かなり書いてきたのでここらでやっとベンの話に移ろう。
さてこの作品で初めてベン・ウィショーを認識したと思うのだが、その時の印象は多分凄い役者さんだな、ということだけだったと思う。とはいってもTVで映画紹介を観た時、主人公の青年の顔がやたらと印象的に思ったことを覚えている。あまりそういうことを感じない人間なのであるが。
その後、『情愛と友情』で一気にベンが好きになり、他の作品もいろいろ観た後、これを観直すと他のベンとはずいぶん印象が違うように思える。
それはセバスチャンの時も同じようなことを感じるのだが、グルヌイユはグルヌイユであって他の何者でもない気さえしてしまうのだ。
今のベンとはずいぶん顔が違うように見える。まだ幼さが残る少年のようにも見えるし、どうしても身長が170センチに満たない小柄な男に見えてしまう。それはベンがいつも身をかがめてよたよた歩いているのと顔にも体にもひどいダメージ、眉の傷や首のただれなどに目がいくこと。表情も他の作品には観られない卑屈さや逆に高慢なものがある。
ただ酷く変な顔に見えるときとはっとするほど美しい顔になるのはいつものベンの魅力だが。

他の映画批評を読むとうーむとなるのは作品や主人公を気に入ったとほめている人でもベン・ウィショーという名前を挙げている人は少ないことだ。
大概「主人公をやっている役者さんはうまい」みたいな書き方でダスティン・ホフマンやアラン・リックマンは名前を書いててもベン・ウィショーとはなかなか書かれてくれない。
yahoo!の映画レビューでもホフマンとリックマンの画像はあるのにベンは画像なし。主人公なのに。とほほである。
しかしトム・テイクヴァ監督は赤毛が好きだ。『ラン・ローラ・ラン』のローラも赤毛だった。そういえば名前も同じだ。(原作でも赤毛となってるからしょうがないが。名前はロールになってたが。原作と言えば原作でグルヌイユは何回もひねこびた小男と形容されている。ベンはまさにそういう男になりきっているのだ)


この映画で見逃せないのがバルディーニの店にいたペルシャ猫(猫好きのベンにとってたとえ偽物でも猫を煮るのは辛かったんでは)と売春婦の飼っていたペキニーズである。
特にぺキのほうは重要な役どころだし可愛かった。あの獅子舞みたいな口が愛らしい。

ここで書いた感想は無論映画によるものである。原作小説から受ける印象は映画とはまたちょっと違う。

監督:トム・テイクヴァ 出演:ベン・ウィショー レイチェル・ハード=ウッド アラン・リックマン ダスティン・ホフマン アンドレス・エレーラ
2006年ドイツ・フランス・スペイン
posted by フェイユイ at 23:33| Comment(7) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『幽霊と未亡人』ジョセフ・L.マンキーウィッツ

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The Ghost and Mrs.Muir

先日観た『イヴの総て』がなかなか面白かったのでジョセフ・L.マンキーウィッツ作品をもう少し観たくてレンタルした。
『イヴ』より少し前の作品である。舞台はイギリスで「20世紀になったのよ」という台詞があるからそういく時期なのだろう。馬車と自動車が共存し、貴婦人はきついコルセットのドレスを着用している世界である。

『イヴの総て』もそうだったがとてもテンポがよくあちこちにジョークが散りばめてある楽しい映画である。
未亡人になったルーシーが本来なら夫の家族と住むべきところを「自由に生きたい!」と宣言し、泣きじゃくる義母と怒る小姑を後にする。
まだ幼い娘と何かと彼女を心配してくれる心強いメイドのマーサと共に住むのに選んだ海辺の家はなんと幽霊が出ることで不動産屋を悩ませる家であったのだ。

幽霊はその家の元の住人であるダニエル船長であった。
船乗りだった彼は言葉が荒々しく上品なルーシーとは何かと反発しあうのだったが、いつしか二人は口にはしないが心惹かれあう。
ある日、ルーシーが頼みの綱にしていた亡き夫の株券が紙切れ同然になったと小姑から告げられる。
そうであれば何の蓄えもないルーシー親子は元の家に戻るしかない。
ところがダニエル船長は「わしに任せとけ」と言い切るのだった。

幽霊とか言ってもレックス・ハリソンがそのまま登場してルーシーには見えるけど、他の人間には見えない、という至って簡単な演出である。(つまり役者がそこにいるのに見えないという設定で演技する)
上品な貴婦人がいきなり男の声で下品な言葉を言う(と周りの人間には思える)というのがおかしいし、住む世界の違う船長とルーシーの会話がとても楽しい。そしてルーシーは彼の経験を小説に書き起こすことになり多額の印税を手にすることになる。
そこへルーシーに求愛する男が登場し、胡散臭いと思いながらも船長は彼女のために姿を消すことにする。眠っている彼女に今までの自分との出来事は全部夢だったと暗示をかけて。

大変楽しい前半のコメディから後半は世間知らずの貴婦人ルーシーが既婚者である男の求婚を真に受け、真実を知って打ちのめされ、その後娘が結婚する場面へ移っていく。
そこで実は娘もダニエル船長の幽霊と親しくなったことを打ち明けられる。ルーシーは封印された記憶を取り戻せず、夢だったのよ、と娘に言う。
次の場面は老いたルーシーであり、同じく老女であるマーサに世話を焼かれている。
マーサが部屋を出ていくと椅子に座ったルーシーは息を引き取る。そこへあの時と同じ姿のダニエル船長が現れ、出会った頃のルーシーの姿になった彼女は彼と同じ霊となって家を出ていくのだ。

非常によくできたロマンチックラブコメディで最初思い切り笑わせ、最後でしんみりと涙がこみ上げてくるという仕組みになっている。ヒロインが最初から娘つきの未亡人なので大人の為の作品といえよう。

『マイフェアレディ』でも男っぽい役であったレックス・ハリソンが荒くれ男だがルーシーを心から愛する素敵な幽霊として登場。
ルーシー役のジーン・ティアニーはチャーミングな未亡人ぶりが素敵でちょっと色っぽすぎるかも。
娘が成長した時をナタリー・ウッドが演じている。
とても優れた作品で楽しめたのだが、現在の目で見れば昔の女性特に貴婦人って悲しいものであるなあと言うことも感じてしまう。
これは作品自体への疑問ではない。
未亡人ルーシーが何の支えもなくなった時豊かな経験を持つ幽霊の船長が自分の体験したことを小説にしてルーシーに書かせる、というのは話としては荒唐無稽だがいきなりルーシーがベストセラー小説作家になるというよりは現実的なのだ。
結局「自由に生きたい!」と宣言したルーシーは何もできないままだ。
メイドのマーサに言うように彼女は何もできない貴婦人でしかない。
家事も下手なのでマーサに「支度ができるまで昼寝をしてなさい」なんて言われてる。夫の遺産を頼りにし、それが駄目になれば幽霊男を頼りにする。次は実在の男を頼りにし、裏切られてそのまま男を信じられずに一生を終える。
当時のレディというものはそういう存在だったのだろう。メイドに身の回りの世話をしてもらわねば何もできない。
そんな彼女の得た自由というのは人に気兼ねをしなくてすむよう一人で生きる(メイドは必要だが)ということだったのだ。
海に生きた荒くれ男の船長もまた生きている間は女性への思いやりができない男だったのだろう。孤独の中で死んでいったのだ。
生きてきた世界は全く違うがどこか似通った船長とルーシーは霊になってやっと結ばれるのだ。
今の感覚で見ればどこか歪んだ世界にいる二人なのだがだからこそこの映画のラストの二人に静かな悲しさとそれ以上の幸せを感じてしまうのかもしれない。

この映画で私が一番反応したのはダニエル船長がルーシーに向かってキーツの詩を口ずさむ場面だったりする。むろんベン・ウィショーが『ブライトスター』で演じるのが詩人キーツだからである。
海の荒くれ男で言葉も乱暴なダニエル船長が美しいキーツの詩を暗唱できるほど知っている、というのが驚きだという演出なのだろうから。キーツのいうのはそういう存在なんだなあ、などと感心し喜んでいる無学
の自分であるわけで。
ナイチンゲールという題の「海の最果てで魔法の窓が開きその先には美しい世界が」という一節だった。
(調べてみたら『ナイチンゲールに捧げるオード』という詩で「またその声は時に魔法の扉を開かせ 危険な海の泡を見せた 寂寥とした妖精の土地に」というのかもしれない。かなり違う感じ)

監督:ジョセフ・L.マンキーウィッツ 出演:ジーン・ティアニー レックス・ハリソン ジョージ・サンダース ナタリー・ウッド
1947年アメリカ
posted by フェイユイ at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月28日

ベン・ウィショー『LOVE HATE』チラシ

おひさしぶり!ベン画像です!

提供は、はーやさん!とあるフィルム映画祭で入手したものだそうですよ!いいなあ。

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うへへ。可愛いです。
posted by フェイユイ at 20:13| Comment(0) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『ニエズ』 日本版DVD ついに発売!

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このドラマがあったから私はブログを始めた、と言っても過言ではありません。
『藍空』の最初はこのドラマの日本語訳を拙いなりに夢中でやってるだけでした。なんて幸せな日々だったか。
様々な台湾ドラマが日本で放送されるようになったのに本作は紹介されることもなく残念でなりませんでしたが、ついに日本語版DVDとして発売されるようです!!!

タイトルは当時のファンが使っていた『ニエズ』で決まりなのでしょうか。
さてどのような反響が起きるのでしょうか。
ここから入ってください『ニエズ』
中に動画もありますし、YouTubeでもありますので確認して是非多くの人に観て欲しいです。

台湾の文豪である白先勇の原作小説を素晴らしい俳優たちが再現しています。
同性愛という題材でありしかも内容の深さと少年たちの美しさは比類のない優れたものだと確信しています。

それにしても待ち長かったなあ。
ラベル:同性愛
posted by フェイユイ at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 張孝全 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月27日

『RENT/レント』クリス・コロンバス

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RENT

大変申し訳ないけどまったく心ここにあらず、と言う感じで観てしまった。
どうしても入り込めなかったのでついつい気になっていた作業を片手間に。画面はちらちら観てたのだが、突然目を奪われる、ということもなかったのは残念だった。

有名ミュージカル作品、ニューヨークの貧しい若者たちの群像劇、ゲイ・エイズ・ドラッグ・歌・踊り。題材的には特に以前であれば強く惹かれるものなのだが、今では興味を失ったのか、この作品だけが受け付けないのか。
少し前観た『エンジェルス・イン・アメリカ』はとても面白かったのだからやはり何かが自分と合わなかったんだろう。

こういう作品はとにかく誰かとても好きなキャラクターがいるかどうか、できれば複数であって欲しいのだが、本作の登場人物にどっととり憑かれるような存在がなかったのだ。
白人・黒人・ヒスパニック・ゲイ・ストレート・エイズ陽性・ドラッグ中毒、これらをいかようにも組み合わせて物語を作っていくことができるが中心的な二人の男性がストレートの白人(一人はユダヤ人だが)というのは自分的にはちょいとつまらなかった。

貧しくても病気でも中毒でも友達がいて未来がある、みたいなノリがどうも駄目で非常な熱狂的ファンがいるということらしいのでまあ私まで好きにならなくてもいいかな、とかね。

いまから20年ほど前の物語だからとは言え、好きなものは時間が経っても好きなものなので反りが合わなかった、ということだろう。
これはよかった、というのをあげたくても思いつかない。
ただ、おかげ様で気になっていた作業が片付いたので助かった。

監督:クリス・コロンバス 出演:ロザリオ・ドーソン テイ・ディグス ジェシー・L・マーティン イディナ・メンゼル アダム・パスカル アンソニー・ラップ ウィルソン・ジェレマイン・ヘレディア
2005年アメリカ
posted by フェイユイ at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月26日

『ルー・サロメ/善悪の彼岸』リリアーナ・カヴァーニ

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Al di la/ del bene e del male

こういう映画があったとはまったく知らなんだ。DISCASでリリアーナ・カヴァーニで検索してもいかなる仕組みになってるのか出てこないの。どういうわけか判らないけど偶然出てきたのでここで逃したらもう捕まえられないと慌ててチェックした。(なのであそこで探そうと思ってる人は問い合わせたがいいかも)

19世紀末期固い道徳観に縛られている社会に反抗するかのように自由に生きたいと願う3人の男女の出会いがあった。
美しく聡明なルー・サロメは壮年の知識人フリッツと彼を尊敬する若きパル・レー、二人の男性を強く惹きつけるのだった。

実はこの作品の途中でフリッツが「ニーチェ」と呼ばれるまで何の物語はさっぱり判らず観ていた。
この道徳で固まったヨーロッパ社会で自由を気取る3人の男女の話と思って観てたら超人ニーチェだったのでひっくり返った。物事を知らないのは恥ずかしいことだ。
無論、ルー・サロメ(ザロメ)、パウル・レーらも実在の人物とは知らず眺めていたわけで。

ルーを演じるドミニク・サンダが素晴らしく美しく魅力的だ。旧弊な女性の生き方に反感を持つ彼女は裕福なユダヤ女性で後にフロイトに師事したとも書かれているのだから相当な知識人であり、また奔放な女性だったのだろう。写真で観ても確かに美女で男たちが参ったのも頷ける。
自由な思想を持つルー・サロメがすべての束縛を嫌って二人の男だけでなく後に結婚することになるカールや若い男の子たちとも遊んでいるのにもかかわらず男たちがぞっこんになってしまう、というところまでは他にもある物語かもしれないが、監督はリリアーナ・カヴァーニであちらこちらでとんでもない映像が入り込みそれが進むにつれて過激になっていく。
ニーチェがゲイだということも知らなかったのでルー・サロメに求愛するフリッツ=ニーチェが次第にゲイに変換していくのであれれれと思ってたらもう一人のパウルもゲイで死後霊媒師に呼ばれ「実は女になりたかった」とカミングアウトする。幽霊になって告白させられ貴婦人に「恥知らず!」と罵られるなんてあんまり可哀そうだ。

確かに最初からパウルとルーがイタリアの街を歩いているとゲイの男たちが乱交している場面にでっくわすのだから、物語がそういう方向へ進むのも予見できたろうが。
ルーにふられ、ニーチェは次第に狂気の世界へ入っていく。彼が存在するはずのない全裸の悪魔(?)と男が部屋の中で妖しいバレエを踊るのを恐怖の中で見ている場面は圧巻である。またこれも妄想の中でルーと悪魔(?)が若い男の胸を切り裂くのを見るのだが実は自分が髭を剃りながら自分自身を切って血だらけになっていたのだ。
馬に話しかけてぶっ倒れるシーンもあって彼は完全に狂人になってしまう。
パウル・レーもルーと別れ貧しい人々の医者となるが、彼もまた妄想の世界へ入ってしまい、ならず者の男たちに暴行されるが彼の妄想ではもと淫らに鉄塔につながれレイプされまくるのだが、これが彼の願望だったということになるのか。
3人とも実在の人物なのにここまででいるのか、と思ってしまう(外国人だから?)

まったく知りもせず、偶然の出会いだったのだがとんでもない作品もあったものだ。
リリアーナ・カヴァーニ素晴らしい。

監督:リリアーナ・カヴァーニ 出演:ドミニク・サンダ エルランド・ヨセフソン ロバート・パウエル 
1977年イタリア/フランス/ドイツ
ラベル:思想
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2009年08月25日

『祇園の姉妹』溝口健二

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京都の花柳界を舞台にして芸妓姉妹の生き様を描く。姉の梅吉はおっとりとした性格で昔の恩義のある旦那が落ちぶれてしまったのを見捨てておけず家に住まわせ何かと世話をする。が、現代的な妹おもちゃはそんな姉が男に利用されているだけなのに我慢できず貧乏になった元旦那を追い出そうと画策する。

『祇園の姉妹』と言うタイトルからして日本的情緒に溢れたしっとりとした作品を想像していたが、冒頭に流れる音楽からしてモダンなものだったのでちょっとびっくり。だがしかし横文字はしっかり右側から読まねばならない。
かつらではあるが日本髪だし和服が主流なので大昔の話みたいに思っていたが途中から町中の看板のカタカナやおもちゃがお洒落なワンピースを着るのを見て映画の作られた昭和10年ころの話そのままなのだろうと気づく。デパートみたいな場所で食事をしようとするシーンもある。「横文字は読めん」と言ってるがまさか英語だとかじゃなくてカタカナ和製英語ってことだよね。

芸妓を金で買い慰みものにする男衆に恨みを抱き断固戦うと息巻く妹おもちゃと芸妓というのはそういうもの、と諦めている姉・梅吉だが結局どちらが賢い生き方だった、とかではなく二人とも男に酷い目にあわされてしまう、という救いのない作品なのだが、面白く観てしまうのは何故なんだろうか。

登場する3人の旦那衆が似ていて見わけがつかないのもあえての皮肉な演出なのだろうか。どれでも一緒。
騙したり騙されたり、というのがこの世界なのだろうが、おもちゃにコケにされたと恨みを抱いて暴力で仕返しをする男だけはむかついて仕方ない。

京都言葉のちょっと冷たい響きや逆に柔らかく聞こえる話し方がとても心地よく聞きいってしまう。
結局男衆の身勝手さが芸妓だけでなく妻である女性も傷つけていく、その悲憤が描かれていくのだがこの作品はそういう批判めいた語り口だけではない男女の掛け合いの絶妙な面白さがあって、姉の梅吉のおっとりさも妹おもちゃの負けん気も魅力的に表わされている。
しかしこの世界、男はやはり旦那でなければ意味がなく若者の出る幕はないようだ。

おもちゃを演じていたのが19歳の山田五十鈴だと知って驚いた。登場が下着姿で大あくび、歯磨きをして気に入らぬ男にちくりと嫌味を言うのである。
他の芸妓たちも寝ころんで店の悪口を言ったり。
こういうの当時は描かない情景であったのだろう。

監督:溝口健二 出演:山田五十鈴 梅村蓉子 
1936年日本
ラベル:溝口健二 人生
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2009年08月24日

『コレクター』ウィリアム・ワイラー

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The Collector

この映画が元ネタでできた作品がどのくらいあることか、と思ってしまう監禁もの元祖といっていいのだろうか。且つ現実でも似たような事件やらストーカー的なものやらは絶えることがない。と言ってもそういう現実を考えるために観ようとかしたわけでは全然なく単にテレンス・スタンプを観たかっただけなのだ。

この作品で彼の存在を知ったし、実を言えばこの後まったく彼の出演作を最近まで観てなかった。美形などという評判のスタンプだけどこの映画では確かに整ってはいるだろうが気持ち悪さがにじみ出ていると思えてとても好きにはなれなかった(つまり素晴らしく演技力があったわけですな)
すっかり老域に入った彼を観て(『イギリスから来た男』である)これも不気味だったがかっこいい、と今更ながら好きになってしまったのだ。

さてこの作品、冒頭辺り、気に入った女性を拉致する場面までさすがにもう知っている話でもあるしどきどきすると言うほどもないかなあと思っていたのだが、次第にすっかり入り込んでしまった。
スタンダードナンバーと言ってよい作品だけに筋書きも演出も実に見応えがあって面白い。ついつい観ながら「こういう場面を使ってパロディができるなあ」なんて不埒な事を考えてしまう。
必見はなんといってもテレンスのいじけキャラポーズ。断トツは階段の上にちょっと首を傾げて膝を抱えて座るポージングだろう。このシーンはミランダも絵の題材に選んだ必殺いじけポーズだ。他にもやはり首を傾げて柱の脇に立つ、首傾げ後ろ向きポーズもあり。彼女と上手くいくと少し調子がよくなって軽く飛んでみたりする。期待に溢れた踊りである。運動神経は悪いんだろうけど、石段の上を歩いてちょっと離れた石にジャンプするのかと思いきや自信がなかったらしく可愛く座ってみたりする。この時足先が子供みたいに下向きにしてるのが可愛い。
一連のお寂し表現が笑えるもとい愛おしい。そして怒ると爆発するんではなくむーっと口を結んだ怖い目になる。
もう楽しんでこのサイコチック変態男を演じてるとしか思えないのだが、きっとこの後、色々嫌なこと言われたんだろうなあ。こういう男だとしか思えないもの。あの青い目が怖い。
囚われたミランダは彼がリスペクトしていると何回も繰り返すだけあって上品で知的ながら素晴らしいスタイルの持ち主。画学生というのも憧れの対象としてふさわしい。そして彼女が地下室で描いたフレディの絵というのも彼のイメージを表現していた。(当時の流行っぽいかっこいい絵だ)
変質的なフレディの演技表現が特徴あるものなのに比して彼女はあくまでも普通の女性という表現である。
突然監禁されたことに怒り、悲しみそして隙あらば逃げようと何度も試み、ついには彼を懐柔しようとするが元々疑い深い性質の彼はなびくわけもない。
多分今作られる『コレクター』疑似ものはセックスを主体にしたものが多いだろうが本作ではフレディは彼女を「リスペクトしているのでそういうことはしない」と言っている。だが思うにこの男は対女性としては性的不能でコレクターする、という行為自体が興奮なのだろう。「結婚しても寝室は別々で」などと一々言い訳しているのがおかしいがミランダが「そういうことをしたいと思う女性」だと考えることが嫌なのだろう。
彼女が死んだ時フレディが見せる悲しみは「愛する女性を苦しめた」ことではなくせっかく捕まえたと思った蝶を逃してしまった時の悔しさに見える。

『ライ麦畑でつかまえて』の主人公を自分と比較して批判する場面も面白い。当時若者の気持ちを代弁していたキャラクターを否定しているのだからいかに彼が世の中の若者とずれているのか、ということなんだろう。
しかし今現在観ているとフレディはまったく古さがない。却ってこういう男性が増えているのでは?とすら思えてくる。セックスではなく趣味の中で生きているというような。
或いは女性にもこういうタイプが出現していくのかもしれない。

監督:ウィリアム・ワイラー 出演:テレンス・スタンプ サマンサ・エッガー モーリス・バリモア モナ・ウォッシュボーン
1965年アメリカ
ラベル:サイコ
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楊凡監督『涙王子』(范植偉、張孝全主演)トレイラー

先日第66回ヴェネチア国際映画祭コンペ部門作品発表で紹介した楊凡監督『涙王子』(范植偉、張孝全主演)

トレイラーです。


早く観たい!!!
ラベル:張孝全
posted by フェイユイ at 01:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 張孝全 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月23日

『リプリーズ・ゲーム』リリアーナ・カヴァーニ

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RIPLEY'S GAME/IL GIOCO DI RIPLEY

ベン・ウィショーがパトリシア・ハイスミスが好きだというのでこの映画を思い出そうとしたのだが、困ったことに記憶がない、んでもう一度観ることにした。
ほんの少し前に観たものなのに、忘れてるくらいなので実をいうとあまりよく理解しておらずつまりそれほど面白さが判ってなかったんだろう。以前の記事でどう書いたのか覚えてもないし見返してはいないのだが違いない。

で、今回観なおして、これは面白い!と感嘆しましたねえ。

ハイスミスの小説もそうだけどなかなかすんなり飲み込めない独特の味わいがあるんだけど、これもそう。
以前観た時はマルコビッチが演じたトム・リプリーがいまいちよく判らなかった。マルコビッチは大好きなんだけど、何せトム・リプリーというとアラン・ドロンかマット・デイモンが演じた彼のイメージしかないのに全く違う大人の男なのである。
マットが演じたおどおどとしたリプリーの姿はなく何が起きても誰が来ても微塵も動じないクールに徹した男。
すでに結婚し郊外の豪奢な邸宅に住んでいる。妻は美しいハープシコード奏者で彼自身も巧みに弾きこなす。料理も上手く妻を愛し尽くしている。メイドのおばさまにも好かれ何をやってもそつがない。
しかし彼には隠された一面があり、画商にスケッチを高額で売り込み反抗されれば顔色一つ変えず殺害してしまう。
ヨーロッパに住むアメリカ人で優雅な紳士でありながら冷酷な殺人者であり犯罪を犯すことに何のためらいもない。
そんなトム・リプリーのあるエピソードをリリアナ・カヴァーニ監督とマルコビッチが静かな冷たい空気の中でひっそりと行われる犯罪を描きだした、という作品なのである。
そしてこれに一人の純朴な一般人が巻き込まれてしまうのだ。
それというのもドイツの美しい邸宅に移り住んだトムがアメリカ人なのを低俗だと馬鹿にしたからなのだが。
この作品の中でトムが何故ここまでジョナサンを追い詰めるのか明言されてはいないのだが、私としてはトムが同性愛者であることが作用しているのでは、と感じてしまう。
というのはトムは会った時からジョナサンが気に入ってしまって、だからこそパーティにも顔を出したのに「低俗だ」と陰口を言われているのを聞いてしまった。プライドの高いトムとしては二重に屈辱だったのだ。好きだと思ったからこそ。なので何の汚点もない純朴なジョナサンを自分と同じ犯罪者へと突き落とし、おろおろと慌てふためく姿をみて溜飲を下げたのだろう。ただ好意を持っていたからこそ彼があまりに打ちのめされてしまうのを見て助けに入る。
ジョナサン自身は多分トムの悪口のこともあまり意識せずに言ってしまっていたのかもしれない(イギリス人の性格だ、という説明がある)
トムのせいでジョナサンは体験しなくてもいい残酷な経験をしていくのだが自分を助けに来てくれたトムに対し今度は自ら危険を承知で助けにいく。そして敵に撃たれそうになるトムをかばって死んでしまうのだ。
この行動はジョナサンがトムに奇妙な友情というかもう離れられないつながりを持ってしまったことも意味しているし、余命もしれない自分の病気と妻に犯罪を見られたことでもう生きていく気持ちが薄れてしまったことなどが絡み合っているのではないだろうか。
リプリーもまた自分をかばって逝ってしまった奇妙な関係の友人を記憶に留めることになるのだ。

大げさに目立つ犯行ではなくまるでひっそりと日常の中で誰も知らず誰からも予測されないような人間の恐ろしい犯罪と凶行。
そんな血塗られた犯行を綱渡りのように鋭い緊張感と静けさの中で行ったトムは直後にコンサートを開催する妻へ牡丹の花を5ケース贈ることを忘れない。
コンサートホールで妻が奏でるハープシコードの美しい調べを聞きながらトムは束の間の友人の姿を思い出すのだった。

2回目観てやっとこの味が判ったのだった。
それにしても
マルコビッチのトム・リプリーのかっこよさといったら。
外見は確かに原作の美貌のトムとは違うのだろうが、そんなことは全く関係ない。
妻に対する扱いが昔風の保護者的な男性のそれなのだが、それもまた大人びて素敵なのである。
リリアナ・カヴァーニとマルコビッチでリプリーシリーズもっとやって欲しいのだが、さすがにもう無理かな。

マルコビッチって本当に不思議な魅力の人であの目が物凄く怖い。ほんとに変な人に思える。
初めて認識した時(『太陽の帝国』)から髪が薄いのだが、彼の場合それがまた不気味に魅力になってしまうのだ。

監督:リリアーナ・カヴァーニ 出演:ジョン・マルコビッチ ダグレイ スコット レイ・ウィンストン レナ・ヘディ キアラ・カゼッリ
2002年 / アメリカ/イギリス/イタリア
ラベル:犯罪
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2009年08月22日

『ホーリー・スモーク』ジェーン・カンピオン

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HOLY SMOKE

これは面白かったなあ!!何がどこが面白いのかというと上手く言えない気がするが、非常に変てこで楽しめた。セックスと宗教を絡めて変な展開になっていく辺りはキム・ギドクを思わせてしまう。ということは非常に惹かれる者と毛嫌いしてしまう者とに分かれてしまうのだろうな。こういう性を露骨に描いて異常な愛を見せつけられることを嫌う人は多いから。

カルト宗教というのが胡散臭いならカルト脱会専門家(なんていったっけ?)というのも最初から胡散臭い。
インドの変な宗教家にのめり込む娘がいけないなら娘の若い肉体を女神に見立ててのめり込む中年男も同じこと、っていう話。
やっぱりこれって女性であるカンピオン監督が男性性に対して皮肉っていると思うんだけどねえ。でもそこで単に突き放すだけじゃなく娘にも中年男にも救済を用意してくれる最後にはにんまりだったけど。

狭い路地に人間が溢れだすようなインドの街と全く何もない平原が広がるオーストラリアがまた対照的だでオーストラリアの景色の色合いが奇妙に強烈なのだった。
この物語の中で他にはあまり見られないと思ったのは宗教の扱い方でカンピオン監督がどの宗教に属しているかは判らないがもしキリスト教で育っているのならこの表現は面白い。
若い女性ルースが洗脳されてしまう、という出だしから始まる物語で、インドの宗教など胡散臭い、と思ってしまうのがキリスト教徒なら当然なのだろうが、同じ白人である男がルースに対して持ってしまう欲望と行動を見せつけ、最後に結局ルースがインドでなお一層信仰を深めていく、という結果しかも最初嫌悪していた母親までもがインドで奉仕活動を始めるという落ちはキリスト教民族には恐ろしい結果なのかもしれない。ヒンドゥーを胡散臭いとするキリスト教徒である家族がルースの無事を祈る姿は、つまり捜索するのではなく「祈り」といういわば意味のない行動を取っているのは同じく胡散臭いと言っているように思える。

この映画を観たなら誰もきっとルースを演じたケイト・ウィンスレットの色香がはち切れそうな肉体から溢れているのを眩く観てしまうだろうし、この憐れな「専門家」である中年男に同情と嫉妬を持ってしまいそうだ(特に男性は。私は女だがまったく見惚れました)
彼女と二人きりで過ごす数日は彼にとって神とも悪魔とも過ごした数日だったろうがこの上なく幸せな日々であったに違いない。始めは女を救おうと思った彼が彼女にすがりつき最後には救ってもらうことになる。彼女を女神と思いひれ伏す彼は至高の喜びを感じていたはずだ。
ルースにとっては彼に対しても自分に対しても嫌悪を感じることが多い日々だったろうが打ちのめされた中年男を見て最後には抱きしめる彼女はそこで本当に思いやりの気持ちを持つことになったわけでインドではなくオーストラリアの大平原の中で確かに彼らは真理を見たのだろう。他の者には単に異常行動としか見られない形の真理追究だがそれこそがカルトの異常行動と同じだと表現している。

彼らの究極の真理追究が終わりそれぞれが自分の道を進んでいくことで物語が終わる。
常に胡散臭いと否定されるカルト(と言ってもこの作品の場合どういうものなのかはよく判らないが)に入ることを肯定している作品でもあり、他にない面白さを持った作品だと思う。

監督:ジェーン・カンピオン 出演:ケイト・ウィンスレット ハーヴェイ・カイテル ソフィー・リー ジュリー・ハミルトン ダン・ワイリー ポール・ゴダード
1999年 / アメリカ/オーストラリア

しかし同じカンピオン監督の新作『ブライトスター』(ベン・ウィショー主演)はこの映画とは随分違うストイックな予感がするわけで、カンピオンに激しい性描写を求める方にはどういう受け止め方になるのか。
と言ってもあのポスターで女性に甘えるキーツの図と本作で中年男がルースにすがるシーンは似通ったものを感じるが。
「風変わりな愛」という点は同じものなのだろう。楽しみである。
ラベル:宗教
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2009年08月21日

『バスキア』ジュリアン・シュナーベル

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Basquiat

冒頭に生涯一枚の絵しか売れなかったゴッホのことが語られ、まだ売れてない頃のバスキアの物語が始まるのだが、対照的に若くして認められ次々と作品が売れまくっていく。
この作品ではそんなバスキアの心の奥まで覗くことはなく短い生涯をスケッチ風に捉えたと言うイメージであった。

例えば女性からもてているバスキアとゲイであるウォーホルが非常緊密な関係になっていくんだけど、その実どういう緊密さだったのかはよく判んない。この作品を観てるとかなり深い関係だったように見えるしウォーホルの死後彼のビデオを観て泣いてたり、まるで彼の死のせいでバスキアの薬物依存が酷くなって言ったかのように見えてしまう。しかも最後辺りは女性の影もなくなってしまう。
バスキアもゲイ的な人だったかのように思えてしまうのだが、どうなのだろう。そこらはあやふやな感じである。

バスキアを演じたジェフリー・ライトが悪いわけではないのだが(私はバスキアの姿とか知らないのですんなり観てしまったのだが)後で彼自身の写真を見るとジェフリーとは比べ物にならないほど(失礼)ハンサムですらりとした若者で確かにこんな青年がしかも天才だったらウォーホルも黙っておけないよな、なんて思ってしまう。
何だかジャン・コクトーとレイモン・ラディゲみたいな感じではないか。
彼らと違うのは死ぬ順番ということになるが、ウォーホルの死後、腑抜けのようになってしまうバスキアを(映画を観てるとそう見える)助けるのが以前からの親友でバスキアが有名になってから喧嘩別れしていた白人の友人である。
そういえばバスキアってこの映画では恋人も声をかける女性も友人になる男性も殆ど皆白人なのだ。

絵画っていうのはやはり受け止めるのが難しい。誰でも一応絵は描ける。描けるだけにそこから技術的に優れた者とそうでない者の区別はしやすいが、芸術的か、他よりどこか優れたものが心をつかむものがあるか、という判断になると途端に素人は絶句することになる。
ゴッホの絵は誰も理解できなかったが、ではこの絵はどうなのか?というわけである。
バスキアが作品中「初めての優れた黒人画家」というような言われ方をしてむっとする。「原始人の絵」みたいな言われ方も。
さて私としては確かに面白くて印象に残る絵画だと思うが、そのハンサムな容貌も含めてウォーホルと言う存在も含めて、やはり彼を取り巻く白人たちの流行やら嗜好に合ったための現象だとこの映画は言ってる気がしなくもない。(ハンサムはこの映画では関係ないか←再びジェフリーさんごめん)

ゴッホと違ってあっという間にスターになったバスキアよりデヴィッド・ボウイが演じたウォーホルやデル・トロが演じた友人のほうがより魅力的に見えてしまうのはどういうことだろう。

それにしてもあんな広いアトリエで思い切り絵を描けるのは楽しそうだ。日がな絵を描いて過ごす。と言うのが私の老後の夢なんだけど、叶うといいなあ。

監督:ジュリアン・シュナーベル 出演:ジェフリー・ライト ベニチオ・デル・トロ デニス・ホッパー デヴィッド・ボウイ クリストファー・ウォーケン ウィレム・デフォー ゲイリー・オールドマン コートニー・ラヴ 
1996年アメリカ
ラベル:芸術
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『ダウト〜あるカトリック学校で〜』ジョン・パトリック・シャンリィ

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殆ど舞台劇を観ているような(実際そうだったみたいだが)幾人かの台詞のやりとりがとにかく面白い、という作品だった。

メリル・ストリープ演じるアロイシアス校長の帽子の奥にはまりこんでしまったような表情から目が離せなくなる。

しかし一体これはどういう意味を持つ物語なのか。

冒頭、あるカソリックといつも私は書くのだがここではカトリックとなってるからそう書こう。
あるカトリック学校に属するフリン神父の礼拝の言葉を聞くことになるのだがそこで彼は「疑いは確信と同じくらい強力な絆になるのです」と言う。
この言葉はその後彼がはまり込むことになる「疑い」というものを自ら肯定していることになるのだが、この最初の礼拝での彼の一連の説教はどこか奇妙なものを感じさせる。
「ケネディが殺される、という社会的悲劇が人々の心をより強く結び付けた」というのは聞き方によっては随分酷い言い方のように取れてしまうがこれも後から起きる事件をそのまま言い表わしている。「信仰に迷いができた時、あなたは一人ぼっちではない」というのはアロイシアス校長に向かって話しているようでもある。
つまりフリン神父は最初に来るべき自分への「疑い」を「人間のあるべき姿」として推奨しているわけではないか。

そしてアロイシアスは神父の教えに共鳴して彼自身にその答えを求めていく。
フリンは自分で自分に疑いをかけてみせたようなものである。

純粋で従順な若いシスターはアロイシアスの言葉に反応し、またフリンの言葉にも耳を傾けて揺れ動く。
フリン神父から性的な関係を求められてのではないかと疑われる少年ミラーの母親は狭量なアロイシアスの判断に苛立ち「あなたが波風を立てなければ上手くいくのに」と逆に恨まれてしまう。
アロイシアスは何の為に戦っているのか。
最後にアロイシアスが「どうしても疑いを持ってしまったのです」と言って泣き崩れることで物語は終わるがこれが戯曲で演出によって演技が変わるなら「どうしても疑いを持ってしまったのです!!」と毅然とすることもありだろう。
アロイシアスは信仰に導かれ星を目指して進んだが迷ってしまった。フリン神父の言葉を借りるなら「迷った時、あなたは一人ではない」のだ。
アロイシアス自身、見て見ぬふり、ということもできたろうし、大概の人間はそうしてしまうのではないか。彼女の戦いはなんという労苦ばかりでなんの見返りもありはしないのだ。
彼女にすれば単なる力なき一人のシスターが上の位にいる男性である神父と張り合ったのだから。
フリンが本当の本当に何もなかったかは判らない。
教会の中でも男性である神父とシスターとの力関係はどうあるものなのか。
結果がどうなるのか。真実が何なのかは誰にも最初は判らない。
フリン神父の言葉「私が何の罪を犯したか、誰も知らない。そんな孤独こそ不幸だ」
アロイシアスが行ったことは間違いだったのか。
少なくとも彼女はもしかしたら人が無視したかもしれない黒人の少年を無視しなかった。彼が「単なる黒人の子」でなく悩みを持つ一人の少年と把握した。
見て見ぬふりの無視ではなく「疑いを持つことで絆は深まる」というフリン神父の言葉は彼女によって遂行されたのではないだろうか。

なんだか物語の台詞や行動の一つ一つに意味があるようでしっかり観てないとせっかくのヒントを失ってしまいそうなほど示唆に満ちてる作品なのだ。
ミサに行く前(帰る時だったかな)の夫婦が「あなたパンを買ってきて。私は朝食の用意をするから」「いや僕が用意をするよ」「今までしたこともないのに」なんていう会話も何だか意味がありそうだ。

本作は確か一応アカデミー賞ノミネートに一枚噛んでたと思うがさすがに渋すぎたのか。ぱっと見て判る、というより次第にじわじわくるタイプの作品なのだ。
それにしても作品中、話が入り込んでくると電話が鳴ったり、電球が切れたり、雷が鳴ったりして邪魔をする。そういう苛立ちを誘う演出も「疑い」という題材をさらに印象付ける。
私としてはホフマンは絶対怪しいと思うんだが(笑)シスターたちが貧しい食事をしてるのに酒や血の滴る肉をかっ食らい下品な話で盛り上がる神父たち。絶対彼ら男だけのなあなあ意識があると思うんだけどねえ。

監督:ジョン・パトリック・シャンリィ 出演:メリル・ストリープ
フィリップ・シーモア・ホフマン エイミー・アダムス ヴィオラ・デイヴィス
2008年アメリカ
ラベル:宗教
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2009年08月20日

『フェリーニのローマ』フェデリコ・フェリーニ

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ROMA

フェリーニの映画はかじるほどしか観ていないのだけれど、この作品の桁外れの面白さにはすっかり参ってしまった。

邦題どおりこれは「フェリーニの」『ローマ』であり、それは彼が子供時代から青年期に味わったかつてのローマなのだ。なので現代(70年代)の若者たちは男も女も同じ格好をして何の衒いもなく抱きあう輩として表わされ、昼間たむろしているか夜中に遺跡や美しい建造物の間を暴走する集団として十把一絡げに描かれている。

フェリーニが愛するローマとその人々は下品なほど騒々しいが皆知り合いだというように声をかけ外にテーブルを広げて美味そうなパスタをかっくらう。子供がはしたないことを大声に出してもげらげら笑う鷹揚さがあって心からくつろいで人生を楽しんでいるような人々である。

それにしてもこれはすべて現実なのだろうか、それともフェリーニの幻想の世界なのだろうか。
素人の歌謡ショーみたいな会場で野次を飛ばす男たち、売春宿には次々と現れる女たちと品定めする男たちで熱気に溢れている。教会では奇怪なファッションショーが行われ司祭やシスターの異様な服装を見せられる。
ゴア・ヴィダルが「ローマは無干渉だから好きだ」と言っているが確かに自由だけれど絶対に黙ってはおれないのだ。

フェリーニ独特の巨大な女性たち、いつも喧しい音に満ちていて、美味そうな食事とワイン、好色な男と女、歴史的建造物の荘厳な美しさの中でごちゃごちゃとした人々の生活ぶりを観ているのが楽しい。

監督:フェデリコ・フェリーニ 出演:: ピーター・ゴンザレス ブリッタ・バーンズ ピア・デ・ドーゼス フィオナ・フローレンス アンナ・マニャーニ
1972年 / イタリア
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2009年08月18日

『FAKE ID フェイク アイディー』ギル・D・レイエス 

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FAKE ID

なんかうろついてたら偶然見つけたこの映画。どうせ変な代物だろうとおっかなびっくり観始めたんだが、これがとんでもなくキュートな作品だった!しかも最高におかしくて笑いっぱなしにしてくれる。(上の画像だけ見るといい男いなさそうだけどまずは観てみて)

変な話と言えば変な話なんだが。演劇関係の大学へ行こうと思ってる仲のいい二人の男子(高校を卒業したばかり、ということななのかな)デイヴィッドとエリック。うっかり大学の入学願書を提出しそこねて宙ぶらりん状態。町にある演劇集団で練習しながらデイヴィッドのおばさんが探してくれてる大学試験の情報を待ち、なんとなくな毎日を過ごしている。

二人が所属している劇集団というのが変わってて男性全員がゲイなのだ。ストレートのデイヴィッドはゲイに偏見はない、と言ってわざとふざけてゲイっぽい仕草をして見せたりする。それを見ているエリックは複雑な思い。実は友達には隠していたがエリックもまたゲイなのだった。

この二人が二人とも凄く可愛い。特にストレートだと言うデイヴィッド君のほうがゲイに好かれそうな筋肉質のキュートボーイなんだけど。エリックはもう少し細身で優しげな面立ちのハンサム。
エリックが親友にどうやって自分がゲイなんだとカミングアウトするかという問題から始まり、次いでデヴィッドが親友含め周囲の男たちがゲイばかりの中で自分だってゲイじゃないのか?という焦り(?)から突如ゲイ宣言をして劇団のゲイカップルを驚かすというかあきれさせる。
ゲイらしくしようとしてとんでもない女装をして現れたディヴィッドに「無実の罪で逃亡中なの?」と聞くのがおかしくて転がってしまった。
続いてゲイの二人は初心なディヴィッドにゲイとしてのテストをしてからかって遊び始める。途中入った電話での会話でディヴィッドは二人の悪ふざけだと判り飛び出した。

ディヴィッドが遊ばれている間に彼のおばさんから試験を受けられる大学を見つけたので24時間内に(だったかな)やって来い、という留守電が入る。行方不明のディヴィッドを劇団仲間が探し回る。
初体験の相手を見つけて話し合っていたディヴィッドをもう少しで取り逃がした仲間は帰宅した彼に一芝居打って説得する。
エリックはデイヴィッドとともに入学試験を受けて合格。二人の夢がかなった。

というなんだか他愛もない話なんだけど、観ててすっごく楽しいの。出てくる俳優たちがみんな魅力的だから、というのが理由なんだろうな。
こういうのってわりと出演者がどうしてもそろわなくてがっくり、ってことが多いから。ってことはこういうゲイムービーでも出演することに以前ほど抵抗がなくなってきたってことか。
しかし一体このDVDってなんなんだろう。
アメリカで結構こういうタイプの映画はたくさんあるけど日本公開はされなくてDVDだけ出たという奴なんだろうけどなあ。
映画自体もかなりフィルムの質が悪そうで^^;低予算なのだろうと思えるけど。
とにかく私的に凄く好きなタイプの男性ばかり登場してくれて嬉しい。二人の主人公も可愛いけどエリックといい仲になるブレントンもかっこいいしマックスも素敵(初め彼がベン・アフレックに見えた^^;)
よく判らん存在のドラァグクイーン・キャリー・ジョー。やたら目立ってるけど案外存在理由がないのがまた変(笑)

それにしても楽しかったなあ。こういう映画のDVDあちこち隠れているのかしらん。突然見つけるんだもんな。探索しなきゃ。

監督:ギル・D・レイエス 出演:ステュアート・ペレルミューター ジェイソン・C・デッカー ブライアン・グリゴル マーク・フィッシャー ミシェル・シリル・クレイトン ニーナ・バーンズ
2004年アメリカ




この映画DVDはDISCASにはなくて、DMMで借りました→ここ
誰も借りないみたいなのですぐレンタルできました(笑)
ラベル:同性愛
posted by フェイユイ at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

松山ケンイチが恩師の映画に出演

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松山ケンイチが恩師の映画に出演

ううう。どっちにしたって南朋さんが主演だから観るんだけど、もう二人ともこの人とは関係して欲しくない・・・。ナオさんと絡むんならちょっとうれしいが^^;
結局気になるファン心理。・・・くっ、まんまと罠にはまっとるなあ。

posted by フェイユイ at 00:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 松山ケンイチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月17日

『モ'・ベター・ブルース』スパイク・リー

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Mo' Better Blues

デンゼル・ワシントン&スパイク・リー作品で『マルコムX』よりこちらの方がもっと前のものだったのだね。
といっても35歳くらいの時撮っているわけで、ええっそうか、もっと若い頃だと思ってた昨日も。
とにかくハンサム&素晴らしくかっこいい体。いかにもサービス的に見せつけてくれてるので見惚れてしまうではないか。やばいなあ。
ブラックミュージックといえばR&B、ヒップホップという現在、ジャズっていうのは特にアメリカご当地では過去の遺物になってるんだろうか。本作でも主人公ブリークが「日本人もドイツ人もやってくるが黒人は来ない」って言うのがあってジャズはもうアメリカでは流行らなくて楽しんでるのは日本人とヨーロッパ人というのを聞いたのがすでに遠い昔のこと。まあ今ではもう日本でもジャズって言葉も聞かないようで殆どクラシックの世界なのかもしれないのか。
私自身ジャズを知ってるわけでもないが、なんだかほら夜の匂いがするかっこいいイメージではないか。酒と煙草と大人の雰囲気なのである。やや危険な空気も含まれていて。

というのでこの映画もそういう妖しく危ない世界なのかと思っていたら、案外健全で前向きなスタンスの作品なのだった。うーむ、確かに品行方正な顔立ちのデンゼルでは悪魔的ミュージシャンにはならないか。
毎日規則正しくトランペットの練習をし、父親思いで友達思い、二人の女と付き合っていることだけは欠点だがなんだか悪な匂いがないのだよね。その辺はまだしもサックスのシャドウのほうがいい感じなのかも。
とはいえさすがにデンゼルの熱演は素晴らしく暫しジャズの世界に浸れたのだった。

物語も辛いことがあるとはいえ、極端なまたは大げさな山場があるということでもなく割と淡々と進んでいく。デンゼル演じるブリークが二人の女性とジャズ仲間を相手になんやかやと議論し合うのを楽しんで観る作品のようだ。
彼は長年の友人であるジャイアント(スパイク・リー監督演じる)を借金問題から救おうとしてヤクザに殴られ唇を切ってトランペットが吹けなくなってしまう。
天秤にかけていた女性たち、クラークは彼から離れシャドウとともに独立して歌手となり活躍する。失意の底にいるブリークはもう一人の恋人インディゴにすがる。最初は怒って追い出そうとしたインディゴだが救いを求め続けるブリークにほだされ結婚して子供を産む。
そしてその子供がまたトランペット奏者になる為に練習を始めるのだ。
よくある、音楽を失った為にぐだぐだに落ちぶれて廃人のようになってしまうとかいうのではなく、建設的に行動するブリークは拍子抜けな気もするが(って破滅を期待しとるのか^^;)人生色んなことがあるけど死なないで通り抜ければなんとかまたなっていくもんだ、てな感じで悪くない。
麻薬なムードを求めたい時の作品ではないが、デンゼルの爽やかな美貌には合っている。
私的にはダークな雰囲気の音楽映画がいいけどね。

監督:スパイク・リー 出演:デンゼル・ワシントン ロビン・ハリス ウェズリー・スナイプス ジョイ・リー ビル・ナン ルーベン・ブラデス ジャンカルロ・エスポジート スパイク・リー ジョイ・リー
1990年 / アメリカ
posted by フェイユイ at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月16日

『イヴの総て』ジョセフ・L.マンキーウィッツ

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ALL ABOUT EVE

『ガラスの仮面』でマヤを蹴落とし自分がまんまとその地位にとって代わる少女の話の元ネタが本作だと何かで知ってずっと観なきゃと思いつつ今になった。
なのでまあ若干ネタばれしてたわけだが彼女が怪しいというのはすぐ匂ってくるのでさほど影響がわるわけではないし、判ってた方が最初からより面白く観れるかもしれない。

それにしても一番最初に彼女が胡散臭いと気づいたのはマーゴの世話役の女性バーディなんだよなあ。なにしろまず彼女が自分の仕事を奪われるからなんだろう。
40歳の大女優マーゴの出待ちを毎日してる若い娘に気付いたカレンは彼女をマーゴの楽屋につれていく。
彼女の熱烈なファンで毎日芝居を観に来ているという娘イヴの純粋で熱心な態度にマーゴと劇作家ロイド、そして彼の妻カレンはすっかり好感を持ってしまう。(だが付き人さんは最初っから疑ってる。この人が一番凄かったわけだ)
マーゴはその日からイヴを自宅に泊めて身の回りの世話をさせていく。献身的な姿に皆が感心するばかり。だが付き人のバーディは彼女がマーゴの一挙一動を見習っていることに不審を抱く。最初は笑っていたマーゴもイブがマーゴの恋人に連絡を入れていることを知ってから次第に懸念を持つようになった。

脚本がとにかく上手くて面白い。大女優と若い女優志願の娘が火花を散らして駆け引きをする、なんていうのは他にもあるかもしれないが本作が面白いのはその他の諸々の設定やエピソードなのだろう。
設定が「二人の女優」ではなく「二人の女優と付き人の女性と劇作家の妻」という4人(あとで5人目が登場するが。6人か)の女性の駆け引きが主体になっている。男たちはその間をうろうろするという感じだが、だからと言って間抜けなのではなくきちんとした役割を持っているのがまた面白い。
まず何と言っても面白いのが女優ではなく劇作家の妻としての役であるカレン。彼女がこの物語の案内人ということなのだろうが、まずイヴに同情しマーゴの短気を怒るがそれは友人としてであって心底はマーゴを好いているのだが途中で変な計画を立ててしまいそのことで追い詰められてしまうという過ちを犯してしまう。劇作家である夫を愛し、マーゴに強い友情を持ついい女性なのだ。
そして気位が高い女優マーゴは人気実力ともに認められているのに40歳を迎えたこともあり演出家で8歳若い恋人ビルが自分から離れていくような怖れを振り切れない。エキセントリックな女優をベティ・デイビスがこれでもかって感じで演じている。まさに、というところ。
そして非常にしとやかな美しさで騙していくのがイヴを演じるアン・バクスター。マンガ『ガラスの仮面』では彼女役は判り易く悪者顔だったが彼女の顔だけを観てたらやはり騙されるだろうなあ。
ところでこの映画で最も分岐点となるのがイヴがマーゴの恋人ビルに言い寄る場面だと思うんだけど、ここって他の映画なら若い美人の彼女に普通落ちるよね。男の性ということで好き嫌いというよりつい一度関係をもってしまうだけっていうこともあるはずなのに本作ではビルが「僕が愛してるのはマーゴなんだ」ときっぱり言うわけでこれは今ならこうはできないかもなあ。それはカレンの夫も同じなんだけど随分固い男たちなのだ。女性としてはこの辺嘘だろうがとても嬉しい展開じゃない?新聞記事を読んでビルがマーゴを慰めに飛んでくるとこもそうそうこんないい男いないよって感じでよかったねえってマーゴに言ってやりたくなるじゃないか。
(というかうまい脚本だけどここと冒頭皆がやたらイヴを信頼してしまう場面はちょっとだけ「?」とならなくもない。でも許す!)
 
イヴの本性が段々見えてきて騙されていた4人ともすっかり判ってくると却って彼らの仲は前より強く結ばれていくのがおかしい。特にマーゴとビルはこれで結婚することになったんだから逆によかったのか?
そして彼ら以外の人々が(新聞記者マックスは別として)彼女の演技に拍手を送り騙されている中でイヴが受賞した感謝の言葉を述べるのを4人(とマックス)だけがしら〜と聞いているのも楽しい。

まったく意味合いもテーマも違うのだが、どこか昨日観た『マルコム]』と重なるものを感じるがマルコムが自分の犯した間違いに気づいていくのと違いイヴはますますこの道を歩んでいくわけだ。
第5の女性というのはハリウッドから来た女優役の(なんと!)マリリン・モンローで、そのままの役みたいな新進若手女優という役で美貌と愛嬌をふりまくのだが、ちらりと出るだけなのにまるでとろけてしまいそうな色っぽさ。同じ若手女優でもイヴとは全然違うイメージなのだ。そして第6の女性が最後に登場する女子高校生。すっかりスターになったイヴの留守中の部屋に忍び込み、怒って電話しようとするイヴに言い訳をする。イヴのことを思い返せばどこまでが真実か嘘か判らない、という落ちで実際ぬけぬけと嘘をついてみせるのだ。
こっそりと見えない場所でイヴが着ていた華やかなローヴを身にまとい彼女が受けたトロフィーを掲げた姿が三面鏡に無数に映し出されこういう出来事が果てしなく続くことを暗示している。

上にあげた点だとか他にも作りすぎな感もあるがそれでもなかなかおもしろかった。特に関係が破壊されたとかいうのではないから気軽に観れるかもしれない。

監督:ジョセフ・L.マンキーウィッツ  出演:ベティ・デイビス アン・バクスター ジョージ・サンダース マリリン モンロー ゲイリー・メリル
1950年アメリカ

『ガラスの仮面』ではマヤが乙部のりえに踏みにじられてしまうのだが、それを怒ったあゆみさんが芝居で彼女を叩きのめす、という爽快なやっつけ方をする。この話が凄く好きで、あゆみさんってなんて素敵なの〜となってしまう私だった。かっこいい。

ラベル:サスペンス
posted by フェイユイ at 22:27| Comment(4) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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