映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年08月16日

『マルコム]』スパイク・リー

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MALCOLM X

この作品も早く観ねばと思いながら今頃やっと観たというものなのだが、やはり早く観るべき映画だった。とんでもなく面白かった。3時間以上の長さというのはやや恐れ入るが一旦観だせばとてもスピーディに進行していくし見せ場が次々と用意され、緩急のバランスも上手く一気に見せてくれる。

「差別問題」「実在の人物」などということで堅苦しく難しい作品かと敬遠していたのもあったのだが、そういう懸念は必要ない非常に引き込まれる楽しさを持った作品だったのはちょっと驚きだったほどだ。
微妙にくすぐり笑い的な表現が仕掛けられていて、特に刑務所で出会うイスラム信者のベインズとのやりとりはどこか滑稽に見えてくるのでこれは何かあるのか?と思っていたらははあやはりそういうことだったのか、と頷ける。
デンゼル・ワシントンがめちゃ若くてハンサムなのも魅力の一つだが実際の彼も負けないほどの二枚目だというのもなるほどだからこそ人々をここまで強く惹きつけたのだろうか。最後の彼への賛辞で「彼を誹謗するものいるが実際の彼の言葉を聞き、彼の笑顔を見たのか。彼自身が何かの暴力を振るったのか」という監督自身の言葉になるのだろうか、そのモノローグにすべて込められている。その気持ちは充分映画作品としてデンゼルの表現として成功している。

マルコム=レッドという青年が恐ろしい痛みを我慢して髪の毛をまっすぐに伸ばしギャングになってしまうところから始まり、刑務所でイスラム信者ベインズから教えを受けてクスリや銃などを遠ざけ、イスラムの指導者イライジャに献身的に尽くしていくエネルギッシュな布教活動を経て、イライジャやベインズが実は敬虔なイスラムとは程遠い存在だったと気づき自らの考えによる団体を作りあげ暗殺されてしまうまでの彼の行動が描かれていく。
マルコムが信奉したイライジャのイスラムの教えが非常な白人排他主義で「アメリカ黒人はアフリカへ戻るべきだ」と説き、女性差別が甚だしいので最初から「こういう考え方の人物を良しとすることはないだろうが」と思っていたらやはりマルコムがそこから離れることになり実際にメッカ巡礼の旅へ赴き、白人のイスラム信者とも交わって祈ることから本来のイスラムには人種差別はない、という考えに至っていく。
まさにこの作品の中で一人の青年が悩み考え辿り着く行程を共に歩むわけで大変判りやすいし、最初から特別に優れた人物だったのではなく手探り状態で葛藤し迷いながら道を見つけ出していく様子は共感できるのではないだろうか。

彼こそは「ニグロ」ではなく「アフロアメリカン」なのだという言葉に、やっとこの言葉の意味が判ったような気がする。

本作で「白人への怒り」の言葉がいかがわしい教団の言葉として激しく発せられるのだが、彼らの偏った表現だとしながら本音をぶちまけているように思える。
マルコムが最後に見つけた自由と平等の社会になる日が本当に早く来て欲しい。キング牧師が語っているように意見の違いを殺人という行為で解決(戦争もまた同じだろう)するようなことがなくなればいい。そう願いたい。
 
監督:スパイク・リー 出演:デンゼル・ワシントン アンジェラ・バセット アル・フリーマンJr. アルバート・ホール デルロイ・リンドー
1992年 / アメリカ


ラベル:人種差別 歴史
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2009年08月15日

ベン・ウィショー『My Brother Tom』英語字幕で

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久しぶりにベン・ウィショー出演の『My Brother Tom』を観た。ただし前回と違って今回は英語字幕。英会話を聞きとるのも読むのも全く駄目とはいえ、さすがにドイツ語字幕を睨みつけているのに比べれば英字幕のなんとありがたいことか。さすがに聞くだけよりはるかに判ったつもりになれるものだ。
前回がこれ41Ka+knVgdL__SS500_.jpg


今回はこれ

しかも気のせいか映像もUK版のほうがいいような。堪能した。

何回も言っているような気がするが、ベンの若い頃10代かやっとそこを脱したくらいの映像がしかもこんな優れた作品として記録されていることがうれしい。
少年期にしかできないような物語を演じているベンは彼自身痛々しいほど痩せていてそのことがこの物語のトム=デイヴィッドの境遇と精神をそのまま表現しているようだ。
ベン=トムと同じように体と心を傷つけられる少女ジェシカ。二人の関係は男女でありながら普通の恋人同士ではなく兄弟であり双子なのだというのがいかにもベンが好きそうな設定に思える。
体の傷を隠そうとするトムにジェシカが自分の傷を見せることから二人は同じ一つの体であり精神なのだという繋がりを持つ。
森の中で素裸になり獣のように叫ぶジェシカとトム。
近しい大人から避けがたい性的危害を与えられてしまう二人は二人だけにしか判らない秘密の関係なのだ。
そしてさらに互いを傷つけあうことで二つの魂はより強く結び付いていくように思える。だが抑制のきかないトムは次第に加虐性を増していきそれはジェシカを傷つけた男へと向かってしまうのだ。
剥き出された魂はひりひりとした痛みを訴える。凍えそうに見える池の水で体を洗うことが彼らを少しでも清めてくれたのだろうか。

この時のベンの体の細さって。坊主にしてるせいで余計骨っぽさが際立っている。服がぶかぶかなの。愛おしい。
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2009年08月14日

捨て猫な松ケン

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にゃあ
ラベル:松山ケンイチ
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2009年08月13日

『地獄に堕ちた勇者ども』ルキノ・ヴィスコンティ

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La Caduta degli dei:The Damned

こういう映画を観ると一体映画って何だろう、などと今更ながらなことを考えてしまう。これを観てストーリーがどうだとかクライマックスがどこだとかテーマだとかモラルだとかそういうことだけを明確に伝達している作品など何の意味もないようにすら思えてくる。
一体何がどうだというのだろう。無論この作品と時代背景などを仔細に考慮して深淵に追及していくことも悪いことではないだろうが、それがさほど重要なことではないのではないか。映画には正確な答案など無意味だという気がしてくるのだ。

この映画を観てまず皆思うのは「退廃美」という言葉であってもうそれだけで充分なのだろう。
つまりこの時代と貴族階級に退廃を観るのではなく、退廃を描く為にこの時代と貴族たちであるのだろうから。

登場してくる人物造形が素晴らしくて、いやもうどの人を観ても唸ってしまうのだが、まずはヘルムート・バーガーの美しさを今やっと知ったかのような気がした。昔観た時は確かに美形だろうけど、どこか腐ってしまったような顔立ちだと思ってたのだが(ファンの人、すまん)今観るとこんな美しい顔ってあるんだと物凄く遅れて見惚れてしまうのだから、情けない。自分が若いせいでよく判ってなかったんだろうが、慄いてしまうような若さが溢れた美貌で彼の顔が画面にある度にヴィスコンティ監督がいかにこの美しさを刻んでおこうかと願っているかのように感じられてしまうのだ。少女を愛する顔も母親に甘えそして憎しみを持ち表情もあまりに甘美ではないか。ディートリヒに扮した女装した姿もいかにも貴族の青年らしい上品で気取った仕草物腰と脆弱な行動も突然なりきってしまうコスチューム的なナチス軍服もヴィスコンティが彼に演じて欲しいがための一連の物語と演出に過ぎないのにここまで作り上げてしまうのはやはり貴族的な傲慢さと贅沢なのだろうか。

ユダヤ人少女の幼いのに不思議な色香を感じさせるまなざし。突撃隊兵士たちの放埓な馬鹿騒ぎの中にいる兵士たちの完璧な若々しさと肉体美。アッシェンバッハのうすら笑いとともに行われる陰謀の数々。翻弄される若者ギュンターの動揺。権力を欲し権力によって抹殺されるフリードリヒ(平民ということで自己卑下しているが大王の名前というのは皮肉?ニーチェの名前でもある?)そして息子マルティンの精神と人生を歪ませてしまう破壊的な威力を持つ母親ソフィーをイングリッド・チューリンが演じている。
観る者はそうした大きな権力を持つ上流階級の美しく彩られているが腐敗した精神によって行われる様々な行為に危険な味と匂いを感じながらそれに酔い痴れてしまう自分をまた恐れるだろうか。

この映画で知るのは教訓でも美談でもなくいかがわしい欲望によって成立している世界に憧れてしまう自分ということなのか。例え道に外れたことであっても美しいと感じてしまうものに陶酔してしまうのが人間というもの少なくとも自分がそうなのだと気づいてしまうのだ。

まあそういうこともこの年になれば重々判ってはいるのだが。

ここまで重厚な耽美に酔わせてくれる作品というのも今ではあまり望めないものになってしまったようだ。こうした素晴らしい作品を観て暫しその世界に浸れることが喜びである。

監督:ルキノ・ヴィスコンティ 出演: ダーク・ボガード ヘルムート・バーガー シャーロット・ランプリング イングリッド・チューリン ウンベルト・オルシーニ
1969年 / イタリア/西ドイツ/スイス


ラベル:退廃美 歴史
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故ブルース・リーが演じた『グリーン・ホーネット』のカトー役はジェイ・チョウに決定!

故ブルース・リーが演じた『グリーン・ホーネット』のカトー役はジェイ・チョウに決定!

今初めて知った、わけじゃなくて聞いてはいたけど本当かなあ、なんて思っててやはり本当なのですね!!!!
他のジェイ迷にとっては何だ今頃ってな記事ですが。

いやなんかどきどきしてきました。
このジェイの写真がちょっと可愛い(笑)
posted by フェイユイ at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 周杰倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『1999年の夏休み』金子修介

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この映画が作られたことを知った時、萩尾望都の名作である『トーマの心臓』が原作だと聞いて「あり得ない」とあきれたがさらに登場人物を少女たちが演じると判りはっきり幻滅したのだが、気持ちを入れ替え観てみることにした。しかしもう20年以上たっているのだなあ。

脚本は岸田理生。なるほどこれは判る。監督は金子修介。多分この当時この名前を聞いてても「?」だったのだろうが今では納得。『デスノート the Last name』の監督でもあり他にもマンガを原作の映画化をしている方なわけなのだ。

一体あんな舞台がドイツの学校ものをどうやって映画化するのか、と思ったらタイトル通り夏休みなわけで学校に残った3人ないし4人が体験する日本の物語になっていたのでこれは上手いなと思ったのだった。
無理があるとは思うが夏休みの学校寮内で食事の用意も自分たちでする、というので登場人物は彼ら4人だけである。大人や男性が出てきたら少女が扮した少年とのバランスが悪いだろうし、多分予算上のことだろうが変な者を出さず主要人物だけでやった方が判りやすいし独特な効果もある。
女性がやってるということでかなり馬鹿にしていたのだが実際観てみると少女とはいえきっちり男の子らしく髪を短くしていたのでそれでもちょっと驚いた。もっと女女したものだと思っていたのだ。少女たちも悪と自然に男の子らしくふるまっててずっと観てると少女だとか少年だとかそういうのはどうでもいいような気もしてきた。
年少組が上手くてどちらもとてもいい雰囲気がある。特に深津絵里はさすがに後で人気女優になるだけあってこれを観てても断トツに存在感があってうまい。彼女が演じたのは私的には原作の名前の方が判りやすいのだがアンテ役で可愛いけどちょっとひねくれたとこのある少年役を印象的に演じている。他の3人とはかなりの違いを感じさせる。アンテの役がいいのかやはり彼女がうまいのか。絡みあう3人から阻害された感のある少年という役どころは普通なら一番損みたいなのに上手い演じ手というのは違うものなのだ。
トーマ&エーリク役の宮島依里もちょっとたれ目な感じが少年ぽくてよかった。
年長組はそれに比べるとさすがに女性ぽさが出るのかややぽてっとした感じになってしまうのだ。しかも声は吹き替えであるという事実にも驚いた。
アンテとエーリク役の二人の演技が際立って差異を感じるのに上の二人は顔は違うのにどちらがどちらかよく判らなくてこれは演出の責任でもあるだろうが原作とは違うとはいえ、怜悧な感じのするユーリ役と大人びた優しさを持つオスカーの性格と外見の違いをもっと明確にしたらより面白かったのに、と思ってしまう。

『トーマの心臓』を翻案にしているとはいえ内容が全く違うものになっているのも正解だろう。
それにしても萩尾望都氏のマンガを読み返すとその画力の凄さに(判り過ぎるほど判っているのだが)やはり驚いてしまう。マンガ自体が映画そのもの、というより映画の技術を越えている。映画でもここまで演出に凝りに凝ったものはそうないだろうし。ユーリが夜中にトーマがそこにいると言いだし、発作を起こしてオスカーが人工呼吸する一連のシークエンスは奇跡みたいな出来栄えで、そのまま映画化するのは至難なのだろう。その後のアンテにキスするシーンは再現してなかったし。

さらにこの1999年はなにやら近未来的に描かれているのも不思議な光景である。

同監督自身その後もマンガ原作を映画化されているわけだが、ハリウッドもまたマンガ原作が目白押しである。私自身はマンガというすでに完成された具象世界をさらに人間でやることにそれほど興味が持てない、というのが本音なのだが、時代的にはマンガ原作の映画化がますます増えていくのだろう。この映画は先駆的存在だったのかもしれないが。
それじゃあ、他にもやってもらいたい少女漫画もたんとあるよと言いたくなったりする気持ちもあるのだが。

監督:金子修介 出演:宮島依里 大寶智子  中野みゆき 深津絵里
1988年日本
ラベル:友情
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2009年08月11日

『オーケストラの妻たち』アーチー・L・メイヨ

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↑どーでもいい・・・

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↑これは観て欲しい!!!!ニコラスブラザーズ・タップダンス!!
これだけの為に観よう!ここだけでも!



またまた昔のアメリカ映画1942年ものなのだが、これを観たのはレビューで「中に出てくるニコラスブラザーズ”のダンスは必見!」というのがあったので気になって観てみることにしたのだ。
ところが待てど暮らせど出てこない。あれ、なにかの間違いだったのかなあ、と首をかしげながらそれでもまあ意外に作品自体もそれなりに面白かったので止めはせず観続けた。

とある小さな町の世間知らずの娘が大好きなトランペット奏者がいるバンドを見たいばかりに好きでもない男の誘いに乗ってコンサートに行くのだが、一人きりになった隙になんと憧れのビル・アボットからナンパされそのまま結婚してしまう、というとんでもない始まりからさらにそのまま彼のバンド演奏旅行に入り込み、心配するパパには電話連絡だけをして娘コニーはあっという間にオーケストラの妻になってしまうのだった。
そこには同じくバンドメンバーの妻たちが夫とともに演奏旅行をしていた。新婚でうきうきしているコニーとは違い彼女たちは長年の旅行生活にうんざりしている。そして息抜きとばかり新入りのコニーをいじめようと画策する。
コニーの夫ビルは元々メンバーの歌手ジェイミーと恋仲だったのをコニーにばらし、そのためにコニーとビルはとうとう喧嘩してしまう。
その喧嘩のためにバンドが解散となりビルとコニーは離れて暮らすことになってしまった。
さすがアメリカ的、と言っていいのか、ぽんぽんと話が進むし、田舎娘でおとなしいと言ってもかっとなったらすぐ行動で意地悪されてもがんがん言い返すしまあ鬱憤もたまらずはははと観て行くことができる。
本来なら当人がバンドマスターをやっているグレン・ミラーオーケストラに聴き惚れてもいいのだが、えへへそれほどうっとりしてしまうタイプのものではないからなあ。とにかく楽しそうな明るい演奏だ。
コニーとビルは夫婦喧嘩したものの互いに気持ちは離れておらず解散したメンバーに偽の電報を打って一堂に集めるというコニーの策略(というか多分パパが考えてくれたようだ)がまんまと成功してバンドは元通り。怒っていたビルもコニーの大切さを思い知って二人も仲直り、というハッピーエンドであった。
さて気になっていたニコラスブラザーズ”だが彼らは黒人だというのに物語中まったくもって白人しか出てこない。うーむ、昔のアメリカってホントにそういう世界なのだよね。
そしてホントにラストもラスト。もう数分と言うくらいで、復活したビルたちのオーケストラがとあるダンスホールでの演奏で「カラマズー」という歌の後、いきなりなんの前触れもなくいきなり小さな出口のカーテンの向こうから二人の黒人ダンサーが飛び出してきてタップダンスを披露するのだ。「カラマズー」の歌も歌いながら。
私は恥ずかしながら「ニコラスブラザーズ」という名前すら知っていなくて(観てるのにこういうこと書いてたらもっと恥ずかしいが)これで多分初めて観たのだがあまりのタップの切れの凄さに息を飲んでしまった。
一体これって何の為の映画だったのか。
それまでの白人の演奏やらごちゃごちゃしたコメディが彼らのタップで全部吹き飛んでしまった。僅か数分のダンス。
僅か数分を彼らはこれでもかと見せつけるようにタップし、柱に駆け上がってバック転し踊って踊ってすべてをふいにしてしまった。
「タップで殺せ」というキャッチフレーズがなかったか。
とにかく彼らのダンスがそれまでのどうでもいいような映画を全部消してしまった。
何故この映画は彼らの映画じゃなかったんだろう。
どうでもいい白人たちのしょうもないゴシップや恋愛話を延々とやるくらいなら彼らのダンスの物語をして欲しかった。
ずーっと90分無駄話で引き延ばし、何故最後の最後に何の関係もなく彼らのダンスを入れたんだろう。
まったくまーったく脈絡がない。
この映画は最後の数分を観る為にある。何の関係もないのでいきなり観たっていい。
この監督、この数分を残す為にこの他愛ないコメディ映画を作った、ってことはないんだろうか。
彼らの数分のダンスがそれまでの白人たちののほほんとした音楽と比べ凄まじいほどのエネルギーを感じてしまうのだけど。顔は笑ってるし、すっごく楽しげなんだけどね。彼らのターンやタップやジャンプの恐ろしいほどの切れを観てるとなんだかぐっときてしまうのはどうしてなんだろう。
主人公を吹き消すほどかっこいい、というのは何か意味があるような気がしてしまうんだが。

監督:アーチー・L・メイヨ 出演:(私的には)ニコラスブラザーズ(フェイヤード&ハロルド)ジョージ・モンゴメリー アン・ラザフォード グレン・ミラー リン・バリ キャローレ・ランディス
1942年アメリカ 


この映画ではないけど“ニコラスブラザーズ”凄すぎ。
posted by フェイユイ at 23:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『サロン・キティ』ティント・ブラス

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Salon Kitty

先日観た『カリギュラ』同様この作品もポルノ映画に属されているようなのだが、確かに本作は冒頭部分にはグロテスクな映像とともに性的描写が続くのだが、次第にエロチックではあるが単なるポルノとは言い難いような不思議なニュアンスを帯びてくる。

それは本作のヒロインであるマルガリータを演じるテレサ・アン・サヴォイの存在のせいだろうか。
『カリギュラ』ではその妹ドルシラを演じて兄と性的な関係を持ちながら毅然とした態度を持ち続け、真にカリギュラを理解し愛し続ける不思議な存在だったが、ここでも彼女の演じる女性は同じような精神性を持ちまた外見はきつく髪をゆっていたドルシラの時に比べ金色の髪を豊かに波打たせているこちらでの彼女がはまだ少女のようにも見えて売春婦として体を売りながら清らかな処女のようにも見えるのだ。

ヘルムート・バーガーがナチス将校を演じ、イングリッド・チューリンがタイトルロールとして『サロン・キティ』の女主人を演じる本作は『地獄に堕ちた勇者ども』のパロディでもあるのだろうが本作にも低俗のように見えて、しかしこれが実際本性かもしれない、とも思わせられる。
近々そちらとさらに『愛の嵐』も再観してみようかと思う。

冒頭の豚屠殺場面は惨たらしく見えるがこの場面でその後のナチスの行為を暗示しているのだろう。
また、国家社会主義労働党の強い支持者である美しいアーリア人の女性たちが売春婦の館で奉仕する、という内容の是非は知らないがナチスが様々な「製作」を行っていたのは確かだろう。私は観れなかったのだがNHK/BS『金髪のヨハネス・ナチにさらわれた子どもたち』の話からも本作の内容より常軌を逸したことが行われていたのだから。

さて本作ではテレサ・アン・サヴォイを堪能できたがヘルムート鑑賞としてはやや物足りないかもしれない。彼の危うい魅力がテレサの影に隠れてしまったかのようだ。
やはり彼を観る為なら『地獄に堕ちた勇者ども』の危険なヘルムートをもう一度観てみたい。

監督:ティント・ブラス 出演:ヘルムート・バーガー イングリッド・チューリン テレサ・アン・サヴォイ ティナ・オーモン ジョン・アイアランド
1976年 / イタリア/フランス/西ドイツ
しかしこの映画をイタリア/フランス/ドイツ共作でよく作れるものだ。
posted by フェイユイ at 00:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月10日

『レッドクリフ Part II -未来への最終決戦-』ジョン・ウー

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前篇より面白くない、という評判だったようなのだが、そうだねえ、もうこれは誰でも知っている物語なわけで、そうれをどう映像化されてて観る者はそれをどう楽しむかってことなんだろうけど。私的にはかなり愉快に観ておりました。

そうなのだ。この映画っていくつものエピソードを数珠つなぎにしていってるような感じなのだね。つまり10万本の矢を3日で集める話、水軍の参謀二人をどうやって暗殺するかと言う話。東南の風を待つ為にどうするかと言う話。
一番気になったのは本筋とはちょっと外れた女スパイ尚香と蹴球(中国語では足球だけど)の名選手・孫叔材の不思議な友情物語。
尚香が怪しいスパイ活動(伝書鳩を飛ばす)をしてるのに全く気付かず一目見て尚香が気に入って仲良くなろうとするのんびりした兄ちゃんが叔材なんだけど一体何故そこまで気に入ったんだか理解し難いほど尚香をとことん可愛がるのだ。長らく中国映画を観ていてもここまでするか、と思うような情熱があるものなのだが、彼の感情というのは普通に考えればやっぱ恋心なのかなあ、としか思えない。彼の心情を表わす台詞なんかはまったくないので想像するしかないのだが、戦場で物凄く可愛い顔の男の子に出会ったのでどっと好きになってしまったんだろうな。なんかそれはもう同性愛とかいうんでもなく単に恋心みたいなもんだとしか言えないんだけど。曹操軍の人間は一応悪役なので皆そういう負のイメージで描かれているわけだがそれら全部をひっくり返してしまうほど叔材があまりにお馬鹿でお人よしすぎて一番の悲劇のキャラクターになってしまってる。多分ずっと彼のことだけを覚えていそうな気がする。勿論ジョン・ウーの創造した人間なのだろうが。
普通なら「あんまり可愛いから女の子じゃないのか」だとか最後に尚香が女性だと知って死ぬだとかはあるけど。彼の場合は純粋に同性として好きになって男だと信じたまま友達として死んでしまうのだからなんていい奴でしかも馬鹿で可哀そうなんだろうかと涙してしまうじゃないか。
兵卒がそれなら大将も同様でこちらは美女に完全にしてやられてしまうのだ。東南の風を待つ為に美女が自分の色香を利用するとは、傾国の美女というがこういうものなのだろうかと納得したりする。リン・チーリンのヴィッキーとはまったく異なるしっとりとした美貌でもってあのしなかやかな手つきでお茶を淹れてもらえるなら男たるもの多少時間を遅らせてしまうのはむべなるかな。
それにしても髪がほどけてしまうのをあれほどに嫌がるのはあれって恥なのか。

そして主人公の周瑜よりはるかに目立ってしまった感があるのが孔明の金城武。なんだかいつもそよ風が吹いているような爽やかさでさすが天才の誉れ高い軍師の貫禄に思えてしまうから不思議だ。いつも若干おバカっぽいというイメージであるみたいだが、ここではもう孔明の霊が入ってしまったかの如き(誉めすぎ?)神々しさが見えてくる。彼のせいでトニー・レオンの周瑜の聡明さが霞んでしまったようで、まあ二人の優れた軍師の競い合いでもあり、彼らも頭脳を媒介にしてただならぬ関係のようにも見えるのだからいいだろう。
失火氏『三国志』といえば普通劉備たちの物語なのに特に後半の彼らの影の薄いこと。味方も欺く作戦だったからしょうがないものの大の男が固まって団子作りをしていた図は爆笑ものだったなあ。胡軍までお団子作ってるのだもの。可哀そうだった、っぷぷぷ。
冬至には家族で団子を食べるのが習慣といって戦いの前に皆で食べたり何故か周瑜に1個ずつあげたり(あれは年長者にあげるのだとかいう習慣があるのかしら)あげてるのになかなか小さなお椀が一杯にならないのが不思議だったり、皆からもらった団子を一気飲みする周瑜にびっくりしたり、だった。なんだか小さなお団子が物凄く美味しそうに見えたんだよねー。甘い汁に入ってるのかな?

なーんて言うような感じでたくさんのエピソードを色々感心したり不思議がったりして楽しく鑑賞したのだった。
あ、孔明と魯粛の10万本の矢のやりとりもおかしかった。物凄く心配している魯粛さん、優しい。でも孔明が無口過ぎてかかしを相手にしだすなんていうのも面白かった。

あ、日本のパロディおたく系マンガでこういう『三国志』のパロディみたいのあるじゃないですか。それを映画でやってるような気もするのだが。もっとパロった『三国志』なんて観てみたいよね。勿論やおい系で。

監督:呉宇森(ジョン・ウー) 出演:トニー・レオン、金城武、チャン・チェン、リン・チーリン、ヴィッキー・チャオ(ジャオ・ウェイと呼んでましたがねー)、チャン・フォンイー、胡軍、中村獅童
2009年中国・香港

ラベル:歴史 戦争
posted by フェイユイ at 00:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月09日

ベン・ウィショー、可愛い恋人サリーと

ふぇでり子さんからすっごく素敵なベン・ウィショー画像いただきましたよ。あんまり素敵なんで今回出したくないくらい(笑)だったのですが出さないのも勿体ないので皆様ご覧ください。ふぇでり子さん、ありがとうございます!!!!!

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最後の画像の猫ちゃんはベンの愛猫でサリーと言うらしいです。サリーちゃんの目線!今にもベンの膝の上に飛び乗って甘えたいという風情ですね。ベンもそれを待ち望んでいるみたいな雰囲気で恋人同士みたい。人間相手の時より猫の時がベンってフェロモン出てる気がする^^;
こういう白黒タキシード猫って頭いいんですよねー(というイメージがある)寂しげに一人座ってるべンも魅惑的です・・・。
posted by フェイユイ at 00:54| Comment(10) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月08日

『私の愛情の対象』ニコラス・ハイトナー

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THE OBJECT OF MY AFFECTION

愛とは何か、セックスとは何か、人生とは生活とは何かというテーマを数人の男女の交わりから描いていくちょっとお洒落な映画、という感じの作品でニコラス・ハイトナー監督でなければ私的には敬遠してしまうジャンルだったりする。
無論この男女はハイトナー監督作品だけあって(と言っていいと思うが)ストレートとゲイが交錯していくのであって、これが単なるストレートだけの物語だったら途中で寝てしまうか、さっさとDVDを取り出していただろうが。
といってもゲイの問題が絡んだといえど人間同士の確執は同じだよ、というのが答えでもあるようだ。
つまりゲイだから悪人でもかいのなら特に善人でもなく、ゲイだから馬鹿なのでもないように逆に神のように特別な答えが出るのでもなく皆同じように悩み苦しみ、間違ったことをしでかしそしてとても素敵なこともやってくれる。(ゲイだからと言って特別に卑下したり、逆に神聖視したりするのではなく)
ごく当たり前の職業で当たり前の人生を生きている、男と女とゲイとストレートの物語である。

無論ゲイとストレートが交流する話になると色んなことがこんがらがってくる。美男美女同士で好き合っているのに完全な友人同士として一生共に暮らせるか、という設定ではほぼ無理なのではと思えてもこれが片方ゲイなら「できるのかな」となってくる。だがストレートである女性にとって好意を持つ男性が自分にこの上なく優しく、理解してくれるのに特別な感情を持たないでいる、というのは次第に困難になってくる。
しかも彼が目の前で男と手を取り合っているのを見せつけられるならルール違反で感情をぶつけたくなってしまうのが正直なものだろう。
橋口亮輔『ハッシュ!』もゲイのカップルと一人の女性の妊娠にまつわる話で非常に面白かったが(正直に比較すれば『ハッシュ!』の方が面白かった気がするがあちらの方が後に作られているので本作が参考になっていることもあるのかもしれない。勝手な想像だが)
本作の主人公二人の言動というのはとても自由でいるようでその実そんなに奔放なわけでもない。ニーナは強がって見せているがやはり一生添い遂げられる唯一無二の存在を求めている。それはゲイのジョージも同じで相手が同性だというだけで彼は浮気な性質ではなく固く結ばれた関係を望んでいる真面目な人間なのである。だからニーナとの生活も彼女と恋人とを同時に愛することはできなかったのだということだろう。
(この辺『ハッシュ!』はできるんじゃない?)という答えを出しているような気もする。女性の考え方一つでかなり変わってくるかもしれない)

悪魔的でも幻想的でもおどろおどろしくもない普通の男女とゲイの恋物語。
ゲイの主人公は小学校の教師。とても教育熱心ないい教師なのであっていかがわしい欲望を子供に持ったりはしない。好青年で確かにこういうゲイでつまり変な下心がなく親切にされたら女性はなんて爽やかなんだろうかと好きになってしまいそう。
ゲイであることに悩むのではなく、ゲイである自分がどう他のゲイでない男女、そしてゲイである男たちと向かい合いコミュニケートしていくか、という物語なのだった。
そしてストレートであるニーナは他の男との子供を妊娠出産しながらゲイである男性を好きになってしまうことでどう解決していくか、という展開だったのだが、ここでの答えは「ゲイの彼とはあくまで子供のおじさんという接し方でやはりストレートの男性と暮らす」ということだった。
これには何らかの反駁がありそうだ。先に書いたように『ハッシュ!』という映画がもう一つ別の答えを出しているし、ニーナ本人が言いだしたことを撤回することにも疑問をもたれそうである。
それでもこの映画のラストも一つの答えであり、ニーナが自分の思ったことに正直に行動して、様々な人々との交流の中で愛する娘を育てていく、という道はとても愛すべきことだと思う。

ジョージの新しい恋人ポールが舞台俳優でその同居人の老人が劇評論家なのだが、ポールが演じている現代的シェイクスピア劇を観て「時代の雰囲気が感じられない」などと批評しているのがおかしく、ベン・ウィショーのハムレットなどもこう言われたりしたのだろうかとつい重ねて考えたりしてしまった。

ヒロイン・ニーナ役のジェニファー・アニストン。TVドラマでちら観する以外では初めてじゃないだろうか。さすが人気のある女優さんだけあってとてもキュートな女性だった。
そんでもって彼女の兄役を演じていたのが、アラン・アルダ。TV版『M*A*S*H』での彼ピアースがめちゃくちゃ大好きだった。彼はその作品の脚本・監督もしている才媛でもあったのだね。かっこよかったなあ。あんな面白いTVドラマっていうのもないよね。

幾つか観てきて。ニコラス・ハイトナー監督作品ってあんまり官能的ではないよね。なんか理屈っぽいというか。なんていうといけないみたいだけど理屈っぽい映画も好きなんだ、わりと。

監督:ニコラス・ハイトナー 出演:ジェニファー・アニストン ポール・ラッド アラン・アルダ ナイジェル・ホーソーン ジョン・パンコウ ティム・デイリー ジョン・パンコウ
1998年アメリカ
posted by フェイユイ at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月07日

『僕の彼女はどこ?』ダグラス・サーク

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HAS ANYBODY SEEN MY GAL?

先日観た『エデンより彼方に』を観てから初めて知ったダグラス・サーク監督。別段観ようとは思ってなかったのだが、レンタル機能も親切なもので「こういう関連作品がありますよ」と出てきた。
1950年代アメリカ映画と言えば『ローマの休日』『エデンの東』『十二人の怒れる男』『欲望という名の電車』など多くの名作は観てきたがトッド・ヘインズが誉めていたダグラス・サーク作品は日本ではあまり知られていないのではないか。ヘインズ監督が勧めるのなら面白いだろう、と観てみることにした。

オープニング。とてもお洒落なイラストから始まって確かにわくわくさせてくれる。そして現れた画面にはヘインズ監督が再現していた可愛らしい家や人々のファッション。明るい色彩。典型的主婦のママと働き者のパパ。美しい姉妹、悪戯っ子の犬、といった具合である。
とはいえそれらを観ながら思い出したのは(昔の)アニメ『トム&ジェリー』と高野文子氏のマンガだったりしたけど。
そしてまるで幽霊でも観たかのように驚いたのがなんてことないドラッグストアの一場面にジェームズ・ディーンが出ていたのだ!信じられず、「物まね?」とすら思ってしまった。とんでもない。時代を考えれば判るはずだが、まだ売れる以前のジミーがワンシーンだけ出演していたのだった。売れる前とはいえ、ほんの数秒のシーンで店の主人に長たらしい名前のアイスクリームを注文して文句を言われる、というだけの出番。全く知らずに観たのでびっくりしたのだが、それでもあの個性的な顔立ちは数秒でも印象的だと思ったのはやはり知っているからなんだろうなあ。
そしてゲイだと発表してエイズで亡くなるという当時衝撃的な報道をされたロック・ハドソンが貧しいが真面目で爽やかな好青年という役を演じている。

さてこの作品。非常に道徳的、教訓的なのではあるがとてもおかしくて軽妙でさらりとしているので嫌味にならず大変楽しんで観ることができた。
老人フルトン氏は唸るほどの大金持ちだがすっかり気も体も落ち込んで寝た切りとなり窓を開けるのさえも嫌がる始末。
彼は長年抱えてきた後悔の念があり、それは若い時愛した女性から振られ離れてしまったこと。彼はその為に一代で財をなし、大金持ちとなったのだが、愛する女性は別の男と結婚しもう孫までいるのだが、彼と再会することもなく死んでしまったのだ。
フルトン氏は突然彼女の家族に「10万ドル」という大金を送ることを決意する。そして医者の勧めで運動がてら彼女の住んでいたその家を訪れてみることにしたのだ。

いきなり金持ちになる側の話、というのはよくあるかもしれない(先日観た『リプリー』もそんな感じだ)金持ちの老人が主人公で気まぐれで大金を送って見るか、という方からの目線というのはあまりないのではないだろうか。
しかもこのじい様、愛する人に振られるだけあってそれほど善人みたいな人ではないし、頑固者なのだがやはり年の功というものはあるのか、なかなかの分別を持っているし、寝たきりだったとは思えないほど(映画だからね^^;)縦横無尽に活躍する。
フルトン氏はジョン・スミスと名乗っていきなり愛する女性の家庭に策を講じてまんまと下宿人になってしまう(さすがアメリカ。家が広い。日本でこのアイディアは無理だ)家の主人は小さなドラッグストアを経営して幸せな一家なのだが、主婦であるママは金持ちを夢見ていて娘を貧乏なBF(ロック・ハドソン)から引き離し町一番の金持ち御曹司とくっつけようと算段している。娘はロックの方が好きなのだがママの剣幕に負けて仕方なく金持ちカールとデートする。妹はおませで元気いっぱいでいかにもアメリカの女の子という感じ。いきなり入り込んできたスミス氏を気にいって仲良くなる。
素性を隠しているフルトン氏のジョン・スミスはそんな一家がとても好きになっていく。
だがそこへフルトン氏が匿名で銀行家に託した小切手10万ドルが一家に届けられたのだ。

幸せだった一家は突然何もかも変ってしまう。上流階級に憧れるママの指図通り家も車も仕事も犬もすべてが上流に変えられる。
娘のミリーは貧乏なBFとの付き合いをやめさせられ、ジョン・スミスは下宿を追い出されてしまうのだ。
10万ドルというお金は一体どのくらいのものなのか判らないがとにかく彼らは一躍貧乏生活(とはとても思えない広くて豪華な家なんだが、とほほ)から上流階級への仲間入り。ママは思い切り贅沢を楽しむが株価暴落でまたあっという間にすべてを失ってしまう。彼らは再び大金が欲しいと銀行家に掛け合うのだ。
闇酒場でミリーを救いだし、賭けごとで弟を救いだしたジョン・スミスのフルトン氏が最後に出した答えは・・・「10万ドルをあっという間に使ってしまったのならまた渡してもすぐなくなってしまうでしょう。もうお金は上げられません」というものだった。
一家は豪邸を引き払い元の家、元の小さなドラッグストアに戻ったのだ。
そしてミリーはBFと仲直りし、すべては元通りとなった。

最後に種明かしがあるのかと思ったらフルトン氏は何も明かさず去って行った。金持ちが幸せとは限らん、という言葉を残して。

禁酒法の時代なのである。家の中で酒を飲むシーンがあるのだが、「逮捕されるわ」と言って慌ててカーテンを閉め、ちょうどドアをノックされ警察かと怯えるという社会なのだ。賭博も禁止なのだが、その両方の件でスミス氏が逮捕されるという展開がおかしい。
ミリーがBFに振られたと言ってスミス氏にしがみついて泣いてると傍のご婦人が「ふしだらな」と言って早速両親に言いつける、といった次第である。この辺の映画ではよくされる設定のような気がするが妹のロベルタが明るくて作品を軽やかにする効果を出している。
金持ちに憧れるママはちょっと行き過ぎの気もするが彼女とリプリーは同じ穴のムジナなわけで人間の欲望を端的に表わしてみせている。

やや偏屈な金持ちじい様役のチャールズ・コバーンがとてもいい味で、さすが一代で財を成しただけあってギャンブルも凄腕でてきぱきと手際がいい。今だったら瓜二つの孫娘に恋情を持つような表現もあるかもしれないがそれが先に書いた「仲を疑われる」場面で彼はきっぱりと「娘を思う気持ちしかない」と言うわけなんだろう。

まあ、元の生活がどん底ってわけじゃなく、私の目から見たらとんでもなく裕福な家にしか見えないのだが、あんな馬鹿げた上流階級もどきみたいな集まりより元の生活が(あの水準なら)絶対いいに決まっている。でも10万ドルくれるっていうならもらうけど^^;(今の金額でも凄いよね)

ダグラス・サークの作品としてこの作品がどのくらいの位置なのか、初めてなので判らないが、とにかく思った以上に面白い作品だった。
どのくらい描写が正確なのか、ずれているのか、大げさなのか、よく掴めてはいないのだけどね。

本作の可憐なヒロイン・ミリーを演じたのがローリー・パイパー。実に私と言うのは役者の名前を把握していないのだが、この愛らしい少女はどなた?と検索してがーん!!なんと『ツイン・ピークス』のあの意地悪女キャサリンではないか。
可哀そうな香港女性ジョシー・パッカードを苛めぬくキャサリンを演じたのが彼女だったのだ。ぎゃああ。年月というのは無慈悲なもの・・・いや役者としてはこちらがいいのかなあ。単なる清純なだけの美少女より海千の悪女のほうが魅力的というものか。そういえば確かに意地悪なのにやたらともてる役だった。この昔のイメージがあればそうなるのかもしれん。

監督:ダグラス・サーク 出演:パイパー・ローリー ロック・ハドソン チャールズ・コバーン ジジ・ペルー リン・バリ ジジ・ペロー
1952年アメリカ
ラベル:家族
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2009年08月06日

『オーロラ』ニルス・ダヴェルニエ

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AURORE

表紙絵があまりにロマンチックすぎるのと他の評価がさほど芳しくないようなので殆ど期待せず、というかちょっと高を括って観てしまったのだが、意外にも始まった途端入り込んでしまって王女と画家の踊りの場面では涙が溢れて止まらなくなるほど感銘を受けてしまった。この映画で泣く人いるのかなあ。ちょっと没頭しすぎか。

いかにも童話めいた物語で単純な進行なのだが、そのシンプルさゆえか、16歳の王女と若い画家の純粋な愛に他にないほど切ないものを感じてしまったのだよ。
童話というのは大概現実の物語を架空の設定に置き換えて表現しているというものだが、父王は「踊ってはならない」と国の掟を定め、娘のオーロラ姫にも「踊ること」を禁じている。
(これはあのオーロラ姫つまり「眠れる森の美女」という童話もまた自由を束縛された王女=少女を眠りという表現で表わしていたのに通じるのだと思うが)
とはいえかつてオーロラの母である妃もその美しさと踊りの巧みさで王の心を射止めたのだが。結婚と同時に王は妃に踊ることを禁じ、そして、王女である娘にもまかりならんと命令する。
これはもう単に女性が自由に行動することを意味しているわけで妃は愛する王の為に自由=踊りを捨てるわけだ。だが娘オーロラが妃の血を受け継いでやはり美しく踊るのを見て妃は娘には絶対踊らせてやりたい=自由であって欲しい、と願うのだが。
父王が禁止しながら娘が踊っているのを望遠鏡で覗いてるのはどうも危ない行為にしか思えんが、父親というものは危ういと思いながらも娘が美しく大人になっていくのを覗いてみているというものなのである。
だがそれが公になるのは気に入らんという独占欲にかられてしまう。
だが、側近の「財政難を救う為に王女に金持ちの王子と結婚してもらわないといけません」という言葉で渋々王女の結婚相手を探す為に舞踏会を開くことにする。
国の掟として「踊りを踊ってはならない」と定めているのに舞踏会を開く、というのはどういうことなのか。これもまあ不純異性交遊はならんが結婚相手を探すのはまた別のこと、っていうことで。
実は側近は国の財産をどうやら横領しているようで、なおかつ国は財政難だとして金持ちの王子との縁談を勧め、3度の舞踏会を開く。
(私としては一人ずつ呼ばず一斉にたくさん呼んで姫に選ばせてもよさそうなもんなのに、と思ったのだが。これもまあお見合いの意味を持ってるんだろう。いくらなんでも多数の男性とのお見合いってはないもんね)
アラビア、日本、ヨーロッパの王子の誰もオーロラを惹きつけない。怒った王子たちは帰ってしまった。
実はオーロラはそのお見合いの為の肖像画を描く若い画家に心惹かれていたのだ。少しずつ。
初々しい美しさを持つオーロラに画家は恋をする。その見つめるまなざしにオーロラも次第に惹かれていくのだ。
画家の描いた自分の肖像画を見て「本人より美しく描くのね」とオーロラが言うと画家は「いい鏡をお持ちでないようですね」と答える。オーロラは着ていた重々しいドレスをするりと脱いで下着姿になり「美しい私はこれよ」と言って踊りだす。
肖像画を描かせる為にじっと動かない彼女ではなく自由に美しく踊るオーロラに画家は我を忘れて見惚れてしまう。
オーロラはそんな画家に自分の美しさを見せつけるように優雅に踊るのだ。
この場面がまず見事で明るい日差しの中貧しげな画家と美しいが重苦しいドレスを着こんだ王女オーロラがその服を脱ぎ捨て踊りだす瞬間のなんという軽やかなことか。
様子を見守っていた、オーロラの弟である王子は二人の間に恋を感じて居たたまれず飛び出していく。
下着姿、と言ってもそれがまあ今のバレエの稽古着みたいなデザインなのだがオーロラのほっそりしたからだと若々しく跳ね上がったお尻のラインが艶めかしい。
途中、母妃が側近の悪だくみで毒を含ませられ死んでしまうのだが、形見となったトウシューズを履いて画家の前で踊る場面で泣けてしまったのは一体何故なんだろう。トウシューズを履いた脚でゆらゆらと体を揺らしながら画家の方へと近づいていく。画家はもうオーロラの美しさに囚われたように動くこともできない。
オーロラの自由になることの許されない運命と限られた短い間の儚い美しさ。彼女の美しさは確かに若いからこその危ういものだから感じる美しさなのだろう。(もっと年を取ればどっかと肝の座った貫禄がついてしまうのだろうが)

果たして二人の許されない恋は見つかり、引き離され、オーロラは閉じ込められ、画家は逃走した後殺されてしまう。

オーロラは母妃の言葉を思い出す「悲しい時も踊れば雲の上に行ける」そしてオーロラは雲の上で愛する画家と踊ることができた。だが母との約束で弟王子を見捨てられず戻ってくる。
弟王子は画家を目指して放浪に出る。
オーロラはもう地上に戻ることもなく雲の上へと舞い上がっていく。

愛を全うしたオーロラと画家の悲恋物語。書いてるだけで涙がこぼれてしょうがないんだけど、そんなに泣かなくてもいいのに何がこんなに悲しくなってしまうんだろ。
ただもうオーロラの美しさと画家の一途な愛に参ってしまったのか。

弟王子が物凄く可愛いのだ。オーロラって父からも危ない愛情、母からも愛され弟はしっかりシスコン。悪い側近からも狙われててみんなから愛された存在なのだ。いいにしろ悪いにしろ彼女を嫌っている人は一人もいない。

日本の王子の登場はちょっと驚いた。殿様髷じゃなくてよかったかも。披露する踊りがまたおっかないんだけど、その国のイメージというのをこれも表現しているんだけど、明らかに閉じ込められて身動きできない女性と彼女を押さえつける恐ろしい男たち、ってイメージだった。判るけど、今の日本はそれほどでもない?フランス人から似ればまだまだ束縛されてるのかな(当人が気づいてなくてどうする。まあ、私も束縛されてるか)
王子がしっかり「従順な姫でないと」って言ってるしオーロラも酷い王子だったって。

監督:ニルス・ダヴェルニエ 出演: マルゴ・シャトリエ ニコラ・ル・リッシュ キャロル・ブーケ フランソワ・ベルレアン カデル・ベラルビ
2006年フランス
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2009年08月05日

『リプリー』アンソニー・ミンゲラ

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The Talented Mr. Ripley

何だか急に観たくなってしまったんですよねえ。忘れっぽい私が殆ど覚えているほど見返してるんですが。

この映画で特に好きなのはむしろ女性二人。こういう男性主体の映画だと女性の役っていうのは付け合わせ的になってしまいそうだが、本作は女性の役がとても効果的に使われながら人間的な魅力と存在感があるのがいい。グゥイネス・パルトロウのマージとケイト・ブランシェットのメレディス。特にメレディスは脇役にも拘らず時折思い出しては観たくなるのが不思議なのだが。
勿論男性陣も文句なしでマット・デイモンはカッコ悪い側面と頭がよく感受性が豊かで非常に美しく見える側面を上手く出しているし、気まぐれでちょっと馬鹿なお坊ちゃんをジュード・ロウの美貌でこの上なく素敵なトムが憧れるに足る男性像として表現している。そして強烈な印象のフレディを演じたフィリップ・シーモア・ホフマン。最初観た時なんかはあまりに彼が憎らしくて騙してるのはトムなのに早く彼を殺さねば、という気持ちになってしまったが、観る者をそういう気持ちにさせるのは監督の狙いとホフマンの技ということなんだろう。
ディッキーのパパのジェームズ・レブホーンがまたよくて、放蕩息子を甘やかして自分はよく判っていると思い込んでしまっているのが金持ちらしい。
そして後半登場するピーター役のジャック・デヴェンポート。
トムがディッキーに対して抱いた同性愛の想いは彼の冷酷な気まぐれさが引き寄せたあげく踏みにじられてしまうが、ピーターはトムを愛し、トムもまたピーターに惹かれていくにも関わらずトムは結局保身のために彼を殺すことになる。

こんなに上手く物事が進むものか。神がこんな悪戯をするわけはないから悪魔がトムを手玉に取って楽しんでいるとしか思えない。上手くいけばいくほど彼は泥沼から抜け出られない。彼の言い方で表現すれば地下室のさらに奥の奥に彼は隠れ続けることになるのだ。

私がこの映画を何度も観たくなるのは出演者たちの素晴らしさとサスペンスミステリーの巧妙さもだが、無論ディッキーの贅沢な暮らしぶりのせいなんだろう。贅沢というと極端に馬鹿騒ぎをさせたりするのは幻滅で低俗すぎる。ディッキーの暮らしぶりというのがなんともお洒落でこじんまりとした家だとか、でも服や家具は洗練されていてマージのような本物のお嬢様な恋人と気ままに毎日を送っている感じがとてもよくてトムでなくとも入れ替わりたくなるというものだ。
前半のイタリアの小さな街の3人の生活はやがて来る破綻を感じさせながら楽しげだ。この上なく羨ましいディッキーよりトムは才能に恵まれている。だがディッキーの身の上は望んでも手に入らない、はずのもの。
トムはディッキーを殺害後ホテルのフロントから「グリーンリーフ様ですね」と呼ばれはっとする。だが彼と出会う前からトムはメレディスと言う女性に自分はグリーンリーフだと言っている。その時、いやその前、父親のグリーンリーフ氏がトムをプリンストン大学卒業生だと間違えディッキーの友人だと誤解した時からもうトムは自分を偽っている。
彼は最初からディッキーの物まねをしようと企んでいた。単に憧れていただけなのだろうがその物まねの才能が彼を逃れることのできない犯罪の迷路の中に連れ込んでしまう。

マット・デイモン自身この役をやった時はまだ実績もそれほど積み重ねていない時期だったので実にやりがいのある配役だったのではないだろうか。

監督:アンソニー・ミンゲラ 出演:マット・デイモン ジュード・ロウ グウィネス・パルトロー ケイト・ブランシェット フィリップ・シーモア・ホフマン ジャック・ダベンポート ジェームズ・レブホーン セルジオ・ルビーニ フィリップ・ベイカー・ホール
1999年アメリカ
posted by フェイユイ at 23:10| Comment(9) | TrackBack(0) | マット・デイモン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

perfumen新作!『男3人で Perfume - edge を踊ってみた』が出てた!!!

実は先日YouTubeの『男3人で Perfume ワンルーム・ディスコ を踊ってみた』をここに貼ってからというもの毎日perfumenを観てるという^^;事実を抱えてる私。
新作発表されてたんで本来ニコ動だったのだよね、彼ら。



やっぱり白が好き(ぽっ)可愛い。白くんは背は他の二人より小さいのになぜか腕が長く見えて綺麗なの。お得な体型だなあ。
でも眼鏡も仮面もよいです。ほんとに好きで困ってしまう。

あああ、またこれエンドレスで観ちゃうじゃないかあ。
posted by フェイユイ at 01:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『カリギュラ』ティント・ブラス ジャンカルロ・ルイ ボブ・グッチョーネ

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CALIGULA

公開当時、アメリカの雑誌『ペントハウス』が製作したということで内容の際どさが話題になったのは覚えているが多分観てない、かな。
あまりいい評価も聞かないようなので観るのもためらわれたが、マルコムを観たいので嫌なら途中で止めればいいやと思い鑑賞。観だしたら結構面白くてかなり長いのに最後まで観終えてしまった。

確かにこれは「ハードコアポルノ」だと言われるだけのことはあって、際限なくポルノシーン、ただもう裸体の男女、男男、女女の絡みやら単に立ってるのやらが物語の進行中あちこちで登場してくる。どうやら主演俳優たちとポルノシーンは別撮りで騙されて出演させられた、ということらしいが自分としてはそれほど怒りまくるほどの低俗なものでもないように思える。
なにせ主要出演俳優がカリギュラはマルコム・マクダウェル、そのお祖父ちゃん皇帝にピーター・オトゥール、家臣にジョン・ギールグッド、カリギュラの正妃にヘレン・ミレン、と何故かイタリア人じゃなくイギリスの錚々たる俳優陣で固められているので壮麗な舞台劇でも観てるかのような重厚さがあるし(アメリカ俳優を選ばなかったのが偉いね。脇はイタリア系が多いみたい)その重い部分とポルノシーンが手際よく見事に層を成していて緩急の配分の上手さで長丁場も耐えきれるのだろう(ポルノシーンを耐えてるような気もするが)そのポルノシーンもアメリカ映画であるにも関わらず男女だけでなく(割合としてはそれが多いが)女女は勿論、男男の口淫も映されているからなかなか本格的だと言っていいのではないだろうか。
それにしても口淫シーンが多い。
そういえばこのDVDは『ヘア解禁版』となってるがあくまでヘアであって性器にはモザイクがかかっている。そこまでするか。
(ちょっと前、ガエル・ガルシア・ベルナルのインタビューで「日本では僕のものが変な風に映ってるんだ。見せちゃいけないんだよ」とか言って大笑いしてるのが恥ずかしくて(ガエルが正しい!)もう今の時代、いい加減にしろよ、と言いたくなる)
とは言え、当時は映画館で大きなボカシが入っていた為、ポルノシーンはクローズアップばかりだから画面全部ボカシで何がなんだかわからなかっただろう。かなりカットもされたようだし。
 
まあいいや。
とにかく、マルコムのカリギュラなんてまさにはまり役なわけで若くて綺麗なマルコムをずーっと観れてとても楽しかった。男女ともに好きでしかも実の妹を一番心体共に愛していて青い目がもういっちゃってるカリギュラのマルコムは素晴らしく魅力的だった。
ところで私は小栗旬を観る度にマルコム・マクダウェルに似てるなあと思ってたんだけど小栗も『カリギュラ』やってたんだよね。あれってやっぱりマルコムに似てるって蜷川氏が思ったのか?彼のも観てみたい。
いっちゃってる目のピーター・オトゥールお祖父ちゃん皇帝もよろしいし、ギールグッド氏は言うことなし。ヘレン・ミレンのカエソニアなんて「ローマ一のふしだらな女」という役なんだけど迫力ある。

そして映画はエロだけでなくグロもかなり強烈で今現在このような映画を製作することはできるんだろうか、とさえ思えてくる。しかもこの大作の規模で。

エログロを楽しむもよし、でもエログロ苦手でも何とかそこは凌いで主要俳優の素晴らしい演技だけに集中するもよし。
私は一般の評価ほど悪くないとても楽しめる歴史劇だと思えたのだが。
マルコム・マクダウェルはやっぱり素敵だった。

監督:ティント・ブラス ジャンカルロ・ルイ ボブ・グッチョーネ 出演:マルコム・マクダウェル ピーター・オトゥール ジョン・ギールグッド ヘレン・ミレン テレサ・アン・サヴォイ
1980年アメリカ

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2009年08月03日

『ヒストリーボーイズ』ニコラス・ハイトナー

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THE HISTORY BOYS

先日観た『センターステージ』がとても好きな作品だったので今まで全く意識したことのなかったニコラス・ハイトナー監督作品に手を伸ばしてみた。いやあ、もう何故今まで観ようと思わなかったのかね?いつもながら自分の目配りの悪さにがっくりしてしまうのだが、とにかくこれはもう素敵な作品だった。

イギリス・シェフィールドのグラマースクール生である8人の少年たち。進学クラスにいる彼らは校長からも「ケンブリッジを目指せ」と励まされ彼らも合格する為に日夜努力を続けている優秀な生徒たちなのだ。
だが校長は彼らには教える教師たちの力不足で優雅さがないと不安を持っている。そこで彼が急遽教師として迎え入れたのがオックスフォード大学卒の若手男性教師アーウィンであった。
それまで少年たちに教養を学ばせていた老教師へクターは入学試験とは無縁な文学・詩果ては映画の一場面を演じさせたり歌わせたりといった具合。でっぷりと太った体格で憎めないが実は妻帯者であるにも拘らずゲイで生徒たちをバイクのタンデムに乗せては股間を触ることを楽しみにしている(優等生諸君はそんな彼の趣味を甘んじて受けている、というのがさすが優秀な頭脳のせいか)という困った人物でもある。
一方アーウィンはケンブリッジ合格に必要な機知を生徒たちに学ばせる。優秀な彼らはみるみるアーウィンの変化に満ちてスピーディで含みのある教え方に刺激を受けていく。
古い型の教師へクターと最新式といったアーウィンの教育のどちらもとても面白いところがいい。つまりこれはどちらかが正しいというのではなくどちらも必要なのだ。少年たちもアーウィンに惹かれつつもへクターの教えも利用していくのがそつがない。
そして実はアーウィンもゲイだったのだ。

8人の少年たちも様々でとても魅力的なのである。この映画は元々舞台でトニー賞を取ったものらしい。しかもキャストはそのままであるというのが驚きだ。
一番目立っているのがドミニク・クーパー演じるデイキン。ちょっとディカプリオを若くして黒髪にしたようなハンサムで勝気な表情が可愛らしい。ストレートにも関わらずゲイのポズナーが近づくのも構わないし、へクターにはサービスだといわんばかりに触らせ、アーウィンの頭の良さにすっかり参って「彼とならやってもいい」と不敵な笑顔を見せる豪放な男なのである(少なくともぶってる)そんな彼に思いを寄せる同級生ポズナー。ユダヤ人でちびで(そんなこともないが)ゲイでどうしようもない、と嘆く。デイキンに並ぶ優秀な頭脳を持っている。デイキンが嫌がらないせいもあって堂々と彼に恋の歌を歌ったりする。同じユダヤ人のスクリップス(ジェイミー・パーカー)に悩みを打ち明ける。そのスクリップスはポズナーのデイキンへの思いを聞きながらデイキンといつも一緒にいるのが彼だったりして。まあ、その気がないからデイキンも傍にいやすいのだろう。
その3人が特に多く登場するが、シニカルなスポーツマンのラッジ、イスラムの少年などの人種や宗教、人生観などを語らせながら彼らの受験勉強の日々が過ぎていく。

イギリスの学校ものに顕著な、女性が殆ど登場してこない作品だがあえて色もの的に出されるより(その役目の女性はいるが)このくらいきっぱりと排除されている方がマシだと思う。
何より背伸びした少年たちの生意気な言葉のやりとりが楽しくてしょうがない。
どうしてもポズナーのデイキンへの恋心に惹かれてしまう。珍しくもデイキンという奴はとんでもなく出来た少年なのでポズナーを毛嫌いしないのがいいとこだし、それゆえ余計ポズナーは辛い。しかもストレートのはずのデイキンがアーウィンとならやってもいい、なんてかなり本気で言いだすので彼の心は千々に乱れるのだった。最後に「ご褒美だ」なんて言ってポズナーを抱きしめるのもますます切ないものがあるがなんだかこれも青春の一こまという奴なのであろう。
めちゃくちゃ切れてかっこよかった転入教師アーウィンが実は、というネタばれがありゲイでもある彼はデイキンの誘惑に揺れ動いていくのがなんとも寂しいが完璧なかっこよさに描いてしまわないのがまたよいのかもしれない。

舞台劇だけあって言葉の応酬が醍醐味の作品。久しぶりにこういう感じ。とても堪能できてこの作品もまた大好きなものになった。

監督:ニコラス・ハイトナー 
出演:リチャード・グリフィス
スティーヴン・キャンベル・ムーア
フランシス・デ・ラ・トゥーア
サミュエル・アンダーソン
ジェームズ・コーデン
アンドリュー・ノット
ラッセル・トヴェイ
ジェイミー・パーカー
ドミニク・クーパー
サミュエル・バーネット
サッシャ・ダーワン
クライヴ・メリソン
ペネロープ・ウィルトン
エイドリアン・スカーボロー
ジョージア・テイラー
イアン・ミッチェル
2006年イギリス

なんだか昔懐かしい作品だった。と言ってもそういうばりばりに有名大学目指して勉強した、なんて過去を持ってるということでなく昔はちょっとこういう勉学に励みながら若者たちが人生や世界について様々に論議し合う青春時代、なんていう話がよくあって自分もそういう仲間みたいのに憧れていたのだが、現実にはこれほど小難しいテーマを論議し合うなんてこともなくただなんとなく過ぎ去ってしまった。今ではそういう若者を描いた作品すらあまりないような気がする(私が知らないだけかもしれないが)アメリカや日本の目にする映画やドラマは不良モノばかりで世界や歴史について議論する少年たち、なんていうのはお目にかかれないようだ。

とはいえこういう少年たちは現実にいるはずなのだが日本ではあまりこういう類の少年たちを散り上げて作品にすることがないようだ。あっても「勉強だけが大事なのか」みたいなどーでもいいようなテーマだったりする。よく知られているのでは『デスノート』がちょっとだけ頭のいい少年たちの話だったのかもしれないが。
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2009年08月02日

『エトワール』ニルス・ダヴェルニエ

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Etoiles: Dancers of the Paris Opera Ballet

一日空いてしまったが続けてバレエ作品。こちらはドキュメンタリー。先日のは架空のアメリカバレエ団付属学校の生徒の物語だったが、こちらは実在のパリ・オペラ座の団員達とやはりそこを目指す生徒たちの物語も添えられている。
小さい時から入学しほぼ同じ顔触れで成長していくのだというオペラ座の団員たちは心を許しあえるわけではないライバルでありながら、同時に家族のような連帯感も持ち合わせているような不思議な集団に思えた。無論熾烈な競争の中で勝ち残ったものだけが団員として残るのだから単純な仲間意識というわけにはいかないはずだ。とはいえ男性ダンサーが「小さい時から同じ女の子ばかり見続けて」というと女性がすかさず「男子も同じじゃない!」と言い返すのがおかしい。そりゃそうだ。
それにしても14歳くらいの生徒バレリーナたちの愛らしさといったら。みんな細くてお人形さんのように可愛らしい。少年たちの綺麗さも見惚れるばかりだが、小さなお尻が強調されるタイツだとか少女たちの初々しいレオタードになんだか危ない色香を感じてしまうのは私がいけないのだろうな。
先日観たドラマ映画よりドキュメンタリーの本作のほうが綺麗なイメージに溢れているのは場所がパリオペラ座だからなのか。綺麗な部分ばかり狙った為か。
自分が日本人だからだろうがフランス製作なのだが幾つか日本関連のものが。一つは冒頭のオペラ座日本公演。う、いきなり映った日本の街並みがお世辞にも美しいとはいえない。率直にいえばごちゃごちゃの乱雑ないかにも日本的な都会風景(そこの方ごめんなさい)「日本のファンは金髪ダンサーが大好きでマイケル・ジャクソン並みの騒ぎなんだ。日本だけの光景だね」と言われるのも苦笑いであった。(私も同じ穴のムジナ)
次はオペラ座団員のミテキ・クドー。はっきりオリエンタルな顔立ちでクドー?すみません。とても有名な方だったのだ。すでにCMなどで顔を見ていたはず。振付家の工藤大弐を父に、70年代にヌレエフのパートナーを務めた伝説的な元エトワール、ノエラ・ポントワを母に持つというだけでなくとても美しい印象を与えてくれる女性。同じくオペラ座団員の夫との間の二児の母親でもある(ダンサーでもあり母親でもある!凄いことだ)エトワールだった母親の娘を誇りに思うと言う言葉もよいなあ。この誉め方とかいかにもフランス女性らしく親子でありながら一人のダンサーとして評価している感じが素敵なのだ。
もうひとつが最後辺りに登場した藤井美帆。時間的には僅かだったがオペラ座バレエ学校に途中から編入して団員となったということなのだから才能もだが大変な努力だたのだろうな、と想像してしまう。

パリオペラ座には最高位のダンサー「エトワール」を頂点にして、プルミエ・ダンスール、スジェ、コリフェ、カドリーユという厳格な階級があるのも初めて知った。クドーさんはスジェに位置する。カメラは最高位のエトワールだけでなくカドリーユの男女にも向けられる。彼らの仕事は群舞や代役なのだろう。代役は無論出演できるかどうかわからないのに演目を把握していなければならないのだから大変な仕事に思える。そして結局出番がないことが多いに違いない。こんな辛い役目はやはり
バレエへの愛情・情熱がなければ絶対やっていけない。「出番は多いのよ」と笑ったり、出れなくて「慣れてるわ」と笑顔を残して去る姿はやはりどこか寂しげなのだが。うーん。こういう位置の人に注目してしまう。映画としてもこういう役目の人は題材になると思うのだけど。なんだかスペースシャトルの代役の為に訓練し続けて飛べない人とも重ねてしまう。

クラシックバレエ、コンテンポラリー、イリ・キリアン演出、モーリス・ベジャール演出など様々な映像がありこれも非常に楽しめる作品だった。

特典にピエール・アルフレッド・リシャール監督、ジェレミー・ベランガール振付・出演『ランデヴー』が収録。
『オペラ座の怪人』を新しく演出したものでダンスとともに映像も斬新で素晴らしい。音楽はビヨークというのもまた格別な。
ジェレミーはプルミエ・ダンスールなのだそう。2001年作品。

監督:ニルス・ダヴェルニエ 出演:マニュエル ルグリ ニコラ・ル・リッシュ オーレリ・デュポン ローラン・イレール エリザベット・プラテル
2000年フランス
posted by フェイユイ at 22:56| Comment(7) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月01日

張考全『涙王子』第66回ヴェネチア国際映画祭コンペ部門の23作品発表

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第66回ヴェネチア国際映画祭コンペ部門の23作品発表
です!
気になるのは
・ジョン・ヒルコート『ザ・ロード』(原題)、アメリカ
・塚本晋也『TETSUO THE BULLET MAN』、日本
・ヨンファン『プリンス・オブ・ティアーズ』(英題)、中国
最後のが楊凡監督『涙王子』なんと范植偉、張孝全が主演です。
楊凡は『美少年の恋』『華の愛 遊園驚夢』の監督。

こちらなんかも

第66回ヴェネチア国際映画祭コンペ部門
ラベル:張孝全
posted by フェイユイ at 01:02| Comment(4) | TrackBack(0) | 張孝全 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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