映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年08月21日

『バスキア』ジュリアン・シュナーベル

514QZH2B7ZL__SL500_AA240_.jpgbasquiat2.jpgbasquiat.jpgf0005092_1911541.jpg
Basquiat

冒頭に生涯一枚の絵しか売れなかったゴッホのことが語られ、まだ売れてない頃のバスキアの物語が始まるのだが、対照的に若くして認められ次々と作品が売れまくっていく。
この作品ではそんなバスキアの心の奥まで覗くことはなく短い生涯をスケッチ風に捉えたと言うイメージであった。

例えば女性からもてているバスキアとゲイであるウォーホルが非常緊密な関係になっていくんだけど、その実どういう緊密さだったのかはよく判んない。この作品を観てるとかなり深い関係だったように見えるしウォーホルの死後彼のビデオを観て泣いてたり、まるで彼の死のせいでバスキアの薬物依存が酷くなって言ったかのように見えてしまう。しかも最後辺りは女性の影もなくなってしまう。
バスキアもゲイ的な人だったかのように思えてしまうのだが、どうなのだろう。そこらはあやふやな感じである。

バスキアを演じたジェフリー・ライトが悪いわけではないのだが(私はバスキアの姿とか知らないのですんなり観てしまったのだが)後で彼自身の写真を見るとジェフリーとは比べ物にならないほど(失礼)ハンサムですらりとした若者で確かにこんな青年がしかも天才だったらウォーホルも黙っておけないよな、なんて思ってしまう。
何だかジャン・コクトーとレイモン・ラディゲみたいな感じではないか。
彼らと違うのは死ぬ順番ということになるが、ウォーホルの死後、腑抜けのようになってしまうバスキアを(映画を観てるとそう見える)助けるのが以前からの親友でバスキアが有名になってから喧嘩別れしていた白人の友人である。
そういえばバスキアってこの映画では恋人も声をかける女性も友人になる男性も殆ど皆白人なのだ。

絵画っていうのはやはり受け止めるのが難しい。誰でも一応絵は描ける。描けるだけにそこから技術的に優れた者とそうでない者の区別はしやすいが、芸術的か、他よりどこか優れたものが心をつかむものがあるか、という判断になると途端に素人は絶句することになる。
ゴッホの絵は誰も理解できなかったが、ではこの絵はどうなのか?というわけである。
バスキアが作品中「初めての優れた黒人画家」というような言われ方をしてむっとする。「原始人の絵」みたいな言われ方も。
さて私としては確かに面白くて印象に残る絵画だと思うが、そのハンサムな容貌も含めてウォーホルと言う存在も含めて、やはり彼を取り巻く白人たちの流行やら嗜好に合ったための現象だとこの映画は言ってる気がしなくもない。(ハンサムはこの映画では関係ないか←再びジェフリーさんごめん)

ゴッホと違ってあっという間にスターになったバスキアよりデヴィッド・ボウイが演じたウォーホルやデル・トロが演じた友人のほうがより魅力的に見えてしまうのはどういうことだろう。

それにしてもあんな広いアトリエで思い切り絵を描けるのは楽しそうだ。日がな絵を描いて過ごす。と言うのが私の老後の夢なんだけど、叶うといいなあ。

監督:ジュリアン・シュナーベル 出演:ジェフリー・ライト ベニチオ・デル・トロ デニス・ホッパー デヴィッド・ボウイ クリストファー・ウォーケン ウィレム・デフォー ゲイリー・オールドマン コートニー・ラヴ 
1996年アメリカ


ラベル:芸術
posted by フェイユイ at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『ダウト〜あるカトリック学校で〜』ジョン・パトリック・シャンリィ

1Doubt2.jpgdoubt2_large_large.jpg
Doubtdoubt01.jpg

殆ど舞台劇を観ているような(実際そうだったみたいだが)幾人かの台詞のやりとりがとにかく面白い、という作品だった。

メリル・ストリープ演じるアロイシアス校長の帽子の奥にはまりこんでしまったような表情から目が離せなくなる。

しかし一体これはどういう意味を持つ物語なのか。

冒頭、あるカソリックといつも私は書くのだがここではカトリックとなってるからそう書こう。
あるカトリック学校に属するフリン神父の礼拝の言葉を聞くことになるのだがそこで彼は「疑いは確信と同じくらい強力な絆になるのです」と言う。
この言葉はその後彼がはまり込むことになる「疑い」というものを自ら肯定していることになるのだが、この最初の礼拝での彼の一連の説教はどこか奇妙なものを感じさせる。
「ケネディが殺される、という社会的悲劇が人々の心をより強く結び付けた」というのは聞き方によっては随分酷い言い方のように取れてしまうがこれも後から起きる事件をそのまま言い表わしている。「信仰に迷いができた時、あなたは一人ぼっちではない」というのはアロイシアス校長に向かって話しているようでもある。
つまりフリン神父は最初に来るべき自分への「疑い」を「人間のあるべき姿」として推奨しているわけではないか。

そしてアロイシアスは神父の教えに共鳴して彼自身にその答えを求めていく。
フリンは自分で自分に疑いをかけてみせたようなものである。

純粋で従順な若いシスターはアロイシアスの言葉に反応し、またフリンの言葉にも耳を傾けて揺れ動く。
フリン神父から性的な関係を求められてのではないかと疑われる少年ミラーの母親は狭量なアロイシアスの判断に苛立ち「あなたが波風を立てなければ上手くいくのに」と逆に恨まれてしまう。
アロイシアスは何の為に戦っているのか。
最後にアロイシアスが「どうしても疑いを持ってしまったのです」と言って泣き崩れることで物語は終わるがこれが戯曲で演出によって演技が変わるなら「どうしても疑いを持ってしまったのです!!」と毅然とすることもありだろう。
アロイシアスは信仰に導かれ星を目指して進んだが迷ってしまった。フリン神父の言葉を借りるなら「迷った時、あなたは一人ではない」のだ。
アロイシアス自身、見て見ぬふり、ということもできたろうし、大概の人間はそうしてしまうのではないか。彼女の戦いはなんという労苦ばかりでなんの見返りもありはしないのだ。
彼女にすれば単なる力なき一人のシスターが上の位にいる男性である神父と張り合ったのだから。
フリンが本当の本当に何もなかったかは判らない。
教会の中でも男性である神父とシスターとの力関係はどうあるものなのか。
結果がどうなるのか。真実が何なのかは誰にも最初は判らない。
フリン神父の言葉「私が何の罪を犯したか、誰も知らない。そんな孤独こそ不幸だ」
アロイシアスが行ったことは間違いだったのか。
少なくとも彼女はもしかしたら人が無視したかもしれない黒人の少年を無視しなかった。彼が「単なる黒人の子」でなく悩みを持つ一人の少年と把握した。
見て見ぬふりの無視ではなく「疑いを持つことで絆は深まる」というフリン神父の言葉は彼女によって遂行されたのではないだろうか。

なんだか物語の台詞や行動の一つ一つに意味があるようでしっかり観てないとせっかくのヒントを失ってしまいそうなほど示唆に満ちてる作品なのだ。
ミサに行く前(帰る時だったかな)の夫婦が「あなたパンを買ってきて。私は朝食の用意をするから」「いや僕が用意をするよ」「今までしたこともないのに」なんていう会話も何だか意味がありそうだ。

本作は確か一応アカデミー賞ノミネートに一枚噛んでたと思うがさすがに渋すぎたのか。ぱっと見て判る、というより次第にじわじわくるタイプの作品なのだ。
それにしても作品中、話が入り込んでくると電話が鳴ったり、電球が切れたり、雷が鳴ったりして邪魔をする。そういう苛立ちを誘う演出も「疑い」という題材をさらに印象付ける。
私としてはホフマンは絶対怪しいと思うんだが(笑)シスターたちが貧しい食事をしてるのに酒や血の滴る肉をかっ食らい下品な話で盛り上がる神父たち。絶対彼ら男だけのなあなあ意識があると思うんだけどねえ。

監督:ジョン・パトリック・シャンリィ 出演:メリル・ストリープ
フィリップ・シーモア・ホフマン エイミー・アダムス ヴィオラ・デイヴィス
2008年アメリカ
ラベル:宗教
posted by フェイユイ at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。