映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年08月29日

『パフューム ある人殺しの物語』トム・テイクヴァ

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Perfume: The Story of a Murderer

特にベン・ウィショーを意識せず観た最初の観賞からベン目的で何度も観てしまった観賞でも何度観ても面白いし何度観ても「こんな穴だらけの破綻した物語でよく映画を作ろうと思ったものだ」と感じてしまう。
そういう綻び部分を無理矢理縫い閉じて美しくもおぞましい映像のタペストリーに仕上げてしまったのである。

問題点は挙げればきりがないほどなのだが、では何故(ベンが主演だからということだけではなく)この作品に惹かれてしまうのだろう。
それはこの物語が多分空想癖のある人間なら一度は似たような妄想を描いてしまうからではないだろうか。
自分は誰にも存在を認められることのない人間だが(グルユイユは彼自身に体臭がないことで自分の無価値を感じる。匂いが存在価値になる彼にとって無体臭なのは存在そのものがないことと同じなのだ)全世界を変えられるほどの才能を持っている。今まで自分を見下げていた人々が皆自分にひれ伏すようになる。
だが想像はそこで途切れてしまう。周囲の人々をひれ伏させた後の野望は自分の想像では覚束ない。全世界を支配するというほどの欲望までは思いつかない小さな人間なのだ。

「匂い」というのは欲望をうながす。美味しい匂いは食欲を異性の匂いは(異性愛者であれば)性欲を感じさせる。この物語でグルが欲するのは食欲のほうではなく多分性欲に基づいた愛情なので彼は異性の体臭を収集することに夢中になる。
この辺りの設定と展開が滅茶苦茶で混乱する。彼が集めるのは成人した(少なくとも子供ではない)若い美女の体臭のみなのだが、人間には様々な嗜好が存在するので幼女でなければ発情しない男も逆に熟女にのみ興奮する男もまた同性愛者もいる(現在ならアニメキャラにしか感じない男もいるからますます難しい)且つクライマックス場面では女性も興奮するのだが何故異性愛者の女性が女性のエッセンスで興奮するのかが理解できない。女性にも性欲を発させたいなら男のエッセンスもとるべきだったのではないか。つまり老若男女それぞれの組み合わせのエッセンスは必要だろう。もっと他の性欲者はもうあきらめるとして。
またローラの父親や男性もグルにひれ伏すのだがこれは何の感情なのか。エッセンスは性欲を促すのか、尊敬の念を深めるのか。その両方の感情は必ずしもイコールでないはずだ。
そして最後では香りをかいだ人々は今度は触れ伏すのではなく彼を食べてしまう。これらを考えていると人が妄想に耽る時、その場その場で自分に都合よく現象を変えてしまう感覚なのである。
何故グルがローラのエッセンスを煮出して他の分と混ぜ合わせ得ている最中にやって来た追っ手はその場で彼にひれ伏さなかったんだろう。煮ていただけに香りはあたりに充満しっていたはずだ。一人のエッセンスでも人を温和にさせるのはドリュオーの怒りを鎮めたのでわかっている。ただし風向きのせい、という言い訳はここではありそうだが。
ここでわざと捕まって大衆を操りたかったのだ、という説明もあるだろうが、ここで逃げても民衆が集まる機会(祭りだとか)はあるだろう。まあ、映画だから一発逆転をやりたかったと言われればそりゃそうだろうけど。

妄想劇だと言っておいていちいち文句をつけるのもおかしなことだ。
でももう少し意固地で書けば、何故ローラパパはローラを結婚させようとしたのか。これは最初の女を売春婦にしなければよかったはずだ。後の女性は処女ばかりだったと言ってもいいが売春婦では通じない。グルが狙うのが皆処女なのでローラを結婚させ処女でなくせばいい、と考えたのならわかる。いくらなんでも良家の子女を襲われない為に性体験だけさせるわけにはいかないだろうから。
エッセンスの数より殺した人数が多い気がするのは気のせい?
最後に一滴エッセンスが残ってたがあれで充分周囲の人間をおかしくできないのかな。

これ以上に疑問はあるがそれでもどうでも良いほど見入ってしまうのである。グルと一緒に妄想の世界へと入っていく。

この物語と重ねて考えてしまうのは『フランケンシュタイン』のようなゴシックホラーである。荒唐無稽な機械で合成人間を作ったあの物語と同じように本作は荒唐無稽な方法で人間からエッセンスを集める。
そういえばフランケンシュタインのモンスターも愛されることが願望の怪物であった。
グルは一見美女を追いかけまわして欲望を感じているように描かれているが、その実彼が会話をし深い関係になるのはパフューマーのバルディーニとローラの父親リシだけである。(ある意味皮なめし屋もだが)
バルディーニは彼の才能に惚れ込んで、リシは彼の作ったパフュームによって洗脳され「息子よ」と呼ぶ。
フランケンシュタインのモンスターも一番求めたのは父親の愛だったのを思い出せば不思議な疑似体験だ。モンスターがついに父親の愛を得られないままだったのにグルはリシに愛情をこめて息子と呼ばれるのだ。
だがその言葉がリシの本心ではないことを感じたグルはよりいっそうの孤独を感じてパリに戻ったのではないか。
ここで思い出すのはグルの疑似親となった孤児院の女、皮なめしの親方、バルディーニ全員がグルと別れた後死んでしまうということだ。
この現象もまた妄想物語(物語はみんな妄想だけど)ゆえのことか。グルを真実愛さなかった彼らは彼がいなくなれば存在を消されてしまうのだ。ではリシは。グルの表情からすれば彼だけは存えたと思うのだがどうだろう。
(それにしても私は今までも映画の感想で『フランケンシュタインの怪物』に似ているという文章を何回となく書いている。どうも芸のない話だが西洋の物語は「彼は本当は父親に愛されたいモンスターなんだ」という設定が多いんではないか。日本の作品ではあまりない気がする)

かなり書いてきたのでここらでやっとベンの話に移ろう。
さてこの作品で初めてベン・ウィショーを認識したと思うのだが、その時の印象は多分凄い役者さんだな、ということだけだったと思う。とはいってもTVで映画紹介を観た時、主人公の青年の顔がやたらと印象的に思ったことを覚えている。あまりそういうことを感じない人間なのであるが。
その後、『情愛と友情』で一気にベンが好きになり、他の作品もいろいろ観た後、これを観直すと他のベンとはずいぶん印象が違うように思える。
それはセバスチャンの時も同じようなことを感じるのだが、グルヌイユはグルヌイユであって他の何者でもない気さえしてしまうのだ。
今のベンとはずいぶん顔が違うように見える。まだ幼さが残る少年のようにも見えるし、どうしても身長が170センチに満たない小柄な男に見えてしまう。それはベンがいつも身をかがめてよたよた歩いているのと顔にも体にもひどいダメージ、眉の傷や首のただれなどに目がいくこと。表情も他の作品には観られない卑屈さや逆に高慢なものがある。
ただ酷く変な顔に見えるときとはっとするほど美しい顔になるのはいつものベンの魅力だが。

他の映画批評を読むとうーむとなるのは作品や主人公を気に入ったとほめている人でもベン・ウィショーという名前を挙げている人は少ないことだ。
大概「主人公をやっている役者さんはうまい」みたいな書き方でダスティン・ホフマンやアラン・リックマンは名前を書いててもベン・ウィショーとはなかなか書かれてくれない。
yahoo!の映画レビューでもホフマンとリックマンの画像はあるのにベンは画像なし。主人公なのに。とほほである。
しかしトム・テイクヴァ監督は赤毛が好きだ。『ラン・ローラ・ラン』のローラも赤毛だった。そういえば名前も同じだ。(原作でも赤毛となってるからしょうがないが。名前はロールになってたが。原作と言えば原作でグルヌイユは何回もひねこびた小男と形容されている。ベンはまさにそういう男になりきっているのだ)


この映画で見逃せないのがバルディーニの店にいたペルシャ猫(猫好きのベンにとってたとえ偽物でも猫を煮るのは辛かったんでは)と売春婦の飼っていたペキニーズである。
特にぺキのほうは重要な役どころだし可愛かった。あの獅子舞みたいな口が愛らしい。

ここで書いた感想は無論映画によるものである。原作小説から受ける印象は映画とはまたちょっと違う。

監督:トム・テイクヴァ 出演:ベン・ウィショー レイチェル・ハード=ウッド アラン・リックマン ダスティン・ホフマン アンドレス・エレーラ
2006年ドイツ・フランス・スペイン


posted by フェイユイ at 23:33| Comment(7) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『幽霊と未亡人』ジョセフ・L.マンキーウィッツ

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The Ghost and Mrs.Muir

先日観た『イヴの総て』がなかなか面白かったのでジョセフ・L.マンキーウィッツ作品をもう少し観たくてレンタルした。
『イヴ』より少し前の作品である。舞台はイギリスで「20世紀になったのよ」という台詞があるからそういく時期なのだろう。馬車と自動車が共存し、貴婦人はきついコルセットのドレスを着用している世界である。

『イヴの総て』もそうだったがとてもテンポがよくあちこちにジョークが散りばめてある楽しい映画である。
未亡人になったルーシーが本来なら夫の家族と住むべきところを「自由に生きたい!」と宣言し、泣きじゃくる義母と怒る小姑を後にする。
まだ幼い娘と何かと彼女を心配してくれる心強いメイドのマーサと共に住むのに選んだ海辺の家はなんと幽霊が出ることで不動産屋を悩ませる家であったのだ。

幽霊はその家の元の住人であるダニエル船長であった。
船乗りだった彼は言葉が荒々しく上品なルーシーとは何かと反発しあうのだったが、いつしか二人は口にはしないが心惹かれあう。
ある日、ルーシーが頼みの綱にしていた亡き夫の株券が紙切れ同然になったと小姑から告げられる。
そうであれば何の蓄えもないルーシー親子は元の家に戻るしかない。
ところがダニエル船長は「わしに任せとけ」と言い切るのだった。

幽霊とか言ってもレックス・ハリソンがそのまま登場してルーシーには見えるけど、他の人間には見えない、という至って簡単な演出である。(つまり役者がそこにいるのに見えないという設定で演技する)
上品な貴婦人がいきなり男の声で下品な言葉を言う(と周りの人間には思える)というのがおかしいし、住む世界の違う船長とルーシーの会話がとても楽しい。そしてルーシーは彼の経験を小説に書き起こすことになり多額の印税を手にすることになる。
そこへルーシーに求愛する男が登場し、胡散臭いと思いながらも船長は彼女のために姿を消すことにする。眠っている彼女に今までの自分との出来事は全部夢だったと暗示をかけて。

大変楽しい前半のコメディから後半は世間知らずの貴婦人ルーシーが既婚者である男の求婚を真に受け、真実を知って打ちのめされ、その後娘が結婚する場面へ移っていく。
そこで実は娘もダニエル船長の幽霊と親しくなったことを打ち明けられる。ルーシーは封印された記憶を取り戻せず、夢だったのよ、と娘に言う。
次の場面は老いたルーシーであり、同じく老女であるマーサに世話を焼かれている。
マーサが部屋を出ていくと椅子に座ったルーシーは息を引き取る。そこへあの時と同じ姿のダニエル船長が現れ、出会った頃のルーシーの姿になった彼女は彼と同じ霊となって家を出ていくのだ。

非常によくできたロマンチックラブコメディで最初思い切り笑わせ、最後でしんみりと涙がこみ上げてくるという仕組みになっている。ヒロインが最初から娘つきの未亡人なので大人の為の作品といえよう。

『マイフェアレディ』でも男っぽい役であったレックス・ハリソンが荒くれ男だがルーシーを心から愛する素敵な幽霊として登場。
ルーシー役のジーン・ティアニーはチャーミングな未亡人ぶりが素敵でちょっと色っぽすぎるかも。
娘が成長した時をナタリー・ウッドが演じている。
とても優れた作品で楽しめたのだが、現在の目で見れば昔の女性特に貴婦人って悲しいものであるなあと言うことも感じてしまう。
これは作品自体への疑問ではない。
未亡人ルーシーが何の支えもなくなった時豊かな経験を持つ幽霊の船長が自分の体験したことを小説にしてルーシーに書かせる、というのは話としては荒唐無稽だがいきなりルーシーがベストセラー小説作家になるというよりは現実的なのだ。
結局「自由に生きたい!」と宣言したルーシーは何もできないままだ。
メイドのマーサに言うように彼女は何もできない貴婦人でしかない。
家事も下手なのでマーサに「支度ができるまで昼寝をしてなさい」なんて言われてる。夫の遺産を頼りにし、それが駄目になれば幽霊男を頼りにする。次は実在の男を頼りにし、裏切られてそのまま男を信じられずに一生を終える。
当時のレディというものはそういう存在だったのだろう。メイドに身の回りの世話をしてもらわねば何もできない。
そんな彼女の得た自由というのは人に気兼ねをしなくてすむよう一人で生きる(メイドは必要だが)ということだったのだ。
海に生きた荒くれ男の船長もまた生きている間は女性への思いやりができない男だったのだろう。孤独の中で死んでいったのだ。
生きてきた世界は全く違うがどこか似通った船長とルーシーは霊になってやっと結ばれるのだ。
今の感覚で見ればどこか歪んだ世界にいる二人なのだがだからこそこの映画のラストの二人に静かな悲しさとそれ以上の幸せを感じてしまうのかもしれない。

この映画で私が一番反応したのはダニエル船長がルーシーに向かってキーツの詩を口ずさむ場面だったりする。むろんベン・ウィショーが『ブライトスター』で演じるのが詩人キーツだからである。
海の荒くれ男で言葉も乱暴なダニエル船長が美しいキーツの詩を暗唱できるほど知っている、というのが驚きだという演出なのだろうから。キーツのいうのはそういう存在なんだなあ、などと感心し喜んでいる無学
の自分であるわけで。
ナイチンゲールという題の「海の最果てで魔法の窓が開きその先には美しい世界が」という一節だった。
(調べてみたら『ナイチンゲールに捧げるオード』という詩で「またその声は時に魔法の扉を開かせ 危険な海の泡を見せた 寂寥とした妖精の土地に」というのかもしれない。かなり違う感じ)

監督:ジョセフ・L.マンキーウィッツ 出演:ジーン・ティアニー レックス・ハリソン ジョージ・サンダース ナタリー・ウッド
1947年アメリカ
posted by フェイユイ at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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