映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年09月15日

『モーヴァン』リン・ラムジー

morvern-callar-poster-crop.jpgMorvern_Callar_13574m.jpgmorvern43_31.jpgkathleen_mcdermott2.jpg
MORVERN CALLAR

いやもうほんとに毎日色んなタイプの映画が観れて幸せといったらないですね。
昨日観た『日蔭のふたり』は「物凄い不幸」のようでそれほど不幸じゃないんじゃないか、と書いたのだが今日の奴は不幸のようで物凄く幸運でしかも不幸なのだ。
これはやはり「昔の話」として離れて観てしまうのと現在を表現したものを観る、ということでも違ってくるだろうし、悲しみをはっきりと示していた『日蔭のふたり』に対して本作の主人公モーヴァンの表情のなさはどうだろう。彼女が幸せな気分でいるのか不幸なのか、じっと観ていてもあまりよく判らないし、もしかしたら彼女自身もよく判ってないのかもしれない。それこそが現代的な不幸なのかもしれないのだ。

しつこく比較していくととりあえず「ふたり」で「日蔭」していられた昨日の作品とは違いモーヴァンは一人っきりである。唐突に冒頭で愛する人を失ってしまう。しかも彼の死因は自殺。その上、意味はない、ときてる。
スーパーの店員で友達も少なく無口なモーヴァンにとって彼の存在は大切なものなのではなかったか。彼の死体に寄り添いその体をそっと撫でる彼女がその後に起こした行動は異常なものに違いない。何故彼女は彼の死を隠してしまったんだろうか。
彼はモーヴァンに銀行の預金を葬式代として託し、また自分の書いた小説を発表して欲しいと頼み、その小説は出版社で破格の金額で契約された。単なるスーパーの店員である彼女には望んでも手に入れることはできない大金が転がり込む。
とても喜ぶ表情を見せるがすぐにその笑顔は硬くなり本当に何を思っているのか判らなくなる。
確かに・・・映画では観客に判りやすいよう人物が感情をすぐ口に出したり泣いたりして見せるが実際は何を考えているか判らないものなのではないだろうか。モーヴァンのように気持ちを出さないタイプの人間は決して少ないわけではないだろう。

しかしなんて陰鬱な作品なんだろう。これに比べれば『日蔭のふたり』は随分明るい作品だった(なんだか物凄く叩きのめされる『日蔭のふたり』・・・)たった一人の親友として出てくるラナも彼女の理解者として描かれているわけでもなくモーヴァンは世界にたった一人きりで生きているような孤独感がある。そして彼女はこれからも誰からも理解されることなく生きていかねばならないんだろう。その重さを彼女は抱えて歩きだしていく。

男が死んで女友達と旅に出る、ということでイギリス版『テルマ&ルイーズ』のような展開かと思っていたらまったく違った。さすがイギリス。この出口のない暗闇はたまらんものがあります。モーヴァンという人物造型の根暗さも救われないものでありながら(というかあるからこそ)酷く惹きつけられてしまう。
母親を亡くした男のエピソードは一体何?死んでしまった彼のことかと思った。

ところで上に貼っているオレンジ色の写真のやつ。私はこれをずっとオレンジ色のチューリップに見えていてそう思いこんでたんだけど、今気づいたらサマンサの顔だったのね。なんでそう見えてたんだろ?

監督:リン・ラムジー 出演:サマンサ・モートン キャスリン・マクダーモット レイフ・パトリッ ク・バーチェル ダン・ケイダン キャロリン・コールダー デス・ハミルトン
2002年イギリス


ラベル:人生
posted by フェイユイ at 22:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『日蔭のふたり』マイケル・ウィンターボトム

r081260559L.jpg
JUDE

まずタイトルが陰惨で素晴らしい。いつもは邦題に疑問を持つのだが今回は『ジュード』だけよりも邦題のほうが心してかかれるからよいのではないだろうか。
しかし映画というのは観るタイミングというのがあるもので何しろ昨日観た映画がこれ以上底がないほど陰惨だったので本作は不幸とは言え個人的な問題でどうにでも回避できる範疇の運命であるわけでさすがにほっと助かるような気持ちであった(と言う感想をこの映画を観て言う人はほぼ皆無だろうが『アララトの聖母』を観たあとだったら誰でもそう思うだろう)大虐殺などという逃れようのない事件(テロだとか爆弾投下だとか)でも襲ってこない限り、人間はどうにでも生きていけるのだとこの映画を観てさらに感じたのであった。
などと書いてるとまるでなんだかよく判らなくなってしまうので一応言っとくと別のこの映画はそういう励ましの映画ではない、どころか正反対にいくら頑張っても人生をうまくやっていけない、という重く暗い映画なのである。だがどんなに辛くともテロや爆撃や暴徒が襲ってくるんでなければ人間は生きられるんだよ、少しだけ要領がよければね。自然災害は、難しいが(あ、また全然違う話)

そんなもっと悲惨な問題を持ってきてしまうとこの話の面白さがなくなってしまうので本作のみに話を絞ろう。
この話って一体何だろう。原作はトマス・ハーディの『日蔭者ジュード』という物語。ほぼ忠実らしいがラストは全く違っているようで映画ではジュードが高らかに「世界の終わりが来ても俺たちは夫婦だ」と叫ぶ力強いものになってるが原作では落ち込んだスーの言うとおりそれぞれの結婚相手の元に戻るのだがジュードは病気になって寝込み妻アラベラから罵られながら死んでいく、というもっと悲惨なものになっていて、こちらのほうがより不幸でよさそうだが、映画ではあくまでも「日蔭者」であって欲しいという配慮からよりを戻さなかったのであろうか。映画のアラベラはそんなに悪い女でもなさそうに見える。スーの夫なんていい人としか言えない。他にそう二人に対して理不尽な仕打ちをする人もあまりいない。二人は自分たちで不幸を招いていっているんだから仕方ないんである。
子供の死もまた二人のせいである。他者からの暴力ではなく自分たちで引き寄せた不幸。どうにでもできた運命だったのだが。
とても自尊心の高い二人なのだ。自分たちは他人とは違う高い理想を持っていると自負している。それが悪いわけではないが生きる為にはもっと狡猾になるべきなのだろうが二人はそれをよしとしなかった。中国映画で『芙蓉鎮』というのがあってその中で蔑まれることに挫けそうなヒロインに男が「豚のように生きろ」と言うのがあったけどこの二人にはそういう道は選びたくなかったのだ。
そういえば最初に豚をさばくシーンがあったっけ。生きようともがいた豚は結局縛りつけられ切り裂かれてしまうのだ。この二人は豚のように生きられず豚のように縛られ切り裂かれてしまった、とうことなのかもしれない。
こういう映画はなんの為に作られるんだろう。嫌な映画だと嫌われることもあるがそれでもこういうネガティブな作品がなくなってしまうことはない。色々人生を示唆し考えさせられる為にだろうか。あそこでああしなければよかったのに、と思わせたいが為なのか。それならばジュードはどこで間違ったのか。アラベラと結婚したこと、それともそういう才能もないのに勉学の道を選んだこと自体が間違いだったのか。それならもう生きていること自体が間違いみたいなもんだ。
別に彼らは何も間違ってはいない。自分たちが望んだ行動をし、解決をした。自分たちの力ではどうにもならない災害や人災で運命が狂ったわけではない。結果が華々しいものでなかっただけで自分たちの思った通り生きたのだから充実した人生だと言えるはずで何も文句はないだろう。それ以上を求めるのは欲が深すぎる。

書いてる途中であーこの二人はあの豚だったんだなと気づいておかしくなった。または罠にはまったウサギなのだ。
自尊心が高い人間ということも生きにくいことなのだ。あそこでクライストミンスターに戻らなければよかったのかもしれないしね。でも自分の人格をすべて捨てるわけにもいかないだろう。そうしたかったのなら、それですべてを失ってしまったのならそれはもう仕方ないことなんだ。

監督:マイケル・ウィンターボトム 出演:ケイト・ウィンスレット クリストファー・エクルストン リーアム・カニンガム レイチェル・グリフィス ジャン・ホワイトフィールド
1996年イギリス
posted by フェイユイ at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。