映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年11月14日

『ニジンスキー』ハーバート・ロス

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Nijinsky

昔からバレエというものに憧れの目を向けてきてそのくせあまり知識もない私である。
ニジンスキーという名前は多分山岸凉子『アラベスク』で知っただろうか。この映画を観た時は写真でしか見ることのできないニジンスキーの素晴らしさを少しでも知ることができたような感動があった。
彼と彼の保護者で才能の理解者であったディアギレフとの関係や伝説として聞くことしかできない彼の並はずれたバレエを観ることができたような気がした。無論本当のニジンスキーの跳躍を再現することは不可能だろうし、物語の真実というのは判るはずもないが、そう言ったことを抜きにしてとても優れた作品だと思う。
当時は監督がアメリカ人だというのが奇妙に思えたのだが、ロス監督自信ダンサーで振付家で他にも多くのダンス映画を作っているのだから至極頷けることである。
とはいえ当時、アメリカ人映画監督の作品でここまで主人公とその庇護者が同性愛関係にあることをはっきりと描いているのはまだ珍しかったのではないだろうか。そこら辺は昔の外国人だからというエクスキューズがつくのだろう。

ディアギレフを演じたのはアラン・ベイツで、無論私が知るわけもないがまさにディアギレフという人はこういう人だったのではないかなあ、と思わせてくれる。多分実物よりハンサムになっているのではないかとも思えるし、はっきり言って嫌な感じの男なのだが、ハンサムさでほっさせてくれるかも。
驚きだったのはニジンスキーである。一体彼を演じきれる人がいるんだろうか、イメージ的にかけ離れていては嫌だと思ったものだが、昔観た時も今もとても可愛らしくて魅力的なダンサーを選んでくれたものだと感心してしまう。
確かに写真で見ることのできるあの超人的な太腿の太さではないし、全体的にほっそりとしている男性ではあるが、小柄でまっすぐな黒髪であまり彫りの深すぎないやや東洋人ぽいワスラフを感じさせてくれる(私としてはニジンスキー本人の体つきが凄く好きなのだが)次第に心が離れていくディアギレフを一途に思う表情が痛々しい。昔観た時はそうまで思わなかったのに捨てられて狂気の世界に入っていく彼が酷く悲しかった。彼の場合、捨てられなくてもいつかはそうなる運命だったのかもしれないが。
ニジンスキーの伝説の跳躍を観ることは叶わないが幾つかの写真で彼の放つオーラを感じとることはできる。
全体にずんぐりとした体つきで顔も繊細な面立ちでもないのだが(都会的というより確かにロシアの大地を耕す農民なのであろう)酷く愛くるしい笑顔に惹かれてしまう。本当に純粋な薔薇の精のような存在だったのではないかと思ってしまうのである。
映画でのジョルジュ・デ・ラ・ペーニャはそんなニジンスキーを魅惑的に再現してくれているのではないだろうか。
ディアギレフとの場面でもそうだがやはり舞台に立つニジンスキーの演じるものに憑依されたかのような踊り。
薔薇の精の愛らしさ、牧神のあの眼差しはエロチックでゾクゾクしてくる。舞台では観ることはできない映画ならではの視線で彼の魔性を映しだしていく場面は恐ろしいほどの緊張感がある。
ニジンスキーがのめりこみ過ぎて狂気を垣間見せる『春の祭典』の震える踊りの凄まじさ。
逆に愛らしいテニスをバレエにした『遊戯』にも見惚れてしまう。
そして『ペトリューシュカ』の踊りはまるで彼自身とディアギレフを表現しているようでおどけた悲しさが込められているではないか。

他で知った彼らの物語とは違う部分も多々あるが、ニジンスキーの素晴らしさを想像させてくれる素晴らしい映画だと思う。

惜しむらくは今この映画を観る方法が殆どないのではないかということだ。
有名な映画監督作品であるし、題材も有名なのにどうしてDVD化されないのだろうか。
変な映画は溢れているのに優れた映画が埋もれ過ぎている。
(と嘆くことの何と多いことか。いい映画をどんどん観れる時代はいつ来るんだろうか)

監督:ハーバート・ロス 出演:アラン・ベイツ ジョルジュ・デ・ラ・ペーニャ  ジェレミー・アイアンズ 
1979年イギリス


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『美しすぎる母』トム・ケイリン

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Savage Grace

すっごく見せたがらない作品、というのか説明をしようとしかけてこちらが身を乗り出すと止めてしまう、というのを繰り返されていくので消化不良のまま進まざるを得ないのだが、物語が非常に刺激的で映像的にも美味しいものを目の前に出されるので最後まで食いついて観てしまうのだが、結局なにを食べさせられたのか、よく判らないのである。

つまり何を食したのか判らない者、この味が理解できない者は仕方ない、という作者の思惑なのであろう。
それはそれで気になる料理法であってもう一度食べてみたい気にもなるのだから個性的な調理人として評価すればいいのではないだろうか。
私の好みとしてはもう少しメインディッシュに食らいつきたい不満があるが。
とはいえ、こういう出し惜しみにヒントが見え隠れし、謎解きをさせてくれる映画というのは決して嫌いではない。

さてこの作品は最初から息子の母親殺し、というのが題材であると言われているようなので最後の場面があっと驚く落ちなのではなく、どうしてそのような結末になったのかということを観客は始めから考えながら観るのであろう(と言っても私は実はこういう話だと知らずに観てしまったのだが)
つまりこれは「息子の母親殺し」というより母親によってそうなるようになってしまった息子の話ということなのである。無論父親も関係はするが。
ここで思い出したのは山岸凉子の『スピンクス』というマンガである。と言っても内容は全く違うのだが、この主人公の少年は何もすることができないように部屋の中で女のスフィンクスに見張られている。ところが一人の男性が少年を心から心配しスープを飲ませることによって彼をスフィンクスの呪縛から解き放つことができる、という精神医療の物語なのだ。
本作の主人公トニーは一見自由のようでいて母親から離れてしまうことができないでいる。中で「彼女の面倒を見る、という遺産を受け継いだ」という台詞があるように母親に付き添うことが彼の仕事になっている。それは普通の少年なら面倒くさがってしなような母親に対する朝食の世話や怪我の手当てなどを優しくしてあげることに見てとれる。無論それは少年の優しさ、親孝行と言ってよいのだが、少年が親に持つべき反抗期という部分が欠落しているように思える。それは少年の成長過程で必要なことなのだが。

父親が不在になってしまうことで少年と母親の関係はさらに強いものになっていっただろう。
母親はある程度確信犯だろうが子供である少年にそれは間違ったことで子供は成長すれば親元から飛びださねばならないのだと気づくことができないのは仕方のないことかもしれない。彼にとっては母親の面倒を見てあげる、というのは課せられたことだったのだから。
母親と息子の関係と言えばルイ・マル監督の『好奇心』があるがいかにもフランス的な明るい個人主義に徹したあの映画の関係と違い本作の二人は一見自由そうで実はがんじがらめに緊縛された関係の息苦しさから逃れられることができない。
母親を殺した後、ほっとして空腹を感じてしまうほど彼にとって母親の存在は早く済ませてしまいたい気になる仕事だったのだ。
だが、それでも愛する母親を殺した、ということが彼の精神を歪ませてしまう。というよりもっと前から少しずつ狂い始めていたのだ。母親と交わった時から、母親のセックスの相手と自分も関係した時から、さかのぼっていくと彼の歪み方が次第に酷くなっていったのがわかる。
母と父親ではない別の男が寝ているのを見て彼が「母の為に自分は変わろう」と言って自分も傍に横たわる。それが異常なことであることは確かなのに彼は母親の為にそうするべきだと思ってしまった。母親の為にそう思わなければならなかったのだ。

少し前に観た『ヘンリー ある連続殺人鬼の記録』でも主人公が母親から異常な虐待(母親の性行為を強制的に見せられるなど)を受け続けたことが語られていた。本作の場合は富裕層であることですべてが優雅で母親の容姿も美しく上品に思えるが行為自体は同じなのだ。
また母親の言動は悲しいかな、やはり上流階級の奔放さとは違いやはり貧しい出自の浅ましさが露見している。彼女は上流階級に憧れただけでその中で自由に振舞えるような女性ではなかったのだ。

富裕さだけが目的で結婚した彼女の精神が歪み亀裂がはいっていく結末を息子によって終止符を打たせるなんて惨いことだ。そして彼自身も親殺しという最大の罪を自殺と言う罰で購わなければいけなかったのだ。

息子トニーを演じたエディ・レッドメインがこれ以上望めないほど滅茶苦茶に可愛い。白い肌にそばかすというのが母親役のジュリアン・ムーアとそっくりである。酷く細身でかりっとした硬そうな顔立ちが魅力的である。母親と肉体関係を持ち、最後には殺害して狂っていくという異常な行動も彼が演じていると儚げで愛おしく思えてしまうのは困ったものだ。
また何度となく出てくる同性愛の場面も自然で美しい。ここら辺の場面だけ切り取って保存しておきたい。
私としては母親なんぞ置き去りにしてジェイクと駆け落ちでもして欲しかったのだが、そうなると生活ができない人間なのだからどうしようもないか。やはり人間額に汗して働くのが一番貴いことなのだという教訓も感じてしまう作品であるな。

監督:トム・ケイリン 出演:ジュリアン・ムーア スティーヴン・ディレイン エディ・レッドメイン エレナ・アナヤ ウナクス・ウガルデ ヒュー・ダンシー
2007年 / スペイン/フランス/アメリカ
ラベル:家族 殺人 同性愛
posted by フェイユイ at 00:11| Comment(3) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月13日

必要もないのに脱ぐベン

はーやさんから、これもまた垂涎のベン画像いただきました。いつもありがとうございます!!
以下、メールからのコピペ。

「あまり鮮明ではないのですが、
数日前に買った『Wonderland』という雑誌からの写真をお送りします。
BRITISH TALENT SPECIALというタイトルがついてる号で
ベンもそのひとりとして紹介されてます。
記事の写真はトロント映画祭での滞在中に撮影されたものらしいです。
黒いペイントを両頬にべたべた塗りつけてるのはテンペスト・アリエルを
モチーフにしてるんでしょうか?基本的にファションブランドがからんだ
フォトシュートらしいのですがが、必要もないのに、また脱いでるベンです☆」

とのこと。ではどうぞ〜。


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一番最後の覗きこむように何かを見ている横顔が小さな男の子のようで
たまんないんですけど。。
ベッドに横たわっているのもエロチックでよいです。

いつもですが、はーやさんから送っていただかなかったら目にすることはできなかったであろう貴重な写真の数々!本当にありがとうございます!!
posted by フェイユイ at 09:38| Comment(4) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月12日

『それぞれの空に』ニール・バーガー

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THE LUCKY ONES

これはちょいとなかなかいい作品だった。ティム・ロビンス作品を観続けてさすがに後になってくると彼の元々の持ち味だったコメディ性が薄くなってくるか、主役でなくなってくるか、と思っていたのだが、本作は驚くような物語ではないとしても人生や戦争や運命などに色々な含みがあることを感じさせるよく考えられた佳作ではないだろうか。

ベトナム戦争後に過酷なシェルショックに苦しみ周囲の人々からは冷ややかな態度を取られるという兵士の映画が数多く作られた。その訴え方は劇的なものであったがこのイラク戦争中の退役軍人及び休暇中の若者二人の語り口はやや軽めなものになっている。
とは言え、彼らがやはり仲間と死に別れ、次は自分かもしれない、という恐怖や離れていたことからくる周囲とのすれ違い、そして批判を受けるのは同じことなのだが、この軽さはやはり時代のせい、ということなのだろうか。

物語は偶然帰国が重なった中年退役軍人と休暇中の若者男女がアメリカ国内線飛行機の不具合でレンタルカーを相乗りする羽目になったことから始まる。

イラク戦争従軍中に腰に怪我をして退役することになったチーバーを演じるティムの役は相変わらずでおかしい。
愛妻家である彼が2年ぶりに帰国すると妻の生活がすっかり変わっていて恋人はいないが一人で生きていたいと通告されてしまう。あなたはもう必要ないと。しかも一人息子がスタンフォード大学に合格したという嬉しい知らせが彼に2万ドルの入学金の用意しなければならない。
さらに彼が勤めていた会社は倒産。八方ふさがりの状態に泣き出してしまうありさま。

そんな彼に同情する二人にも運命は甘くはなく、TKは怪我の為に不能になったのが治ったのはいいものの結局婚約者とは別れ、突然軍に戻ることが嫌になり、強盗だったという虚偽の自首をするがすぐにばれてしまう。それまで自意識が高かったかれが「自分は何も知らないのだ」という認識をすることになる。
コーリーは戦死した恋人の両親の家を訪れ彼らと住むことを願っている。彼の両親とは会ったこともないという彼女の願望が叶うわけはないと考えるチーバーとTKは心配する。
嫌な人たちだったらと懸念された両親は非常にいい人たちで、しかし実はコーリーの恋人ランディには一度関係した女性と二人の間にできた赤ん坊がいたのだ。両親は息子の行動に責任を感じ彼女を引き取って暮らしていた。コーリーの居場所はなかったのだ。

チーバーは息子の入学金を軍に再入隊することでもらえる金で支払うことにした。
3人は再び別々の場所へ従軍することになる、という幕である。彼らの命がどうなるのかは誰も判らない。

という軽さが却って恐ろしい物語でもある。
彼らが帰国して味わう様々の体験は苦いものが多いがこうして慰め合える仲間に出会えたということだけは救いである。彼らが国の為に戦ってきた、と言っても彼らを迎える態度は冷ややかな批判的なものばかりである。彼らを受け入れてくれたのは戦場だけであった。

ティムが久しぶりに彼の持ち味を生かしてしかもチャーミングに演じていたのが嬉しかった。妻に愛想を尽かされた後、別の女性に好かれると言うのも彼らしいが、何故か浮気現場を押さえた亭主からも襲われそうになるという落ちがついてて、これもティムらしい展開。何故かいつも男に襲われる男なのである。
主演3人が3人ともあまり冴えないキャラクターであるのも共感しやすいし、運命の皮肉さにも同情してしまう。
何のために彼らは戦っているのだろう。

TKという青年が酷く自分に対し自信を持っていたのに自分の無力さを思い知ってしまうのは痛烈だった。
普通こういう映画って意味もなく3人が(もしくは2人が)肉体関係を持ち場面が出てくるものだけど、そういうわざとらしいものがないのもほっとさせてくれる作品だった。

ティムが可愛かったのが一番よかったかなあ。

監督:ニール・バーガー 出演:ティム・ロビンス レイチェル・マクアダムズ マイケル・ペーニャ モリー・ヘイガン ハワード・プラット
2008年アメリカ
posted by フェイユイ at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ティム・ロビンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今更なのだが『ウホッ!!いい男たち』に夢中

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今頃この漫画に夢中になっているというのは恥ずかしいことなのかどうか。と言っても決してこの漫画自体が恥ずかしいわけではなく、そういうものに物凄く興味があるのに今までその存在を全く知らず、ホントはちょっとタイトルだけ見ていたにも関わらず反応してなかったことに対して恥じているのだが。

というわけでかなり前にネット上で盛り上がったという山川純一の名作『ウホッ!!いい男たち~ヤマジュン・パーフェクト』なのである。

私もしっかり動画で興味を持ったクチなのだが、今ではマンガ本もしっかり購入し阿部さんと小早川大尉に毎晩見惚れているしょうもない奴なのだが。

告白すると実は流行りのBLだとかゲイマンガとかを全く読んだことがない。もしかしたら自分が物凄く好きな世界があるかもしれないと思いながらなんだかつまり縁がなかったわけなのだが、とうとう繋がりができてしまった、ということなのか。
好きなのはやはり最も有名な阿部さんが登場する『くそみそテクニック』(なんつータイトル^^;)大感動号泣ものの小早川大尉出演『地獄の使者たち』そして『男たちの夏』はあの『ブロークバックマウンテン』から影響を受けた?と思ったのだが小説自体がこの漫画より随分後で書かれて(あちらで)いるのだからそうではないのだが、ひと夏を山でやりまくるってのはやはり夢なのかしらん。『男の約束』もいいなあなどと読みふけってしまうのだ。
ヤマジュンさんがこの漫画を描かれていた当時は出版社の意向とそぐわず、つまり男らしくないとか女っぽいとかいうことだったらしいのだが、自分的には充分男らしく且つタイトル通りいい男たちで阿部さんを筆頭に凄く好みだったりする。相手役の道下くんも可愛いしね。

というわけで今没頭中の『ウホッ!!いい男たち』なのである。

更にこちらも『ウホッ!!いい男たち2 ヤマジュン・未発表作品集』
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えと、動画は恥ずかしいんでここへ行ってください。
くそみそテクニック フルボイス

あと山川純一さん関係
ラベル:マンガ 同性愛
posted by フェイユイ at 00:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月11日

『DEAN/ディーン』マーク・ライデル

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JAMES DEAN

実在の人物を演じる中でも有名な映画俳優を演じるというのははっきりとその姿が記録されているだけにやりにくいだろうし、特にジェームズ・ディーンは個性的でもあり熱烈なファンも多いのだから大変なことだろうなと思いながら観始めた。
なるほど確かにやや真似し過ぎというのか演技過剰のような気がしなくもないが同じジェームズであるフランコもディーンと同じようなのめりこみ型の俳優じゃないかと思えるせいもあってちょっとぞくぞくするような作品であった。

本当のディーンもこのような感じだったんじゃないかと思わせるような笑い方である。人懐こくてなんだかかまってやりたい気にさせる。
物凄く感情的でドキリとする行動をするのだが、それが酷く印象的で頭から離れない。
この作品のフランコにはまるでディーンが入り込んでしまったのじゃないかと思わせてくれる。
それにしても本当に細くて可愛らしい若者なのである。

ジェームズ・ディーンの映画『エデンの東』と『ジャイアンツ』(それと端役のも)は少し前に観たのでまだ強烈な記憶が残っている。
『エデンの東』の物語は優れた原作とはかなり違ったものなのだが、そんなことはどうでもいいと思えるほど心を揺さぶられる作品となって生まれ変わっている。それは本作でも演じられたキャルが父親にすがりつくシーンなどに現れている。父親役の俳優が戸惑うほどこの場面はディーンが作ってしまったキャルなのだ。
私は映画は観ていたがディーン本人がこのように父親との深い確執があるとは知らなかった。
『エデンの東』は彼そのものだったのだ。あの悲しみが溢れるような演技は大げさなものではなかったのだ。
ディーンはピア・アンジェリを愛していたことからも絶対的なゲイなのではないのだろうが、映画人に多いゲイの男性相手にもあまり反感を持つこともなく甘えていたのを見ているとやはりそこに父親の愛情を見ていたのかなとも思わせる。映画のスタッフたちを家族だと言って泣き出す場面は彼の辛い少年期を見ているとぐっときてしまう。

ついついフランコが演じているのだということを忘れてディーンのことを思い出してしまう。
走る列車の上に座ったキャルが寒さのあまり自分を抱きしめるようにする場面は彼の心をそのままあらわしているようだった。誰もが彼の姿に自分を重ねてしまうに違いない。

ジェームズ・フランコは後ではかなり体を鍛え上げているが、ここではまだ華奢と言う言葉が合っている。細いズボンのウエストがだばだぼとして見えるほどに細く、首や胸もまだ少年ぽい。悲しそうな表情とはっとするほどの笑顔を持っていて絶えず観ていたい気持ちにさせられる。
ほんとにこの間、ディーンが舞い降りて着てたんだろうな。
短いTV映画だがディーンとフランコの両方を愛してしまう、そんな作品だった。

監督:マーク・ライデル 出演:ジェームズ・フランコ マイケル・モリアーティ ヴァレンティナ・チェルヴィ エンリコ・コラントーニ エドワード・ハーマン
2001年アメリカ
posted by フェイユイ at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月10日

今夜も魅せます。ベン・ウィショー画像

ふぇでり子さんからベン・ウィショー画像いただきました。今夜はもう眠れない?もしくはベンの夢をみましょうか。

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なお
「髭なしのドレスアップした画像はmail onlineのHamlet keith Richards poet john keats ... ben wishaw on why
it's tough to take the leadという記事にありました。」
だそうです。
→Hamlet, Keith Richards, now poet John Keats... Ben Whishaw on why it's tough to take the lead

Read more: http://www.dailymail.co.uk/home/moslive/article-1222770/Hamlet-Keith-Richards-poet-John-Keats--Ben-Whishaw-tough-lead.html#ixzz0WT80fdAV


posted by フェイユイ at 23:59| Comment(4) | TrackBack(0) | ベン・ウィショー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『ピーターラビットとなかまたち こねこのトムとこぶたのピグリン編』ダイアン・ジャクソン

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The World of Peter Rabbit and Friends

少し前にレネー・ゼルウィガーが演じたビアトリクス・ポターの映画を観て思った以上のいい作品で可愛いアニメも共に非常に楽しめた。
それは私もピーターが好きだからなのだろう。ビアトリクスはまさに絵本書きの理想のような生活を送った方のように思えてしまう。(勿論私は絵本書きではないが。もしそうだったらやはり憧れてしまうと思う)

ピーター・ラビットのアニメはTVで放送されていたのをぼちぼちと観る機会が何度かあったのだがどうしてもピーターとベンジャミンの話を観ることが多く、確かにあれは物凄く可愛いし、何と言ってもピーターが主人公なのだから文句はないが一度きりしか見ていないこぶたの話をもう一度観たくてこのDiscを借りてみた。

『ピーターラビットと仲間たち』のDisc2に収録されていて他2話を観ることができた。
またTVで観たのとは違いそれぞれの話の前後にビアトリクス・ポターが緑あふれる風景をスケッチ中に雨が降り出し慌てて家に戻り、留守番をしていたぴーたーと一緒にお茶を飲みながら子供たちに出す手紙の内容を考えるという実写が付いている。なかなか楽しい導入と終わり方である。

まず
「こねこのトムとあひるのジマイマのおはなし」
この物語は何度もTVで観ているが物凄くブラックな怖い話である。
仔猫のトムたち兄妹がいたずらでお母さん猫を困らせる話と着ていた服をアヒルにあげてしまう話は他愛もないのだが、家畜であるあひるのジマイマが自分で産んだ卵を自分で温めて孵したいと思う話が恐怖なのだ。
アヒルは卵を孵すのが下手らしくて鶏が卵を孵すのを自慢げにしているのが気にくわないジマイマは自分でやると決心する。だが飼われている農場の中では自分の思うようには何もできない。
ジマイマは農場の外で一人だけで卵を産み温めようと場所を探す。そこへ現れたのが紳士面した狐で、彼はジマイマとその卵を食べてしまおうと甘い言葉で彼女を騙し自分の家を提供すると言いだしたのだ。
お人よしのジマイマは何も気づかずそこに9個の卵を産み落とす。その途端狐は豹変しジマイマを襲おうとするのだが、勘の鋭い農場の番犬がジマイマを救う。
だが番犬が補佐を頼んだ猟犬たちがうっかりジマイマの産んだ卵を食べてしまうのだ。
ううう。
番犬さんが「これが自然の掟なんだよ」と慰めるのだがなんとも生々しい話で、自分の子供を助けに来てくれた人達が何と自分の子供を食べてしまうというのは狐に食べられるより気持ち悪く感じられるのだが。
ポターの話はこんな風で半端じゃない恐ろしい部分を描いているのである。やらなくてもいいのだが、どうしてもこの辺人間に当てはめて考えてしまいそうな気がする。
「あなたのように親切な紳士はしません」と感謝した相手がこんな恐ろしい計略を持っていて、なんとか逃げだせたかと思えば現実はもっと厳しい、という、苦い話である。
結局ジマイマは農場内で卵を自分で孵すのだが4羽しか孵りませんでした、というまたしてもきつい現実があるのだった。

「ひげのサムエルのおはなし」
またも悪戯仔猫たちの話。一時もじっとしておらず全く言うことを聞かない子供たちにへとへとになる母親だが、そのうちの男の仔猫がとんでもない悪戯心で煙突の中に入り込み、自分よりでかいネズミの夫婦に捕まってプディングにされそうになる、というこれまた怖い話。
仔猫より大きいネズミって考えたくもないのだが、いるんだろうなあ。これもまた擬人化でお母さんの言うことを聞かないとこんな怖い目にあいますよ、というよくある童話なのだが、物凄く太ったネズミと痩せたおかみさんネズミにグルグル巻きにされてプディングにされてしまう、というちょっとユーモラスな光景が怖いやらおかしいやらでやっぱりうまい。
お母さんというのはどこでもがみがみうるさくてでもすぐ子供を心配してメソメソしてしまう。子供たちも言うこと聞かないくせに危なくなるとお母さんに助けを求める。そんなもんですね。

「こぶたのピグリン・ブランドのおはなし」
さてさてお目当てのこぶたの話。
うーん、豚たちがあまりにお馬鹿で心痛い。この話が一番印象的だったのはやはり物凄く怖かったからで、なんだかピーターラビットの話ってみんな怖いんだねえ。この物語は特にもう物凄く怖かった。
農場にいるお母さん豚が子豚達を世話しているんだけどある日、もう面倒みきれないと言って子供たちを他の農場や市場にいかせるの。これってどういう運命なの。だって豚の運命ってもう決まっているよね。ある程度大きくなってよそに行くっていうのはさ。
泣きながら荷車に乗っている子豚たちが憐れな(いや私だってちゃんと食べてますからね。別に偽善的になるつもりはない。ないが)
そして主人公ピグリン・ブランド(なんつー名前)とアレキサンダーは二人で市場へ行きなさいとお母さんに言われる。
ピグリンは結構賢い子なんだけどアレキサンダーは食いしん坊でそそっかしく落ち着きがないの。大王の名が泣くよ。
お母さんは二人にポターさんからもらったという通行許可証を渡すのだが、これがないと豚が勝手に出歩いて市場へ行くことは許されていないのである。
アレキサンダーは何も考えてないがピグリンは市場へ行くと皆にじろじろ見られるのが嫌だ、自分だけの家を持ってその庭にジャガイモを植えて暮らしたい、と願うのである(ここんとこスタインベックの『二十日鼠と人間』みたい)
彼らが市場へ行くってことはすぐではなくてもいつかは食料となるわけでそれが未来だとしながらそこへ向かって行く、というこれもまたブラックで人間たち、特に私らのような豚的人間たちにとっては恐ろしい表現ではないか。
だがピグリンたちはその未来の虚しさを知りながらもそこを目指すしかない運命を背負うしかない。彼らはそれを把握しながらも打破できないでいる。彼らには結局食べること、寝ることなどの目の前の問題が重要で流されてしまうのである。
しかしここでピグリンは自分よりもっと運命に翻弄されているような少女豚に出会うことで力強く生きること、逃げ出すことを決心する。
いまいち状況がよくつかめていない少女豚を励ましながらピグリンは人間の家を脱出する。
あの橋を越えれば自由になれる。
だがそこに辿り着く前に別の人間に出会ってしまった。彼は挙動不審な豚たちを尋問し調べるからそこで待ってろと脅して行く。
多分それまでのピグリン達はそう言われると動けなかったのかもしれない。
だが今のピグリンは勇気と知恵を絞り、人間が戻ってこれない距離を見計らって自由への橋へと走り去る。
少女豚と共にピグリンは願いだった自由をつかんだのだ。

ああ怖かった。
どの場面もなんだか怖いのだ。ピグリンたちの運命は食べられる為に生きている、ということだから。
市場へ行くことは一人前になって食されるという仕事につくことだ。
それを感じながらピグリンはそこへ向かっている。食べれば太るのだが、勧められるままに食べてしまう。
出会った少女豚は彼よりもっと楽天的で逃げなきゃと言いながらよく判っていない。
なんだかもう現実をここまで違う世界に変化させて表現できるってどういうんだろうと思いながらぞくぞくと恐怖を感じながら観てしまう。
人間たちは「よく太ってきたわい」とにたついている。
ピグリンが少女の手を取って自由への橋へ走りだした時はどんな映画よりどきどきしてしまった。
二人がジャガイモと花でいっぱいの一軒家に住めただろうと信じたい。
子供たちも市場へ行かなくていいのだと。

監督:ダイアン・ジャクソン
1992年イギリス
ラベル:アニメ
posted by フェイユイ at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月09日

『小間使の日記』ルイス・ブニュエル

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LE JOURNAL D’UNE FEMME DE CHAMBRE

一体何なんだよゥ。この映画は???
ブニュエルだから凄かろうと覚悟の上で観ているのに作品は自分のちっぽけな想像力など問題にはならないようだ。
しかしブニュエルだからというか、とにかくいつもフランス映画というもの自体が謎なのであり、その中でも更に凄い人なのだから判らないのが当然なのだろう。

昨日まで観てきたアメリカ・イギリス映画に出てくる貴族対使用人という関係図などなんの意味もなくなってしまうのである。
小間使いがジャンヌ・モローで何と言っても彼女を雇う金持ち連中なんぞより彼女自身が一番威厳があり自由放埓でしかも上品に美しい。権力を振りかざしている連中は皆変態じみている、という構図になっている。
彼女を見た男たちは皆欲望をみなぎらせてしまうのだが、セレスティーヌ(これもまた小間使いとは思えない響き)は主人だろうが荒くれ者だろうが全く臆することなく機転をきかせて彼らを手なずけてしまう。
本作はファシズム批判が土台となっている、ということで確かにその意味は汲めるのだが、とにかくエロチックなやり取りが破格に面白いのだ。
特にセレスティーヌが世話を頼まれる老人の靴フェチはゾワゾワとするものがあって、彼女にぴったりのサイズの(22.5センチって言ってた、小さい!)短ブーツをはかせ部屋の中を歩かせて興奮しまったかと思えば、脱がせたそのブーツを胸に抱いてセレスティーヌのことはもう忘れてしまったかのように隣室へとこもってしまう。靴フェチはあくまでも靴に興奮するのだよねえ。
精力絶倫で妻が困惑する主人も大変だが、恐ろしいのが屋敷の下男で彼は屋敷に出入りしている幼い少女クレールを強姦した後殺害してしまったようなのである。だが証拠が上がらず警察が手をこまねいているのを知ったセレスティーヌは屋敷の仕事を辞めてパリに帰ろうとしたのに再び戻って犯人探しを始めるのだ。
物語が後半からミステリーへと変貌してしまうのである(これもちょっと不思議なんだが)彼女は下男ジョウゼフに疑いを持つのだが、今まで彼女に唯一冷たく当たっていた彼が「君をずっと好きだった。結婚してくれ」と言いだすのである。
私としては今までの彼女への仕打ちと殺人犯と思える男が何を言う、と憤慨ものだったのだが、なんとセレスティーヌは自ら彼との肉体関係を結び結婚の約束もするのである。が、それはクレール殺害の証拠をつかむ為だった。
犯人を探す為に肉体関係を持ち、結婚の約束をするなんて。
理解を越えてる。
しかもベッドに入って「クレールを殺したと言いなさい」・・・絶句。

理解不能(泣)

変な映画が好きなのに。
ここまで理解し難い思考回路って。

セレスティーヌはまんまと彼の靴底の金属片を取り外し殺害現場へ落として警察に彼を逮捕させる。
そして彼女は奴との約束など無視で屋敷の隣の金持ち軍人のプロポーズを受けるのである…またしても理解し難い・・・。
だが、彼女の努力もむなしくジョウゼフは結局証拠不十分で釈放となったのであった。

もーどーでもいい。
とにかくジャンヌ・モローは美しく魅惑的であった。こんな小間使いいるだろうか。魅惑的な小間使いというと筒井康隆氏の七瀬を思い出すがセレスティーヌは超能力者でもないのにそれ以上に超えている。

強姦殺害されてしまう幼い少女クレールもフランス少女らしいおませな可愛らしさとエロティシズムを漂わせる。
ジョウゼフがクレールが森に入って行くのを見送って「狼に気をつけな」と言った後、野獣的な表情になる。
木陰から少女の開かされた脚だけがみえ、白い肌に血が流れて彼女が捕まえていたカタツムリがぬめぬめと這いまわっているのが僅か数秒もないショットなのに恐ろしく印象的であった。

監督:ルイス・ブニュエル  出演:ジャンヌ・モロー ミシェル・ピコリ ジョルジュ・ジェレ フランソワーズ・リュガーニュ ミシェル・ピッコリ
1963年フランス/イタリア
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2009年11月08日

『ゴスフォード・パーク』ロバート・アルトマン

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GOSFORD PARK

ロバート・アルトマンというと『M★A★S★H』はじめいかにもアメリカンな印象であるのに1930年代イギリス貴族の物語とはどんな仕上がりになるのだろうかとやや訝しんでもいたのだが、雨の降る冒頭場面から絶対面白くなりそうな予感をさせそれ以上に楽しめた映画であった。

内容はアルトマンお得意の群像劇ミステリーで大きな屋敷の中で上階段と呼ばれる貴族階級とそれぞれのお付きの者たち下階段の連中。屋敷の使用人たちに警部も登場する大所帯だが、複雑な設定展開を判り易く紹介説明していく手際の良さは見事なものだった。

ロンドン郊外の『ゴスフォードパーク』と呼ばれるマナーハウスに様々な客が集まって来た。お付きの者も加わり屋敷の中はごった返しの騒々しさである。中にはアメリカハリウッド映画関係者も登場するのは無論アメリカ観客に共感を持たせる為であり、また彼のハリウッドへの長距離電話の内容が物語の説明にもなっている。また彼の付き人であるハンサムな青年の行動も謎を含んでいて面白さに一味加えている。

この映画作品、映画製作に詳しい人、役者関係に詳しい人ほど面白いだろうし、その演出手法を細かに説明賛辞していけばきりがないほどのものだと思うのだが、私にはそのような知識才能はないので止めるが、素人ですら脚本や演出の卓越した技術・センスの凄さはそのまま作品の深い味わいになっていることが伝わってくる。
殺人事件のミステリーだけではなく登場人物それぞれの謎解きもまた面白いのだ。

出演俳優陣の名前も相当なもので、最初に登場する伯爵夫人マギー・スミスの傲慢ぶりだとか屋敷の主人マイケル・ガンボンの暴かれる悪党ぶりだとかもさることながら、使用人チームの凄さ、執事にアラン・ベイツ、家政主任ヘレン・ミレン、従者デレク・ジャコビ、メイド=エミリー・ワトソン、付き人の一人クライブ・オーウェン、ハリウッド関係者付き人ライアン・フィリップ。
なんだか貴族より使用人たちが凄いってのが凄い。
こういう恐ろしいほどの役者たちがアルトマンの優れた監督技でこれ以上望めないほどイギリス貴族情緒たっぷりの殺人ミステリーが生まれたのだった。
作品時間も長いがこの内容でこの時間はさしたる問題でもないし、もっと観ていたいような気持にさえなってしまう。
アルトマン監督が「あの『ブライズヘッドふたたび』のような世界」だと言っていたのがむろんこれは小説の意味なんだけど妙に嬉しくなってしまう馬鹿な私であった。(註:ベン・ウィショー出演『情愛と友情』の原作のこと、念の為)

美味しい映画を心ゆくまで堪能し、アルトマンがブラックなアメリカンジョークばかりの監督ではないと今頃になってではあるが知ることができてよかった。先に観た『バレエ・カンパニー』でも驚かされていたのだがねえ。

監督:ロバート・アルトマン 出演:マギー・スミス マイケル・ガンボン ケリー・マクドナルド クリスティン・スコット・トーマス エミリー・ワトソン ヘレン・ミレン ライアン・フィリップ ジェレミー・ノーザム ジェームズ・ウィルビー リチャード・E・グラント アラン・ベイツ デレク・ジャコビ アイリーン・アトキンズ スティーブン・フライ ボブ・バラバン カミーラ・ラザフォード クライブ・オーウェン
2001年アメリカ
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2009年11月07日

『アナポリス/青春の誓い』ジャスティン・リン

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ANNAPOLIS

ジェームズ・フランコ観賞で観るのなら思い切りじっくり観れるし、設定物語も特に気に障るような嫌な部分はないので楽しんで観れるのだが、ほんとアメリカ映画って最初にジャンルありきで型どおりに作っていくのだろうなあ、と思わされてしまう。
規格外の男が士官学校へ入って厳しく鍛えられ友情を深めるという軍隊ものお決まりの展開なのは判るが入学前に酒場でからかい半分で知り合った女性が士官学校の教官だったって、『トップガン』の設定とそのまんま同じというのはあんまりすぎる。しかも『トップガン』のケリー・マクギリスと違いこちらの彼女はしごかれたはずなのにも関わらず物凄く細身で小柄で痛々しいくらいなのでいまいちピンとこない。マクギリスの方は役的にはあんなにたくましくなくてもよかったのだが、本作の女性教官こそあのマッチョさが必要だったのにねえ。
彼女とのセクシー場面があるわけでもなく彼女自身があまりエロティックでもないし何故彼女が必要だったのか判らない。まあ、こういう映画には一人こういう女性の存在があるべきというアメリカ映画としての必然性だったわけであろう。

とにかくフランコ目当てとしてはちょっと出だしのちょいぐれた風のフランコから士官学校で次第に揉まれていっちょ前になっていく過程を楽しめばいいんだろう。
それにどうやら本作の目的は士官学校内で行われるボクシング大会にあるようだ。
元いた工場ではいっぱしのボクサー気取りだったフランコ=ジェイクが士官学校の教官であり無敵のボクサーであるマット・コール(かっこいい)と戦うまでの過程が見どころなのである。
しかし同室の黒人くんがでぶっちょすぎてダイエットしてんのに細身のジェイクはコールと同じヘビー級になろうとバターやお菓子をドカ食いするって言ったってほんとに85キロにもなったんかなあ、信じがたい。
アジア系のルーの存在も不思議で(一見どう見たって悪い人に見えないのに)最初はジェイクを目の敵にしてるみたいでボクシング試合ではジェイクを甘く見過ぎてノックアウト(そんなバカな)その後突然親友の間柄に。マゾか。一番変てこな役回りだったと思う。
親友だったでぶっちょ黒人のナンスとも最後は尻切れトンボだし、工場の友人との話も宙ぶらりんだし、当たり障りのないような映画なのだがどれもこれも中途半端なんだよねー。
それでもむかっ腹を立てるほどもなくそんな怒ってもしょうがないような感じでむふふんとフランコを眺めているのが一番正しい観賞なのかもしれない。
話が話なんでいまいちあの魅力的な笑顔の効果も薄れるようだが、今回は鍛えられた肉体をかなり頻繁に披露しているということなのだ。
キュートでございました。

本作の製作年2006年って彼は『トリスタンとイゾルデ』『フライボーイズ』もあるのだ。大変忙しい年だったのだね。どれも剣士・兵士という役。私的には『フライボーイズ』は大好きで秀作と言ってよい作品だ。『トリスタンとイゾルデ』も佳作と思うが本作はちと評価に困る。
役としても私は『フライボーイズ』の時が一番良かったなあ。

監督:ジャスティン・リン  出演: ジェームズ・フランコ タイリース・ギブソン ジョーダナ・ブリュースター ドニー・ウォルバーグ チー・マクブライド シャイ・マクブライド ヴィセラス・レオン・シャノン
2006年アメリカ
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2009年11月06日

『サンセット大通り」ビリー・ワイルダー

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SUNSET BOULEVARD

図らずも昨日に引き続き概念に取りつかれた女性の狂気であった。
すでに引退したかつての大女優がいつまでも自分はスターである、ありたいという執念から彼女を狂気に追い込んでいくと言う話だ。こういう物語は「女は辛い」とかすぐ言われそうだが、男も結局は同じことで役者に限らずどの仕事でも老いは必ず人を能力(美でも体力でも頭脳でも)を衰えさせていくものである。彼女の場合は幸運にも財力には恵まれていたのだし(私は途中まで本当は金ももう底をついているのでは、と思ってた。やはりハリウッド女優は破格なのか)こんな若い色男がのこのこ家へ入り込んできて短い間とはいえ(と言ってもかなりいたのだよね)彼を虜にできたうえ、都合が悪くなるとすっかりボケてしまえるのだから幸せだなあとしかいいようがない。
私が驚いたのはノーマの自殺未遂ですっかりギリスが動揺してしまい彼女の家にいついてしまう箇所でつまり彼女が助かったのも見届けたのだし、あそこで出て行けばいいのを止めたのは彼が元々そういう素質を持っていたんだ、ということだった。そういえばこれまでアメリカ映画(に限らないが)こういう男は決まってしょうもない脇役のはずで主人公の男が情にほだされたんだか金目当てだかその二つが入り混じっただかで金持ち中年女のヒモになってしまう話ってないのではないか。
仕立屋で「どうせ女に買ってもらうんだろう」などと屈辱的な言葉をかけられたり、本人がひた隠しにしている様子、好きになった女性の蔑視を見ても彼の立場は男性にとってこれ以上ないほどの悲惨な状況であるようだ。またノーマに忠実に仕える執事が実は彼女の最初の映画監督であり最初の夫であったと言う驚愕の落ちもあってその彼が彼女を悲しませないことが自分の仕事なのだと映画撮影が始まると信じ切っているノーマの為に嘘のカメラマンを用意して撮影の振りをしていく最後など、感動すべきなのかコメディなのか紙一重というかんじですらあった。いや、笑っていいのかもしれない。涙も流しながら。
ノーマを演じたグロリア・スワンソンの目をむいた演技も壮絶で、ぞっとさせながら泣かせながらのコメディであるのではないだろうか。

監督:ビリー・ワイルダー 出演:ウイリアム・ホールデン グロリア・スワンソン エリッヒ・フォン・シュトロハイム バスター・キートン ナンシー・オルソン ブレット・クラーク
1950年アメリカ
ラベル:サイコ
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『黒水仙』マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー

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BLACK NARCISSUS

少し前に尼僧に物凄く興味が湧いて(どういう趣味だと言われそうだが何と思われても別によい。というか元々尼僧に憧れはあるのだが)その中でこの作品を見つけたものの何も読まず観ればよかったんだが、レビューなんぞをちら見したらいいと言われてたり物凄く変な風に書かれてたりでつい躊躇してしまった。先日フランさんに高所恐怖症には怖いと言われ酷い高所恐怖症のくせに怖いもの見たさで観ることにしたという変な経緯である。

しかしこれは面白かった!

というか、本当にこの作品自体が面白いのかどうかよく判らない。ままあるのだが、勝手に想像を飛ばしてしまって面白く感じてしまうのかもしれない。
というのは、作品としては舌足らずで説明不足のような気もするし、芸術的、というには低俗でもありそれほど革新的だとか美しいとか言うには遠い気もする。
ただ、ヨーロッパ文明から遠く離れたヒマラヤの山奥のひっそりと佇むキリスト教修道院に身を置く修道女たち、という不思議な映像が勝手に頭の中で神秘的なイメージを膨らませてしまったようでもある。
問題の絶壁の頂上に何故かせり出して掲げられている鐘を鳴らす修道女、というイメージは強烈である。神につながるはずの鐘を鳴らす為にほんの少し身を傾ければ奈落へ落ちてしまうというその状況はまさに異境の修道院へ派遣された彼女たちの運命そのものなのである。
その地に長い間住みついているイギリス人男性ディーンは彼女らが到着もせぬうち物知り顔に言い放つ「ここへ来た修道士でも長い間は持たなかった。女ならもっと早く逃げ出すだろう」

優秀な尼僧クローダですら到着したその日からすでに忘れていた昔のこと。自分がまだ俗世間にいた若い頃の恋人のことを思い出してしまうのだ。
他の尼僧も同じようにかつての自分を思い出し、神に仕えることとの板挟みになって苦しむのである。
それは大自然の中で遠くが見えすぎることであるとか、始終吹いている風のせいであるとか、自分たちを取り囲む異世界の住民たちや華やかな衣装を着た王子などが彼女たち敬虔な尼僧を神の教えから引き放してしまうのだった。

神の国に近いのでは思えるような高い修道院にはいつも強い風が吹き込んでくる。
ヒマラヤの大自然の美しさは神の掟を守ることより生々しい人間としての生き方を思い出させてしまうのだろうか。厳しい修行に耐えていたはずの尼僧たちは何故この場所に耐えかねてしまうのだろう。
『黒水仙』とは尼僧たちが豪奢な王子を例えて言っていたことからして自惚れ(つまりギリシャ神話のナルキッソスからの連想として黒いナルキッソス(水仙)だと言ったのだね)だと言うのだが、とりわけクローダにも自分なら大丈夫だと言う自惚れがあったという皮肉もあるのだろうか。(日本語的にクローダっていうのがまた)
キリスト教をこの地にも浸透させることができるという自惚れも無残に潰されてしまった。

こういう物語には多いのだが、尼僧たちはあくまでも英語を教え、キリスト教を教えるのであって彼女たちが当地の言葉を覚え、当地の人々の信仰を勉強するということはあり得ないんだよね。それをやってしまうと布教にはならないだろうし。
着るものも格式も故郷にいる時の同じスタイルの彼女たち。物語の中に登場する人物も英語を話せる少年と城を守る奇妙な老婆と色仕掛けで迫る少女と身分違いの王子が現地の人間として描かれるが尼僧たちと心を通わせる話は全くないのである。
一方その地に住み着いているディーンは住民とも打ち解け信頼を得ている。クローダは自分が従うべき他の尼僧までもディーンを頼りにしていることに嫉妬すらしてしまう。

そして最もおかしくなってしまうのがシスター・ルース。尼僧たちは皆ディーンに惹かれてしまうのだが(それは単に異性としてというだけでなく頼りになる男性という価値感がここではイギリスより強く感じられるからではないだろうか)彼女の感情は彼と話す機会の多いシスター・クローダへの嫉妬として歪んでいく。
僧服を脱ぎ捨て化粧をしディーンの元へ走るが彼にはそういう願望は全くなく追い返されてしまう。クローダの背後を黒い鬼のような姿になって階段を上がる彼女の姿がぞっとするほど恐ろしい。この場面はどんなホラー映画より怖かった。
崖の鐘を鳴らすクローダをつき落そうとしたルースはもみ合ううちに逆に崖から落ちてしまう。最初に感じた神へ通じる鐘の場所が彼女を裁いたのだろうか。

実際にヒマラヤでロケをしたわけでもないらしい。山脈の風景ははっきりと判る絵であるし、チベットの僧侶たちだとかインドの王子だとかこの場所もどこなのか自分も判りはしないのでその奇妙さに首をかしげながらもエキゾチックな光景に見惚れてしまうしかない。
信仰心の無力さを描いたような不思議な作品でもある。それでもデボラー・カーの気品ある美しさは孤高の尼僧を演じるのに申し分ないものであるし、最後結局逃げ出してしまうもののこれを戒めにしてまた頑張るという彼女の健気さに打たれてしまう。訝しみながら観賞したもののちょっと奇妙な味わいもあるもののとても面白い作品だった。
ディーンと王子様に色目を使う現地の少女カンチをジーン・シモンズ(キッスじゃないよ)が演じている。

やはり尼僧姿はそそるのであった。あの厳格な白い衣服で身を包んだ姿に参らない男っているのかね。
ルースさんなんて尼僧の時は色っぽいのに普通の服で髪を出しちゃうとセクシーじゃなくなってしまう。

しかし黒田とか彩とか関知とかさぶとか日本語みたいな名前が多いな。

監督:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー 出演: デボラ・カー デイヴィッド・ファーラー ジーン・シモンズ サブー フローラ・ロブソン ジュディス・ファース
1946年イギリス

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2009年11月05日

今夜はベン・ウィショーの声を聞いて

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毎晩何か一つずつ見つけてしまう(笑)っていうかいつもこうだと嬉しいのですが。

Dulce Et Decorum Est by Wilfred Owen. Beethoven - Symphony No.7 - 2nd Movement (excerpt).
by Ben Whishaw


ふぎゃーん。なんていい声なんだろ(泣)
これでちゃんと言葉が判るあなたが羨ましいです。
もう絶対続き聞かずにはおけないよねー。
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2009年11月04日

『悪い種子(たね)』マービン・ルロイ

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The Bad Seed

この映画のタイトルを知ったのは昔、森茉莉の『甘い蜜の部屋』で娘に甘いパパが可愛いモイラを評して「『悪い種子』の子供のようには悪くないが・・・」みたいなことを言っていたのでどんな映画かとぼんやり思っていて特に探しもしなかったのだが何となく見つけて(って随分長い時間が経ち過ぎてるが)ようやく観ることになった次第。
舞台がかった演技はやはり元演劇だったようだが、この物語にちょうど合っているしその演出が面白くて食い入るように観てしまった。

ぼんやり思っただけだが、日本ではこういう「悪い子供」という設定の話はさほど目立たない気がするが西洋では「子供は天使のように清らかで可愛い」という考えと対立するようにしてこういう悪魔的な子供の物語が結構存在しているようである。
そして本作ではもうひとつ付随してそれがタイトルにもなってるがこういう悪魔的な人間になるのは遺伝(つまり種子)なのかそれとも環境なのか、という問題である。
自分としてはどちらか一つということではなくそれらやまた他の条件も重なっていくことで人格が形成されるんじゃないかとしか言えないが、本作でも遺伝(種子)によって恐ろしい子供が生まれた、という展開にしながら最後の最後の場面は教育が大事、と言っているようであるが。
とは言え、本作の見どころはそういう原因と結果をつきとめることではなく、ローダというまだ8歳の可愛くておませでお行儀もよい良家の少女が欲望が湧きだすままに行動していくことで起こっていく事件とそれにまつわる大人たちの言動が芝居がかって大げさでありながら実にリアルで目が離せなくなってしまうのである。
これは親になってから観ると恐怖はさらに倍増してしまう。特に母親はとても他人事としては観ていられない。
こんないい家庭のいい夫婦に何故こんな子供ができてしまったのか。両親があまりに善人過ぎて子供を厳しくしつけきれなかったのか、自分がいい人間だから娘に他人を憐れむ気持ちをあえて教えなくても判るはず、と考えてしまったのかもしれない。では自分はきちんと教えているのだろうか。
それにしてもローダの悪さにどこか惹かれていはいないか。息子を殺されたと酔っぱらって文句を言いに来る母親の方に悪意を持って観ているような気がするし、おどおどしっぱなしの母親に同情しながらもあまりのふがいなさに苛立ちもする。脅迫するリロイにも腹立たしさを感じてしまうし、ローダを嫌っているという女性教師にも好感を持てないのは何故なんだろう。

何となく『ヘレン・ケラー』の悪魔版、という気がした。ヘレンは元々目も耳も口もきけない、ということで甘やかされているがその姿を見たサリバン先生は「彼女は人間ではない」と考えて教育しついに彼女に光を与えることに成功する。
ここでのローダは逆に何でもできる優秀な子供だ。だがその心を矯正することはできなかった。無論ここにはサリバン先生は登場しないわけだが。

ローダの悪魔的な魅力に惹かれながらもそれは恐ろしいことで認めるわけにはいかない、と対立する感情に襲われる。
結果、あの結末で終わるしかないのだろう。神の御技でしか彼女を抑えることはできなかった、ということで物語を終わらせる。だが、その先の物語があるように思えてしまうのだ。

監督:マービン・ルロイ 出演:ナンシー・ケリー パティー・マコーマック ウィリアム・ホッパー ヘンリー・ジョーンズ アイリーン・ヘッカート
1956年アメリカ
ラベル:サイコ 家族
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ベン・ウィショー『Bright Star 』[DVD] !!

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今夜はこういうのを見つけました!!

amazon.co.uk Bright Star [DVD]

日本版出るの待つか?我慢できないか?
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2009年11月03日

『モナリザ・スマイル』マイク・ニューウェル

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MONA LISA SMILE

ちょいと気になって観たんだけど、それなりに面白いなあと思う部分と退屈な部分とが重なっていた。

こういうお堅い学校の話、というのは凄く好きだ。凄く自由だったり、荒れ果てていたりする学校にはさほどの魅力はないが、抑圧された学校ほど面白い題材であると思う。自分がそこにいたいかというのは別問題だがね。

非常に興味深い面白い作品だった。だが非常に残念でもあった。
最も勿体なかったと思うのは主人公のジュリア・ロバーツで生徒役や他の教師役はなかなか面白いキャスティングだったのに、何故主役に彼女を持ってきてしまったのか。今まで彼女の作品と言うのは殆ど観たこともなくマット・デイモン絡みで『オーシャン』そして昨日観た『ジキル&ハイド』がたまたま彼女主演だったが、軽いコメディか『ジキル&ハイド』の時のように個性の笑顔を殺してしまいできるだけみすぼらしい姿をしている時は却ってその美しさが引き立つように思えたし、サイコホラーというジャンルのせいもあったと思うのだが、本作のような雰囲気を持つ作品の主人公としてあの彼女独特の笑顔はどうなのだろうか。モナリザスマイルはほんの少し筆を入れただけでその魅力は失われてしまうと言うほどの微妙さを本髄とするものだったはずだが。
ま、そういう揚げ足取り的な言い方は別としても彼女だけが時代に合ってないのはまさか進歩的な女性という設定のせいではないだろうが(あ、また揚げ足)
好き嫌いだろうが私としては彼女が主人公でなかったらもう少しいい作品に思えたような気がする。

反対に女学生たちは楽しめる人揃いであった。ビッチ的魅力溢れるマギー・ギレンホールは最初観た時は変な顔の人だなあと思っていたんだが観れば見るほどよく見えてくるから不思議。今風なアメリカ女性という感じがいつの時代設定でもよさそう。
物凄い憎まれ役のベティ=キルスティン・ダンストがマギー演じるジゼルに暴言を吐く場面で彼女の暴言が実は寂しさから出ているものだと察知するのが大人びてかっこいい。実生活ではなんだか複雑な関係だった二人のようだがここではグリニッジ・ビレッジで同居する関係に。この映画の中の結果としては一番彼女らが気になる。
ジュリア・スタイルズも何かと観ることが多い女優だったりするのだが、彼女の顔も一般的美人というんでもないと思うんだけど、どこか気になるタイプで今はやっぱりこういうちょいファニーな感じの方がいいような。ロバーツ=キャサリンのある意味ごり押し的な態度にきっちり自己主張をする役が合っていた。

1950年代、アメリカ東海岸の保守的な女学校を舞台に優等生な女学生たちにある指針となった女教師の物語、なのだが、キャサリンがジュリア・ロバーツであったことで嘘っぽくなってしまった。
それに彼女を主体にするんではなく女生徒の一人から見た感じの方が私はよかったのではないかと思う。
物語の中でキャサリンの恋の部分はなんとなくうっとおしいのだが、生徒が主人公だったらもう少し違った表現になっていたのではないだろうか。ビルの人格が彼女を描き出すことに効果的だったのだろうか。

監督:マイク・ニューウェル 出演:ジュリア・ロバーツ キルステン・ダンスト ジュリア・スタイルズ マギー・ギレンホール ジニファー・グッドウィン
2003年アメリカ
ラベル:女性 歴史 思想
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ベン・ウィショー『ブライトスター』

『ブライトスター』

折り紙が可愛いので、つい開いてみたくなりますね。
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2009年11月02日

『ジキル&ハイド』スティーヴン・フリアーズ

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MARY REILLY

これもまた皆が知ってる古典サイコな物語。本筋はそのままということで展開は判っているのだがなかなかに凝った演出だし、監督はスティーブン・フリアーズで、マルコビッチ&ジュリア・ロバーツ共演、グレンクローズトマイケル・ガンボンまでも登場でやや地味ながら楽しめる作品だった。

スティーブンスン原作の『ジキル博士とハイド氏』は小学生の時の必須読書みたいなもんだが善人のジキルが薬を飲んで悪人ハイドになるって言うこと自体がジキルが悪に憧れてるわけだしなー、なのである。

本作映画は重くたちこめた霧の都ロンドンの雰囲気がたまらなく、どこか少女のおもざしを感じさせるジュリアと最初っからちょっと目がいっちゃってるマルコの魅力で持って見せちゃうのではあるが、あえて文句を言いたい部分もある。
元々本物のワルのような匂いのあるマルコだが何故かジキルの時は素敵なのにハイド氏の方がいまいちイケてない。
これはマルコビッチの卓越した演技力を買っての二役というか変身ぶりを見せたのだろうけど、悲しいかな、年齢のせいか、説明のようにジキルの落としだねか、という程の若さはないし、ジキルが憧れるような悪を満喫している雰囲気がマルコのハイドに感じされなかったのだよねー。確かにメアリーに変態的な舌使いをするのだとかはさすがにエロチックではあるのだがハイドがどんな風にジキルの欲望を満たすような悪魔っぷりだったかは観客が想像するしかない、という描き方だったのでやや不満気味。もう少し悪の魅力を発揮して欲しかった。
イメージ的には若くて美貌のハイドだが恐ろしい残虐性を感じさせて、初老でもう若いメアリーが惹かれるようなハンサムではないが優しい人柄のジキル、という二人の間でメアリーが揺れ動くようでいて欲しいのだがジキルほどにメアリーがハイドに心惹かれていると思えないのだ。マルコには悪いが若くてハンサムで怖さを出せる俳優と二人で演じたほうがよりよかったんでは。と言ってもマルコビッチを使う以上それはあり得ないのだろうが。
それにまあ原作もそういう設定ではなくジキルの方が容姿端麗でハイドは醜い男だったという記憶がある。ただ映画では若干ハイドがいい男っぽさを出したがっているようだったから、どうせなら思い切り美青年の方が楽しかったのではと思ったのであるが。
(自分としてはマルコで充分ではあるのだが^^;)

この作品の面白さは物語の本筋だけではなく、当時の人々の階級の違いだとか街の様子だとか、生活様式、人々の言動などに格式を感じさせてくれるところだろう。
幼い時は父親に虐げられ、働きづくめで若い娘時代をつぶしていってしまうはずのメアリーが突然出会う体験。
この時代において本が読めるほどの知性を持つ彼女だからこそ不思議な出来事に惹かれ逃げ出すこともできなかったのだろう。

ジキル&ハイドの変身場面はまさかの恐ろしさだった。まさかあんなに大変なことだったとはねえ。

監督:スティーヴン・フリアーズ  出演:ジュリア・ロバーツ ジョン・マルコビッチ ジョージ・コール マイケル・ガンボン グレン・クローズ ジョージ・コール キャシー・スタッフ
1996年アメリカ
ラベル:ホラー サイコ
posted by フェイユイ at 22:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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