映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年11月06日

『サンセット大通り」ビリー・ワイルダー

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SUNSET BOULEVARD

図らずも昨日に引き続き概念に取りつかれた女性の狂気であった。
すでに引退したかつての大女優がいつまでも自分はスターである、ありたいという執念から彼女を狂気に追い込んでいくと言う話だ。こういう物語は「女は辛い」とかすぐ言われそうだが、男も結局は同じことで役者に限らずどの仕事でも老いは必ず人を能力(美でも体力でも頭脳でも)を衰えさせていくものである。彼女の場合は幸運にも財力には恵まれていたのだし(私は途中まで本当は金ももう底をついているのでは、と思ってた。やはりハリウッド女優は破格なのか)こんな若い色男がのこのこ家へ入り込んできて短い間とはいえ(と言ってもかなりいたのだよね)彼を虜にできたうえ、都合が悪くなるとすっかりボケてしまえるのだから幸せだなあとしかいいようがない。
私が驚いたのはノーマの自殺未遂ですっかりギリスが動揺してしまい彼女の家にいついてしまう箇所でつまり彼女が助かったのも見届けたのだし、あそこで出て行けばいいのを止めたのは彼が元々そういう素質を持っていたんだ、ということだった。そういえばこれまでアメリカ映画(に限らないが)こういう男は決まってしょうもない脇役のはずで主人公の男が情にほだされたんだか金目当てだかその二つが入り混じっただかで金持ち中年女のヒモになってしまう話ってないのではないか。
仕立屋で「どうせ女に買ってもらうんだろう」などと屈辱的な言葉をかけられたり、本人がひた隠しにしている様子、好きになった女性の蔑視を見ても彼の立場は男性にとってこれ以上ないほどの悲惨な状況であるようだ。またノーマに忠実に仕える執事が実は彼女の最初の映画監督であり最初の夫であったと言う驚愕の落ちもあってその彼が彼女を悲しませないことが自分の仕事なのだと映画撮影が始まると信じ切っているノーマの為に嘘のカメラマンを用意して撮影の振りをしていく最後など、感動すべきなのかコメディなのか紙一重というかんじですらあった。いや、笑っていいのかもしれない。涙も流しながら。
ノーマを演じたグロリア・スワンソンの目をむいた演技も壮絶で、ぞっとさせながら泣かせながらのコメディであるのではないだろうか。

監督:ビリー・ワイルダー 出演:ウイリアム・ホールデン グロリア・スワンソン エリッヒ・フォン・シュトロハイム バスター・キートン ナンシー・オルソン ブレット・クラーク
1950年アメリカ


ラベル:サイコ
posted by フェイユイ at 22:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『黒水仙』マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー

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BLACK NARCISSUS

少し前に尼僧に物凄く興味が湧いて(どういう趣味だと言われそうだが何と思われても別によい。というか元々尼僧に憧れはあるのだが)その中でこの作品を見つけたものの何も読まず観ればよかったんだが、レビューなんぞをちら見したらいいと言われてたり物凄く変な風に書かれてたりでつい躊躇してしまった。先日フランさんに高所恐怖症には怖いと言われ酷い高所恐怖症のくせに怖いもの見たさで観ることにしたという変な経緯である。

しかしこれは面白かった!

というか、本当にこの作品自体が面白いのかどうかよく判らない。ままあるのだが、勝手に想像を飛ばしてしまって面白く感じてしまうのかもしれない。
というのは、作品としては舌足らずで説明不足のような気もするし、芸術的、というには低俗でもありそれほど革新的だとか美しいとか言うには遠い気もする。
ただ、ヨーロッパ文明から遠く離れたヒマラヤの山奥のひっそりと佇むキリスト教修道院に身を置く修道女たち、という不思議な映像が勝手に頭の中で神秘的なイメージを膨らませてしまったようでもある。
問題の絶壁の頂上に何故かせり出して掲げられている鐘を鳴らす修道女、というイメージは強烈である。神につながるはずの鐘を鳴らす為にほんの少し身を傾ければ奈落へ落ちてしまうというその状況はまさに異境の修道院へ派遣された彼女たちの運命そのものなのである。
その地に長い間住みついているイギリス人男性ディーンは彼女らが到着もせぬうち物知り顔に言い放つ「ここへ来た修道士でも長い間は持たなかった。女ならもっと早く逃げ出すだろう」

優秀な尼僧クローダですら到着したその日からすでに忘れていた昔のこと。自分がまだ俗世間にいた若い頃の恋人のことを思い出してしまうのだ。
他の尼僧も同じようにかつての自分を思い出し、神に仕えることとの板挟みになって苦しむのである。
それは大自然の中で遠くが見えすぎることであるとか、始終吹いている風のせいであるとか、自分たちを取り囲む異世界の住民たちや華やかな衣装を着た王子などが彼女たち敬虔な尼僧を神の教えから引き放してしまうのだった。

神の国に近いのでは思えるような高い修道院にはいつも強い風が吹き込んでくる。
ヒマラヤの大自然の美しさは神の掟を守ることより生々しい人間としての生き方を思い出させてしまうのだろうか。厳しい修行に耐えていたはずの尼僧たちは何故この場所に耐えかねてしまうのだろう。
『黒水仙』とは尼僧たちが豪奢な王子を例えて言っていたことからして自惚れ(つまりギリシャ神話のナルキッソスからの連想として黒いナルキッソス(水仙)だと言ったのだね)だと言うのだが、とりわけクローダにも自分なら大丈夫だと言う自惚れがあったという皮肉もあるのだろうか。(日本語的にクローダっていうのがまた)
キリスト教をこの地にも浸透させることができるという自惚れも無残に潰されてしまった。

こういう物語には多いのだが、尼僧たちはあくまでも英語を教え、キリスト教を教えるのであって彼女たちが当地の言葉を覚え、当地の人々の信仰を勉強するということはあり得ないんだよね。それをやってしまうと布教にはならないだろうし。
着るものも格式も故郷にいる時の同じスタイルの彼女たち。物語の中に登場する人物も英語を話せる少年と城を守る奇妙な老婆と色仕掛けで迫る少女と身分違いの王子が現地の人間として描かれるが尼僧たちと心を通わせる話は全くないのである。
一方その地に住み着いているディーンは住民とも打ち解け信頼を得ている。クローダは自分が従うべき他の尼僧までもディーンを頼りにしていることに嫉妬すらしてしまう。

そして最もおかしくなってしまうのがシスター・ルース。尼僧たちは皆ディーンに惹かれてしまうのだが(それは単に異性としてというだけでなく頼りになる男性という価値感がここではイギリスより強く感じられるからではないだろうか)彼女の感情は彼と話す機会の多いシスター・クローダへの嫉妬として歪んでいく。
僧服を脱ぎ捨て化粧をしディーンの元へ走るが彼にはそういう願望は全くなく追い返されてしまう。クローダの背後を黒い鬼のような姿になって階段を上がる彼女の姿がぞっとするほど恐ろしい。この場面はどんなホラー映画より怖かった。
崖の鐘を鳴らすクローダをつき落そうとしたルースはもみ合ううちに逆に崖から落ちてしまう。最初に感じた神へ通じる鐘の場所が彼女を裁いたのだろうか。

実際にヒマラヤでロケをしたわけでもないらしい。山脈の風景ははっきりと判る絵であるし、チベットの僧侶たちだとかインドの王子だとかこの場所もどこなのか自分も判りはしないのでその奇妙さに首をかしげながらもエキゾチックな光景に見惚れてしまうしかない。
信仰心の無力さを描いたような不思議な作品でもある。それでもデボラー・カーの気品ある美しさは孤高の尼僧を演じるのに申し分ないものであるし、最後結局逃げ出してしまうもののこれを戒めにしてまた頑張るという彼女の健気さに打たれてしまう。訝しみながら観賞したもののちょっと奇妙な味わいもあるもののとても面白い作品だった。
ディーンと王子様に色目を使う現地の少女カンチをジーン・シモンズ(キッスじゃないよ)が演じている。

やはり尼僧姿はそそるのであった。あの厳格な白い衣服で身を包んだ姿に参らない男っているのかね。
ルースさんなんて尼僧の時は色っぽいのに普通の服で髪を出しちゃうとセクシーじゃなくなってしまう。

しかし黒田とか彩とか関知とかさぶとか日本語みたいな名前が多いな。

監督:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー 出演: デボラ・カー デイヴィッド・ファーラー ジーン・シモンズ サブー フローラ・ロブソン ジュディス・ファース
1946年イギリス

posted by フェイユイ at 00:22| Comment(3) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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