映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年12月17日

『劔岳 点の記』木村大作

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映画公開当時に非常に熱烈な監督の映画に対する思い、映画作りにかけた労苦を聞いて興味を持って観賞を待ち望んでいた。そして今夜その望みがかなったわけなのだが。
これは。
確かに気持ちは判る。
この素晴らしい風景と恐ろしい自然の脅威を映し撮った思い入れには深く感心するのだが。
それを聞かないでいての観賞であったらこれほどたどたどしい映画はあまりない、とだけ思ったかもしれない。
熱意ある映画製作者方々には気の毒だが「映画作品」としてはかなり幼い段階にあるとしか言えないのではないだろうか。

かといって、嫌悪感を覚える、というような類の作品ではない。心をこめてこの上なく危険な山を登り計測し地図づくりに人生を賭けた男たちの物語を描きたかった真摯な思いは伝わってくる。
だがこれでは映画としての感動は悲しいほど伝わってこなかったのだ。

真面目な作品と思うだけに言い難い気もするのだが、人物設定もその描き方も物語の展開も表現も音楽の使い方、場面の切り替え方、すべてが素人で何も判らない自分にとっても幼稚過ぎて恥ずかしいのである。
例えばこれが海外で観られることを禁じて欲しいくらいなのだ。もうせめて日本人の間だけの観賞に留めてもらわないとこんな子供っぽい映画を日本人が意気揚々と真面目に作っているとどの国の人にも思われたくないような気恥かしさがある。
一体どうしてこんな映画を真剣に作ってしまったんだろう。
あまりに作品がボロボロなのでどこから添削していいのか迷ってしまうが、まず時代の雰囲気がまるでない。明治時代であるという作りこみがないし、あえてそう作ったのだ、という意識も感じさせない。
宮崎あおいの使い方が酷過ぎて彼女が可哀そうである。こんな演技しかできないような女優ではないのに。妙に夫に尽くす、というとってつけたような演出でしかも妙にべたべたとしていて日本人ではないようだ。
台詞も中学生くらいが考えたのかと思うほどの語彙の少なさでしかもその使い方もやはり幼稚でせっかく大自然で覚える感動が台詞で全部消されてしまう。誰がこんな甘ったるい陳腐な台詞を思いつくんだろう。
カット割りというのか場面の構成や切り替えがまた素人並みでまるで感動させたくないような手法ばかりで作られている。
どの場面が、と言おうとしてもほぼ全ての場面が酷いのだしとにかく物語も人物も穴があったら入りたいくらい恥ずかしい代物なのでどこを特に取り上げていいのか。
例えばクライマックスで「あなたが先に」「いやあなたが」みたいな見せ方が不味いのだ。そしてせっかくの感動を途中で切ってしまう。何故。
宮崎あおいが最後に夫への気持ちを口に出して全てをぶち壊し(と言っても元々ぶち壊しだからどうでもいいか)にしてしまう。
戻っていくが柴崎と小島がお互いに「何故山を登るんですか」と聞いた後の処理の仕方、古田(役所広司)に移るのが下手過ぎて失笑ものだし、山岳会や軍部の描き方がよくある「嫌な感じ」で馬鹿馬鹿しい。しかも山岳部とは最後仲間になるという臭さも堪え切れない。
とにかくこういった調子で作り手の意識と技量が幼いのでどこが良くてどこが悪いではなく、全部が未熟なのである。
監督はこの作品が初監督だったわけでいた仕方ないということもあるだろう。最初から完成されていることは難しい。
子供っぽいということは純粋でもあるということだが、映画作品というのはやはり技術によって感動を生みだすものなのだと改めて思わされた。真摯な思いだけでは表現できないものがあるのだ。
制作に関わった方々の溢れる熱意を知ると実に残念で気の毒だがそう言うしかない。

観てるうち、少女時代に繰り返し読んだウィンパーの『マッターホルン登頂記』を思い出した。「魔の山」と評されていたがまさしく剣のような形をしているではないか。どちらがどうなどと私には想像もつかないが遠くから見る形では随分違う気がする。しかしそれでもあんなに恐ろしいのだから本当に物凄い人たちである、登山をする人々は。

監督:木村大作  出演:浅野忠信 香川照之 松田龍平 モロ師岡 螢雪次朗 宮崎あおい
2009年日本

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どうでもいいけどマッターホルン。こんなの登るってどうやって???上に貼った劔岳とは角度がかなり違うなあ。
ラベル:歴史
posted by フェイユイ at 00:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月15日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.6』「アリバイのダイヤル」

The Most Crucial Game

コロンボシリーズを続けざまに観てるわけだが、こうして観ているとコロンボ自身の見え方も作品によって随分違うような気がする。
無論その日の気分だとか集中具合だとかもあるかもしれないので一概には言えないが同じピーターが演じているコロンボが確かにしょぼたれている時とハッとするほどかっこよく見える時がある。
しかもどうやらコロンボが素敵に見える時はドラマ自体も面白いような気がするのである。

というのは昨日の作品と今日のではコロンボのイメージががらりと違って見えるのだ。
他のレビューではこの二つの作品の評価はさほど違わないようなのだが、私としてはかなり違う。
昨日の『悪の温室』は物語もトリックも他の出演者も平板で退屈気味だったのだが、『アリバイのダイヤル』ではそのどれもに起伏が感じられ非常に楽しく観れたのである。
題材的にはアメリカンフットボールというより蘭を栽培する温室、なんていう方が好きなのだが、内容自体の面白さは全く逆転していた。
どうして今回のコロンボの方がよく見えるんだろう。演じているのはピーター・フォークでまったく同じはずだが、彼のあの決めの仕草や台詞が犯人を追い詰めるのが妙に気に障ってマンネリ気味に感じてしまう昨日の作品から今日はコロンボの表情や台詞がまったく新鮮になっているのだ。
それはもう作品をじっくり何度も観返してみないと判らないのかもしれないしそこまではちとやれないが確かに何かが違う。
アップになる割合が多くその表情の見せ方が変化に富んでいてしかも魅力的なのである。
後、共演者の女性も問題になる。昨日の作品に登場する奥さんはどうもやせぎすで好きなタイプではなかったのだが(って私がだけど^^;)今回は奥さんも(少ししか出てこなかったが)美人だし、問題の決め手の一つになる3日間だけの秘書役の女性イブがセクシータイプでコロンボにキスをする。ここんとこ、凄く小さな演技なんだけどコロンボって美人に優しくされると結構喜ぶ人なんですね。男だから当たり前なんだけどそれをあまり大げさに表現せずちょっと嬉しそうな表情になって満更でもないなあって顔をしてる、それがとてもキュートなのだ。
ていうかそういう小さなコロンボの心をの動きを演出としていれてくる作品とそういうのなしで進んでいくドラマでは随分作品のゆとり感覚が違ってくる。
以前ピーター自身が演出した奴でコロンボが苦悩してるのが好きだったけど本作のコロンボもあっという間に結論を出すんじゃなくかなり葛藤してる。そういう考えあぐねているコロンボにぐっときてしまうのだよね。
プールに足を突っ込んでズボンの裾の片方だけを折り曲げてたり、濡れてしまった靴を新調したんで足が痛くてよろよろ歩いてたり、好物のチリコンカルネに手もつけずテープを何度も聞き返してたりそういうコロンボのしょぼくれてるんだけど可愛くてたまんないとこやあの義眼のせいで不思議な感じに見える表情や眉の上げ下げなんか、指や手の動きが細かく彼の心情を表しているのが今回は実によく捉えられているように思えてしょうがないのだ。
確かに背の高い人物が多いアメリカ人社会ではずんぐり体型でややがに股気味。よれよれのコートは西海岸では特に奇妙なスタイルなんではないかと思うんだがちょっと背伸びして見せたり短めの腕で腕組みしてるのなんかも観てるとだんだんセクシーに思えてしまうのだからなあ。
いや、そう見えてくるバージョンの回があるのだ、きっと。

ところでそれとは違う疑問もあるのだが、コロンボシリーズ観てると犯人が「今こんな事件の後で混乱しているのだ。そっとしてやってくれ」なんていう場面が必ずあって、コロンボも「お察しします」とか言ってぐったりした女性を支えて犯人が向こうへ行く、というのがあるけど、その家族が殺されている場合でコロンボがというか警察が気を使って控えめにしなければならない、というのはあるんだろうか。そりゃそんな人に詰問しても答えは返ってこないかもしれないが警察側が神妙な顔になっている、というのがちょっと不思議。やはり上流階級だからこその反応なのか。
ま、そこで神妙な顔で見送るコロンボ、というのが結構いい感じだったりはするんだけどね。

監督:ジェレミー・ケイガン 脚本:ジョン・T・デュガン 出演:ピーター・フォーク ロバート・カルプ ディーン・ストックウェル ディーン・ジャガー ジェームズ・グレゴリー
1972〜1973年アメリカ
posted by フェイユイ at 22:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 刑事コロンボ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月14日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.6』「悪の温室」

The Greenhouse Jungle

今回一番の特徴はコロンボに相棒ができたことだな。
アメリカの刑事ものは殆ど(実際がそうなんだろうが)相棒と組んで捜査がされるのに『刑事コロンボ』ではソロでの活動になっていて、そこがまた独特なイメージを作っているんだけど、このコロンボシリーズ、とにかく毎回他のとは違う設定や演出を何か心がけているみたいで今回はあえて相棒を出してコロンボとの掛け合いで面白さを出す試みだったんだろう。
刑事ものを観てるとよくあるのだがこつこつ捜査するロートルのとこへ最新型科学捜査をする大学での若い刑事、と言う奴で本作もまさにその通りである。惜しむらくは外見がコロンボとさほど違わないように見えることでもう少しコロンボとのメリハリをつけてもよかったんではないだろうか。
とはいえのんびりじっくり敵を追い詰めていくタイプのコロンボの傍で一人張り切って燃えていてコロンボを尊敬しているようではあるが最新機器を駆使して見せる様はなかなか面白い。
殺人が最初に行われず、まず犯人が被害者を騙してのでっちあげの誘拐事件を起こして身代金をまんまと手に入れ、その後に殺人が起きる、という仕組みになっている。
犯人が温室で蘭の栽培をしている、という設定も他の作品と異なった雰囲気を持たせるのだが、弾が土の中から出てきた、という以外はさほど蘭栽培が直接事件と関わっているのではないのがちょっとだけ残念。コロンボが話の接ぎ穂に持って行った萎れきった「アフリカバイオレット」というのを犯人が馬鹿にして捨てたほうがましだ、と言ってたのにラストでそれが綺麗に生き返っている、というのは犯人がいつの間にか手入れをしていた、ということなのか。花だけには心優しい人だったのか。
ちなみにアフリカバイオレットって何だと思ってたら「セントポーリア」のことだった。普通セントポーリアって言わないか?確かにあのぺたんとした葉っぱはそうだよね(これは私が日本語吹き替えで観てるからで、英語オーディオ日本語字幕にしてたら「セントポーリア」になってた。多分コロンボは「セントポーリア」っていうより「アフリカバイオレット」って言いそうだ、と吹き替え訳の人が思ったのか?却って長くなるけど)

奥さんが浮気しそうなタイプに見えないとか、被害者が奥さんへの当てつけにつきあっていた女性とは肉体関係はなかった、などキャラクター設定がいまいちしっくりいかなかったのと、全体に展開がまどろっこしくやや退屈を感じる本作であった。

監督:ボリス・セイガル 脚本:ジョナサン・ラティマー 出演:ピーター・フォーク レイ・ミランド ブラッドフォード・ディルマン ボブ・ディシー サンドラ・スミス
1972〜1973年アメリカ
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2009年12月13日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.5』「黒のエチュード」

Etude in Black

クラシック指揮者が浮気相手の女性を殺害。その理由はその女性が秘密の愛人という立場に不満を持ち正当な結婚をしたいと迫られたから。
が男の方は莫大な財産を持つ妻と離婚するつもりは一切なかったのだ。

コロンボの敵として見本のような存在。優秀で人気のクラシック指揮者。常に冷静に(怒っている時は演技である)計画を立て実行する。
他の男に容疑がかかっても彼を庇いながらどこか罪に陥れるような微妙な擁護をしている。胸に付けた花を現場に落としたのを拾って胸に着け直したことがばれても落ち着いてしらばっくれる。妻が自分に疑いを持ってても慌てない。そして最後に追いつめられても妻に「君を愛している。僕は有罪になる。有利な弁護を頼む」と耳打ちする。
怖ろしい相手である。コロンボに逮捕されると理解すると、その後の裁判の行方を早々と見据えている。
物語としては犯罪やトリックは工夫はされているがあっと驚くほどはないが、本筋以外の部分が楽しめた。
まずコロンボが池で拾ったというだらんとした犬。バセットハウンドという奴でぼけっとしたとこがなんともかわいい。実際ピーターのペットであるらしい。コロンボが抱っこした姿もユーモラスで実に愉快。
次は被害者の隣に住んでいるという女の子。アメリカの少女らしくおませで利口でコロンボに全く負けていない。彼女も愛犬家なのでコロンボが駐車した車の中に犬を入れっぱなしにして窓を閉め切っているのを叱りつける。バレエの稽古をしているとこにコロンボが訪ねていって「君は素晴らしい少女だ」と言うと「体が?精神が?」と問いただす。
しかしコロンボが彼女を使って犯人を追い詰めようとオーケストラの練習場所へ連れていくと指揮者ではなく、他の男(確かに被害者と付き合っていた)を指差してしまいコロンボも酷く狼狽することになる。
この場面ってちょっと驚き。いくらなんでもこんな小さな女の子、というか大人だってだけど、を直に犯人を指差させるなんてありえないだろう。後でどんなことになるか判らないのに。
ドラマとしては面白い演出であったが。

さていつもちょっとエロチックな要素のあるスティーブン・ボチコ脚本。今回は、というとやはり他にないロリータの雰囲気だろうかね。しかも少女にいたぶられて満更でもなさそうなコロンボだった。

そして観ながら物凄く気になったのが、指揮者の美人妻。どう観てもグウィネス・パルトロウなんだけど年齢が絶対合わんし、と思ってたら彼女のお母様であった。いやあミステリーだった。

パット・モリタさんが執事役で登場。

監督:ニコラス・コラサント 脚本:スティーブン・ボチコ 出演:ジョン・カサヴェテス マーナ・ロイ ブライス・ダナー ジェームズ・オルスン パット・モリタ
1972〜1973年アメリカ
posted by フェイユイ at 22:41| Comment(4) | TrackBack(0) | 刑事コロンボ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『リカウント』ジェイ・ローチ

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RECOUNT

政治問題に疎い(なんにでも疎いが)私でも2000年のアメリカ大統領選挙のすったもんだはさすがに覚えている。ニュースでは、見開きの投票用紙に穴を開けて機械で集計ができる最新型のはずだったのがどこに穴を開けるのかがよく判らずしかも紙が硬くて開けにくくお年寄りが特に失敗してしまい短時間で集計できるというのが目的だったはずなのに却って物凄い時間と労力がかかり集計ができないの無効だのという騒ぎだった。いくら他所の国の出来事とはいえ一体何をやってるんだいという見世物だったが、その結果ジョージ・ブッシュが大統領になりこのような世界になってしまったんだから笑い話ではすまされない「穴」の話である。

非常に細心丁寧な出来栄えのドラマで私にも飲み込めるよう説明してもらえたのだが、もっとよく知る為には付属しているドキュメンタリーや対談、コメンタリーも観たほうが(無論他での勉強もだが)いいんだろうが取り敢えず本編を観たのみでの感想である。

これを観た限りで判らないのは「何故この方式で投票をしたのか」である。
そのことを後でウジウジ言ってもしょうがないからなのか(少なくともこの争いの途中で愚痴っても仕方ない)そこには触れていないが、ぱっと見穴を開ける場所を勘違いしそうでしかも穴を開ける力が相当必要だ、というような投票用紙を誰がデザインし、どうして許可が下りたのか。最高に優秀な人材がそろいに揃っているはずなのに何故誰も用紙の不備からくる失敗を予想しなかったんだろう。
ここではそのことが共和党ブッシュに有利な結果になったわけだが、それは共和党にとって予想されていたことだったんだろうか。

そしてほんの少しの票も欲しいはずなのに案外投票方式に関するとりこぼしが多々あるのだが、特に犯罪者と似た名前に人物(多くは黒人など有色人種つまり民主党派の可能性が高い)が投票拒否になっていた人数が2万人であるのにそういった事実をまったく知らずにいたという失敗。
悔やんでも悔やみきれない、というミスが次から次へと湧いて出てくる。大統領選挙は4年に一度だし、経験者ばかりがいるわけでもない。投票方法も初めてのやり方と言う中で、本作の主人公であるロン・クレインも手探り状態でなんとか今にも手放しそうになってしまう勝利へと糸口を掴もうと必死にもがき苦しむ。
途中で「一体ゴアが好きなのか判らなくなってきた」というのがおかしくて、もう自分のやっていることがゴアを大統領にしたいのか単に集計し直し(リカウント)をすることが目的なのか、観てるこっちもゴアが出てくるわけでもないからただもう集計するのしないのという不可思議なシーソーゲームの成り行きを見つめているしかない。結果は知っているにも関わらず歯噛みしたくなるドタバタ劇だ。
しかし、と思うのは結局対岸の物語、というかこちら側の物語でもよくは判らないんだが、民主党側からの作品なので共和党陣営があまりに憎々しく描かれているのは当然のことなんだろうな。私としてもブッシュ側の描き方としては何の不満も持たないが。
とはいえ主人公ロン・クレインが一度ゴアから首を切られたという苦々しい過去があり作品中でも「ゴアが好きなのかよく判らなくなってきた」と言うのに比べ、敵のトム・ウィルキンソンが何故ブッシュに尽くしているのかと言えば、ウィルキンソンはかつて民主党だったのに妻の死で落ち込んでいた彼を励ます為にブッシュが政治活動を勧めて元気づけてくれたからだという人情物語が核にあったのだというのがまさか勝敗を決める心意気の差であると言っているのではあるまいな。案外そういう気持ちの差がブッシュとゴアの差だったりしたとか。

しかしなあ、確かにこれでブッシュ対ゴア(共和党対民主党)はうやむやの中で共和党ブッシュになったと思われても結局彼は2期目までやってしまうのだ。
それは一体どういう顛末だったんだ。ラストでクレインたちが4年後に会おうって言ってるが結局何もできなかったのか。
この作品が作られるのが遅すぎたのかもしれない。

本作で一番印象的なのは何と言ってもキャサリン・ハリスのローラ・ダーン。ハリケーンのような化粧と共にあの表情あの話しっぷり。記憶から消し去ることができなさそう。

監督:ジェイ・ローチ 出演: ケビン・スペイシー ボブ・バラバン エド・ベグリー・Jr ローラ・ダーン ジョン・ハート デニス・リアリー トム・ウィルキンソン ブルース・マッギル ブルース・アルトマン ジェイン・アトキンソン デニス・レアリー エド・ベグニー・ジュニア
2008年アメリカ
ラベル:政治 歴史
posted by フェイユイ at 00:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月11日

『赤い航路』ロマン・ポランスキー

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Bitter Moon

この前観た『チャイナタウン』ですっかりお気に入りになってしまったポランスキー監督、この作品はどうかと思ったがなんだかもうまったく問題なくロマン世界へと入り込んでしまった。こういう物語を語って聞かせながら展開していく、という形式が非常に好きなこともあるのだが、いつ観ても(好きになれない作品でも)本当に映画作りの巧さは追随を許さぬものだと思う。私には技術的な説明をする能力がないので上手くは言えないのだが、歯切れの良さというのか過不足なく説明していく展開の妙というのか冒頭から観客の気持ちを誘いこんでみるみる妖しい国へと連れ込まれてしまう。やや長めの作品であるのに冗長にならない。他の映画でそういうことを特に考えないのだが彼の映画を観てると点数をつけても百点満点、みたいな気がしてしまうのはどういうものなんだろう。エロチックで残酷でありながらユーモアも含んでいるのも特徴なのだ。独特の残酷な愛の形、というのでキム・ギドクを思いだしてみたりもするがギドク監督が気の毒なほど制作貧乏で技術的に弱さを露呈してしまうのと比較すれば(そこも含めて好きなのだが)遥かに大人の仕事なのである。
無論エロティシズムの作品なのでポランスキーの主義嗜好がくっきりと描かれてしまうわけで、つまり対象がエロチックな少女なのでありサディズム・マゾヒズムでないと性的な欲望を満足させられないのである。
そこらが嫌いならどうしようもないが、私としては自分の欲望をここまでさらけ出して描いてしまえるロマンにもう脱帽するしかない。『吸血鬼』や『ローズマリーの赤ちゃん』で不満だったものが『チャイナタウン』『赤い航路』ではすっかり解消されて逆に非常に魅力的なものになってしまった。見れば前の2作は67,68年の作品で後の2作は74年、92年と分かれているのだからそういうものなのかもしれない。『オリバー・ツイスト』には反感がなかったわけだし。というわけでますます他の作品にも俄然興味が湧いてくる。

が、まず本作。
極めて上品で申し分のない優等生の夫婦フィオナとナイジェルが結婚7年目の旅行に出る。船上で知り合ったのは若くて美しい妻と車椅子に乗った初老の夫という夫婦。
大人しく優柔不断なナイジェルは妖しいほどの色香を持つミミに心惹かれる。その様子を見た彼女の夫オスカーはナイジェルを自分の船室に呼び、魅力的なミミと自分のこれまでの経緯を話し出すのである。
彼の話すミミはまるで男の夢のような女性なのである。少女のようなあどけなさと滴り落ちるような女の性を併せ持っている。そして溢れるような愛情をオスカーに与える。まだ少女と言っていいミミは金持ちというわけでもない売れない小説家のオスカーと激しいセックスの日々を送る。やがて欲望が褪せてくればますます二人の性の欲望は異常な方向へと向かいながら激しさを増していくのだ。だがついにオスカーの欲望がミミの美しい体に反応しなくなり彼はミミを捨てようとする。そんな薄情な中年男に対して愛らしいミミは「捨てないで」と自虐的な態度で懇願するのである。
ナイジェルが途中つぶやくようにまるで作り話としか思えない。若くて他にいないほど魅力的なミミが何故何の取り柄もない中年男にすがり続けるのか。
何故なのか、ということはよく判らないし、ここでその意味が必要であるわけでもない。
二人の性愛はサドマゾの関係を交代しながら繰り返しているのである。
初めは男が優位であり、美しい女性に虐げられたいと願うオスカーの為にミミはサディスティックな女性を演じる。そして倦怠期がくれば被虐的な存在となりオスカーのサディズムをけしかけることで関係を続け、さらにオスカーの欲望が行きつけば今度はまたサドの看護師となるのである。
今まで「健全」という名前の味気ない夫婦生活を送りそれに甘んじていたナイジェルは彼の物語とミミの堪え難い魅力に己を見失ってしまう。突然愛していたはずの妻フィオナに疑問を持ち、ミミとの性愛を夢見てしまう。だが筋書きは思わぬ方向へと向かってしまう。ミミが相手に選んだのはナイジェルではなくフィオナの方だったのだ。
ナイジェルは手に入れたと思った欲望をとんでもない形で奪われてしまう。
味気ないが健全な夫婦であったはずのナイジェルの目前で妻フィオナが彼の浮気相手になるはずだった美しい女性と愛し合って眠っている、それを見つめる夫たち。不可解な構図である。
その歪んだ構図を銃弾で破壊したのは車椅子の夫オスカーであった。彼ら夫婦の性愛はもうこれ以上どうしようもないほど膿み爛れてしまったのだろうか。
それとも、作者がこれ以上物語を続けられないほど描き尽くしたんで殺しただけかもしれないが。めんどくさくてさ。もういいや、とか。

導いてくれる二人を失い寒い船上でめそめそ泣き続ける夫婦には愛欲にまみれた生活を送る能力はないだろう。
それが幸せなんだってことだ(笑)よかったね。

監督:ロマン・ポランスキー 出演:ピーター・コヨーテ エマニュエル・セニエ ヒュー・グラント クリスティン・スコット・トーマス ヴィクター・バナルジー
1992年 / フランス/イギリス
posted by フェイユイ at 23:29| Comment(3) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『花の生涯〜梅蘭芳〜』陳凱歌

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梅蘭芳

この映画がこういう映画き方になってしまったのは「実話である」という枷の為なんだろうか。
かつて『覇王別姫』でレスリー・チャンが狂おしいほどの情熱を持って兄と呼ぶ京劇の相手役に恋したことを鮮やかに描いたものがここでは隠されてしまっている。
それは映画の冒頭で邱如白が奇しくも「京劇は厚塗りで表情を隠してしまっている」と言ったことそのものなのだろうか。
タイトルロールである梅蘭芳の表情から彼が何を思うのかをつかみ取るのは難しい。

本作はどうしても『覇王別姫』と比較して観てしまうが大きく違うのは女形である主人公が恋する相手が『覇王別姫』では男役の男性だったのに本作では男役の女性であることと、『覇王別姫』では蝶衣の恋心が作品の核になっていたのに本作は梅蘭芳に恋するマネージャーの邱如白の思いが中心となっていることだろう。
彼は代々官吏であった名家の子息で海外留学をし、すでに役所勤めをしていながらすべてを投げ捨て梅蘭芳と京劇に人生を賭けた男である。本作で観る分には結婚も恋人もなく彼の為だけに生きている。果たしてそれだけの為に人生を賭けてしまう男性がいるものなのか。彼が梅蘭芳に常に寄り添いながらその恋心はまったく性的なものではなかったのか。『覇王別姫』では描けたものが年を経た本作では隠されてしまっているのは「実話」という枷なのか。

この物語で切ないのは梅蘭芳と孟小冬の恋ではなく邱如白の思いだった。
彼は京劇に対し酷い偏見があったのだが梅蘭芳を観てまさに魂を奪われてしまう。
この映画を観た多くの人が『覇王別姫』と比較して何らかの落胆を感じてしまうのではないかと思うのだが、それは物語のダイナミックさが平板になり激しく感じられたエネルギーが静かに落ち着いてしまったこともあるだろうが、あれにはくっきりと描かれていた同性愛の感情がここではまるでないことのように濁されてしまっているからではないだろうか。

レオン・ライの表情は激しく変わることがなく、最も愛した孟小冬との別れもかつて蝶衣が落ち込んだほどの惨めさがない。それはレオンがいけないのではなくそういう風にしか演じられなかったのである。彼が最小限の演技で心の動きを感じさせているのは伝わってくる。
それよりも邱如白を演じた孫紅雷はもう少し梅蘭芳への気持ちを深く語っているように思える。
だがそれでも二人の互いへの感情が明確に表現されることはなく観る者が察するしかないのである。彼ら二人の心情をもっと描き出していたらもう少しこの作品のテーマがはっきり判ったのではないかと思うのだが。

残念ながらレオン・ライの演じた梅蘭芳には感情移入できるほどのイメージが持てなかったのだが、孫紅雷は今までの悪役とは一味違う人間像で常に梅蘭芳だけを思い続ける姿には惹きつけられるものがあった。彼の容貌もまた魅力的であったのに、もう少し彼らが触れ合う瞬間のような場面があれば、と悔やまれてしまう。

見どころの一つであった安藤政信の将校役。彼の美貌にはまったく見惚れてしまうのだが、惜しいのは今の俳優に多い活舌の悪さ。現代劇だとさほど気にならないのだが時代ものだと露見してしまうのだ。
それにしてもチェン監督は日本軍の描き方が甘すぎるのではないだろうか。

監督:陳凱歌 出演:レオン・ライ チャン・ツィイー 孫紅蕾 安藤政信
2008年中国
ラベル:歴史
posted by フェイユイ at 01:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月09日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.5』「パイルD-3の壁」

Blueprint for Murder

コロンボシリーズ再観始めて何度も書いてるのが「他の作品とは違い・・・」という文章。つまりどれも何かしらここは違うという押さえどころがあるのが飽きさせないんだろう。
今回も幾つも目新しいポイントがあり、一つは殺人現場を描いていないところ、そしていつもは見せている死体処理現場も今回は無し。ということでいつもはただ犯人を追いつめていく展開なのが今回は犯人は判っているがどこに死体があるのかはわからないミステリーにもなっている。そして死体が見つからないのに被害者の元妻が抱いた疑念から警察へ通報される、という筋書きになっているのも面白い。

そして今回えっと驚くのはコロンボを演じるピーター・フォークその人が監督をやっていることだろう。
そのせいなのかどうかコロンボ自身の描き方も他のと随分変わっている。
今まで観たコロンボはいつも冴えないがやたらと頭のいい警部という表現ばかりだったのが今回のコロンボは一味違う。
まず警察に通報した被害者の元妻(肉感的な美人。ピーターの好のみかしら)から凄く気に入られ他にないほどキスしたり労わられたり、という珍しくコロンボがちょっとだけいい思いをしている。
また医者を訪れたシーンで前ボタンを少し外していて、そういえばコロンボってだらしない、とばかり言われてるがシャツのボタンとネクタイはいつもきちんとしているのだ。少しだけ外したボタンのせいでわーなんだかコロンボが急にセクシーに見えて(物凄く単純な私^^;)どぎまぎしてしまった。
そしてコロンボが今までと最も違ったのは建設家である犯人が死体を隠しているに違いないパイル(建築の基礎工事のコンクリートの塊)D−3を掘り返させたコロンボの目論見が外れ犯人の前で打ちひしがれているところ。それまで見せたことないコロンボの苦しみがにじみ出ている場面がまたセクシーで逆にきゅんきゅんしちゃいました。うーん、傷ついた男って素敵だなあ。というか、敗北しながらもなんとかせねばともがき苦しむ様が色っぽいのである。
と言っても結局それはコロンボの罠で、実はわざと犯人がパイルの下に被害者が埋められているのではないかとコロンボに思わせ掘り返してしまうよう仕向けているのをコロンボは気づいてこれもわざと騙されたふりをしていたのだった。
コロンボが判らなかったのは犯人が今どこに死体を隠しているかであって、掘り返した場所を2度確かめることはない、という算段で犯人は今度こそパイルの中に死体を隠そうとし、そこをコロンボに捕まる。
前前回、前回のようなイラついた犯人との駆け引きではなくここはまさにコロンボならではの犯人との知恵比べだったのだ。

被害者がウェスタンしか聞かないのに彼の車のカーラジオがクラシック専門局にチューナーが合わせられていたことからコロンボの疑惑が確かになる、というのもかっこいい。コロンボがクラシック好きだったことでピンときたのだ。
最後に犯人と交わす言葉も「ウェスタンとクラシックじゃ全く合わない」とコロンボが言うと犯人が「建設家と殺人もね」と言う。この一言で犯人の悲しみも深みを増している。いいミステリーだった。

ところでそのビル建設の基礎工事で地下に埋められるコンクリートの塊「パイル」を捜査の為、掘り出すには役所へ行って許可を取らねばならないという話になり、コロンボ自ら役所へ行くのだが、何度も行列に並びやっと申請しようとしたら「昼休みだから1時に来なさい」と言われめげる場面がある。お役所というのは何処も同じ、という笑い話。ここでも一所懸命なコロンボの姿が可愛らしい。
というわけでコロンボの魅力満載の一話であった。
ピーター自身が監督したんだもん。少しは自分をアッピールしたいよね。成功でした。コロンボだって結構いけるのよ。

監督:ピーター・フォーク 脚本:スティーブン・ボチコ(お、ボチコさんだ。彼は色っぽい話が多いのね。私が思ってるだけだけど)
出演:ピーター・フォーク パトリック・オニール フォレスト・タッカー ジャニス・ペイジ パメラ・オースティン
1971〜1972年アメリカ
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ドラマ『坂の上の雲』

隣部屋「雑文手帳」で2007年1月に記事書いてから、もうドラマ放送なしになったんじゃ、と思ってたのだがきちんと予定通りの放送になったのだね。

最近はTVドラマとんと観なくなったのだが、さすがにこれは気になって1回目2回目少し見逃した部分はあるが観てみた。
長い時間をかけ、桁違いの製作費、というだけあって他に観ないほどがっしりした深みのある映像ではないだろうか。
とは言え、自分は原作にはまり込んだ記憶のもとに観ているから初に観ている人がどうなのかはよく判らないが。
なにしろ原作者の司馬遼太郎氏が連載中から来ていたオファーを断り続けてきた、というだけのスケールの大きさと確かに戦争賛美と思われるかもしれないかっこいい男たちが出てくるこの作品を本当に最後まで作ることができるのか、いまだに心配だったりもする。
秋山兄弟は文句なしの配役だと思うし(珍しいよ、納得できるって。特に兄貴はさー西洋人のように見える人だし)いつもは嫌いな香川照之もぴったしの正岡子規で、妹の菅野美穂も可愛いし泣ける。
気になってた広瀬武夫さん(ファンなの)が藤本隆宏さんというかっこいい男性だったのでほっとしたー。

とにかく物語はまだまだ始まったばかりでここら辺はドラマにもしやすいだろうが二百三高地を経て海戦の場面など一体どういう映像化になっていくのか。しかも16話を3年がかりで放送するという気の長さ。1話が90分という長さでもあるのだが、それでも描きつくしているわけではなくかなりすっ飛ばしている感もあり。確かにあの小説のドラマ化は難しいのだろうなあ。

しかし真之が今をときめく本木雅弘で、白い軍服の決まっていること。20歳くらいの時期だが全然おかしくないんだから凄いものだ。腰が細くて見惚れる。
などとそんなことばかり言ってるが日本が鎖国を解きやっと世界に目を向けた途端、その頂上を目指して突き進んでいったあの青青しい時代をドラマがどう描いていくか、最後まで行きつけるか、観ていきたいものである。
ラベル:TVドラマ
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2009年12月08日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.4』「死の方程式」

Short Fuse

今回は昨日の作品と同じように肉親(というか叔母の夫だが)の社長の座を狙う、という物語である。今回はさすがに叔父叔母と肉体関係がありそうには思えないし、昨日の女性よりもっと着実に勉強(化学や法学も)していて頭も悪くはなさそうなのだが、人間性が欠落していることが問題なのだと本人だけは気付かずにいる、という話。
今までのコロンボシリーズの犯人で最も軽佻浮薄なキャラクターであり、いつもは犯人が尻軽なコロンボに苛々するものだが、今回はむしろコロンボがイラついてたのでは(一応画面上ではそう見えなかったが)のらりくらりと軽口を叩いてコロンボを煙に巻く様子は希少価値かも。

化学工場が舞台なので工場オタクにはちょいと嬉しい背景か。また高所恐怖症のコロンボを今度はロープウェイに乗せて怖がらせるが、ラストの決めの場面で再びロープウェイを使い今度は犯人を恐怖に追いつめるという演出は見ものだった。

犯人役を演じたのがロディ・マクドウォール。私ら世代には『猿の惑星』のコーネリアスを知らない人はいないのでは(まあ名前は知らんでも)と思えるが何しろお猿メークだったので実は今回初めて「こういう顔だったんだ」と知ったという。申し訳ない。軽薄な次期社長にぴったりの子供っぽい表情が魅力的な人だったのだねえ。
ジュニアと言われている時のぴちぴちのブルーのジーンズがなんだか生々しく浮き上がったものが見えてエロチックでもあった(どこ凝視してんだか)
ロディって私は全く知らなくて『猿』だけだった人かと思ってたらその後『フライトナイト』シリーズでマニアックに人気を取っていたのだね。本作の主人公とは違いやはり真面目に芸を通していればいつか実を結ぶものなのだ。よかった。

それにしてもこの辺の雰囲気ってコロンボファン(特に日本の)にはあまり受けないもののようだ。
やはり犯人のキャラクターも奇をてらったものよりじっくりコロンボと対決する格調高い人物を望んでいるからなのかなあ。つまりみすぼらしくかっこ悪いコロンボが高級感溢れるかっこいい犯人と戦って頭脳で勝つ、という図式を見たいのだ。低俗な犯人ではその欲求が満たされないのだよね。

監督:エドワード・M・エイブラムス 脚本:ジャクソン・ギリス 出演:ピーター・フォーク ロディ・マクドウォール アン・フランシス
1971〜1972年アメリカ
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2009年12月07日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.4』「もう一つの鍵」

Lady in Waiting

他のコロンボ作品に比べると随分粗悪な作りになっているのでおや、と思ってしまう。一体何が悪いんだろう。
これはこれで面白い部分もあるのだが。

やはり気になるのは本作の主人公となる奇妙な若い女性ベスだろう。最初権威的兄の支配下で押しつぶされそうになっている憐れな存在として登場する。彼女には何の自由も与えられていないようなのは、兄の死後、大変身してしまうことからそれまでの抑圧ぶりが想像できるのだが、何故彼女はそこまで支配されていたんだろう。
気になるのは母親の存在である。どうやら彼女は息子の方を溺愛していたようだ。それに対して娘には酷く冷淡である。彼女が言うには「息子は素晴らしい才能があり妹もしっかり保護していた。それに比べ娘ベスは自分の世話すらできず、いつもしょうもない男を捕まえ今度も金目当てだけの男と結婚しようとしている」というのである。同じように犯人の兄も「あの男は出世だけを狙っている。おまえは何も判ってないんだ。私がお前を守るしかないんだ」と。
無論台詞は重要なヒントなので私はてっきりレスリー・ニールセン演じるこのやや年かさの二枚目男が途中で尻尾を出しまたもや女性を騙しているのか、と思っていたのだが。
彼自身は一途に善良な男性であった。
では一体あの二人の台詞は何だったのか。
つまり物語としては馬鹿な娘が男に騙されて兄を殺し母親を疎外したが結局は出世と金目当てだったのだ、というのならこの話は(あまりにも凡庸だが)筋が通るが、ベスが選んだ男は立派な人間だった。母親と兄が邪魔しなければ彼女は結婚し幸せになれたかもしれないのだ。それが理由で殺人を犯してよいわけではないが、美容室に行くことも洋服を買うことも恋人を選ぶことも許されないでいた彼女のそれまでの人生とはなんだったのか。何故母と兄はそこまで彼女を貶めていたのか。あんなにやる気がある女性なら兄とは別に勉強させ会社を経営させてもよかったのにどうして「駄目女」と決めつけていたのか。容姿もいい妹に何故兄は「お前に金以外の魅力があると思うのか」などという暴言を吐いていたんだろう。それこそが兄の本音だったに違いないが実際彼女は金ではなく彼女自身の魅力で優秀な男性の愛情を受けていたのだ。母と兄こそが男を見る目がなかったのだ。

この作品の中で「何故お兄さんは独身だったのですか」という質問があってすぐ特に意味はないと打ち消されているのだが、そこに何か秘密が隠されているんだろうか。
何故優秀で裕福な兄は結婚していなかったのか。何故妹は閉じ込められていたのか。何故恋人との結婚の為に兄を殺したのに彼女がすぐ行ったのは結婚より会社を経営すること、だったのか。自由になった途端、彼女は兄の言うとおり恋人は自分に向いていない、と感じてしまうのだ。
一見すると支離滅裂な物語の展開であり主人公の滅茶苦茶な行動がただの「馬鹿女」のように思えてしまう。
私がここから推察してしまうのはベスは兄から性的な支配下に置かれていて、自由に勉強することも働くことも無論男性と交際することも禁じられていた。そのために「お前は何の魅力もない」と言われている。しかしそれ以外では兄の言葉は妹に優しい。兄は優秀な男性だったが性的な欲望を妹だけにしか持つことができず、結婚しないでいた。息子を溺愛していた母親はそれを黙認していたがさすがに同居するのはできず離れて暮らしていた。兄が働く為には妹の人生を犠牲にするしかなかった。母親もまた娘は何もできないと言い続けることで自分を納得させていた。コロンボにタクシー代を払わせても何も感じていないこの母親こそ元凶のように思える。
妹は長年の辛い暮らしを恋人から救って欲しいと思っていたがとうとう自分で解決してしまった。
なので彼女が本当に望んでいたのは結婚ではなく自由だった。自分を抑圧していた兄が死ねば恋人は不必要になる。そして彼女は次第に自分がこうなりたいと思っていた兄そのものに変化してしまうのだ。

だが物語はそれらすべてを描かずにトリックだけを表現してしまったので、人物描写がこの上なく奇妙なものになってしまったのである。

そういう意味では本作は同性愛物語だったのにそれを隠してしまった『構想の死角』に似ている。
と思ったら本作とそれは同じ脚本家スティーブン・ボチコという人ではないか。これはどういうことなんだろう。
人物たちの性嗜好がどうなのかは判らないが、何かが隠されているような奇妙な台詞のやり取りが放置されてしまうとコロンボ並みに気になって眠れない。
大人しい存在だったベスの精神がこうまで歪み破壊されてしまったのはどうしてだったんだろう。

本作のコロンボは犯人であるベスに優しいのも彼女が負ってきた抑圧が尋常でなかった為ではないだろうか。
判決が下ったのにベスを追いかけたのはすでに精神が破壊された彼女が会社経営などできるはずもないというコロンボの優しさなのでは。
彼女の裁判はもう一度あり、会社社長にはもうなれないだろうが、刑罰がどうなるかはまだ判らないのだから。

以上、かなりの妄想として考えてみた。

監督:ノーマン・ロイド 脚本:スティーブン・ボチコ 出演:ピーター・フォーク レスリー・ニールセン リチャード・アンダーソン ジェシー・ロイス・ランディス
1971〜1972年アメリカ
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2009年12月06日

『ロープ』アルフレッド・ヒッチコック

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Rope 

イギリス人のヒッチコックがアメリカで映画製作を初めて随分経ってからの作品だが舞台劇を意識してのせいもあるのか、どう観てもイギリスの味が濃厚に出ている。といってもどの作品もあんまりアメリカ的とは思えないけどね。

加えるにこの作品は当時としては信じられないくらい主人公の二人が同性愛の関係であること、また教師もそれに加わっていることが描かれている。
台詞としても「君のそういうところが魅力的だが」とか「彼は君が好きな男だ」などというやり取りを男二人で交わしている、しかも二人はこのパーティが終わると片方の田舎の家に行って閉じ込められるんだ、とか二人で休暇をとって旅行をしよう、などアメリカ男なら少なくともこういう言い回しはしないだろうが、これがイギリス映画か舞台ならしかも裕福な貴族階級というのならしっくりいくのだがな、という感じなのである。アメリカ男性でこれを観るのはちと尻がかゆくなりそうだ(変な意味じゃないが)

若い男二人が住むアパートはかなり高層建築のマンションで豪華な部屋である。単なる遊びでお手伝いを頼んでパーティを開くという贅沢さ。
ここで二人は「優秀なものは殺人を犯してもいい。殺される奴は劣等な人間だ」という自分たちの考えを立証するためだけに友人を絞殺するのである。それに使われるのが『ロープ』なのだ。
非常に奇妙な物語でとても昔のアメリカ人が考える話とは思えない。
しかし実際これは当時アメリカで起きた事件でもあったらしい。裕福な家の青年二人が事実同性愛関係であり、自分たちの思想の為に友人を殺すという事実があったのだという。
それが元となってイギリスで舞台劇ができたということらしいのだが、現実にはアメリカでそういう事件はあった、というのが面白い、と言ってはいけないだろうか。
だがまあ、本作では成人した男二人がかつて学校時代敬愛していた舎監先生の教えを貫いて行動に移した、という展開になっている。
その深いつながりを持つ舎監先生がジェームズ・スチュアート演じるルパートである。(大体名前がブランドン、ルパート、デイヴィッドと呼んでいるのがアメリカ風じゃないし。いいけどさ)
彼は変わり者として人気を博していた先生で多分同性愛的な導きもしていたのではと思われる。且つ先に述べた「優秀な者と劣等な者」という過激な思想を生徒たちに与え殺人という概念を他の凡人とは違う視点で考える趣味を持っていた。つまりブラックユーモアを楽しむことを愛する教え子たちと分かち合っていたのだが、特にブランドンはその主義を実行に移すことこそが使命だと考えた。
という発想がこの物語の発端となるわけだ。
つまりこの映画自体が撮影も実験的なら物語も実験的なものであり大いにブラックな笑いを楽しんで観てみよう。この辺りもアメリカ的思考ではなくイギリス的に切り替えて観ないと味わい損なってしまう。
(しかし実際に起きた事件をシリアスに映画化することも考えられそうだ。実際幾つも作られているらしい)

メイキングで脚本の方が「殺害現場を入れてしまったのはヒッチのミスだ」と言っていたが、どうなんだろう。
確かに彼の言うとおり、殺人現場を見せず、ただこのキャビネットに死体が入っているのかどうか、というサスペンスもあるだろうが、見せたことで半減した気は私はしなかったが。むしろそれ以降はただの木の箱にしか過ぎないその家具の存在が気になって仕方ない、という演出効果の凄さに参ってしまった。ただの箱なのに!
「あの中に先程殺した男の死体が入っている」という観念があるだけで人が近づく度はらはらし通しだ。やはり殺害場面は入っていてよかったんではないか。アメリカ映画は判り易くないといけないし。
途中何度もあそこを開けてみようなんていう話になるのか、と気になった。やっとパーティが終わりかと思ったら(ほとんど犯人の気分で観てるな)お手伝いさんがてきぱきとキャビネットを片付けていく場面はさすがにフィリップなみに血の気が引きそうであった(何を慌てる自分)

もしかして死んではいなかった、とかブランドンがフィリップごと騙してるんじゃ、とか考えてもみたのだが、本当に死は死だったことでやはりヒッチの底意地の悪さというか徹底した執着心を感じてしまう。一つの室内だけでの撮影で映画を作りきってしまう技術とともに同性愛的なものを消してしまわない度胸と殺人に関する偏執的な嗜好ぶりは徹底している。
冒頭であっさり青年を絞殺し、死体を隠したキャビネットをテーブルに仕立てての食事、しかも殺された青年の父親と(本当は両親のはずだった。さすがに母親に息子の死体の上で食事させるというのは気が引けたのか)叔母と婚約者を招待するという悪質さなどは並みのホラー映画では味わうことができないほどの気持ち悪さである。
主人公ブランドンを演じるジョン・ドールの高慢な態度、フィリップを演じるファーリー・グレンジャーのいかにもゲイ青年的なハンサムで繊細な様子も魅力的だった。
対するジェームズ・スチュアートはいかにもあっさりした様子でホモ・セクシャルな雰囲気をまったく感じさせないのは彼の巧さなのか。判断しかねる。
少なくとも重苦しい感じにならないのだった。

部屋の大きなガラス窓から見える景色が時間が夕暮れから夜へと移っていくのを表現しておりラストにルパートが窓を開けることで街の騒音やパトカーのサイレンなどが素晴らしい効果になっている。
あまり面白くない、と思う人もいるようだけど、一つの部屋だけでの芝居、見えない死体の恐怖、おぞましいほどの演出、様々な台詞の意味合い、同性愛関係なども含めてこんなに面白い映画というのもそうありはしない、と思う。

監督:アルフレッド・ヒッチコック 出演:ジェームス・スチュアート ファーリー・グレンジャー ジョン・ドール
1948年アメリカ
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2009年12月05日

『刺青』増村保造

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久しぶりの増村保造だが、やはり面白い。しっかし恐ろしいタイミングというかまったくの偶然なのだが、昨日観て不満だったナタリー・ポートマンのアン・ブーリン!若尾文子に演じてもらったらよかったねえ。こういう色香を持つ悪女を想像していたんだが、まさか次の日、日本映画に登場してくるとは思わなんだ。

若尾文子が女優として活躍していた頃を知っているわけではないので自分にとっては映像の中だけの存在なのだが、目鼻立ちも体つきもどぎつさのない小作りのまるでお人形のような美しさに見えるのだが、日本女性にしてはちょっと低音の声でそれがまた悪女の色気を持っている。
本作の彼女は特に徹底した悪女となって描かれているのだが、それは彼女の白い背中に彫られた女郎蜘蛛が男の生き血を欲しがっているからだという理由なのである。
裕福な商家の箱入り娘であるはずのお艶は手代の新助と駆け落ちし、船宿の亭主の家へ隠れるが、悪党たちの算段で女郎として売り飛ばされてしまい、新助は殺されそうになってしまうのである。
ここまではよくある話といったところだが、このお嬢さん、まったく怖気づくこともなくまさに女郎蜘蛛の魂が入り込んでしまったかのように男たちから金を絞りとることに喜びを見出していくのである。なよなよとした愛らしい手弱女が人を殺すことすら何のためらいも恐れも見せず己の欲だけを満足させる姿はぞくぞくさせられる。
しかしそのお艶と恋仲になった新助は彼女との駆け落ちでさえすでにびくびくと怖気づき、お艶の変貌に愕然とし、人を殺すたびに焼かれるような苦しみを背負ってしまう。そのくせどうしてもお艶からは離れきれず彼女が他の男と体を重ねることには激しく嫉妬してしまうのである。

ここまで微塵も心が揺らがない悪女の表現というのはブニュエルなんかを思い出すくらいだろうか。
あまりに躊躇いなく恐ろしいことを口にし、行動する美しい女に見惚れてしまうのだ。

映像はきっぱりと計算された美しさがあり、艶が着る着物も今よく見るような類のものではなく、なんともお洒落で可愛らしい。着物を身につけていく様子、また脱がされていく過程も現在ではあまり観ることのできない美しい動作なのではないだろうか。
冒頭から縛られ、薬を嗅がされて気を失ったところをまっ白い背中に刺青をされていく、いかがわしい色欲に犯されていくそのままの表現としか思えない。
実際には彼女の裸も性的な場面もないのだがぬめぬめとした淫猥さに満ちている作品なおである。

このくらいの色香が昨日のアン・ブーリンにあったなら。といってもむしろそれを持つのはメアリ役のスカーレット・ヨハンソンのほうだが。

お艶のような美しい悪女に憧れてしまうのは自分がどうあっても絶対になりえない存在だからなんだろう。それは幸せであるのかもしれないが。

監督:増村保造  出演:若尾文子 長谷川明男 山本學 佐藤慶
1966年日本
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『ブーリン家の姉妹』ジャスティン・チャドウィック



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THE OTHER BOLEYN GIRL

いや、凄く面白く楽しんで観たのには間違いないがそれにしてもこれってなあ、なんだかお子様向け大河ドラマなのだった。

ホントはこういう大河ドラマってTVで毎週じっくりゆっくり時間が流れて行く方がちょうどいいのかもしれない。
とにかく物凄い駆け足で走り抜けていくのが時々おかしくてドラマと関係ない部分で笑ってしまえる。特にアンが王に嫌われフランスへ勉強してこいと追いやられたら2カ月で帰国する、という慌ただしさ、しかも大変身して今度はすっかり王のお気に入りっていう展開はさすがに苦笑を禁じ得ないぞ。
その上、史実とは(そりゃまあ色んな説があるだろうが)大きく異なったフィクションになっているようだが、そういう諸々があるとしてもなかなか面白く観てはいたのだが。

これはブーリン家の姉妹を対比して描いたものだろう。実際は姉妹が逆でアンが妹のはずだが、何故か本作では逆になっている。これは元々この話が史実そのものではない、という意味合いなのだろうか。
別に史実そのものでなくてもいいが(紛らわしいから本作での)妹メアリー(スカーレット・ヨハンソン)の優しく控えめな女性としての描き方は魅力的で納得できるが姉アンの傲慢さや上昇嗜好の演出は甘すぎてもっと豪胆で放埓だったのでは、少なくともどうせそのままではない対比ならもっと極端に描かなければいけないのではないだろうか。
それはナタリーがあまりに可愛いすぎるせいかもしれないし、記述では小柄でやせてて色黒系の不美人だったようなので、それでもなお王を惹きつけてしまう演出をしなければならないのに王がアンにそれほど夢中になっている気がしないのは致命的じゃないだろうか(3か月の付け焼刃フランス留学ではなあ)もっとえげつない悪女に仕立ててもよかったと思うのだがどうにも中途半端にいい人なのがつまらない。どうして弟との近親相姦はしなかったことになっているのか。

ヘンリー8世の描き方も甘々でどう考えたってこいつが元凶なのにハンサムな容貌でいい人に思わせられるのは変な気持ちである。

それにしてもヘンリーとアンの娘エリザベスはやっぱりこうして観ると女性でよかったんだろうな。美形好きなのは父母ともの影響のようだが女王であるからこそ自制ができたのかもしれない。

エディ・レッドメインはここにも出演。やはり血筋の良さということでの起用なのだろうなあ。しかもいいとこだけ持っていくお得な役どころであった。

監督:ジャスティン・チャドウィック 出演:ナタリー・ポートマン スカーレット・ヨハンソン エリック・バナ デヴィッド・モリッシー クリスティン・スコット・トーマス マーク・ライランス ジム・スタージェス ベネディクト・カンバーバッチ アナ・トレント エディ・レッドメイン 
2008年アメリカ/イギリス

ラベル:歴史
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2009年12月04日

米誌が選ぶ過去10年の「重要な映画」50本

米誌が選ぶ過去10年の「重要な映画」50本。第1位は「マルホランド・ドライブ」

こういうのっていつも「え〜??」という時が多いんだけど、これはなんだか私も加わっていたかのようなラインアップ。
1位の『マルホ』は判るとしても5位に王家衛の『花様年華』というのが嬉しい。

一方、過去10年間で最も大コケした失敗作は、エディ・マーフィのアノ作品!
は観てないものが多いので何とも言えないが7位がダニエル・クレイグ目的で観た『インベーション』でこれは確かにねえ。
タランティーノ『グラインドハウス』が入っているのは彼としてはむしろ狙うところ?
ラベル:映画 受賞
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『刑事コロンボ 完全版 Vol.3』「二枚のドガの絵」

Suitable for Framing

今夜は時間がなくて別のを観ようと思ってたのだが結局気になってコロンボ観賞。いや飽きさせず面白い。

特にこの『二枚のドガの絵』はコロンボらしい秀逸さを持っているんだと思うが何と言っても私は絵画ミステリーが大好きなのだ。
その絵画の意味合い自体と事件が絡むような話だと極上と言えるが本作はドガの絵自体の意味はないのだろうが(多分)それでもタイトルからして興味津津になってしまう。
宝石やら株券みたいなものではなく絵画が殺人にまつわる物語にはマニアックな魅力がある。絵画なんて金に換算しなければ一部の人には無意味なものでしかないのだが、それでも美術を解する人に対する尊敬の念というのはある程度誰もが持ってしまうものなのだろうか。そして自分にはその才能がある、という人間は奢ってしまうものではないだろうか。
本作でも『二枚のドガの絵』は確かに有名な画家の作品として登場するがその値段がどうこうというわけではない。その絵の値打ちが判る、というところに醍醐味があるのだ。

今回の殺人者である美術評論家デイルには素晴らしい名画を買い集めた叔父がいる。名実共に名高い評論家デイルにとってそのコレクションは垂涎の値打ちがある。だが叔父はここに来てそのコレクションを元妻に譲るという遺書を書いたのだった。それを知ったデイルは叔父を殺害しその罪を叔父の元妻に着せ遺産相続を自分のものにする計画をたてる。
実はその前に叔父は元妻と仲直りし素晴らしいコレクションの絵画をあちこちに寄贈する予定を立てていたのだ。デイルにしてみれば単なる値段ではない何ものにも代えがたい芸術作品を気まぐれに学校などに寄付しようとする態度は信じがたいものだったんだろう。つまり叔父や元妻にとっての絵画とデイルにとっての絵画の意味はまったく違うものなのだ。
確かにデイルは絵画の値打ちを理解していたのかもしれない。だがそれらの為に叔父と若い前途ある女性と叔母の人生の値打ちには何の理解もできなかったのはやはり人間性の欠落を感じてしまう。
自分の頭脳と行動に絶対の自信を持つデイルとコロンボの知恵比べ。今回のコロンボは彼の特徴を充分出しながらもちょっとかっこいいさばき方をして見せるのだが、それは犯人から手酷い叱咤を受けたことへの意地もあったんだろう。乱暴な言葉を受けたコロンボの表情をじっくり見せる場面は彼の押し隠した悔しさを滲ませているようで「あ〜あ。コロンボを本気にさせちゃったよ」的苦笑いである。
警察を操つり叔母を罪に落とし込もうとしてすべてはコロンボの計算どおりにはまってしまう。

もっとミーハーな絵画を盗めばよかったんだろうがドガのパステル画という自分の好きな値打ち品を選んでしまったのは失敗だったねえ。

監督:ハイ・アヴァーバック 脚本:ジャクソン・ギリス 出演:ピーター・フォーク キム・ハンター ドン・アメチ
1971〜1972年アメリカ
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2009年12月02日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.3』「ホリスター将軍のコレクション」

Dead Weight

5作目(シリーズ3作目)にしてマンネリ化を脱却しようと試みているかのような作品。
用意周到な殺人ではなく、殺害場面になる途端に場面が切り替わってその様子を窓の外から目撃した女性がいた、という展開になる。ただしそこが海上のヨットの上からだった、ということで窓からかなりの距離がある為犯人と被害者の顔までは認識できなかった。
その女性が警察に通報しコロンボが動くのだが、犯人とされた人物は英雄と称されるホリスター将軍であった。顛末を聞いた将軍は通報した女性に近づき身の潔白を証明する為に彼女に打ち解けて付き合っていく。そうするうち、通報した彼女自身が将軍に好意を持ちコロンボに向かって自分が間違っていた、と通報を取り消してしまうのだった。

前回と同じく衝動殺人ではあるが、かっとなって尻尾を出しまくった男と正反対に何事が起きても動じない軍人、という展開にしたのが面白い。一時的にはすぐ犯人を見破るコロンボですら騙されてしまうという冷静沈着な態度であった。
物語としては疑問はないのだが、結局決め手になったのは海底に沈めたはずの被害者が偶然海上に浮かびあがったことになるわけで、もしその偶然がなければこの殺人事件がどういう決着になったのか教えて欲しい気がする。つまり死体が見つからないのだから?
女性を丸めこんだのは将軍としての作戦だったのか(後で事件がうやむやになれば別れる?)それともさすがの将軍もこの年にして恋をしたのか。あっさりした結末からすれば作戦だったのか。
女性の方も案外あっさりと「変な男にばかり引っかかって」と言ってるんでまだそれほど真剣ではなかったのかね。

人並み外れた勇気を持った将軍だからこそできる隠し方、凶器を陳列棚に保管する、というのがなかなか面白いトリックだった。

ラストシーンで大きく額縁いりの「マーク」が映し出されるのだが、一見「ナチスのハーケンクロイツ」?と思ったのだが向きと角度が日本・中国のいわゆる寺マークの卍であった。
一体これは?朝鮮戦争での英雄と言ってるからその時の戦利品とか?ちょっとこれも何か知りたいなあ。

最初に通報を受ける若い警官くんが可愛かった。『コロンボ』の中では珍しい?

監督:ジャック・スマイト 脚本:ジョン・T・デュガン 出演:ピーター・フォーク エディ・アルバート スザンヌ・プレシェット 
1971〜1972年アメリカ
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ウホッ!!いい男たち2 ヤマジュン・未発表作品集 (fukkan.com)

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ウホッ!!いい男たち2 ヤマジュン・未発表作品集 (fukkan.com)

「やらないかバンダナ」付き、とはいえ、96ぺージ未発表作品4作でこの値段なのでかなり勇気はいるがでも彼の描く男たちって凄く好きなんだよなあ。
ていっても理想の恋人たちがいつもほぼ一緒だが(笑)それでも好きなのだ。
この年になるまでまったく知らなかったんだから後悔のしようもないが、こんないいマンガ家が不遇だったなんて気の毒としか言いようがない。(ほんとなのかな。ほんとは別に描いてるんじゃ?と思ってしまう)
4作どれもいいけどやはり表紙になるだけあって最初のお二人の行く末が気になるなあ。・・・幸せになって欲しい・・・です。
ラベル:同性愛 マンガ
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2009年12月01日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.2』「指輪の爪あと」

Death Lends a Hand

いやあ、面白いね。こうやって続けて観てるとより特徴も掴めてくる、というわけで。
コロンボ作品の特徴は今更言うことでもないけど、まず先に犯人の動機が判り殺人現場と犯人がどうやってそれを隠していくかを観客が観ることから始まりコロンボ警部の登場となるのだが、コロンボ警部が犯人にあった瞬間ほぼその時に彼はそいつが犯人だと直感している。後はコロンボ流ののらりくらり戦法で犯人やその周辺の人物を嫌がられるほどしつこく嗅ぎまわって(失礼!)犯人を追いつめていくのである。
その手法は番組のパイロット版から説明されている通り小柄で貧相な容姿で相手を油断させどうにも間抜けな話しっぷりで相手をかく乱させながら少しずつ謎を解き明かしていく。
その話術が醍醐味なのでこのドラマだけはその訳の見事さと小池朝雄氏の話しぶりを聞かずしてはコロンボが成立しないのである。
あまりにもそこんとこがミソなので肝心のミステリーがややお粗末でもさほど気にならないうえに非常に優れたTV作品だと思い込んでしまうのかもしれない。

というと何だか少々作品を揶揄しているようだがそういう意味ではなくてそれほどコロンボというキャラクターと訳と声優の合わせ作られた魅力が比類ないものだと言いたいのである。
コロンボ作品を観てておかしいというか気になるのはコロンボにとっくに見破られている犯人がいつも同じようにコロンボを馬鹿にし、言わなくてもいいことを言ったり、しなくてもいいことをしたり、彼の挑発にまんまとかかってしまうことである。
やはり真犯人というのはこういうものなのか。それとも実際にはコロンボ以上にのらりくらりと挑発をかわす犯人もいるのだろうか。というか。まだシリーズ観始めたばかりだ。これから先つわものも出てくるのだろうか(皆さん!別に教えてくださらなくていいですよ^^;観て行きますか)
今回の犯人は用意周到な計画的殺人では全くない衝動殺人という設定が却って珍しい。犯人は被害者となる女性のスキャンダルを掴むことで彼女を利用しようと企む。新聞社社長の妻と言う立場を利用して政治スパイをさせようとしたのだ。だが生真面目な性格だった彼女はその申し出をはねつけ彼の要求を新聞社社長である夫に話すと逆に脅す。かっとなった彼は彼女を殺してしまう。
昨日の作品に引き続き謎なのは「何故殺したのか」ではなく「何故殺されたんだろう」ということである。
これを言ってしまうとミステリードラマにならないが、夫に全部打ち明けて彼の行いもすっぱ抜くつもりなら、その覚悟があるのだったら何故彼の家へ行く必要があるのか。そんなことを女一人で告げに言ったらただではすまないと判りそうなものだ。物語としては何らかの彼女がどうしても彼の家へ行かなければならない理由、もしくは彼が彼女のいる場所へ押し掛けるか、どちらかにしなければ納得しにくい。
今回、首をかしげたのはその点だけなので昨日の作品よりまとまっているが、だからと言って昨日より物凄く面白いというわけではなく、物語というのは一長一短あるものだなと思わせられる。無論これも面白い『コロンボ』作品の中で、という意味合いである。

コロンボは「かみさん」始め多くの親戚を話に取り入れるのだがよくもまあ色々と関連性のあるエピソードがあるもんだ、というわけもなくこれも皆コロンボの作戦なのだろうが一体どこまでが本当なんだろう。全部嘘だとしたら少し寂しいし。
最後も犯人の車がタイミングよく故障したのをコロンボは自分の少年時代いい車を見ると排気管にジャガイモを突っ込んでエンジンをかからなくする悪戯の話で匂わせる。被害者の夫がもしや、と犯人の排気管を覗きこもうとして止めるという演出がうまい。無論その通りだったんだろう。大人なら判るはず、という見せ方である。
昨日も「早とちりは為にならず」という教えをいただいたが今回も「短気は損気」ということであった。どっちにしたって犯人にとっては身の破滅ではあったろうが。被害者には行く必要もない場所へ行く必要はなかったのに、と格言をあげたい。

監督:バーナード・L・コワルスキー 脚本:レヴィンソン&リンク
出演:ピーター・フォーク ロバート・カルプ レイ・ミランド
1971〜1972年アメリカ
posted by フェイユイ at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 刑事コロンボ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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