映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2009年12月06日

『ロープ』アルフレッド・ヒッチコック

1abdc659.jpgimg_36845_41936842_0.jpg
Rope 

イギリス人のヒッチコックがアメリカで映画製作を初めて随分経ってからの作品だが舞台劇を意識してのせいもあるのか、どう観てもイギリスの味が濃厚に出ている。といってもどの作品もあんまりアメリカ的とは思えないけどね。

加えるにこの作品は当時としては信じられないくらい主人公の二人が同性愛の関係であること、また教師もそれに加わっていることが描かれている。
台詞としても「君のそういうところが魅力的だが」とか「彼は君が好きな男だ」などというやり取りを男二人で交わしている、しかも二人はこのパーティが終わると片方の田舎の家に行って閉じ込められるんだ、とか二人で休暇をとって旅行をしよう、などアメリカ男なら少なくともこういう言い回しはしないだろうが、これがイギリス映画か舞台ならしかも裕福な貴族階級というのならしっくりいくのだがな、という感じなのである。アメリカ男性でこれを観るのはちと尻がかゆくなりそうだ(変な意味じゃないが)

若い男二人が住むアパートはかなり高層建築のマンションで豪華な部屋である。単なる遊びでお手伝いを頼んでパーティを開くという贅沢さ。
ここで二人は「優秀なものは殺人を犯してもいい。殺される奴は劣等な人間だ」という自分たちの考えを立証するためだけに友人を絞殺するのである。それに使われるのが『ロープ』なのだ。
非常に奇妙な物語でとても昔のアメリカ人が考える話とは思えない。
しかし実際これは当時アメリカで起きた事件でもあったらしい。裕福な家の青年二人が事実同性愛関係であり、自分たちの思想の為に友人を殺すという事実があったのだという。
それが元となってイギリスで舞台劇ができたということらしいのだが、現実にはアメリカでそういう事件はあった、というのが面白い、と言ってはいけないだろうか。
だがまあ、本作では成人した男二人がかつて学校時代敬愛していた舎監先生の教えを貫いて行動に移した、という展開になっている。
その深いつながりを持つ舎監先生がジェームズ・スチュアート演じるルパートである。(大体名前がブランドン、ルパート、デイヴィッドと呼んでいるのがアメリカ風じゃないし。いいけどさ)
彼は変わり者として人気を博していた先生で多分同性愛的な導きもしていたのではと思われる。且つ先に述べた「優秀な者と劣等な者」という過激な思想を生徒たちに与え殺人という概念を他の凡人とは違う視点で考える趣味を持っていた。つまりブラックユーモアを楽しむことを愛する教え子たちと分かち合っていたのだが、特にブランドンはその主義を実行に移すことこそが使命だと考えた。
という発想がこの物語の発端となるわけだ。
つまりこの映画自体が撮影も実験的なら物語も実験的なものであり大いにブラックな笑いを楽しんで観てみよう。この辺りもアメリカ的思考ではなくイギリス的に切り替えて観ないと味わい損なってしまう。
(しかし実際に起きた事件をシリアスに映画化することも考えられそうだ。実際幾つも作られているらしい)

メイキングで脚本の方が「殺害現場を入れてしまったのはヒッチのミスだ」と言っていたが、どうなんだろう。
確かに彼の言うとおり、殺人現場を見せず、ただこのキャビネットに死体が入っているのかどうか、というサスペンスもあるだろうが、見せたことで半減した気は私はしなかったが。むしろそれ以降はただの木の箱にしか過ぎないその家具の存在が気になって仕方ない、という演出効果の凄さに参ってしまった。ただの箱なのに!
「あの中に先程殺した男の死体が入っている」という観念があるだけで人が近づく度はらはらし通しだ。やはり殺害場面は入っていてよかったんではないか。アメリカ映画は判り易くないといけないし。
途中何度もあそこを開けてみようなんていう話になるのか、と気になった。やっとパーティが終わりかと思ったら(ほとんど犯人の気分で観てるな)お手伝いさんがてきぱきとキャビネットを片付けていく場面はさすがにフィリップなみに血の気が引きそうであった(何を慌てる自分)

もしかして死んではいなかった、とかブランドンがフィリップごと騙してるんじゃ、とか考えてもみたのだが、本当に死は死だったことでやはりヒッチの底意地の悪さというか徹底した執着心を感じてしまう。一つの室内だけでの撮影で映画を作りきってしまう技術とともに同性愛的なものを消してしまわない度胸と殺人に関する偏執的な嗜好ぶりは徹底している。
冒頭であっさり青年を絞殺し、死体を隠したキャビネットをテーブルに仕立てての食事、しかも殺された青年の父親と(本当は両親のはずだった。さすがに母親に息子の死体の上で食事させるというのは気が引けたのか)叔母と婚約者を招待するという悪質さなどは並みのホラー映画では味わうことができないほどの気持ち悪さである。
主人公ブランドンを演じるジョン・ドールの高慢な態度、フィリップを演じるファーリー・グレンジャーのいかにもゲイ青年的なハンサムで繊細な様子も魅力的だった。
対するジェームズ・スチュアートはいかにもあっさりした様子でホモ・セクシャルな雰囲気をまったく感じさせないのは彼の巧さなのか。判断しかねる。
少なくとも重苦しい感じにならないのだった。

部屋の大きなガラス窓から見える景色が時間が夕暮れから夜へと移っていくのを表現しておりラストにルパートが窓を開けることで街の騒音やパトカーのサイレンなどが素晴らしい効果になっている。
あまり面白くない、と思う人もいるようだけど、一つの部屋だけでの芝居、見えない死体の恐怖、おぞましいほどの演出、様々な台詞の意味合い、同性愛関係なども含めてこんなに面白い映画というのもそうありはしない、と思う。

監督:アルフレッド・ヒッチコック 出演:ジェームス・スチュアート ファーリー・グレンジャー ジョン・ドール
1948年アメリカ


posted by フェイユイ at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。