映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年01月31日

『細雪』市川崑

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昨日の『青いパパイヤの香り』に引き続いて今夜のこの作品。どちらもその国の美しさを堪能できる情景描写とそこに生きる女性達を映しだした素晴らしい映画であった。

本作は純粋な日本の風景のようでいてやはりそこは谷崎潤一郎文学である、倒錯したエロスがほんのりと漂うのだ。
観ていると次女幸子の夫(石坂浩二)が羨ましくなってしまうのだが(男を羨ましがってどうする)美しい妻を持ちながら彼女の3人の美しい姉妹にかしずくように行動する男は作者谷崎その人そのものもしくはこうなりたいという願望のように思える。
長女の夫もまた妻を熱愛している様子で、4人の姉妹に敬慕の念を抱きまるで仕えるかのような二人の男の言動は他の日本の文学では見つけ難いものではないだろうか。
エロス、と言っても次女の夫の義妹への思慕は彼の言うとおり妹に対する気持ちであり禁欲的なものなのだろうが禁欲的だからこそより倒錯したエロチシズムが彼の胸の内に潜んでいるのである。

市川崑監督の演出には心酔してしまうしかない。冒頭の桜から最後の川面に落ちる細雪の景色、4人姉妹の細やかな描写にも神経が行き届いている。
そして配役の妙がある。4姉妹の布陣もこれ以上のものを望めない気がする。しゃきしゃきしてるが女らしい長女の岸恵子、何とも言えない甘さを持つ次女の佐久間良子、二人が何かとケンカをしながら互いに支え合っている様子が伺える。何を考えているのかよく判らない三女に吉永小百合、次女の夫が心惹かれるのが彼女なのだが無口でしとやかながら自分の意思を曲げない頑固さを持っており、度々の結婚話にも首を縦に振らず粘りに粘って意中の男性と結ばれることになる。心が読みとれないのでやや不気味に思えるのだが谷崎はこういう女性に惹かれたのだろうか。(追記:一日経って思うとやはりこの映画は雪子を描きたかったのだ。家のしがらみなどに追い詰めながらも自分が愛すると思える男性と会えるまで、まさに粘りぬいた。姉二人が感心するに価する雪子の生き方である。谷崎と思しき次女の夫が愛するにも相応しいしとやかでありながら強い日本の女性の姿なのだ。吉永小百合に演じさせたのも素晴らしい配役だった)
そしてその三女の意にかなった男性、華族の御曹司になんと元阪神タイガースの江本孟紀を当てたというのが驚きだった。台詞も殆どないに等しいので無理ではないしひと際高い身長と独特の二枚目な顔立ちが確かに御曹司として合ってなくもない。
長女の夫には亡き伊丹十三氏でこれも文句なしであった。

映像美以外に台詞の美しさも印象的なのだが、身内に話す時の柔らかさと違って使用人達にはかなり厳しい言葉づかいなのだと驚いた。

日本映画にしては稀有なほどの裕福な人々の優雅な生活風景なのであるが時代はこの後すぐ第二次世界大戦へと突入していくのだ。
この穏やかに美しい情景はこのままの形ではもうあり得ないのである。
ここに写し撮られた美は、姉妹がそろって見た桜の景色を見ることは叶わず、そして水面に溶ける細雪のように儚いものなのだろう。

監督:市川崑 出演:岸恵子 佐久間良子 吉永小百合 古手川祐子 石坂浩二 伊丹十三 岸部一徳 桂小米朝 細川俊之 小坂一也 横山道代
1983年日本
ラベル:時代 女性 倒錯
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2010年01月29日

『青いパパイヤの香り』トラン・アン・ユン

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L'ODEUR DE LA PAPAYE VERTE

昨日と同じくトラン・アン・ユン監督作品。絶えず苦痛に呻き血が溢れ出る昨日と違い、静謐で美しい玉を見てるかのような本作なのだがその実どこまでもゆったりとして曖昧な表現はまったく同じなのであった。

ベトナムを舞台としながらまるで異空間にいるように思えるのはやはりセットで作られた世界だからだろうか。地面を造形するのは人間には難しいのかもしれない。(何故わかってしまうんだろう。本当の地面は柔らかいものなのか。作品の中の道路はいかにも固そうなんだ)
人工美として表現されるその世界はそのまま夢の中のベトナムなのであろうか。そう言えば少女期のムイの世話を焼いてくれるメイドの女性が「お前は夢を見ていたね」と言う台詞がある。
物語は2部に分かれており、最初は小さな少女ムイが御屋敷の小間使いとして働く姿を描きながらその家の悲劇を描いていく。次に10年後、別の家で働くことになったムイが美しく成長しその家の若い主人と親しくなっていく様子がどちらも淡々と美しく映し撮られていく。
どちらの家も楽器を演奏する男性がいてその音楽が流れている。人工的に作られた暑いサイゴンの情景が描写される。
軽い風が吹く中地べたに座り込んで野菜を切り料理をし、地を這う蟻を見つめるのが好きなムイ。
少女のムイに優しく接してくれる同じメイドの女性やその家の女主人。特に女主人はムイと同じ年齢の娘を幼くして亡くしておりその姿をムイと重ね慈しんでくれるのだった。
成長したムイは新しい主人となった男性の婚約者から嫉妬を受けてしまう。主人は婚約者からムイへと愛情を移してしまったのだ。

前の女主人の夫は一体何をやっていたのか。本当に自分の妻を疎ましく思っていたのか。何か秘密があるのか。ゲイだったのかもしれないしね。ムイをいじめる男の子の気持ちも結局わからずじまい。
成長したムイに好意を寄せる男性も婚約者を無視するような態度をとって別れるなどろくでもない男でムイに対する気持ちがどんなものなのかなどは疑ってしまう。字を教えていることで自己満足しているだけの男なのかもしれない。
だがムイはどんな時も流れに身を任せるようにしながら凛として生きて来たのだ。その男がどんな人間であったとしても彼女の美しさを汚すことはできないだろう。
ムイが最後に読む詩の言葉「どんなに水が渦巻いても桜の木は凛として佇む」(というようなもの)が彼女の存在を表現しているに違いない。

作られたベトナムの街の雰囲気の心地よいこと。きっと本当は暑くてたまらないんだろうけど映像ではその激しさが多分緩やかなものになっているのかもしれない。
ムイの見つめるまなざしと滴るような緑がうっとりとした時間を感じさせる。
大人になったムイも綺麗だけど、やはり少女のムイに心惹かれてしまう。慣れない屋敷の中で男の子の悪戯を我慢しながら裸足で健気に食事を運び、家の掃除をするムイ。そんな忙しい間でも虫を見つめたり切り開いたパパイヤの中の種を見て驚きを覚えるムイ。屋敷の長男の友人に恋心を覚え、優しい女主人の花瓶を割ってしまいその破片を頬に当てるムイ。小さくてかわいらしいムイに誰もが惹かれてしまうだろう。

作品に登場する男性はどの人物もまるでその心情が判らないのだが、たった一人自分の気持ちを表現するのが屋敷の大奥様をずっと愛し続けている老人である。
何かの理由で彼は愛しい人(今はもう同じお婆ちゃんなわけだが)に会うことができないという。彼女が引越しをしてもずっと後を追い続けてきたという彼だけが本作で心を表した男性であった。

監督:トラン・アン・ユン 出演:トラン・ヌー・イェン・ケー リュ・マン・サン グエン・アン・ホア クエン・チー・タン・トゥラ
ヴォン・ホイ
1993年 / フランス/ベトナム
ラベル:女性 少女
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2010年01月28日

『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』トラン・アン・ユン

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I COME WITH THE RAIN

想像してた以上になかなか見せてくれる映画だった。

3人のイケメンアイドルが揃い踏みの映画、というのが宣伝文句になるのだが自分的には3人とも嫌いではないがだからと言って観たくなる、というほどの面々でもない。ところが他の感想を覗いてみるとこれが驚くほどの叩かれ方である。途端に興味が湧いてしまったのはなんたるへそ曲がりか。

そしてこれが結構面白かったのだ。
どこが、と問われると確かに即答はできない。退屈はしなかったが、本作の奥に隠れている何かをすぐにみつけることはできなかったし、無理かもしれない。ただ登場する男達を見ていることが気持よかっただけである。

酷い残酷性に反感を覚えた方が多いようだが、私も苦痛なのは嫌いだがこれはそれほどの嫌悪感を覚えなかった。
というのは作品中、苦痛の芸術家である男ハシュフォードが説明するとおり苦痛こそが最も美しい、という思考をそのまま映像化しているのだなあ、と思われたからで3人が感じる苦痛はそのままエロチックな感情を引き起こすものとして表現されていたからだろう。
夥しく流れる血も体中に刻まれた傷跡もセクシャルな観念と重なっていく。
これをもっと見やすく感じやすく表現していたのは高河ゆんの『子供たちは夜の住人』なのではないかと思うのだが他人の痛みを引き受けてしまう柴の感じる苦痛、という表現に衝撃的なエロチシズムを感じてしまった。彼女の漫画も血が流れ苦痛をセクシャルな表現として用いていることが多いのだが絵柄の愛らしさのせいでこの映画のようなグロさは感じない。それが彼女のよさなのだが、実写においてはこのような生臭さに変ってしまうのである。
と言っても自分としては同じ目線で観ていたので「キムタク痛そーふふん」という感じだったのだが。
キムタクも痛そーだったがハスフォードに殴りまくられ裸にされ何故か腕を噛みつかれるジョシュも痛そーだった。しかも殆ど男色強姦光景のようであった、
私はジョシュにそれほど注目してたのではないがこの映画では最もエロチックに思えたのである。しかも物語が香港が舞台だとは思わなくてしかもジョシュがショーン・ユーと相棒状態になるとは思わなんだ。
おいおい、イケメン3人じゃなく4人の間違いだろ。ショーンも充分仲間入りする資格あると思うんだがなあ。
ジョシュを助手席に乗せて(シャレではない^^;)反対方向に走り去る車のビョンホンに話しかけながら、逆走するシーンがあざといながらかこよくってさ。こういうのってアジアンテイストだよねえ。ジョシュとショーンが仲良く魚の浮袋を食べてる場面だとかの街の雰囲気もよろしくて、さらにサム・リーが登場した時はイケメン5人・・・ま、そこまではないか。
あまり肉体的苦痛を感じることができなかったイ・ビョンホンは何やら物凄く重い精神的ダメージを背負っているようで。美しいリリ(監督の奥さんだと。ほー)に抱きしめられる時の悲しみに満ちた目はビョンホンの18番なのであるがさすがだった。すてきだった。エロだった。

というわけで3人は思い切り苦痛の美学を表現してくれたのだった。
表現を補佐してくれたのがフランシス・ベーコンの絵画、とりわけ頭が口を大きく開いただけのもの、というあの奇怪な生き物である。
彼の絵をそのまま持ってきてしまうのはさすがにどうかなと思わなくもないが気持ちは判る。
というかあのオブジェがすべてを物語ってしまうのである。
と同時に私としては『ゲルマニウムの夜』を思い重ねてしまう。あの作品もまた苦痛と神を描いたものであった。

この中で木村拓哉演じるシタオは奇跡を起こす。苦痛に苦しむ人々の苦痛を我が身に引き受けてしまうという奇跡である。
その行為はキリストが起こした奇跡を思い起こさせる。そして最後シタオ=キリストは悪の権化ス・ドンポによって磔にされる。
シタオは死んだのか。放浪する芸術家(サム・リー)によって彼はキリストとなり、クラインの手によって復活するのである。

トラン・アン・ユン監督次回、松山ケンイチが主演する『ノルウェイの森』も監督するので気になって観てみたっていうのもあったのだった。『シクロ』だけは観たんだけど。あれもこれも独特の世界で『ノルウェイの森』も私的には大いに期待だけど評価がすでに分かれそうな予感が。そのくらい突きつめたのがよいのだけどね。

監督:トラン・アン・ユン 出演:ジョシュ・ハートネット 木村拓哉 イ・ビョンホン トラン・ヌー・イェン・ケー ショーン・ユー イライアス・コティーズ サム・リー
2009年フランス
ラベル:苦痛
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2010年01月27日

『ナインスゲート』ロマン・ポランスキー

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THE NINTH GATE

ポランスキー監督を最初腐していたのはどこへやら今では立派なポラファンの私だがこの作品もまた面白かったねえ。

『ローズマリーの赤ちゃん』の時に書いたと思うんだけど悪魔の物語ってキリスト教徒以外の日本人からすればあんまり面白くないんだと思う。悪魔っていうのはつまりは同じ宗教での神を信じるから恐ろしいんであって宗教が違えばただの変な奴でしかない。悪魔物語を読んだり観たりする時は頭の中でこれは神に敵対する危ない者だと確認しながら観ていないと恐怖ではなく滑稽にしか思えないので(向こうの人もそう感じてるのか?)結構大変なのである。
作品としては『ローズマリーの赤ちゃん』のほうがシンプルで完成度が高いのではないかとも思えるがあの時不満を感じていた「女性がやたらおどおどしてやだ」っていうのは本作ではすっかり消滅し女性こそが悪魔になっている。いわばローズマリーが悪魔へと成長してしまったのだ。
そして本作では男性のコルソ(ジョニー・デップ)がおどおどとまでしないがかなり苦労しながら悪魔への道を辿っていく。それこそが『ナインスゲート=9つの門』なのかもしれない。
ロマポラの作品に続けて登場する彼の妻でもあるエマニュエル・セニエはここでもその妖しいまでの美しさを披露しコルソを気に入って「悪魔の本」を探す手助けをする。そして最後には彼と交わるのだがつまりこれ悪魔の花嫁ならぬ魔女の花婿になってしまったのだな。あの場面でジョニー演じるコルソが精力を吸い上げられてしまうのではないかと心配してしまった。

とにかく他ではあまり好きになれない悪魔ものだが、本作の描き方は申し分のない面白さでぞくぞくさせてくれた。
悪魔に取りつかれた富豪の男から世界に3冊しかない「悪魔の書」のうち手に入れてない残り2冊を調べて欲しいという依頼を受けたコルソが不審な連続殺人などに怯えながらも探訪の旅に出る。突然現れた謎の美女はどういうわけか常に彼の味方となって助けてくれる。そして信じ難いほどの能力を持っているのだった。
飽きずに観れた要因の一つはコルソを演じたのがジョニー・デップだからというのもありで、ここでの彼は髭と眼鏡が知性を感じさせるスタンダードな二枚目になっている。腕力に乏しいのが心もとないがそこを助けてくれるのが舌足らずな英語を話す美女なのである。
彼女が初めて登場する場面で椅子に座る彼女の脚がアップになったので何やら魔女の印でもあるかと凝視したのだが判らなかった。緑の目というのがもう悪魔的であることを示しているのだろうが。

ただ悪魔の話、というだけでなく悪魔について書かれた古い書物を探すという部分に惹かれる。固い装丁や上等な紙と印刷、描かれた3冊の挿絵の違い、などというミステリーがわくわくするものであってそれ以上に悪魔になる部分がなくても充分楽しませてくれるものだった。

ところでこれも偶然だが昨日観た『ミッドナイトトレイン』の箱の中の宝物こそ悪魔の仕業であったのだろう。どちらもそれが多くの人の死を呼んでしまうのである。
無論「悪魔」というのは単に言葉であってそれが何に姿を変えても「悪魔的な存在」なのだということだ。昨日のそれは「箱の中の何か」であった。
多くの場合は金だったり、権威だったりするというわけで。

本作ではそれを悪魔学という形でおどろおどろしく見せてくれた。やはり「金(カネ)」というんじゃちょっと殺風景過ぎる。
おぞましい思想と乱れた性という危険な描写が映画には必要なのだね。

監督:ロマン・ポランスキー 出演:ジョニー・デップ フランク・ランジェラ レナ・オリン エマニュエル・セニエ ジェームス・ルッソ バーバラ・ジェフォード
1999年 / フランス/スペイン
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2010年01月26日

『ミッドナイト・トレイン』ブライアン・キング

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MIDNIGHT TRAIN

クリスマスの夜、雪の平原をひた走る列車。車中はクリスマスらしい飾り付けがされているものの乗客は僅か数えるほどしかいない。乗務員は老車掌と若い助手と機関士だけ。
停車した列車に向かって走ってきた一人の男がいた。
切符もなく金を払おうともしない男だが雪の中に置いていくわけにもいかない。老車掌は親切に不審なその男を列車に乗せることにする。
車掌が男を乗せた場所は「展望車」と呼ばれていて、そこには酔っぱらった30代の男とまだ学生らしい眼鏡の若い女性が座っていた。
乗り込んできた男が眠り込むのを見た車掌が代金を要求しようとすると男はすでに死んでいたのだった。

死んだ男は小さな箱を持っていてそれには細かい飾り穴のようなものが施されている。
それを覗きこんだ酔っぱらいの男はあっと声をあげた。
その中には信じられないほど大きな宝石が入っていた。金に換えれば何百万ドルとなるだろう。居合わせた3人はそれを見た時から全てが変わってしまった。

走る列車の中、という限られた空間の舞台劇のような趣で映像が何やら一風変わった処理がされてアニメーションのようにも見えるという独特な作りの作品だった。
観客に見せられることのない「箱の中の宝物」が3人の人生を変えてしまう、という設定も、その宝物が見る人によって姿かたちが違うものになる、というのも目新しいものではないし、それによって特に女が異常な人格に変貌し残虐の限りを尽くす、というのもさほどスリリングというわけでもないのだが、工夫を凝らして楽しませようという意気込みの為か結構それなりに面白く観れたのだった。

まあなんといっても作品を観せてくれたのは老車掌を演じたダニー・グローバーのおかげであろうか。眼鏡の女学生から何とも色っぽい殺人者に変貌する金髪のリーリー・ソビエスキーには目が釘付けだったことも確かで。
可愛いポメラニアンを連れた老婦人はどう見ても男性だったので^^;単にそういう御方かなあと思ってたが。
そして謎の東洋人的存在の日本人二人組。何故か碁を打っていて別に日本人も碁を打つ人はいるから変ではないが車掌が携帯使っているのを見ても時は今なんだろうから日本人ならゲームやっててもよかったんじゃないか。いいけど。

冒頭辺りはミステリアスな雰囲気も雪の中を疾走する列車というイメージもよろしかったのが途中からは過激なアクションものになったのは仕方ないことなのかやや残念。
『銀河鉄道999』か王家衛の『2046』か、という路線で攻めてもらいたかったのだがなあ。

監督:ブライアン・キング 出演:ダニー・グローバー リーリー・ソビエースキー スティーブ・ザーン ジェフ・ベル
2009年 / アメリカ/ドイツ/ロシア
ラベル:ミステリー
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『チェンジリング』クリント・イーストウッド

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CHANGELING

イーストウッド監督作品はとにかく判りやすい、ひたすら飽きさせない。恐ろしい社会問題などを取りあげてもあくまで観客が面白く観れるよう娯楽性を失わない姿勢は徹底している。
『チェンジリング』と言うタイトルで子供が可愛くない子と入れ替わるとは判ったし、当時の警察の腐敗を描いているとも聞いたのだがまさかそこから「いつもの」連続猟奇殺人事件につながっていくとは思わなかった。
しかしイーストウッド監督は健全さを失わない。話題は刺激的でも登場する子供達が直接惨たらしい行為を受けたり、残酷な映像をさらけ出すことをしないのは偉いものだ。
物語は極めて迅速に進行していく。場面展開は的確で構成は骨太でラストの処理に至るまで申し分ない。男親の存在しない家族で、母親が行くえ不明になった息子を探し求めるという物語はドラマチックでありながら全く涙を誘わない乾いた質のもので爽快ですらある。

と書くと一体褒めてるのか貶めているのか判らないが、私にとってイーストウッド監督作品はいつも面白くて嫌ではないがそれ以上にのめりこむような世界観ではないのだ。しかし彼は別にそれでいい、と言ってるような気さえする。べたべたと好きだとか言うのではなくがっと観てなるほどと頷いてよし、という実にさっぱりと突き放した感覚でありそれ以上に変な芸術性だとか問題作だとか追求してはいないんだろう。しっかりとした内容でなにか一つのテーマを描き切ればいいという率直なスタイルのアメリカらしい映画なのだ。

本作を観て気になったのは部屋の中が昼間でも暗いこと。夜なら本当に真っ暗である。他の映画では何となくライティングしてしまうせいか部屋の中でもいつも明るいがここでは凄く暗い。それは作品的なイメージなのか、当時の部屋の中はそういうものなのか、その当時のアメリカの生活を知らないので何とも言えないが私が生きている間の昔の日本の家の中も何となく暗かったような気がする。
この暗さがホントっぽく思えたのである。

昨日まで観続けていたコロンボ警部から50年ほど前のロサンジェルス警察がこんなものだったのだなあ、と感慨深いものである。

少し前に日本映画の『休暇』で死刑にされた囚人の体を支える役、というのを知って驚きだったが、これを観る分にはアメリカではやはりそういうことはやっていないのか。どうなんだろう。必要なんだろうか。気になる。

監督:クリント・イーストウッド 出演:アンジェリーナ・ジョリー ジョン・マルコビッチ ジェフリー・ドノヴァン コーム・フィオール ジェイソン・バトラー・ハーナー エイミー・ライアン デニス・オヘア
2008年アメリカ
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2010年01月24日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.22』「策謀の結末」

The Conspirators

とうとうこのシリーズ最後の作品となってしまった。TV放送としては新シリーズもあるのだが、私がレンタルできるDVDシリーズとしては最終巻である。
そしてその最後にふさわしい素晴らしい味わいの作品であった。コロンボ作品の最盛期のようなトリックの妙とおかしさ、という点はさすがに乏しくなってしまっているのだが年齢を重ねた人間の如くじんわりとにじみ出てくるようなコロンボの雰囲気と彼の好敵手として不足のない風格の殺人犯人である。
また事件の背後にアイルランド紛争が絡んでいることもドラマに深みを加えているだろう。本作の犯人は詩人である為にドラマのそこここに彼が韻を踏んだ台詞が散りばめられており(と言っても残念ながら日本語吹き替えで観てるのでその妙味は想像するしかないが)アイリッシュらしい言葉の達人であり豊かなユーモアを持っている。詩には疎かったというコロンボもここで彼と詩の対決及び酒場でのダーツの対決を披露する。飲んだ酒の量もドラマ一ではないだろうか。
『別れのワイン』での犯人と同じように本作の犯人ともコロンボは深い友情を感じているようだ。ただワインを愛して一人を殺害してしまった以前の犯人と違い本作の犯人であるデヴリンは結局テロリストであり彼が銃を輸送することで多くの人々が死ぬ運命にあるのはコロンボとしては絶対に許せないことだったに違いない。コロンボがなんとか船を止められないかと疾走する場面は単なる犯人逮捕だけの問題ではなかったはずだ。
それでもデヴリンから酒を勧められほっとして承諾する心にはそれと知っても芽生えた友情の気持ちを感じてしまう。
そして犯人を知る手掛かりとなったウィスキーのボトルに傷を入れる「飲むのはここまで。これよりも過ぎず」
こうしてコロンボを作るのも観るのもここより過ぎることはない、という暗喩になったのである。

かつての大げさなトリック、笑い、コロンボのしつこい演技が抑えられウィスキーの如く大人の味わいになっている、というところなんだろう。
犯人のデヴリンは冗談ばかり言っては酒を飲み過ぎる欠点もあるのだが、14歳の頃からアイルランドを飛びだし一人アメリカで必死に生きて刑務所に入った過去を背負っている。
コロンボシリーズでは私利私欲の為に殺人を犯す、という設定が案外多いのだが本作はそれとは違う苦いものがある。
アイリッシュの物語、というのは彼らが素晴らしい詩人であり文筆家であることもあって見応えのある作品が様々にある。また様々な人種が混合するアメリカの中でも目立つ存在だ。
私はウィスキーは全く飲まないがアイリッシュの話を読んだり観たりすると味わってみたくなる。黒ビールもまた。

さてコロンボシリーズも最後ということでその締めくくりの感想も書きたいものだが、思い出そうとするとどっとわき出てきて何をどう言っていいのやら。
とにかく、私としてはずっとコロンボが好きだったのだが、そのくせそれはかつて観た時の思い入れであって実際は諸々をとんと忘れていた。
こうして観返すとどうやらぼんやり覚えていたのは最後の6作品ほどと『忘れられたスター』くらいで後はすっかり忘れきっていたのだから一体何を言わんかや、だ。
それにしても凄いのはコロンボを作ったのは脚本演出含めて様々な人が関わっているのにコロンボは歴然としてピーター・フォークのコロンボである、ということだ。
確かに続けて観ると怒りっぽかったり優しすぎたりかっこつけてたり特にしょぼくれてたりするがこれだけ違った人々が作っていてもイメージが全く食い違う、ということはなくコロンボである。
それは無論毎回軌道修正が入っていたであろうと思うのだが、やはり観る者としてはピーター・フォークという俳優がコロンボを作ったのだろうな、と信じてしまうのである。
義眼の為の独特の眼差し(これは他の役者では真似できない)お決まりの手を挙げるポーズ、小柄なくせに猫背でよろよろとがに股で走ってくる。よれよれの着っぱなしのレインコート浅黒い肌と濃い髭の剃り跡。変てこな眉の形ともじゃもじゃ頭。なのに他のすらりとした男たちよりかっこよく見えてきてしまう。ぶつけた痕だらけのプジョーやぼさーとした犬くんも可愛く見えてしまう。
しつこくて嫌な奴、という設定だと思ってたが、ずっと観続けたせいかそうでないか判らないが観直してみるとコロンボのしつこさは当然のことでとにかく冷酷な犯人が多いこともあって彼としては絶対に逃したくないのである。
多くのファンを持つこのシリーズだが心底頷ける。
それにしてもコロンボはピーター・フォークだからこそのコロンボなので彼ばかりは他の役者でリメイクすることはないだろう。
コロンボ夫人が存在するのは確認できたが彼女が姿を見せない、という演出もうまい。それでもコロンボが奥さんを凄く愛しているのが伝わるので女性ファンもまた多いのだと思うのだ。私もその一人である。

監督:レオ・ペン 脚本:ハワード・バーク 出演:ピーター・フォーク クライヴ・レヴィル
第7シーズン1977〜1978年アメリカ
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2010年01月23日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.22』「攻撃命令」

How to Dial a Murder

心理学者とコロンボの対決。ドラマ中コロンボが犯人に対し「あなたにはがっかりしました。心理学者なのに手がかりを残しすぎる。簡単な事件でした」これはコロンボがあえて言った意地悪な言葉でそうそう簡単な事件であるはずもないがコロンボがスルスルとたやすく事件を解いていくのでそう見えるだけなのではないだろうか。絶えず人の心理を突こうとするコロンボと心理学者の犯罪はむしろ波長が合ってしまったのかもしれない。
そう言えば今思い出したのでここに書いてしまうが(前回だったか?少し前の事件だったが)コロンボが力説して「理由なき殺人とか言うが実際は必ず理由がある。私は犯人の動機を寝ないで考えてしまうのです」みたいなことを話していたのだがそれこそ最近の殺人事件には理由なき殺人、と言われることが多くなった。これらの事件にもコロンボは動機を見つけることができるんだろうか。もしかしたらコロンボにならできるのかもしれないが。

ところで今回の事件は愛犬家には拒否反応を起こさせてしまうのではないか。罪もない犬たちに殺人を犯させしかも保身のために自分の犬(主人に忠実な心を捧げている彼らにだ)を殺してしまおうとする。確かにコロンボの言葉ではないが、がっかりさせられる犯人である。(犬にチョコレートを食べさせようとしたらコロンボに邪魔され自分で食べてしまったので驚いたが、これは毒入りチョコレートということではなく、チョコレートそのものが犬には中毒を起こさせるのだと後で知った。(キシリトールがいけないっては聞いてたが)本当に酷い奴だ!)
この男は妻と友人と犬と彼に好意を寄せている若い女性に対しても冷酷な仕打ちをする。その上、手がかりだらけのお粗末な殺人者ではどうしようもない。
同じ演出家によるものだが昨日の作品も今回のもコロンボにたやすく見破られているのだが、物語の印象が全く違うのは脚本の力のせいだろうか。

それでも「キーワード」という題材はなかなか面白いものだった。
以前にも催眠術をかけてキーワードによって人間を動かしてしまう、という話があった。魔法は言葉によって掛けられるものだがまさに、である。

監督:ジェームズ・フローリー 脚本:トム・ラザラス 出演:ピーター・フォーク ニコール・ウィリアムソン
第7シーズン1977〜1978年アメリカ
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2010年01月22日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.22』「秒読みの殺人」

Make Me a Perfect Murder

そうだったー。これが大好きだったんだよなあ。特にあの映写技師さんが「パンチが出たらここをこうやって」と華麗にフィルムを切り替える場面が印象的でコロンボが自分もやってみたいとねだる気持ちがよく判る。頭脳明晰なコロンボ警部、こういうのはほんとぶきっちょでしっかり失敗してみせてくれるのが嬉しい。技師さんはかなり落ち込んで可哀そうだったけど。完全主義者みたいだったもんね。

前回までの数本に「もうコロンボも下降線だ。駄目になった」とぶつくさ言ってたのを吹き飛ばすかのような切れ味のある作品。犯人が女性のせいもあってよりはらはらさせられるドラマだった。
車の乱暴運転のせいで鞭打ち症になり首にコルセットをつけた情けないコロンボの登場が何だか昔の彼に戻ったような気がするのだ。
慌ただしさと最新技術のそろったTV局の中をうろうろするコロンボがとんでもなく邪魔者なのもまたよい。
そして今回の犯人ケイはバリバリに働くキャリアウーマン。TV局の支局長マークの愛人でもある彼女は彼がニューヨークへ栄転するという話を聞いて大喜びする。彼のチーフアシスタントでもある彼女はマークの後継者として支局長に推薦されると信じていたのだ。
だがマークはケイに支局長をまかせらるほどの裁量はない、と判断していた。その上彼女との関係はこれまで、と高級車一台をプレゼントして別れるつもりでいたのだ。
ケイは全てを察知し、素早く身を引くと彼を殺害する計画を立てる。

非常に面白い物語なのだが、こんなに辛い話もない。優秀なアシスタントだが物事を決断する才能はない、と恋人に言われるケイ。その判断が正しいのかどうかは判らない。だが、彼女の作った作品も重役たちにきにいられることもなく、生放送に出演するはずだった歌手のドタキャンのせいでその評判の悪い作品を差し替えたのだが、この行為もまた重役にとんでもないミスだったと批判される。
常に強く生きると言い切り、涙一つ見せず背筋を伸ばして働き続けようとするケイ。犯行自体が秒刻みで行われることがまるで彼女自身の人生のようにも思えるがほんの少しでも間違えば命取り、というような緊張感に満ちた生き方なのだ。
彼女は本当に才能がないんだろうか。少なくとも笑顔の少ないゆとりのないやり方は嫌われてしまいそうでもある。
だが「女性だからここまできつく追い詰められてしまうのでは」と思ってしまうのは自分が女だから感じるひがみだろうか。
最後まで「私は戦い続けます」という彼女は強く張りつめた糸のようでいつ切れてしまうのか、と心配にもなってしまう。
か弱き女性には甘いコロンボも彼女にはややきついようにも思える。
負けまいとして毅然と立ち向かうケイに対してコロンボはだらだらとしているようでいて優勢なのである。
悲しい女性の姿だ。
男たちに負けまいと挑み続け、才能がないとあちこちから言われてしまい、自分の運命を狂わせる殺人を犯して逮捕される。戦うつもりと言っても殺人なんかをするなら負けだ、とまた笑われそうだ。
コロンボの罠であるエレベーターの上のピストルを必死で取ろうとする彼女が哀れだった。
なのに最後まで彼女は表情も態度も崩さない。
彼女が懸命に作った作品が自殺する男のドラマで少し観ているだけでも重苦しい残酷な作品なのがまたこういう女性が作りがちな作品のようで痛々しい。きっと可愛いラブコメディなんぞは女はそういうもんだと馬鹿にされそうで作りたくないのだ。

頭はいいが余裕のないぎすぎすした仕事一筋の女性、ケイ。なんだかとても可哀そうでしかたない。
彼女が生まれ育ったという貧しく狭い家、もう今は荒れ果て誰も住んでいない場所を観に行く場面でもコロンボが現れ「成功した人間が過去の家を見にきたのだと思ってました」などと嫌みを言われる。ほんとに意地悪なコロンボである。これが元々のコロンボなのだ。

ケイはマークと恋人関係であったのだが、クスリ漬けの歌手ヴァレリーとビアン的な関係のようにも思える。重役がケイに冷たく言ったのもその辺を感じてのことだったような気がする。
コロンボシリーズは健全なのでそういうセクシャルな部分は出さないのだが、本作は難しい内容ながらよく練られた優れたドラマになっている。
演出にも工夫が多く、特に最後のメリーゴーラウンドの前に立つコロンボをモニターが捉えた映像で様々な効果を出してみせるのは面白かった。
こういういい作品の時のコロンボは本人も凄くかっこよく見えるのである。愛犬がTVを観るのが好き、と言う場面も可愛らしい。

監督:ジェームズ・フローリー 脚本:ロバート・ブリーズ 出演:ピーター・フォーク トリッシュ・ヴァン・ディヴァー
第7シーズン1977〜1978年アメリカ
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2010年01月21日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.21』「美食の報酬」

Murder Under Glass

昨日は珍しく記事を書かずに今日は記事3本。しかも全て『コロンボ』何事、というようなことでは全くなく(何て誰も疑問に思ってないって)昨日弱ったことにインターネット接続ができなくなってしまい、却って時間が余った為に『コロンボ』を2作観てしまうはめに。だもんで今夜は今日の分まで含めて3記事書いてるわけなのである。

さて本作、なんと『羊たちの沈黙』のジョナサン・デミ監督による演出である。
『羊たちの沈黙』と本作の共通点は「美食」つまりレクター博士は最高の美食家であったってことなのだよね。
思わずうっとなってしまいそうである。しかも本作も日本が絡んでくるというのが『羊たちの沈黙』をさらに連想させる。と言ってもデミが監督したのは1話目だけだから彼とは関係ないが。

しかしやはりそれでも共通項はあるやもしれない。究極の美食、と殺人者の気取った言動などが。

今回のコロンボ警部は美味しいモノづくめでしか自分でも料理の腕を見せてくれる。どうやら多趣味の奥さまは料理だけは苦手で亭主をおだててごちそうを作らせるということらしい。最後にコロンボが作る牛肉料理美味そうであった。

それにしても殺人に使われる毒がふぐの毒とはねえ。日本人なら誰でも毒、というと真っ先に思い浮かぶ毒の一つだと思うがアメリカ人にとっては特別詳しい人でもなければ思いつくものではない、というものなのだろうか。
犯人とふぐ料理を食べる日本人役であのマコさんが登場している。犯人の恋人役の女性が「松竹梅」と書かれたハッピを着てるのは御愛嬌。取り敢えずいい方だろう。芸者さんたちは何とも言えないが。

犯人役のルイ・ジュールダンがハンサムだし、美味しそうな料理がたくさん出てくるし、コロンボのイタリア語だとか料理の腕前だとかの見どころもあり、被害者の甥っ子が可愛いけどやたら落ち着きがないのが面白かったりコロンボが小さい頃住んでたイタリア人街の横が中華街でコロンボは餃子ばかり食べてたという逸話だとか(あの時食べたのはシューマイみたいだったけど)色々楽しくはあるのだが、肝心の本筋であるコロンボ対殺人者の対決にはさほどの妙味はない。確かにコロンボは犯人に会って2分で容疑をかけたのだろう。
いかにもな展開だし犯人も胡散臭すぎるんだもの。
犯人の最後の台詞「あんたは料理人になるべきだった」コロンボは腕を褒められて喜んだようで実はコロンボが料理人になっていたら私は捕まらずにすんだのに、というダブルミーニングがあるのだよね。

物語自体には深みはなくてやや軽過ぎたかなあ、という印象であった。

監督:ジョナサン・デミ 脚本:ロバート・バン・スコヤック 出演:ピーター・フォーク ルイ・ジュールダン
第7シーズン1977〜1978年アメリカ
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『刑事コロンボ 完全版 Vol.21』「死者のメッセージ」

Try and Catch Me

アガサ・クリスティかマープル婦人か、と思わせるいいお年の女性推理作家が犯人という、これも好きな題材である。小柄でしゃきしゃきした言動の元気なおばあ様作家も魅力的であった。演じたルース・ゴードンは『ローズマリーの赤ちゃん』で謎の隣人だった方なのだね。

とても楽しんで観たのだが、こうしてみると確かに『刑事コロンボ』はすっかり前半と違うものになっているのが判る。
最盛期のコロンボははっきり言って嫌な奴であった。裕福であり人物としても何の遜色もない犯人が優れた頭脳で計画し実行した殺人に犯人自身は絶対的自信を持っているところへ小柄で貧相なイタリア系刑事のコロンボがよろよろ登場する。
どう見ても冴えない存在の彼がひたすらしつこく犯人の周囲を嗅ぎまわるうちに次第に真相へ近づき犯人の完璧なはずの犯行を見破ってしまう過程に観客は案外逆にコロンボにイライラしてしまうことさえある。どこからともなく表れ、何度も引き返してきては部屋を汚したりおしゃべりをしながらくどい質問をする嫌な奴なのであった。
ところが最終に近づいてくるとそういった嫌らしさが薄れ物語の中に「コロンボはこんなに凄いぞ」といった描写が増えてきた。
前回の高い知能指数を持つ人々よりコロンボは凄いぞ、とかいう表現もそうだし、以前よく描かれていたコロンボのしょぼくれた感じが少なくなり、むしろかっこいいとさえ思える雰囲気になってきている。
作品も警察ものではなくまるで探偵ものみたいな雰囲気になってきているようだ。
それはたぶん『コロンボ』という作品がマンネリ化しないような工夫が絶えずされていたせいであり、毎回他とは違うものになるようなトリックやら演出やらを試みているからこそなのだろう、とは思うのだが。

今回もまた他とは違うものがある。以前の犯人は冷酷で己の欲望の為に他人の命を奪う、というものが多かったが本作の犯人は愛する姪の仇討ちというのが目的であり、殺人自体の悪はあっても被害者の犯した罪の非道さを思うと果たしてこの犯人だけが断罪されるのみでいいのか、よく判らなくなってくる。しかも彼女は弁護士と秘書の二人からも脅迫を受ける。
犯人だけがいい人で被害者や他の関係者が嫌な人間ばかり、という奇妙な設定なのである。
無論ここに描かれていないだけでこの推理作家もまた嫌な人間だったのかもしれない。秘書や弁護士から恨みを買うような言動をしていたのかもしれない。悪人ではなさそうだが、やや自分勝手な人格も垣間見えるし最後にはコロンボに同情を買おうとするしたたかさもある。
いつもか弱い女性に甘いコロンボも彼女は「強い女性」だと判断したのだろうか。同情を見せることをしなかった。

とはいえ少し前に魅力が薄れたように思えたピーター・フォーク=コロンボが本作ではすっかり前のように素敵に思えたし、とにかく本作は以前の『コロンボ』の水準になっているのではないだろうか。コロンボが次第に変化してきているのは仕方ない、としても。

監督:ジェームズ・フローリー 脚本:ジーン・トンプソン&ポール・タッカホー 出演:ピーター・フォーク ルース・ゴードン
第7シーズン1977〜1978年アメリカ
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『刑事コロンボ 完全版 Vol.20』「殺しの序曲」

The Bye-Bye Sky High IQ Murder Case

そうそう。この作品も気になっていた作品の一つだった。こんなところにあったんだなあ。
世界中から選ばれた知能指数の高い方から2パーセントの人々が集うというクラブが題材になっている。だからと言って特別に高度な催しをやっているというわけでもないようで見た目にばらばらな老若男女が集まって気楽に語り合う、という風なクラブなのである。
そんなクラブの集まりの最中にその2階で殺人事件が起きる。被害者と犯人の二人はこのクラブのメンバーであり、仕事でも共同経営の会計事務所で働いているという関係である。一見仲のよさそうなふたりだが、ブラントは子供の時から絶えず相棒であるバーティをからかい続けてきた、という変なところがある。ブラントにとってそれは友情の表現だったがバーティには耐えがたい屈辱なのだった。
さらにバーティはブラントが会計事務所で顧客に関して不正を働いていることを知り、ブラントにそのことを訴え自分をからかうのをやめるようにと語気を荒げる。だがブラントはすでにバーティを殺害するための
計画を練りクラブの仲間にも気づかれないような細工をその部屋に施していたのだった。

つまりここで世界屈指の知能指数の持ち主たちとコロンボの知恵比べが始まるのだ。犯人との競争だけではなくクラブの皆が犯罪の謎を解き明かそうと考える。だがその誰よりもコロンボは上をいく推理をしてしまうということになるのだ。

このドラマの真実の答えはどうなるんだろう。
というのはそういった知能指数の高い人々の推理よりやはり事件の場数を踏んだ刑事のほうが殺人事件の解決は適格だ、というのが事実、ということになるんだろうか。それともやはりコロンボの知能指数はもっと高いんだろうか(っていうと「金貨の袋の謎」を解いたコロンボの奥さんはもっとすごいことになるぞ)
なんだかそういうのを考えるのも楽しい一作である。

だがしかし、なんだなあ、この会計士さん、神童と言われるほど頭はよかったんだろうが、不正のやり方も親友を殺す動機もさほど一般人と変わらない寂しさがある。しかも奥さんに対するあの冷たい態度はなんだろうな。結局この人って親友へも妻へも愛する人に対しての表現の仕方が情けないほどボンクラである。知能が高くてもそういう部分が欠如していては何の意味もない。不正もすぐばれるようでは頭がいいと言えない。といってもこの場合、見破ったバーティも天才だったから仕方ないのか。
しかし世界の2パーセントっていうほど知能が高くなくてもしっかり不正で稼いでいる人もいると思うのだが。

自分より遥かに頭のいい人、という設定の人々の話を描くのは勇気がいる。観てる者はさほど頭がよくなくても「なんだかこの話あんまり頭よくないなあ」というのは簡単だ。
それとも知能指数が高くても案外こんなものなのか?それすらよく判らないぞ。
自分は何かのクラブ、なんていうのに属していないのだが、それだけにこういうクラブの集いって凄く興味があったりするのだ。

「赤毛連盟」みたいな特徴のある人のクラブ、なんていうのも面白いよね。

監督:サム・ワナメイカー 脚本:ロバート・マルコム・ヤング 出演:ピーター・フォーク セオドア・ビケル
第6シーズン1976〜1977年アメリカ
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2010年01月19日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.20』「黄金のバックル」

Old Fashioned Murder

昨日、「コロンボが終焉を迎えた」ことを嘆いたが今回やや持ち直したかのようだ。少々心もとない気もするが、前2作のような意表を突いた演出には頼らず以前のコロンボテイストに戻りじんわりと味わいを出してくれる。
ただ笑いの部分が全盛期のような切れがなく随分古めかしいやり方になっている気がするのだ。こんなことくらいで気絶する女性っていうのが1970年代も後半のアメリカにいたんだろうか。信じ難い。題材が歴史的美術品なのでつい女性まで昔風になってしまったのか。
逆にコロンボが花粉症アレルギーで苦しんでいるのは日本での流行りより随分早くて驚いた。この頃日本ではまだ騒いではいなかったよねー。私もやっと最近になって追いついた(こういう流行に乗らずともよいのにー)
トリックはさほど面白いわけではなく、人間模様もそれほど感動するわけでもない。
などと不満もあるのだが自分としては結構この題材や物語好きだったりする。
もっと長い映画であればそれぞれの人物描写や過去の出来事なども切り込めて判り易くなったかもしれないが、このくらいの描き方もまたよいかもしれない。
経営するのも難しい時代遅れの美術館だけを生きがいにした年配の女性。本当は綺麗であるのに美人で男にもてる姉に対して過大な劣等感を持つ。ただ一人愛した婚約者の男性がその姉と結婚してしまったという悲しい過去。
コロンボに「もう遠く過ぎ去ったことです。でも姪にとってはそれだけではないのです」と言う言葉でコロンボに彼女の昔の犯罪を打ち消させてしまった。無論その犯罪の犯人も彼女だったのだ。
コロンボがその罪を暴いても悲しむのは姪だけなのだと彼女はコロンボに悟らせた。そしてその代償に彼女は今回の殺人を自供することにしたのだ。
コロンボはここでもまた弱き女性(つまり芯は強い姉のほうではなく)に手を差し出す。

本作での見どころは美容室で髪をセットされマニキュアまでされてしまうコロンボ。綺麗に髪を整えたコロンボ、爪もぴかぴか、という姿を拝見できる。
犯人がいつも出ていく時に部屋の電気を消してしまうので、殺人現場でもついうっかり消してしまった、というのはやっぱりあり得るんだろうか。私もそういうとこはあるが、殺人の際には気をつけないと。

監督:ロバート・ダグラス 脚本:ピーター・S・フェイブルマン 出演:ピーター・フォーク ジョイス・ヴァン・パタン
第6シーズン1976〜1977年アメリカ
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2010年01月18日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.19』「ルーサン警部の犯罪」

Fade in to Murder

これもかなり風変りな演出になっている。前回の『さらば提督』のように素人くさい映像というのではないが現実のコロンボ警部、とTVドラマの中の登場人物であるルーサン警部という虚実の警部二人が実際の殺人事件の追う者と追われる者という立場ながら仲良く推理をしていく、という演出である。ここでルーサン警部をTVの中で演じるウォード(ウィリアム・シャトナー)が「もし私がルーサン警部と言う立場でウォードに嫌疑をかけるなら」という奇妙な論理を繰り広げコロンボもこれに乗って話を続ける。しかもウォードは彼のアリバイに関わるビデオ装置をコロンボに見せたり、様々な種明かしとも思える供述をしていく。一歩間違えばまさしく自分を谷底に落としてしまう綱渡りをしてみせるのだ。とは言え、彼の言葉自体が事件解決を産んだわけではなく無論コロンボは全て彼の話の前にあらゆる推理と捜査を果たしてしまっているのである。TVドラマで人気者のルーサン警部はコロンボの上を行くような犯罪を行ったわけでもない。最後の最後まで虚像のルーサン警部として芝居をする彼にコロンボが怒りを含んで「これはあなたが犯した現実の殺人なのですよ」と言うとウォードは「彼は同情される立場なのだ。君は判ってくれると思った。同じ警部なのだから」と返しコロンボはこれには苦笑する、という具合。
なんだか狐につままれたよう、というのはこういうことなのか?ウォードはまるで現実と虚構が判らなくなてしまったかのようだ。コロンボ自身がワルノリして彼に付き合っていたんだから彼ばかり責めるわけにもいかないだろう。あんなに怒る資格はないぞ。

トリック自体かつての面白さも薄れ加減で演出の風変わりさでなんとかドラマの新鮮味を保っている、というところなんだろうか。前回『さらば提督』での奇妙さはコロンボシリーズの終焉を意味していたのかもしれない。
アメリカのTVドラマというのがどういう形式なのか知らないがコロンボシリーズはこのドラマで第6シーズンを迎えておりこの一年では僅か3作しか作られていない模様である。これが翌年の第7シーズンで5作になっているのだからこの第6シーズンと言う時期は混迷の時期だったのか。と言う台詞は残りの2作を観てからにしよう。
コロンボを演じるピーター・フォークの表情が前回からこの第6シーズンに入って急激に年を取ったように感じてしまうのだ。今回は特にコロンボの絶妙な演技の魅力が失われてしまったかのように感じる。せめてもの救いはウィリアム・シャトナーの演技が奇妙過ぎてピーターの方にあまり目がいかないことかもしれない。

なんだか少し寂しくなってきてしまった。あの素晴らしい輝きはもう観ることができないのか。
とはいえ作品はまだ7作もある。私の失望は時期尚早かもしれない、ことを願いつつ。

『スタートレック』でもスポックに喰われいまいち冴えないのが印象的な艦長ことウィリアム・シャトナーだが、本作の冴えなさぶりはこちらが恥ずかしくなるほど。背が低いのでかかとの高い靴を履いている為に本当はコロンボと同じ身長なのに5センチ高いことになる、って。
そう言う設定にされてしまうのが可哀そうだなあ。別にかまわないのに。ハンサムだとは思うのにどこかいつもスマートになれないウィリアムなのである。(註:太ってるって意味じゃないよ)

監督:バーナード・L・コワルスキー 脚本:ルー・シャウ ピーター・S・フェイブルマン 出演:ピーター・フォーク
第6シーズン1976〜1977年アメリカ
posted by フェイユイ at 22:59| Comment(0) | TrackBack(1) | 刑事コロンボ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月17日

『ハゲタカ』大友啓史

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やっと観れた映画『ハゲタカ』大森南朋目当てでTV版DVDを観てそれまでのナオさんとはまったく違う鷲津を知り、それまでのナオさんも大好きだが他の方と同じように私も眼鏡鷲津に参ってしまったクチなのである。
映画『ハゲタカ』ではTV版の続きというイメージなのが観ていた者には嬉しい限りで金融界に嫌気が刺したらしい鷲津がどっかの海岸でまるでトム・りプリー=アラン・ドロンのように(と浮かぶところが古い人間)ビーチチェアーに寝そべりながら昼間からブランディを(ワインじゃなかったね)飲んでいる。
そんな鷲津のとこへわざわざやって来たのが先輩芝野(ほんとにわざわざ)「腐っているのはお前じゃないのか」という台詞を鷲津にぶつける。
って単にこれ芝野さんのラブコールなんじゃないのか。寂しくなったんだよ、会いたくて。
ほんとは誘って欲しかった鷲津は照れ隠しにブランディグラスを投げ割って再び(芝野さんのいる)金融世界へと舞い戻る。

ぐーたらしてた鷲津は早速昔の仲間を集めて(すっかりみんなそろったのね)彼のトレードマークである銀縁眼鏡をすちゃとかけるともう顔つきは『ハゲタカ』なのであった。
きゃーかっこいい!!!

なんだかワルノリしすぎのようだが、どうせ私こーゆー金融世界とかって真面目に考えられないのだわ。だってさ、物凄く空虚じゃん?作っている人たちもさ、「面白い」と思って作っているんだけど、きっと心の奥ではこの世界の空虚さには気づいていてそれを見せちゃあがっくりするからそこはあえて見ないことにしてあくまでも経済界のカラクリを楽しんでみよう、と思ってると思うのだ。
何だか数字の上げ下げだけで人の命がどうこうなってしまう。そこに入り込んでしまうとそれがどんなに馬鹿馬鹿しいことなのか、判らなくなってしまう。そして抜け出そうとしても抜け出せなくなてしまう。大切なものはそこにはないのに。まるでそれが全てであるかのように浸透してしまうのだ。
作り手がその思いが透けて見えているから結局芝野や鷲津は夢を求めることに涙してしまう。単なるゲーマーじゃいられないのだね。

だもんでこういう映画はただひたすら楽しむに限る。っていうか多分皆さんそう思って観てるはずで変に「大切なのは金じゃないはず」などと生真面目に訴えることはなかろう。
さてさて、大森南朋をはじめTVに引き続き登場人物もあまり変わってはいないのも嬉しい。
ナオさんもよけりゃ、芝野の柴田恭兵、旅館主人の松田龍平どちらも素敵だし、今回登場の遠藤憲一、玉山鉄二もよろしいし、若い高良健吾 そして嶋田久作と美味しい男性がずらりとそろっている本作だが(そんな中の紅一点栗山千明羨ましいねえ)私が凄く好きなのは鷲津の右腕的存在・中延五郎を演じている志賀廣太郎。鷲津の無理な注文にもなんとか答えようとする健気な態度は胸を打つのだ。くーっ。自分より若い鷲津の才能に惚れ込んで仕える献身的な部下、という姿が封建時代、若殿に献身的に仕える家老のようでざわざわしてしまうのだよね。いひひ。

映画製作中折も折、世界の経済界が揺れに揺れ、映画の進行展開が二転三転したという話でスタッフもキャストも大変であったろうが、ぬるい映画ができた後でリーマンショックやら派遣切りなどが話題になる事態にならずによかったのではないだろうか。まあそういう事態が起きたことをよかった、とは言い難いが。
映画自体、ドラマの延長ということもあり、ちょうど時世を映したという即席感も否めないので重厚なドラマ、というような期待はせずにここは時代の波に飲み込まれていく企業戦士たち、金融業界人の姿を見つめてみる、ということにしようか。
とにかく大変な世界なのである。
できるならこんな荒波には飛びこみたくない。
こじんまりと生きていきたいものである。

しっかしドラマの時からだけどホントに恋愛沙汰は完全無視。すごい。
赤いハゲタカこと劉一華がいきなり可愛い顔の守山=高良健吾に接近するので何事かと勘違いしちゃったじゃないか。
TVの時からなんだけど「この後二人はさあ・・・」といちいち勘ぐってしまう私なのである。
だって凄く意味ありげなんだもん。いい男揃いでさ。

監督:大友啓史  出演:大森南朋 玉山鉄二 栗山千明 高良健吾 遠藤憲一 松田龍平 中尾彬 柴田恭兵 嶋田久作 志賀廣太郎
2009年日本
ラベル:大森南朋 社会
posted by フェイユイ at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 大森南朋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

昨日(1月16日朝)のNHK週刊ブックレビューがスリリングだったのだ。

NHKの「週刊ブックレビュー」を観るのが楽しみである。だからと言って紹介された本を殆ど(というかおよそ全て)読みはしないのだが、とにかく楽しみにしている。
毎回様々な3人のゲストによってそれぞれ3冊の本の紹介と一人につき1冊紹介した本を3人と司会者二人で討論しあう。
と言ってもいつもは「いい本を紹介していただきました」だとか「紹介されなければこんないい本を読まないままでした」とか爽やかな会話が多い。
そして稀に対立がある。
今日がその日であった。

日本人的礼儀なのか、相手が褒めた本についてあまり攻撃したりしない人が多いのだが、私的にはせっかく別の世界の人が集まって一冊の本について討論するのだから対立するのは面白いと思う。掴みあいの喧嘩になっては困るが意見を戦わせるのは楽しいのではないだろうか。
ただやはりなかなかそういう状態にはなりにくいものだ。
今日の対立も山崎ナオコーラさんはきちっと意見を述べていたのに北上次郎さんは「こういう若い人の本は読めない。ノーコメントにしたいところだ」という逃げ腰だったのでおやおや、となってしまった。すかさずナオコーラさんが「言った方がいいですよ」と言われたのでうわあ、と一瞬殺気が走った気がした。大げさかしら。取り敢えず北上さんも感想を述べられたが何となく上滑りしているような。しかもその後すぐ司会の藤沢周さんが「小説家は女性を描かねばならない、と聞いたのですがそれは他者を描かねばならない、ということだと気づきました。この小説を読んだ時その言葉を思い出しました」と言われたのでますます、うわあ、となってしまった。
スリリングな今日の書評であった。
いいことだ。
いつもこのくらいざわめいて欲しい。

まさか、こういう対立も脚本ってことはないよね。

その後のオノ・ヨーコさんのお話がまるで先の話とつながっているようでおかしかった。
「喧嘩をせずにBless youが大事」って(笑)確かに。

でもちょっと面白かったから。
posted by フェイユイ at 00:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月16日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.19』「さらば提督」

Last Salute to the Commodore

パトリック・マクグーハン監督作品。『仮面の男』の時はまるで本格的ハードボイルドタッチだったが、今回はまたもや趣向を変えてアガサ・クリスティのポワロを思わせる探偵もの、みたいな雰囲気であった。
だが、本作が他の作品と違う味わいを見せているのはそういう形式だけのことではなくて何だろうコレ、なんだかもう映像自体がまったく他のと違うのである。まるで映画を作り始めたばかりの映像作家が試行錯誤しながら撮影しているかのような不安定な構成でこれを「味わい」と言ってよいのか『仮面の男』の時にはさほど気にならなかった違和感が本作の方に色濃く出てしまったのは一体どういうことなんだろう。

多分脚本自体はさほど問題はないのだと思う。今までと違う本格的ミステリー形式にした驚きがあるとはいえ内容は他のドラマとそう落差はない。問題は人物の話し方、動き方と他にないほどの無駄な場面展開である。
マクグーハンはこの不思議な感覚をあえて演出したかったのだろうか。とにかく奇妙な前衛映画みたいなのだ。
変なカットが幾つもあり、物語が今までにないほど間延びして感じられる。不思議な空間、不思議な時間があちこちに存在しているのだ。
コロンボの登場からして変わっていた。いつもぐたぐたで現れるコロンボが物凄い生真面目な表情で玄関先に立っている。映し方も髭の青みが強烈に見える。別人みたいに怖い顔つきでシリアスでどうしたのか、と思ってしまった。完全に違う作品のコロンボになってしまっているのだ。
奇妙なのはあちこちにあり、何故だかコロンボが必要以上に男女かまわずべたべたと体を接触する。ロバート・ボーンなんか肩を抱きしめんばかりでいつもこんな馴れ馴れしいいことをする人でないのに。若い女性リサに対しても他の人物に対しても物凄く接近して話すので困惑してしまう。他人が乗り移ったとしか思えない。
台詞の言い方も仕草も通常ではない大げさなやり方なのでまったく不思議不思議。突然変てこな舞台劇でも観てるみたい。
だからと言って話がつまらないわけではない。やはり脚本はそう悪いわけではないんだろう。
変なのは話し方動き方。数人を動かす演出がわざとらしすぎて戸惑ってしまう。ぽかんとした画面構成なんかが素人っぽいのだ。
コロンボの撮り方もかっこいいというより年がやや老けて見えるような露骨な撮り方なのである。

奇妙な一作だった。

つまらないわけではない。ただ物凄く珍奇な演出だったと思う。
もしかしたら特別な感性なのかもしれない。

とはいえ私はこういう本格的ミステリーが嫌いなわけではないから、コロンボがポワロを演じているような妙な面白さはあった。
確かにクリスティはこういうちょっと独特な言い回しで楽しませる。コロンボが突然クリスティ世界に入ってしまったみたい。
殺人の可能性がある人物達を一堂に集めて謎解きをするなんて。絶対警察じゃあり得ないだろう。殺された人物の娘の前で「お父さんを殺した人を知りたいでしょう」なんて。
時計の音を一人ずつ聞かせて「先程あなたは何と言いました?」コロンボじゃないよね。

ある意味面白かった。

最後もボートに乗り込んだコロンボが「せめてかみさんをこれに乗せてやりたい」と言いながら漕ぎ去っていく。異空間だったなあ。

犯人あて形式といい、演出といい、コロンボシリーズ屈指の珍作であった。
嫌いなわけではない。

監督:パトリック・マクグーハン 脚本:ジャクソン・ギリス 出演:ピーター・フォーク ロバート・ボーン
第5シーズン1975〜1976年アメリカ
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2010年01月15日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.18』「魔術師の幻想」

Now You See Him

今回の題材はマジック。
だからなのだろうか。コロンボがなんとまったく違うコートを着て登場。他の人が着てるなら何と言うことはないコート(うーん若干違和感んのあるデザインではあるが)なのだが絶対によれよれのレインコートを着て出てくる、と思い込んでいる観客はお呼ばれとかではなく通常の事件現場になんだかちょっとお洒落風なかっちりしたコートを着て来たコロンボを観て仰天してしまう。それこそマジックでも見せられたかのようなへんてこりんな気持ちである。「肩こってしょうがない」とコロンボが言うのだが気持ちサイズも小さいんだろうか、奥さんからのプレゼントらしい。とうとう奥さんあのしょぼくれコートに嫌気がさしたのだろう。
妙にかっちりしてるんで窮屈そうだ。ほんの数分も経たないうちに脱いでしまい(本人も観客もほっとする)それからはできるだけそのコートが「無くなってしまう」ように努力して置き忘れて見せるのだがなかなかなくならないのだが結局元のレインコート姿に戻って一件落着となる楽しいエピソード入りである。

だが本作の物語はそういう楽しげなものではない。
人気者のマジシャン・サンティーニは彼が出演するナイトクラブのオーナーに秘密を握られ多額の歩合を要求されていたのだ。その秘密とはサンティーニが元ナチス親衛隊員であり多くのユダヤ人を虐殺していた、というものだった。
これはミステリーの動機としてなるほどと頷ける効果的なアイディアだったのかもしれないが彼が言うとおり少年期にあった過去であるとすれば確かに恐ろしいことではあるが彼としてもどうしようもなく忌まわしき過去であり一言で性悪だったと片付けられない重いものがある。
などと書くのは歪んだ見方だろうか。
なんとなくこういう動機づけをしていしまうのはアメリカ映画やドラマでいつもナチスが単純な悪役として登場していたからなのだろうか、とも思えてしまう。おまけにコロンボを演じるピーター・フォークがユダヤ系であることを考えると尚更である。犯人であるサンティーニに「完全犯罪などない。それは幻想にすぎない」といつもより声を荒げているように思えてしまう。

なんだか今回のコロンボは終始苛立っていたようでコートの件にしても彼に絡むウィルソンに対しても気に入らないで結構言葉がきつくなっている。ウィルソンのことは本当に気に入らないんではないかとさえ思えてくるのだが。
サンティーニへの攻撃はいつもより早めでしかも強烈なものである。
単に偶然かもしれないが。

マジックを絡めた楽しげなミステリーでサンティーニを演じるジャック・キャシディが今回もちょっとキザな二枚目ぶりを発揮してくれていたがコロンボはちょいとハードな感じであった。

手首を入れてギロチンを落とすマジックおもちゃ、マジックだと判ってても怖い。

監督:ハーヴェイ・ハート 脚本:マイケル・スローン 出演:ピーター・フォーク ジャック・キャシディ 
1975〜1976年アメリカ
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2010年01月14日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.18』「闘牛士の栄光」

A Matter of Honor

今回は珍しく以前にあった『歌声の消えた海』のその後篇という形になっている。メキシコへの船旅を引き当てたコロンボ夫人と共に暫しの休暇を楽しむはずのコロンボが船旅の途中で事件解決、そして目的地のメキシコでも殺人事件に出会うのである。
愛妻とのせっかくの休暇に二度も殺人事件の捜査に関わらねばならないなんてメキシコ人ならずともちょっと「間抜け」と言いたくもなるし、奥さんからはきっと苦情も出たろうし、苦笑せざるを得ない経緯だが事件自体はシリーズ中でも深刻なものになっている。
というのはここでの殺人動機が「名誉」という人によってはどうでもいいものであると同時に当人にとっては何よりも大事なものである、という儚いものであるからだ。
犯人であるモントーヤが「メキシコ人なら判るはずだ」と言うのは殺されたエクトールとその息子の思いのことを言ったのだがそれはモントーヤ自身のことであったのだ。
特に男らしい男を崇拝するメキシコで国民的英雄としてならしめたモントーヤが牧童に襲いかかった牛を前にして恐怖のあまり立ちすくんでしまった。結局牧童を助けたのはその父親であるエクトールだが、他の牧童たちは勇敢なモントーヤが牛を追い払いエクトールが息子を引っ張り出したのだ、と思い込んでいた。だがモントーヤにとって真実を知っているエクトールをそのままにしてはおけなかった。モントーヤはエクトールを抹殺するのだった。

多くの人はこのような男の自尊心は馬鹿馬鹿しいと思うだろう。その為にさらに人を殺害するなんて余計みすぼらしいことのような気がする。
だがそれでも「それを知られてしまった」ことへの恥ずかしさが「元英雄」は耐えられなかった。
終始威厳を保ち続けている姿が憐れにも思える。
メキシコの人がこれを観たら共感するんだろうか?判らない。
そんなモントーヤを演じたリカルド・モンタルバンという人はメキシコ人であり人気があった役者であるらしい。そんな彼が演じていることがモントーヤの悲劇を感じさせているのかもしれない。
『忘れられたスター』の男性版なのだろうか。
男性には厳しいコロンボだった。

メキシコをアメリカ人が描くとやや差別的な感じがあるものだが、ここではそれは感じられない。もう一つは非常にマッチョな男が登場することだがそれがまさにこのテーマになっている。それとそのモントーヤの車を洗っている若者。シャツがはちきれんばかりのたくましい体つき。
そしてモントーヤの娘や地元警部の奥さんがセクシーなこと、であろう。

監督:テッド・ポスト 脚本:ブラッド・ラドニッツ 出演:ピーター・フォーク リカルド・モンタルバン
1975〜1976年アメリカ
posted by フェイユイ at 22:46| Comment(0) | TrackBack(1) | 刑事コロンボ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月13日

『刑事コロンボ 完全版 Vol.17』「仮面の男」

Identity Crisis

冒頭からまるで『コロンボ』ではないようなハードな雰囲気。何しろ犯人ネルソン・ブレナーを演じたパトリック・マクグーハンが滅茶苦茶かっこいい。『祝砲の挽歌』でラムフォード大佐を演じた時とはまたちょっと違うが厳格で何事にも動ぜず高い能力を持つ男、というイメージは同じである。とにかく本作でのブレナーは謎の男であり数々の華々しい過去を持ち、今はなんとCIAの情報部員(オペレーターですと)でありまた裕福な暮らしをしていながら生きていることにどこか退屈している、まるで自分の能力があり過ぎて持てあましているようなかっこよすぎる設定なのだがマクグーハンがあの冷たい表情で演じていると頷いてしまうのである。
すっかり意気投合したというピーター・フォークと彼はここでも好対照な存在で身長から髪の具合から(ピーターはもじゃもじゃだし)性格から雰囲気は勿論正反対というのが観てて嬉しくなるような一対なのだが、好敵手が存在しなかっただろうブレナーにとって見た目はチンケなコロンボの攻撃は暫し彼にとって張り合いのある戦いになったのではないだろうか。ラストでコロンボの推理を聞く場面など楽しげにすら見えた。
そんなマクグーハンに触発されたのか、今回はマクグーハン自身が演出をしていたせいなのか、コロンボ自身もいつもより以上にかっこよく見えたりしたのは何故だろう。ややシリアス成分が多かったからなのか。

いつもの『コロンボ』よりハードタッチなだけにやや難しげに感じられたりもするのだが、『コロンボ』は話ごとに様々な色あいを持つという
特徴があるわけでこのような本格的ハードボイルド風があるというのも是非書きとめておきたい。

ただ、被害者の同じく情報部員であるヘンダーソンを演じたのがレスリー・ニールセンだったので彼を見るとどうしてもコメディだと思ってしまうのが思いがけずマイナスだったか。いや、嬉しくはあったが。
どうしても『フライング・ハイ』&『裸の銃を持つ男』のイメージが強すぎてねえ。大好きなのだが。
しかしそれはこのドラマ後の作品だからしてこの時はあくまでシリアスな配役だったはずなのだ。死んでる顔で笑ってしまっては、困る。

監督:パトリック・マクグーハン 脚本:ウィリアム・ドリスキル 出演:ピーター・フォーク パトリック・マクグーハン レスリー・ニールセン
1975〜1976年アメリカ
posted by フェイユイ at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 刑事コロンボ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする