映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年02月05日

『マリア・カラスの真実』フィリップ・コーリー

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CALLAS ASSOLUTA

オペラを聴きとる耳など不幸にも持ち合わせていないが無知な私でもその名は知っているマリア・カラスという女性を知りたくて観た。
舞台でさぞ見栄えがするであろうと思える迫力のある美貌と3オクターブという類稀な美声を神から授けられた女性はその幸運と引き換えにしたのかと思うほどの寂しい人生を送ったのだ、としか思えない彼女の物語だった。

そのまま映画にできる、というのか、こんな起伏の激しいドラマチックな人生というものがあるのだ。
ギリシャ移民の両親の間にニューヨークで生まれたマリア。母親はちょうどその前に亡くしてしまった可愛い息子の代わりとして男子の誕生を願ったが生まれたのはマリアであったことから彼女の存在を拒んだという。
悲しい誕生である。その母親は同じ女でも先に生まれていた姉のことは大事にしていたようだがマリアには酷く冷淡だったようだ。だが彼女の歌の才能に気づき条件付きで愛するようになる。

人間にとって何が一番不幸なのか、といって親に愛されないより不幸なことがあるだろうか。結局マリアと母親の確執は最後まで続きついに許し愛し合うことはなかったみたいだ。
では人間にとって何が一番幸福なことかと言えば両親に愛されその存在を誇りに思ってもらうことなのだと思う。
マリアにはそれが欠けていた。彼女の人生にはアイドルとして崇められることはあったが個人として愛されることがなかった。それは父と母の両方の愛を知らない為、彼女は愛される、ということができなかったのではないだろうか。無論両親の愛を知らなくても人に愛される人はいるだろうけど、親に愛されなかった人は他の愛も受け取ることができないように思えるのだが、どうなんだろう。

伝説の歌姫として名高いマリア・カラスだがその歌手の歴史はそんなに長い時期ではない。その上、彼女はその間にも度々声が出なくなるなどの理由で上演をキャンセルしてしまっている。
その為に傲慢だという罵声を長く浴び続けてしまった人でもあったのだ。
その当時を直接知ることもできないので彼女が身勝手だったのか、繊細なあまりに歌えなかったのか、想像するしかないが、完全でないなら歌えないという態度だったからこそ、彼女の女神のような美貌や気高さに惹かれたのではないかとも思えるのだけど。
彼女が愛した男性というのは他にもいたのかということも判らないがこの作品の中では僅かに3人が登場する。
夫だったイタリア人男性とかの海運王オナシスの共通点は金持ちっていうことだ。マリアはそれなりに二人からちやほやされるのだがそれが彼女に揺るぎない愛をもたらすことはできなかった。
3人目の同僚、歌手の男性はすでに下降線になっていたマリアに復活のコンサート活動へと誘うのだが、それは彼の娘の病気の為で仕事が終われば別れが待っていた。
よくは判らないが彼女は真面目な女性で他に男性もいなかったのだろう。この美貌があっても、彼女には寂しい愛情しかもたらされなかったのだ。
女性というのはやはり何かに打ち込んでしまうとそれと結婚することになり男性の愛までも欲することはできないものなんだろうか。
彼女自身若い頃求婚されて「私は音楽と結婚するのです」と答えている。それがすべてだったのかもしれない。

プードルだけが彼女を裏切らなかった。と言われても。

彼女は死んでからもその遺灰を盗まれ、その後見つけられて海へ散骨されるのだが、その灰が彼女自身のものか判らない、という説明。死んでもまでも彼女の願いはかなえられなかったのか。

たび重なるいざこざを繰り返しながらも彼女は長くない期間にその歌声を残した。その美貌も確かにミューズの名にふさわしい。

とは言え初めて彼女のことを聞いた時、日本人なら皆この美貌の歌姫の名が「カラス」って不思議な感覚にならないか。最も不格好で悪声の鳥の名を持っているなんて。日本語だから仕方ないとはいえ、この名前だからこそ覚えてしまう。髪も真っ黒だからますますイメージが重なる。

伝説の歌神は劇的な人生を送っていた。
が、そのドラマは酷く悲しく寂しい物語だった。
何故愛されない子供、という存在があるのか。悲しくてしょうがない。

監督:フィリップ・コーリー 出演:マリア・カラス アリストテレス・オナシス ルキノ・ヴィスコンティ ピエル・パオロ・パゾリーニ グレイス・ケリー ジャン・コクトー ジャクリーン・ケネディ マリア・カラス グレイス・ケリー トゥリオ・セラフィン ヘルベルト・フォン・カラヤン グレース・ケリー
2007年 / フランス


posted by フェイユイ at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『海と毒薬』熊井啓

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この映画についての感想がどうもまとまらないのはこういう題材がどうしても怖いもの見たさの好奇心から観てしまったせいなんだろう。
まるで、罪の呵責に苦しむ「捕虜の生体実験手術」に立ち会った青年・勝呂に尋問する役の岡田真澄と同じ立場のような気持ちで彼らの体験を覗き見ようとするのは、スティーブン・キング『ゴールデンボーイ』の主人公みたいな欲望を持ってしまうからではないのか。
だが一方ではこの時代にいれば勝呂もしくは戸田のように何も感じない心、揺れ動いたとしても結局は流されてしまう人間であることも自覚しているからなんだろう。

映画は恐ろしい二つの手術を大きな問題として描いていく。一つ目はごく当たり前の病気治療の手術なのだが術中のミスにより患者は死亡する。担当医達は患者が術中に死亡したことで大きな責任問題になってしまうのを避ける為、数時間経過後に死亡したと報告するよう打ち合わせる。
第二の問題が「捕虜の生体実験手術」で数人の健康なアメリカ軍捕虜に麻酔をし、肺の摘出、心臓停止、脳に関する手術など様々な実験を行う。
主人公には対照的な二人の青年が登場し、勝呂によって罪の意識で揺れ動く心が戸田によって時代に洗脳され感動を失った心が表現される。この二つは程度の差はあれ殆どの人間が持つのではないだろうか。

熊井監督によるこれらの問題提議、手術の臨場感などには強い興味を持つのだが、一方熊井監督の演出、台詞での説明などには映画としての面白さを自分としては惹かれるものを感じないのは残念だ。
冒頭の尋問場面をはじめ台詞がどうしても洗練されていないように思えてそこで躓いてしまうのだ。これは監督の『サンダカン』の時も感じたもので惜しい欠点になっている気がする。

監督:熊井啓 出演:奥田瑛二 渡辺謙 田村高廣 根岸季衣 成田三樹夫 岸田今日子 神山繁 西田健 岡田真澄
1986年 / 日本
ラベル:医者 歴史
posted by フェイユイ at 00:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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