映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年04月30日

『戦場のレクイエム』馮小剛 (フォン・シャオガン)

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集結合

久しぶりのフォン・シャオガン監督作品。先の『女帝』を別にすればコメディの大御所というお方である。ところが本作はのっけから重厚な戦闘場面が続きしかもその容赦ない過激な描写は今流行りというべきなのか「徹底したリアル」と評されるようなもので自分的にはそういう「リアル」というのはさほど感激はしないのである。猛烈なスピードで展開される残虐な戦闘場面体が裂け肉片が飛び尚且つ突き進んで血飛沫があがる、という『プライベートライアン』的戦闘場面が最上と評価をしたくない者である。本作の前半はまさにそういう「リアル」(と言われてもそれがリアルなのか私には判らない)な描写であり且つやや過剰な感動場面があちこちに配されている。つまり部下思いの勇敢な上官である主人公谷子地(グー・ズーティ)と彼を慕う兵士たちの姿の描き方が中国的或いはアジア的というのだろうか日本人にも通じるものなのだがややべたべたと感じられてしまう。
ところがこの前半を過ぎた後から物語の調子は変わっていく。
准海戦役の熾烈な戦闘で連隊の部下全員を戦死させてしまったグーはただ一人生き残りだが自分も目に傷を負い僅かしか視力が残っていない。ところが彼の連隊は遺体が確認されない為に兵士たちは皆失踪扱いとなる不名誉しか与えられなかった。軍にも運命にも失望した彼は周囲から冷たい目で見られながらも部下である戦友たちの遺体を見つけようと山を掘り返し続けるのだった。
なんとこれも昨日の『ミッシング』と同じ、愛する人を探す話であったのだ。
彼がどんな思いで彼らを愛していたのかを示す為に前半の激しい戦いと主従の深い親愛を描く必要があった。それは省いてもよかったかもしれないがだがもしなければ同じ気持ちで観れたかどうかは判らない。
前半やや醒めた目で観ていたのだが、後半になってからのグー隊長はもう冷ややかには観ていられなかった。
戦闘であれほど勇敢で男らしく見えていた彼が戦争が終わればただ頭のおかしい老兵としか見てもらえない。
グーが見えない目で死体を捜す為に山を掘り返し続けるのを周囲は憐れみの目で見るだけだ(とはいえそれは優しいと思ったが)
グーの遺体探しは無謀だったが、彼に恩義を感じて接してくれるアルドゥや元ラッパ吹きの兵士たちの奔走で彼の連隊は国の為に勇敢に戦死した烈士として勲章を受けることになった。
他から見ればそれは些細なことにしか思えなくてもグーにとってはどんなにか大切なことだったろう。
最後はここ最近ないほど涙が溢れて困ってしまった。
グーの同期であるリウに怒りを爆発させた後、やはり友のことを思う姿に胸がつまってしまう。

最後にグー・ズーティが両親を赤ん坊の時に失い拾われて育てられ名前を与えてもらったことが記される。
過酷な運命にありながらどこか他の人に助けられる支えもある。赤ん坊の時は別としても彼の人格がそうさせた、と思わせてしまうのは彼を演じた張涵予の眼差しのせいかもしれない。

追記:主人公に「最後まで戦え」の指令を下す戦友を胡軍(フー・ジュン)が演じている。中国メジャー映画監督シャオガンの配役として今迄にない地味な無名俳優が使われている本作で一番外国でも有名な役者で、やはり知ってる顔を見るとなんだか入りやすい。もっと観ていたかったけどね。

監督:馮小剛  出演:張涵予 ケ超  袁文康
2007年中国
ラベル:戦争 歴史
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2010年04月29日

『ミッシング』コスタ・ガブラス

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こういう政治や軍事を扱った物はリアルさを追求すると難解で堅苦しくなりがちなのだが物語の本筋に父親と息子そして義理の娘、という愛情に重点を置いている為に非常に判り易く心に響いてくる。
ジャック・レモン扮する信仰深い実業家の父親は息子夫婦チャーリーとベスの結婚生活が不真面目だという強い不満がある。息子夫婦は定まった職業もなく南米チリでまだ形をなしていないアニメーション映画製作と新聞社の請負仕事をしているだけで厳格で成功した父親から見れば自堕落な貧乏暮らしにしか見えないのだ(っていつも思うけど日本住居から見れば豪邸だわ)
そんな折、彼らが住む町ではクーデターが起こる。二人は別々に外出したのだが、その夜も激しい銃撃があり戒厳令が出されている為ベスは帰宅しそびれる。翌朝戻った時チャーリーの姿はなかった。彼は一体どこへ行ってしまったのか。

アメリカから不平をこぼしながら息子探しに来た父親と義娘のベスは互いに苛立ち反目しあう。だがそんな状態の中でチャーリーを探すうちに二人は次第に互いの気持ちを判り合っていくのだった。
考え方の違いですれ違ってはいてもどちらも純粋でひたむきに生きているからだろう、互いの思いが愛する人に向けられているのだと気づいていく。
何も判っていない父親に反感を持つベスだが、愛する息子を救う為ならなんでもすると言う父親の姿に彼女が感動する心に共感してしまうのだ。
まただらしなく見えていたベスが実は勇敢で思慮深い女性だと気づく義父に頷く。
父と子の和解がこうした不幸な状況でできたのはなんともやりきれないことだが辛い状況で手を添えられることはやはり嬉しいことだ。

弱い個人の力ではどうにもならない無力感、それぞれの国の違いはあれ、どちらの国にも隠された陰謀がある。
地獄絵のようなクーデターの恐怖感に脅え、ジャック・レモン、シシー・スペイセクの義理の父娘関係の描き方に見入ってしまう。力強い作品だった。
監督のコスタ・ガブラスは『ぜんぶ、フィデルのせい』の監督ジュリー・ガブラスの父親なのだ。これも素晴らしい映画だった。凄い父娘である。

監督:コスタ・ガブラス 出演:ジャック・レモン シシー・スペイセク ジョン・シェア ジョン・シーア メラニー・メイロン チャールズ・シオッフィ
1982年アメリカ
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2010年04月28日

『おろしや国酔夢譚』佐藤純彌

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シベリア横断物語シリーズである(私にとって)第3話目だが製作年はこれが一番古く、物語の舞台も1782年以降のことであるから最も古い。『SERKO』は1889年。『9000マイル』は大戦後だから1945年以降ということになる。
また光大夫たちの船が難破した場所はロシアから離れたアリューシャン列島のアムチトカという島であるからそこからカムチャッカさらにイルクーツクを経てサンクトペテルブルグまで、という恐ろしい距離になる。
とは言え、なにしろ光大夫の旅は日本へ帰国までを描かなくてはならないから他の2作とは違い9年9カ月の行程を2時間の映画に収めねばならないので物凄いスピードで物語が進行していく。あっという間に季節が移り月日が流れていく。しかも波乱万丈の大冒険ものなのであっという間に観終えてしまった感がある。
佐藤純彌監督は自分的には微妙な位置の人で作品が面白いんだかどうなのか、深みがあるようでないような重厚そうで軽薄な、という感じである。本作もまさにその通りで非常に面白い題材をそつなくまとめながらものめり込むような感動がないのが特徴だ。楽しくはあるが、10年弱の大冒険のダイジェスト版を観てる気がしてしまうのもそういうことなのである。
それはそれとしても光大夫を演じた緒方拳を始め西田敏行、川谷拓三、沖田浩之という俳優陣が楽しませてくれた。
緒方拳の冒険映画(というのか)と言えば今村昌平監督の『女衒』が凄まじく面白かったので本作の光大夫は冒険そのものは目を見張るが本人のキャラクターはそれほど目立ってはいなかった。それは本人の咎ではなく物語がすっ飛んでいくので仕方ない、監督の責任だ。

とにかく日本からアリューシャン列島に流れ着いた大黒屋光大夫一行は何とか日本に帰りたいという一心で船を手作りしカムチャッカへ渡りそこではどうしようもないと言われイルクーツクへと厳寒地獄を突破する。そこで西田敏行演じる庄蔵は脚が凍傷で腐り切断することになり一人落ち込む。自暴自棄になった庄蔵だが日本人の父を持つ女性の助けでクリスチャンになりロシアに残る決意をする。また沖田浩之扮する青年も結婚し残留する。旅の途中で死んでしまった仲間もあり、やっと女帝の許可を得て日本へ戻る時は3人となり、帰国すれば外国へ行った者は死罪と言われロシア船で待つ間にまた一人死亡。無事に日本の地を踏んだのは光大夫を含め2人だった。
何だか悲しいラストだったが実際の光大夫は幕府に迎えられ外国の知識を持つ者として優遇され長生きしたようだ。
『9000マイル』の時も思ったがやはり必要なのは言語。光大夫たちはすぐに言葉を覚え、がんがん仕事をし、なんだか日本人ってマメだなあと感心。嘘ではないように思えるしね。
すぐに地元の美女と恋に落ちてしまうのも偉いものだなあと。
ラックスマンってロシア人じゃない名前、と思ってたらこの人は北欧人だった。色々国際的なのだ。
エカテリーナ2世は光大夫の歌をどう思ったのか?いまいちよくわからなかった。光大夫の態度に感動した、というより面倒くさくなった、としか見えなかったけど。
そして光大夫と残ることにした庄蔵の別れのキスシーン。そうだった。ロシアの男性同士はキスするんだった。あんまり映画で観ないけど。何故。そんなロシアの風習が身につくほど長くいたという表現であるだろうね。

それにしてもこの頃のロシア、漂流者に物凄い親切な国だ。

色々面白かったりする場面があるのだが、かなり大雑把な映画ではある。連続TVドラマの方が楽しめる内容かもしれない。

監督:佐藤純彌 出演:緒形拳 西田敏行 オレーグ・ヤンコフスキー マリナ・ヴラディ 江守徹 川谷拓三 三谷昇 沖田浩之
1992年日本
ラベル:冒険 歴史
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2010年04月27日

『Serko』続き観る。久々のアレクセイやっぱり可愛い

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СЕРКО / SERKO

でまあ昨日『SERKO』出て来たし、アレクセイ最近会えなくて寂しいしで続きを観ることにした。いやあ、この『SERKO』の時のアレクセイってホント少年としか思えない可愛らしさ。白い小型馬に乗る姿はメルヘンチックなアニメの王子様のようですわ。
前回の続きで今夜、観たのはちょうどアレクセイ=ドミトリーが熊に襲われヤクーツク(でいいのかな、ごめん)の少女に救助される場面から。昨日の『9000マイル』でも親切の塊のような彼らはドミトリーにも優しく皆で歓迎の宴を開いて例の不思議な歌声を聴かせてくれる。が、腹ペコなドミトリーは歌より目の前でぐつぐつ煮えてるスープの中の肉にとうとう我慢できず掴みだして皆さんの目の前でがっついてしまった。でも優しい彼らはまったく怒ったりはしないせず「いつまでもここにいていい」とドミトリーに勧める。ドミトリーの介抱をした少女は期待するのだが、故郷の皆の為に皇帝に会って村の馬を助けて欲しいと嘆願する任務を背負っている彼は再び旅立つ。

メルヘンチックなアニメのよう、と書いたがまさしくこの物語はどこかアニメ的な雰囲気がある。先に書いた彼を救うアジア系民族の話も西洋の人々が思う夢のように思える。
そして次に彼が訪れる小さな小屋。覗くと誰かの脚元に狼たちが群がっているではないか。大声で叫ぶと狼たちは飛び出していった。
ドミトリーが中に入ると中国人らしい小さな遺体が椅子に腰掛けていて狼たちは彼の脚を食べていたのだ。ドミトリーが彼の持ち物からウォトカを取り出し飲んでいると突然その死体が話し出す。驚いたドミトリーに死は狼に食べられると二度目の死を迎えると言いだす。が、ドミトリーは連れていくことも凍った地面に葬ることもできない。困った彼は小さな中国人を木の上に座らせて去っていく。この話はなんなんだろう。とても不思議だ。
その後ドミトリーが進む凍った海?湖?の場面は南の国では観ることのできない幻想的な光景だ。
半透明の氷原の上を馬に乗って走っていくドミトリー。氷は割れる心配はないのだろうか。氷の上を走る蹄の音は地面とは違う足音を立てる。
だが小さいが忍耐強い馬と違いドミトリーは疲れ切ってしまう。そんな彼をまた乗せて走っていくセルコ。
とうとうドミトリーはあまりの疲れと空腹に苛立ちセルコに当たり散らす。暫くしてセルコの首を抱いて謝るドミトリー。
再びセルコにまたがったドミトリーの行方にポツンと一軒の家が見える。
中には前とは違う人種の年取った女性たちがいてドミトリーに綺麗な服を着せ暖かいスープとパンをたっぷり。そしてまた奇妙な歌声。
そしてドミトリーの服に金を詰め込んでくれる。すっかり元気を取り戻して旅立つドミトリー。こんな女性たちが大陸のあちこちにいたら旅人も安心だ。これも彼が可愛いからなのか。

と今日はここまで。
ドミトリー=アレクセイも可愛いが白い馬のセルコちゃんもキュートなんである。
この間にすでにフランス人とアジア系女性の旅芸人が登場。これも不思議な影絵人形劇を見せてくれる。フランス人が日本のことを「ジャポン」と言ってたら女性は「ニッポン」と発音したように聞こえたけど。ニッポンと言ってくれるとこはないよね。日系だったのかな。
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『9000マイルの約束』ハーディ・マーティンス

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AS FAR AS MY FEET WILL CARRY ME/SO WEIT DIE FUBE TRAGEN

タイトルが示す通り恐ろしく時間も長い映画でその為やや躊躇してたのだが、観出したら面白くて(って言っていいのか。でもこれは面白いよね)ぐいぐい引き込まれて観てしまった。なんといっても私が大好きな放浪モノしかも最も憧れる(って言っていいのか)ユーラシア大陸横断ものである。この9000マイルという距離はこれまた大好きなアレクセイ・チャドフ主演の『SERKO』で彼が演じた若きコサックが白い小型馬に乗って走破した距離(アムール川流域からサンクトペテルブルグまで)と同じだがこれは乗馬であり本作はなんとほぼ歩いて行ったんだから恐れ入る。無論乗馬では200日だが本作の脱走ドイツ人は1000日以上を必要としている。脱走であるから堂々とはいけないし。
面白いのは二つの話とも途中遭難しヤクーツクの人々に助けられ若い女性に気に入られてしまう、というちょっとしたロマンスがほぼ同じパターンで入っていることである。しかもどちらも実話だというのだがこの部分もそのままなのであろうか。
なんといっても主人公はどちらも美男で遭難してたら若い女性としては放ってはおけない、ただし美形に限る、ということか。とはいえ本作の方は目的が愛する妻子の元に帰る、ということだから、この場面は観る人によっては評価を下げてしまわないか。自分としてはさすがのドイツ人ももうここに居つこうかと思ったのでは、と考えてしまう。あの恐ろしい厳寒の大地を再び歩み出すより暖かで優しい人たちとのんびり暮らしたいではないか、あそこで追っ手が迫っている知らせさえなかったらもう戻らぬ人になってたかもしれない。

ドイツ兵士がシベリア収容所で強制労働をさせられ脱走した物語、というのは彼の国のこれ以前の所業を取り沙汰されたら感動しにくいものになってしまうだろうが、本作ではそう言う部分はできるだけ隠さねばならないのはきついところかもしれない。その分ソ連将校が悪役になってしまうのである。
また彼の国境越えを援助するのがソ連に住むユダヤ人でしかも兄弟をドイツ人に殺されているのである。彼が何故恨むべきドイツ人を救ったのか、明確には答えられてはいない。だが彼の言った「何度でも助ける」という言葉に恨みを復讐で返すのではなく徹底的に助けることで思い知らせる、というような特別な感情があるとしか考えられない。彼の宗教感なのか。

想像することもできない広大なユーラシア大陸を歩み続けた男。絶望の中で観たオーロラの美しさ。彼の頭上を飛び越えていった追っ手の犬ぞりは彼の見た幻影なのか。
彼が行ったことはもっと話せないような事実もあるのかもしれない。神の前で謝らねばならないことが。
これは美談という類のものではなく一人の男がやり通した冒険譚なのに違いない。

それにしてもやはり語学は必要だ。彼がロシア語が話せなかったらこの冒険も無理だったよね」。

監督:ハーディ・マーティンス 出演:ベルンハルト・ベターマン ミハエル・メンドル アナトリー・コテニョフ ハンス・ペーター・ハルヴァクス イリス・ベーム
2001年ドイツ
ラベル:戦争 歴史 家族 冒険
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2010年04月25日

『母なる証明』ポン・ジュノ

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どういう映画なのかをまったく知らずして監督がポン・ジュノであることだけで観ていた。冒頭の幻想的な野原でのダンスからゆったりと始まりどうやら母親とやや知能に問題のある息子の物語なのかと思い始めた途端、物語が危険な予感のするサスペンスミステリーへと進み始める。これは『殺人の追憶』側の物語だったんだとあの恐ろしい闇の中から飛び出してくる影を思い出した。

観ていくだけでひりひりするような痛みを感じてしまう。常に何かおぞましいことが起きるような気がして進んでいくのが怖いのだ。
母親、という言葉を見た時、多くの場合、深い愛情を思う。優しいぬくもりを感じるのと同時に子供に対する愛情が狂気へ走らせる異常さを感じさせる。それは真逆のことのようで同じものなのだろう。狂気に走るほどの愛だからこそどこまでも包み込むように優しいのであり、冷静さを欠かない程度であるなら優しさもまたその程度なのだ。

物語は数えきれない程の糸が絡み合って出来ている。トジュンの知能と時折蘇る記憶。母親の強い波長を持つ精神。
心中というものが愛情なのか身勝手なのかという論議がある。母親は息子が一心同体だと言って心中を試みた。結果生き延び、息子は記憶の底からそれを思い出し母親を憎悪する。
息子の殺人を隠す為母親が犯した殺人現場に置き忘れた彼女を証明してしまう品物を息子が持ち帰り母に渡す。またいつ息子がそのことを思い出して誰かに話してしまうか、それは判らない。
母親は鍼師である。太ももに嫌な記憶を消すツボがあるという。最後、彼女は自ら記憶を消すツボに鍼を刺し、踊り出す。
本当に記憶が無くなったのか、記憶を無くしたふりをしているのか、彼女の体を包む夕陽はやがて沈み、また深い闇が彼女を脅かすのだろうか。

痛みを伴う恐怖と愛情、という物語は韓国映画にはなくてならないものみたいだ。特にポン・ジュノ監督はその表現が際立っている。
作品中にも言われるトジュン役のウォン・ビンの綺麗な目の可愛らしさ、母親役のキム・ヘジャの母親というものの権化のような表情。
そういえばポン・ジュノ監督は『グエムル』の時、主人公家族に母親がいないのは何故なのかを聞かれ「母親がいれば怪物を怖れることがない」というようなことを答えていたように覚えている。父親しかいないから家族があたふたするのだと。母親はグエムルより強いのだ。(この映画に母親を出さなかったので今回出て来たのかもしれない)
殺人という最も恐ろしいものを二つも母親は飲み込んでしまった。飲み込んで腹に収めて忘れてしまおう、と決めてしまった。もし自分が死んだり自首したりしていなくなれば息子が楽に生きていける保証はないのだ。そうするしかない。
同じ話ではないが鬼子母神を思い出す。
真犯人とされてしまった青年には母親がいない。彼を守る人はいないのである。

監督:ポン・ジュノ 出演:キム・ヘジャ ウォン・ビン チン・グ ユン・ジェムン
2009年韓国
posted by フェイユイ at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月24日

今、珍しく観てる日本ドラマは『ゲゲゲの女房』

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これも面白い!

最近珍しく観ているTVドラマがある。NHKの『ゲゲゲの女房』私は夜7時半BS2で観てるのだが。

先に本も読んでしまったのだが、無論それは水木しげる先生と『ゲゲゲの鬼太郎』が好きだからである。
奥様が書いた本ってどんなものかと思ってたのだけど本当に日本女性らしい奥ゆかしい文章で感銘を受けてしまった。ご本人も言われている通り古いタイプ、なのだろうけど素晴らしい女性なのだ。
ドラマが進行中でそれを楽しみに観られている方もあるだろうからあまり書いてしまうわけにもいかないけど最近ないほど日本ドラマで充実してると感じてる。物語自体は戦後であるしごく平凡な生活のドラマなのでどうなるかどうなるか、というのではないのだが製作に力が入っているんだろう。出演陣の顔ぶれも凄い。なんといってもしげるパパ役の風間杜夫さんがまるで水木しげるさんに似てると感じるほどの役作り。お母さんである竹下景子さんも可愛くも素晴らしい。ヒロインの父役大杉漣さんが泣けるしヒロインママの古手川祐子さんもよい。脇役ががっちり固められているので何の不安もない。
といってもヒロインの松下奈緒もしげるさんの向井理も文句なしなのである。
今なら羨ましい長身も昔は大女と言われてしまうのである。戦後の大貧乏もおかしいし今夜は布美枝が初めて東京のしげるさんの家を見てあまりのボロさにあっけにとられる、という申し訳ないが爆笑だった。
とにかく毎回大笑いさせていただいてかさねがさね申し訳ないのだがホントにおかしい。結婚式の時スーツ姿に白足袋をはかせられた、というのは腹筋が泣いた。
今日はまた布美枝がしげるさんお原稿を初めて見る日でもあったのだが、さすがにあの絵を初めて見たらうぎゃあだよねえ。可哀そうでおかしい。
こんなに面白くて笑えて泣けるのだが初回視聴率は最悪だったらしい。
これを観なくて何を観る?
きっと後で「観とけばよかったあ」ってなるに違いない。後悔しないよう次回から観よう。
別に関係者ではないよ(笑)
ただ水木しげるさんの、というか鬼太郎さんのファンだというだけで。
始めや終わりに出てくる妖怪たちや目玉の親父さまが可愛いのだ。
ラベル:ドラマ
posted by フェイユイ at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『世代』アンジェイ・ワイダ

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POKOLENIE

ほぼ映画鑑賞をDVDに頼っている自分である。が、どうしても観ておくべきと思える名作ほどDVD化されていないのは一体どういう理由なんだろう。少しずつそれらもDVDなり現在観ることができる形になってくれるのであろうか。私が生きている間にやって欲しいものだ。
それらの一つにアンジェイ・ワイダ監督作品もある。ようやく近々『カティンの森』一つがレンタルもできそうだが他にもまだまだ未見のもの観なおしたいものが数々ある。
昨夜BS2で『世代』が放送され初めて観ることができた。ワイダ監督のデビュー作品ということで確かにまだ初々しい面もちらほら見えるのであるが圧倒される迫力を持つ場面が何箇所も出てくる。
また若かりしロマン・ポランスキーがナチスと戦う警備隊の一員として登場するのが驚きだった。

本作でのナチスは昨日観た『ワルキューレ』のように中にはいい人がいる、とはとても思えない。人間性をまったく欠いた殺人鬼のようでしかない。舞台はポーランドの小さな町のようだが通りに殺されたポーランド人の遺体が高々と吊り下げられていて人々はその下を歩いて仕事場へ向かうのだ。またユダヤ人の住む建物が燃やされ黒煙が空を覆い、その下に並ぶナチス兵士たちの姿が恐ろしい。
映画の前にワイダ監督自身の説明があり彼が画学生の頃、同級生の絵に酷い衝撃を受けたという。その絵は惨殺されたポーランド人を描いたものでワイダ監督は自分もこういう作品を作らねばならないと感じたということであった。吊るされた死体はその絵から受けるような悲しみを感じさせる。
(それにしてもワイダ監督の青年時代は俳優にしたいほどのハンサムであった)

まだ何も知らない若者であった主人公スターショがドイツの石炭輸送列車から仲間と共に石炭を盗もうとする。気づいたドイツ人から仲間の一人が撃ち殺されてしまう。
やがて工場で働き始めたスターショは労働の大変さが身に沁みる。そしてナチスがポーランドをいかに圧政しているのかを知っていく。彼が行く学校もナチスの支配下にあるのだ。
そんな時、スターショはナチスと戦おうと呼びかける抵抗運動家の一員ドロタの演説を聞く。スターショは指導者であるドロタを尊敬しながら美しい女性である彼女に惹かれていく。

立派な軍服に身を包んだドイツ人と違ってスターショの冬服のみすぼらしさ。ポーランド人である彼らがいかに弱い存在なのかが伝わってくる。
やっと愛し合えるようになったドロタがゲシュタポに連行されるのを見てもスターショはどうすることもできない。
だがドロタがスターショに話していた新しい仲間が現れスターショの頬に涙が流れる。スターショの戦いが始まったのだ。

本作で描かれているポーランドの中のカソリック教徒たちとユダヤ人たちの関係の真実については自分にはよく判らないが、ここでカソリックである主人公は友好的な態度で表現されている。ユダヤ人を救う為に戦う、という台詞もある。
『カティンの森』で描かれている大虐殺など歴史は一筋縄で説明がつかない。
一つの映画がすべてを把握することはできないだろう。多くの作品を観ることが大切なことなのだ。

監督:アンジェイ・ワイダ 出演:タデウシュ・ウォムニッキ  ウルスラ・モジンスカ  ズビグニエフ・チブルスキー  ロマン・ポランスキー  タデウシュ・ヤンツァー
1954年ポーランド
ラベル:歴史
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2010年04月22日

『ワルキューレ』ブライアン・シンガー

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VALKYRIE

実話である、ということも作用して面白い作品だった。本作の場合は何度か観なおして背景やら人物相関図やら製作の裏話なども調べたほうがより面白いのかもしれないがここでは単に観ただけの感想。
取り敢えず監督のブライアン・シンガーはアメリカ人監督とはいえユダヤ人であるにも拘らず「ドイツ人にもこういう人間がいる、ということを証明するのだ」という熱い思いを抱いたドイツ軍人たちを描いている、ということがまず興味深いかもしれない。
ブライアン・シンガー監督と言えば『ユージュアル・サスペクツ』が評判であったと思うが自分としてはスティーブン・キング原作の『ゴールデン・ボーイ』が強い印象の面白い映画だった。
これもまたナチス将校を描いた作品なのだが、「もし自分ちの近所にナチス将校が隠れ住んでたら?」というキングお得意のぞくぞくするような怖いようなとんでもない話である。
アメリカ人は表面ではナチスを悪の権化として徹底的に批判しているくせに心の奥底では密かに彼らの行為に対して強い好奇心を持っている、ということが一人の優等生的白人少年によって明らかになっていく。小説で読むだけでも人間の心理を暴露していく恐ろしい(が面白い)物語であるのにそれを映像化してしまうブライアン・シンガー監督、しかも彼自身がユダヤ人なのにユダヤ人を恐ろしい目に合わせた将校の話をぞくぞくしながら聞きだす、というのはやばくなかったのであろうか。まあ、その少年はその年老いたナチス将校を苛めぬくのではあるが。
そして今回は「中には正義の人間もいたナチス軍人」という物語である。またまたまずいことにはならなかったのであろうか、親戚関係では。
と大いに興味を抱かせる物語ではあるが、多くの人が疑問に思ったろうし私もそれが原因ですぐ観る気がしなかった「トム・クルーズが主演」という事実。やはりシンガー監督はアメリカ人、ということなんだろうか。どこかで最初この主役はドイツ人俳優トーマス・クレッチマンがやるはずだったのにクルーズに変えられた、とのこと。クレッチマンは本作でワルキューレ作戦に関わった「反逆者」を逮捕するレーマー少佐に扮している。真逆の役になったわけだ。クレッチマンは『戦場のピアニスト』でユダヤ人である主人公を救ってくれる(実際は他の幾人ものユダヤ人を救ったらしい)高潔なナチス将校を演じていてイメージ的にもぴったりであったろうに一体どういう経緯があって降板させられてしまたんだろう。確かにアメリカ映画に置いてクレッチマンが主役であるのとクルーズが主役なのでは観客動員の数は物凄い差になってしまう予感はする。どうせ英語で製作される国籍不明な映画になるのだし作りとしても明らかに娯楽性の高いアクション映画なのだから作品のテーマである「いいナチスもいた」ことが表現できてしかもより多くの人に観てもらえるクルーズの方が意味がある、となったのかもしれない。
(それにしても小柄なクルーズを小柄に見せない為にヒットラーも随分小柄、他の人たちも小さめだった。クレッチマンだったら標準でできたろうにねえ)
それにこの配役では「やはりユダヤ人監督としてはドイツ人に正義の人をやらせたくないのだ」としか思えないではないか。
そういう様々な逡巡もあったのかもしれないが。

当然ではあるがナチス軍服がきっちりかっこよく見えてくる。ナチスマニアのユダヤ人、って。かなりアブナイ人なのかもしれない、この監督。これは褒め言葉だよ。

監督:ブライアン・シンガー 出演:トム・クルーズ ケネス・ブラナー ビル・ナイ トム・ウィルキンソン カリス・ファン・ハウテン トーマス・クレッチマン テレンス・スタンプ エディ・イザード
2008年アメリカ
ラベル:戦争 歴史
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2010年04月21日

『青春残酷物語』大島渚

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この映画が作られた時はまだ自分も生まれてなかったし自分が青春時代に入った時には日本のこの頃の青春ものなどは(時代ものならいいが)なんだか御免こうむりたいものであった。何か卑屈な歪んだものを見せられる気がして遠ざけていたのだ。戦後の昭和、経済の高度成長の中で満たされない若者たちが気恥かしい欲望をさらけ出して先進国と呼ばれる世界を真似している、という映像を観たくなかった。
なのでこの映画を観るのは初めてだったのだが、無論作者が大島渚監督ということもあり怖れていたような反感だとかはなく確かに残酷な青春時代を観ることができた。

最後まで観ようと言う気になったのは韓国で暴動がおきたというニュースが入ったところからで、この映画には時代が写し撮られているのではないかと感じた時からだった。
学生だが何をするでもない清と真琴は「美人局」をして中年男たちから金を巻き上げていく。
私が「美人局」という言葉を知ったのは五木寛之の小説だった。これもまた若者たちが仲間の女の子を使って中年男から金を巻き上げると言う話だった。当時私は五木氏の小説からマリファナやら暴走族やらの話を読んで感心したものだった。五木氏の「美人局」はその金でラジオ局を開くという夢のあるものだったがこの映画の二人には何の目的もない。
偶然出会った清と真琴は生活能力もなくただ体を合わせ妊娠し堕胎をし美人局で逮捕される、というだけの青春なのである。そして思うようにならない世間に苛立つ。
真面目に正常な生活を送っている者から見れば彼らはただの我儘者にすぎず金を払ってくれる大人たちに甘えているだけなのだ。
映画では二人は愛し合っていたはずなのにどうすることともできなくなる。「何をする?」「何をしようか」「どこへ行く?」「どこへ行こうか」そして二人は別々に死んでしまうのだ。
普通の他の人間ならこうした苦い経験の後に反抗や自由や甘えることを諦め、少しずつ大人になっていき何も判っていなかった若い日々を思い出すのだ。死んでしまうというのはそうした我儘な自分たちの青春なのかもしれない。

監督:大島渚 出演:桑野みゆき 川津祐介 
1960年日本
ラベル:青春
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2010年04月20日

『めぐりあう時間たち』スティーヴン・ダルドリー

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THE HOURS

神経症な女性が3人も出てくるので自分の好みとしてはぽうんと放り出したい気分だったが物語自体が時間と舞台が交錯するという自分の好む構成でしかも非常に精密だったのでそういう意味ではなかなか楽しめた。

1920〜40年代の時間『ダロウェイ夫人』というこれもある女性の一日を描いてその中で彼女の人生と死について思いを巡らす、というものであるらしい小説の作者ヴァージニア・ウルフ、現在の時間はかつて愛した男性リチャードから「ダロウェイ夫人」とあだ名されるクラリッサ、そしてその半ばほどの時間にウルフの『ダロウェイ夫人』を愛読している主婦ローラ、まったく違う3人の女性の人生に対する苦悩を描いていくうちに3つの人生が触れ合う瞬間を感じさせる。
3人の女優の演技には見入ってしまう。特にウルフを演じたのが驚きのニコール・キッドマンで最初名前が出てるのに全然出てこないじゃないかと気づかなかった。奔放というのか、精神を病んでいるのだと言われてもそうではなくて苦しんでいるのだと言い返す。心優しい夫に恵まれていながらそれを幸せとは感じられずむしろそれが彼女を縛る鎖となっているだけなのだ。それはそのまま一見幸せそうな主婦ローラにつながっていく。自殺するヴァージニアとは違いローラは死ねず夫と子供を捨てて生きる道を選ぶ。そのローラから捨てられた子供がリチャードでありクラリッサの元恋人ということで時間はめぐり合うのだ。
計算された構成が心地よく時間の流れを扱った作品はSF好きにはたまらない設定なのであるが、主要人物がめそめそ型女性なのが腹立たしい。男のめそめそしたのはいいのだが女のめそついたのには我慢ならないのだ。
ウルフはニコールの素顔がかっこいいので見惚れてしまったしジュリアンは泣き顔が似合うとしてもメリルがめそめそするのはちょっとやだなあ。それに取り敢えずビアンな要素が入っているのになんだかしっとり愛し合う場面はないのだねえ。まだまだビアンな表現は遠慮がちなのが伝わってくる。せめてメリルがリチャードより女性の恋人への愛情を強く見せてくれればいいのだが、不満。

しかしこういった何不自由ない暮らしなのに人間としての欲求が満たされないという苛立ちを描く作品を観てると戦争やら飢饉やらの時には平和や食事さえあればいい!というくせに人間というのは何と欲深な動物なのであろうかと嘆息を禁じ得ない。『戦場のピアニスト』を観せたらどうなんだろうか、などと言ってもこの人たちからは「あなたには私の苦しみは判らないのよ」と罵られそうだ。あああ。
作品と女優たちの技量の高さは感心する。そしてこの物語の持つ苦悩と言うものを確かに私も感じている。感じているのだがしかし一緒にそうよねえと言いたくない。解脱したい。この作品もそう言ってるって?私も結局めそついた女の一人だと認めるべきか。やだやだ。
つまりこんな風に何もかも求めて悟りたいとまた求めてしまう女性の一人なのだと自覚したくないので反感を持ってしまうだけなのかもしれない。
やはり自分の情けなくも醜い欲望は隠しておきたいものなのだ。
どうせ私もあなたたちの一人でしょうよと認めさせられる作品なのかもしれない。

原作者マイケル・カニンガムの『イノセントラブ』も死と水が関係する。というか幾つもの作品でこういう人生と死を考える物語には死と水が関連してくるのである。それは日本などアジアでも同じような表現になることが多い。面白い、というか興味深い。

監督:スティーヴン・ダルドリー  出演:ニコール・キッドマン ジュリアン・ムーア メリル・ストリープ トニ・コレット クレア・デーンズ ジェフ・ダニエルズ スティーヴン・ディレイン ミランダ・リチャードソン エド・ハリス
2002年アメリカ
ラベル:女性 人生
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2010年04月19日

『裏窓』アルフレッド・ヒッチコック

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Rear Window

ヒッチコックの中でも最も有名なタイトルなのではないだろうか。何やら気になる意味ありげで興味を惹かれる。
と、観てみればつまり「覗き」というのが題材になってるので若干後ろ暗い気持ちになってしまう向きもあるかもしれない。しかしヒッチコックの映画と言うのはほぼどこか異常な性質を持っているものなのである。
エアコンというものがない時代の夏の日は窓を思い切り開け放している、ということで成り立つのかもしれないこの設定。今ではちょっと難しい。あえて言えば盗撮などの状況を考え出せばこれに似た作品が出来上がるのかもしれない。

それにしてもこの作品ですっかり忘れてしまってたのは本作の殺人がバラバラ殺人だった、ということだ。
というか実はこの映画、殺人現場も死体も犯人の自供もなければ警察側のこれという発表もなく実際に殺人事件が起きたのかを明確にしていない、というちょっと変わった表現になっている。
一体どうしてなのか。見どころは「どうなるんだろう」というサスペンスにあるので恐ろしいバラバラ殺人事件はぼかしてしまった、ということなのか。それでも小犬が「何か」を埋めた場所を何度も掘り返すので殺してしまう、という可哀そうな殺害は犯しているのだ。そして「それは帽子の箱の中に入っているので見るかね?」という台詞があるのだからソーワルドが妻をバラバラにしてしまったのは疑いない。

このおぞましいバラバラ殺人事件と覗きという陰湿で悪趣味な題材を救ってくれるのが見ているだけで爽やかな風が吹き抜けるようなグレース・ケリーの美貌だろう。まったく作品中「完璧すぎる女性」とジェームズ・スチュワート扮する恋人ジェフが困惑するほど一部の隙もない美しさ。なんだかもう動いているお人形みたいなんである。彫刻したかのようなクールな顔立ち。そして理想的としかいいようのないプロポーション。痩せすぎでなくほっそりとしかも女らしい柔らかさのあるどうしてこんな体が出来上がるのか不思議である。特に剥き出しにした腕の形はうーん、誰かが作り上げたとしか思えない綺麗なラインなのだよねえ。甘すぎず、且つ女性らしくあんまり上等過ぎて確かにジェフでなくとも妻にするには考えてしまうかもしれない。私も以前はあんまりセクシーでもなくつまらない気がしてたのだが今見るとやはり見惚れてしまう美人で、彼女がやれば不法侵入も許される、ということなのだろうね。

ヒッチコックは古臭い、と思われるかもしれないけど彼の作品はできるだけ観てたほうが他の映画を観る際に何かと役に立つ気がする。
というのはおかしいかもしれないけど自分はそう思ってしまうのだよね。映画を作る人ならもっとだろうけど。
人間の中にある異常心理や事件のサスペンスの様々な要素が詰まっている。単純かつ効果的。
ジェフが覗き見るたくさんの裏窓の様子は今ならたくさんのモニター画面みたいな。バラバラ殺人はいつも今も起きているし。
男を骨折させといて女を動かす、というのも楽しい演出である。

監督:アルフレッド・ヒッチコック 出演:ジェームス・スチュアート グレース・ケリー レイモンド・バー ウェンデル・コーリー セルマ・リッター
1954年アメリカ
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2010年04月18日

『パパってなに?』パーヴェル・チュフライ

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VOR/THE THIEF

なんだか日本映画を観ているようなじっとりとした湿度の高い作品であった。
自分が若い時は日本の映画ってこういう雰囲気の物ばかりのように思えてなんでこうさっぱりと割り切れないのか、いつもじれったく嫌いであった。特に男女が突然肉欲的に結びつきねばねばぐにゃぐにゃ離れそうで離れきれないでいる状態をとても深い愛だとかには思えずただただ気持ち悪いものとして蔑んでいたものだ。
今は自分もすっかり大人になって男女の関係というものの機微も少しは感じられるようになったかもしれないしあまりドライな関係というのもまた気持ち悪い(なんなんだ)
久しぶりに外国映画で昔嫌いだったようなドロドロおぞましい男女親子関係を観てしまってそれほど嫌でもなかったのは自分が成長したからか、それともやはり舞台がロシア(っつーかソ連)だから多少我慢できるのか。

一つは何と言ってもサーニャ役の少年が幼年期も少し大きくなった少年期もすこぶるつきに可愛い。特に最後少しだけで残念だったが成長したサーニャくんの金色の髪に青い目でぽってりと赤い唇という美少年ぶりに目を奪われてしまいそれだけで凄くいい映画だったような気がしてしまった。
先日観た『父、帰る』は多分実の父である男に対し二人の息子がそれぞれの思いを抱く様を一種の神話のような形式で語っていく作品だったが、こちらはある母と息子が突然出会った男と道連れになり、母とその男が肉体関係を持って深みにはまっていく。
息子にとってはその男は大事な母親を奪おうとする敵でしかないが、男は少年をその男なりの方法で導いていく。少年はどこか戸惑いながらも男を憎む気持ちと強い男として尊敬する気持ちを併せ持つようになる。つまり母親もその男と離れきれないでいるように少年もその男を否定しながらどこかで頼り始めている。
男が警察に捕まり牢獄に入れられる別れ際に少年はとうとう自分がその男を父親として認めてしまったことに気づくのだ。
男を失った母親は病死し、少年はその男を父親と思い続け再会を待ちわびる。が、少年が待ち続けたその男にとって少年とその母親は通りすがりの思い出でしかなかったのだ。
少年は男から譲り受けた銃で男を撃ち殺す。
少年にとってその男は最愛の母と自分を騙し裏切ったとしか思えない。でもその男にしてみれば互いの最後の場面はもう離別を決めた後だったのだしその男自身は二人にそれほど酷い仕打ち(まあ何度か殴打したり脅したりはあったが)をしたわけでもないのだから画面のこっちから見てる分には仕方ない気もするのだが。
もしこれが男側からの映画だったらいきなり少年に撃ち殺され、それはそれでまた因果応報仕方ないかな、と思うんだろうけど。
つまり男は少年に「男は一度抜いたナイフは刺すんだ」と教育し少年は男の教え通り抜いた銃を撃ったわけである。立派なパパの教えだったわけだ。
血を受け継いだパパからは何の影響もないが偽物のパパの生き方は学んでしまった。
彼は男を父と思わなくとも同じ人間になってしまうかもしれない。
何度も何もなかった、と彼は自分に言い聞かせるがその男の言うとおり人を殺せる人間になってしまったのではないのか。
何もなかった、ことになることはない。命を奪ったのだから。

作品自体はそれほど長いものではないのだが少年のこれからの生き方を様々に考えさせる奥行きのある映画だった。

偽の父親であり偽の軍人である彼の男臭い魅力とそんな男に焦がれるように恋する母親の女っぽさに今では見惚れてしまう自分である。
サーニャの孤独な心にも惹かれる。本当にこれから先のサーニャを観たい。この前の『この道は母へとつづく』の孤児院の少年たちとも重なりこういう孤独な美少年の魅力というのはたまらないものがあるのだ。あのぶかぶかの上着姿が愛おしい。

監督:パーヴェル・チュフライ 出演:ウラジーミル・マシコフ エカテリーナ・レドニコヴァ ミーシャ・フィリプチュク ジーマ・チガリョフ 
1997年ロシア/フランス


ラベル:家族
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やっぱり可愛い『男3人で Perfume - 不自然なガール を踊ってみた』!!!

男3人で Perfume - 不自然なガール を踊ってみた



わあああ、待ち遠しかった。edgeから8カ月ですか。はああ、光陰矢のごとし。
3人とも素敵です。
出だしの白服さんと仮面2さんの絡みが何とも言えません。眼鏡さんは前回歌で仮面1さんと絡んでたからよいでしょう(ってことじゃないでしょうけど^^;)
3人とも好きだけどこうして待ってたらやっぱり白さんが好きだと判りました(笑)
これでまた毎日観れるわー。
ラベル:perfumen
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『エレファントマン』デヴィッド・リンチ

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The Elephant Man

この映画は若い頃、特に自分に強い影響を与えてくれた作品の一つである。
当時、話題にもなり非常に衝撃を受ける内容だった。仲間内でもこの作品が感動的なヒューマニズムなのか偽善的なのかということでケンケンガクガクもあったりした。
監督のデヴィッド・リンチは今でこそ常に異質で難解な謎の映画を作りだすことで有名な鬼才の監督だが、その頃はまだ無名であったのだ。が、そうこうするうちに同監督の前作映画『イレイザーヘッド』が公開され「おや、この監督はちょいと違ったみたいだぞ」と気づかされ『エレファントマン』が単なるヒューマニズムなどという見解から作られたものではないんじゃないかと馬鹿な若者なりに感づき始めた。まったく無知だった私も世の中にはフリークスと呼ばれる人々とそれを愛する人々がいることがようやく飲み込め出したのだ。それ以前も江戸川乱歩などが好きだったくせに世の中のそういうことにはまったく気づいていなかったのだからしょうもない。
無論リンチ監督がその後、ドラマ『ツインピークス』や『ブルーベルベット』『マルホランドドライブ』などでそうした気質を大いに表現し誰もが認める特異な映画監督になっていった。今となればリンチ監督の作品タイトルの中の『エレファントマン』を偽善的かどうかなど論じる人はいないのではないだろうか。
ともあれ自分はこの作品を観た時から一つの作品がもしかしたら別の意味を持つかもしれないこと、をようやく認識したのであった。

そしてそういう思い出を抱えて久しぶりに(本当に久しぶりだ)『エレファントマン』を観たのだが、思いのほかストレートに感動してしまった。昔あれこれ考えたことなどどうでもいいくらいに。
これは最初に感じたことだが非常に美しい映画なのだ。そう思うのはもしかしたらリンチ監督の持つ特別な感情のせいかもしれない。
この映画の中で特に印象的なのはロンドンの病院から興行主に連れ出され再び見世物の怪物として扱われるメリックが猿の檻に入れられているのを他の見世物小屋の人々から解放してもらう場面だ。巨人や小人などメリックを不憫に思う彼らと松明を持って森の中を歩いていく場面は不思議な夢を見ているようでリンチ監督はこの場面を撮りたいが為に本作を作った気がするのだ。

メリックのことを心から心配するトリーブス医師や彼に希望を与える女優ケンドール夫人などとの会話には素直に涙してしまう。それはやはりリンチ監督が本作に対して真摯に向き合ったからに違いないと思うのだ。
これはDVDの中に収められているメリックがいたロンドンの病院に属する人物の証言とも言えるコメントからよく伺える。彼の説明を聞くと実際のメリックとリンチ監督が作ったメリックとの違いを示唆されながら
この作品が当時の病院と彼に関係する人々をいかに上手く表現していったのかがよく判る。
また実際のメリック氏は映画の彼よりもっと自由で前向きであれほどの酷い待遇は受けていなかったと知れたのにはほっとした。別の監督であればもっと軽い調子の面白い映画にもなれたかもしれない。リンチと言えばこの重く暗いタッチが必定でもありそれがあるからこその感動もある。
若い頃の思い出も蘇りながら再び感動を覚える作品だった。

監督:デヴィッド・リンチ 出演:ジョン・ハート アンソニー・ホプキンス ジョン・ギールグッド アン・バンクロフト
1980年アメリカ/イギリス
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2010年04月16日

『ウォンテッド』ティムール・ベクマンベトフ

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WANTED

この映画を観る人の目的の殆どはアンジェリーナだろうなあ。主人公を演じるジェームズ・マカヴォイファンも多いのだろうか。
私としてはロシア映画『ディ・ウォッチ』『ナイト・ウォッチ』が面白かったのでこの映画を作ったのがベクマンベトフ監督だと後で気づいて観てみたくなったのである。
で、内容としてはほぼ『ナイト・ウォッチ』シリーズと同じであった。

どちらもモロオタク的感覚作品で自分も同じ穴のムジナであるから気持ちは判るけどいやもう露骨に内に籠った世界なのだよね。つまり現実とは思えない夢想的世界なんである。
よほどこういうスタイルが好きなんだろう。『ウォッチ』と同じ設定。古から伝わる掟、とそれに従って生きる特殊能力の人々が普通の人間社会の中でその力を見せつける、という。そして父と子の絆。息子が暗黒世界へ入ってしまうというのも同じで。
いやいや文句をつけてるわけではないのだよねー。こういうのっていうのはつまらない現実社会の中で抑圧されているオタクサラリーマン&ウーマンが夢想したくなる世界ということで。今迄何の才能もなく馬鹿にされ叩かれてきた若者が実は超能力を持っていることを知らされる。それも超のつく美女に。
激しい訓練で傷ついてもすぐに癒される回復風呂に入り、何日かの修行で才能を目覚めさせる。いやもうたまりませんね。
人もネズミもどんどん殺されてしまい惨たらしいも残虐も言ってられない。どーせ映画なんだから楽しむだけ楽しんでそれでいいではないかと。

それにしても自分としてはベクマンべトフ目的だったんだけど、結構い役者が出てるのだねコレ。
モーガン・フリーマンにトーマス・クレッチマン、テレンス・スタンプまで出てた。コンスタンチン・ハベンスキーは「ロシアン」役で登場。そのままじゃないか。
フリーマン氏が出てくるだけで映画の格がぐっと上がって本物っぽくなってしまう気がするし、ドイツ人は相変わらず悪役で登場だが息子がスコットランド人?ですか。いいけど。かっこよかったなあ。クレッチマン。登場時間は少ないが彼を見る為だけでもこれ観てよかったよ。
テレンス・スタンプ。何故?もう少し変な役作りでもよかったような。でもやはり嬉しい。
少々文句があるのはアンジェリーナで。好きですが、いくらなんでも痩せすぎじゃないでしょうか。まるで収容所から出て来たばかりみたいに痛々しい。あと10キロくらい太っていいんじゃないでしょうかねえ。こんな痩せたのを良しとするのは危険じゃないか。

なんといっても映像処理が煩いし、ここまで内向的な世界を見せつけられるとさすがに危ぶまれてしまう。殆ど「アリス・イン・ワンダーランド」的映像だと。
すべてが夢、と思えてしょうがない。

クレッチマンがすてきでそこだけもう一度観たい。

言葉にこだわるのはやはり外国の監督だからだろうなあ。「アイムソォリィ」って。

監督:ティムール・ベクマンベトフ 出演:アンジェリーナ・ジョリー ジェームズ・マカヴォイ モーガン・フリーマン テレンス・スタンプ トーマス・クレッチマン マーク・ウォーレン デヴィッド・オハラ コンスタンチン・ハベンスキー
2008年アメリカ
ラベル:オタク SF
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2010年04月15日

『変身』ワレーリイ・フォーキン

Prevrachenie_Metamorphosis_2002_DVDrip_Xvid-OCBKA.jpgKafka's Metamorphosis - Gregor Samsa.jpg
PREVRASHCHENIYE/METAMORPHOSIS

カフカの『変身』というとあまりにも有名な小説で、読んだことはなくともその題名とおおよその設定内容は聞いたことがあるのではないだろうか。私も読んではいないが、の一人である。
有名でしかもその不条理さは設定を聞いただけでなんだかもう不思議な気持ちになってしまうのだが、だからと言ってそれについて深く考えたりしたことはない。
この映画を観ようとしたのも特に何か思い入れがあったわけではないが、観始めて非常に面白かったのは監督と出演者の優れた技量のおかげだろう。ほぼ原作に忠実であるらしい。確かに不条理不可解な内容だが今観ると「これって単にひきこもり、っていう表現?」とすぐに考えてしまいそうである。

親の抱えた借金を返し可愛い妹を音楽学校に入れてあげたいという強い願いのもとにグレゴールは上手くいかない営業の仕事を懸命に頑張っている。本人はとても真面目で家族を愛している。家族もまたグレゴールを深く愛している。はずだった。
辛い仕事を終え、暖かな家族の家に帰り彼らの為にまた頑張るはずだったグレゴールはある朝、目覚めた時一匹の虫に変身してしまっていたのだ。

映画ではこの描写を俳優エヴゲーニイ・ミローノフの演技のみで表現している。CGや被りモノ、メイキャップはなく本人が自前の手足をばたばた動かし次第に口がきけなくなっていくのである。手足が自由にならない為部屋の鍵も掛けたまま、時折窓から様子をうかがっている。几帳面だった彼はみるみる薄汚くなっていく。食べ物も残飯のようなものしか口にせず彼の部屋もどんどん汚くなってしまうのだ。
彼の動きを観ていると身体障害者を表しているようにも見えるが現在の風潮と重ねて考えれば「引きこもり」を連想してしまう。
彼には酷く強いストレスがある。家族の幸せが彼一人にかかっている。そのことが彼自身もそうと気づかぬまま気持ちの悪い「虫」のような存在に変身させてしまったのかもしれない。
昨日まで彼を愛していたはずの家族の態度は一変する。誰にも見られたくないおぞましい厄介者として扱うのだ。
変な声で泣くしかできず部屋の中をはいずり回るしかない彼は滑稽でしかない。
愛していた妹からは「本当のグレゴールなら家族の為にいなくなるはずよ」と罵られる。
グレゴールは死んでしまう。
両親は残った娘を見ながら「美しく成長した。結婚相手を探さねばならない」と幸せそうに考えている。

グレゴールの存在は一体なんだったのか。いてもいなくてもよかったのか。
滑稽でありながら恐ろしい物語だ。

と書いたら何だか昨日の『戦場のピアニスト』でも書いたな、と思いだした。
で、「カフカ 変身」と見てたらなんとロマン・ポランスキーも舞台でグレゴールを演じているのではないか。なんという偶然。まさかそのつもりで続けて観たのではないよ。まったくの偶然。
『戦場のピアニスト』がグレゴールだった、ということはなかろうが確かにピアニストだった彼がある日からまったくピアノを弾くことができなくなり薄汚い格好になって這いずりまわって逃げる様はそうだと思えなくもない。
そう思えばやはりこの物語はただ一つの暗喩ではなく様々な形を想像連想できる物語なのだろう。
勝手な想像だがポランスキーの中にこのグレゴールの『変身』が常にあり、彼の作品は一人の人間がまったく違うモノになるということの恐ろしさや滑稽さが度々描かれているように思える。

なんだか不思議なつながりでポランスキーまで登場させてしまった。自分にとって思いもしない関連が見つかったこともあって非常に面白く楽しい映画だった。

監督:ワレーリイ・フォーキン 出演:エヴゲーニイ・ミローノフ イーゴリ・クワシャ タチヤナ・ラヴロワ ナターリヤ・シヴェツ
2002年 / ロシア
ラベル:不条理
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2010年04月14日

『戦場のピアニスト』ロマン・ポランスキー

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THE PIANIST

このブログをずっと読んで下さってる方なら判ると思うのだけど、自分はこのポランスキー監督を食べず嫌いというのか昔観ててよく判らずそのままの価値観でいたのだが、ここ最近ずっと作品を観なおしてきてその映画作りの巧さに観る度ごとに驚嘆し続けているという状態なんである。
この映画も以前ちらりと観て残酷な描写だけを観て逃げてしまったクチなのだがそれはやはり間違いだったと今回気付かされた。
というのか現在もまた勘違いしているのかもしれないが、ポランスキー監督作品というのはいつもサスペンスとユーモアが交錯している。恐怖と笑いが作品の味わいなのである。
本作は監督自身がポーランド人でありユダヤ人の血を持つということでナチスドイツに対する怒りや嘆きの表現とも受け止められるのだが、それでもやはり作品にはポランスキーの持つサスペンスとユーモアによって彩られている。
何しろ特に昨日観たドイツ人監督作品しかもナチスが題材だったものがあまりに稚拙だったので今日のポランスキーの技量がいかに並はずれて優れているのかが(いやもう比較したくもないのだが)よく判る。
この一筋縄ではいかない困難な物語の表現をどうしてこんなに巧みに映し出していけるものか。そしてそれらが退屈することもなく淀みなくサスペンスに満ちている。不埒な表現をしてしまうがナチスに追われるユダヤ人の恐怖ほどサスペンスに満ちたものはないのかもしれない。情け容赦のない恐怖のナチス、という誰もが知っているブランドがありさらに映像によって彼らがどれほどユダヤ人を何の人格もないと言わんばかりにあっさりと殺していくかを繰り返し見せつけられる。
単なるピアニストでしかないシュピルマンは家族とも切り離されなんとかツテを頼って逃げ隠れするしかない。いつどこでナチスに捕まるか判らないと言う恐怖。そして餓えと孤独。
彼に用意された隠れ家は街中でナチスの本拠地の目の前というとんでもない場所でそこから彼は様々な戦いの光景を観ることになる。こういう隠れた位置からのカメラ目線という描写が息をひそめているようで実にうまいではないか。靴音やドアを叩く音がする度にはらはらさせる。
サスペンスは満ちているがさすがにユーモアは少ないかもしれない。が、こんな物語でもおかしさを感じさせる箇所がある。特におかしいのはラスト近くシュピルマンが餓えの中でやっとみつけた大きな缶詰を何とか開けようとしてナチス将校に見つかってしまう。こんな状況で缶詰と格闘しているのもおかしいし将校の前で暖炉の火かき棒を両手に構えてる髭面の男という絵面が笑える。しかも缶詰は開け切れず中から汁が流れ出す。そこにナチス将校の靴から映す、という定番のカメラアングルもちょいとおかしい。
ところがこのナチス将校は毛色が違っててユダヤ人のシュピルマンにピアノを弾かせる。またこの大変な時にシュピルマンは大事に缶詰を抱えてピアノの前に行く。彼にとっては缶詰が何より大切なのだ。
ところがピアノを弾きだしたた途端彼はピアニストとして素晴らしい演奏を聴かせる。感動した将校はシュピルマンにこっそり食料を運んでやる。シュピルマンは彼に向って言う「あなたになんと感謝したらいいのだろう」そんなこと言ったってそのナチスから迫害されてこうなったんでしょう。とんでもない感謝である。監督の皮肉が込められていると思うのである。
その後、戦争は終わりシュピルマンはナチス将校のコートを着込んでいた為にもう少しでソ連兵に射殺されそうになる。早く脱げよと慌ててしまったではないか。ソ連兵から「何故ナチスのコートを着ているのだ?」と聞かれ「寒かったから」(笑)
戦後彼はピアニストに復帰し友人からナチス将校がソ連兵に捕まって彼の助けを求めていたと聞かされる。名前も知ることができずシュピルマンにはどうしようもない。
この部分、実際のシュピルマンはナチス将校に助けられたと言えず探すことができなかった、ということらしいが、映画の描写は違うものを感じさせる。
彼を助けかっこよかったナチス将校が助けを求める、というのが悲しいし、シュピルマンはあまり将校を助けようと頑張った様子には見えないのだ。
この部分は同じようにナチスによって家族を失ったポランスキー監督の感情も入っているように思えてしまう。

美しいピアノの調べを聞きながら戦争の狂気によってどれほどの人が敵も味方も迫害され惨たらしく殺されていったのか、を考える。
何故あんな恐怖を感じ逃げ惑わねばならなかったのか。
戦争にはどうしようもない狂気の滑稽と恐怖しかない。

監督:ロマン・ポランスキー 出演:エイドリアン・ブロディ トーマス・クレッチマン エミリア・フォックス ミハウ・ジェブロフスキー エド・ストッパード フランク・フィンレイ
2002年 / フランス/ドイツ/ポーランド/イギリス

この映画を観たのはポランスキー監督作品だったのもあるけど実のところはナチス将校のトーマス・クレッチマンを観たかったからなのだった。
シュピルマンのピアノに魅了され彼を助けたナチス将校。もうかっこよすぎて一体何の為に観てんだい。って気にもなるがひたすらもうかっこいい。
実際の彼は他にもユダヤ人を助けた、という方であったらしいがそういう人もソ連の収容所で亡くなったわけだ。なんて悲しいんだろう。戦争なんて本当に虚しい。
ラベル:戦争 歴史
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2010年04月13日

『エリート養成機関 ナポラ』デニス・ガンセル

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NAPOLA/BEFORE THE FALL

これは一体、なんだかなあ、映画作品として完成してない気がする。
ナチスの士官学校。厳格な規律の中で育まれていく強い友情。ハンサムな金髪碧眼の大柄な少年と黒髪の繊細な少年という組み合わせなんかも確かに自分が好きなシチュエーションではありますとも。しかしこの作りでは感動したくてもできないではないか。

すべてが甘くて緩いのである。ナチスというよりナチスごっこをしてる学校みたいなんである。ナチスにかぶれた若い奴が物語を空想ででっち上げたらこういう話になりそうだ。それにしても取り敢えずドイツ人が作ったものがこれでいいのであろうか。
「らしさ」を何とか生み出そうとする工夫はあちこちあるのかもしれない。フリードリヒが学校へ入学する為に髪や目の色を検査される場面なんかにそれが出ているんだけど、そこだけでそれ以上の関連がない。この映画ってそういう事柄の羅列でできていて物語の流れがないのだ。
そしてナチスの士官学校に志願する息子を何の説明もせずただ怒り殴る父親だとか逆に士官学校を毛嫌いする息子を憎悪する父親だとか、学校の教師もすべて大人は嫌な奴ばかり出て来る映画だ。こういう風に登場する大人を全部嫌な奴間抜けな奴としてしか描かないのは今の日本のアニメなんかでも顕著なのだが非常に子供じみた表現に思えてしまうのだよ。
そして主人公のフリードリヒとアルブレヒトをひたすら美しく描く。そういう極端な対比というのはむしろ寒々しく感動に結びついていかない。フリードリヒはエリートを目指すと言ってたのにどうしたんだ。何となくいい思いがしたかっただけなんじゃないか。アルブレヒトの死の描き方も腑に落ちない。あの状態ならまだ助けられそうな気もするし、単に自殺を美化して見せたかっただけのようで白々しいのだ。
二人の置かれた状況がどうしようもないほど追い詰められたように感じられないので投げやりな奴らにしか見えてこない。
フリードリヒの最後も裸にされて放り出される、っていうのは別段ナチス軍隊にそのまま残され戦争に連れて行かれた少年たちの方がよっぽど可哀そうじゃないのか。うまい汁だけ吸って危ないところで逃げだせたみたいにしか見えないよ。

何だか妙に少年愛っぽいムードを出してナチスだって清らかな青春があった、って見せてるのが苛立たしい。
この映画監督はまだ子供過ぎて世の中のことがよく判ってないだけに思えてくる。
この映画内容で最後に「士官学校の半分が戦死した」って言われても主人公の物語と噛み合わないではないか。
も少しよく勉強して大人になってから映画を作って欲しい。

監督:デニス・ガンセル 出演:トム・シリング クラウディア・ミヒェルゼン フロリアン・シュテッター ユストゥス・フォン・ドーナニー ジェラルド・アレクサンダー・ヘルト
2004年ドイツ
ラベル:戦争 学校
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2010年04月12日

『かつて、ノルマンディーで』ニコラ・フィリベール

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RETOUR EN NORMANDIE

昨日観た『日本のいちばん長い日』が事実なのかフィクションなのかよく判らなくなってくる事実だったフィクションなのに対して本作『かつて、ノルマンディーで』は事実なのかフィクションなのか判らなくなってくるフィクションも含む事実、というところなのだろうか。
自分にとっては本作監督ニコラ・フィリベールもまだ観賞2作目のよく知らない人である上、中で語られる彼の師であるルネ・アリオ監督なる人物の名前すら知らないしもしかしてこれって全部フィクション?とまで思いながら観てしまったのだ。まあここまでドキュメンタリーめいた創作をする必要があるものなのかよく判らないがそういう試みなのかな、と半分考えながら観ていったのであった。とにかく何も調べず観るものだからこういう事態がまま起きる。

実際は確かに実際行われた撮影の同窓会的ドキュメンタリーであったようだ。
30年前にフィリベール氏が助監督として参加したルネ・アリオ監督『私 ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』という映画作品は一部の脇役を除き主要配役を実際の地元農民に演じさせた、というものであった。作品自体が農村部が舞台で主要人物も農民なのである。脇役というのはそこに属さない医師や弁護士という役柄に職業俳優を当てたのだという。
彼らは皆その時限りの俳優でその後は全員俳優ではない職業に従事している。人生の中でたった一度限りの俳優を体験したことを30年を経た今彼らがどんな人物になりどんな感想を持っているのかを当時助監督であったフィリベールが丹念に追っていく。彼が当時普通の村民だった人々に役を与えていったのだ。
しかしその内容はすぐ近くの村である若者が実の母と妹弟を殺害した、という恐ろしい代物なのだ。普通の人々だった彼らは突然殺人事件の当事者及びその関係者という演技を映画撮影されることになったのだ。
素人とはいえ役柄になりきり深く考えたという彼ら。そして周囲の人々の視線を受けることになる。
平凡に生きて来た人々にとってそれがどういう意味を持ったのか、とても興味深い作品だった。

しかしこの作品もまた一番目に観た『パリ・ルーヴル美術館の秘密』と同じく余計な説明をせず淡々と映像が続いていく形式で観る者に感動を押し付けないというのか(と言ってもラストの主人公の登場は演出であったかもしれないが、それにしても華々しくはない)クールなのである。ところがこの映画を作った本当の理由というのがフィリベール監督の父親が実は当の映画に出演していたにも拘らずその場面をカットされてしまった、ということにあったのだ。
そのフィルムは保管されていて今ここで息子ニコラ・フィリベールの映画の中で30年ぶりに公開される運びとなった、という顛末になるのである。
なんという!実に私情を挟まないクールな演出、と思っていたフィリベール監督のドキュメンタリーが思い切り私情のみで作られた作品だったのである。やるなあ。
気が引けたのか、音だけなかったのか?何故か音声なしの映像であったが父親の映画出演がここにかなったのである。
もう一人出演していたのにカットされたという出演者の今の映像もしっかり入っていたわけでフィリベール監督が素人ばかりの主要配役映画の同窓会ドキュメンタリーとして文句はないであろう。
実に楽しくて考えさせられる映画だった。

それにしてもこの元となる『私 ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』日本未公開らしいのだが、その内容に惹かれる。
『カポーティ』の映画で昔の作品のDVDが出てきたようにこれも便乗して、というほどこの作品自体が話題じゃないか。是非観てみたいのだが。
主役を演じた青年もやはり素人で参加したのだという。非常に内気で繊細な印象の若者で農家のじめじめした自分の部屋に引きこもって文章ばかり書いているイメージ通りの青年なのであった。
しかも当時なかなかの美青年で彼だけは監督にも認められ俳優になる為にパリへ行き他の演技にも挑戦したのだ。だが結局芸能界に馴染めずカナダへ移住した後、なんと神父になっていたのだ。
映画の中でのこととはいえ殺人者を演じた若者が宗教家になるなんて出来過ぎである。彼もまた殺人者になった青年になりきってその心を深く考えたのだった。
30年前に一度だけ他の人間になった経験を持つ普通の人々。
その時の思い出を楽しそうに語り合う彼らを観てると本当に羨ましいようなでも怖いような気持ちになってしまった。彼らの中に一人でも勘違いして変な方向に行ってしまった人がでなかったのも(まあそれはそれでいいけど)幸いだったんだろう。殺された母親の愛人役をやった男性の娘さんが「何故パパは愛人役なのよ」と言ってパパを苛めるのがおかしかった。パパも満更じゃなさそうだったけど。
フランス人だからこそのこの内容が受け入れられるのか。
殺人事件の主要配役、素人が地獄を覗き込むのは怖い気もするのだけどねえ。
でも興味は、湧いてくるねえ。

監督:ニコラ・フィリベール
2007年フランス
posted by フェイユイ at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする