映画・ドラマ・本などの感想記事は基本的にネタバレです。ご注意を

2010年05月30日

『彼女の名はサビーヌ』サンドリーヌ・ボネール

elle-sappelle-sabine-poster.jpg
ELLE S’APPELLE SABINE

今日観る映画にこれを選んだのは特別意図があったわけではない。
だが観始めて暫くするうち、なんとなく昨日観た『砂の器』と重ねて考えてしまった。
どちらも完全に治癒することは困難な非常に重い病気に家族がかかったことでその絆が思いもよらずほどけていってしまう、ということが描写されている。

無論二つの家族の状況は正反対と言えるほど違うだろう。だが、病気が発症するまでは(本作の場合は何とも言えないが少なくともサビーヌが異常に乱暴な行動を起こすまでは)非常に仲の良い家族であったことは同じで強い結びつきがあったと思える。
本作でサビーヌに異常性が現れ始めたのは姉妹が別れて暮さねばならなくなった時から、という話がある。この監督であるサンドリーヌともう一人の姉妹と別れ母親と二人きりで生活した頃から暴力を振るい始めたのだと。その後、どうしようもなくなった家族はサビーヌを病院に5年間入院させることになり退院した時サビーヌはもう昔の彼女ではなくなっていたのだ。
少女の頃、女優である姉と同じくらい美しくピアノを弾きこなしオートバイにも乗っていたサビーヌ。そんな彼女には確かに小さな精神の歪みがあり「おかしな子」と呼ばれていたのではある。
だが彼女を破壊してしまったのは家族と別れ病院に閉じ込められ多量の薬物摂取、それから病院の厳格な規則を彼女がどのくらい耐えられたのか、もし反抗した時どんな体験をしたのか、そういうことはもう想像するしかないのだろう。
病院内でサビーヌは何度も壁に自分を打ちつけるなどの自傷行為をし、体重も30キロ増え、様々な記憶を失っていたのだという。
退院後、サンドリーヌの努力で新しい施設に入れた彼女はいつもよだれを垂らし、殆ど話せなかったのだ。
映像は若い頃のサビーヌのビデオを映しだし、彼女がチャーミングではつらつとした美少女だったことを示す。現在のサビーヌの外見、どんよりとした目や緩んだ体つき、荒廃した精神と比較すると胸が塞がれる。
妹であるサビーヌを病院に入れたことでこんなに変貌したことを隠すこともなく映しだす姉サンドリーヌの心の強さにも驚かされる。サンドリーヌの淡々とした表現に見入ってしまう。最後「サビーヌと再び旅行することはできるのだろうか」という言葉に彼女の切ない願いが込められているに違いない。

今書いてどきりとしたがここでも『砂の器』と重なるキーワードが出てきてしまった。「旅」である。
若いサビーヌはアメリカに憧れ姉サンドリーヌとアメリカ旅行を楽しむのだ。姉妹だけの旅行は本当に楽しそうで、この時が二人にとって一番幸せな時間だったのだ。
二つの作品で「旅」をする場面が最も幸せであるのは偶然ではない気がする。

そしてその後サビーヌの精神は崩壊していく。家族と離別する悲しみが彼女をより荒廃へと追い立てたのだとサンドリーヌは語る。

『砂の器』において精神が破壊されたのはハンセン病の為病院に入れられた父親ではない。健常者である息子、秀夫=英良のほうだ。
彼は強い絆で結ばれた父親と離されたことを恨み続けたのだろうか。他者から見れば恩人である三木巡査は彼にとっては有難い存在などではなかった。だから巡査の家を飛び出したのだ。(映画では放浪癖があった為か、となっていたが)
願いもしないのに愛する父親と無理矢理切り離された秀夫は持ち前の才能と人好きのする外見で一流音楽家になり政治家の娘との結婚を目の前にするほど登りつめていく。自分はその行動が昨日は醜く感じられ嫌悪感を持ったのだが、彼はそうしなければならないほど精神を荒廃させてしまったのだ。無論サビーヌのような自閉症なのではなく公には優れた人物としか見えないのだが彼の心は父親と切り離された時から腐り始めたのだ。それは彼自身も気づかないことだったのかもしれない。
一流音楽家になった秀夫=英良の前に三木巡査が現れ入院している父親に会いに行こうと言った時彼は拒否した。猛然と抗議した三木を秀夫は殺すのだが、その殺害の動機は登りつめた自分の障害になるからではなく誰からも「いい人、素晴らしい人」と言われる三木が秀夫にとっては最大の恨みの人物、彼がいなければ父親といつまでも一緒にいられたのに、彼が二人を離した、善意という名のもとに、ということなのではないかと、思ってしまったのだ。無論三木の行為は誰が見ても正しい本心の善意なのだ。だが本当の善意が絶対に誰も悲しませないというわけではない。事実この物語では秀夫の精神が大きく歪み、別の道もあるという寛容性を失わせている。社会に対する復讐というものに人生を賭けることが良い生き方だとは思わない。不幸な人生だったのだ。

さて本題に戻ろう。
私が重ねて考えた二つの作品の徹底的な違いは『砂の器』では崩壊したまま終わった家族の関係が本作では再生されていくことである。
本作でサンドリーヌは妹サビーヌに対する一時期の間違いを修正しようと試みている。
彼女のような家族がいること、自分が彼女に対して判らなかったこととはいえ間違った選択をしてしまったことをこうして映像として公開することの勇気に驚く。そして再び妹と交流する決意を持ったことに対しても。

以前の自分を観るサビーヌがふと元に戻ったのではないかとさえ思える瞬間があったのだが。

監督:サンドリーヌ・ボネール
posted by フェイユイ at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『砂の器』野村芳太郎

photo146791.jpghd1xxx_013.jpg

昔一度映画館で観たきりなのだが、その時深く感動し、何度もこの映画のことを思い出しては話題にしたものなのではっきりした記憶を持っているつもりだった。
今回観たのもその記憶をもう一度おさらいしようと言うものだったのだが。

これについては記憶の中だけに留めていた方がよかったのか。昔観た時や思い出す度蘇っていた切なさは今日感じることはできなかった。
物語は確かに覚えていた通りだが、特に後半の演出が思った以上に過剰でむしろ作品の良さを損なっているように見えたからだ。
テーマ曲『宿命』はこれの為に作られたんだろうから仕方ないとしても今聞くと感情過多に思え役者陣の演技も同じようにたかぶり過ぎでくどいのである。それが気になるせいもあって、前には感動の支障とならなかった英良の犯行動機も今回は納得がいかず虚しさだけを感じてしまう。また英良の現在の周囲の人々の描き方がどうにも気持ち悪い。何故芸術家というだけでなく政治家と結びつこうとしているのか、もよく判らないが、それは我慢するとしても、娘や愛人を描写する場面はなくてもいいと思える。特に愛人と英良の関係が煩わしい。愛人も本気で一人で育てるつもりなら黙ってさっさとどこかへ行けばいいのだ。英良も本気で子供がいらないのならちゃんと処置をすればいいではないか。などと枝葉末節で悪態をついてしまう。
丹波氏の演技が大げさなのはさほど気にしていないつもりだったが、刑事達面々の前で涙を拭いながら調査報告をするのは興ざめであった。
つまりはこういった演出過剰や音楽や男女関係の表現などがうざったいのである。英良が三木巡査を殺害したのも今風に言えば彼のおせっかいが過剰で「重い・・・」からかもしれない。

そうした記憶の中のイメージとの違いで落胆したのではあったがそれでも前半、丹波氏演じる今西刑事の調査の為の旅行、東北へと出雲へと大阪への旅の風景描写はとても素晴らしかった。
若い刑事と連れ立って或いは一人旅で列車に乗り田舎の人々を訪ね歩くと言う部分は今観ると昔より以上に味わい深く観ていた。映画館に寅さんこと渥美清氏が勤めている場面は効いている。
そしてこの映画の最も見せたい部分であろうハンセン病を患った父と息子の旅、これは今西刑事が言うように想像の中で思い描くものになるのだろう、病気の為に疎んじられ石をなげられ蔑まれながらも行くあてもない父子が寄り添って旅を続ける。抱きしめ合い、ささやかな食事をする場面にはやはりぐっと来るものがあった。
この映画の父子の旅の場面が映画史上に残ることには間違いない。
悲しく辛い旅なのにこの部分が物語の中で一番暖かく感じられるのだ。

監督:野村芳太郎 出演:丹波哲郎 森田健作 加藤剛 島田陽子 山口果林 緒形拳
1974年日本

ラベル:家族 差別
posted by フェイユイ at 00:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月28日

『巨人の神話 ロワイヤル・ド・リュクス』ドミニク・ドリューズ

img20091026232402389.jpg

フランスのとある小さな町に突如巨人が現れる!
DVDで観ているのにも関わらず、どきどきしてしまった。この場所にいたかった!ついそう思ってしまう。

ある日の新聞に「巨人が落ちてきた」という記事が載っていたという。まさか、と思ったが町の街灯にどでかいサンダルがぶら下がっているではないか。

昔空から巨人が落ちて来た。人々は眠っている彼を縛り起きると鎖をつけて歩かせた。人々は彼が見る夢を怖れ眠らないように光の壁を作った。巨人は壁を破って光の中へ消えていった。

物語のように地面に横たわり縛り留められた巨人の姿。そのあまりの大きさに人々は驚愕する。
無論、これはフランスのパフォーマンス劇団の仕業である。日本でも先だって巨大な蜘蛛を歩かせていたあれだ。私はTVで観ただけだが、そういうのが好きなせいか暫し見入っていた。といってもこれを見るまであの集団の映像だとは気付いていなかったのだが。
やがて、ガリバーのリリパットをイメージそのものに赤い衣装を身にまとい小人に扮した劇団員(というのかガリバーが巨人なのか)が巨大な若い男の像を動かしていく。
巨大な櫓を檻に見立て鎖ならぬ長大な紐につながれ劇団員らが力を合わせ巨人を動かしていく。
壮大でファンタジック。いかにもフランスらしい雰囲気だ。人間達が自分たちの重みを加えることによって動いていく、というなんともアナクロな仕組みになっていて全体の作りと言い、顔の動き体の動き、すべて手作り感覚の簡単で素朴でぎくしゃくしたものであるにも拘らず、巨人の表情も仕草も溜め息もまるで本物のように思えてくる。その顔には巨大でありながら捕えられてしまった悲しみすら浮かんでいるようだ。
また観ている町の人々の感想が面白い。子供達はみな可愛くて感想も率直。怖がったり怖くない、怖がってるのは巨人の方と言ったり、素直に驚いて喜んでいるのだが、傑作なのはむしろ大人たち。
理性では「これは作りものだ!それに間違いない。・・・でもなんだか生きているような気がする・・・もしかしたら少し生きているのか?」とでも言わんばかりに自分たちで必死に作りものだと確認し合い、それなのにどこか不安げな表情なのである。明らかに混乱し戸惑っているのは大人達の方なのだ。実は巨人は本当で作りモノのふりをしていると疑ってでもいるかのようだ。
実際に見たらその気持ちがもっと理解できるのかもしれない。
そして巨人がいかだで去ってしまう時、子供も大人も別れを惜しんでないてしまった。これは一体どういうことだろう。皆それほど奴を好きになってしまったのか。女の子は「恋をしている」とまで言ってたっけ。作り物なのに。・・・やっぱり生きてるんだろうか。
私まで少し涙ぐんじゃったじゃないか。

彼らはアフリカへ渡りそこで巨人の黒人の子供を擁して彼の地の人々を同じように驚かせその子供を連れ再びフランスへ戻る。
巨大なキリンまで登場し黒人の子供を乗せて練り歩く様に皆感嘆の声をあげる。
数年をかけて巨人の神話を作り上げていくドキュメンタリーであった。

あの不思議な動きに見惚れてしまう。息遣いが聞こえると言うのが凄い。皆それが印象的なのだ。
誰もが巨人を見るとそこに物語を感じてしまうのである。
彼らについての感想が素晴らしい。巨人に同化し操る人々を小さく感じてしまう。別れの時は泣き、いつかまた会えると信じていると言う。
大人の方がより心を揺さぶられ感激してしまっているのだ。

監督:ドミニク・ドリューズ
2006年フランス
posted by フェイユイ at 22:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月27日

『鈍獣』細野ひで晃

72a1f319.jpgf0064801_2292264.jpg

浅野忠信って人はいつも風変わりな映画に出る人ではあるのだが(そしてそこが好き)あまりに変てこな役のようなのを見て気になっていた。
やっと観れたのだが、これは浅野っていうだけじゃなく凄く面白くて最近ないほどのめり込んで観てしまったよ。

めちゃめちゃはちゃめちゃな映画みたいで非常に計算され尽くされた感じが心地よい。ド田舎にこんなホストクラブがあるんだろうか。きっとどこかにはあるんだろうなあ、的なド派手なホストクラブしかも4Fだし?田舎ってあんまり高くないよね、建物って。でも浅野忠信こと凸やんが登場する為にはこの4Fが必要なのだ。

まあ私てきには浅野氏演じる凸やんが可愛くてしょうがないんだけど。一体どうしてこんなに強いんだろうか?
そして何故彼はここへ来たんだろうか。
東京の雑誌出版社から行方不明の小説家凸川を探しにやってきた女性編集者は彼の故郷で彼の幼友達と会い彼の消息を掴もうとするのだが。
そこにいた連中も彼らの話の中の凸やんもとんでもなくシュールで「普通の人」である女性編集者は話を聞くほど迷路の奥に入り込んでしまう。
田舎ってシュールなんだよね。本当に覗きこめばこの作品よりもっとシュールだと思う。奥深いところへ行けば行くほど理性で理解できない世界にはまり込んでしまうのよ。
でもそんな彼らが怖気づくほどもっと違う世界にいるのが凸やんで。
ほんとは酷く恐ろしい話であるのに凸やんが強いおかげでおかしくてたまらない話になった。
最後には無理矢理深い友情によって結ばれてしまう。
変な話なんだけど絶対忘れられない話になりそう。

キャスティングがまた滅茶苦茶よい。
浅野=凸やんを小学生時代苛め続けた悪い奴でホストになった男を北村一輝、その腰ぎんちゃく的存在のおまわりさんをユースケサンタマリア、どちらもどんぴしゃだ。唯一のホストの愛人(16歳の時から愛人だって)に南野陽子、東京から来る編集者に真木よう子、綺麗だった。
そして一番ねじが外れてるかもしんない女の子ノラに佐津川愛美、可愛かった。
そして時折やってくるジェロ。凄く可愛いんだけど北村さんにガンガン怒られて追い出されて可哀そうであった。
相撲が大好きな田舎なので大乃国が登場。冒頭の事故場面から何度も出てくる。さすが存在感あり。

これっていやホントに凄い面白い。こういうとんでもないの見せられるとやはり監督の次回が気になるなあ。どういう方向から来るんだろう。

監督:細野ひで晃 出演:浅野忠信 北村一輝 真木よう子 佐津川愛美 ユースケ・サンタマリア
2009年 / 日本
posted by フェイユイ at 22:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夫婦愛溢れる『ゲゲゲの女房』

『ゲゲゲの女房』引き続き観てるけど質が落ちることなく面白い。水木しげるさん役の向井理さんも今ではすっかりしげるさんとして観ててとても素敵な人だと認識中。無論奥さんの松下奈緒さんも美しい。
貧乏生活ながらも互いにいたわり合い支え合ってて、今、こんなに本当に愛し合っている夫婦の話って他にないんじゃないか、と思ってしまう。
水木さんが片腕で一所懸命マンガを描いてて奥さんも懸命に何かお手伝いできないかといつも考えてる。二人の生活が自然に描かれていってるのがとてもいいのだ。

今回は少女漫画家志望の可愛い女の子が水木家に現れて初めて焼き餅的な話も入ったのだけど、しげるさんがひょうひょうとしてるんでよかったなと。
それでもどうなることやらとはらはらしてる毎日だ。

奥さんが豆を買ってきてしげるさんが淹れたコーヒー。凄く美味しそうだったな。
ラベル:ドラマ
posted by フェイユイ at 18:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゲイ映画の名作が次々と発売されるのはいいけれど

o0187028010453341588.jpg

いつも通りチェックが遅い私、今発見。
『アナザー・カントリー』『モーリス』『蜘蛛女のキス』などゲイ映画の名作が次々ニューマスターやスペシャル・エディションで発売されるのだね。
『アナカン』はまだしも『モーリス』は物凄くレンタル枚数が少なくて借りられないし、『蜘蛛女』はなくて観れなかったので楽しみなのだけど結局レンタルはされないのかもなあ。(今購入する余裕全くなしなのだ)
『尼僧ヨアンナ』も『まぼろしの市街戦』も発売されたのにどっちにしろ観れない(泣)(あ、これはゲイ映画じゃないです)
こういういいのを見せてくれよ。貧乏が悪い?
ラベル:同性愛
posted by フェイユイ at 10:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シベリア抑留

先日NHKクローズアップ現代で『シベリア抑留 終わらない戦後』と言う番組があった。私は途中からしか観れなかったのだが改めて考えさせられた。

というのは最近、シベリア抑留について知りたくなり、図書館へ行って本を幾冊か読んだばかりなのだ。あったのは『戦後強制抑留史』というまだまっさらな全6巻とちょうど番組に出演されていた辺見じゅん氏の『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』そして斉藤四郎 著 / 船木拓生 編『シベリアの静寂、いまだ遠く』という数冊だった。
抑留史というのは数は多いのだが何しろ中身が統計的記録的なものが殆どなので素人には内容が掴み難い。やはり細かく状況説明がある他の2冊が非常に素晴らしかった。

辺見じゅん氏の著書は受賞もしていると言う作品で山本幡男さんという一人の抑留者を主人公にして彼が極寒でのシベリアの過酷な労働生活の中で仲間を励まし常に前向きで誇り高く生きていたのかを優れた筆致で描き出している。
明日をも知れない状況で仲間と共に芸術や学問を続け必ず帰れるのだと皆に言い続けた12年間。そんな彼に対して仲間の思いと行動に胸を撃たれてしまう。
彼自身はロシアが大好きでそれだからこそロシア語にも堪能だったという人である。なんて皮肉な運命なんだろう。

もう一冊の『シベリアの静寂、いまだ遠く』は実際に抑留体験のある方の文章を別の方が編集されている著書で、もっと生々しい体験が描かれていた。辺見氏のは作家としての一つの作品で読んでいる間はただ感動だったがやや美しすぎるのかもしれない。こちらは男性としての性の問題(と言っても栄養失調で何もできなかった、という問題だが)や餓えた人間はもはや尊厳もなくしてしまう悲劇などが描かれる。また美男子であった仲間がソ連兵や奥さん方に気に入られて優遇され彼だけは食事も衣服も与えられていた、というような事実もあったのだ。多くの人が1年目の冬を越せず、田舎育ちで野草に詳しく体が小さいほうが生き残れる、と書かれていた。

ポツダム宣言などの抑制もきかず、戦後であるのに57万以上の人々が抑留され多大な死者を出すほどの極悪な条件で過酷な労働に従事させられた彼らには何の保証もないばかりか帰国後酷い差別を受けている人も多かったらしい。また中には16歳の民間人もいたという。
戦後65年経っても今だ調査が済んでいないからという答えしかかえって来ない日本社会。本人はもとよりその兄弟子供も高齢化してしまった今ではただ時が過ぎ去るだけということなのだ。

先日ドイツ映画の『6000マイルの約束』というシベリア抑留から脱走した兵士の映画を観たが、日本ではこの題材の作品というのも殆どないようだ。「触れてはいけない」ということなのだろうか。

シベリア抑留 ロシア人の手で初上演
ラベル:歴史 戦争
posted by フェイユイ at 01:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月26日

『NHKスペシャル チベット死者の書 第2回 ドキュメンタリードラマ 死と再生の49日』

チベット仏教経典「バルド・トドゥル」に基づいた中沢新一氏の脚本によるドラマ。
少年僧が老師に生と死と輪廻について教わっていく。

「人は生まれる時泣き世界は歓喜の声をあげる。死ぬ時、世界は泣き人は喜びに包まれる」という言葉が素晴らしい。まさしくそうありたいものである。

これから長い修行を積んでいくのだろう幼い少年僧と老僧との会話という構成がいい。
師弟は村の40代の男性の死に直面する。妻子を持つその男性はまだ若過ぎて、この世と離れることが難しくまだ経典の勉強も未経験だった為に彼は解脱することができないのだ。
老僧は彼の解脱を助けようとするが、幾つもの機会を彼はどうしても掴むことができず再生への道を進んでしまう。
優しい仏の姿も憤怒の像もすべては己の心を映したものでどちらも解脱への道を促す姿だというのが興味深い。美しいものも醜いものも差異はないのだ。
また輪廻の中でいつか目の前の動物が母親であったかもしれないのだから誰にでも何に対しても優しくしなければならない、という。確かにそういう考えを持っていれば誰とでも家族であった可能性があるのだから仲良くすべきだと皆が思えれば一番よいのだがねえ。

アニメーションが不気味なのだがよく観る日本のアニメでないのがよかった。なんと言っても老僧の声である大滝秀治さんの声がいい。

1993年9月24日放送 NHKスペシャル

ラベル:宗教
posted by フェイユイ at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 北・中央アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月25日

『NHKスペシャル チベット死者の書 第1回 ドキュメンタリー 仏典に秘めた輪廻転生(りんねてんしょう)』

top.jpg

小学生の頃はどうしたものか夜布団に入ると様々なことで長い時間悩み苦しんだ。その殆どは「世界の終わりが来たらどうしよう」などという壮大深遠なものでいくら考えても答えが出るはずもなく毎晩繰り返し思考したものだ。そのまま成長すれば哲学者か宗教家になれたかもしれないが思春期も過ぎ大人になる頃にはトンと考えなくなり今ではそんなことで思い悩む夜など一夜もない。布団に入った途端眠りこける日々である。一番の悩みはかつかつの金でどう生活していくかという目の前の日常であり疲れきって眠るだけだ。

そんな自分ではあるがさすがにこの年まで生きているとなんらかの知識はぼんやりと蓄えられている。いつの間にか死についても自分なりの解釈がおぼろげに浮かんではいる。

今日この映像を観ているとおおよそ自分が思っていたものの再確認のような感じであった。無論それは今迄見聞きしたものの総まとめなのであり、自分はやはり仏教的な考え方の方が落ち着くのだなと思ってしまう。チベット仏教はまた独特なものであるらしいが「49日」なんていう死後の大切な数字は日本も同じである。死後49日の法要を終えるとほっとするのだ。
輪廻転生という考え方もごく自然に思える。というか死んでしまうとそれで終わりで何もかもなくなる。魂もない。という考え方はどうしても理解できない。何度考えても死んですべてがなくなるのならこの「思い」はどうなるのか。記憶がなくなるのは理解できるとしてもすべてが無になるというのは想像できない。ただ天国に溜まっていくのではなく新しく生まれ変わる。ここでダライ・ラマが言われるように「古い服を脱ぎ新しい服を着る」という考えのほうがしっくりくる。という感覚的なことしか言えないのだが。

ただそういう風に思っていながらもダライ・ラマというチベットの最高僧侶が代々生まれ変わりであり、前ダライ・ラマが亡くなった後、次代のダライ・ラマを探す、という話を以前聞いた時はさすがに驚いた。本作では他にも人々の為に活動していた徳の高い僧侶の生まれ変わりという少年が登場してくる。不思議としか言いようがない。そういう責任をおって勉強し成長していかねばならない少年というものは大変なストレスだと思ってしまうのだが、信じ切っていれば違うものなのだろうか。

映像がアメリカに移って、エイズで死期を迎えようとしている40代の男性に彼の精神的なケアをしてくれる団体の男性が英訳された『チベット死者の書』を読んで聞かせる場面がある。死期を迎えた男性がそのことによってどのくらい安定したのかは判らないが今迄死について他人と話し合ったことはなかった。これを聞いて死を受け入れるのもいいと思った、などと言うのには少し驚いた。そういうものなのか、しかしそれで彼が癒されたのならよかったが。というかむしろ本を読む男性がエイズの男性の手を握って傍にいてくれていることが何より心の支えのように思えたのだが。

最後に老人と彼の玄孫に当たる赤ん坊が並んで映しだされる。赤ちゃんというのはなんというエネルギーを持っているんだろう。どこかで誰かが息を引き取り、こうして若々しい息吹として生まれてくる。
老人は遠からず命を終えるだろうけど、今抱き上げたような命をまた授かると信じているのだろう。

これを観てると真っ先に『ツインピークス』思い出してしまった。光に包まれるー。

1993年9月23日放送 NHKスペシャル
ラベル: 宗教
posted by フェイユイ at 22:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 北・中央アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『落ちた偶像』キャロル・リード

thefallenidol.jpgthe-fallen-idol-800-75.jpgfallen-idol-morgan-richardson.jpgfallen-idol-2.jpg
THE FALLEN IDOL

グレアム・グリーンの素晴らしい脚本をキャロル・リード監督が見事に演出した秀作ということで私もそれにはまったく反論はない。非常に面白く楽しめた。
が、なんだか昔の話ってどこかひっかかるなあ、という思いもする。一体それは何故なんだろうか。

主人公はフィリップというフランス語を話す可愛らしい少年だ。彼は大使館の大使の息子でパパの仕事でロンドンに来ていて英語を話しているんだから凄いものだ。
事件は彼のママが病気療養から退院するのをパパが迎えに行くところから始まる。
そして事件に巻き込まれる可愛らしいフィリップ少年がつかなくていい嘘をつけばつくほど大好きなベインズが罠に嵌まっていくという事態になっていく。
状態をかき回す少年に苛々する人もいるのかもしれないが私としては少年は立派に頑張っておると見えるわけで何といっても腹が立つのはベインズのほうだ。犯人はベインズではない、ということになるのだが本当に彼は無実なんだろうか。

ロンドンの大使館が舞台。そこに住むフィリップ少年は執事であるベインズが大好きでベインズも彼を可愛がっている。
フィリップ少年の父親は大使(フランス?フランス語を話してるのは確か)で、入院していた妻を迎えに出かける。館内には召使とベインズ夫妻がフィリップ少年の面倒をみていた。

フィリップはベインズを崇拝していると言っていいくらい好きなのだが、それは彼がフィリップを心から可愛がってアフリカでの体験談などを楽しく話してくれるからだ。一方ベインズ夫人は神経質で何かとフィリップ少年に当たり散らすのだった。
昔の話って何故かこういう「ヒステリーを起こす年増女性」というキャラクターがしょっちゅう出てきてた。今はあまりこういうタイプって登場しないよね。ヒステリーって言葉も殆ど聞くことがないし。何故昔の年増女性はヒステリーを起こす(タイプがいる)と決まってたんだろうか。
その夫のベインズはフィリップをとても可愛がっているいい大人という役割。温厚な彼はヒステリックな妻に失望していて今若い女性と不倫関係にある。恋人には妻と話をつけると言いながら妻に向かうと逃げられる、というよくあるパターンなのである。
そしてベインズ夫人は夫の不倫を嗅ぎつけ外出したふりをして二人が仲良くしている2階の部屋を覗こうと階段脇の飛び出した場所に入り込み落下して死んでしまうのだ。
確かに事故である。
だがこの温厚なベインズがさっさと話をつけていたら少なくとも夫人は死なずにすんだのに。あっちにもこっちにもいい顔をしようとしてベインズ夫人は死んでしまった。彼が殺したのではないけれどそういう風に追い詰めてしまったとも思えるのではないか。無論殺人として立証はできないが。
無垢な少年にも「アフリカで色んな冒険をした」ような嘘をついて英雄視させベインズ夫人が死んだからいい方向に向いたもののもし死んでなかったら恋人にだってそのまま嘘をつき通してだらだら不倫関係を続けたのではないのかなあ。
このベインズ、全くぬらりくらりと食えない奴である。この後、恋人と結婚したとしてもまた嘘の人生を繰り返していくんではなかろうか。

さて死んでしまった(殺されたと言ってもいいと思う。人格を全否定された存在なのだ)ベインズ夫人は誰が観ても死んでしまってすかっとする、という役割を当てられてしまった気の毒な人でもある。優しい夫に怒り狂い、可愛い少年の罪のない行動にヒステリーを起して暴力をふるったのであるから「死んでしまっても当然」の人なのだ。本当に?
今の人ならこういう表現(ああ、ヒステリー女だな、っていう表現)はされなかったろうに。時代のせいで十把一絡げにヒステリー女というカテゴリにおいて抹殺されてしまった。一体何故ミセス・ベインズはこういう女性になったんだろうか。かつてはベインズも彼女を愛したんだろうに?今の恋人に対するように?
ところでベインズの不倫相手ってベインズ夫人となんだか似てる。痩せて神経質そうな。子供相手にずけずけ文句を言うところもそっくりだ。結局結婚したら第2のベインズ夫人になるだけみたいな気もするのだけどねえ。

もう一つ。最近はあんまりこういうフィリップ少年のような「純真無垢さゆえに空気が読めず物事を撹乱していく」という子供の役はないのでは。子供が純真無垢、というのももう流行らないし、却ってしっかり物事を把握してたりする。不倫関係なんてすぐ見破ってしまい話が作れない、か、違う話になる。
こういう物語ってステロタイプばかりだからこそ成立する話なのだ。

監督:キャロル・リード 脚本:グレアム・グリーン 出演:キャロル・リード ラルフ・リチャードソン ミシェル・モルガン ボビー・ヘンリー ソニア・ドレスデル ジャック・ホーキンス
1948年イギリス
ラベル:サスペンス
posted by フェイユイ at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月23日

『赤軍-P.F.L.P.世界戦争宣言』若松孝二 足立正生

c101104981_l.jpg

『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』を作った若松孝二が監督の一人であったので興味をそそられ、しかも製作が1971年というまさにその時代の記録とはいかなるものかと観てみたのだが。

まさか、ここまでだるい内容だとは。作品の構成などが単純であるのは予算などの問題もあって仕方のないことかもしれないが語られる言葉があまりにも子供なのだ。
考えてみれば当然かもしれない。当時は自分自身が子供で世の中で恐ろしいことを起こしている若者(というより自分にとっては比較的若い大人)がいるのだとぼんやり感じている程度だった。時が経ち自分が成長した時点では彼らはもう話題になることも無くなってしまった。時折思い出しても彼らのことを語るものが少なすぎた。無論これは自分が本気で調べようとしてなかったせいもあるのだが、ドラマや映画や小説や漫画などで評判になるような作品は暫くの間なかったと思う。
自分が年をとって本作を観ると逆にその未熟さに唖然としてしまう。当時自分がまだ彼らと同調できる年齢でなかった為懐かしさなどという感慨がないせいもあるのだろうか。
言葉を覚えた子供がそれを使いたくて何度も口にすることがあるが、「世界戦争」「プロパガンダ」「武装闘争」などという言葉を何度も繰り返す。通常使う言葉ではない口調で語られる論理はまったく整然としておらず区切りもないままにだらだらといつまでも続けられる。話す方も聞く方も意味が判っていたのだろうか。
悲しいのはプチブルであることを捨てプロレタリアートであるレバノンの人々と同じ生活をすることによって真の闘争ができる、というくだりだ。その土地に住みながら土地を追われた人々は彼らの言葉そのものの「生きる為に戦う」のだが、安全な場所で育ちながらあえて他の国に乗り込んでいった彼らが「生きる為に戦う」というのとではまったく意味が違う。多分裕福な育ちながら貧困層の為にゲリラとなったチェ・ゲバラを理想としているのだろうが、自分たちの思想の表現がこんなにまとまりなく伝わりにくいのではインフォメーションの役割を果たしていない。彼らによるとインフォメーションとは真実を伝えることなのだそうだが。

ただただ当時、ある思想のようなものを抱いたと思い、拙いプロパガンダを抱いて行動を起こし、常軌を逸した数々の事件を巻き起こしていった若者たちがいたのである。
その思想は時を経て聞けば覚えたての新しい言葉の羅列に過ぎなかったのではないだろうか。
平和の為に武力闘争をすると信じ自我をなくして団結し殺人を犯していくことが本当に正しいことだと繰り返す彼ら。
本来なら恥ずべき過去として葬ってしまいたい映像なのかもしれない。
そうした時代を映し撮ったこの映像は確かに翻って考えれば貴重なものなのだ。

監督:若松孝二 足立正生
1971年日本
posted by フェイユイ at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『セントアンナの奇跡』スパイク・リー

miracle_at_st_anna.jpg2008_miracle_at_st_anna.jpg
MIRACLE AT ST. ANNA

よく練られた複雑な物語なのであるが、その長さと饒舌な内容に沈鬱な気持ちに襲われてしまう。というのは長さに辟易したと言うより、核心をあまり目立ち過ぎないようこの長さが必要だったように思えるからだ。
第二次世界大戦。イタリアを舞台にしてアメリカ軍とナチスそしてパルチザンの戦いがある。今迄の殆どの映画は白人がほぼ占めていてアメリカ軍であっても黒人兵士が活躍した話などあったのだろうか。或いはかっこいい白人兵士の勇敢さを見せる為に無残に攻撃された黒人兵士を助ける白人兵士なんていう場面の為に登場したかもしれない。もしくは料理担当だったかも。せいぜい一人登場する程度なのでキャラクターも決まりきったものになってしまう。ここで数人の黒人兵士たちにそれぞれの性格分けをしているようなそういう表現など望むこともできなかったはずだ。
タイトルの『奇跡』はイタリア・セントアンナでナチスに襲われ逃げ延びた愛らしい少年を救ったアメリカ黒人兵士が長い時を経て奇跡に出会う、ということを示しているのかもしれないが、むしろ自分にはイタリアで彼らが白人達と何の差別意識もなく交流ができたことを意味しているようにさえ思えた。突然アメリカ黒人兵達に入りこまれたイタリア人家族は怯えるがそれは彼らが黒人だからではなく敵国であるアメリカ軍人だからであり彼らを汚いもののように蔑むアメリカ白人たちの対応とは全く違うものであった。
暫くして落ち着いた彼らは黒人兵達を教会でのダンスパーティに招きダンスに誘う。素晴らしい美人のレナータにも侮蔑の気配はまったくない。彼女の目にはただ異国の男性としてしか映ってないことを黒人兵達は感じてしまうのである。それは今迄受けた白人女性の視線から感じられることのない好意であり彼らにとって奇跡と言っていいのではないんだろうか。私にはこの映画が語りたい部分はまさにここであるのにそれをあまり露骨に表現するのが気恥ずかしく様々な出来事で隠してしまったような気さえしてしまうのだ。しかも黒人兵ヘクターと白人女性レナータの絡みはあまりアップではなく影になってよく見えないキスと服に手をかけたところで終わっており強烈な台詞のわりには気の弱い展開であった。アメリカが舞台で白人女性とこのような場面を撮るのは無謀であるらしいからいくらイタリアであるとはいえぎりぎりの挑戦だったのかもしれない。
またヘクターはイタリア語も上手いのだが、これも白人が主流の映画ではほぼ観れない光景なのでは。無学な黒人兵が白人兵より外国語が上手いわけはない、ということで黒人ヘクターが流暢にイタリア語を話すのも他では観れない特別な場面なのでは。(ここんとこ『イングロリアス・バスターズ』でのブラッド・ピットのど下手なイタリア語を思い出すとより一層面白いかも。大体においてアメリカ人は外国語を話せず相手に英語を話してもらうものだ)
また可愛らしいイタリア少年が大きな黒人兵トレインになついて離れないのもまたしかり。彼をチョコレートと間違えてぺろりと顔を舐めるのも今迄観たことのない行為かもしれない。
そしてナチスとの激しい銃撃戦。これまで第二次世界大戦で黒人兵がこんな活躍をすることもなかったろうし作中での台詞もあるように黒人は掃除か料理をするだけで勇敢に戦うなんて思ってもいなかった、ということに対しての抗議のように見えてくる。
いわば今迄白人兵士であれば色んな映画で表現されていた外国でのラブシーンや子供へのいたわりや敵との勇敢な戦いなどを黒人兵も同じようにできるはずだ、という映画のように思えてなかなか胸が詰まってくるような沈鬱さを感じてしまったのだ。
こういう枷を感じさせず当たり前に自然にさらりと黒人主演の映画というものがアメリカで作られる、差別意識などと言う言葉など全く忘れていた、なんていうことはあるのだろうか。いやまさか、ない、ということはないだろうね。

この奇跡に比べれば再会の奇跡はそう奇跡ではないかもしれない。

監督:スパイク・リー 出演:デレク・ルーク マイケル・イーリー ラズ・アロンソ ジョン・タトゥーロ
2008年アメリカ

記者役でジョセフ・ゴードン=レヴィットが出演。可愛いよね。
ラベル:戦争 歴史
posted by フェイユイ at 01:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月21日

『オックスフォード連続殺人』アレックス・デ・ラ・イグレシア

oxford_murders_ver21.jpgthe-oxford-murders.jpg
The Oxford Murders

時折、こういう衒学めいたミステリーというのが登場する。ペダンチック、と言う奴である。一般人には何のことやら全く理解不能な定理やら理論やらを展開して文字通りひけらかし、観る者(読む者)を惑わしていく。殺人ミステリーにおいて起こった事件と答えだけを言ってしまえばあっという間に終わってしまう。それじゃ面白くないので作者は事件を隠したりミスリードしたりで犯罪を面白くしていく。その手段がどんどん変な方向へ走っていくとまるで事件と関係ないような、しかし物語に重みを与えんが為に無闇な学説などが飛び交うことになってしまう。
この物語も簡単に話を運べばそれほど驚く筋書きでもないのだが、舞台がイギリス・オックスフォードで老獪な学者と彼に憧れて留学してきたという頭脳明晰な若者が奇妙な理論を振り回すのが楽しいのである。
なのでそういう装飾が嫌いでそのままずばりを見極めてしまう向きにはやや物足りない話かもしれない。
自分としては話を複雑にする為の空論がややしゃらくさい気もするのだが、何しろ昨日観た『マトリックス』と言う言葉も出て来たし(字幕では出なかったけど)ジョン・ハートの老学者とイライジャ・ウッドそして不気味なロシア人(?)も登場してなかなか面白かった。しかし昨日からやたら数字が並び理屈っぽい話ばかり聞いてる。どちらも人を迷路に閉じ込める為の幻惑なのだが、そういうの嫌いじゃない。

監督:アレックス・デ・ラ・イグレシア  出演:イライジャ・ウッド ジョン・ハート レオノール ワトリング ジム・カーター アレックス・コックス ドミニク・ピノン アンナ・マッセイ ジム・カーター ジュリー・コックス
2008年 / イギリス/スペイン/フランス
ラベル:ミステリー
posted by フェイユイ at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『マトリックス』ラリー&アンディ・ウォシャウスキー

the_matrix_film_poster.jpgmatrixmovie.jpgthe-matrix-thumb-430x326-110512.jpgmatrix1.jpg
THE MATRIX

作品をきちんと観たことは一度もないのだが、何しろ話題になった映画でTV放送をちら観したり何かと取り上げられているのを何度も観ているので少なくとも見どころ場面はすっかり観てしまっていた。
今回やっと観通すことができたがさすがになかなか面白い映画であった。ただ没頭し熱愛する、とまではならないのではあるが。柔術だのワイヤーアクションだの(柔術と言いながら何故かカンフー)アジアンテイストがかなり入り込んでいて笑える要素が多いのも楽しかった。

それにしても最先端のようなものが題材なのにも関わらず設定物語は大昔からまったく変わらないのだね。「選ばれし者」が「救世主」となり仲間と力を合わせ、人類を脅かす恐ろしい敵と戦う。主人公が勝利を掴むのは敵と違い「愛の力」があったから、という。
そういうスタンダードな筋立てだからこそこのとんでもない世界の表現が飲み込めるのではあるだろうけど。
主役のキアヌー・リーブスは確かに本作めちゃハンサム。

のけぞったキアヌーの上を弾道が走る、だとかまっ白な背景から物体が飛び出してくるだとか何度も映画以外で繰り返し観ることになる特殊な映像が満載である。
しかし人一人殺すのに銃弾の浪費が酷過ぎる。どうしてもしみったれてるんで一弾必殺でやれんのかと思ってしまう。
どうしてもあまり書くことがない。
せめて続きの2・3弾を観ればまたそれなりに思うことがあるかもしれない。

監督:ラリー&アンディ・ウォシャウスキー 出演:キアヌ・リーブス
ローレンス・フィッシュバーン キャリー=アン・モス ヒューゴ・ウィーヴィング ジョー・パントリアーノ グロリア・フォスター
1999年アメリカ
ラベル:SF
posted by フェイユイ at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月19日

『愛しきベイルート アラブの歌姫』ジャック・ジャンセン

c100813311_l.jpgblock2b.jpg2231907345_3b57052275.jpg00vegas99a1edc.jpgFairuz.jpg
We loved each other so much

先日『戦場でワルツを』(原題訳『バシールとワルツを』)という恐ろしいアニメーションを観たばかりだが、その舞台となる15年続いたレバノン内戦の間もベイルートに留まり歌い続けたという。
彼女自身はキリスト教徒らしいが様々な宗教の人々が住むレバノンで誰からも支持され愛されている、彼女への賛辞と敬愛の言葉がそこに住む人々の姿と共に映しだされる。

変な言い方だが、ベイルートと聞くだけでどんな緊迫感のある町の様子が映されるのか、と思ってしまったのだが映像で観れるのはどこででも感じられるような風景であった。とはいえ町に住む人々は年を取っている人ほど昔はこの町がどんなに平和で美しかったかと語る。宗教の差別もなく町に住む人は皆仲良く街並みも文化も素晴らしかったのだと。
一体どうしてそんな平和な町が内戦状態になり『戦場でワルツを』で見せられたような残虐な殺戮を体験しなければならなかったのか。
すでに有名で豊かであったファイルーズ(発音はフェイルーズと聞こえるのだが取り敢えず書かれている通りに書いておく)はそう思えば国外へ逃げることもできたのにその地に留まり歌い続け人々の安らぎとなった。
老いも若きも男女問わずファイルーズを女神として敬愛している。その歌は祖国レバノンへの愛を歌ったものもあり恋人への思いを訴えたものもある。そして類稀な美貌。何故神様は美しい声と美しい容姿の両方を一人の女性に与えてしまったのか。やはりそれは苦しむ人々へのせめてもの贈り物だったのだろうかとつい思ってしまう。一人の男性がファイルーズのコンサートで夜の空が真っ暗であった時彼女が「何故月が見えないの」と歌うとぱっと雲が去り月が輝いたという不思議な話をする。そういう伝説がカリスマには付き物だ。
そういった様々な物語や彼女への愛が苦しい時期の人々を支え続けてきたのだろう。そういう時期には誰しも心を守ってくれる物が必要なのだな。

惜しむらくはファイルーズが歌う映像がたった一つしか収録されていなかった。それは最後だったのでそれまでは人々の話と幾つか見せられる写真でよかったのだが、一つ歌う場面を見せられてしまうとせめてもう幾つか取り入れていて欲しかった。きっと誰もがそう思うのではないだろうか。

監督:ジャック・ジャンセン 出演:ファイルーズ
2003年オランダ
ラベル:歴史 戦争 音楽
posted by フェイユイ at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 西アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『K−19』キャスリン・ビグロー

k19-widowmaker.jpgK-19-The-Widowmaker-thumb-560xauto-24545.gifk19__the_widowmaker_profilelarge.jpg39.jpg
K−19: THE WIDOWMAKER

例によって内容をよく確かめもせず観始め、しかも『K-19』が何なのかをまったく知らなかったのでまさかハリソン・フォードがソビエト人になるとは。認識に数分かかった。まさか、何故どういうこと。あそうか、なる、アメリカ人でソ連人をねー。そうだったのねー。
いやちょっと混乱した。

且つ英語で進行することも納得しアメリカ人のアメリカ人によるソ連軍にも慣れてきて物語に集中していった。
キャスリン・ビグロー監督作品は初めて観るのだが、女性ながら非常に硬質な作品を撮る、という噂にたがわぬ硬派で男っぽい男達が熱い血潮を見せてくれる作品であった。
それにしても原子力と聞いただけで背中がぞっとしてくるのは日本人として当然のことなのだろうか。そしてやはり原子炉の事故が起き、その上防護服がまったく用意されておらずレインコート程度の上着を被って若き乗組員たちが入り込むとなった時は映画とは言え恐ろしさに居た堪れなくなってしまった。原子炉の修理の為10分間入っただけで皮膚は焼けただれ18分入った中尉は目が見えなくなった。彼らは全員その後数週間で死亡しているのだ。
彼らの様子を見て驚いていることからも被曝することでどうなるのか誰も知らなかったのだろう。
実を言うと私もこんな状態になってしまうとは思いもせずただただ恐ろしがっていた。

リーアム・ニーソン演じる艦長が突然の交代を命じられ仕方なく新艦長(ハリソン・フォード)と共にテスト航行に従う。
前艦長を慕っていた乗組員達は、規律と任務に厳しい新艦長の命令を快く思っていない。
一見嫌な奴と思われたハリソン演じる新艦長にも実は深い考えがあることが判り、前艦長であるポレーニンが彼と対立しながらも軍人としての誇りと規律を守ろうとする姿勢に打たれる。
時代と政治体制による様々な欠陥がありながらも仲間の為に命を犠牲にして事態をなんとか好転しようとした兵士たちにはどういう言葉で讃えていいのか判らない。

非常に緊迫感のある面白さであってソ連体制下ではついに秘されたままだった実際の出来事をアメリカ映画ながらほぼ歪められてはいないのではないかと思えるリアルさと尊厳を持って作られている。
監督が女性である為なのかどうかは判らないが若い兵士たちが美青年ぞろいであったように思えるのだが。ソ連人に見えるような真面目で色の白い(?)白人青年を選んだせいだろうか。ガムくちゃくちゃやってるような品のない顔だとロシア人に見えないしね。
あんまり可愛いのが多いので米軍にお尻を出す場面が馬鹿にしているというよりエロっぽい意味があるみたいだった。

監督:キャスリン・ビグロー  出演:ハリソン・フォード リーアム・ニーソン ピーター・サースガード クリスチャン・カマルゴ ピーター・ステッビングス
2002年 / アメリカ/イギリス/ドイツ
ラベル:歴史 実話 友情
posted by フェイユイ at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月18日

『イングロリアス・バスターズ』クエンティン・タランティーノ

inglourious-basterds.jpginglourious-basterds-poster.jpginglourious-basterds2.jpginglourious-basterds_pitt.jpg
INGLOURIOUS BASTERDS

ナチスとユダヤ人というコメディにはし難い題材でありながらタランティーノとしての役割を臆することなくやり遂げた勇気ある作品に仕上がっていた。
印象的に滅茶苦茶を繰り広げる馬鹿映画、みたいな受け止め方をされるんだろうけど滅茶苦茶な馬鹿はアメリカ兵だけでナチスとフランス人とユダヤ女性はあくまでもシリアスなのである。ブラピ率いるバスターズが出てくる箇所さえ切り捨ててしまえば真面目な一作となるのではないか(違うか?)
とにかくブラッド・ピットを筆頭になにこのアメリカ兵たち?この映画ではナチスはランダ大佐が威圧的に怖いだけであの映画を除けば残虐行為流行ってない。冒頭のフランス人農家でのユダヤ人狩りも床を通しての銃殺というタランティーノにしては奥床しい表現になっている。
それに比べブラピ=アルド・レイン中尉がインディアンの血を引く、という説明もあってバスターズにナチスの頭の皮を切り取らせるという観るに堪えない惨たらしさ。ナチス将校が怯え震えあがる非道な行為を任務として遂行し何らの呵責もない。どのアメリカ映画でも正義の味方として登場するアメリカ兵士がナチスも泣きだす最低最悪の殺人鬼となっているのがおかしいのだ。
そういう頭のおかしい(ブラピは頭のおかしい役をやるといつも上手い)アメリカ軍はおいといてナチスのランダ大佐の堂にいった親衛隊ぶり。4ヶ国語を駆使して冴え渡る頭脳。家族を惨殺されやっとの思いで逃げ延びたユダヤ女性ショシャナの復讐と彼女を支える黒人男性の愛情。兵卒でありながら英雄に仕立て上げられショシャナがユダヤ人だと気づかず愛するフレデリックのでもやはり彼もまたナチスの傲慢さを持っている。ドイツ人でありながら連合軍側に着く女優、ナチスに扮したがアクセントと指でのサインに気づかれてしまうイギリス人将校など滅茶苦茶ではなく緊迫したサスペンスがあり非常に面白いのだが、それをあのアメリカ語しか話せない馬鹿なアメリカ人バスターズが全部ぶち壊してくれるのである。無論これはタランティーノへの賛辞だけど。かっこよかったランダ大佐も無軌道なアメリカ人にぶっ壊されてしまうのだ。
ほんとにブラッドは狂った人がうまいんだよね。

ナチスが可哀そうに見える映画って。

それにしてもこういう酷い映画(賛辞である)にドイツ人がナチス役で多数出演しているのだから時代も移り変わったということなのか。

監督:クエンティン・タランティーノ 出演:ブラッド・ピット メラニー・ロラン クリストフ・ヴァルツ ダイアン・クルーガー ミヒャエル・ファスベンダー イーライ・ロス ダニエル・ブリュール ティル・シュヴァイガー B・J・ノヴァク
2009年アメリカ
ラベル:戦争 コメディ
posted by フェイユイ at 00:44| Comment(4) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月17日

『アバター』ジェームズ・キャメロン

1228avatar2.jpgAvatar_02.jpg
Avatar

アメリカ製の高予算映画に対していつも悪態をついている気がするのだけど、この作品は心底好きになってしまった。
なんだかもう邪魔で醜い地球人なんか来ないといいのに。ナヴィの星の物語の部分だけをいつまでも観ていたかった。

白人優位主義の傲慢さがにじみ出てるとか別の作品のモノマネだとかまあ色々批判はあるようだが、観てる時はそんなことはどうでもよくてただもう主人公ジェイクに魂が乗り移ったが如く共鳴してしまって彼と同じようにどちらが現実であるか判らなくなりたいほどだった。
だもんでジェイクがネイティリに導かれパンドラの自然に溶け込んでしまうあのくだりだけを観ていたい気がする。
憎々しい科学者の戦争馬鹿のオヤジを一体どうやったら殺せるだろうかとマジに考えてしまった。何故あんな奴らが必ずいるんだ?
それに比べパンドラとナヴィの美しさがどんなに素晴らしいものなのかを見せつけられる。地球の自然をもっとスケールアップした夢の中で見るような世界。ナヴィたちの容姿もまた同じように幻想的に美しい。
気の狂ったよそ者が来ないのなら私もナヴィになってこの世界で生きてみたい。ジェイクがネイティりに恋しナヴィの仲間になるのは当然のことだと思う。
ハリウッド映画にやや反感を持ちがちな自分もこの作品の魅力に酔ってしまった。非常に判りやすい物語も駆使されるCGもアメリカ映画の特徴が最大限に生かされた素晴らしい娯楽映画なのだ。

と、この位陶酔しきった自分ではあるのだが、その感激を持ってしても訝しむところもある。
一体この戦いをどう決着つけるのだろう、と心配だったのだが、なんということはない、あの恐ろしい戦争の権化のような大佐をやっつける、というので終わってしまった。
地球人ってそんなお人よしだとは思えない。この報告を受けた地球側としてはパンドラの状況が掴めたわけで、この程度の住民ならどんな攻撃を与えればいいか、次回はあっという間に抑え込むことができそうだ。
未来の話なので攻撃方法も現在より多数あるだろうが懐柔策としても様々な方法を見つけられるし、個々を潰していくか、種族別に抹殺していくか、細菌兵器、生物だけを焼き殺す爆弾などどんな殺戮方法でもゴマンとあるではないか。彼らが狙う資源がそれほどの値打ちのある代物ならパンドラの住民すべてを抹殺してもどうせ虫けらほどにしか思っていない地球人には何の躊躇いもないはずだ。美しい自然自体にはあまり関心がないようだからどうにでも破壊できるのではないんだろうか。
勝利を信じてナヴィの一員となったジェイクだが実際の物語ならそう長い時間もかからずパンドラの自然と住民は一掃されてしまうだろう。
大佐が冒頭で「この星は地獄だ」と言うのだがさほど地獄な描写は感じられなかった。
地球人を寄りつかせたくないのならパンドラの神「エイワ」がもっと星のレベルではねつけてしまわなければどうしようもない。大気の中に入ること自体が無理だとか。地球人はそう簡単に諦めたりはしない。利権が絡む限り。(なにこの変な威張り方)

ブルーレイにて観賞。

監督:ジェームズ・キャメロン 出演:サム・ワーシントン ゾーイ・ザルダナ シガニー・ウィーバー スティーヴン・ラング ミシェル・ロドリゲス ジョバンニ・リビジ ジョエル・デヴィッド・ムーア CCH・パウンダー
2009年アメリカ
ラベル:SF
posted by フェイユイ at 00:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 北米 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月16日

『ピアノ・レッスン』ジェーン・カンピオン

piano-holly-hunter-anna-paquin1.jpguntitled.bmpThe-Piano-Harvey_l.jpg
The Piano

波打ち際に置かれたピアノ、という幻想的な映像の美しさと音楽も心に残るが、設定と脚本の見事さに心騒ぐ。
理詰めでこうも攻めてこられるとわくわくしてくるではないか。

まず女主人公エイダは言葉を話せるのに6歳で話すことを止めた、という。19世紀スコットランドの裕福な家に生まれた女性には当時自分を表現することができなかった。
エイダはその時代に反逆する女性の戯画である。声を出す、というのはそのまま自分を表現することだ。声を出さないと言うエイダは自分を表現することを拒絶しているのだ。そしてピアノを弾くことだけが自己表現になっていく。ピアノの音は言葉ではないのでそれの意味を聞きとるのは難しいだろうが嫁ぎ先の義母は彼女の音を耳障りなものと受け止めた。彼女には判ったのである。そしてエイダは夫にはピアノを聞かせない。また彼女に恋するベインズは彼女のピアノを聞きピアノを媒体にしてエイダとの関係を結んでいく。ピアノの音が彼女の声なのだからベインズの感覚は間違ってなかったのだ。

彼女は父が選んだ縁談を受けてニュージーランドに住む夫の元へ行く。
彼女にはすでに10歳ほどの娘がいる。その経緯を娘であるフローラがある女性に語る場面がある。
「父は音楽家で母とは言葉がなくても通じ合うことができた。父は事故で死に母はそれから話さなくなった」すでにエイダが言う6歳の時から話すのを止めた、という説明と異なっているのだが、他の部分も本当とは思えない。エイダが寝物語に娘に話す場面があるのでこれは彼女の作り話にすぎないのではないか。こうであって欲しかった、という願いなのではないのだろうか。
声を出す、というのはそのまま自分を表現することだ。声を出さないと言うエイダは自分を表現することを拒絶しているのだ。

娘フローラはもう一人のエイダのような役割を担っている。彼女は話さないエイダの代わりに他人と会話をする。反逆児であるエイダと対照的にフローラは彼女の道徳的一般的な感覚の役割でその為エイダが浮気をする場面では追い出され彼女の夫に対する裏切りを知らせにいくことになってしまう。例えエイダにとって情愛が必要だったとしても彼女の道徳は自分自身に罰を与えたのだ。ピアニストにとって最も大切な指を失うという罰を。

エイダが長旅を経て到着した時、二人の男は違った言葉を言う。
夫であるステュワートは「思ったより小さい。発育不良だ」
もう一人の男ベインズは「疲れているんだ」
ここはあまりも判りやすい対比でおかしいくらいだけど訪ねて来た自分を見て容姿を批判する男と体調を心配してくれる男とどちらを好きになるだろうか。
ステュワートはまるきり当時のヨーロッパ貴族男性の戯画そのもので対面だけを案じ嫁いできたエイダが自分を愛するのは当然だが、忍耐強く待つ紳士的優しさは自分にある、と一人思い込んでいる。
ベインズはまるで現地の野性的な男たちの気風が入り込んでしまったかのような野蛮な人格でありエイダに素直に女性を感じ性愛を求める。
彼女の女性を求めたベインズを愛したエイダに世の中の男性は驚きを持つのだろうか。
ベインズがエイダを女性として愛したことでやっと夫はエイダに女性的な魅力があることに気づく。
それでもステュワートは自己を失うほど愛するということができない。エイダに拒否されれば紳士的に自分を押さえる。だがエイダの浮気には逆上し暴力をふるう。そしてまた感情を押さえてベインズとエイダが結ばれることを許すのだ。
エイダが女性として目覚めた時、ステュワートが彼女の愛を素直に受け入れていたらもしかしたら夫婦としてやり直せたかもしれない。が、彼はどうしてもすべてを捨て去るような愛し方ができなかった。それを求めながらもできなかったのである。

エイダは自分の声であるピアノの鍵盤に愛の言葉を書いてベインズに渡そうとする。
ステュワートから許された二人はピアノを乗せて船で別の場所に移るが海の上でエイダはそのピアノを海に捨てるよう頼む。一旦はピアノと共に海に沈もうとしたエイダだが彼女は自分の力で浮き上がり生き延びる。
かつての女性であればピアノと共に死んで終わりだったのだろう。
エイダは古いピアノを海底に沈め夢の中で声を失った彼女はピアノの傍で死の眠りについている。
だが新しく生まれ変わったエイダは新しい指(義指)をつけて新しいピアノを弾き、そして言葉を話そうとしているのだ。彼女が自分を表現するには愛する男の深い愛(それは肉体と精神の両方)が必要だったのだ。

映画の中で『青髭』が上演される。
夫の言いつけを守らず秘密の部屋の鍵を開けた妻達が次々と殺され、その首が飾られている。
これもエイダの状況そのもので非常に判りやすい。これを観劇していたマオリ族の男性が「とんでもない奴だ!」と叫んで舞台上に駆けつけるのがおかしいのだが、なんて素敵な男なのかと惚れてしまう。
実際の上演中こんな男性ばかりいたら困るだろうが女性が乱暴されているのを見て後先考えずやっつけにいく男性に女性は惹かれてしまうのではないかな。
ここで夫と観劇するエイダの横にベインズが座ろうとするとエイダが止めさせる。ベインズを見るエイダの目が今迄の無性なものではなく女性的なエロチシズムに変わっている。ベインズをからかっているのだ。エイダの中で女性が溢れ出して彼女は変化していく過程の演技がすばらしい。

監督:ジェーン・カンピオン 出演:ホリー・ハンター ハーヴェイ・カイテル サム・ニール アンナ・パキン
1993年ニュージーランド/オーストラリア/フランス
posted by フェイユイ at 01:08| Comment(4) | TrackBack(0) | オセアニア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。